「今夜肝試しをしてみないか?」
事の始まりはリィンのそんな提案からだった。
彼の呼びかけで、第3学生寮のエントランスに集められたトールズ士官学院Ⅶ組の面々は、突然の提案に困惑の表情を浮かべた。
「いきなり召集をかけたと思ったら、いったい何を言い出すのよ?」
普段のリィンらしからぬ突飛な発言に、アリサが最初に反応する。
「そもそも、肝試しというのは何だ?」
ガイウスが問う。どうやら故郷のノルドでは肝試しという文化、というかイベントはないらしい。高原暮らしの彼の集落にとっては、該当する場所は遺跡くらいで、加えて夜の高原に出ることは肝試しどころか、命を懸けるに等しい。無くて当たり前の慣習だ。
エリオットが彼の疑問に答えた。
「肝試しっていうのはね、ちょっと怖い雰囲気のところに行ったりする……まあ、度胸試しみたいなものだよ」
「あえて魔獣の多い道を進むというわけだな。精神鍛錬の一種でもあるわけか」
「ちょっと違う気がするけど……でもリィン、なんで急に肝試しなんて言い出したの?」
雰囲気でも出そうとしてか、リィンは声音を低くして言う。
「実は最近、学院内で不可解なことが起こっているらしい」
不可解なこと。そう言われⅦ組メンバーが真っ先に思い浮かべたのは、他でもない旧校舎だ。もはや不可解のデパートと言っても過言ではないのだが、リィンが言うには今回の件は旧校舎のことではないらしい。
「グラウンドやギムナジウム、図書館に学生会館、あと本校舎。まあ学院全体だな」
ギムナジウムと聞いて、首をかしげたのはラウラだ。彼女は水泳部であることから、この中では一番ギムナジウムを使用する頻度が高い。
「私はそのような話を聞いたことがないぞ。そなたが言っている不可解なこととは、具体的にどのようなものなのだ?」
「そうだな……たとえば誰もいない教室から物音がしたり、気づいたら物の配置が変わっていたりとか」
「ふん、くだらんな」
そうユーシスは言い捨てた。「まあ、確かにそうだな」と珍しくマキアスも意見を合わせる。
「その程度なら勘違いでも済まされる話じゃないか。まだ学園七不思議の方が信憑性があるぞ?」
「体験例も多いんだ。まあ、話を聞いてくれ。そもそも”ちょっと不可解な現象”が起きだしたのは今学期、つまり四月になってからだそうだ――」
リィンの話によると、その四月から始まったという不可解な現象も、最初の内は物の位置が変わったりといった程度だったらしい。しかし月日が経つにつれ、物音がしたり、何かの気配を感じたりと、徐々に現象が具体性を増していき――
「――ついに二週間程前にそれの目撃証言が出た」
一人の女子生徒が忘れ物を取りに、学生寮から本校舎まで戻った時のことだ。
時刻は夜の八時過ぎ。女子生徒が二階の廊下に差し掛かった時、遠くに黒い人影が見えた。
遅い時間に誰かいるのだろうかと、不信に思った彼女が用務員に報告に行こうと思った矢先、その影はゆらゆらと動き、しばらくするとスッとその場から消えてしまったらしい。
この時はそれだけだったのだが、その日を境にそれ以降学院内のあちこちで同じような影が見られるようになった。その時間も日が落ちてからで、部活などで遅くまで残っている生徒の目撃例が多い。
そしてその目撃者の中には生徒会長、トワ・ハーシェルも含まれている。
「それは……ちょっと気になりますね」
「ちょっとどころじゃないわよ! エマってそういうの大丈夫なの?」
「あ、えっと最近ホラー小説を読んだので耐性が上がったんですよ」
「普通、女子だったら怖がりそうな話じゃない……ね、ねえ?」
意外にも落ち着いているエマとは反対に、アリサはあからさまに動揺している。彼女は他の女性陣に同意を求めたが、
「ふむ。学院内の備品を許可なく移動させるとは、不埒な輩だな」
「だね」
しかし”普通の女子”ならぬラウラとフィーは、なんら気にする様子もなく二人で話し込んでいる。
