――失われし供物を求めし者達よ。
獅子の庭に散らばりし
さらなる道を進め――
それがクロウの背に貼られていた白いカードの文章だった。
エマが手にしたカードの内容を考察する。
「……“失われし供物”は無くなった私たちの私物。“獅子の庭”はトールズ士官学院。“四色の導”に関しては不確定ですが、私物の在処を示す手がかりと考えるのが妥当でしょうか」
「待って。ちょっと気になることがあるの」
横からアリサがカードをのぞき込む。
「今までのパターンなら、一枚目のカードには二枚目のカードの場所が書かれていたはずでしょ。なのにこの文章じゃ探しようがないわ。“獅子の庭”だけじゃ広すぎるもの」
あるいは“獅子の庭”がこの学院を指すという見解が間違っているか、である。
悲鳴やら慟哭やらで騒がしい学院内に、リィンはもう一度目を向けた。
「今の時点ではなんとも言えないが、この状況でやみくもに動くのは危険だ。俺たちの行動と役割分担を決めよう」
固まって動いては、文字通り一網打尽にされる可能性がある。“四色”がそのまま“四つ”を意味するなら、こちらも四班に分かれてフィーたち、及び私物の捜索にあたるべき――というより、現在の総人数的には四班編成が限界だ。
それさえ見越して“四”という数字を設定したと思うのは、さすがに考え過ぎか。
だが小さな違和感が拭えない。こちらが考えた上で出す選択を、先んじて予見されていたかのような。
この白いカードもそうだ。どこか妙な引っ掛かりががある。なにかがおかしい。
「まずは班分けをするか」
釈然としないものを抱えながら、リィンは順繰りに全員を見回した。
他の面々もしっくりは来ていない様子だ。この場における最良の判断が、最適の判断ではない。そんな気がしている。
しかし惨禍の広がりを早急に止めること。事情を知っていて、打開できるのが自分たちだけだということ。
時間と手段。この二つの制約が、選択できる行動の幅を狭めていた。
「今回はさすがにくじ引きでは決められないな。さて、どう分けるか」
相性か、バランスか、戦力か。このフィールドを突破するのにもっとも適した組み合わせは。
いつもよりも慎重に考える一同の耳に、「そんなところで固まっていては迷惑でしてよ」と、聞き覚えのある声が届いた。
薄紫の髪を揺らして、フェリスが正門を抜けてくる。寝不足なのか寝起きなのか、いつにも増してむっつり顔だ。そのとなりにはヴィンセントもいて、兄妹そろっての登校である。
「ごきげんよう、アリサ」
「やあ諸君、爽やかな朝だね。女神が僕を祝福してくれているかのようだ」
「少し黙っていて下さいまし」
朝から兄のテンションには、さすがの妹もついていけないらしい。ぴしゃりと言い放ち、ヴィンセントを沈黙させる。
「なんだか騒々しいようですが?」
「ええ、そうなの。今はまだ学院に入らない方がいいと思うわ」
「どうしてですの? 早く行かないと授業が始まってしまいます」
「どう説明したらいいかしら。ちょっとカードを探しててね。あ、カードって言うのは……」
アリサがどこから話すべきか迷っていると、「カード? カードってあれですの?」と、フェリスが少し離れた木を指さした。
その枝の一本にこれ見よがしにカードが吊り下がっている。エマが手にしているものと同じ白いカードだ。
「あ!」
「ま、待て!」
足を踏み出しかけたアリサを、とっさにリィンが止めた。
「露骨すぎるぞ。嫌な予感しかしない」
「確かに……」
「あなた達のやりたいことは、私にはよく分かりませんわ」
動かない二人を後目に、フェリスはすたすたと木に向かう。「ちょっと待って! もう少し慎重に行かないと!」と、アリサは制止の声を飛ばしたが、彼女はすでにカードを手に取っていた。
その直後、人ひとり収まるくらいの大きな金属製の鳥かごが、枝葉を散らして勢いよく落ちてきた。
「きゃあああ!?」
ガシャーンと捕らわれるフェリス。さらに鳥かごの上部から、真っ黒い液体がドボドボと注がれてくる。
「やっ! なんですの、これえ! 墨? いやああ!」
黒く染まっていく白い学院服。この上ない嫌がらせである。かごは強固で重く、フェリスの力では出られない。わたわたともがくフェリスを見て、誰よりも早く動いたのはヴィンセントだった。
「待っていろ! この兄が助けるぞ!」
駆け寄ったヴィンセントは、かごを必死に持ち上げようとする。
「ダメですわ。お兄様の服まで汚れてしまいます」
「愛する妹を救う為に、服の汚れを気にする兄がどこにいる」
「か、かっこいいですわ。めずらしく!」
胸打たれる兄妹愛の一幕を割いたのは、落ちてきたもう一つの鳥かごだった。事態に気付く間もなく、ヴィンセントもフェリス同様に捕らえられる。もちろん墨シャワー付きだ。
「のおおお! 助けてくれ、サリファー!」
