【完結】深紅の協奏曲 ~ディアボロが幻想入り~【IF投稿中】 作:みりん@はーめるん
「……我ら、血によって人となり、人を超え、また人を失う」
薄い照明の点いただけの、澱んだ空間。
必要最小限と称するにはあまりに暗く、紙に支配された場はその物が発する独特の匂いのみに侵されている。
そんな空間の中、一人本を読み進める少女。その菫色は、自らの存在をこの閉鎖された世界に溶け込ませるための色なのかもしれない。
「人よ、かねてより血を恐れたまえ」
書に記された警句を、血の通っていないような青い唇が紡ぐ。
その少女の唇以外の顔も、本をめくる傷の無い指も、全てがまるで血の通っていないかのごとく。
「……思っていた物と違うわ、これ」
ビルゲンワースの学び舎は過去にも訪れたことはある。しかし、当時の隆盛は既に過ぎ去っており、そこで得た遺物にかつて研究していた情報はほとんど手に入らなかった。
それでも、変貌と支配を研究していたと思われていた……自身がそうだったと記憶していたが、改めて読み返してみると全然違う内容である。
「……魔理沙には早すぎるわね。この高みは……瞳を得て、自らの内なる獣を理解してから……」
「おい」
「どうされました?」
書を閉じ、ぶつぶつと呟きながら内容を反芻する彼女―パチュリー・ノーレッジ―の背後に、何者かが足音なく近づき声をかける。単純な話、声の主の背部には一対の、記号として悪魔を連想させるような翼。
両の手で抱えた本をパチュリーの傍らにそっと置くと、彼女が呼んでいた書の表紙を見る。
「あー、最後は瞳に寄りて散ったあの先生の。パチュリー様、魔理沙さんにアドバイスするための本を探してたんですよね? これはまた違うジャンルですよ、私たちの様な者に近づくための」
「そのようみたいね。久しぶりに読んだから私と内容に齟齬が生じてた」
「魔理沙さんには早すぎますよ。今はまだ瞳は二つで大丈夫です」
パチュリーの声は細く、早く。周りの紙の束に相まってすぐに空気に溶けてゆく。対照的に翼を持つ彼女の声は少女特有の高さのある、大きめの透き通る声であり薄暗い世界に彼女だけが喋っているようにも聞こえてくる。
紅魔館、その地下に存在する大図書館。
その空間を支配するパチュリーと、彼女の従者だけの異空。他の何者も存在しえない、二人だけの空間。
「……おい」
「……ねぇ、パチュリー?」
先ほどの明るく、幼さを残した声は、その声質を変えないながらも淫靡で蠱惑的な印象へと変わる。身体に似合わぬ豊かな双丘を、もたれ掛かる自らと主の背中で押し挟む。
「あの子には必要ないけれど、そんなにあなたが高め合いたいっていうなら……私はいつだって、受け入れるわよ?」
またか。
肝心のパチュリーは、そんな彼女の声掛けをうんざりとした顔で受ける。
彼女はいつもこうだ。自分の仕事を終えたら後は指示があるまで自らの欲に従って行動する、優秀な怠け者。早急に終えようとする努力は素晴らしいが、彼女が求めるのは、魔女たる自分の身体、悪魔として魔女の身体を糧とすること。
「獣……ね? 今日はあなたの調子も悪くはない。きっと最後まで……イケるわよ?」
「うるさい」
耳元で唇を舐める音がする。その色は、パチュリーとは違い艶やかで肉感的な、緋い色。彼女の髪色と同じそれは元の顔立ちの良さもあって異性同性構わず目を惹くだろう。
しかし、この悪魔が興味があるのはこの魔女だけ。使い魔として彼女に従い、悪魔として彼女を堕落させる、それだけの為に色香を振る舞う。
「あんたみたいなクソレズに付き合うほどこちらは欲求不満じゃないの。というより生殖として、快楽としての性行為には興味もない、稚児の遊戯ほどにしか見てないわ」
「つれないこと言わないでよぉ、この顔も、身体も。身も心もあなたに尽くしたいと思っての出来なんだからぁ」
「それに何度も言っているでしょ、魔女は愛に靡かない。愛に溺れる恥晒しになるつもりなんてないって」