「ま、まさか肝試しっていうのは、その不可解な現象の調査ってわけじゃないでしょうね!?」
「ああ、その通りだが」
当然のように肯定するリィンに、アリサはがっくりと肩を落とした。
「それに学院内調査の依頼を出されたのはヴァンダイク学院長だ。トワ会長が四月からの体験例や目撃例をまとめて学院長に報告にしたんだが、『じゃったらⅦ組の諸君に任せようではないか。旧校舎の調査もしているし、大丈夫じゃろう。はっはっは』とのことで――」
「学院長……無責任なことを……」
しかしそういうことなら断ることもできない。そう悟ったアリサはしぶしぶ承諾し、他のメンバー達も、やむなくの形で今回の調査に協力することになるのだった。
だがリィンの話の最中、ずっと押し黙っていた少女がいた。
「ミリアム? お腹痛いの?」
フィーが心配そうにミリアムのそばによる。彼女はぷるぷると震えていた。
「ボクは……ボクは行かないよーっ!」
「なんで? お腹痛いから?」
「お腹は痛くないよ! 怖いだもん! そんなとこ行くんだったら、ここでルビィと留守番してるから!」
ルビィ、というのは先日Ⅶ組が世話をすることになった子犬だ。今はソファーの上で丸まって眠っている。
「わかったよ、ミリアム。別に無理やりってわけじゃないし、ここで俺達の帰りを待ってくれ。校舎内でアガートラムに暴れ回られても困るしな」
「ほ、ほんと? よかった~」
リィンが言うとミリアムは安心したらしく、ソファーに座り込んだ。
「じゃあ、今回は俺も遠慮させてもらうぜ」
近くで話を聞いていたクロウも便乗した。
「なにかと忙しいんでな。お前らだけで行って来いよ。せいぜい幽霊とやらに呪い殺されないようにな」
怖がっていそうなアリサやエリオットにわざとらしくいつもの含み笑いを浮かべると、クロウはそそくさと自室に戻っていった。
「あの人、確実に楽しんでいるわね」
「本当は僕も行きたくないんだけど……」
こうして一夜の肝試し、という名の幽霊調査が幕を開けた。
《★★★夏夜の幽霊騒動★★★》
リィンはトワから預かった鍵を使い、正門の扉を開いた。学院長からの計らいで、今日はこの時間でも各施設に入れるようになっている。
夏とはいえ、すでに日は落ち、辺りは暗い。
薄闇が校舎を包み、昼とは全く違う様相を醸し出している。漂う空気や時折頬を撫でていく風も、今日はどこか寒々しく感じるほどだ。
アリサは身震いした。
「や、やっぱり雰囲気あるわね。……で、どうやって学院内を調べるのよ?」
「今回も班分けして、各施設を散策しようと思う」
そう言うとリィンは上着の懐から、いくつかの紐を取り出した。ちょうど人数分ある。
「今回は調査という形だが、実際は噂の事実確認が主だ。班分けはそこまで気を遣わなくてもいいだろう。夜の学院に入るのもそうあることじゃないし、せっかくだから肝試しのテイストも入れてみようと思って」
紐ごとに先端にはA、B、Cと書かれており、リィンはその部分を握って見えなくすると、紐の反対側をメンバーに向けて差し出した。
「まったく、そなたも酔狂だな。まあ、確かに班分けなどなんでも構わんが」
ラウラがまず最初に紐を引き、アリサ、エマと続いていく。
「もう、何だっていいわよ……」
「ちょっとドキドキしますね」
紐を引き終わったところで、全員のアルファベットを確認すると、
A班……ユーシス、アリサ、マキアス
B班……フィー、ラウラ、エリオット
C班……リィン・エマ・ガイウス
「認めないぞ! なぜ僕がまたこの男と一緒の班なんだ!」
「うるさい。幽霊などよりよほど面倒そうだ」
案の定、班分けに異を唱えたのはユーシスとマキアスだったが、さすがにくじの結果を変えることはせず、互いに牽制しながらも班を組む。
「あなた達、本当に頼むわよ!? 一番とばっちりを受けるのは私なんだから。それとリィンの班は偏ってない?」