「やっぱりかっこ悪いですわ。というかいつまで流れてきますの、これ!?」
兄妹の叫びは、その後しばらく続いた。
墨がようやく止まる。
かごの中にいる方が安全だとの判断で、フロラルド兄妹には事態が収拾するまで、そのままで待機してもらうことになった。フェリスは不平満々だったが。
足先まで真っ黒になったフェリスから、かごの隙間越しにカードを受け取ったアリサが戻ってくる。
「カードも真っ黒だったが、軽く拭き取ると墨汚れはすぐに取れた。カードの表面には➀と番号が振ってあり、裏面には何やら文章が書かれている。
内容をアリサが読み上げた。
“――歴史と共に歩みし、
勇壮なる友人の影を追え――”
例によって暗号めいた指示であるが、その意味はともかく、一つのパターンがこれでようやく見えてきた。
今まで得た情報から推測できる概要を、エリオットが取りまとめる。
「多分、白いカードには➀から➃までの番号があって、それぞれに指示が書かれているんだ。文章が示した先にあるのが“四色の導”だと思う」
そこで言葉を区切って、「問題は……」と重い声音で続けた。
「指示が書かれている白いカードを探すのに、今のところヒントはないみたい。ただ今みたいに、すぐ目につく所に設置されている可能性は高いんじゃないかな」
「つまり餌ということか」
明白な理由にラウラが顔をしかめた。
指示カードの場所を明記しなければ、必然学院中を探し回らねばならない。そうすれば罠にかかる可能性も増えてくる。
さらに指示カードが分かりやすい場所にあるのは、あくまでその次の暗号解きをゲームの要にしていることと、フェリスたちがかかったように、カードを囮にして周りに罠を仕掛けているからだと予想できた。
加えて深読みするなら、このようなやり方ができるのは、白い指示カードを探し回る過程で、段階を飛ばし“四色の導”とやらに偶然辿り着くことはないという自信の表れとも取れる。
「やるしかないぞ、これは……!」
「同感だ」
マキアスとユーシスが同時に拳を固めた。
罠を回避しながら、白いカードを見つけ、指示暗号を解読し、各班で“四色の導”に辿り着き、その先にあるであろう私物を取り返し、最後にちびっこ共に然るべき制裁を与える。
最後が肝心だ、最後が。と、何人かは目が本気である。
要するに変則式フィールドオリエンテーション。その過程に罠があり、実害が身体にも及ぶ当たり、怪盗紳士のそれよりタチが悪い。
「よし、じゃあ改めてチーム分けだ!」
進むべき道が明確となり、リィンが音頭を取る。
彼も彼で、エリゼからの手紙を奪われているのだ。下手をすれば、トラップにかかるより手ひどい目に合ってしまう。兄の尊厳諸々の為にも、ここは絶対に退けないところだった。
顛末を見守っていたクロウが口を開く。
「俺も協力するぜ。なんたってレポート取り返さないといけねえしよ。まあ、差し当たってはお前ら……」
彼は至極真面目にこう言った。
「とりあえず俺を木から降ろしやがれ」
●
時は少し遡り、Ⅶ組が学院についた頃。
ケネス・レイクロードは中庭近くの木に吊り下がっていた。
「こ、このっ」
体勢はクロウと同じで、頭を下に逆さま状態である。
腹筋を使って必死に上体を起こし、足首を縛っている紐を解こうとする。しかし何度挑戦しても手が届かず、ついには力尽きてしまった。
なんでこんなことになったのか。経緯は確かこうだ。
いつものように朝釣りに興じていて、休憩がてら木陰に座った。すると足元の土くれが弾けて、気付けば宙吊りになっていた。実にシンプルである。
誰が何のために仕掛けたのかは知りようがないが、本来ならそこまで焦る必要もなかった。通りがかった人にでも助けを求めればいいのだから。
「ふっ、ふっ!」
それでもケネスは諦めずに脱出を図る。悠長に助けなど待っていられないのだ。急く理由が彼にはあった。
「早くしないと……っ!」
奴が――。
「おやおや」
深みのある渋い声音が、池の水面を揺らめかせた。砂利道を踏みしめる、ゆったりとした歩調が不穏に耳朶を打つ。
「あ、あああ!」
奴が来てしまった。
「いい朝だ。釣れているかね。いや、察するに今日は君が釣られたのかな?」
「あひいいい!」
絶望が押し寄せる。
芳醇な花の香りに誘われる蝶のように。否、巣にかかった獲物を捕食する蜘蛛のように。
澄んだ空気を粘度のある濃紫のそれに変えて。輝く朝日を淀んだいかがわしいバックライトに変えて。
歪んだ愛の伝道師、用務員ガイラーがその場に姿を現した。
「た、助け……」
ガイラーと遭遇したあとのケネスの記憶はことごとく曖昧で、その身に何が起こったのかさえ覚えていないことが多い。
だが恐怖は体に刻まれている。心が悲しみを忘れない。
条件反射というか、もはやPTSDの域。過呼吸寸前、すでに指先まで強張っていた。
ガイラーは宙吊りになったケネスの前に立つ。
