9月12日(自由行動日) 10:00 ラウラ・S・アルゼイド
読み終えた本をぱたりと閉じて、机の上に置く。
残った紅茶に口をつけるが、もう完全に冷めてしまっていた。ふと時計に目をやると時刻は十時を過ぎた所だ。本を読み始めたのが九時前だったから、気付けば一時間以上経っている。それは紅茶も冷めるわけだ。
「ふう……」
椅子に腰かけたまま、少し背を伸ばしてみる。ずっと同じ姿勢だったので、体が固まってしまっていた。
朝食を終えて自室に戻った私は、委員長から借りた本をずっと読んでいた。
普段はこの時間を素振りなどの鍛錬に充てることが多いのだが、今日は読書に興じることにしたのだ。
武門の家に生まれ、剣と共に成長してきたが、文と武は両道だと心得ている。知なくして理を備えた剣など振るえるはずもない。
とはいえ借りた本は堅苦しいものではなく、娯楽小説の一種だ。
肝心の内容だが――うん。面白かった。
運動部に所属している男子二名が主人公。挫折と努力、喧嘩と和解を繰り返し、試合で勝ち進んでいく様は、不覚にも気分が高揚してしまった。
やはり帝国男子の青春はこうあるべきなのだ。一つのことを皆で乗り越え、友情が芽生える。理想的だ。
「さて、ティーカップを返しに行くか。本は……後日でもよかろう。委員長も今日は出かけているようだしな」
時間があれば、もう一度読み返そうと思う。たまには読書も良いものだ。
ちなみに紅茶はシャロン殿が淹れてくれた。さすがの風味だったが、温かい内に飲み損ねてしまったことが悔やまれる。
「ん? この音色は……」
三階の自室から階段を下り、二階に差し掛かった所で柔らかなバイオリンの旋律が聞こえてきた。考えるまでもなくエリオットであろう。休日は自室でよくバイオリンを奏でている。
「ふむ……」
先の小説を読んだからだろうか。思う所もあったので、そのままエリオットの部屋の前まで足を進めてみた。
暑さも続いているし、換気の為かドアは開いている。やはり楽譜を見ながら彼はバイオリンを手にしていた。
ふと向かい奥の部屋に目がいく。そこも同じようにドアが開いていた。あの部屋はガイウスか。少し覗いてみれば、ガイウスは立てかけたキャンバスに向かい、何か考え込んでいた。
エリオットは吹奏楽部で、ガイウスは美術部なので当たり前と言えば当たり前、なのだが。
小説のワンシーンを思い出す。泥にまみれながらグラウンドを走り、仲間と成長していく姿を。
他人の趣味をとやかく言うつもりはないし、各々有意義に時間を過ごしていると思う。
しかし、今は、今だけは。どうしても気持ちがたぎってしまうのだ。
「そうだ。いいことを思いついたぞ」
このラウラ、今日は冴えている。
思いついたが、すぐ実行だ。ティーカップを厨房に戻した後、私は改めて二人の部屋を訪れた。
――11:00
「ではありがたくお借りしていきます」
「どうせ廃棄する予定だったし、何なら壊れても構わないからね」
身支度を整え寮を出た私は、その足で技術棟のジョルジュ先輩を訪ねていた。
もちろん午後の準備である。自由行動日でも先輩がここにいてくれたのはありがたかった。おかげで色々役立ちそうなものが手に入ったのだ。
あの後、エリオットとガイウスには昼過ぎに学院に来るよう伝えたのだが、彼らの自由時間を使うことにもなるので、万全の準備をして、互いに有意義な午後となるよう努めなくてはならない。
「ところで、具体的には何に使うんだい?」
「それは成果が出てから報告するとしましょう」
ジョルジュ先輩には、こんな機能のものが欲しいと曖昧にしか伝えていなかったのだが、それでも納得いく物を取りそろえてくれた辺り、さすがという他あるまい。
しかし抱えて持ち運べるような量ではなかったので、ちょっとした台車もお借りし、技術棟を後にする。
心が躍る。二人が来るのが待ち遠しい。
――11:30
物はそろった。あとはそうだ、マネージャーだ。小説では、彼らを心身ともに支えるマネージャーが必要不可欠な存在だった。
技術棟を出たところで、目の前をモニカが通りかかる。