「そうか?」
C班はリィン、エマ、ガイウス。いわゆる”気配を感じる人達”だ。もっともこの時点ではエマのその力は皆の知るところではないが。アリサが言いたいのは、危機感知能力に長けている人間が集中しているということだろう。
先ほどから黙っていたガイウスが口を開いた。
「……学院内に入った時から妙な気配を感じるのだ。敵意とは少し違うようだが……」
「変だな、俺は感じないぞ」
しかしリィンはかぶりを振る。
リィンとガイウスが読む気配というのは、似て非なるものだ。その本質は異なっている。
リィンは人体から発する気を読み、相手の位置や攻めの予兆を感じる武道の心得に則した技術である。
一方のガイウスは、自然の気の流れを――彼らが呼ぶところの”風”を感じることで、そこに存在する不可視を察するというものだ。
リィンが感じられず、ガイウスは感じ取った何か。
嫌な予感しかしない。
「うう……やっぱり、僕もミリアムと留守番しておけばよかった~」
エリオットは心底帰りたそうに第三学生寮の方向に振り返る。トリスタの町明かりがまるで別世界のようだった。
そんな彼に同じ班のフィーとラウラは力強く声をかける。
「大丈夫。エリオットのことは私が守ってあげるよ」
「うむ。なにも心配はいらない。我らの後ろに控えるがいい」
「二人とも、ありがとう。……普通は反対の気がするけど……」
全員の準備が整い、調査区域が決められた。
A班はグラウンドとギムナジウムを、B班は本校舎を、C班は図書館と学生会館を、それぞれ担当することになった。
「なにかあったり、わかったことがあれば《ARCUS》で連絡してくれ。これより学院内の調査を開始する」
リィンの号令の下、三班に分かれたⅦ組の幽霊調査が始まった。
●
――A班、グラウンド
「来てはみたけど、やっぱりグラウンドじゃ変わったこともないようね」
自分に言い聞かすかのようにアリサは言う。その声にいつもの張りはない。
「当たり前だ。さっさと一通り見回るぞ」
「君がしきるな」
「やめて、そういうの本当に今はやめて」
さっそく小競り合いを始めたユーシスとマキアスをアリサがなだめながら、三人はグラウンドを回る。面積は広いが調べる場所は限られているから、調査自体は手間ではなかった。倉庫、馬舎共に施錠されており、問題も特に見当たらない。
「はい、異常なし。異常はなしよ? 異議もないわね?」
グラウンドを一週し、アリサはそう結論づけた。
「まあ、当然と言えば当然か」
マキアスもどこか安心した様子だ。
「怖かったのならお前も寮で待っていてもよかったんだぞ。布団にでもくるまって、延々とメガネの手入れをしておけ」
「なんだ、その恐怖の紛らわせ方は……。それに本当は君だって――」
風が吹き抜けた。木々が揺れ、葉がざわざわと音を奏でる。これが昼なら心地よくも思うのだろうが、今はどことなく不気味に感じてしまう。
それ以上の口論を続ける気が削がれたマキアスは、深く息を吐き出した。その足元に、こつんと何かが当たった。
「これは……ボール?」
そこにあったのは小さな球。どこから転がってきたのか、不信に思いながらもマキアスはそれを拾い上げた。
「これ、アリサが持ってきたのか? このボールはラクロスで使うものだろう」
「あら、本当ね。でも今は休み中だから練習はないし、備品も倉庫に入れてあるはずだけど……」
倉庫に振り返ったアリサは、そこで制止した。赤い瞳が普段よりも大きく見開かれて、そのまま固まってしまっている。
マキアスはすぐにその理由に気づいた。
「あれ、倉庫の扉が開いてるようだが。さっき施錠の確認は三人でしたよな……?」
「待て。誰か倉庫の扉が開く音を聞いたか? 俺は聞いていない」
ユーシスが怪訝そうに問うと、二人は顔を見合せた。