上下反転する視界の中、怯える瞳でガイラーを見返すケネス。太陽を背にしている為、彼の表情は逆光で暗い。その闇に邪悪な三日月の笑みが浮かんでいる。
「実にいいね」
「ひぃっ!?」
妖艶に蠢くしわがれた魔手が、ぬらりと伸びてきた。
銃声が響いたのは、ケネスが短い悲鳴を上げ、ガイラーが愉悦に目尻のしわを深めた時だった。
続け様の銃声。一発目の威嚇と違って、二発目はガイラーの足元に着弾した。ガイラーは俊敏に背後へ跳躍し、ケネスとの距離を開ける。
その場に割って入ったのは、フィーとミリアムだった。
「ほう……お嬢さん方。私に用かな。それとも彼かな」
「ケネスの方」
フィーが答えると、ガイラーはあっさりと踵を返した。
「では私は退散しよう。今から落ち葉を焼かないといけないのでね。――ああ、そうそう、ケネス君」
足を止め、彼は続ける。
「一つ予言しよう。君は近い内に目覚めの時を迎える。私のこの言葉、よく覚えておくといい」
心を蝕むような、毒を孕んだ声音にケネスは身震いをした。
ガイラーの姿が見えなくなってまもなく、ケネスはトラップから解放された。紐をナイフでずっぱり切るという手荒な方法でだったが。
どさりと地に落ちたケネスは、頭をさすりながら身を起こす。
「あ、ありがとう。君たちのおかげで助かったよ」
「ケネスに手伝って欲しいことがあるんだけど」
礼に応じるでもなく、フィーはそう言った。
ケネスは直感した。協力したらダメなやつだ。どうにかして逃げないと。
フィーの手にある一対の双銃剣がぎらついた。あたかもその考えを制するかのように。
研ぎ澄まされた刀身に、怯えを隠せない自分の顔が映っている。
藁にもすがる思いで、その横にいるミリアムにも目を向けた。彼女は屈託のない笑顔をだったが、その背に物々しい雰囲気が漂っている。
景色が歪み、ほのかに青白い燐光が散っていた。
……何かいる。
得体の知れない畏怖を感じ、尻もちを付きながら後じさるケネスに、フィーはもう一度変わらぬ口調で告げた。
「手伝ってほしいことがあるんだけど」
ちびっこ二人が、にじり寄る。
●
校舎内も散々たる有様だった。正面入り口を入ってまず目についたのは、受付嬢のビアンカが机に突っ伏す姿だった。
いつも澄んだ声で来客を出迎える彼女は、今や喉の奥から「み、水……」と掠れた声を絞り出している。その手元には、倒れてコーヒーを滴らせるマグカップがあった。おそらく飲み物に何か仕掛けられたのだろう。多分辛いやつを。
「ビアンカさん!」
「今はダメだ!」
とっさに手を差し伸べようとするリィンを、クロウが鋭く制止した。
「目的を見失うな。俺たちが時間をかければかけるほど、この惨状が拡大していくんだぜ。水を用意してやりたいが、水道にも何か仕込まれている可能性は高い」
「それはそうかもしれないが……!」
断腸の思いで、リィンは出しかけた手を戻す。すがるようなビアンカの目は直視できなかった。
「それでいい。俺は端末室に走る。お前は分かってるな?」
「ああ、俺は学院長室だ。女神の加護を」
互いの手を打ち合わせ、二人は道を分かつ。
Ⅶ組第一探索班、リィン、クロウ組の役割は、各所への報告、通達だ。
「失礼します!」
無礼を承知で、ノックの返事も待たずリィンは学院長室のドアを開く。
ここまでの学院トラブルとなると、さすがに学院長への報告が必要だ。
息が上がるリィンとは逆に、いつもの椅子に腰掛けるヴァンダイクは落ち着いたものだった。
「騒がしいようじゃが、まずは報告を聞こうかの」
立派なあご鬚をしゃくり、ヴァンダイクは机越しにリィンを見た。
現在の状況について、端的な報告を行う。
話を聞き終えたヴァンダイクは、おもむろに机の引き出しから一枚の白いカードを取り出した。
「そのカードは……!」
「今朝、この机の上に置かれておっての。意味の分からん文章も書かれていたので、いたずらの類かと思っていたが」
ヴァンダイクからカードを受け取ったリィンは、裏面を確認してみた。先ほどと同じく暗号めいた文章が書かれてある。表面の番号は➃だ。
その内容は。
“――定まらぬ三色を束ねしは翡翠の衣。
その背を支えし裏を暴け――”
相変わらず不明瞭な言い回し。これを見て、余計に違和感が大きくなる。やはりおかしいのだ。
その時、室内スピーカーにノイズが走った。
館内放送だとすればクロウだ。
無事に端末室までたどり着けたらしいと安堵したが、その直後にスピーカーから響いたのは『ぐっ……!』と押し詰まる彼の声だった。
二階端末室。様々な導力機具が並ぶ部屋の一角に、放送用の設備がある。そのすぐそばの床に、クロウは倒れていた。
「ああ、くそ……」
悪態を付く彼の体は水でずぶ濡れで、時折不自然にピクピクと痙攣している。
「あの、ちび……ども」
二階は二階で大変なことになっていた。
