虹の軌跡   作:テッチー

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ちょっとだけ閃Ⅱ(前編)

《窓際のメランコリー》

 

 エベル湖に面したバルコニーに、ブロンド髪がそよいでいる。湖面を揺らしながら吹き抜けてくる風は、太陽が昇りきらない午前中ということも相まって、頬に刺さるように冷たかった。

 ユーシスは椅子に腰掛けて、卓上のティーカップを手にとった。先ほど自分で淹れてみた紅茶だが、この寒さでとっくに冷めてしまっている。

 構わずに一口すすった。案の定冷たかったが、それでも味わい深さが残っているのは、元々いい茶葉を使っているからか。

 トリスタから撤退して、エマとラウラと一緒にレグラムまでたどり着いて以来、彼もこのアルゼイド子爵邸の厄介になっていた。無論、ただの居候に甘んじるつもりもなく、近郊の魔獣退治や、街道を行く町人の護衛などを手伝ってはいるが。しかし、自分の立場を考えると、やはり思うところは多い。

 ちなみに現在、エマは気になることがあると、屋敷内でレグラムの史書を調べていて、ラウラは少し体を動かしたいと、練武場で剣の稽古に勤しんでいる。

「ふう」

 ユーシスは浅く嘆息し、遠くを見据えた。

 他の仲間達はうまく逃げ遂せたのか。戦禍はどこまで広がっているのか。父は、兄は、今何を考えて、何をしようとしているのか。

 ――リィンは無事でいるのだろうか。

 そんなことを考えている内に、ふとあの場所のことを思い出した。

 トリスタ礼拝堂。

 自分を先生と呼び、慕ってくれた子供達。

 彼らは変わりないだろうか。町に領邦軍が駐留しているのなら、不安な思いをしているかもしれない。

 そして、

「………」

 ティーカップを置く。

 心に浮かぶのは、あの控え目な笑顔。自分が行くといつも嬉しそうに、焼き上がったばかりだと言ってクッキーを出してくれた。

 今、ティーカップの横には何もない。自分のとなりには誰もいない。うっとうしいくらいの喧騒もない。湖畔のさざ波だけがいつまでも耳に残って、心に小さな空虚感を生み落としていく。

 あの温かな場所は、いつの間にか大切な場所になっていたのだろうか。一月も経たないくらいの、ほんの少し前のことなのに、ずいぶんと遠くのことのように感じる。

 実際、遠い。手が届かないどころか、現状を知ることさえままならない。案ずることしか、今の自分にはできない。

 ……本当にそうだろうか?

「いや、違う」

 心中の自問に、声を発して自答する。

 出来ることはあるはずなのだ。アルバレアの名を持つ、自分にしか成せないことが。

 何が正しいのかはまだ分からない。ただ、それでも動くことは出来る。

 自らが混沌の渦中に入り、真に己の成すべきを見極めること。それこそが貴族の義務――違う。それは、ユーシス・アルバレア個人としての意思。

 父の下に付いて動くということが、何を意味するかも分かっているつもりだった。それで仲間達との道が分かたれたとしても。そうなるとしても。

 行こう、バリアハートへ。

 自分にしか出来ない戦いが、自分だからこそ出来る戦いが、そこにあるのなら。

 ユーシスは椅子から立ち上がった。

「ここを発つなら明日になるだろうな。それまでに準備を整えなくては」

「ユーシス様」

 バルコニーの扉が開く。やってきたのは執事のクラウスだった。

「今日は特に冷え込みます。そろそろ屋敷の中へお戻りになった方が宜しいかと」

「ああ、気を遣わせて済まない」

「いえ、差し出がましい事を申しました」

 クラウスは丁寧に頭を下げ、ユーシスを室内へと誘う。

 応じて部屋に戻ると、すでに暖を取ってくれていたらしく、温かな空気が冷えた体を包み込んだ。

 そうだ。彼に明日出立することを伝えなくては。ユーシスは口を開きかけたが、その前に「おお、そういえば」とクラウスは両の手を合わせた。

「お聞きくださいませ、ユーシス様。先ほどラウラお嬢様の稽古の様子を見にいったのですが、その時、門下生達にこんなことを仰っておられたのです」

「ふむ?」

「『先が見えなくても、今はただ自分にしか出来ない事をしようと思う。父の代わりなど到底務まりはしないが、どうかそなた達の力を私に貸して欲しい』……と」

「……そうか」

 見通せない混迷の中、ラウラもあがいている。諦めていない。今の話を聞いて、決意はより固まった。各々の戦いをしよう。進む道が違っても、目指す場所は同じであると、そう信じて。