「喜怒愛楽ってあるじゃない? 楽しみと愛は別。私はあなたに恋をしろとは言わないわ? 私の身体には恋をして欲しいけど」
「だったらこのネズミでも味わってなさいよ、小さいけれど私よりも肉は付いてそうよ」
「ちょっ」
「…………アリかも」
否。同性であれば割と誰でもよい。彼女はパチュリーの従者であり、契約に縛られているため可能な範囲を自分の好き勝手に動くだけ。もし契約が無ければ彼女の友人である吸血鬼さえも手を出すだろう。実際に出せるかどうかは二の次に。
結局、女の子であれば誰でもよいのだ。可愛いは正義。
「現れるなり怪しい雰囲気出したかと思えば何なんだ一体!? 紅魔館は何の巣窟になっているんだ!?」
「今も昔も悪魔の館。哀れな迷い子はペロリといただかれちゃうわ? 大丈夫、怖いのは一瞬だけ。知っちゃえばもうそれしか見えなくなっちゃう。それに、ネズミは子宝の象徴。だから好きなんでしょう? そういうの」
「青娥みたいなやつがこんなところにもいた……面倒くさい……」
くり、と顔を対面で赤くなっているナズーリンに向け、狩人の目で値踏みをする。パチュリーは、何処吹く風で運ばれた新しい本の頁をめくる。
「とにもかくにも面倒くさい館だと知っているでしょうに。今、レミィは取り込み中。美鈴が門番できないときは咲夜のお手製コズミックキューブで図書館にご案内。……ここは排水溝の出口じゃないんだけど、まあしょうがないわね、緊急事態」
「……だから私みたいなのが堂々歩いていても咎めなし、上っていたはずなのに地下にたどり着くわけか」
「可愛い女の子はみーんなここに集められてしまうんです」
「うるさいっ!」
「うるさい」
「あらあら、うふふ」
大声を浴びせられ、そばの本の山に隠れるように悪魔は逃げ込む。目的はからかいたかっただけか、はたまた。
「……で、あなたは何の用で紅魔館に来たのかしら」
一通りのやり取りを行った後に、パチュリーはナズーリンに問う。その顔は、変わらず本に向いたままであるが。
「さっきも言ったけど、今は面倒な客が来ているはず。私にはどうでもいいことだから蚊帳の外に居させてもらったけど……もしあなたが魔理沙みたいなことをたくらんでいるっていうなら水の中に沈めるしかない」
「随分古典的なことで。……私の目的も、その面倒な客に対するものさ。彼は何をしでかすかわからない。それこそ、ここの幼子を殺すかもしれないし、殺されるかもしれない」
「なぁんだ、男かぁ」
「……少なくとも私の監視対象、私の前で生殺どうのこうのはやめてもらいたいからね。……君は、親友が傷つくのが、嫌じゃないのか? 人間とはいえ、万が一の可能性もあるだろう」
「別に、どうとも思わない」
言葉通りの表情のまま、本の内容に目を動かす。
その表情と彼女の天然の声色は、まるで本当は親友とも思っていないような、突き放したような声。
「一般的な言葉を借りるなら確かに私とレミィは親友という関係。そして対峙者もどんな人間かはわからないけど、昔ならいざ知らず今は咲夜をはじめ巫女や魔理沙、あと……ええとなんだっけ……あの、巫女っぽいのとか、人間だからと侮れないことは理解してる」
「……それならばこそ、心配にはならないのか? あの男は、実力を比肩する対象が思いつかないが幻想郷の人間と違い、かといって外の世界の人間と違い……手を汚すことに躊躇がない」
「それがどうしたというの。魔女は運命を信じない、魔力の信者には後悔はないわ」
「…………?」
自身の言葉に理解の及んでいないことを見て溜息をつきながら、
「レミィを信じている、とでも言えばいいかしら。あんまりらしくないから言語で表したくはないのだけれど」
「パチュリー様は恥ずかしがり屋ですからね」
「うるさい。それに、あんたみたいなとぼけたネズミや他の野良妖怪と違って、レミィが戦う以上敗北を覚悟していないと思って? より紅い方が勝つに決まってるわ」
