【完結】深紅の協奏曲 ~ディアボロが幻想入り~【IF投稿中】   作:みりん@はーめるん

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―ただ一人に送られた詠嘆曲 2―

 半分に開かれた人間の瞳と、確かな意思を感じ取れる動きを持って見つめてくる胸の瞳。

 何者かを見定めようと、必死に目を凝らしている。初めて会うものすべてを疑うように。

 

「そりゃそうですよ。顔見知りの訪問者でさえ、年単位で片手で数えられるほどしか此処には来ません。施設に用がある人たちでさえ、担当のペットの元へ皆流れていきます。……お寺の人ならともかくそれを知らないあなた、私は非常に興味を持ちます」

 

 周りの動物たちも釣られたように、こちらをじっくりと見つめている。だが、それらの視線も目の前の妖怪の視線と比べれば細いものだ。

 自分の心の内側をえぐり、知られたくない記憶でさえも掘り起こしてしまいそうな。

 

「……そこまでは読めませんよ。私は心を読むだけで眠る記憶まで読むことはできません。手順を踏めば別ですけど。……どうやら、私のことを話には聞いているようですね。ようこそ、地霊殿へ」

 

 一瞥し終えたのか、目を閉じ顔を背ける……胸の瞳はまだこちらを見つめている。

 

「お燐、あなたは下がりなさい。彼らの応対は私でやります」

「にゃ、さ、さとり様、あたいは」

「お燐」

 

 ぴしゃりと言葉で締めると、燐は首をうなだれその場を下がろうとする。

 

「お兄さんとこいしと私を会わせてはいけない、面倒事が起こる……ですか。でしょうね。ですがお燐、これは私とこいしの問題です。あなたたちペットには関係ない」

「え、でも! それならあたい達だって」

「ペットも家族のようなもの、だとは言いましたが家族ではありません。あなたたちとこいしでは圧倒的に序列が違うのです。……下がりなさいお燐。あなたにはあとで罰を与える」

 

 冷徹な言葉は、確かに心に響いたのだろう。再び伏せた頭を上げることなく、去っていく姿にはわずかに涙が浮かんでいた。

 

「……会ったのは初めてだが、予想以上に厳しい主人だな、さとり」

「当り前です。あなたたちの関係とは違います。主従と、愛玩物の違いです。……あなたも愛玩のようなものじゃあないですか? 違いますか、すみませんね、侮辱してしまって」

 

 顔を合わせても、目を合わせることはなく。言葉を交わすのもほんの僅か。なのに自分の考えは伝わっており相手の心はわからない。

 

「それが『覚』というものです。……立ち話もなんですね。客間へ案内します、どうぞこちらへ」

 

 そう言って彼女は奥へと下がっていく。周りの動物たちはディアボロたちを興味深そうに見つめるもの、さとりを追って奥に下がっていくもの、どちらも興味なくその場に留まるもの……それぞれの反応を返す。

 

「……実際に対峙すると気味が悪いなぁ。……でも、行くんだろう」

「あぁ」

 

 追従しないわけがない。しなくていいならそれに越したことはないが、それは何も解決しない。彼女からは何も聞けていないし、彼女はそれを知ってなお此方へ誘っているのだ。

 歩を進める。そこかしこに動物のいた名残が存在していてやはり人が使っている館、というような気配は感じられない。動物たちそれぞれが悠然と過ごしていることで、生き物の気配には事欠かさないのが乗じて廃墟の空虚を感じさせる。

 足元を照らすステンドグラスの模様はその上に立ってみれば、光源自体は床のほうからであり壁には何もあらず。厚いグラスに刻まれた模様の底、目も眩むほどの熱が漂っている様。

 その先を、後ろを付いて来ていることを確認して振り返る地底の主。来ないのか、来ないでよいのか。言葉なくともそう尋ねている。

 

「……」

「……君が入らないなら私から入るよ」

「どうぞ」

 

 客間の入り口から中を見通しているとその後ろからナズーリンが先に入る。中では主自ら、あらかじめ用意してあったのか、ポットでお茶を用意している。

 

