9月12日(自由行動日) 7:00 サラ・バレスタイン
枕元の目覚ましが遠慮なく鳴り響く。
本当に融通が利かないわね。あたしが眠たいの分かってるでしょう? そこは気を利かせて、五分遅らしてベルを鳴らすくらいの配慮はしなさいよ。
「……起きるってば」
手だけ動かして、いつものように目覚まし時計のスイッチを止める。一つ大きなあくびをして、脳に酸素を送ってから、のろのろとベッドから身を起こした。
「……学生達は自由行動日だっていうのに。教官も楽じゃないわね」
もちろん教官にも自由行動日はある。
学生ほど校則に縛られたりはしないから、実質休みと銘打ってもいいとは思うけど。
とはいえ、学生達も名目上は休みではないのだから、学院の教官室を空にするわけにもいかず、教官勢はシフト体制を取って勤務にあたっている。
ちなみにあたしは今日、勤務日じゃない。なのになんで、こんなに早く起きなくちゃいけないかと言えば。
「あんの教頭のせいだわ」
陰険チョビヒゲメガネことハインリッヒ教頭。あたしを見れば一に小言、二に嫌味、三に説教。いつもいつも飽きもせず。
思い返すのも忌々しい、あれは昨日の帰り際のことだ。
ハインリッヒ教頭は教官室を出ようとしたあたしを呼び止めて、お小言をねちねちと言いつけてきた。それはいい。いつものことだしね。
問題はその後。
以前受け持った授業で実施した小テストの採点を、明日中にやるように指示してきたのだ。
あたしの担当科目は武術・実践技術。実践とはいえ、もちろん座学だってあるわけだから、定期的に筆記試験もやったりする。
ペーパーテストなんて柄じゃないけど、形にして分かる点数がないと、学期ごとに個人につける総合評価の基準が曖昧になる――なんて教官らしい理由もあるんだけどね。
それにしても、何であたしの小テストの採点を教頭に指示されなきゃなんないわけ?
そんなことを思っていたら教頭は、小テストを返すのが遅れれば遅れるだけ、自分のクラスの試験対策も遅れるのだと文句、というかいちゃもんをつけてきた。
彼は貴族クラスであるⅠ組の担任だ。
プライドの高い貴族学生をまとめる上に、教頭という立場もあるわけで、何かと体面を気にするのはわからなくもないけど、こっちは完全にとばっちりよ。
完全に自分都合じゃない。巻き込まれる側の身にもなってよね。
「ったく……」
あれやこれやと言い訳をつけて逃げようとはした。だけど教頭と話しているほうが時間のロスになるのは明らかだった。
なので嫌々ながらも、明日中に小テストの採点をしますと宣言して、その場を切りぬけたのだ。いやまあ、採点自体はすることになってしまったので、逃げ切れてはいないんだけど。
「あーもー!」
思い出したら腹が立ってきたわ。
枕を一発ばふんと叩いてから、ベッドから足を下ろして立ち上がる。
何かを足の裏で踏みつけてしまった。冷んやりとした肌触りに、表面が丸みを帯びた何か。
何かじゃない。あれしかない。
「あ!?」
飲み終わってそのまま放置した酒瓶が、いつの間にかベッド下に転がってきていたのだ。
気付いた時には遅く、あたしを乗せたまま酒瓶はごろりと転がっていた。
「くっ、この!」
大きく体勢がぐらついて、前のめりにこけそうになる。
だけどそこは武術教官。そうそう床に膝なんてつかないわ。
とっさに上半身の力を抜いて、さらに抜いた力をそのまま下腹部に落とす。重心をキープしながら、何とか片足でバランスを取ってみせた。
これくらいは寝起きでも体が勝手に反応するってもんよ。
「危なかった……えぇっ!?」
安心したのも束の間。浮いた片足を着地した位置には、想定外の二本目の酒瓶が。
もはや回避はできず、二つの酒瓶を踏む形になったあたしの体は、まるでベルトコンベアのように前へと送りだされる。そして部屋の隅に置いてあった棚に顔面から突入する羽目になった。
ぶつかる瞬間、固く目を閉じる。ああ、ナイスミドルのかっこいいオジサマ。どうか唐突に現れてあたしの体を抱きかかえて――
ガッシャン、ガラガラ。メキメキバキバキ。