本に顔をうずめ、全体を隠す。しかし、その声に変調はなく。
「……なるほど、その程度の事に理解が及ばず悪かった、謝罪しよう。……で、できれば私を」
「それは無理ね。管理は私ではなく咲夜。頼みたいなら直接 、あれ」
「どうした?」
ナズーリンは気づかない。従者の彼女もパチュリーの疑問符に対しての疑問の顔を浮かべている。
パチュリーの手の中の本、書かれている内容が変わっている。違う、今まで取り込んでいた知識の次の段階への例文に置き換わっている。
前のページには、確かに自分が先ほどまで目で追っていた内容が記されている。
妖精のイタズラ? この場の誰にも気づかれず? 先ほど自分で言ったはずだ、部外者は全てここに来る、がそれでやってきた者はネズミ一匹。
そして、この手の事象には心当たりがある。最も、そんなつまらぬイタズラをするメイドでは。
「、はぁっ、パチュリー様っ! 無礼をお許しください!」
突然の声、僅かな図書館全体の光量の変化。開け放たれた戸から入る光は、目前に立つ少女に塞がれる。
「どうし、美鈴」
「は、来訪者との『面接』が終わりました。はぁ……美鈴は、大丈夫でしょうか」
読んでいた本を置き、簡易的な寝台を生成。何も言わずとも、咲夜はそこに美鈴を横にする。
彼女の想像とは大きく違う結果だったのだろう。戸も開けっ放しであるし、彼女より一回り大きく、出血多量の彼女を抱えていたといえども、平時であれば自らのメイド服を汚すような真似はしないだろう。
「猫も驚くと意外とぞんざいね。12点」
「……申し訳ありません、心に刻んでおきます」
「ッ、あいつ、やっぱり」
血液の付着したエプロンを、衣服を、濡れた腕を、反省の一礼と共に一瞬で綺麗にする。時を操るメイドの早着替えの手品。それができるからこそ、彼女は万一に汚れることはあってもそのまま人前に姿を現すことはない。また、床に垂れた血もそのままにすることはないだろう。
今はそれを拭う暇も惜しいのか、自分の整容のみに止め倒れた家族の心配にまわる。
「問題ない、彼女用の回復術式はいつも通り組んであるし、この怪我もそれで十分。首が落ちても繋げることは可能だから」
「しかし、くっつくだけでは回復とは呼べません」
「……美鈴の肉体を使用したフレッシュゴーレムでも考えようかしら。レミィが喜びそう」
「ああ、それはサボったりしなくて便利そうですね。家だけではなく閻魔にも技術提供してみてはどうでしょう」
「…………なんでそんなに余裕なんだ、やっぱり頭おかしい」
重症の美鈴を治療しながら、閑話を挟みながら。……それでも、少なくとも咲夜はわずかながらの興奮があるのだろう。血に馴染む、紅い瞳。
「では、私はお嬢様の元に戻ります。美鈴の治療をよろしくお願い致します」
「一週間は妖精門番隊に頼りきりね。はぁ、ネコイラズ」
「あ、おい待て、私を連れて」
「申し訳ありませんが、部外者の立ち入りは禁じます。何者であろうと、例外はありません」
「けれども!」
「……ゃ、さん」
言い争いを始める二人の耳元に、治療を受ける美鈴が小さく口を開き、運んできた彼女を呼ぶ。
「ばか、あまり喋らないで。治る傷も治らない」
「……お嬢様に、……お伝えを…………」
「……美鈴?」
苦しみに喘ぐ彼女の、吐息の様なかすかな声はそれでも主の為に。
その意志を継ぐため、彼女の口元に耳を寄せる。
「人型のエネルギー体、咲夜さんと似た力……それと、運命が『視』えているような……」
「キマシ」
「うるさい」
「一つ、尋ねておきたいことができた」
所は暗き女王の間、揺らめく炎と月の明かりが何処までも紅いその部屋を照らす。
返り血を浴び染まったディアボロの身体も、それを拭わなければ溶け込み悪魔の館の一つとなりそうな、そんな中に純白の衣装が座に煌めく。