「警戒する気もわからないではありませんが、こいし当人ならともかく、私は初対面です。歓待の気持ちはあれど襲う気持ちはありませんよ……座って、どうぞ」

 

 たどたどしい不慣れな手つきでさとり、ナズーリン、ディアボロの3つのセットを卓上に用意する。そしてそのまま席に着き、手を差し出して座るように促す。

 

「……君が着かないのなら、私は着くよ」

 

 ナズーリンは席に着いた。だが、ディアボロはそのまま扉を背にして着こうとしない。単純に、相手を窺い知れないし、攻め入る相手に歓待されているという心情が納得を得ていない。

 いただくよ、と一声を置いてナズーリンは注がれたお茶を一口飲む。僅かに鼻に届く香りは、どうやらそれは紅茶らしい。

 

「……口に合わないようですね。日本茶はあまりうちでは飲まないので。あなたもどうですか? ……毒なんて、入ってませんから」

「……構わん。それよりも」

「こいしの事ですか。そうですか、それは残念。……さて、何から話したものでしょうか」

 

 そう言いつつ、さとりはディアボロへ視線を投げかける。陰湿な、穿つような目線は快活だがどこか虚ろなこいしとはまた違う不気味さがある。

 

「なぜこいしがあなたを狙うか、こいしがあなたに何をするか……ですか。そうですね、その前に軽くですが、こいしがなぜ覚の異端となったか説明しましょうか」

「読みたくない心を読まないよう、閉ざしている、閉ざしてしまった……と私は聞いているけれど」

 

 口をつけた紅茶に砂糖壺から3杯ほど入れ、ミルクをかき混ぜながらにナズーリンが後に続く。その言葉をうなずいて肯定し、

 

「その通り、あの子は見たくないものを見ないために、覚としての全てを捨てた。それは妖怪としての自己否定、覚の中の面汚し。もっといろいろやり方もあったでしょうけど、あの子は最も簡単で最も染めてはいけない方法を取ってしまった。……心を読めない覚なぞ、何のために存在しているのやら」

 

 淡々と、起きた事実だけを書類を読むように話す。だが、それは聞いてて耳に良い話ではない。一番近くの、しかめた顔を浮かべた相手に、

 

「まあ、そう怒らないでください。あなただって、例えば主である虎の方、突然全ての信仰を投げ捨て、野生としての誇りも忘れ、飼いならされた猫のようになってしまったら。それも一番身近な私、いえあなたに何も言う事もなく。……そう、怒りが湧いてくると思います。不信でもいい。そこからさまざまな事象を思い浮かべる」

 

 さとりには言葉にも、表情にも熱がこもっていない。おそらく、その裏切りはディアボロが生を受ける以前の、人間の尺度でいえばしばらくに以前の、それこそ感慨に至る程度に過去の事なのだろう。

 目の前でころころと、一点を中心に変わる表情と違い、椅子に座ることもなく憮然とした表情のままに聞いていた。

 

「そうして、こいしは心を閉ざし、私は今はあの子を憂い心配している。だけど、その心配はこいしに届かない。……伝わらない恋心のように。おしまいです。……いかがですか」

「それで?」

 

 此方の反応を伺うように話を途切らせ、実際に見つめてくる。だが、話の要点には全く触れても、至ってもいない。

 そして、返事に対していかにも合点のいくように、うれしそうな笑みをさとりは浮かべる。

 

「ふふ。こいしは閉じた心で、しかしそれでもどこかに縋る心を持っている。きっと私が一番迷惑を被ったとどこか記憶に残しているのでしょう。姉に頼りきりだった自分が、他に依る人を見つけたと話したいんでしょう。……以前にもありました。基準はわかりませんが……どこか、何か。引き寄せるものを持つ者に惹かれます。そして、私に話そうとする。……まるで、つがいを紹介するかのようにね」

「つがっ、えぇ……」

 

 心底驚き、そして信じられないものを見るような眼でナズーリンが振り返る。

 

「そんな顔しないであげてください。基準はあの子の基準ですから、私もよくはわかってませんし、私もあの子の言葉を思って推測しているだけですから。まあ、ナズーリンさんがあなたを快く思っていないのはよくわかりますがね」