そんなささやかな妄想は、体中に走った痛みとけたたましい音によって、無残にもかき消された。
棚の上に置いてあったグラスは落ちて割れ、開けてもいないワインやウイスキーのボトルが不規則に回転しながら床の上を滑っていく。
幸いボトル類は転がっただけで割れず、グラスは割れてしまったけど、私に怪我はなかった。だけど肝心の置き棚は完全に壊れてしまっていた。
棚の足は根元から折れ、所々にひび割れと板面がめくれ上がって歪な穴も覗かせている。
長く使っていた物だから、前から痛んでいたのは知っていたけど、ここに来てとどめを刺してしまった。
「朝からなんなのよ……」
毒づく体力もない。
のろのろと割れたグラスの破片を一まとめにして、転がっていった愛するお酒達を回収し、壊れた棚の跡地に立て並べていく。
「はあ、もう」
ため息しか出やしないわ。
――7:30
壊れた棚を片手に一階へと向かう。
さすがに自由行動日だから、みんなまだ部屋で休んでいるみたい。学生はいいわよね。あたしだって本当は昼まで寝る予定だったのに。
「あら、おはようございます。どうされたのですか? まだ朝ですよ」
「朝だから起きてんのよ」
まあ、何もなければ寝てたでしょうけど。朝一番からケンカ売ってきてんのかしら。
ラウンジにいたシャロンはいつものように笑う。
足にすり寄ってきたルビィの頭を軽くなでてから、テーブル前の椅子に腰かけた。
「ああ、そうそう。悪いんだけど、これ処分しといてもらえない?」
さっき壊れてしまった置き棚の一部をシャロンに渡した。多少は解体してきたから、そこまで処分には困らないと思う。
部屋にはまだ残骸が残っているけど、あれらはおいおい片付けるとして、とりあえず持てる程度のひとかたまりを下ろすことにしたのだ。
あたしからそれを受け取るなり、シャロンは驚いた表情を浮かべた。わざとらしく。
「いくら空腹でも机をかじってはいけませんわ。お申し付け下されば、何なりとお作り致しますのに」
「いい度胸じゃない。あたしは今、格別に機嫌が悪いのよ?」
「そのように怖いお顔をされては、シャロンは怯えてしまいます」
「白々と……誰のせいだと思ってんの」
「机を壊されたのはサラ様のせいかと」
「その話じゃないわよ!」
こんのお……。ペースが乱されるわ、まったく。
「ところで朝食は召し上がられますか? それとも街道で仕留めてこられますか?」
「先にあんたに雷撃ち込みたいんだけど」
割と本気だ。仕留めるっていうなら、まずあんたからにしてやる。
「そのようなことばかり仰っておられると、素敵な殿方も逃げてしまいますわ」
「余計なお世話よ」
そうそういい男なんていないの。私のタイプはナイスミドルの渋いおじさまだし。
「サラ様は男性の好みの幅を拡げられたほうが宜しいかと存じますが」
「何であんたがあたしの好みを知ってるのよ。じゃああれね、白馬の王子様でも探すとするわ」
本当に口が減らない使用人ね。アリサの苦労を察するわ。
朝食を簡単にトーストとコーヒーだけで済ませ、身支度を整えたあたしは玄関に向かう。
「別に見送りなんて頼んでないんだけど」
「シャロンのお仕事ですもの」
玄関口まで付いてきたシャロンは、そんなことを言ってまた笑みを浮かべる。さっきから押され気味だったし、何か言い返してやりたい。
「ふん、悠長なもんねー。大体あんただってあたしとそんなに年変わんないでしょ。ずっと寮の中にいるわけだし、もしかしたらあたしよりも出会いが少ないんじゃない?」
どうよ。これで多少は溜飲が下がった感じ。
だけどシャロンは落ち着き払った様子で、こほんと咳払いをした。
「サラ様は今二十五歳。わたくしは二十三歳でございます」
「……それがなんなのよ。たかが二年の差なんて」
「四捨五入しますと――」
バタン! と言葉の途中で勢いよく扉を閉めて、あたしは学院までダッシュする。
これは食後の運動。それだけ。
視界が滲むのは何でかしら。きっと目にゴミでも入ったのね。
――8:00
トリスタの町を抜け、学院に続く長い坂を止まらずに駆け抜ける。
シャロンめ、シャロンめ!
