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夕暮れ。
それは昼と夜の間に訪れる僅かな時間。
現代においてこそ美しい自然風景の一つとして愛されているが、古来において夕暮れというのは不吉な時間と称されるものだった。
まだ昼と夜が分かれていた時代。
人が生活する明るい昼間から、怪異が蠢く暗い闇の夜へと変貌していくこの時間帯を人々は黄昏時や逢魔時という名を与えて縛り、畏れた。
近代に入って街灯が整備されたことで昼と夜の境界線が入り混じり、時間の均質化が始まると人々の中から夕暮れに対する畏れという概念は薄れていきはした。
しかし、それでも数多くの事故や事件が夕暮れ時に起きる様に、夕暮れがやはり何か不可思議な魔力を持った特別な時間帯であるということに変わりはない(認める認めないは別にしても)。
まぁ。何が言いたいのかといえば。
つまるところ夕暮れには何が起きても不思議じゃないということ。
例え、天気予報にない雨が“突然”降ろうとも。
例え、雨宿りに選んだ場所が“たまたま”雀荘だったとしても。
例え、その雀荘に“偶然”プロがいたとしても。
決して不思議じゃない。
そう。
例え、魔神が現れようとも。
これは、そんなある夕暮れに起きた物語。
Ⅰ
カチカチと壁にかけられた時計が時を刻む。
時刻は既に19時を回っていた。
5世代ほど前のエアコンがガーガーと肌寒くなるほどの冷たい吐息を吐き出し、稼働中の古びた自動卓が独特の振動と機械音をまき散らす。
消音の空調設備や最新の自動卓が当然の様に設置された試合会場とは違う、昔ながらのこのレトロな雰囲気を靖子は気に入っていた。
実業団時代から何度となく足を運び、プロになった後も暇を見つけては訪れた。
すっかり慣れきったはずの場。
だがこの時だけは、その慣れきった場がまるで異界のように思えた。
靖子は高鳴る鼓動を押さえつける様に愛用の煙管に口をつけ、灰色に濁った煙を吐き出した。味はほとんどしなかったが、それでもちょっとした精神安定剤の代わりにはなった。
「始めようか」
「はい」
「……はい」
今度こそは勝つと力の籠った声と、怯えた様に縮こまった声。
酷く対照的な二つの返事であったが、靖子がそれを気にかけることはなかった。
彼女の意識は正面――――対面に座る一人の少年だけに向けられていた。
「……あぁ」
呟きにも似た低い了承の声と共に、サイコロが回る。
出た目に従って仮親が決まり、続いてもう一度サイコロが卓の真ん中で回転する。
……6。私が起家か。
どちらかといえば後半に強い靖子にとっては些か残念な巡り合わせになったが、こればかりは仕方ない。
細く長い指がスイッチへとかかり、サイコロが三度回転する。
……染谷には随分と無茶を言ったな。
出た目に従い山から手牌を取りながら、靖子は忙しそうに店内を動き回っているメイドに心中で謝罪と、深い感謝の言葉を紡ぐ。
――――あいつと打たせてくれないか?