「私がそいつにどう思われているかなんかどうでもいい。……ここに至るまでに、そのような節は思い当たる。それで、奴は何をする? 外の者が恐れていた、あの鬼の長も言及していた。ただそれだけならば、何も起こらないだろう」

 

 本当の理由。ただ付きまとうだけならば、それほどの恐怖は抱かれない。

 

「えぇ。もっとも、あの子からすれば何かしているわけではないのですが……」

「……」

「早くしろ、ですか。すいませんね、悪い癖です。過去の事例からの想像ですが」

「想像……? どういうことだい」

「……先ほど言った通り過去の出来事、こいしは以前も同じことをしでかしました。しかし、その時の記憶は私にはないのです。私だけでなく、他の者にも」

 

 表情と心に疑問が浮かぶことを待っているかのように、一拍置いて二人の表情を見比べながら、さとりは続ける。

 

「あの子は無意識を操ることができる。だけど、それを他の者に使おうとは思わない。……思えない。それは、あの子が他者に使おうという意識がないから。それが平常です」

「……それが先程の話とどうつながるんだ? さとり、さっきからこちらの反応を伺うような話し方ばかりだね」

「くく、すいませんね。覚とはそういう性分なのです。……単純ですよ。あの子ははっきりと思いを告げる。きっと、それだけなのでしょう。だからこそ、おかしくなる。無意識に支配されたあの子が、唯一つ『意識する』。自分のことを理解してほしいと、自分のことを受け入れてほしいと。……そこに、無意識の引き金があることを知らずに、ね」

「引き金?」

 

 2杯目のミルクを入れながら、ナズーリンは口を挟む。

 

「あの子は寄り添い方を知らない。忘れてしまった。相手の傍に立とうとするのではなく、相手を傍に置こうとする。自分が思いを伝えれば、必ず相手が歩み寄ってくれると信じている。そう思って、取ってくれると思って手を出したのでしょうね」

 

 話し続けの彼女は、そこで自らの入れたお茶をすする。

 

「……おいしくないですねこれ」

「……続きは?」

「ごめんなさい。……あの子が自分を知ってほしいと思ったとき、あの子の力は発動する。意識して『無意識を操る』時、その歯止めをあの子は知らない。……わかる? その意味が」

 

 ナズーリンの一瞬呆けた顔がすぐに引き締まるのを、頭越しにでもわかる。

 

「ご明察です。無意識の伝播をあの子は理解できないし、それを止めようとも思わない。あの子の眼には相手の心しか映っていないのだから。周りのことなど映っていない。あの子は視野が狭いから。……相手が無意識に自分を愛するよう願ったとき。結果、無意識のパンデミックはコミュニティの機能不全をもたらす。表層の意識が抑えられ、無意識の行動が止められなくなる。封じられた心が解き放たれ抑圧された思いをはじき出す。

 …………これが、こいしがあなたにすることで起きること、です。あの子がすることは、おそらく自分の心を伝えるだけ、です。覚の最も苦手とする、ね。……私でさえも例外ではない」

 

 カチャカチャと砂糖壺から4杯5杯とカップに沈めながら、さとりは結論を話した。わなわなと、ナズーリンが震えている。

 彼女の心を読み取ったのか、首をかしげさぞ不思議そうな顔を浮かべた。

 

「無責任、でしょうか? それは違います」

「どこが違うというんだ! 君のやっていることは大勢に危害を加えることを傍観してるに過ぎないっ! 君がっ、こい、……くっ」

「こいしを抑えておけば……物騒な。口には出さないほうがいいですよ、そのようなことは。幽閉なんて、あまりにも残酷です。それに……」

 

 くすくすと嫌らしい笑みを浮かべる、その言葉を待っていたかのように。唇の端を歪め半開きの目と、ぎょろり、と音が聞こえるほど胸の瞳を開きながら、

 

「妹の幸せを願わぬ姉が、いるでしょうか」

 

 空間を震わせる、振動と衝撃音。彼女の卓上のカップが跳ね上がり、遅れて高い音が辺りに響く。

 