倉庫の扉は野ざらしのせいで立てつけが悪くなっており、普通に開ければ必ず耳障りな音がする。仮にグラウンドの一番端まで三人が離れていたとしても、こんな静かな夜に音が届かないわけがない。にも関わらず、誰もその音を聞いていない。
「ま、まさか」
硬直したマキアスの手の平からボールがこぼれ落ちたその時、
――じゃり。
ボールが地面に落ちた音とは全く違う音が、少し離れた場所から聞こえた。
じゃり、じゃり。
砂地を踏みしめる音が、徐々に近づいてくる。だが三人の目には誰も映らない。しかも音の方向は倉庫側からだ。
ユーシスの判断は早かった。
「て、撤退するぞ!」
彼の言葉を合図に三人はグラウンドの外へと一目散に駆け出す。
「君も本当は怖いんだろう!?」
「うるさい! 戦略的撤退だ。このままギムナジウムまで行くぞ」
「いやあああ! もう行きたくないわ!」
――B班、本校舎一階
「エリオット、どうしたの?」
「な、なんかアリサの悲鳴が聞こえたような……」
「ふふ、エリオットは心配性だな」
各教室を回りながら、フィー、エリオット、ラウラたちB班は異常がないか確認していた。
特に目立った問題もなく、調査は穏便に進んでいる――というのはあくまでラウラとフィーの見解だ。
廊下などの共用部の電気は消えており、廊下は暗い。エリオットは明かりをつけたかったのだが、校舎内に導力を供給するメインブレーカーの場所まではさすがに分からず、暗がりをあるくハメになっていた。
「二人はもっと慎重になったほうがいいよ――ひっ」
自然と最後尾を歩くエリオットは、唐突に見えた明かりに思わずのけぞった。少し先、教官室前の廊下。その天井に設置されている蛍光灯が明滅しているのだ。
「なんで明かりがついてるの……しかもあそこだけ、へ、変すぎるよ」
しかも明滅の仕方が不規則で、どこか人為的だ。明らかに普通の状態ではない。
「蛍光灯が古いのかもしれん。明日にでも用務員殿に伝えておかねばな」
「目がチカチカするね」
ラウラとフィーは平然とその下を通り過ぎていく。
「いや、もう、ちょっとくらい気にしたら……」
この二人と離れることは今のエリオットにとって、魔導杖無しで単身旧校舎の捜索をするに等しい。
「だ、大丈夫、大丈夫。怖くない。そうだ、演奏会のことを考えよう」
大勢の観客に見られながらバイオリンを奏でるのだ。その緊張に比べたら、この程度はどうということはない。
精神の均衡を保つ想像をしながら、そろそろと廊下を通る。
蛍光灯の真下に来たところで、突然蛍光灯が消えた。そのバチンという音が、バイオリンの弦が切れた時のそれと重なり、同時にエリオットの中の何かも切れた。
「あれ、エリオット?」
「どうしたのだ。やはり気分が優れぬのではないか?」
エリオットは目を開き、一点を凝視したまま動かない。ラウラとフィーが同時に言う。
『……気絶してる』
――C班、図書館。
昼ですら静かな雰囲気の図書館だが、夜になるとその静寂はさらに際立つ。
先人たちが書き連ねてきたであろう蔵書の数々。一つ一つの書籍に書き手たちの想いがあり、その全てを納めているこの図書館は、ある種の厳かさを感じさせた。二階の窓から差し込む月明かりも、そう感じさせる一因だろう。
リィンは静謐な空気を吸い込んだ。
「なんというか、心が落ち着くな」
「夜の図書館もいいものですね」
本を借りることの多いエマだが、いつもと違う図書館の雰囲気を気に入ったらしい。青くにじむ月明かりが妙に似合っている。
ガイウスも本棚を適当に見回りながら、気になる書籍を手に取っていた。
「帝国の歴史か……一度時間を取ってゆっくり読み解いてみるのも面白そうだ。気になる伝承も多くある」
「ああ、各地の精霊信仰とか面白いと思う。帝国独自の伝承だと魔女とか」
エマがびくりと背を震わせた。
「リ、リィンさんは魔女に興味がおありですか?」
「興味……? なんで委員長、そんなに汗をかいてるんだ?」
入口カウンターや一階の本棚を確認し、続いて二階の読書コーナーなども一通り回ってみる。特に気になるものはなかった。