今より数分前、靖子はまこにそう頼んだ。
雀士の模範となるべきプロが未成年禁制の雀荘で制服姿の学生と打つ。
それがプロとして恥ずべき、下手をすればプロ資格を剥奪されかねない行為だというのは重々に理解していた。
連絡先を聞き、日時と場所を改めて打つ。
それこそが絶対的に正しい選択。
もしもこれが別の誰かだったなら、きっと靖子はその”大人の対応”をしただろう(事実、一度はそうしようとした)。
だが、
……相手はあの青山茂喜だ。
この半年、ずっと打ってみたいと思い続けていた魔神。
それが今この瞬間、目の前に現れたのだ。
訪れるかどうか定かではない“次”になど任せられようはずもない。
勿論、まこにしてみればそんな靖子の心情など知る由もないし、仮に知っていたとしても店を危険に晒すような許可など与えられる筈もない。
当然の如く断るが靖子は引かなかった。
普通の客がこんな反応を取れば店を追い出している所だが、靖子は実業団時代から贔屓にしてもらっている上客の上に今回は後輩二人の面倒も見てもらっている。
結局、靖子の熱意に押される形でまこが折れ、相手側の了承を取ることと半荘一回の条件付きで渋々対局を認める運びとなった。
……勝負は半荘一回。
靖子の頼みに青山は多少考え込むような仕草を見せたものの、こうして一緒に卓をかこっている様に結局は承諾した。
半荘一回での勝負。
普通ならばたったそれだけで強い弱いがわかるはずがない。
運九割、実力一割との言葉ある様に麻雀というのは非常に運の要素が強いゲーム。
どれだけ待ちのいい五面張を聴牌したところで、地獄単騎に負けることもある。
たった半荘一回程度であればずぶの素人がプロに大勝ちすることも大いにあり得る。
それが麻雀。
だが、
……問題ない。
世界に目を向ければ半荘一回のみで勝負が決まる大会などざらにある。
そんな場において、“運悪く”負けたなんて言い訳は通じない。
どんな状況、どんな場においても勝ってこそ一流。
そして靖子は、その数少ない一流に属する人間であった。
北家にあたる上家の宮永咲が山から最後の手牌を引き終わり、各人がそれぞれ手元に臥せた牌を開く。見易いように理牌された手牌に靖子は表情には出さないものの、内心で手応えを感じていた。
……悪くない。
タンピンドラが見える三向聴。
比較的早く、またある程度の点数を期待できる好形。
手によっては“見”に回ろうかとも思ったが、流すには惜しい手が最初からやってきた。
幾らかの可能性を考慮に入れつつ靖子は不要牌を切り出す。
その後、順に従い各々が番を消化していくが特に動きはない。
静かな立ち上がり。
そして特に動きもなく迎えた第八巡。
靖子はいささか薄いかと思われていた嵌{六索}を引き入れ、聴牌。
……張った。
{一萬}を切ってリーチをかければ最低でも11600。
さらにツモと裏が乗れば親ッパネ。
まだ東一局。特にこれ以上伸びそうな手でもないし、他家の出鼻をくじくという意味でもここは素直にリーチをかける場面。
ちらりと、靖子は両隣の河に視線を巡らせる。
……上家はまだ幺九牌整理、下家も見た感じでは手が遅い。
リーチをかければ恐らく二人とも降りるだろうが、待ちの広いこの手を最後までかわし切れるとは思えない。
両面二人は問題ないことを確認し、靖子は問題の個所に意識を置く。
……一見すれば平凡な捨て牌。
対面の河に浮かぶ七つの牌。
{北}{西}{一筒}{七索}{二萬}{北}{六筒}。
字牌整理から始まって端を落としていく典型的な断幺九狙いの打ち筋。
最後の{六筒}が手出しだということには些かの注意が必要だが、その前二つがツモ切りということを考えれば大して手が進んでいないように見える。
……断幺九狙い。しかも{二萬}という壁がある以上、十中八九この{一萬}は通る。
本来ならば考慮にすら値しない場面。
まっすぐに行く。
ただそれだけで良いというのに――――何かが妙に引っかかった。
……素直に行き過ぎている。
確かに麻雀の常識で考えればこのような展開などいくらでもある。
しかもまだ始まったばかりの東一局。
普通に考えれば疑心暗鬼もいいところ。