「……当人の付随のくせに、あなたが激昂してどうするのですか」

「っ、おまえは……っ!!」

「前の奴、どうなったんだ。殺された、でいいのか」

「ええ、その通り。経緯はわかりませんが、気づいた時にはゴミとまとめられており、こいしはいつもと変わらず何も知らない様子で。……彼、悪い人ですね」

 

 感情を抑えきれないナズーリンに変わり口を開く。単なる確認、しかし重要な項の一つ。さとりの顔は後ろに立つ者、ディアボロへ向く。対峙している彼女と変わって、彼は表情も変えずそのまま聞いていた。

 

「こいしの止め方、簡単ですよ。……あの子の恋心を止めればいい。もちろん…………いいですよ、殺しても」

「なっ」

 

 その言葉を聞き、ナズーリンは振り返る。怒りと、驚愕、信じられないものを見た、という顔を浮かべている。もっとも、ディアボロも予想は着いていた。

 

「周りに悪意を知らずに振りまき、その飼い主は止めようとせず。もっともそれを被るのであるのならばまず最初に、排除が浮かぶ。当然だと思うが?」

「だ、だからと言って!」

「くく、くっくっ、私も当然だと、思います。現に過去にあの子がやらかした時も、その意見が大勢でしたよ……星熊童子がその場を抑えてくれましたけど」

 

 笑みを抑えきれず声を漏らしながら、さとりは言葉を紡ぐ。ナズーリンの心を揺さぶるように。ディアボロの提案を肯定する。それが正しいように。

 その二人の、突飛な想像に間に立つ彼女の顔はひくついて歪む。

 

「何もおかしいことではありません。底知れぬ悪意の媒介者、殺すことも普通。どうにかして殺さず何とかしたいと思うことも普通。そのどちらに立つか……そちらは、前者だったこと。彼が善人であればそんなこと考えもしなかったでしょう。ですが、彼の心の声はずっと、自らにかかる危機の排除しかなかった」

 

 それに、と一度言葉を止め、再びさとりは続ける。

 

「彼からは私の能力を不気味とは思えど否定する声は聞かれなかった……手中にあればとも思っていた。……悪い人です、面白い人ですよ。覚はそういう人間がいるから食いっぱぐれない……」

 

 くつくつと抑えながら笑い、またカップに一口つける。

 

「……あっま」

 

 まるで気の入っていない、今まで一本調子だったさとりの声。確認のためだけ、動揺することなく口を開いたディアボロ。ただ一人、ナズーリンだけが振り上げた手を下すこともできずに立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

「それで……どうしますか? こいしが現れるまで、ここに滞在しますか? ここは広いですから、過ごす部屋はいくらでもあります。もちろん、ペットの部屋じゃあないですよ」

「……こいしはもうここにいるんじゃないのか? さっき、地霊殿に向かったはずだったんだが」

 

 ナズーリンが自分が落としたカップを拾いながら、疑問を投げかける。まだ言葉の端々にとげは残ったままだが。

 

「……ええ。ですがここで見えない者を探すのも大変でしょうから。話に聞いていますが上の吸血鬼の館と遜色ないくらいには広いですよ、ここも」

「そうか……君は、どうするんだ?」

 

 ディアボロに振り返るその顔は、やはりこちらにも思うところがあるのだろう。さとりへと向けられたとげは同じく残っている。

 

「……その女の言う通り、奴を探し出すのは容易いことではない。ただ何もせず待つ、というわけではないが……どうせ、お前は殺さないよう、私を見張るつもりだろう。……こいしの部屋は、どこにある」

「……わかりました、案内をつけます」

 

 そういって手を叩くと、黒い小さな猫が入口から顔を覗かせる。

 

「お燐とは別の猫です。黒い猫、だけならうちにはまだまだいますが、人型になれる2尾はあの子だけですよ」

「……また猫かぁ」

 

 小さく声を上げると、手と尻尾で器用に扉の外を指す。ついて来い、と言っているかのように。

 