三人は一階のカウンターまで戻る。
「図書室は異常なしだ。ここはそろそろ切り上げるか」
「そうですね。次の施設に移動しましょう」
「二人とも待ってくれ。今、何かの気配が――」
ガイウスが足を止め、同時に二階から、ゴトンと重い音がした。しかし二階はこの位置からだと、暗くてよく見えない。
「……確認に行く。ガイウスと委員長はフォローを頼む」
リィンを先頭に、慎重に階段を上がっていく。目を凝らしてもまだ先は見通せない。どうやら月が雲で隠れてしまったらしく、先ほどよりも濃い闇が視界を阻んでいる。
今回の調査に武器は携行していない。《ARCUS》はあるから、万が一の時にはアーツの使用は可能だが、場所が場所である。火、水はもちろん、風系のアーツでさえも使いたくはない。
「……あの辺りの本棚か」
雲の切れ間から差し込んだ月明かりが再び薄闇を晴らし、本棚やテーブルの輪郭を青白く浮き立たせた。
「リィンさん、あれを。何かが落ちてます」
エマが指し示した先、一冊の本が床に落ちている。リィンは近寄って、それを拾った。
「この本が棚から落ちたらしいが……タイトルは『エレボニア帝国近代史』か」
そばの本棚を見てみるが、書籍の並びは整然としたもので、勝手に本が落ちるとは考えにくい。そもそもこの本が落ちたのは偶然だろうか。
本を開いてパラパラとページをめくってみるが、資料図と説明があるだけで、特に目を留めるような内容はなかった。
例の”影”が意図をもって起こしたこと、そう思うのは突飛すぎる考えか。本当に偶然落ちただけかもしれない。
リィンは本を閉じた。
「これ以上は何もないみたいだ。先を急ごう」
不意に《ARCUS》に通信が入った。
A班かB班のどちらかか。腰のホルダーから《ARCUS》を取り出し、リィンは応答する。
「こちらリィンだ。何かあったのか?」
しかし通信相手は探索メンバーではなかった。
『おーう、クロウだ。幽霊調査は順調かよ?』
緊張感が一瞬で消える軽い口調だ。
「クロウ先輩? どうして通信を?」
『トワからちょっと気になることを聞いてよ。今どこだ?』
「トワ会長から? 今は図書館ですが」
『ちょうど近いところにいるな。いいか。今から生徒会室に向かえ』
なぜと聞くより早く、クロウは言った。
『一人、幽霊候補が見つかった』
A班、ギムナジウム。
グラウンドから逃げて――ではなく、戦略的撤退を余儀なくされたユーシス、アリサ、マキアスの三人は、そのまま次の捜索場所のギムナジウムまで走り込んでいた。それこそタイムを計っていたら、自己ベストを叩き出していたであろう全力疾走で。
「はあっはあっ……もうダメかと思ったわ」
疲労困憊でアリサは壁に寄り掛かった。
「なんということはない。なんということはない……」
襟元を正すユーシスは、実技訓練でも見ないくらい汗をかいている。
「ああ、わかってる。今そっちに行くよ、姉さん。ははは、懐かしいな……」
マキアスは床に大の字になり、生気のない笑みを浮かべて何やら口走っている。体力と思考力が失われていた。亡き従姉の幻影でも見えているのか、嬉しそうに天井に向かって両手を差し出している。
「ちょ、ちょっとマキアス! そっちに行ったらダメよ!?」
「そっち方向であっているぞ。迷わず突き進め」
彼の意識を戻そうとするアリサと、逝かそうとするユーシス。
何度もうなされるマキアスだったが、結局意地が勝ったようで「誰が君の言葉に従うか!」と跳ね起きた。
その直後、奥のプールから水音が聞こえてくる。水しぶきが上がり、誰かが泳いでいるような音だった。
棒読み口調でユーシスが言った。
「……水泳部というのはこんな時間まで練習熱心だな」
「そんなわけないでしょ! はあ、もう勘弁して」
「ぜったい今日は厄日だ。……とりあえず確認だけはしないと」