「ふん、朝から忙しない限りだね」
憤懣を抱えながら正門をくぐった時、いつもの嫌味が飛んできた。
最悪だ。
朝の見回りでもしていたのか、正門前にいたハインリッヒ教頭に出くわしてしまったのだ。
「そのあり余る体力を他のことに使ってもらいたいものだよ」
「これはハインリッヒ教頭、おはようございます。……いい朝ですね」
さらに重ねてきた嫌味を受け流し、こちらも相応の険を込めた挨拶で応戦する。
「まったくだ。君に出会うまでは静かでいい朝だったのに」
まるで呼吸をするかのように自然に口から出てくる言葉は、ことごとく私の心にささくれを残していく。
苛立つわ。そのチョビヒゲを見るだけでも苛立つわ。
「では私はこれで失礼しますわ。小テストの採点を済まさないといけませんので」
「手早くしてくれたまえよ」
他人に嫌味を言うくせに、人から言われる嫌味には気付かないのかしら。
まだ小言を言い足りなさそうな教頭に心無く頭を下げてから、あたしは早々にその場を離れることにした。
ま、どの道やるからには気分を切り替えないと。
モチベーションを自分で上げるのも大切な事。私の場合はもちろんこれ。
「とっとと採点済まして、お酒でも買いに行こっと」
――11:30
「やっと半分終わった……」
採点を終えたものと、手付かずのもの、それぞれの答案用紙があたしを挟んで左右に均等に分かれている。
生徒数がそこまで多くないとはいえ、採点自体があまり得意じゃないから、相応に時間がかかってしまう。
しかも見直してみると、間違っていても丸を付けているものがあれば、その逆もあったり。デスクワークは本当に柄じゃない。
椅子の背もたれにぎしりと寄りかかる。
席を外している人もいるけど、今日は他の教官達も勢ぞろいしているようだ。
中には私と同じで、勤務日ではないのに出勤している人もいるみたい。
カリキュラムのない自由行動日の方が仕事が進むのはわかるけど、一日くらいゆっくり過ごしたらいいのに。
「サラ教官、少し構いませんか」
あたしの手が空くのを待ってくれていたのか、ナイトハルト教官が資料を手に近づいてくる。
普段は非常勤、というか軍務にあたっているけど、時々出向という形で学院まで足を運んでいる。
担当科目は言うまでもなく軍事学。実直、質実剛健という言葉を人の形に固めたら、彼が出来上がるに違いない。
「なんでしょうか?」
背もたれから体を戻して、ナイトハルト教官に向き直る。
「先月末のガレリア要塞の件で――」
帝国解放戦線。列車砲の占拠。クロスベル方面への緊張。
不穏な言葉が行きかう中、やっぱり気になるのは次回の特別実習の有無。あたしとしてはもちろん彼らを実習に行かせてあげたいし、あの子達もそれを望んでいる。
でも、その安全を預かるⅦ組の担当教官としては、気軽に首を縦に振ることも出来ない。
「――それで、今月末の特別実習はどうなりそうですか?」
ナイトハルト教官も気にしてくれていたらしく、最終的にはその話になった。
「まだわかりません。と言っても私の一存では決められませんし、理事の方々次第ってところですね」
「む……」
正論だったはずだけど、あたしの言いようが気に入らなかったのか、ナイトハルト教官は眉根を寄せた。
どうも言葉選びが雑なのか、意図するニュアンスで伝わらない。特に一言一言を逃さず拾い上げる軍人気質には、余計適当に聞こえたのかもしれなかった。
だからといって、前言撤回して言い直すほど殊勝な性格でもないんだけど。
ほんの少し、ひやりと辺りの温度が下がる――そんなタイミングで「いやーナイトハルト教官、今日は出向日だったんですね~」と間延びした声が届いた。
「トマス教官……!」
露骨にナイトハルト教官の表情が曇り、動きがぎこちなくなった。
やってきたのはトマス教官。帝国史、文学の担当で、大きな丸眼鏡が印象的だ。
「どうです? 今日こそ仕事終わりに一緒に飲みにいきましょうよ」
「い、いや……自分は本隊に戻りますので」
「そんなこと言わずに~」
トマス教官がさらに詰め寄ると、ナイトハルト教官はたじろいだように足を引く。