「お嬢様の成長を間近に見ることができて、私は嬉しゅうございます。おっと、いけませんな。年を取るとどうにも……」

 感極まった様子で、クラウスは目頭を押さえながら天井を見上げた。

「その上、『労いの意味も込めて、今日の夕食は私が作ろう』などと……くうっ、爺は、爺は……っ!」

「な、何だと……?」

 驚愕に足を引き、背が壁にぶつかった。

 小さな嗚咽を収め、クラウスは言う。

「何でもトリスタではよく料理を作っておられたとか。お嬢様の手料理を口にできる日がくるとは、このクラウス、いつ女神の元に召されても悔いはありませんぞ」

 女神にはすぐに会える。おそらく今日の夕食時に。

「それは“自分にしか出来ない事”ではなかろう……」

 虚ろな目をして、ユーシスはぼそりと呟いた。

「おや、何か?」

「いや、なんでもない」

「門下生一同、歓喜の極みでしたな。ふふ、だからと言って稽古に身が入らぬようでは困りますし、後でまた様子を見に行かねばなりませんな」

「………」

 予定は変更だ。すぐに出発しよう。

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

 

《マキアスレポート》

 

 十一月一日。

 僕達三人はあのトリスタ襲撃から逃げ延びて、ケルディックまでたどり着いていた。

僕達、というのはエリオットとフィー、そしてこの僕、マキアスだ。

 領邦軍に手配されているⅦ組だが、オットー元締めはそんな僕達をかくまってくれた。ありがたい事とはいえ、いつまでもオットー氏の家に隠れている訳にもいかない。彼は気にしないでいいと言ってくれたが、やはり迷惑はかけたくなかった。

 しかし、何をするにも拠点は必要である。仮にここを出たとしても当てなどない。どうするべきかと頭を抱える僕達に、元締めはケルディック街道にある風車小屋の鍵を渡してくれた。

 あそこなら街から近すぎず遠すぎずで、情報収集などもやりやすい。完全に厚意に甘える形になったが、もうここまでくれば頼らせて頂こう。

 今は伏せて、ただその時を待つ。

 僕達は信じている。君ともう一度会える日を。

 僕達はあきらめない。必ず君を見つけてみせる。

 だから、リィン。

 君も絶対にあきらめるな。

 

 十一月三日。

 そんな経緯で僕達の潜伏生活は始まる。

 何かと気をかけてくれるオットー元締めは、風車小屋までわざわざ食料を届けてくれたりもした。

 しかし、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。それに彼が頻繁に街道を往復していれば、領邦軍がその行動を怪しむのは時間の問題だろう。僕達はともかく、元締めの立場を悪くすることだけは避けなくては。

 幸い食料確保に関しては、何とかなりそうだった。小川は近くに流れているし、冬とは言え魚も泳いでいる。風車内には導力式のストーブもあって、凍える心配もないし、お湯も沸かせる。

 何より、サバイバル技術に長けたフィーがいるのが最大の強みだろう。

 

 十一月十日

 風車小屋での潜伏生活、七日目。いくつかの問題が起きていた。

 思っていたほど魚が獲れないのだ。それはそうだ。釣竿もないし、いや仮に竿があっても、餌となる小虫がこの寒さでは見つからない。さすがのフィーも冬の川に入って、素手で魚を捕らえることは難しいそうだ。

 双銃剣やショットガンを川に撃ち込んで……という案もあったが、補給もないこの状況で、いたずらに弾薬を消費するのは得策とは言えなかった。

 わずかな焦りを感じる中、逃げ出す際に持ってきたと言うエリオットのバイオリンの音色が響く。柔らかな旋律が心を癒し、空腹を紛らわしてくれるのが唯一の救いだった。

 

 十一月十二日。

 潜伏生活、九日目。

 双竜橋の様子を偵察に行っていたフィーが、いくつかの葉っぱや草を手に風車小屋に戻ってきた。聞けば街道を逸れた脇道に食べられそうな植物が生えていたらしい。

 素人目には雑草だが、フィーがそう言うなら食べても問題ないのだろう。

 何より耐え難いこの空腹。今ならどんなものでも食べられる。さっそくフィーはサラダを作ってくれた。

 

 十一月十三日。

 その翌日。僕とエリオットは謎の腹痛に襲われた。フィーはけろりとしているので、一概に昨日のサラダが原因とは言えないが。

 喉の内側を荊でこするような、途方もなく凶悪な苦味。三ヶ月前にも猛威を振るったワイルド野草サラダを、また食べることになるとは思わなかった。

 うめく僕達を案じてくれたらしいフィーは、お腹に効く薬草を探すと言って、風車小屋を出て行ってしまう。

 待て、早まるな。

 制止の言葉は喉の痛みが邪魔をして、口から出すことすら出来なかった。

 扉が閉まったあと、エリオットの顔をちらりと見てみる。その目から生気が失われつつあった。

 