三人はプールの入口に向かって、縦一列になって静かに歩く。先頭がマキアス、二番手がユーシス、最後がアリサだ。
「自然とこの並びになったが、なぜ僕が一番前なんだ……」
「万が一の為の保険だ。副委員長らしく、たまにはいい働きをするがいい」
「お、男らしいわよ、マキアス? それにほら、循環ポンプから流れる水の音かもしれないし」
水音はまだ止んでいない。なぜか照明はつかなかった。薄闇の中を慎重に進む。
扉前までは何事もなくたどり着き、マキアスは汗ばむ手でドアノブを持った。
「い、いいか、もう一気に開くからな」
後ろの二人は無言でうなずく。
勢いよく押し開けられる扉。広い空間に、消毒塩素の臭いがかすかにただよう。
二階はほぼ窓に面しているから、差し込む月明かりの光量は多い。水の雫が輝いて見えるのは、プールの水面に映った月が揺らめいているからか。
――そう、水面が揺らめいている。
「は、波紋が……?」
プールには誰もいない。だがまるで今の今まで誰かがプールに入っていたかのように、水面にはいくつにも拡がるいびつな円形の波紋があった。
何かがいた。あるいは、いる。
言い知れない冷ややかな感覚を身に感じながら、三人はプール内を見渡した。入口近くから確認する限りでは、やはり誰もいない。
ユーシスがマキアスの背中を押した。
「もう少し奥まで進まんと確認もできんだろう。行け、進め」
「な、なら君が先に行ったらどうだ?」
「情けない男だ。正直に怖いと言うがいい。心配せずとも骨は拾ってやる」
「どうして僕が玉砕する前提なんだ……って背中を押し続けるな! やめろ!」
「あなたたちね! こんな時にまでいい加減にしなさい。さすがに怒るわよ!?」
状況そっちのけでもめ始めた時だった。
二階の窓の一部が妙な光の反射をした。三人から見て正面にあたる横並びに四枚の窓だ。
彼らは同時にその光に気づく。異変は止まっていなかった。
窓の一枚ずつに、何かの模様が描かれていく。ガラスに付着した水滴を拭きとるかのようにして浮き上がってきたのは数字。
マキアスたちは呆然とその四つの数字を見上げた。
『1、1、9、2……?』
B班、本校舎一階。
エリオットが目を覚ました時、彼は真っ暗な保健室――そのベッドに寝かされていた。
「ここは……?」
呆けた意識のまま体を起こす。徐々に記憶が戻ってきた。
「そうだ、僕は確か本校舎の探索をしてて、一階の廊下の蛍光灯が明滅してて……」
そこでおそらく意識を失った。ラウラとフィーが保健室まで自分を運び、ベッドに寝かせてくれたのだろう。そして二人で探索を再開した。
おおよその経緯を推察したエリオットは、自分の置かれた立場の危うさも同時に理解した。異常が起きている本校舎に、一人だけ残されているという状況。
「ま、まずいよね、これ」
ラウラとフィーの優しさが今はつらい。
エリオットはベッドから飛び起きた。保健室の時計を見るに、気絶してからまだ二十分と経っていない。
このくらいならまだ二階を探索している頃。急げば合流できるかもしれない。
駆け出そうとして、しかしエリオットは足を止めた。
音がしたのだ。カタン、という固い音が。
いつも保健医のベアトリクス教官が使っている机。音はその机の端に置いてある花瓶からだった。
カタカタと花瓶が揺れていた。窓は閉まっているから風ではない。しかしなぜかカーテンはふわふわと波打っている。
消毒液などの医薬品を保管してある戸棚の扉が、勝手に開き、そして閉まる。倒れた椅子がクルクルと床の上を踊り回る。背後のベッドが軋み、ガタガタと耳障りな音を打ち鳴らす。
不協和音は鳴り止まず、粗雑なオーケストラを奏で出した。観客は引きつった笑みのまま固まるエリオットただ一人。
「に、逃げる。逃げないと……!」
また気を失ってはいけない。
どうにかして震える足を動かし、エリオットは数アージュ先の扉へ走る。扉は何事もなく開いた。