「お前たちの尺度ではつまらないことかもしれないが、まあそこは人ならざる者として気になることだ。語りたく無くば語らなくてもいい」
「……」
「くく……いい眼をしている。血に酔った眼でも、死に場所を求める眼でもない。先ほどのお前の演説が嘘ではないという証拠だよ。……だからこそ、訪ねたい」
ディアボロは何も答えない。
「沈黙は肯定とみなすよ。……お前の安寧は、本当にその先にあるのか? 人は、いや生きる者は全てにおいて安寧を求めて生きている。その先に安寧があるからこそ、人は苦の道を歩むことも多々あるだろう。……お前の事だよ」
「……それについては否定はしない。生きるということは、『恐怖』を打ち砕くこと。それを超えた先を求めることだ」
「その通りだ。……だが、その先に待つ物は本当にお前の求める物に値するのか? 安寧を求める道の上で志半ばにして倒れる。それはそれはよく聞く話。あまりにありふれた失敗譚」
幼い喉から響く声は、いつまでも聞いていたい魅力がある。内容の如何に関わらず、優れた音楽のようにいつまでも耳に流しておきたい誘惑がある。
その中に、自分の全てを見通しながら、自分の苦痛を知りながら、それを解きほぐして優しく包んでくれるような、そんな別の見方も。
「もちろん私はお前の事を知っているわけではない。お前の半生を理解していない、ということがお前もわかっているだろう。何を言うかと思うだろう。……むしろそれが普通の反応だ。だからこそお前に尋ねたい」
「もったいぶらずにさっさと話せばいい」
彼女の自分に纏わりつくような甘い響きも、その口元から覗く牙と紅い瞳から感じられるアンバランスな恐怖も、何者も彼を縛ることはない。
「お前の求める安寧、私が与えてやろう」
そんな彼に送る、部屋に沁みる彼女の手。
「いつ果てるかもわからない、先の見えぬ道を歩ませ失うにはもったいない。私はお前に興味を持ったよ。別にだからといってこの後に付き合わないわけでもない。隷属もお前は嫌うだろう。だから、対等に。互いに友として生きる気はないか? この地を終着とし、私と共に生きる気はないか?」
それは、余りに蠱惑的な、抗いがたき言葉。恐怖の圧から、逃げ出したいほどの重圧から差しのべられた蜘蛛の糸、それどころか自分を高みに引き上げる、耐えがたき引力。
「……なるほど、それは確かに魅力的だ。お前ほどの実力者が共に並ぼうと申し出ることは、それほどの価値を見出したということ、それに誉れを見出せるだろうと」
「その通りだ。弱者も狂人も興味はない。強者とは、理解者と同列者を求める者よ、強くなればなるほどにね」
「断る」
レミリアは口角を吊り上げ笑みをこぼす。人間には不必要な牙がよく見えるほどに。目を見開き、満面に期待通りの言葉が出てきた喜びを表す。
座したままに右腕を振るうと、その軌跡に空が赤く引かれ、魔法陣が4つ、5つと形成されていく。
「ふん、ならば死ぬしかないなッ! 最もッ!!」
陣から血のような暗い赤に塗られたコウモリが現れる。陣の一つ一つからそれは大量に現れ主を守るように浮遊する。
その様を見たディアボロも身構え、いつ来るかもわからぬ攻撃に備える。眼前に映る像には、まだ。
「私の元にたどり着けるかどうか、そこからだけどね!」
肘掛けに頬杖をついたまま、空いた左手に自身の頭よりも大きな紅弾を生み出す。弾に血管を通る血液のように脈打つ魔力が、いっそうにそれの破壊力を想像させる。
それを、屑籠にゴミを投げ入れるかのように軽い動作で放る。それを合図に、多数のコウモリたちが、ディアボロに共に向かう。
単純な、数の暴力。絶えず生成されるコウモリたちは等しくディアボロを襲い、緩急をつける様にレミリアは紅弾を放る。
「避けるも耐えるも、いずれは崩れる。使ってみなよ、咲夜みたいな『能力』を! 時を操れる人間が咲夜以外に居たことには驚くけど、それははたしてどこまでできる? 一秒か、五秒か? 私の喉元に届きうる刃なのか!?」