 十一月十九日

 潜伏生活、十六日目。

 細かな問題はいくつもあるが、その中でもこれはあって然りというか、ある程度は予想していたものだった。

 フィーが体を拭きたいと言い出したのだ。今までは僕達が出ている間に、手早く済ませていたそうだが、ここ数日は天候が悪く、僕もエリオットも外出をしていない。

 今日は特に気温が低いのだが、そういうことなら応じないわけにはいかないだろう。体調の戻り切らないエリオットの手を引いて、僕達は風車小屋の外――寒空の下でフィーの清拭が終わるのを待つことにした。

 

 ……一時間経ってもフィーから終わったとの声は掛からない。凍える指先が痺れてきた。女子の入浴時間は長いというが、体を拭くだけでも相応の時間はかかるのだろうか。しかし、ここで風車小屋に入るような愚は犯さない。実はまだ着替え中でした、などというトラブルはリィンの専売特許だからな。

 エリオットは地面の一点を見つめたまま、さっきから一言も話さなくなった。

 フィー、急がないと二度とバイオリンが聞けなくなるぞ。

 

 ……二時間が経った。まだ応答はない。これはおかしい。そしてエリオットの顔色もおかしい。

 外から声をかける。やはり返事がない。さすがに心配だ。

 何度も断りを入れてから、遠慮がちに扉を開いてみた。

 ストーブの近く、穏やかな寝息を立てて、フィーはすーすーと気持ち良さそうに眠っている。

 僕の両ひざは、その場で崩れ落ちた。

 

 十一月二十三日

 潜伏生活、二十目。 

 エリオットがいよいよおかしい。時折、バイオリンを撫でては虚空に視線を泳がせ、乾いた笑みをこぼしている。母さん、今日もピアノを弾いてよ、などとぼそぼそ呟きながら。いけない。連日食べ続けている野草のせいなのか、幻覚が見えている。エリオット、気をしっかり持つんだ。しかし、こういう時の処置など今一つわからないし。

 そうだ、姉さんに相談してみよう。最近、川の向こう岸で手招きしている、あの優しい姉さんに。

 

 十一月二十七日。

 潜伏生活……何日目だったか。

 そう言えばチェスもずいぶんやっていない。ステファン部長は無事だろうか。チェス盤を持って来る余裕はなかった。思い出すと余計にやりたくなってくる。ああ、そうだ。手頃な紙にマス目を描いて、ちょっと軽いチェスゲームでもしてみようか。

 ペンに手を伸ばした時、扉が開きフィーが戻ってくる。いつもの草を両腕に抱えて。

 というか、なぜフィーは僕達と同じものを食べていながら体調を崩さないんだ。地力のたくましさと言うやつは、こういう時に発揮されるのか。

 エリオット、目を開けてくれ。食事の時間だ。

 

 十一月二十八日。

 風車小屋での潜伏生活も、もう一か月近い。これでも情報収集はそれなりに出来ていた。やはりフィーの力が大きいが。

 ああ、何だろう。無性にチェスがしたい。そんな衝動に動かされるまま、この近辺の街道地図を引っ張り出す。

 たとえばこの風車小屋をキングとした時、東側の風車をナイトとしたらどうなるだろう。待てよ、なら西側のこの位置にビショップを配置した方が――取り留めもなくそんなことを考えているだけでも、幾分は気が紛れる。それに何だか楽しくなってきた。

 エリオット、面白いことを思いついたんだ。こっちを向いてくれないか。

 ははは、楽しいぞ。

 

 十一月二十九日。

 川の向こう岸にいたはずの姉さんが、気付けば枕元に立っていた。つかれたでしょう? 一緒に行きましょうと、僕の手を引く。

 外はすごく寒いはずなのにどうしてだろう。すごく、温かい。光が、近付いてくる……。

 

 十一月三十日。

 限界だと悟った。

 あと二日持つかどうか。眼鏡の汚れを拭う力も残っていない。

 こちらから君を探しにいくつもりだったが……どうやらそれはもう叶いそうにない。

 ああ、意識が遠のいていく。

 お願いだ、リィン。

 ぼ、僕を……ぼくタチを……はやク……

 

 ボクタチヲ ミツケテ

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 《ウォールオブハート》

 