あれやこれやと理由をつけていたけど、トマス教官から逃げ切れるかは微妙な所だ。
何となくあたしとハインリッヒ教頭の立ち位置に見えなくもない。もっともこっちはそんな微笑ましい感じじゃないけど。
「……ああ、そうです! 私はサラ教官と話の途中でして――」
「さて一段落したし、お昼でも食べて来ようっと」
「サ、サラ教官? 撤退命令はまだ出ていないぞ!?」
珍しく狼狽した様子のナイトハルト教官はそんなことを口走っている。
その命令はどこから来るもんなの? あたしも忙しいんだから、これ以上面倒なことに巻き込まないで。
トマス教官は絡み酒だから、時間と心に余裕がないと付き合えないのよ。
「ま、待て、せめて援軍要請を――」
「何食べよっかなー。ふんふふーん」
聞こえない、聞こえない。
鼻歌を交じらせながら、あたしは教官室からの離脱に成功するのだった。
次にナイトハルト教官に会ったら、すごい目つきで睨まれそうだけど。
――12:00
学生会館、一階食堂。普段は学生の利用が多いけど、自由行動日だからか今日は割と空いている。先に席を取る必要もなさそうだったので、そのままカウンターに向かうことにした。
「どーも、お昼食べに来ました」
「あらサラ教官、いらっしゃい。何でも注文して下さいな」
カウンターに立つサマンサさんに声を掛けると、彼女は快活に笑ってくれた。
立てかけられた看板メニューに目を通す。どれもおいしそうなラインナップだ。
『どうしようかしら……』
ひとり言が誰かの声と完全に重なった。
すぐとなりで驚いた表情を浮かべてこちらを見るのは、澄んだ深緑色の瞳。
「あ、あらメアリー教官」
「サ、サラ教官?」
彼女は今年から赴任したばかりの新任教官だ。音楽、芸術、調理技術を担当している。
アルトハイム家の伯爵令嬢で、流れるようなホワイトブロンドの髪は、誰が言ったのか『トールズ士官学院の至宝』とか一部で持てはやされている。
ちなみに私の後ろでまとめた夕日のように美しく艶やかな赤髪は、誰が言ったのか『トールズ士官学院の逆鱗』とか一部で怖れられていたりする。
言ったやつは必ず探し出して、然るべき報いを受けさせるわ。紫電の二つ名を嫌と言うほど思い知らせてやる。
……十中八九クロウのような気がするけど。
焦った様子のメアリー教官は顔を赤くして、一歩引き下がった。
「す、すみません。メニューに見入って気付きもせず……お恥ずかしい限りです」
「あはは、私も同じです。メアリー教官もお昼は今からですか? よかったらご一緒しませんか」
「ええ、よろこんで」
控え目な笑顔で応じてくれるメアリー教官。
なんとまあ上品な。どこかの腹の黒い使用人とは違う。
もしあたしがこれをやったら、Ⅶ組の面々はどんな反応をするのかしら。今度試しにやってみよう。
空いている席に腰かけてしばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。
トマトグラタンだ。溶けて香り立つチーズと、真っ赤なトマトの色合いが何とも食欲をそそる。
「頂きましょうか」
「ええ。とてもおいしそうですね」
スプーンで一口。クリームソースの絡んだマカロニとトマトの酸味が合わさって、まろやかな味わいが舌の上に広がっていく。
「ん、おーいし! さすがラムゼイさん。いい仕事してるわ!」
「…ラムゼイさん?」
「ああ、調理場のコックさんの名前です。鼻下の髭がダンディで、背中で語るタイプの素敵なおじ様で、加えて料理もこの通り絶品という隙のない男性です」
何気にあたしの好きなタイプのラムゼイさん。今度、話しかけてみようかしら。
「ふふ、サラ教官は年上の殿方がお好みなのですね」
「そういうメアリー教官はどうなんですか? 好みのタイプというか」
少し考える素振りをしてから、メアリー教官は口許を緩めた。
「そうですね。一緒にいて楽しくて、頼りがいのある男性……といった所でしょうか」
一般的というか、無難な感じね。伯爵令嬢ともなれば、気軽にその辺の男性と話ができたわけでもないでしょうから、それ以上の好みを抱くのが難しいのかもしれないけど。
