男は荒れていた。
名前は津田という。彼には25年献身的に働き続けていた会社がある。会社というよりは小さな町工場だ。だが、小規模ならではのフットワークで大型の工場では出来ないような少数の金属部品の受注をしたり職人としての技術で機械では出来ない仕事をしたりしてきた。男は彼自身の腕を見込まれ、先代から工場長の座に選ばれた。それに誇りを持っていた。
しかし。
「あの小娘がッ!!」
声をあげると周囲を歩いていた人々がぎょっとした目でこちらを見た。
津田は苛立つ。確かに己の風貌は酷いだろう。先程まで肝臓も潰れよとばかりに酒を飲み続けていた身だ。しかし、そのような目で見られるのは腹が立つ。
「何だ、その目はよぉ?!」
きちんと呂律が回らなかったかもしれないが叫んだ。酒臭い息が大量に吐かれ、自分の鼻にまでも直撃した。胃から何かがせり上がりそうになるのをぐっと力を入れて押し殺した。ムカムカする。
(それというのも、『あいえす』とかいう機械のせいだ)
あれが登場し、そのメカニズムを解析することで現代の機械技術はこの5年で格段の進歩を遂げた。大型の工場にはISをもとにした最新の機械が導入され、飛躍的なスピードで仕事が出来るようになった。その結果、余った時間でこれまで受け付けなかった小規模な注文も受け付けるようになったのだ。
困るのは、町工場である。
技術では負けてはいないしこちらの方が丁寧な仕事をするとは思えど、最新式の機械は仕事の効率と速度を上げ、大型工場の方が安く部品製造、金型の製作、プレス加工などを行ってしまう。必然的に大型工場の方に受注はいく。
経営は困難だった。
ただでさえ薄給なのに、減給が重なり、離れていく従業員。
残ったのは、工場長である自分と、自分の妻、そして小さい頃から工場に入り浸り自分に弟子入りを志願するという稀有な若者。そのたった三人。
おまけにその弟子も自主的にネットとやらで仕事を探してきてくれたり銀などを細工して装飾品を作る副業やらをしたりしながらの勤務だ。
普段は言わないが、ひどく申し訳ないと思っている。従業員を食わせてやれない不甲斐なさと、飲み食いした諸々の波が腸からせり上がってきて、涙腺が緩むのを感じた。
「うわぁ、あーゆーの社会の底辺っていうのよねー」
「気持ち悪ぅ」
聞こえないように言ったのかもしれないが、女の高い声は響く。
口を開くと吐きそうで不本意ながら逃げるように、町工場のある裏路地への道を踏み出した。
「クソ・・・・・・」
他人の状況も知らねぇ小娘どもが。そもそもISが紹介されてからはやけに女が大きい顔をしやがる。
津田自身は別段男尊女卑の思考を持っているわけではないが、ここまで男蔑視が進むと辟易するものだ。
ポタッポタッ
(こんな寒い中、通り雨まで降ってきやがった)
雨は一気に体に降り注ぎ、頭の先から足の先までびしょ濡れになる。
嫌なことは続くものだ、と思った。
今朝の出来事が頭をよぎる。
『貴男の経営されている工場は赤字です。これ以上続けても仕方がないので、土地を売った方が賢いかと』
平然と言ってのけたのは、自分が工場に勤めた年数よりも短い生涯を送っているような娘っ子だった。
そんな奴に自分たちの工場の未来を言われ、はいそうですかと割り切れるはずがない。それで、ちょっと怒鳴ったら警察沙汰。
『今回は見逃して差し上げます』と言わんばかりに警察に睨まれた。女は訴えないことで貸しを作ったつもりなのか、『土地売却の件、考えておいてくださいね』とほくそ笑みながら帰って行った。
「クソッタレが!」