 バリアハート上空。高速巡洋艦カレイジャスは問題なく飛行している。天気は快晴。風も穏やかだ。

 問題があって、穏やかでないのは船内三階。後方甲板に近い一室だった。入口は前後に二つあるが、間取りとしては一部屋である。

 現在この部屋には、店が二つ入っている。

 手前側が武器屋で、店主はカスパル。

 奥側がアクセサリー屋で、店主はコレット。

 必然――

「……納得いかない」

 そう言ったのはコレットだ。彼女はため息交じりでカウンターから出て来て、カスパルに冷ややかな目を向ける。

「どうしてカスパルが横でお店をやってるの?」

「ど、どうしてって言われても」

 カスパルもカウンターから出て、コレットと向き合う。

 二人の間には埋めようのない溝があった。小さな誤解から始まり、不幸なすれ違いを重ねたことで、致命的にまでこじれた溝。否、溝というよりは谷。オーロックス渓谷のような、落ちたら確実に助からない谷。

「私、アクセサリー屋さんなんだけど」

「いや、それは分かってるけど」

「カスパルは何屋さん?」

「見ての通り武器屋だ。俺はレグラムの道場で手伝いをしててさ。そこで武器の扱いも――」

 そんな話などどうでもいいと言わんばかりに、コレットはぷいっと顔をそむけた。

「ありえない」

「な、何がだよ?」

「私のお店を見てみて?」

 言われてコレット越しに視線を向ける。ポップなカラーリングの設えのクロスや陳列棚。可愛らしいぬいぐるみや、おしゃれな包装箱。カウンターの前にはちょっと大きめの植木も置かれている。いかにも彼女らしい華やかな内装だった。

「次にカスパルのお店を見て」

 振り返ってみる。飾り気のない簡素な店構え。並べられた武器、防具類はどれも物々しい。中央のしきりを境に、まるで別世界である。

「くすんだ灰色しかないじゃない」

「……武器屋なんだからそれでいいだろ」

 今度は逆にカスパルがぷいっと顔をそむけた。彼にも培った経験に対するプライドがあるのだ。

「だって、間違っても同じ場所に混在していいようなジャンルじゃないんだもん」

 険悪なムードである。

 それぞれの店の入口では、武器を見にきたリィンと、アクセサリーを見にきたアリサが、そろって足を踏み入れられないでいた。

 カスパルが鼻を鳴らす。

「そもそも、俺の方が早くここで店をやってたんだからな。気に入らないなら他の場所でやればいいじゃんか」

「ここまでセッティングしたのに、今さら動けるわけないでしょ。武器の移動だけなんだし、カスパルが他の場所に行ったらいいじゃない」

「なんで俺がそこまでしなきゃいけないんだ!」

「ふんだ!」

 両者一歩も譲らず。

 以前なら誤解とは言え、負い目のあるカスパルは前に出きれないところであるが。しかし今、彼は強気だった。それには理由がある。

 コレットはもうあれ(・・)を持っていない。自分を幾度となく屠った、あの“異様に硬い石”を。

 十月の半ばくらい、色々なグッズと引き換えに、あの石をリィンに手渡しているのをカスパルは目撃している。

 故に強気。なぜならもう石で殴られることはないのだから。

「コレット。俺を以前と同じままだと思わないでくれ」

「な、なにが」

 反撃が来ないとわかっているから、余裕も出てくる。落ち着いている今なら、あの誤解も解くことができる。いつも邪魔をしてくるヴィヴィは、今はブリッジで観測士をやっている。

 冷静に考えれば、全ての状況が整っていた。何だかんだ言ってもどの道、これから顔を突き合わせてここで店をやるわけである。互いのしこりは取り払っておくべきなのだ。

「……コレット、聞いて欲しい。今なら話せる。あの時の真実を」

「し、真実?」

「ああ」

 自信に満ちた顔で、カスパルは一歩進み出た。

 そして、それが起こる。卑劣な悪魔が意識の隙間を突くかのごとき、理由も脈絡もない足元スリップが。

「うわあ!?」

「きゃあ!?」

 身の危険を察知し、とっさに飛び退くコレット。ばたばたと腕を振り回しながら、自分の意志とは関係なくそれを追うカスパル。

 植木の枝に制服のボタンが引っ掛かる。耐えようとして体を逆側にひねる。その全てが悪い方向に作用して、案の定あらわになる引き締まった上半身。 

 バランスを崩して倒れ込むカスパルの視界の中、怯えるコレットが大きくなる。

 逃げてくれ。彼がそう言おうとした時、コレットは制服のポケットに素早く手を入れた。

 何を取り出す? あの石はもうないはずなのに。そんなことが脳裏によぎる中、彼女はポケットから手を引き抜いた。

 右手の薬指から人指し指までの四指に、何かが装着されている。

 それはコレットがバリアハートの職人街を発つ際に、世話になった人達がお守り代わりにと渡してくれたもの。研磨した宝石を連なったリングにはめ込んで、護身用として暗器に改造したもの。