途中目に入った音楽室では、お団子頭の女子生徒がピアノの屋根にばくりと挟まれ、じたばたともがいていたし、調理室では顧問のメアリー教官がむせび泣きながら、真っ赤に染まって動かないニコラスの顔をハンカチで拭っていたりした。
一瞬ぎょっとしたが、匂いからして多分トマトペーストだ。もっともどうして彼がトマトまみれなのかは、想像もつかなかったが。
さらにどんなトラップにかかったのか、数名の生徒は廊下の壁に張り付けられていて、それはもう聞くに堪えないうめき声をあげていた。
死屍累々の中を走り抜け、クロウは端末室に辿り着く。
一応は警戒しながら扉を開けたが、そんな慎重さを嘲笑うかのように、室内に足を踏み入れた途端、水がたっぷり入ったバケツが天上から落ちてきた。想定外の一撃を回避することはできず、あっという間に水びたしである。
それはまあいい。ここまでのトラップを省みるに、まだ可愛い類と言えた。
とはいえ笑って済ます道理はなく、操作盤まで大股で歩み寄り、クロウは荒々しく館内放送のレバーを起こす。続いてマイクを手に取り、本体スイッチを入れた。
その瞬間だった。バチリと弾ける音がして、体内に電流が駆け抜けた。
自分の意志とは無関係に背が仰け反り、あっという間にその場にくずおれて――今に至る。
「ぐうう……まじか」
これはない。先の水びたしも電気を通しやすくする為の仕掛けだったのだろう。凶悪過ぎるトラップだ。
痺れの残る体を無理やり起こす。水を吸って重たくなった服の感覚が気持ち悪かった。
「お前らの思い通りにさせるか……っ」
台の端に手を付き、上体を持ち上げ、クロウは今一度マイクを手に取った。
一般的な放送マイクと一緒のタイプで、本体のスイッチを押し込んでいる間のみ機能する仕組みだ。そして電流はそのスイッチに連動して発生するらしい。
つまり放送中は常に電気を流され続けるわけである。
「上等だ。見てやがれ」
普段人の出入りの少ない端末室にわざわざ罠を仕掛けるという事は、誰かがこの放送機能を使うと見越していたからだ。逆を言えば、放送による周知や注意促しをして欲しくないということでもある。
二度三度と深呼吸をして、クロウは心の準備をする。
本来なら体の水気を取り、絶縁体のゴム手袋を用意したいが、あいにくとそんな時間はない。というか、これまたわざとらしく、端末のすぐそばにゴム手袋が置いてあるが、どう見ても怪しい。この状況で使えと言われて使うお人好しはまずいない。
「なめんなよ」
きっぱりと言い捨て、クロウはマイクのスイッチを押し込んだ。すぐに容赦ない電撃が襲い来る。
『ぐっ……二年のアームブラストだ。端的に今のっ……状況と打開策だけ伝えるっ……!』
骨身に走る耐え難い苦痛に、途切れ途切れになる言葉。それでも彼はスイッチから手を離さなかった。
『ほとんどの奴が分かってる、と思うがっ、学院内に罠が、仕掛けっ、られてる』
まだだ。耐えろ。
『この惨状を終わらす、ためには……っ! 学院のどこかにある白いカードがっ、必要だ……多分四枚ある。それをっ、見つけたら、Ⅶ組にっ! 近くの赤い学院服着てる奴らに渡せ!』
言い切った。だがあと一言だけ。
『……リィン、合流は出来そうにねえ。あとはっ、お前らに任せるぜ……っ』
末期の力を使い切り、クロウは再び倒れ込む。全ての感覚が消え失せて、もう指先一つ動かせなかった。
そんな彼の顔の上に、ゴム手袋がはらりと台から落ちてくる。
いたって普通。異常なし。ゴム手袋に罠は仕掛けられていなかったのだ。
そうではない。疑心暗鬼を煽り、逆に素手で行かせる選択に誘導する――あえて何も仕込まないという罠。思考を制限する心理の檻。冷静に考えればガラス、プラスチック、木片、いずれも絶縁体だ。やり様はまだあったかもしれないのに。
「そりゃねえぜ」
心をへし折られ、クロウはがくりと気を失った。
「クロウ―――ッ!!」
放送が切れ、学院長室にリィンの叫び声が響き渡る。言葉を詰まらせるリィンに、ヴァンダイクが声を掛けた。
「ああ、リィン君。取り込んでいるところ悪いのだがね」
「すみません、つい。ですがクロウの放送にあった通りです。フィーとミリアムが仕組んだようなのですが、事態は必ず自分たちで収拾させます」
ヴァンダイクから受け取ったカードを手に、リィンは足早に学院長室を退出する。
扉が閉まり、一人残されたヴァンダイクは「むう……」と、難しい顔を浮かべた。
「いつの世代も若者はせっかちじゃな。どれ」
ふんふんと鼻息を吐きながら、体を揺さぶってみる。結果は変わらなかった。身動きが取れない。
完全に椅子と尻が接着されている。迂闊であったと、ヴァンダイクは心中で歯噛みした。
よもやこの椅子にまで仕掛けていくとは豪胆この上なし。学生のいたずらを本気で怒る気にはなれなかったが。
「うむ……困ったわい」