飛ばした時間はわずかではあったが、あの決定的な瞬間の回避に使用したことは知られている。当然ではあるが、それを引き出した門番は優秀だったということだろう。ただの『部下』という評価は改めねばなるまい。
しかし、身近に似た能力を持っている者が居るからこそ、それだけということに気付かないか。
キングクリムゾンも強力な力を持ち、時を吹っ飛ばすことのできる『帝王』の能力。だが、それだけでは振り回されてしまうだろう。
それを補う、光栄の未来も残酷な現実も映し出すエピタフ。その予知を併せ持ってこその能力。
自らの運命を捻じ曲げ、強引にでも負を打消し正を得る、王のためのスタンド。
「どうした、いつまで逃げ回っている! この程度で終わることはないだろう!? 死ぬべきではないと告げているよ、運命も 、ここっ!」
大量のコウモリに囲まれ、迫りくる紅弾を避ける術なく。もはや絶望ともいえる窮地にあっても彼の表情は変わらない。
レミリアは作りだした。彼が使わざるを得ない状況に。もし使ったとしたら、次に来るのは自らの首を取りに近づくだろう。背後か、横か。死角はいくらでもある。移動したと感じてから、手をかける。
持ち前の反射で身の丈ほどの槍状に魔力を固め、その刃を感じた方に向ける。
「……ぁ?」
そこに居たのはいつから戻ってきたであろう、完全なる従者の姿。
彼女を人質にとるかのように、咲夜の首元にナイフを突きつけながら背後に立つディアボロ。ナイフは、形状からしてそのまま咲夜の物を奪ったのだろうか。
「この女を下がらせろ、一秒待つ」
普通に考えれば、それはただの死刑宣告。恐怖も駆け引きも存在しない。だが、彼女は無限に時を操作できる。それこそ、こんな脅迫など意味もないほどに。
故に、どちらも呆ける。隙ができた、というわけではないが、彼の行動に理解が及ばない。
透き通った首筋からぶつ、と僅かな痛みが走る。咲夜は感じる。なるほど、確かに美鈴への容赦の通り、自分へも容赦をすることはないわけだと。一秒は確かに経過した。
だが、その時は進まない。
世界に色が消え、存在するのは咲夜のみ。
男に拘束されるのは初めてではないし、その抜け方を知らないわけではない。相手の抵抗が無ければ、それは容易に行える。
首に刃物を突きつけられているが故にすぐに大きくは動けない。少しずつ体をにじり、その拘束から外れる。抜け出してしまえば後は簡単だ。動かぬ的を適当に料理すればいい。
元々咲夜は傍には居るものの手を出すつもりはなかった。これは主が望んだ決闘であり、自らが入ることは無粋であるから。
しかし、主を差し置いて自信を攻撃するとは。可能性として考えていなかったわけではないのだが。
―ともあれ、手を出されたからには返さないのはメイドの義に反しますわ
首元を擦るが、その傷はほんのわずか。さしたる痕も残らないだろう。先ほどまで首元に当てられていたナイフを取り、眼前に目掛けて配置しておく。そうすれば、時が動き出したときに自らの行いを呪うだろう。
そう思考し、すわ行動に移るとき。
―……っ!?
咲夜は違和感を感じる。行動としては間違いではない。むしろ先ほどの自分の思考通りに動いている。改めて彼に向き直り、そっと手のナイフを取ると、彼の眼前に向かう様に投げつける。
だが、それを行う自分の身体が、まるで誰かに操られているかの様。自分が身体を動かしているはずなのに、その場面を別の場所から見ている様。
馬鹿な、と思い違う行動を取ろうとするも、身体は動かない。決められた最善の行動を、イレギュラーが無い時に限る最善の行動を『してしまう』。
―動け、いえ、止まって! 何かが異常なの、お願い
咲夜の意志に反し、身体は行動を完了する。もしこの異常がなければ取っていたであろう相手への離脱と軽い仕返し。
少々のアピールを加えながらも、時間操作を解除しようとするその刹那、
―……っ!?