素晴らしいタイミングではないか。これぞ女神の天啓。そなたはマネージャーになる為にここを通ったのだ。
「あ、ラウラ」
「いいところに来てくれた。そなた今日はマネージャーになるがいい」
「は、ええ? いきなり言ってることがわからないんだけど……」
「マネージャーを知らないのか?」
「それは知ってるけど」
モニカは明らかに戸惑っている様子だが、とりあえず事情を説明する。彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「わ、私マネージャーとかやったことないよ」
「大丈夫だ。そなたはマネージャーに向いている。むしろ今までの人生は今日の為にあったと思うといい」
「私の人生って何なの……」
モニカもひとまずは承諾してくれた。持つべきものは親友だ。
一旦モニカとは分かれて、グラウンドに向かう。グラウンドも使いたいので、他の部活が使用していないかの確認だ。
「ラクロス部は……いないな。馬術部は――」
馬術部が活動している様子はない。
そういえばユーシスも外出の準備をしていたから、今日は休みなのだろう。そう思ったが、馬舎の方に誰かいる。念のため確認しておくか。
グラウンドまで下り、馬舎へと向かう。
「すまない、聞きたいことがあるのだが」
「なに?」
振り返った女子生徒は、同じ一年のポーラだった。髪をポニーテールでくくり、物怖じしない瞳が印象的だ。馬術部だからポニーテールなのかは分からないが。
そういえばユーシス相手にも強気な物言いをすると聞く。あまり話したことはないが、多分好きなタイプの性格だ。
「今日は馬術部は休みなのか?」
「そうよ。と言っても馬の世話は毎日やるけどね。今日の当番は私なの」
なるほど。それはそうだ。しかし、淡々と話す物言いはますます気に言った。フィーといい、愛想がなくても、私は裏表なく話す人を好む気質らしい。
「もう終わったから帰るけど。用事はそれだけ?」
用事ならできたぞ。たった今。
「そなた、今日マネージャーをやってみないか?」
「マネージャー?」
さっそく勧誘だ。モニカと同じような反応をするポーラだったが、同じく事情を説明すると、思いの外乗り気になってくれた。
うん、ポーラとは友人になれそうだ。
そろそろエリオット達が来る頃。快諾してくれたポーラを連れ、私はギムナジウムに向かった。
――12:00
ギムナジウム、プールサイド。
自主練習をしていたクレイン部長にプールの使用許可を頂いた。
練習中だったので断られるかとも思っていたのだが、今日の部長はすこぶる機嫌がよく、一も二もなく了承してくれた。何か良いことがあったのだろうか、あるいはこれからあるのかもしれないが。
部長がその場を離れた時、ようやく二人がやってきた。すでに彼らには水着に着替えてもらっている。
困惑している様子のエリオットが口を開いた。
「あの……ラウラ。僕らあまり主旨を聞かされずにやってきたんだけど」
「説明しよう。まずは二人とも、休日にも関わらず誘いに応じてくれて感謝する」
二人は顔を見合わせ、「それは構わないが」とガイウスが首を傾げる。やはり見当もついていないようだ。こほんと咳払いしてから続ける。
「今日は半日かけて、そなたらの心身を鍛えようと思う」
「ええ? な、なんで」
いい反応だ、エリオット。
「気が緩んでいると言っているわけではない。普段から厳しい学院のカリキュラムをこなしているわけだしな。しかし――」
「しかし?」
「帝国男子たるもの常在戦場の心構えを持つべし。ナイトハルト教官もそう仰っていたであろう。そなたら有事の際にはキャンバスを盾に、バイオリンを鈍器にして敵と戦う覚悟があるのか?」
ガイウスは目を丸くして「キャンバスを盾に……!?」と戦慄し、エリオットに至っては想像しただけで「ひいいいい」と今にも気絶しそうになっている。
「特にエリオット。そなた夜の学院調査の時、あとは先日の調理室の一件の時にも気絶しているな?」
「学院調査はともかく……料理の時は僕のせいじゃ」
「言い訳などきかぬ」