裕福と幸福は別物よ。女にとっては特に、ね。
詳しい経緯は知らないけど、伯爵家の息女でありながら、士官学院の教官という道を自分で選んだメアリー教官のことは、個人的に共感に近い好意を抱いている。
自分の意志を通すには、少なくともあたしよりは難しい境遇だっただろうし。
「お互いいい人が見つかればいいですね」
割と本心でそう言ってからマカロニを持ち上げた時、男性の声が割って入る。
「珍しい組み合わせですな」
研究員のような白い服。野暮ったい髪と無精ひげ。加えて眠そうな目。
「あ、マカロニ教官」
「マカロフですが」
間違えた。そう、マカロフ教官。
担当は導力技術と自然科学担当。ルーレ工業大学を主席卒業した経歴を持つすごい人なんだけど、まったくすごい人に見えないところがすごい。人は見た目によらないものねえ。
「マカロフ教官もお昼ですか?」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんですが……」
メアリー教官がそう訊くと、どことなく言葉を濁す。マカロフ教官は食堂内を見回して、奥のテーブルに座る一人の女子生徒に視線を止めると、気だるそうに頭をぼりぼりとかいた。
「……いやがったか」
「えーと、あの子は」
「あら、ミントさん。吹奏楽部員ですわ」
そうそう、Ⅲ組のミント。確かマカロフ教官の姪御さんだったかしら。
ミントはマカロフ教官の姿を見つけるなり「叔父さーん!」と大きな声で手を振ってくる。小さな体の割に声が無駄に大きい。
「ったく。学院内では教官と呼べって言ってんですがね」
何でも彼は、絶望的に導力学が出来ないミントの補習をする為に来たらしい。
他の学生に示しがつかないので、あまり特別扱いはしたくはないけど、さすがに見かねたとのことだ。
「そういうわけで失礼しますよ。どうせ昼飯もおごらされるんだろうし、ほんとに疫病神だぜ……」
ぼやきながらミントの所に行くマカロフ教官の後ろ姿を見て、メアリー教官はくすりと笑う。
あたしはマカロフ教官嫌いじゃないけど、さっき聞いたばかりのメアリー教官の好みとは正反対なんだろうな。
そんなことを思いながら、改めてマカロニを口に入れる。
「仕事も途中で放り出してランチとはいいご身分だね」
背後から飛んできた粘着質な声に、マカロニを噴き出しそうになった。
声の主は振り返らなくてもわかる。
「ご心配なく。本日中には仕上げますので」
だから振り返らずに言う。
「期待しているよ」
ハインリッヒ教頭は心無く告げて、ふんと鼻を鳴らした。
なんて薄っぺらい言葉。まるで教頭の髭のような、存在する意味があるのかわからない程の薄さだわ。
ヴァンダイク学院長を見なさいよ。あの埃を掃けそうなほど豊かな髭を。愛用の筆は髭で作られたという逸話があるぐらいなんだからね。
「まったく施設の見回りに来てみれば……メアリー教官」
「は、はい」
突然話を振られたメアリー教官は、緊張の面持ちで身を固くした。
「何か困ったことでもあったら、いつでも相談に来なさい。くれぐれも相談する相手を間違えないように」
なーによ、それ。最後の一言も余計だけど、私を一瞥しなくてもいいじゃない。
言いたいことだけを言って、教頭は去っていってしまった。見回りなんだか監視なんだかわかったもんじゃない。
「すみません、サラ教官」
「メアリー教官のせいじゃないから大丈夫ですよ」
そう、全てはあの教頭のせいなのよ。
「ふんだ」
フォークで力いっぱいマカロニを突き刺してみる。
――13:00
昼食を終えて、本校舎に戻ったあたしとメアリー教官は、切羽詰った様子のエマに呼び止められた。
その後すぐにやってきた用務員のガイラーさんも交えて少し話をしたんだけど、どうやらガイラーさんは腰を痛めてしまったらしい。
二階の掲示板の張替えするとのことだったから、ガイラーさんを手伝うようエマに言ったら、彼女は泣きそうな顔をして二階に駆け上がって行ってしまった。
あたし、何か悪い事言ったっけ?