 ゼムリアストーン・ナックルに代わる、彼女の新しい力。その名もジュエリー・メリケンサック。

「いやああ!」

 乙女の叫びと共に繰り出されるクロスカウンター。ハッスルしたカサギンの顔面に『メゴッ』と痛々しい音が響く。

「ご、ごふっ」

 膝をついてくずおれたカスパルは、もうピクリとも動かない。息を荒くしたコレットは、宝石の輝きをまとった己の拳を、ただ茫然と眺めている。

 その一部始終を見ていたリィンとアリサは、無言でブリッジへと引き返すのだった。

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

 

 

 眼前の卓上に並ぶ、数々の料理に目を落とす。

 彩りは鮮やか。香り立つ湯気が揺れ、何とも食欲をそそってくれる。

 一皿目、二皿目、三皿目。あっという間に空の皿が積み上がっていく。前菜はもう十分だ。次は魚料理を頼もう。肉料理はそれから。飲み物で一服したあとは一品料理をいくつか注文して、少ししたらデザートを片っ端から制覇しよう。

 手を上げるとウエイトレスの女の子が、オーダー表を片手に近付いてきた。

 メニューを一つずつ指差して、私は言う。

「ローストトラードの香草和えと、シュラブの姿揚げを」

「かしこまりました」

「あと、イールのかば焼きとアローナの煮付けを」

「え? は、はい」

「それから、このレインボウの七色刺身を」

「え、えーと……?」

 女の子は何やら戸惑っている様子で、私の顔とオーダー表を何度も見比べている。どうしたのだろう。注文が聞き取れなかったのだろうか。

「なにか?」

 彼女の顔を見返すと、「い、いえ、何でもありません」と手早く注文を書き留めて、カウンターへと早足で向かっていった。

「あ」

 カウンターの奥のキッチンスペースから、油の跳ねる音と香ばしい匂いが漂ってきた辺りで、私はあることを後悔する。

「このサモーナのバターソテーも頼んでおけばよかったですわ」

 

 

  《 機 Λ 騎 》

 

 

 鋼の聖女の側近として、その身を守護せし鉄機隊。

 隊を束ねる《神速》のデュバリィと言えば、結社《身食らう蛇》でも名を知られた存在だ。が、そんなことはどうでもいい。名を知られていようといまいと、主から命ぜられたままに任務を遂行するだけ。

 それが己の全てなのだ。

 食事を終えて、店の外に出る。今はどこにでもいる町娘の恰好をしているので、普通にしていればまず目立たない。剣や軽鎧は転移術でいつでも呼び出せるが、しばらくは使う必要もない。

 風光明媚で名高い、この町の名はレグラム。今日は少し霧があって、あまり景色がいいとは言えないが。それでも町の雰囲気は嫌いではない。歴史や格式の高さも随所から伺えるし、何より料理が美味しかった。今更ながら、あのサモーナを食べ逃したことが悔やまれる。

「はあ……」

 ため息がもれたのは、サモーナのバターソテーとやらを思い出したからではない。まあ、半分はそれもあるが。

 主立つ理由は二つ。

 一つ目は今回の任務で、行動を共にすることになった相方のことだ。実力は折り紙つき。しかし性格に難あり。というか難しかない。口を開けば面倒だの何だの。今だって、ふらりとどこかにいなくなってしまった。どうにも彼とはペースが合わず、同行しているだけで疲れと心労が増えていく。

 二つ目は……あれだ。

 霧の向こうでぼやけている屋敷の影を、忌々しげに見上げてやる。高台にどっかりと鎮座するアルゼイドの屋敷。そして、その傍流たる道場。

 なんと傲慢なたたずまいだろう。あれさえなければ、いい町なのに。

 そんなことを思いながら歩を進めていると、船着き場の近くにそれを見つけた。

 それぞれが斧と大剣を掲げ、かしずく二体の戦士像。その彼らの中心でランスを携える、堂々とした甲冑姿の女性の像。

 ローエングリン城を背にして立つ彼女こそ、二五〇年前の獅子戦役をドライケルス大帝と共に駆け抜けた《槍の聖女》――リアンヌ・サンドロットである。

 デュバリィは目を閉じ、二体の戦士像と同様にかしずいた。

 果たしてそれは祈りだったのか、あるいは誓いだったのか。

「………」

 目を開くと、碑文の一行が目に留まった。

 ――獅子戦役の英雄たる功績を称え、その魂が安らかであらんことを――

 知ったようなことを刻んでくれる。気付けば固く拳を握りしめていた。

 もういい。行こう。デュバリィが立ち上がった時、

「あれ、姉ちゃん。見ない顔だなー」

 そばに三人の子供達がいた。

 

 