「ええ~……」
「とにかく、そなたらの心身が向上すれば、Ⅶ組としての戦力も強化されるのだ。異論はあるか?」
押し黙る二人だったが、間もなくして『ありません』と声をそろえた。
「しかしラウラ。具体的に俺達は何をすればいい?」
「そなた達には私の用意した特別カリキュラムをこなしてもらう。全てが終わった時には別人になっているかもしれんぞ?」
「それは……不安だな」
露骨にうんざりした顔を浮かべおって。まあいい、じきにそんな表情もできなくなるのだ。
「あと一つ聞きたいのだが、後ろの二人と、それとお前達の格好はなんだ?」
二つではないか。まあいいか。
「後ろの二人は今日そなたらのサポートをするマネージャー役の二人、モニカとポーラだ。顔ぐらいは知っているな」
軽く紹介すると二人は「モニカです、宜しく」、「ポーラよ。私は甘やかしたりしないんだから」と二者二様に挨拶した。
「それで、もう一つの質問だが、このジャージのことだな?」
「ああ、学院指定の物ではなさそうだが」
制服カラーと合わせ、私は赤、ポーラとモニカは緑のジャージをそれぞれ着てもらっている。
「制服では色々支障があるのでな。今日の為に用意させてもらった」
そう言いはしたが、実際は少し違う。
さすがに全員分の運動着など持っていなかったので、何か代わりになるものはないかと水泳部の女子更衣室に入ったのだが、私のロッカーの中で小箱に入ったこのジャージを見つけたのだ。
ついでに小箱の上には見覚えのある達筆で「こんなこともあろうかと」と書かれた張り紙が。
さすが爺やだ。アルゼイド家の執事なだけはある。とりあえず次に帰省した時に、じっくり話を聞く必要がありそうだが。
ともあれ、ジャージに関してはそういう事情だ。
「よし、質問は以上だな。まずは準備運動だ。50アージュ自由形、十往復!」
号令と同時に、ポーラとモニカがそれぞれエリオットとガイウスをプールに突き落とす。
打ち合わせ通り。二人とも立派にマネージャーしているではないか。
――12:50
「あと三往復! 速度をキープしなさい。底に足をついたら一往復追加だからね」
二人に合わせてプールサイドを歩きながら、ポーラが笛を吹き鳴らす。見れば随分楽しんでいるようだし、マネージャーを頼んでよかった。
「ひいい……」
「もう少しだ、エリオット」
意外にも根を上げない。いや、それこそ普段の特別実習の成果が現れているというわけか。
そろそろ頃合だな。
「モニカ、あれを」
目でそれを促す。モニカは頷くと、プールサイドの端に向かった。水中に腕を入れ、手さぐりでそれのスイッチを入れる。
起動。グイングインと音を立てて、小さな波が水面に広がっていく。
これぞジョルジュ先輩が発明した“導力式大渦発生機(仮)”。
元々は船に取り付けて速度を上げる追加ユニットだったそうだが、先輩は作り上げたあと自分が船を持っていないことに気付いたらしい。
最初は小さかった波が、またたく間に回転の速度を上げ、プール全体に凶悪とも呼べる大渦を発生させた。
さあ、見事この試練に打ち勝ち、泳ぎきってみせるのだ。
「だああああ!?」
「うおおおお!?」
エリオットとガイウスが叫びながら水中に消えた。
まるで濁流に落とした一枚の葉のように、浮き沈みを繰り返しながら、渦の回転に飲まれてプール中央に流されていく。
予想以上の威力だ。感嘆の声を漏らしていると、モニカが私のところに戻ってきた。
「すごいね、これ」
「正直驚いている。まさかこれほどとは」
「うん、出力最大にしてきたから」
モニカもやるようになったな。さあ二人とも力を振り絞れ。
「ごほっ、ガイウス……! 姉さんと父さんに伝えて、僕は勇敢に戦ったって」
「生きて帰って自分で伝えるんだ! ごふっ」
すでに今わの際ではないか。最後の言葉を絞り出してどうする。
ガイウスがエリオットの腕を掴んで一旦底に潜った。ぐんと足を屈伸させて、蹴伸びのように水中で構える。手の先は天井に向いていた。これはまさか。
「カ、カラミティホークッ!!」