ガイラーさんと別れた後は教官室へ向かう。
「メアリー教官はこの後どうするんですか?」
「吹奏楽部の夕練習の準備をしに行こうかと」
聞けばメアリー教官も勤務日ではなかったみたいで、今日はその吹奏楽部の練習の為だけに学院まで来たらしい。それは学生からの人気も出るはずだ。
教官室に戻ったメアリー教官は、音楽室の鍵を持つとそのまま二階へ。
あたしはやり残した採点の続きをする為に自分のデスクへ。
トマス教官とナイトハルト教官の姿は見えない。無事に逃げ切れたのかしらね。
「さーてっと!」
気合いを入れ直して、机に向き直る。
さっさと終わらしてしまいましょうか。
――14:30
「お、終わったあ……」
手にしていた赤ペンを離し、あたしは机に突っ伏した。
ようやく教頭の呪縛から解放された。とりあえずⅠ組分の答案用紙を、教頭の机に叩きつけるように置いてやる。
「ちょっと休憩に行こうっと」
教官室を出てはみたけど、どこで休憩しようか。変にうろつき回ってまた教頭に出くわすのはごめんだし。
「保健室はどうかしら」
あそこにはベアトリクス先生もいる。
先生には命を助けてもらったこともあるし、この学院でも事ある毎に相談に乗ってもらったりと、まったく頭が上がらない。
先生も仕事中かもだけど、少しお邪魔するくらいならいいでしょ。
何より保健室にはお茶とお菓子が常備されている。さらに言えばあのハインリッヒ教頭も、ベアトリクス先生の前では大きな態度は決して取らない。
あそこはあたしにとっての安全地帯なのだ。
「失礼しま――……ん?」
保健室の扉をノックしかけて途中で止める。中から話し声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。しかもこの声は。
「さすが貴女の淹れてくれるお茶は絶品じゃのう」
「ふふ、褒めても何もでませんよ」
ヴァンダイク学院長だ。何てこと。学院長にあたしのお茶が取られたわ。
「何も出んことはないじゃろう。ほれ、そこの棚の茶菓子など」
「……目がよろしいことで」
あたしのお菓子まで。
どうしよう。後で出直そうかしら、それとも知らない振りして入っちゃおうか。
そんな二択で悩んでいたら、突然轟音が鳴り響いた。続けて校舎全体が揺れるほどの衝撃も襲ってくる。
「な、なに!?」
たまらず壁に手をつく。保健室の二人は――
「熱っちち! な、何か拭くものを」
「あらあら、自慢のおひげがお茶まみれに。……しかし地震でしょうかねえ」
「は、早く拭くものをくれんかね」
大丈夫そうね。このお歴々に余計な心配は無用だったわ。
でも今のは地面から来た揺れじゃない。さっきの大きな音は上からだった。
とりあえず状況確認の為、あたしは屋上に向かうことにした。
屋上のドアに手をかけようとした矢先、先に外側から開かれた。
「あ……サラ教官……」
ふらりと現れたのは、完全に生気の失せたエマ。
「屋上にいたのね? 大きい音がしたから見にきたんだけど、何かあったの?」
「いえ……新しい用務員さんを募集した方がいいかと……」
話が成立していない。うちにはもうガイラーさんがいるじゃないの。
エマは今にも倒れそうな足取りで、階段を降りてどこかへ行ってしまった。彼女の様子は気になるけど、まずは現場の確認が先だ。
屋上に足を踏み入れ、そして眼前に広がった光景に絶句する。
「な……なにこれ?」
滅茶苦茶だ。地面は焦げ付き、壁はひび割れ、フェンスは残らずひしゃげている。
生温い風が吹き抜けると、見覚えのある竹ぼうきがカラカラと屋上を転がっていた。
「あれってまさか……」
唐突にさっきのエマとの会話を思い出す。
あんた、一体ガイラーさんに何したの。
――15:00
一応エマの事は伏せて、屋上の惨状を学院長に報告したら『生徒の誰かがトラブルでも起こしたのだろう。はっはっは』と悠長に構えていたし、隣にいたベアトリクス先生は『とりあえず後で補修に行って下さいね』と笑顔でとんでもない仕事を振ってきたし。
なんであたしが、とは思ったけど、やっぱりベアトリクス先生の頼みは断れなかった。結局今日は夜まで帰れそうにない。
「アクシデントが多い気がするわ……」
詳細は何か知っていそうなエマに聞くとして、まずはどこかで座りたい。さすがのあたしにも休息が必要だわ。