 頼んでもいないのに、彼らは名乗る。

 三人組のリーダーらしいのがユリアン。補佐役っぽいのがカルノ。そして二人の後ろに控える年下の子がニコ。

「姉ちゃん、旅の人か? 鉄道の運行も制限されてるのに珍しいよなー。もしかして街道沿いに来たのかよ」

「まあ、そんなところですわ。私、急いでいるのでこれで失礼」

 適当にあしらってから、その場を後にする。子供の扱いは苦手なのだ。

 しかし子供達は付いてくる。走ってみた。三人分の駆け足の音が追い掛けてくる。そんなやり取りを二度、三度と繰り返して――

「な、なんですの、あなた達は!?」

 立ち止まって振り返ると、やはり彼らがいた。あのニコという男の子だけは少し遅れて来たが。

「いやー、姉ちゃんレグラム初めてかなと思って」

 ユリアンが言う。

「何でも言ってよ。教えてあげるよ」

 カルノが続ける。

「結構ですわ。間に合ってますから」

 一言切り捨てて、再び歩き出そうとする。そこにニコが「お姉ちゃん待ってよ」と重ねた。

 待たない、止まらない、振り向かない。面倒事に関わらない為の三原則だ。

「役に立つし、人助けもできるよ。だってぼくたち、少年鉄騎隊なんだもん」

 踏み出しかけた足が止まった。

「……なんですの、それは」

 彼らは「ふふん」と自慢気に笑い、剣やら槍を構えたようなポーズを決める。

「へへ、この町を守る為に結成したんだ。鉄騎隊ってやっぱ憧れだしさー」

「あ、憧れ?」

 不意打ちだった。しかし悪い気はしなかった。

「こう凛としてて、恰好いいし」

「な、なるほど」

 こんな小さな子供達まで、そう思っているのか。

「強くて、誇り高くて」

「そ、それから?」

「何よりも忠義に厚くて」

「ええ、ええ! それはもう」

 うなずきが止まらない。

「俺達もなりたいよなー。ヴィクター様みたいに」

「ええ、まったくですわ――って、どうしてそうなりますの!?」

 あやうくうなずいてしまうところだった。なんという狡猾な手口を!

「え、知らねーの? だってヴィクター様のご先祖って鉄騎隊なんだぜ。俺も大きくなったらアルゼイド流の道場に通うんだ」

 子供の言うこと。これは子供の言うこと。いちいち相手になどしない。同じレベルで話などするものか。凛とした態度を貫くのみ。

「やっぱアルゼイド流が一番強いよな!」

「ふんっ、ほざくがいいですわ」

 デュバリィはやり過ぎなくらい胸をそらして、子供達を見下ろす。嘲るように鼻を鳴らしてから、彼女は薄い笑みを浮かべた。

「アルゼイド流が最強? ちゃーんちゃらおかしいですわね」

「な、何を!」

「こんなど田舎の煤けた道場が何だって言うんですの? いつ床が抜けるのか分かったものじゃありませんわ」

「なっ、言ったな!」

「ええ、言いましたわ! 言ってやりましたわ! 悔しがりやがれですわ!」

 勝ち誇った高笑いを上げるデュバリィ。見事なまでに同レベルだった。

 憤りもあらわに、じだんだを踏むユリアンが言った。

「くっそー、だったら姉ちゃん。俺達と勝負しろよ!」

「ええー、いいですわよ! ……え? 勝負?」

 考えなしにイエスを返し、遅れて言葉の意味を反芻する。

「カルノもニコもいいよな。馬鹿にされっぱなしじゃ、少年鉄騎隊の名折れだぜ」

 押し切られる形で、ユリアンの背後に控える二人も了承した。

「ち、ちょっと待ちなさい。勝負って何ですの? 私急いでるって言いましたけど――」

「よーし、かくれんぼ勝負だ。俺達が隠れるから、姉ちゃんが探すんだぜ。三十分以内に全員探しきれなかったら姉ちゃんの負けだからな」

「か、勝手に話を進めないで下さい。私の話も聞いてって、あ、あなた達!?」

 ユリアン達はデュバリィの声などもはや聞こえない様子で、あっという間に三方に散って行ってしまった。

 残された身に、冷たい風が吹き抜ける。

「あーもう! どうしてこうなるんですのーっ!」

 

 

 無視してその場を去ることは簡単な話である。しかしそれは出来なかった。こちらの言い分を完全に無視して始まった勝負とは言え、逃げれば不戦敗。勝利した彼らは思うだろう。