体に風をまとったガイウスは、底を蹴って一気に水中から飛び出した。水しぶきが尾を引き、キラキラと光を反射させながら彼は鳥になる。
そのまま大渦を越えて、エリオットを抱えたままプールサイドへと着地した。
「はあ、はあ……無事かエリオット!?」
「た、助かった……」
息荒くその場にへたり込んだ彼らに歩み寄り、私は賛辞を贈る。
「見事な機転だったぞ。凄まじい気迫だ」
「……一応礼を言っておく」
「よし、では残りの三往復、手早く済ましてしまおうか」
そう言うと、二人は絶望の色を顔に浮かべ、石像のように硬直した。
何かおかしいことを言っただろうか? 最初に十往復と伝えていたはずだが。そんな時ポーラが「待ってラウラ、それはおかしいわ」と駆け寄ってくる。ん、二人の目に生気が戻った。
「ガイウスはプールの底に足をついたでしょ。だから一往復追加で、四往復よ」
そうであった。さすがポーラはよく見ている。
そしてポーラとモニカは、固まる二人を再び大渦の中へと突き落とすのだった。
――13:30
プールから生還したガイウスとエリオットを連れて、私達は本校舎の中庭に来ていた。
最大出力で使用し続けていた導力式大渦発生機が、オーバーヒートを起こして停止してしまったので、やむなくの撤退ではあるが。
「ねえ、次は何をするの……僕このあと吹奏楽部の夕練習もあるのに」
「もう渦は勘弁して欲しいのだが」
ずいぶんこたえたようだ。しかし次の特訓は、先ほどの試練に比べたら少しぬるいかもしれない。順番を変えればよかったか。
「次はこの壁を登るのだ」
そう言って、本校舎の壁面を見上げた。
「か、かべ!? どうやって登るのさ!?」
「手で、だが?」
異なことを問う。壁面には所々窪みがあるから、うまくやれば登れるだろう。
屋上まで登って欲しいところだが、落ちた時のリスクも考えて二階までにしておこう。
「エリオット、分かっているだろう。もう何を言っても無駄だ」
さすがガイウスは潔い。さっそく壁に手を掛けている。エリオットもしぶしぶだが、ガイウスの隣に続いた。
「なんでこんなことに……」
「今日の風は……冷たい」
言いながらも何とか壁を登っているではないか。
ガイウスはともかく、エリオットも中々頑張っている。そういえば最近ナイトハルト教官が男子限定で、山岳戦闘を想定したクライミングの授業を行ったと聞くが、身についているようで何よりだ。
このままでは何事もなく達成してしまう。せっかくだからもう少し試練があって欲しいのだが。――そうだ。
「ポーラ、あれを」
「もう準備しているわ」
さすが仕事が早い。
ポーラは折り畳んであったそれを、てきぱきと展開し二人が登っている壁の真下に設置する。
その様子に壁の中ほどまで登っていたエリオットが気付いた。
「な、何それ、ベッド?」
「うん。落ちた時用の衝撃吸収と思ってもらっていい。寝心地もいいらしいから、なんならそのまま眠っても構わないぞ」
ジョルジュ先輩が作った“安眠ベッド(仮)”である。
何でも冬にベッドから出たくないというクロウからの依頼で作ったらしいが、さすがにそのオーダーには頭を悩ませたらしく、とりあえず保温効果や肌触りを極力残したまま、布団をとりもちにしてみたらしい。問題は一つ。
「ただし、布団は二度と離れない」
「ただの永眠じゃないかあ!」
クロウも同じことを言って、ジョルジュ先輩にベッドを突き返したとのことだ。
「エリオット!」
先に二階の窓までたどり着いたガイウスが、エリオットに手を差し伸べる。どうやらそのまま引き上げるつもりらしい。今日はそのような協力を全般的に認めている。やはりチームプレイこそが青春だ。
しかしエリオットがその手を掴んだ時、ここで私にも予想外のことが起きた。
「ん?」
ガイウスが窓から中を、つまり二階廊下を見たが、彼はわずかに目を細めた。
手をかけている窓に光が映った次の瞬間、ガラスが破裂して砕け散る。刹那、光の剣のようなものが見えたが、すぐにそれは霧散する粒子と化して、視界から消え失せた。