トイレに行きたい。最近なんだか近くなった気がする。接着しているのはズボンだけなので、どうにか抜けられるかと思ったが、座位のままでは上手く脱げそうになかった。
そうこうしている内に、尿意が波となって押し寄せてくる。
「ぬううう……!」
長きに渡る軍人人生で、ここまでの危機があっただろうか。退路を断たれ、補給もなく、敵軍に周囲を包囲されたが如き焦燥感。いや、それでさえ生ぬるく感じる。
「ぐうう……む?」
状況の打破を求め、忙しい視線が止まった先にあったのは机上の花瓶。
手を伸ばせばかろうじて届く距離にある。これは保健医のベアトリクスが東方の土産物を手に入れたからと、快く譲ってくれた花瓶だ。
「ふおっ………」
トールズ士官学院長にして、帝国軍名誉元帥。齢七十にして、極限の二択が迫っていた。
●
第二探索班は、ラウラ、マキアス、ガイウスである。
「なかなか見つからないものだ」
制服についた枝葉を払い落とし、ラウラは茂みの中から腰を上げた。三人は校舎沿いを一周しながら、指示の書かれたカードを探しているところだった。
「待てマキアス、そっちは木があるから近づくのは止めた方がいい」
見当違いの方向に進もうとするマキアスの手を、ガイウスが掴んで引き留める。
「す、すまない。視界がぼやけて方向がわかりにくいんだ」
まともに動けないのだから待っていた方がいいと、二人はマキアスを止めたのだが、『眼鏡は僕自身の手で取り返したい』と、彼は頑として応じなかった。
その時、大きな音がして、いきなり二階の窓が粉々に割れた。
とっさに頭をかばって伏せる三人。
ガラスの破片と一緒に飛び出してきた人影が、ドスッと重い音を立てて茂みに落下した。
「うう……痛い……」
「ん? カスパルではないか」
顔を上げたラウラが目を丸くする。
うめきながら身じろぎするカスパルだが、幸い茂みと土がクッションになって大事には至っていないようだ。
「意気は買うが、さすがに窓からの飛び込み練習は感心できないな」
「なわけないだろ……」
カスパルの額にはたんこぶがあった。落下のせいでケガをしたわけではないらしい。それについて言及してみるものの、彼は自嘲気味に笑うだけだった。
「まあ、そなたが言いたくないなら、それ以上は追求せぬが」
場所を考えるとⅣ組の教室から落ちてきたことになる。他教室にもトラップが仕掛けてあるようだ。
とはいえ、どうやら単にトラップに掛かったのとは事情が違うようで、何かを思い出しているらしいカスパルの瞳から一滴の涙がこぼれ落ちる。
「やはりどこか打ったのではないか」
「いいんだ。なんでもない……ほらこれ、持ってけよ」
案じるラウラにかぶりを振って「Ⅶ組の誰かに渡せばいいんだろ」と、彼は懐から一枚のカードを取り出した。
その手にあったのは➁と書かれた白いカード。
「それを探していたのだ。いったいどこで……」
「そんなのいいから早く行けって。俺はもうダメだ……もう、ダメなんだ」
完全に意気消沈である。ラウラは全てを失った男の目を見た気がした。
「とりあえずこの場から動かなければ安全だ。しばしの間、そこでじっとしているがよい」
「いっそ殺せよ……」
えらくナーバスなカスパルは一旦置いておいて、ラウラは白いカードの裏面を見た。ガイウスとマキアスも一緒になってのぞき込む。
カードにはこう記されていた。
“――揺れる鏡は四角き揺籃
その身を捧げ、贄となれ――”
●
「ひ、ひどい状態だよ、これ」
「目も当てられんとはこの事だな」
クロウの放送から少しあと、第三探索班のエリオットとユーシスは校舎内に進入していた。
現在は二階、各教室を調べ回っている最中である。悲鳴は収まる気配を見せず、あっちこっちの教室から助けを求める声が聞こえてくる。特にⅣ組の教室は騒々しいかった。
気にはなったが、まずは先にⅦ組の教室に向かうことにした。望み薄だが、フィー達が潜伏している可能性もあるのだ。
先に彼女達を捕まえることが出来れば、カード探しなどしなくても全てを終わらすことが可能だ。もっともあのすばしこい二人である。見つけても捕らえることの方が難しそうではあったが。
Ⅳ組の教室を通り過ぎ、Ⅴ組の教室に差し掛かった時だった。
エリオットの足が止まる。
「あ、あれ、ユーシス……」
「どうした?」
その視線を追い、ユーシスもそれに気付く。Ⅴ組の教室扉の前に、見知った顔が倒れていた。
ロジーヌだ。
「おい、しっかりしろ」
「ん……あ、ユーシスさん、これは、夢……でしょうか」
駆け寄ったユーシスが声をかけると、彼女はまぶたをゆっくりと開いた。その声は消え入りそうなくらい小さく、弱々しかった。
「ああ、女神よ。お慈悲に感謝します」
「どうした。なにがあった?」
ロジーヌは震える手で、教室の中を指差した。窓際のカーテンレールに白いカードが挟まっているのが見える。