だが、何かが妙に引っかかる。
それは数多の常識外の打ち手と闘う中で培われた、プロとしての勘。
牌効率を重視するデジタル打ちの観点から見ればオカルトもいい所だが、その“オカルト”のお蔭でここまで来れたのもまた事実。
しばしの長考の後、靖子は手牌の中から一つの牌を選択した。
{八筒}。
靖子、聴牌にとらない雀頭崩し。
無論他家がそんな奇妙な選択を知りようはずもない。
何事もなく次順ののどかが靖子に合わせる形で牌を切り、すぐさま番は青山へと移る。
すっと青山の手が山へとのびる。
そしてゆっくりと牌をツモり――――そのまま手牌を倒した。
「ツモ」
感情の色が見えない、されどどこか力を感じさせる宣言が靖子の耳を打つ。
「ツモ・チャンタ・中・ドラ一……」
五翻の満貫。親被りのために手元の引き出しから4千点分の点棒を取り出しながら、靖子は目を細めた。
……断幺九を匂わせてのチャンタ。
張ってないと思っていたら実は張っていたというのは麻雀でよくあることだが、それでも僅か八巡のあの捨て牌からチャンタなどと誰が思おうか。
事実、のどかは全く予想していなかった和了に微かだが息を呑んでいる。
……鮮やかなまでの迷彩。
運がよかったと言えばそれまでだが、それでも倒された手牌と捨て牌を見る限り一切の失着なしに最良のルートを的確に突き進んでいる。
仮に靖子が同じ立場にいたとして、同じように打てたかどうか。
……だが、注目すべきはそこじゃない。
真に注目すべきはその和了牌。
青山が最後に山から引き入れた牌は{一萬}。
つまり、
……振り込んでいた。
オカルトに救われた形になる。
結局ツモられて点棒は減ったが、それでも満貫直撃の半分。
半荘一回という短期決戦において、この差は大きい。
しかも結果だけで見れば、靖子は青山の待ちをしっかりとかわしたことになる。
……点棒は減ったが、闘える形は作った。
スロースターターの靖子にとっては決して悪くない立ち上がり。
勝負はこれから。
だというのに。
……何だ。この感じは?
心の奥底で蠢く暗い何か。
何かを見落としているような、忘れているような、既に取り返しのつかない所まで来てしまった様な、そんな焦燥感。
振り払おうにも振り払えない。
消そうとしても消えない。
自身の中に没頭する靖子。
故に彼女は気付かなかった。
対面に座る魔神。
その口元が小さく歪んでいることに、靖子が気付くことはなかった。
Ⅱ
「ありがとうございましたー」
明るく元気な、さりとて決して不快にならない程度に抑えられた声が店内に通る。
未成年禁制の雀荘にしては珍しい若い少女の声。
だが真に驚くべきは、その恰好。
紺を基調としワンピースに純白のエプロンドレスとカチューシャ。
機能性を重視したシンプルなデザインでありつつも、可愛らしいフリルの装飾が施されている辺りに職人のこだわりが見受けられる。
今少女が身に着けているのは、ヴィクトリア王朝時代の侍従が着用していたとされる(真偽はともかく)伝統ある制服―――――ぶっちゃけ、メイド服だった。
少女、染谷まこの祖父が経営している雀荘『roof-top』は女子バイト全員がメイドに身をやつした、世にも珍しいメイド雀荘。
これは古来のメイドたちの主人に対する忠誠を見習おう――――なんてことでは勿論なく、単なる客寄せだった。
……最近はウチも経営が厳しいからのー。
笑顔で店を後にする往年の男性達を見送りつつ、少女は今月もぎりぎりの経営に頭を悩ませる。昔馴染みの常連客のお蔭で一定数の客足を確保しているとは言え、それでも新規の客層を確保しないことには小規模な個人雀荘が生き残っていくには難しい。
そのために日々様々な経営努力を行っており、その一つがこのメイド服だった。
ガランと音を立てて扉が閉まった後、まこは浮かべていた笑顔を崩して店内を見回す。
……ようやく一段落した様じゃの。
少し広くなった室内にほっと胸を撫で下ろす。
いつもならこの時間帯にはもう一人バイトの女性がいるのだが、生憎と今日は急用で休み。お蔭で接客にレジにと、まこ一人で奮闘することとなった。
慣れたこととはいえ、流石にきついものがあった。