事の次第は一旦思考から外すとして、このままではガイウスはもちろん、手を繋いだままのエリオットも永眠ベッドの餌食に――いや安眠ベッドか、一応は。
ガイウスは体勢を大きく崩しながらも、中空で上体を反転させる。地面とほぼ平行になりながらも足を壁面に付けた。そして、
「カッ、カラミティホオアアアクッ!!」
いつもより三倍増しの気合いと掛け声。
力強く壁を蹴り出し、とりもちに触れる寸前で、風を轟かせながら彼は舞い飛んだ。
突風の如く滑空した二人はそのままの勢いで、向かいの花壇に頭からずんと突っ込む。プランターにきれいな顔型が二つできた。
「な、なんだね? 今の音は!?」
誰かの足音が近づいてくる。まずい、さっきの声はハインリッヒ教頭だ。窓ガラスを割ったのは我々ではないが、疑われると言い逃れできない状況だ。
「ポーラ、モニカ、撤退する!」
「ラウラ、あの死神ベッドどうしよう!?」
モニカ、安眠ベッドだ。ネーミングがどんどん禍々しくなっていく。
「片づける時間はない。ひとまず置いていくしかあるまい。そなた達も早く立って走るのだ!」
のそのそと起き上がるガイウスとエリオットを急かし、私達は中庭を後にした。
――14:10
「ふう、とりあえず大丈夫だろう」
走った結果、グラウンドまで来てしまったが問題はない。そもそもこの後は、どの道グラウンドを使う予定だったのだ。
肝心の男子達は地面に膝を突き、肩で息をしている。
「そなた達、ずいぶん疲れているようだな。すこし休憩しようか。モニカあれを持って来てくれ」
こうなることはある程度予測していたので、事前に作ってきたのだ。この
これをマネージャーから渡されて、主人公が辛い特訓を耐え抜く描写がある。
余談だが主人公はそのマネージャーと恋仲になる。その話の展開に赤面こそしたものの、ページをめくる手が止まらなかったことは、まあ……委員長にも秘密にしておくつもりだが。
モニカがタッパーを持ってきた。
「では、それを二人に。差し入れというやつだ。たまには息抜きもなくてはな」
タッパーのふたを開け、中の物を二人に差し出した。
なかなか手をつけない。遠慮など男子らしくないぞ。
「せっかくラウラが作ったんだから食べて。……食べなさい」
今、モニカが最後に小声で何か言ったような。命令口調だった気がするが、あのモニカに限って、まさかそれはないだろう。
ようやく二人はタッパーの中に手を入れた。手が震えているし、一体何を躊躇しているのか。
ただのレモンのはちみつ漬けなのに。
――14:20
「休憩も済んだし、さあ再開しよう。というか休憩前より疲れていないか?」
「そ、そんなことない、よ」
「甘い……苦い……」
まったくこの者たちは。今日はこのような場を設けて正解だった。
「さっそく始めよう。そなた達、そこに立つのだ」
続いてある物を持たせたモニカとポーラを、直立した二人の背後に向かわせる。
「では二人とも装着してくれ」
ジョルジュ先輩の発明品が、その姿を現した。
「え? え? なに?」
「こ、これはなんだ?」
バチン! バチン! バチン! 鉄の留め金が激しい音を響かせながら、彼らの体にそれらが固定されていく。間もなく装着終了だ。
「いだだだ! なっ、なにこれ!?」
「ぐうう、体が……」
二人に付けたのは一見すると、装備品などでも時折見かけるプロテクター。
しかしその実、裏側には多種多様な特殊スプリングが施されており、あらゆる体の機能を制限してくれるのだ。
バネに逆らって行動することで、負荷が掛かり、筋力増強を促進する仕組みらしい。
機能的な面に文句をつけるところなどないが、一つ問題があるとすれば、
「いだだだだ! ひーっ!」
「これは、まずい……」
死ぬほど痛いとのことだ。
以前眠っているクロウに試した所、一秒で跳ね起きて、状況もわからないまま三秒後には涙を滲ませて許しを乞うたらしい。ジョルジュ先輩はちょくちょくクロウを実験台にしているそうだ。
その時よりはバネを緩めているみたいだが、二人の痛がり方を見るに、それでも相当なものだ。
これには興味があって少し迷ったのだが、先に自分で試さなくてよかった。