「……」

「……行こうか。……さとり、君を見ていると聖の思想、到達への長い道を改めて感じるよ」

「お褒めの言葉、どうもありがとうございます。あのような方がいるからこそ、私たちは繁栄し続ける。つまはじき者は、互いに傷を舐めあうことを良しとし、手を取られることを拒むのですから」

 

 その場を後にする者に、最後の言葉が投げかけられる。背中で受け取った二人は、しかし互いも変わらず表情だった。

 二人とも顔を合わせることなく、長い廊下を歩いていく。動物たちの息遣いと、僅かに聞こえる足音が、二人の足に合わせて響く音を装飾している。

 

 

 

 

 

 

 

「……本当に、殺すつもりかい?」

 

 正面、猫のしっぽを見ながらナズーリンは隣のディアボロに尋ねる。

 

「必要ならな」

 

 端的に、それに返答する。

 彼女はもう理解できる。短い間で、かつ会話はあの喫茶だけでだが、それでも彼は殺すといえば、殺すだろう。

 やや考えを巡らせた小さな手は、ポシェットにあった水入れを取り彼に向ける。

 

「……何も飲んでいないだろう。さとりたちを信用しないのであるならば、私くらいは信じてくれ。君が殺しをしてほしくはないが、君に死んでほしくもない」

 

 それは彼女の固い芯の一つなのだろう。そして、間に立ち入ることもできないことを理解してだろう。

 元来の容量も少なく、さらに飲みかけだ。乾いた体を完全に癒すには程遠い量。

 

「……」

 

 何も言わず受け取り、飲み干す。このような形で人から貰い受ける、こと躍進を始めてからなかったかもしれない。

 飲み終えたそれを返すと、彼女は何も言わずに受け取った。

 なぅ、と目の前の黒猫が鳴き声を発する。扉が二つ開いており、中は小さな寝室。

 

「……私はここで待っている。君は自由にすればいいさ」

 

 言い放つ彼女はこちらに目もくれず部屋の中へ入っていく。落ちた肩は、何も追いつけていないことに対して苛立っているのかもしれない。

 みぃ、と再び猫の鳴き声。前足をくいくいとさらに先へと伸ばしている。

 歩みを進めようとしたその時、

 

「彼は殺しに行く。彼女は殺すかもしれない。私はどちらに付けばいいか、わからない。1000年経っても、それはわからない」

 

 頭に声が響く。耳からの声ではない。まるで、精神に直接響くような。

 

「聖なら、ご主人なら、すぐに答えを見つけることができるだろうか。……私は未熟だ。彼に考えさせることもできない。……彼の、名前も知らない」

 

 先ほど分かれたはずのナズーリンの声。だが、振り返ってもとうに扉は閉じ切っている。

 わざわざ扉越しに? 理由がつかない。何より、聞こえる声に説明がつけられない。これは、ディアボロに語り掛けているのではなく、まるで自分に語り掛けている様。

 

「私に何ができるだろうか? 私は監視者、傍観者だ。……何も、できはしない。このまま、全てを忘れて眠りたい。祈ることしかできない自分を、さらに追い詰めるように」

 

 まさか、と思い部屋前に駆ける。ノブを破壊するかの如く、勢いに任せて押し開く。

 

「これ、は……!?」

 

 すぐそばの壁にもたれかかり、虚ろな目のままに床に伸びるナズーリン。そして、そのすぐ上に立つはおぼろげな、色合いの薄いささくれた、それも同じナズーリン。

 存在感の類似は、まさしく自分の傍ら、スタンドに近しい。

 ぶつぶつとうわごとを呟いているのは、おぼろげな方。今の立ち入りでかなりの音が発せられたが、まるでそれが聞こえていなかったように何も反応を示さない。

 ……そして裏に足音とまた新たな人の気配。動物ではなく、人。

 

「……恋物語のような恋がしたい」

 

 存在を理解できる。まるで、自分から誇示しているかのように。姿は見えなくとも、その声でどこにいるのか理解できる。

 

「気持ちを伝えるには、まず相手の目を見て話さなきゃ。応援してね、帽子さん」

 

 廊下の先、倒れた猫の奥。果てに見えるその姿……整容したか、少し小ぎれいになった衣装に変わった、古明地こいし当人。


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