……まぁ。そんな泣き言を言ってられる状況じゃないがの。
何せ今日はとんでもない爆弾を抱えているのだ。
爆発すれば、全てを壊しかねない劇物が。
……ほんと、藤田さんも無茶を言いよる。
思わずまこはため息をつく。
学生服を着た未成年を店に入れたことだけでも警告ものだというのに、その上卓で打っていることが国にばれればもはや言い逃れはできない。
少なくとも厳重注意か罰金、下手をすれば営業停止という事態さえあり得る。
こんなことなら最初からあの少年を店に入れなければよかったかとも思ったが、もはや後の祭り。幸いだったのは、本日店を訪れているのが常連客ばかりだったこと。
十年以上の付き合いがある古株ならば本日の出来事を吹聴することはあるまいと、まこは安堵の息をもらす。
……さて、どうなっとるかの。
とりあえず現状を確認しようかと、まこはエプロンドレスを翻して問題の卓に近づく。
また単純に興味もあった。
何せあの藤田靖子がルールを冒してまで打つことを熱望した少年。
店側の人間の前に一人の雀士として、気にならない方がおかしかった。
……青山茂喜。確か、のどかと同じインターミドルチャンピオンだったかの。
過去の記憶を引っ張り出す。
高校と中学という世代の違い、更には男女の違いもあったために顔こそ知らなかったが、それでも噂ぐらいはまこは何度か聞いたことがあった。
曰く、魔神。
曰く、十八万点差をひっくり返した。
曰く、開始から三分で試合を終わらせた。
曰く、相手の手牌が透けて見える。
どれもこれも眉唾な噂ばかり。
話していた男性が酔っぱらっていたこともあり、あの時は聞き流していたが。
……藤田さんの反応を見る限り、もしかしたら本当かも知れんの。
だが仮にその噂が本当だとしても、まこは青山が大勝するとは思っていない。
彼の麻雀を知らないこともそうだが、それよりも一緒に卓を囲んでいる面子がその主な理由だった。
後輩にあたるのどかは男子に比べれば数は少ないとはいえ、青山と同じインターミドルチャンピオン。そしてもう一人の後輩である咲は、そんな女王に勝った±0娘。
おまけに藤田靖子という一流の現役プロ雀士までいるのだ。
この三人を相手に圧倒的大差で勝てると思う方がおかしい。
集中を妨げぬようまこは静かにのどかの背後に立ち、そっと様子をうかがう。
……南場。親がのどかっちゅうことは南二かの。
対局が始まってから30分あまり。
半荘一回の平均時間が40分前後であることを考えれば、およそ平均通りに進んでいることになる。どうやら順調な様子にそっと胸を撫で下ろし、まこは卓上から目の前の手牌へと視線を移した。
……ええ感じじゃ。
中ドラ一の一向聴。
安手ではあるがその分受け皿が広い、いかにものどからしい手。
どうやら早そうだという予想を裏付けるかのように、のどかは有効牌を引き入れた。
……待ちの広さが上手く機能したの。三面張は消えよったが、これで{六筒}{九筒}待ちの聴牌。
{六筒}はドラ表示牌として一枚出ているが、{九筒}は生牌。
巡目が早い上に、河を見た限りでは他家が張っている感じもない。
だというのに、
……リーチかけず?
ダマでとったのどかに、まこは内心で首をひねる。
デジタル的に言えば、余程の点差でもついていない限りノータイムでリーチをかける場面だったはず。最後の親番であることは確かだが、のどかは連荘のために自分の打ち筋を変えたりはしない
一体どうしたのかとまこは目線を上げ、のどかの顔をうかがう。
……悩んどる?
そこにあったのは整った容姿を硬くし、険しい表情で手牌を見つめる少女の横顔。
いや、のどかだけではない。
青山を除いた残り二人の顔もいやに硬いことにまこは気が付いた。
……なんじゃ?
いつも飄々としている藤田まで表情を険しくしている。
まさかそこまで状況が悪いのかと、まこはのどかの豊かな胸で隠された点数表示枠を覗き込んだ。
「なっ!?」
咄嗟に口を手に当てた自分をまこは褒めてやりたかった。
だがそれほどまでに、そこに映し出されていたのは異常な光景だった。
藤田靖子:10900
原村和:6700
青山茂喜:79000
宮永咲:3400
……なんじゃこの点数は!?