「は、早く何かやるなら済ませてよ! 体がおかしくなる!」
「ど、同感だ」
「まあ慌てるでない。今回は体を鍛えたいわけではないのだ。最初に言ったであろう。心身を鍛えると。これまでは“身”、今からは“心”だ」
つまり精神を鍛えるのだ。
「ではモニカ、ポーラ頼む」
私の合図で二人がセッティングに取り掛かってくれる。
ガイウスには椅子とキャンバス、そしてペンと絵具を。エリオットにはバイオリンと適当な楽譜を。それぞれ美術室と音楽室から拝借してきたものだ。
「ふふ、さあそなた達の好きな音楽と絵画だ。存分に堪能するといい」
「こ、こんな状態で演奏できるわけないよ、いだだ」
「筆すら持てないんだが……うっ」
それでも二人は自分の持ち場に向かう。ガイウスは油の切れたブリキ人形のように、角ばった動きでキャンバスの前に座り、エリオットは機能不全を起こした機械人形のように、ぎこちなくバイオリンを手にした。
モニカはガイウスに、ポーラはエリオットの横にそれぞれ控える。
かろうじて二人は演奏と下書きを始めた。ここからはポーラとモニカの出番だ。
まずはモニカから動いた。
彼女は風景を描くガイウスの下書きを覗きこんで「へー、ドローメ系の魔獣?」とキャンバスを指さす。ガイウスは「な、なんだと?」と思わずペンを落としかけていた。
プライドを揺さぶるのは申し訳ないとは思うが二人の為なのだ。どうか甘んじて受け入れて欲しい。
特にエリオットには精神の強化が必須なのだから。モニカとポーラには心に思っていなくとも、彼らのメンタルを責めてくれと伝えている。
モニカは柄にもないのだろうが、頑張ってくれているようだ。一方のポーラはどうだろう?
「ええ? 今の演奏!? 錆びたのこぎりでピアノ線を擦り切る音かと思っちゃったわ」
なんと流調に言葉を紡ぐのだ。
「もう! こんな旋律、もはや戦慄よ。なんか鼓膜を通り越して、すでに胃腸に悪いんですけど」
心には思っていない……はずだな? 妙に目が輝いているが。
エリオットからは悲しみの表情すらなくなり、無心でバイオリンの弦を右に左に撫でているだけだ。
いかん、ポーラが想像以上だ。
「う、うむ。そろそろ――」
その時、轟音が学院全体に響き渡った。続いて地面に激震が走り、衝撃がグラウンドまで伝わってきた。
音は上からだ。視線を持ち上げると、屋上が光に包まれている。
程なくして閃光は収まり、静寂が戻ってくる。何かあったのだろうか。
まあ、とにかく二人を解放するか。いや――
「――にも関わらずイシゲェロの鳴き声以下の不協和音をよくも――」
先の異常にも動じず、エリオットを罵り続けているポーラを止める方が先だ。
――15:00
「よくぞここまで耐え抜いた。次が最後の試練だ」
エリオットもガイウスも無言かつ無表情だ。
先ほどの精神鍛錬がよほどきつかったようだ。エリオットなど意識消失寸前で、小刻みに頭が揺れている。
「……早く終わらそう」
「うん……」
二人はぼそぼそと何か話している。会話をする元気ぐらいは戻ってきたか。
「では次は走り込みだ。基本中の基本だが、ゆえにおろそかには出来まい」
「そ、それならなんとか」
「ああ、授業でもさせられているからな――」
バチン。ガイウスの話の途中で、ポーラとモニカは二人の腰に専用ベルトを巻きつけ、留め金をロックした。もう私の合図も無しにだ。彼女達もマネージャーとして申し分ない成長を遂げてくれたようで、嬉しく思う。
そして腰のベルトから後ろに伸びた特性チューブの先には、導力車のタイヤを括りつけてある。
私が小説で最も感動を覚えたシーンだ。さらなる力を欲する主人公は、自らの肉体をいじめ抜き、あえて苦難の道を征く。
「じゃあラウラ、あたしは準備してくるからね」
「任せた」
予定通り馬舎へ向かうポーラの背中を見送っていたが、ふと視線を巡らしてみて気付いた。
「あれは……?」
グラウンド入口の坂の上に立って、委員長がこちらを見ている。その背後に誰かいるようだが、顔はよく見えない。どうやら学生ではないようだが。
