第三十七話 湿獄の淵
かつん、と音がした。樹脂製の組み立て式の机の上に、陶器のカップ、もとい、中身の尽きた湯飲みを置いた音だ。
卓上に据えられたタンクには、まだ充分に中身が残されている。
中身はキンキンに……とまでは言わずとも、口にすれば冷たいと言える程度には冷えた茶。傍らには、大きく二字で「麦茶」と書かれた大きなパックが置かれている。
周囲は薄暗い。当然である。頭上には、日を遮る布張りの屋根があった。
仮設テントの中は蒸し暑い。外とテントの中と、どちらがましだろうか。
中は日差しこそ遮られているが、風が入らず酷く蒸す。扇風機などというモーター駆動の骨董品が延々働いているが、余り効果は無いらしい。しかしそれでも無いよりはましと止める者は誰もいない。
この扇風機を据え付けて最初の頃は人がまいるのとモーターが焼き付くのどちらが早いかなどという埒もない冗談を言う物もいたが、今や冗談では済まなくなってきている。
では外なら? 日差しはきつかろうが、自然の風がある。汗をかくのは同じだろうが、幾ら何でも服が汗でバケツに突っ込んだ雑巾みたいになるこのテントの中にいるよりかはマシなはずだ。。
全ての原因は、壁だ。視界を遮り機密性を確保する為に地上を知らぬお偉方が用意した、無意味なまでに透過性の低い素材でできた、屋根と同じ素材の仮設テントの壁だ。
しょうがないと言えばしょうがないので済む話だが、それでもこのテントの中に居る者はテントを寒冷地と間違えて寄越した奴に恨み言の一つ二つを言う権利はあるはずだ。
雨にはめっぽう強いので全く役に立たない訳では無い。しかし長所を打ち消すほどに短所がこの場に置いては無双している。暑さの前に長所などどこかへ消し飛んだ。
「暑い…」
男……冬彦は、緩慢な動作で湯飲みをタンクの下へと持っていく。だばーっと麦茶が湯飲みに注がれ、丁度良い加減のところで手を引けば、かこんっという音と共に止まる。
滴の付いた湯飲みをそのまま口元へ持っていき、麦茶を一口含んで机へ置いた。
水にも茶葉にも限りはあり、むやみやたらと飲むわけにはいかない。
とうの昔に意地を捨て、軍の制服の上を脱ぎ捨て上はシャツ一枚だが、それにしたって襟元のボタンを二つ三つ外しているが汗は今も止まらない。
それでも幾らか暑さはマシになったと頭を切り換え、卓上の地図へと目を移す。
全ては、グラナダからソロモンへ帰還してしばらく経ち、宇宙要塞ソロモンが完成したその日に始まったのだ。
◆
「地上、でありますか……」
「おう、そうだ」
例の如く、呼び出されたのはドズルの執務室。
おそらくは冬彦でも耳にしたことがあるようなブランド材で造られたであろう木目の美しい机の前に立たされ、新たな命令を告げられた。
その内容は、ざっくりまとめると戦隊の解隊と、再編。それから地上行きである。
ドズルの顔を見れば、至極真面目に言っているのは冬彦にもわかる。場を和ませる為の小粋なジョークというわけでもないのだろう。
しかし、余りにも唐突な命令である。
地上。つまりは地球。宇宙空間とは勝手がまるで違う戦場。
地上。多くのジオンのエースを呑み込んでいった激戦区が、オデッサを筆頭にそこかしこに存在する超広域死亡フラグ。
なぜまた唐突にそんなところへ行かねばならないのか。
オマケに、解隊と再編とは、これまたどういうことか。
中将であるドズルを前にして、堪えようもなく口元が引きつった。
「特務になる。シャアやシンよりも、部隊規模の大きい貴様が適任だと判断した」
「はっ……」
珍しく、ラコック他幕僚は誰もいない。よもや昨日のハマーン・カーン奪還作戦に続きまたドズルの一存によるものではなかろうな、と嫌な考えが浮かぶが、それが真実だったとして、嫌な顔をできるわけもない。
無論本音としては、特務ならシャアにしろよ、という思いはある。冬彦の部隊は独立戦隊だが、シャアの部隊は特務隊である。
「貴様には、地上で将来有望な部隊、士官・下士官の取り込みを任せたい」
「それはっ……つまり、キシリア少将の派閥から?」
「厳密にはそうではない。地上の部隊は殆どがキシリアの部隊だ。そちらは繋ぎをつくる程度で良い。それよりも、それ以外の奴らを取り込みたい」
「と、申しますと……ガルマ様の?」
「違う。あれも実質キシリアの部隊とかわらん。本命は、いわゆる外人部隊などと呼ばれている者ども。あとダイクン派だ」
「は……」
了承を示す、キレのある返答ではない。ただ、口を通して空気が外へ出ただけの音だ。
「そ、それは……」
「わかっている。反ザビ派などとも呼ばれている奴らだ。だが実力ある者らも多くいるのもまた事実」
「本気、なのですね」
「そうだ。このままジオンが勝てれば良い。だが連邦もただ黙っているはずもない。ルナツーを失って後がないからな。落としどころを探さねばならん時が来るかもしれん。その時に備え、有能な人材を地上で磨り潰されるわけにはいかんのだ」
おかしい。神妙な顔のドズルを見て、そう思った。