後ろを振り返る余裕もない。足がもつれて転倒しそうになりながらも廊下を走り抜け、一気に階段を駆け上がる。
二階に着くも、ラウラとフィーは見当たらない。教室の散策に入っているか、あるいはもう本校舎から出たしまったか。
かすかに人の声が聞こえた。その声に混じってピアノの音も。
フィーがピアノを弾けるとは聞いたことがない。ラウラはもしかしたら嗜みくらいはあるかもしれないが、さすがの彼女もこの状況でピアノを弾く興は持ち合わせていないだろう。
嫌な想像だけが喚起される。
どのみちこのまま立ちすくんでいても、二人には追いつけない。そもそも自分もⅦ組のメンバーとして調査に参加している。気絶しただけで夜を終えるのはあまりに不甲斐ないというものだ。
エリオットは生唾を飲み下し、ピアノの音色が聞こえる音楽室へと歩を向けた。
扉は開いているようだ。そっと中をのぞくと、そこにラウラとフィーの姿を見つけた。
「あ、エリオットが戻ってきた」
「大事無いようだな。心配したぞ」
エリオットに気づいた二人は、ほっと息をついていた。
「ごめんね、二人とも――って何してるの!?」
普通に話しかけてくるラウラとフィーだが、その体勢がおかしい。ラウラはピアノの下に潜り込んでいて、フィーは譜面台に乗っかって弦や響板をいじり回している。
「あああ! ななな! お、音が狂っちゃうよ! とりあえずフィーはそこから降りて!」
慌てたエリオットが鍵盤側に回り込むと、フィーはひょいと反対側に飛び降りる。
「エリオットが怒った」
「それは怒るよ。調律とかし直さなきゃいけないし。ラウラも早くピアノから離れて」
「私はもう離れているぞ」
「いやいや、ピアノ鳴りっぱなしだから……え?」
ピアノは先ほどまでと変わらず、音を奏で続けていた。
「そなたも早合点だな。私とフィーがここに来た時にはピアノはすでにその状態だったのだ。ピアノが壊れてはいまいかと、調べていただけだ」
ラウラが話している最中も鍵盤は一人でに浮き沈みを繰り返し、足元のペダルも上下させながら、時に長く、時に短く単音を奏でている。わかりやすぎるくらいの心霊現象だ。
だというのに、この女子二人はそんな超常ピアノを好き放題いじくり回していたのだ。豪胆というか驚嘆だ。
一週回って、なんだか怖さが薄れてくる。ふとエリオットはピアノの音に違和感を覚えた。
「あれ、これって……?」
単音の繰り返し。長短の組み合わせ。動いている鍵盤はたった一つ。気絶する前に見た明滅する蛍光灯も、なぜかこのタイミングで思い出した。何かが線となって、繋がっていく。
エリオットは自分の《ARCUS》を手にした。フィーが不思議そうに問う。
「リィンに連絡するの?」
「ううん、リィンじゃない」
確証はないが、確信がある。しかし自分の知識だけではその先の答えを導き出せない。
「連絡するのはミリアムだよ」
C班、学生会館二階。
「1、1、9、2……?」
オカルト研究部や文芸部、チェス部や写真部の部室が両脇に並び、最奥の生徒会室にまっすぐ伸びる廊下を歩きながら、リィンは《ARCUS》に向かってその数字を聞き返した。
『そうよ。プールの二階窓に突然浮かび上がったんだから』
通信相手はアリサだ。
「わかった。まだ何の意味があるのかわからないが覚えておくよ。他にも何かわかったら連絡してくれ」
『了解よ。って、あなた達いい加減にして! これ以上うるさくしたら、うちのベルトコンベアにその眼鏡を流して――』
騒々しいまま通信は切れた。マキアスとユーシスがまたやっているらしい。アリサの苦労がうかがい知れる。
「二人ともアリサからの報告は聞こえていたな。どう思う?」
「正直、見当もつかない。意味のある数字なのか?」
「うーん、何かが引っかかるんですが」
ガイウスと違い、エマはこめかみに指を当て、何かを思い出そうとしている。