ほんの一瞬、こちらを追うように動くディアボロの目。錯覚かと思い確かめようにも、身体はそれを確認に向かわない。
心だけでも、解除後にすぐに止められるように咲夜は構えておく。が、
―馬鹿な……何、これは……
世界が崩れる。紅魔の世界とは違う、咲夜の世界とも違う、別の何かに塗りつぶされていく。
その中を、自分が行った時と同じように、その男は悠然と目の前のナイフを避けるとレミリアの事を相手にせず自らの元へ向かってくる。
咲夜の世界との違いは、ゆっくりとであるが時が進んでいる事、同じことは、その中で世界の支配者のみが行動を支配できるということ。
レミリアは武器を突きつけながら余裕の表情で、未だに咲夜を拘束した所を見つめている。満ちたその表情は目の前で起きている出来事を全く認識できていないかのように。自分の従者が、自分の想定通りの結果をもたらすことを当然と思わんばかりに。
咲夜は再び、自らの動きが自分の意志と無関係に動く恐怖を味わわされる。その行動は先ほどと同じく、この異常に気付いていなければとっていたであろう、時を止めた結果を見てその慌てふためく姿を楽しもうとする自らの姿。
「飛んだ時の中でお前が時を止めると……お前の目にはどう映る? それは私が知ることはないが……その顔、どうやら見えているようだな。やはりお前がこの場にいることは私に不都合でしかない」
ゆっくりと背後に周ると、太腿に忍ばせてあるナイフに手をかける。
「時は再び刻み始める、お前の意志ではなく私の意志で!」
世界に色が戻る。それは、よく見た館の紅。
ほんの一瞬であっただろう。だが、その未知の体験は咲夜の体感時間を何倍にも引き伸ばしている。
かつ、と空中に急に現れたナイフが壁にぶつかる、間抜けが音が響くころには再び咲夜は、ディアボロに拘束されていた。
「……くっ!?」
「もう一度言う、この女を下がらせろ」
感覚としては、咲夜が時を止めたはずだ。だが、何かが違う。咲夜の世界の中に異質の色が混じったような。
現に、咲夜の背後を容易く取り、その後移動した先で再び同じように拘束している。
レミリアが僅かに逡巡するその前に、ディアボロはこれも先ほどと同じように彼女の首筋に紅い滴を作る。
「止めろ」
武器を下ろし、咲夜を解放するよう眼で訴える。
それを確認したディアボロは、一瞬の後に咲夜を拘束する手の力を緩める。
身を翻し、素早く距離を取る咲夜。普通であるならば止められるはずの時も、一度の妨害を経て心理的に使えない。
初めての体験だった。時を止めた『後』で、潰されるのは何度か体験している。しかし時を止めた『中』で潰されたことは過去に一度も、無い。
「咲夜は下がってて。どうやらこいつはそこまで徹底して『場』を作りたいみたいだから」
「……ですが、……いえ、畏まりました」
咲夜の訴えたい危険は、レミリアもわかるはず。そう思っていても、実際に体験した彼女の口では僅かに言い淀んでしまう。
だけれども。主に身を案じられることこそ自らの恥辱の極み。許されるのであるならば自死してでも清算したいほどに。
やや後ろ髪を引かれる様に、駆け足で部屋を去る。そこにはいつも時を操ることのできる、瀟洒な姿はなかった。
「……くふふ。咲夜が敵に背を向けて走るなんて久しぶりに見た。やるね、やっぱり」
賛辞の言葉を贈る。だが、それにディアボロは笑みも油断も返さない。
「私の事は広く知れ渡っているからね。その前に美鈴宛がってお前を知り、対等にしようと思ってたけど。なかなかそう簡単にはいかないねぇ。……くく、霊夢の時とはまた違う。滾るよ、血が騒ぐ」
「……排除は終わった。対峙には十分だろう」
「一つ一つの可能性を潰して。それを私に応じればそのまま終わるかもしれなかったのにそうしなかったのは何か理由でもあるの? ……ふふ、どちらでもいいわ。楽しい人間」
「……いつだって同じだ。人には、立ち向かわなければならない『試練』がある」
「夜の闇に溶けなさい」
「夜の冥に散っていけ」
(このSSにBloodborne要素は)ないです。
小悪魔が同性愛っぽいのは悪魔だからね。