 やっぱりアルゼイド流が一番。それを認めるのが嫌で、あいつは逃げ出したと。

 冗談ではない。もう容赦はしない。まとめて見つけ出して、目にもの見せてくれる。《神速》の二つ名、骨の髄まで思い知らせてやる

「こうなったら仕方ありません……本気ですわ」

 最初から本気で相手取っていたという事実は、速やかに忘却の彼方へ追いやり、デュバリィはレグラムの町中を走り回った。

 ――その五分後。

「み、見つけました!」

「あちゃー、自信あったんだけどなあ」

 少し息を切らしながらも、教会の裏手でカルノを発見した。

 ――そのさらに十分後。

「み、み、見つけました……」

「くっそー!」

 かなり息を切らしながらも、民家の陰――その茂みに伏せるユリアンを発見した。

「あと一人。すぐに捕まえてやりますわ」

 さほど大きな町でもないから、大方探し回れたつもりだが、しかしニコだけはまだ発見できていない。

 ユリアンとカルノが顔を見合わせていた。

「んー、おかしいなあ。ニコって俺達より隠れるの下手なんだけど」

「隠れるところもワンパターンだしね」

 デュバリィも首をひねった。隠れるのが下手だというのなら、どうして自分が未だに見つけられないのだ。町中はかなり探したつもりだが――いや、そういえば隠れる際、彼はどっちの方向に走っていった?

 確か北東、レグラム駅の方だ。しかし駅は規制がかかっていて、構内にも入れない。

 そして町の中にいないというのなら、もうその可能性を一番に考える他ない。

「まさか……」

 そう、ニコは町の外に出たのだ。

 

 

 エベル街道。この道を北上すれば、南クロイツェン街道に繋がり、その先に見えてくるのが、翡翠の公都バリアハートだ。

 時間的に見て、ニコが街道に出てから二十分近く。あの足ではまだそこまで遠くには行っていないだろう。

「……だけど」

 街道の入口に立ち、その先に目を凝らしてみる。

 深い霧で数アージュ先も見通せない。魔獣の唸り声も遠くから響いてくる。この地の異変で凶暴化しているせいか、導力灯の効果が薄いらしい。

 そして湿った地面には、街道へと続く小さな靴跡が残っていた。

「待ってろ、ニコ。今助けに行くからな」

 霧の中へ走り出そうとしたユリアンの襟首を、後ろからむんずと掴む。それを見たカルノの動きも止まった。

「は、離せよ! ニコが危ないんだぞ!」

「あなた達が行ったところでどうにもなりませんわ。大人を呼んできなさい。……あのアルゼイド流の者達でも魔獣くらいなら遅れを取らないでしょうし」

「で、でもよ!」

 それでも納得の行かなさそうなユリアンの襟首から手を離すと、デュバリィは彼を自分に向き直らせた。

「力の伴わない勇気と行動は、周りにも害を及ぼす。隊を組んで動く以上、それは短絡な蛮勇よりも律さなければならないもの」

「何言ってるか……分かんねーよ」

 今にも泣き出しそうなユリアンの頭に、デュバリィはそっと手を置いた。自分でも苦笑いしてしまう程、柄にもなく不器用な仕草だった。

「鉄騎隊のリーダーなら、そんな顔をするものじゃありませんわ」

「だって……」

「早く行きなさい。あなたが足を止めるほど、あの子が危険になる。それはわかりますわね?」

「う、うん。でも姉ちゃんはどうするんだよ」

「私はあの子が戻ってきて行き違いにならないように、ここで待っていますわ」

 全速力で練武場へと走っていく二人を見届けた後、デュバリィは改めて街道に歩先を向けた。 

 

 

 一人、霧の中を歩く。

 どうしてこのような寄り道を。そこまで自分はお人好しではない。放って置いても良かったではないか。アルゼイド流の者達に任せても、この程度の事態は収拾できただろう。

 なのに、なぜ。

 あの子達が鉄騎隊を名乗ったから? ちょうど三人だったから? 自分と重ね合わせてしまったから? それはない。『騎』と『機』。ただの言葉だが、この二つは決定的に違う。一体何を重ねるというのか。

 これはそう、ただの気まぐれだ。

 不意に空気が変わる。

「……来ましたわね」

 直感と同時に轟く唸り声。下腹に響く足音。白く染まる視界の中に、徐々に鮮明になって現れる異形の影。魔獣だ。それも大型の。

 だから、何だと言うのか。

 空間が歪み、デュバリィを眩い光が包む。具足が、籠手が、胸当てが、額兜が、輝きの中で顕現されていく。

 最後に顕れた白銀の大剣と流線型の盾を携え、彼女は地面を踏みしめた。

「私は――」

 魔獣に名乗るなどと馬鹿げている。だが今は、なぜかそんな気分だった。

「鉄機隊が筆頭、《神速》のデュバリィ。道を開けてもらいますわ」

 

 