ドズルは将としては一流だ。それは間違い無い。だが、これは幾ら何でもおかしい。
将としての知見は、こんな広範なものではなかったはずなのだ。局地戦しか出来ないというわけではない。だが、戦後のことまで含めて、それも本来敵対どころか仇敵と言えるような相手を取り込もうとするなどというのは、絶対に無い。
冬彦の知るドズルというのは、あくまで将に徹しようとしていたふしがある。だからこそ難しいことは任せるなどと嘯いていたし、ガルマがいずれ己を超えるなどと公言し、誰かを支える位置にいようとしていた。
ギレンやキシリアとも積極的に鉾を交えようともしなかった。意見を述べることこそあれど、噛みついたとまで言えるのは、ソロモン決戦前に援軍をせかせた時くらいだ。
しかしこれは違う。本来ドズルが他人に任せていた部分に間違い無く首を突っ込んでいる。
よくよく考えてみれば、ハマーンの奪還の件からしておかしいのだ。ドズルが謀略を使うという点では無く、一族であるキシリアと対立するような動きを自ら行うという点で見るべきだった。そうすればまずあり得ない行動だということがわかったはずなのに。
よもや本国からの独立などは考えてもおるまいに。
何が、起きているのか。
「所属は宇宙攻撃軍のままとする。つまり、地球のほぼ全ての部隊とは指揮系統を異とするわけだ。建前はMS用新兵器の実戦試験であるとし、独立行動の許可と多くの裁量を貴様に預ける。頼むぞ」
「……任務、了解しました」
「うむ。人員はそのまま引き継いで良い。今の部隊に増員も送る。何なら以前のように、貴様が他所から引っ張って来ても良い。だが艦船は一度引き取るぞ」
これは当然の話である。ムサイ、チベ共に、宇宙専用の艦艇であり、地上では使えない。
「すまんがコムサイで地球へ降りてくれ。MSの運用に支障が出るだろうが、代わりの艦は完成し次第地上へ送る。追加の指令も追って送る」
「任地はどこになるのでしょうか」
「わからん。まだ選定している最中だ。だが遠からずそれも伝える。身辺整理だけしておいてくれ」
「はっ!」
「繰り返すようだが、くれぐれも頼む。わかっているだろうが、あのマ・クベなどには悟られぬようにな」
「……はっ!」
◆
そして、冬彦は地上へ降りた。コムサイ四機に分乗し、地上ではデッドウェイトとなるバックパックを外し背中が寂しくなったザクを積んで、懐かしき風と重力の坩堝に降り立った。
「だからって、いきなり夏にアジア戦線って酷かぁないですかねえ、閣下……」
言って、誰かに聞かれるとまずいか、と一瞬ひやっとするが、それもすぐに忘れた。
そうだ、これもきっと暑さが悪いのだ、と決めつけた。
誰も彼も、うだって元気がない。周りには通信担当の下士官などが数人いるが、彼らも無線機の前でぐったりしている。
お偉い人に告げ口するような根性はないだろう。
時計を見れば、もう日も暮れ始める頃。仕事を終えても言い頃だ。
「……各員、時間だ。交代要員に声をかけてこい」
ゆらりと起き上がったのは、先ほどまでぐったりしていた周囲の下士官達。
無言で冬彦の方へ敬礼をした後、ふらつきながらテントの出口を目指す。
本当の事を言えば向こうが来るまで待たねばならないのだが、どうも遅れがちであるのでこちらからせっつかねばならないのだ。
冬彦も彼らが出て行くのを眺めた後、自身もテントを脱出すべく立ち上がった。いつものように、頭をがりがりと掻きながら。
余りに暑いのでそれまでほったらかしていた髪。それをかなり切り落とした為、多少は快適になった。
しかしその代わりに周囲からは「隊長意外に目つき悪いッスね」などと言われる始末。中佐への敬意はどこへいったのか。
空を見上げれば、遠く東の空に何かが赤い尾を引いていた。
軌道を見る限り、宇宙からの投下物らしい。制宙権をジオンが取っている以上、友軍からの物ではあるだろうが……
「補給物資か?」
少なくとも、ドズルが約束していたような戦闘艦の影ではない。もっと小さく、おそらくはHLVだろう。
「……さて」
冬彦は、この時間にHLVが投下されるなど聞いては居ない。友軍の誤認による迎撃を避ける為に、降下予定地点近隣の部隊には中身こそ知らせずとも、それが降りるというのは伝達されるのが慣例。しかし冬彦は何も聞いておらず、近隣には大規模な友軍はいない。基地も、無い。
実は伝達のミスがあって、中身はただの輸送物資である。というのなら良い。
しかし、もしも未だ冬彦につきまとう厄介ごとの新たなタネであったなら、今度はどんな難事か。
冬彦は思考を巡らせる。だが、考えは上手く纏まらない。
情報が足りないからではない。
「…………暑い。いいや、もう」
どうせ避けようもないのだから、考えるのを辞めよう。そう思った。
それほどまでに、この日は暑かったのだ。
私のスコップは、半ば折れてしまった。
もはやありし日のように延々なろうの頁を進める力はない。
疲れちまったよ、もう。
とか後書きで書くことが何もないから適当なことを言ってみた。すまない。深い意味は無いんだ。うん。