「まさかお前、あれを取ろうとして……?」
「放送を聞いたんです。ユーシスさんの力になりたくて、それで――」
「もうしゃべるな」
ロジーヌを優しく横たわらせて、ユーシスはすくりと立ち上がる。
「エリオット、ロジーヌに回復アーツをかけてやってくれ」
「もちろんだけど、ユーシスはどうするの?」
「決まっている」
彼の目は真っ直ぐに白いカードを見据えていた。
「い、いけません。あそこにはまだ私が掛かったのと同じ仕掛けがあるかもしれません。悪魔の所業としか思えない、あの罠が……!」
「しゃべるなと言った」
怖れなど微塵も感じさせない、いつもの憮然とした足取りで、ユーシスは教室に足を踏み入れる。
廊下からでは分からなかったが、荒れた教室内にはⅤ組の生徒達の屍がいくつも転がっていた。
写真部のレックス、ちょっと前にⅦ組同士の屋台勝負を持ちかけてきたベッキー、そして個性と言ったら前髪しかないムンク。いずれも黙して床に伏していた。
「……お前もⅤ組だったか」
窓際の壁に背を預けて、うなだれるポニーテールの少女に視線を注ぐ。同じ馬術部のポーラだった。
ユーシスは彼女の前に膝をついた。
思えばマキアスとポーラくらいだったかもしれない。正面切って自分に噛みついてきたのは。
しかし今や彼女は動かない骸と化し、憎まれ口の一つも叩かない。
「……お前の馬の世話は俺が引き継ごう」
わずかに目を伏せ、ユーシスは己の胸に手を添える。それは同じ馬術部として捧げる、彼女へのささやかな哀悼の意だった。
瞳に憐憫の色を揺らがせたのもわずか、ユーシスは鋭くなった目を白いカードに向けた。
忌々しい事の元凶め。俺のクッキーを返せ。
憤懣をあらわに、ユーシスは➂と記されたカードを勢いよくむしり取る。
「ふん、結局なにも起こらないではないか。ごぶっ!?」
直後、頭に衝撃が走る。ゴワアアンとドラを打ったような残響が脳内を揺らした。
ふらふらとたたらを踏むユーシスの足元を、光沢のある
恐れていた光景を目の当たりにしたロジーヌは、「そんな、ユーシスさん……」と絶望に塗られた顔を両手で覆う。
「これが私たちⅤ組を葬り去った悪夢。金だらいが教室を蹂躙する様は、まさに煉獄。悪魔の顕現としか言い表せないほどでした」
「なにそれ……」
口を半開きで固まるエリオットである。
よくよく見れば、教室の中は金だらいだらけだった。ついでにロジーヌのすぐそばにも特大の金だらいが転がっている。なぜこれを最初に怪しまなかったのか。
「う、受け取るがいい」
ふらつきながらも、ユーシスはカードを投げる。エリオットはひらひらと飛んでくるカードを掴むと、すぐに裏面を確認した。
“――幾万の叡智に眠る、
紅蓮の魔人を呼び起こせ――”
「うん、指示が書いてある。ユーシスも早くこっちに!」
エリオットが顔を上げると、すでにユーシスは床に伏す屍の一体と化していた。
●
「この騒ぎはフィーたちだけで起こしたわけじゃないってこと?」
「あくまで勘ですが」
第四探索班。驚くアリサに、エマはそう告げる。
一連の事態の中であった、いくつもの違和感にいち早く解を出したのは、やはり彼女だった。
「まず指示が書かれたこのカード。フィーちゃんたちが考えた文章ではない気がします」
凝り過ぎている、というか語彙の数々からして二人らしくない。
「あとは仕組みが出来過ぎていることでしょうか」
各人の私物を質にしてゲームに強制参加させ、そのエリア内に罠を仕掛ける。これくらいならまだ二人の仕業、発想だと納得できる。カードを使ってヒントを出すというのも然りだ。
だが白いカードを餌に使って広範囲の人間を罠にはめたり、班別行動に誘導するようなルール設定を組み込んだりと、この計算されし尽したような場の運びは、果たしてあの二人だけで実現可能なのだろうか。
そしてエマにとって、もっとも大きな違和感があった。
それは“遊び”がないこと。
多少なり大雑把なくらいで丁度いい二人である。それは何かと世話を焼くエマがよく知っていた。
なのに今回は無駄がない。洗練されているというべきか。
フィーとミリアムに混じって、要所要所でらしくない色が垣間見えるのだ。
それが第三者の介入をエマが予測した理由だった。
「言われてみれば確かにそうかもしれないわ」
「ただ証拠はありませんので、最終的にはフィーちゃんたちに聞くしかないんですけど」
「そうよねえ……ふふ」
アリサの背に黒いオーラが揺らいでいた。
「あ、あんまり怒らないであげて下さいね? えーと、アリサさんは日記を持って行かれちゃったんですよね。日記をつけてたなんて知りませんでした」
「あの日記をもし読んでいたら、二人とも木に縛りつけて頭の上にリンゴを置いて、矢の的にしてあげるんだから」
「ちょっと落ち着きましょう!?」