リィンにも引っかかりはあった。どこかで覚えのある数字。例の『エレボニア帝国近代史』を今一度思い返した時、唐突にひらめいた。
「その数字ってもしかして年表じゃないか?」
少しページをめくっただけでも、出来事、事件、そして年表のオンパレードだったのだ。
ガイウスが「なるほど」と諸手を打った。
「さすがリィンだ。それで1192年には何があったんだ?」
「え?」
リィンは沈黙する。覚えていないのだ。くもりのないガイウスの期待の視線が心に痛かった。
「百日戦役。エレボニア帝国によるリベール侵攻。最近の授業で習ったばかりですよ?」
「う、年表の暗記は少し苦手で……」
「もし将来、歴史学の教官にでもなったらどうするんですか?」
「いや、ならないから」
百日戦役。隣国のリベール、その国境を守るハーケン門をエレボニア軍が制圧したことに端を発する侵略戦争のことである。おおよそ百日で戦乱が終結したことからその名で呼ばれている。
厳密に言えば、”端を発した”のは、今となっては名前すら残らない小さな村だが、その歴史を知る者はごくわずかに限られている。
そして、それが起こったのは七耀暦1192年。
「今が1204年だから……えーと――」
その年数を算出した時、クロウからの通信内容を思い返し、リィンは体の芯が寒くなるのを感じた。
『一人幽霊候補が見つかった』
「幽霊候補? 一体誰なんです」
『トワも最近黒い影を見たって知ってるだろ? それからあいつ、ここ十数年の生徒の在学情報を調べてたらしんだよ。卒業名簿やら生徒会の記録を引っ張り出してな。今より生徒数が多かったから、苦労したらしいが』
「すごいですね。あの人は……」
『でだ。中退とかで学院を去ったやつはそれなりの人数だったんだが、一人いたんだよ。死亡が原因で学籍が無くなった人間が』
「まさか……死因はわかっているんですか?」
『不明だ。記録には残っていないし、記録用紙も劣化して名前も読み取れなかった。だが一つ判明したことがある。学院内でのポジションだ』
「ポジション?」
『そいつは生徒会長だった。亡くなった時期を見ると、まだ任期途中だったらしいが』
「ど、どれくらい前の話なんですか、それは」
『ああ、そいつは――』
「――12年前……!」
偶然の一致とは思えない。因果関係を考えてみるが、憶測も立てられなかった。
一番に考えたことは、その生徒会長の亡くなった理由。
没年が1192年なのはともかく、原因が百日戦役というのは、繋がらないように思えた。エレボニア帝国は軍事国家だが、学生にまで徴兵は行わない。さらに当時優勢だったのはエレボニアで、リベールの王都グランセルとレイストン要塞を除く地域はほぼ制圧済みだった。戦乱に巻き込まれたとは考えにくいのだ。
クロウは通信の切り際にこうも言っていた。
『学院に少しずつおかしなことが起こり始めたのが今年の四月から。そんで黒い影が見られたり異変が多くなってきたのが二週間前だ。関係あるかわかんねえが、二週間前にトワは生徒会室の大掃除をしたらしい。そん時に十年以上前から保管してた生徒会の色々な物品をうっかり床にぶちまけたんだとよ。だから呪いだ祟りだと騒いでんだ。何もねえとは思うんだけど一応調べてやってくれや。きっと今頃一人でトイレもいけねえだろうからよ』
それでも生徒会室で責務を二週間以上こなしたのは、彼女の責任感の成せる業だろう。最初にリィンに相談しなかったのは、「これでもリィン君よりお姉さんなんだからね」という日常の一語が邪魔をしていたのは想像に難くない。
「トワ会長を見かける度に涙目だったのはそのせいか……早く解決しないとな」
生徒会室の扉はすでに目の前だ。多分、この先に何かしらの手がかりがある。
リィンにとって開きなれた扉だったが、今はなぜかドアノブが妙に重たく感じていた。
――後編に続く――
思ったより長くなってしまいまして、今回は前後編に分かれています。お付き合い頂けたら幸いです。