自分の吐息すら気持ち悪くなってきて歩こうとする足はゴムか何かでできているように頼りがない。雨のせいで足も重い。だが、工場は近い。目の前に見える。薄いベールの向こうにあるような、蜃気楼によって何もない砂漠に見えるオアシスのようにも見えるが。
「はー・・・・・・」
アルコールを少しでも体外に出しつつ、自分の家にも近い存在の工場を見た。
本当は小娘に言われるまでもなく分かっていた。このままではジリ貧だ。
女房だけなら支えられるだけの収入があるが、もう一人あの弟子も支えられる収入は津田にはない。
幸い弟子はプレス加工や鋳造といった本業よりも副業の銀細工の方が向いているのだ。工場にこもりきりで肌も青白く、肉体労働のわりになよっとしていて、いかにも『あとりえ』やら『あくせさりーしょっぷ』といった場所を経営しても違和感のない風体だ。
ただ。
あの人見知りじゃあなぁ。
「っ、つ、津田工場長っ・・・・・・!」
そら、噂をすれば何とやら。
もう何年共に働いているのか分からないのに、相変わらずどもる弟子の声を聞くと、安心のせいか呆れのせいか、急激に頭痛が起きた。
世界が大きく揺れる。
「ッ?!」
そのまま倒れかけたところをやけに柔らかいもので受け止められた。
自分の弟子はこちらに向かって駆けている最中なのに一体誰が?
「大丈夫ですか?!」
若い娘の声だ。
今朝見た小娘よりもまだ幼げ。中学生か高校生か。意外に足腰はしっかりしているらしく津田を支えている。折りたたみ傘を放り出し、津田を支えている娘もすぐさま雨に濡れた。
普段ならここで礼を言う。津田は礼儀と仁義を大切にする古風な男だった。しかし、完全にタイミングが良くなかった。
「あ」
あ、に続くお礼の言葉はなかった。というより、出せなかった。
そのまま胃を消化されていなかったアルコールが這い上がり、開いた口からあれよあれよという間にこぼれた。
「あ!!」
娘は一瞬ひるんだようだが、しっかり彼を支えていた。
薄く視界に収めた娘の真っ白なコートとワンピースは見るも無残なことになっていた。
それに構わず、彼女は工場まで彼を支えながら歩く。
「もう少しですからね!」
その優しさに涙が出そうになる。この歳で男泣きである。雨で見えなかったらいいが。
全ての女は男を見下し、自己中心のように思えてならなかったこの頃だが、こんな女がいようとは思わなかった。女房の次にイカしている。
二三歩歩いたところで、
「す、すすすすす、っみません・・・・・・!!」
と謝る声が聞こえた。
愛弟子だ。こいつが女房以外の女に話しかけるのを初めて見たなぁと朧げに思っていると、津田は急に体勢を直された。奴が娘から自分を引き取って工場の隅の椅子に座らせてくれたようだった。
閉じそうな目を開けると乱暴に毛布をかけられ、水を渡された。おまけに膝には洗面器である。
「おもいっきり、吐いちゃったほうがっ、楽、ですから・・・・・・!」
馬鹿弟子が。
酒を覚えたての若造でもあるまいし、そんな無様なこと人様の前で出来るか。
「赤石・・・・・俺のことは、いいから、そちらのお嬢さんにお礼と謝罪を・・・・・・」
なけなしの力を振り絞った。自分が言うのが筋だが女性を探す気力も腰を折る力も残っていない。
「あなた!大丈夫?!」
妻がこちらに慌てて来る音と、弟子が走っていく音が聞こえた。
「ぁ、あああありありありがとう、ございます・・・!・・・その、服、替え持ってき、きますので!!あと、シャワーどうぞ・・・!」
「気を遣わせてしまって、すみません・・・。ではありがたく使わせていただきます」
非常に謙虚な言葉である。