そこまで言わせる日記の内容が気になるエマだったが、質問することはやめておいた。口に出したら三つ目のリンゴを頭に乗せられかねない。
その折、目的の場所に到着する。
「……多分ここよね」
フェリスから受け取ったカードを軽く掲げ、アリサはグラウンドを見渡した。
“――歴史と共に歩みし、勇壮なる友人の影を追え――”
エレボニアの歴史は戦いの歴史でもある。戦において欠かすことが出来ず、その役割が戦車に移行した現代でも、生活から離れ、廃れたわけではない。
なるほど、確かに“友人”と呼べるかもしれない。
「アリサさん。あれを」
グラウンドの奥を指し示すエマ。そこには雄々しく朝日を浴びる、一頭の馬がいた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「アリサさん、回り込みましょう!」
少しして、グラウンドには馬を追って走り回るアリサたちの姿があった。
グラウンドを縦横無尽に駆け抜ける馬の背には、一枚の茶色いカードが張り付けられている。体毛が保護色となって見えにくかったが、あれこそが“四色の導”――その一つなのだろう。
その馬の世話をしている最中に罠に引っ掛かったのか、馬術部部長のランベルトは馬舎の前で大きな巻き藁の下敷きになっていた。
「人間が走って追いつけるわけないじゃないの……!」
肩で息をしながら、アリサは喘ぎ喘ぎ言う。
こっそり近づいてカードを取るはずが、あっさり見つかってしまい、勝ち目のない追いかけっこをする羽目になったのだ。
「……草食動物の視界の広さを失念していました」
馬の視界範囲はおよそ三五〇度。しかも単眼視と言って、左右の目で別々の物を捉えることができるチート仕様だ。目立つ赤服など、草原の天敵より遥かに見つけやすい。
「とりあえず隅に追い込むわ――きゃあ!?」
再び走り出したアリサだったが、出足の一歩目で地面に腰までズボッと沈む。
「ま、また落とし穴? いい加減にしてよね!」
「お洗濯間に合うでしょうか……」
馬を追う過程で、エマもアリサもグラウンド中に掘られた落とし穴に幾度となくかかっていた。
しかも穴の中に水を染み込ませてあるらしく、もう二人とも泥だらけである。
なぜか馬は落とし穴に引っ掛からない。うまく穴の上を飛び越えるあたり、馬の鼻でしかわからない印があるのかもしれない。
「このままだと埒があきません。高低差を使いましょう。周囲ほぼ全てを視界に入れられるといっても、上は死角になるはずです」
エマが見たのはグラウンドを出て、段を上がったところにある焼却炉だ。その端のスペースはグラウンドと隣接しているので、馬が近くに来さえすれば、手を伸ばして背に届く位置と高さである。
そこに誘導する自体がすでに簡単ではないが、思い浮かぶ策が他にない。
役割分担を決め、エマは焼却炉に向かい、アリサはじりじりと馬に迫った。
「そろそろかしら」
エマが配置についた頃合いである。しかし焼却炉付近に彼女の姿は見えなかった。
「……エマ?」
迂闊だったと言うしかない。
所定の位置に向かう為、エマが焼却炉の前を通過した時である。
両開きになった焼却炉の扉から細いワイヤーが伸びていて、彼女は気付かずにそれを踏んだ。
足首は一瞬でからめとられ、そのままシュルシュルと焼却炉の中に引きずり込まれてしまったのだ。
「ア、アリサさん、気付いて」
グラウンド側からは焼却炉自体が壁となっていて、多分すぐには分からない。
この状態でエマは確信した。
やはりフィー、ミリアム以外にも誰かが一枚かんでいる。なぜなら自分の足を巻き取るこのワイヤーが、機械仕掛けだからだ。
フィーの罠は自然にあるものを利用することが多い。このような機械を使った罠はどちらかと言えば専門外のはずだ。
それに機械なんてそうそう手に入らない。最初から持っていたとも考えられない。いったい誰が助力している? その人物が機材を提供した人物なのだろうか。
「うう、炭くさい……それに煤だらけ」
さすがに焼かれるわけではなさそうだ。しかしワイヤーは複雑にからまっていて、すぐに取れない。
苦心してワイヤーを解こうとするエマだったが、不意に自分以外の息遣いを感じて、その手を止めた。
「今日はいい日だ」
冥府から届いたような深く、低い声だった。そして、知っている声だった。
強張った首を稼働させて、声のした方に硬い動作で向き直る。
狭い焼却炉の中に、白髪の用務員がにたりと薄ら笑いを浮かべていた。それも三角座りで。
「やあ、エマ君」
「ガ、ガガガッ、ガイラーさん!? どうしてここに!?」
「なに、落ち葉を焼こうとやってきたのだが、うっかりワイヤーに足を取られてしまってね。今まで動けずにこの体たらくだよ」
それは嘘だと分かる。彼の足首はもうワイヤーで縛られていない。
「解いたのなら早くここを出ればいいじゃないですか」