 ニコが身を隠しているのは、街道から脇道に逸れた大きな木の陰である。

 彼がレグラムの町を出たのは、絶対に見つからない場所を探してのことだった。もちろん普段のかくれんぼでは、そこまでしない。そもそも一人で街道に出てはいけないと、母親からも言い含められている。

 ただ、幼いなりに理解していた。いつもの遊びと違って、これは勝負。よく分からないが、負けてはいけないもの。

 だから町を出た。見つからないと思ったから。街道で適当な物陰を探していると、近くで魔獣の鳴き声がした。驚いて逃げ出して、気が付いたらもう方向が分からなくなっていた。

「ユリアン兄ちゃん、カルノ兄ちゃん……こわいよ、お母さん……」

 グスと涙ぐむ。鉄騎隊は強くなければいけないのに。

 震える手で目じりを拭った時、近くで何かが動く気配がした。

 誰かが迎えに来てくれた。一瞬そう思ったが、すぐにそうではないとわかった。この界隈には植物系魔獣や昆虫型魔獣が群生していると教えてもらったことがある。まさにそれらだった。

 一瞥しただけで嫌悪感を抱くような大きな虫型魔獣が、感情の映らない複眼でニコを捉えている。それも一匹ではなく五匹いる。聞いた時はピンとこなかったが、群生の意味も今わかった。

「あ、ああ……」

 ギチギチと牙を動かす音が近付いてくる。

 いやだ。いやだ。助けて――

「助けてえっ!」

 ニコが叫び、虫達が一斉に襲い掛かったのと、雷光が爆ぜたのは同時だった。

 奔る稲妻が歪な鉤爪と化し、魔獣の全てを跡形もなく焼き払う。

「え?」

 何起きたのかさえ分からないニコは、霧の向こうに人影を見た。

 甲冑を身に纏い、大剣を構えたその姿を。それは聖女を守護する片割れの像と重なって――

「鉄騎隊……」

 我知らずその言葉を呟く。

 人影はそのまま薄れ、消えてしまった。

 程なく複数の足音が近付いてくる。

「ニコ!」

 ユリアンとカルノと、アルゼイド流の門下生数名だ。

「よかった、心配したんだぞ」

「ケガないか? 一人で街道に出ちゃダメだろ」

 ユリアン達が肩を強く抱きしめる。

「ごめんなさい、お兄ちゃん達」

「さあ、早く帰ろうぜ。お前の母ちゃん、すごい心配してんだからな。あ、そういえば」

 周りを見回したユリアンが言う。

「やっぱこっちにも来てないか。あの姉ちゃん、どこ行ったんだ?」

 

 

 近くの高台から、一同が撤退するのを見送ったデュバリィは嘆息をついた。

「やれやれ、ですわ」

「そりゃあ、こっちの台詞だぜ」

 不意に背後から声を投げ掛けられた。草を踏み分け、一人の青年が近付いてくる。

 薄緑がかった髪、目下にずれた眼鏡。妙に気だるげな態度。

 彼こそが相方――執行者NoI、《劫炎》のマクバーン。

 マクバーンはあくび混じりで続けた。

「急にいなくなるから探したぜ。どっかに行く時はちゃんと言っていけよな」

「なっ、それこそこちらの台詞ですわ!」

 どの口が言うのかと睨むデュバリィだが、マクバーンはたいして気に留めた様子もなく、街道の先に目をやった。

「ま、この後はバリアハートだろ。ちょうどいいし、このまま行くとするか」

 面倒くせえけど、と付け加え、マクバーンは先に歩き出す。

「あーもう!」

 ムスッとして後を追うデュバリィに、目線だけ向けて彼は言う。

「そういやレグラムでの用は済んだのかよ。やり残したことがあるなら待っててやるぜ」

「ふん、昼寝でもしたいだけでしょう。お生憎、やり残したことは――」

 ない、と言いかけて思い出した。

「サモーナのバターソテーを食べ損ねたくらいですわ」

 

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

~後編に続く~




前編をお付き合い頂きありがとうございます。

本当はもっと色々と詰め込もうとしたのですが、『そんなトリスタの日常』と違って一話一話が長めになってしまい、結局分けることにしました。
その加減で何となく男子勢に話が偏ったので、次回は女子多めに加え、今回登場していない人達がメインとなります。先にデュバリィは登場してもらいましたが。彼女も書いてて楽しいですね。
時系列順には乗せていませんが、これはこのくらいの時期だなくらいで察して頂ければ幸いです。

通常通り、サブキャラ達のお話も色々作ってみましたが、とりあえずカサギンとコレットだけ先行です。まさかのとなり同士だもんなあ。

各話のボリューム次第では中編を挟むかもしれないのですが、なるべく後編で収めてみます。無理だったらスミマセン!
次話もお楽しみ頂ければ何よりです。

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