「ラウラ、連れてきたわよ」
馬を二頭率いたポーラが戻ってきた。
「この子は私の馬、その白い子はいつもユーシスが乗っている馬よ。さすがに部長のマッハ号は借りれないからね」
「俺たちは何をさせられるんだ?」
ガイウスとエリオットが後じさる。そういえば細かい内容までは話していなかったか。
「今日の総仕上げだ。そなたらにはそのタイヤを引いて、学院を一周してもらう。その後ろから私達は馬で追走する。今回は心身を同時に鍛えるので、教官役はポーラに一任しようと思う」
「任せといて」
ポーラは手にしていた鞭のたるみを両手で引き、ビンッと鈍い音を響かせる。男子達の背筋が伸び、表情が強張っていく。ポーラには指導者の才覚があるのだな。少しうらやましい。
「そういえば、乗馬で使う鞭とは形状や長さが異なっているようだが」
「女王様仕様よ」
ポーラは事もなげに言い放った。
よく分からないが、例えばリベールのアリシア女王も愛用しているということだろうか。それならそれで格式高い鞭ということだな。ちなみに鞭ではなくムチらしい。
さっそくポーラは自分の馬に騎乗し、私とモニカはユーシスの白い馬に乗った。
乗馬経験のないモニカは落馬しないように前、私がそれを支える形で後ろに位置取る。初めての馬の背だからか、モニカは緊張しているようだ。
男子達もスタート位置につく。コースはグラウンド入口から正門側へ進み、学生会館、中庭前の道を通って元の場所に戻る、一周のみだ。
「エリオット……俺たちは絶対に生きて、もう一度筆と楽器を手にするんだ」
「……僕もうすでに立ち直れなさそうなんだけど」
うん、これだ。追い詰められた境遇の中で芽生える友情と連帯感。ジョルジュ先輩にいい報告ができそうだ。
「それでは、位置についてよーい――」
ピシィッ! 私の合図を遮るように、ポーラは馬上からムチで地面を打ち鳴らした。ポーラは冷ややかな口調で男子達に告げる。
「何のんびり合図なんて待っているの。私が馬に乗った時点でレースは始まっているのよ。さあ――」
エリオットとガイウスの額から、汗がとめどなく噴き出した。
「死に物狂いで走りなさい。子馬ちゃん達!」
再びムチを振り上げると、二人は弾かれたように飛び出した。
「ハイヤッ!」
間髪入れずに、ポーラは馬を走らせる。今回は私の出番はなさそうだ。
「うわあああ!」
「ぐおおおお!」
絶叫しながらも二人は正門前を越えた。いい調子だ。
「さすがポーラだ。任せてよかった。……ん、そこにいるのはマキアスか?」
正門にマキアスが立っていたので近づいていくと、呆然とエリオットとマキアスの特訓を眺めている。そういえば、この男も休日はよく一人でチェスをしていたな。いい機会だ。
「ふむ、よかったらそなたも走るか?」
マキアスは首を横に振る。なぜ無言なのだ? よく見れば息が荒い。もしやすでに走り込みをした後かもしれん。だとすれば感心なことだ。
「そうか、残念だ。まあ、気が変わったら声をかけるがいい。――ハイヤッ!」
とりあえずは追いかけねば。見れば随分離れされてしまっていた。
馬を走らせて、ポーラ達に追いついたのは二人が学生会館前を抜けるところだった。
縦横無尽に宙を舞うムチが、ひゅんひゅんと空気を裂く音を響かせる。
「ほーら、足がもつれちゃってるわよ。止まったら百叩きだからね。みみず腫れで大陸地図を描いてやるわ」
「た、助けてえ!」
「俺の背中がキャンバスにされる……!」
ポーラの勢いたるや、尋常ではない。性格すら変わっているような。そんなことを思っていると、ポーラは「いつもいつも……ユーシスのやつ、腹が立つのよ~!」と声を荒げ、ムチの勢いをさらに増した。
何かとストレスが溜まっていたのだな。しかも身内が迷惑をかけているようで申し訳ない限りだ。
そのまま中庭に近づき馬を走らせるが、そこで思い出した。モニカも同じことを思ったようで「ラウラ、私達あの死神ベット片づけてない!」と私に振り返る。
だからモニカ、あのベッドの名前は……なんだったか。しかし確かにそうだ。今どういう状態だろう?