「誰かが私と同じような目に合った場合、ワイヤーを解く人間が必要だろう。やむなくここに留まっているわけだ」
違う。新たな獲物を待っているだけだ。
「この罠を自分のものにして、悪用する気ですね」
「はて、何の事だかわからないな」
「でしたら、私のワイヤーを解いて頂けませんか?」
「待ちたまえ。そう急くものでもない」
そう言って、懐から何かを取り出す。封筒に入った原稿用紙だった。
嫌な予感――どころか確信に、エマは作り笑いを引きつらせる。
「見たまえ。『クロックベルはリィンリィンリィン』の最終章だ。君の意見を聞かせて欲しい」
「い、急いでいますので!」
この上は機械ごと抱えて外に出ようとしたが、勝手に焼却炉の扉がバタリと閉まった。
「き、きゃあ!?」
真っ暗闇である。問答無用とばかりに、ガイラーの朗読が始まった。
『後夜祭、俺はクロックと踊りたいんだ』
『ああ、とびきりのワルツを披露してやろう。おいおい、リィン。頬に米粒ついてるぜ』
『はは、恥ずかしい所を見せたかな』
『そんなお前だから放っておけねえのさ』
暗闇で文字など見えるわけもないのに、スラスラと読み進める。
『リィン、後夜祭が終わったらお前に言わなきゃいけねえことがある』
『え、クロック。それって――』
「いやあああ!」
エマの絶叫。止まらない朗読。
焼却炉の中は、ある意味燃えていた。
「も、もうダメ」
体力を使い果たし、膝を折るアリサ。
エマの悲鳴を聞く限り、多分トラップにかかってしまったのだろう。救出に行きたかったが、アリサもすぐには動けそうになかった。
馬は悠然と鼻を鳴らしている。
「……フィーたち、覚悟していなさいよ」
それでも立ち上がったのは、使命感と日記の為だ。だが体力はどうやっても戻らない。気力だけでは馬に追いすがれない。
「アリサ、大丈夫か!」
今にもくずおれそうなアリサの体を、慌てて走ってきたリィンが支えた。
「学院長への報告は終わったの?」
「ああ、クロウとの合流はあきらめて、とりあえずグラウンドに来たんだが。今どういう状況なんだ?」
アリサは簡単な経緯と、茶色いカードが馬の背にあることを説明した。
「そうか。任せてくれ」
「なにするつもり? 一人じゃ無理よ」
リィンはすたすたと馬の下に向かう。不思議なことに馬は逃げる素振りを見せなかった。
「追い回したりして済まなかった。お前の背にあるカードを取りたいんだが構わないか?」
頭を一撫ですると、馬は静かに体を屈めた。
カードを手にしたリィンは、アリサのそばまで戻って来る。アリサは素直に驚いた。
「あなた、すごいわね」
「馬は賢いからな。追えば逃げるに決まってる。というかアリサだって乗馬できるんだろ」
「私はたまにしか乗らないし……。で、そのカードは?」
茶色いクリアカード。色がついている以外で目立つところはなく、新たな指示も記載されていなかった。
「どういう意味かしらね」
「わからないが、“四色の導”の一つ目ってことは間違いないと思う。後で皆にも連絡してみよう」
「はあー、走り回って疲れちゃったわ」
へたり込み、地面に手をつくアリサ。そして手をついた地面がまたしても陥没し、今度は腕から落とし穴にはまった。
「きゃっ!」
「アリサ!」
間髪入れずにリィンはアリサを引き戻す。体までは落ちなかったが、彼女の腕は泥まみれだった。
「大丈夫か?」
「あ……」
リィンが差し出した手を掴む寸前、アリサは手を引っ込めた。
「一人で立てるわ。あなたの手が汚れちゃうし」
しかしリィンは構わず手を握って、アリサを立たせる。
「気にしないでくれ」
「あ、ありがとう」
赤らむアリサの頬。二人はしばらく手をつないだまま、その場で見つめ合っていた。
おずおずとアリサが口を開く。
「その……もう大丈夫だから、あの……手を離してもいいかしら。さすがに恥ずかしいし」
「いや、握っているのはアリサだろう?」
変な沈黙。
二人は繋いだ手をぶんぶんと振った。
「ちょっと、冗談やめてよ」
「ア、アリサこそ」
ピタリと同時に手を止め、二人は先程の落とし穴に視線を転じた。中には水にしては粘り気のある液体が、なみなみと注がれている。
「もしかして接着剤……か?」
「うそでしょ?」
もう一度手を振ってみる。結果は変わらなかった。がっちり繋いだ手が離れる気配は微塵もない。
お互い顔を見合わせ、乾いた笑みを浮かべる。
残る“
トラップもトラブルも、まだまだ終わりそうになかった。
~中編②へ続く~
中編①をお付き合い頂きありがとうございます。
動き出した各勢力。なぜか巻き込まれるケネス。一話の内に二回も登場したガイラーさん。Ⅶ組も何人かはトラップの餌食になってます。
Ⅴ組は金だらいで全滅。Ⅳ組に何があったかは、その内明らかにしたいと思います。学院長のその後も合わせて……。
ではでは激化するトラップ騒動。次回の中編もお楽しみ頂ければ幸いです。