昨今でゲロを吐きかけられた上こんな対応を出来るとはとんだ女神だ。本当に女房がいなければ落としたいくらい。
薄目を開けて、「申し訳ない・・・ありがとう、ございます・・・」と言うと、その女性は微笑んだ。
深い緑の髪に、小さな顔に不釣合いなほど大きな眼鏡。随分べっぴんな娘さんだ。雰囲気は柔らかく、色白で彼女自身が白いワンピースのようだった。・・・・・自分が吐いた箇所以外。
そこではたと気づいた。あいつも気がついたのだろう。
急に弟子が上着を脱いだ。
「えっ?」
馬鹿が。お嬢さんがビビっちまってる。
「ぬ、ぬぬぬ、濡れている、んで・・・・・・!!!!」
脱ぐ前に言えばいいのにな。白いワンピースが透けてしまっている、と。
上半身裸で真っ赤な顔をしながら勢いよく話したために息を荒げている男と、うら若き少女。
完全に絵柄が犯罪だった。
ただ、お嬢さんは早々に状況を把握したようだ。
「あっ?!ありがとうございます・・・・・・!」
胸の前に手をやり、(絶対に羞恥で)顔を赤らめている少女と同様に(絶対にパニックで)ゆでダコの男。
未だ犯罪臭さは否めないが、もしかしたら、と強面の割にお節介焼きな男は思う。
弟子の赤石は学校卒業からずっと工場で自分と一緒に働いていた。
女性と話す機会はそれこそ同じ従業員である自分の女房くらいで、出会いなんぞ皆無のはずだ。あいつ自身もコミュニケーション能力に難があるし、経営もうまくいっていない収入も心許ない男に残念ながら嫁なんてこないと思っているようだ。
だが、もしかすると。
そのとき、銀色の光が目に入った。
「この野郎ッ!!!」
「ぐえっ」
続いてそこらへんの部品を巻き込んで何かが飛ぶ影と、ガチッという破壊的な音。
は?
「お前、真耶に何してんだ??!!!・・・・・・真耶、安心して?変態野郎は俺が退治をしたから」
「みっ、三浦先生ッ?!何を言っているんですか?!彼は上着を・・・・・・」
「三浦『先生』だなんて。今はプライベートだから別に『ケイト』と呼び捨てにしてもいいのに」
「そんな話をしてるんじゃないです!!!あぁ、もう!三浦先生さっさと離れてください!!!大丈夫ですか?!」
閉じそうな目をかっぽじって見てみると、恐ろしいほど顔の良い、銀髪で赤い目というすげぇ配色の兄ちゃんが俺の愛弟子に馬乗りになっており、嬢ちゃんが焦って止めているという光景が広がっていた。
少し目を閉じていただけなのに弟子の顔は腫れ上がっている。
どう考えても突然現れた兄ちゃんが殴り倒したのだろう。
嬢ちゃんが必死に止めているようだが……三浦とか呼ばれたイケメンは慌てふためく嬢ちゃんを吐き気が増すくらい甘ったるい目で見るばかりで、話を全く聞いていない。兄ちゃんの中では、赤石=犯罪者、嬢ちゃん=助けを待つヒロイン、自分=ヒーローという図式が、はんだ付けで完全固定されているようだ。
そうこう言っている間に下敷きにされた赤石の顔が哀れなことになっていく。元々こいつの顔面は兄ちゃんと比べたら残念極まりないものかもしれないが、これは酷い。
止めなければ。
「そっ・・・そこの兄ちゃん・・・!!あんた・・・・・・!!」
プチッ
立ち上がった瞬間、頭の中で何か嫌な音を聞いた。
女房の悲鳴と、驚きのあまり大きな目をさらに見開いている嬢ちゃん。ぽかんと口を開けている兄ちゃんと、目の上を腫らしながらもこちらを見ている弟子。
「あなたっ・・・・・・??!」
「津田工場長・・・・・・??!」
それが意識を飛ばす前に俺が認識出来た光景だった。
もう、今日は何だってんだ・・・・・・