25000点持ちの勝負ではまず見られない、圧倒的と呼ぶのもおこがましい点数差。
しかも卓を囲んでいるのはそんじょそこらの素人とは違う、紛れもない実力者達なのだ。
仮にバカヅキしたとしても、ここまでの差が開くとは考えにくい。
……なるほど。道理で藤田さんが気に掛けるわけじゃ。
よくよく考えてみれば、少し強いぐらいの打ち手に藤田があそこまで執心するはずがなかったのだ。
背筋に冷たい何かが走るのを感じつつ、まこは先の不可解な選択の意味を理解した。
リーチをかけなかったのではない。
かけれなかったのだ。
……ウチの店は飛びあり。
リーチをかけてしまえば最低でも出和了り7700、ツモ和了りなら12000(11600は12000計算)。直撃でもツモ被りでも咲は飛んでしまう。
……おまけに藤田プロから和了っても、もし裏ドラが一つでも乗ってしまえばその時点で飛びじゃ。
ウマありならともかく、順位点のつかない半荘一回の勝負においてわざわざ収支をマイナスに確定させてまで2位を取りに行くことに意味はない。
それまでの勝負に勝っていないということもあり、絶望的な確率とは言えのどかが一位を諦めずに狙いにいくのは半ば当然だった。
……一番ええのはリーチをかけて、なおかつトップがそれに振り込む形じゃが。
正直、それは難しい。
何せ青山以外から出てもツモっても駄目なのだ。
そんな確率の低い運任せのギャンブルをのどかが選択しようはずもない。
ゆえに例え手が安くなろうともリーチはかけない、かけられない。
……となると、次善はダマでトップから直撃を奪う事かの。
幸い、のどかは山越を狙える位置にいる。
ダマならば藤田から和了っても飛びはないが、次局以降の事を考えればここは何としてでも青山から直撃を奪いたい。
最悪それで流局したとしても、連荘になればまだチャンスはある。
そうまこが考えている間にも順は進み、西家の咲へと番は移った。
牌を引くその顔にはいつもの笑顔はなく、今にも泣きだしそうな表情と頼りない手つきで手牌から牌が切られる。
……いきなりきよったか!
咲が切ったのは{六筒}。
のどかの当たり牌。
だが当然、のどかはそれを見逃し番は北家の藤田。
まくりの女王と呼ばれる彼女でもこの点差からではいかんともし難いのか、厳しい顔のまま前巡と同じくツモ切り。
それに合わせる形で、のどかも不要牌をツモ切る。
……これで出てくれたらいいんじゃが。
ある種の願望も込めて、次番の青山に注目する。
ゆっくりと、だが淀みのない流麗な動きで山から牌がツモられる。
時間にして数秒足らずの動作だというのに、その一連の流れは嫌に自然でそこだけ時間が止まっているかのようにさえ感じられた。
僅かに生まれる一瞬の空白。
その空白の中で青山の口元が小さく歪むのをまこは見た。
「カン」
……カン?
後は逃げるだけのトップがここでわざわざリスクを冒す意味がわからない。
疑問符を浮かべるまことは対照的に、咲の表情がますます強張り、体の震えはより一層大きくなっていく。
そしてパタリと、青山の手牌から4つの牌が倒された。
……なっ!?
まこが驚愕の声を内心であげるが、それはのどかも同じだったろう。
声こそ出していないが、びくりと魅惑的な肢体が大きく震えるのをまこは確かに見た。
……{九筒}暗槓って。
そう。青山が暗槓したのは、のどかの当たり牌である{九筒}。
これで残っていた六枚の和了り牌の内、四枚が潰されたことになる。
偶然なのかそれとも故意なのか。
測り兼ねるまこを尻目に青山は王牌から牌を引き―――――そのまま手牌を倒した。
……は?
「ツモ」
変わらぬ平坦な声が卓に通る。
まこは一瞬何が起きたか理解できず呆然とし、すぐに我に返った。
……嶺上開花ツモのみ?