中庭を通り過ぎる時、確認してみると――うん、まだ残っている。残っていることがいいことなのかはひとまず置いておいて、さらに中庭には二つの人影があった。
すぐに通り過ぎたから、少ししか見えなかったが、今のはサラ教官とハインリッヒ教頭だ。
何か口論をしていたらしく、サラ教官はこちらに気付いたが、一方のハインリッヒ教頭は背を向けていた上に、よほど熱弁していたようで馬の足音にも気付いていない。気付かれると厄介なのでこちらとしても助かるが。
中庭を抜けると間もなくゴールだ。
「うわっ!」
「エリオット!?」
ポーラのムチに足元を叩かれ、バランスを崩したエリオットが転倒した。ポーラは容赦なく、再びムチを振り上げた。
ガイウスが駆け戻ってエリオットを起こすが、もう間に合わない。
「うあああ! 生きた大陸地図にされるー!」
「くっ、うおおおお!」
出るか。本日三度目、限界を越えた――
「キッ、キャラミティィッフォオアアアック!!」
そんな名前だったか? あんなに甲高いガイウスの声は初めて聞いたぞ。さらにその威力も今までとは桁が違う。
エリオットを脇に抱えたまま、猛スピードで低空を駆け、残光を残しながらポーラの一撃を瞬時にかいくぐる。砂塵を巻き上げながら輝く鳥は翼を広げ、グラウンドまで一直線に飛び抜けた。
ムチの先端を手元に戻したポーラは嘆息をつく。乱れた前髪をかき上げてから一言口にした。
「今日のところは私の負けね」
明日もある……のか?
――16:00
全てのカリキュラムを終えた。
ガイウスとエリオットの憔悴ぶりは見てわかるが、我々の達成感は確かなものだ。
二人の前に立ち、その顔を見てみる。土埃にまみれたガイウスはますます精悍な顔立ちとなり、エリオットは眼光鋭く、口も真一文字に閉ざされていた。これぞあるべき帝国男子の面構えだ。
二人に問う。
「改めて聞こう。そなたらにとってキャンバスとは、バイオリンとは何か?」
彼らは静かに口を開く
「キャンバスは……盾」
「バイオリンは……凶器」
ん? 最初は鈍器と言った気がするが、まあいい。この後用事のないガイウスは寮へ、吹奏楽部があるエリオットは音楽室へ向かって、ふらふらとその場を立ち去っていく。
その背中に最後の問いを投げかけた。
「ガイウス。そなたは帰ってキャンバスに何を描く。広大で穏やかなノルドの地か?」
「……勇壮で荒々しい海原の絵だ」
うむ。あとでレグラムの風景資料を渡そう。
「エリオット。そなたはこの後音楽室で何を奏でる。調和を取り持つ協奏曲の調べか?」
「……日常を壊す狂想曲と、無くしたものを悼む葬送曲を」
うむうむ、うむ? エリオットが何かおかしい気がするが、気のせいであろう。
試練を乗り越えた男子達を見送った後、私は今日一日尽力してくれたモニカとポーラに向き直り、礼を述べた。
「あはは、楽しかったし私はいいよ。ちょっとやりすぎた気もするけど」
モニカはそう言って鼻先をかいている。ポーラも「まあ、退屈しのぎと……ストレス発散にはなったわね」とうなずいていた。
よかった。ああ、そうだ。
一つ言っておきたいことがあったのだ。
「……ポーラ。そなた私の友人になってくれぬか?」
「何言ってるの。もうなってるでしょ」
彼女は即答し、快活に笑ってくれた。
一息ついた私達は死神ベッドを回収。その後、三人でジョルジュ先輩にお礼を言いに行った。
それからモニカの提案で、紅茶とケーキを片手に女子三人、食堂で他愛もない話に花を咲かしたのだった。
小説の通りだ。皆で一つのことを乗り越えると友情が芽生える。
自己鍛錬も行い、仲間の地力も上げ、そして友人が増えた。
「うん。今日はいい日だ」
~FIN~
お付き合い頂きありがとうございます。ラウラの気分でガイウスとエリオットがひどい目に合いました。彼女はストレートな分、小説とかに影響受けやすそうな感じですね。
そしてもうポーラ様には逆らえません。ちなみに一日シリーズ、エリオット編とガイウス編ではそのあとの彼らの話がメインになるのですが、加えて彼ら視点での特訓の様子を楽しんで頂ければ幸いです。彼らにはモニカとポーラはどう映っていたのでしょう……エリオット大丈夫?
さて彼らの9月12日はまだまだ続きます。それでは次回の『そんなⅦ組の一日』は……誰にするか決まってませんが、どうぞお楽しみに!