いや、と王牌に目をやる。
今のカンで現れた新たなドラは{九筒}。
つまりは、
「嶺上開花ツモ。ドラ四。3000・6000」
藤田靖子:7900
原村和:700
青山茂喜:91000
宮永咲:400
四人の内半分がリーチもかけられないという異常事態。
戦慄がまこの体を駆け巡る。
その圧倒的点数差に、ではない。
さっきの嶺上開花。
役なしから12000にまで持っていたことも十分驚きだが、真に驚嘆すべきはその和了形。
……{九筒}を暗槓で止めたうえに、嶺上でツモりよったのは。
{六筒}。
{九筒}と同じのどかの和了り牌。
しかも、青山から見れば3枚ありかの見えた地獄単騎からの和了。
……偶然――――にしては出来過ぎ取るの。
こうなれば認めるしかなかった。
どうやってかはわからない。
捨て牌を読んだのか(待ちを読めるような切り方はしていなかったが)、勘か、それとも何か別の要因があったのか。
いずれにせよ、間違いなく青山はのどかの待ちを見抜いていた。
……のどかにしてみればたまったもんじゃないの。
直撃をとるためにリーチをかけず、見逃しまでしたというのにあっさりとその目論見を看破され、逆に利用される形で和了られた。
プライドを傷つけられたというには、余りにもダメージが大きすぎた。
のどかは何かを堪える様に固く拳を握り、震えた声で呟いた。
「また……!」
……また?
またというのは、こんな常識外れの出来事が前にも起きたということだろうか。
それ以上のどかは何も語らなかったために真相はわからない。
しかし、もしもそうだとしたら。
……魔神。
これ以上青山を表すのに適した言葉もあるまいと、まこは思った。
重苦しいという言葉が目に見えそうなほど、暗い雰囲気の中で次局が始まる。
南三・親:青山茂喜。
……こりゃ完全に終わったの。
結果を見るまでわからないというのが勝負の鉄則だが、どうポジティブに考えてもここからの逆転は不可能。
後は飛ぶのが早いか遅いかの違いだけ。
何せ青山にしてみれば喰いタンやツモあがりだけで十分お釣りが―――――
「リーチ」
「は?」
今度は思わず声を出してしまった。
リーチ?
ここで?
しかも、
「オープン」
ばたりと、青山の手牌が晒されるとその場にいる誰もが息を呑んだ。
美しい形だった。
刻まれた文字や図柄こそ違うが四種の牌がそれぞれ三つずつ重なり、それらに属さない孤独な牌が一つ。
“四暗刻単騎待ち”
……一巡目ってことはダブリー―――って!? 何でリーチなんじゃ!? しかもオープンで四暗刻単騎って……あぁ、もう! わけがわからんわっ!?
ぐしゃぐしゃと、メイドにはあるまじき形相で髪を掻きむしる。
目の前の光景はまこの閾値を大幅に超えていた。
そしてそれは卓に座る三人も同じ。
困惑と動揺を浮かべながら、咲は青山の和了り牌とは異なる牌を切り出した。
それは当然の帰結。
四暗刻単騎待ちのオープンなど、半ば和了り放棄にも等しい愚行。
だというのに。
……何なんじゃ。この不安は。
咲、藤田と番が進むたびにまこの心の奥底から次々と湧き出していく不安。
大事なことを見落としているような、見えない何かに捕まっているかのような、心を焦がす圧倒的な不安。
それはのどかが牌を切る時に最大を迎え、突如としてまこの中から消失する。
……あぁ。そうじゃったか。
青山が牌をツモると同時に、まこは理解した。
不安は消えたのではない、感じなくなっただけなのだ。
行き過ぎた恐怖を体が受け付けない様に。
突き抜けた痛みを感じなくなるように。
それは人間としての防衛反応。
まこは酷く落ち着いた気分で、眼下の光景を受け入れた。
「ツモ。四暗刻単騎 96000」
藤田靖子:-24100
原村和:-31300
青山茂喜:194000
宮永咲:-31600
雨が、あがった。