とりあえず中庭のベンチに座って一息つく。
花壇前の道をガイラーさんがスタスタ歩いていた。
「あ、ガイラーさん?」
「おや、サラ教官。またお会いしましたな」
「もしかして屋上のこと何かご存じですか? エマが何かしでかしたのかと」
ガイラーさんは笑みを浮かべた。
「大したことではありませんよ。屋上の修復でしたらお任せを」
「それならいいんですが……ああ、あたしも後で手伝いに行くことになりましたので」
「それは心強いですな。それでは先に準備をしております」
一人でやる羽目にならなくてよかった。
「そろそろ行こうかしら」
「どこに行くのかね」
軽く伸びをして立ち上がった時、あの声が耳に届く。休憩場所に中庭を選んでしまったことを心底後悔した。もう勘弁してよ。
「採点が終わったのならちゃんと伝えてくれたまえ。報告をするまでが仕事だとわかっているのか」
三度現れたハインリッヒ教頭。そして始まる説教。この人、小言を言う為にわざわざやってきたとしか思えない。
でもがまんよ、サラ。大人よ、大人になるのよ。
「申し訳ありません。報告には行くつもりだったのですが、少々トラブルがあったものでして」
「トラブルばかりだな、君は。退屈しなさそうな人生で羨ましいよ。どうせ君の生徒が何かしたのだろう」
言い返したいけど、半分くらい合ってる気がするわ。
がまんよ。私はもう大人。だって四捨五入すれば――って、うるさいシャロン。
うふふと聞こえた幻聴を振り払って、針で刺してくるような嫌味に耐える。
「まったく、担当教官が落ち着かないから生徒も落ち着かないのだ。頼むから学院中を走り回るようなトラブルは控えてくれたまえ」
「いえ、そんなことは――」
あたしのことはともかく、あの子達を引き合いに出すのはやめてほしい。
言い返そうとした矢先、タイヤを引きずるガイウスとエリオットが目の前の道を走り去っていった。
「呆けた顔をして何かね」
「い、いえ何でもありません!」
幸い教頭の背中側なので気付かれてはいなかった。
そんな所を見られたら、話がややこしくなるじゃないの。
一安心と思ったその時、今度は二頭の馬がガイウス達を追走していく。しかも片方の馬に乗っていたのはラウラだった。
「あ、あー!」
「な、なんだ。言いたいことがあるなら言いたまえ」
さすがに馬の足音は気付かれる。とっさに大声を出して、足音を消そうとしてみた。幸いこれも上手くいった。
なにやってんのよ、あの子達。
「まったく君は――」
ため息を吐いた教頭はさらに続ける。もう適当に流そう。だけど次に教頭が言ってきたのは、触れてはいけない話題だった。
「浮いた話の一つもないのだから、その分仕事に精を出してもらいたいものだ」
カチン、ときて、プツン、ときれる。
我慢は爆発させる為にするものだ。
気付いた時には、口を開いた後だった。
「でしたら言わせて頂きますが、ハインリッヒ教頭。あなたのお仕事はがみがみと小言を撒き散らすことだけなんでしょうか?」
「な、なんだと?」
その顔がたちまち険しくなるけど、もう構わない。徹底抗戦だ。
「いーえ、お忙しいはずの教頭殿ですのに、私みたいな若輩者に時間を割いていいものかと」
「……どういう意味かね?」
「そうこうしている内に、次の学院長はベアトリクス教官になるのではと思った次第ですわ。私としてはもちろん、日頃からお世話になっているハインリッヒ教頭を推しておりますけども」
「うぬぬ、言わせておけば……!」
あたしの白々しい態度に、教頭はと怒り心頭のご様子だ。
「君に特科クラスを任せたのは間違いだったようだな。実際、何かと諍いが絶えぬようだし、学院の恥さらしにならなければいいのだがね。そう学院長にも進言しておこう!」
「どうぞ、ご自由に。それよりも最近、貴族生徒の言動の悪さが目につきますが、ご指導の方はどうなっているのでしょうか。来館者の多い学院ですから、どこからか悪い印象を持たれて担当教官の責任に……なんてことになるかもしれませんわ」
「私のクラスを愚弄する気かね!?」
「そちらこそ! Ⅶ組は素晴らしいクラスです」
売り言葉に買い言葉。でもこうなったら後には引けない。
しばらくにらみ合う。
苛立ちも顕わに、教頭はこんなことを言ってきた。
「いいだろう。そこまで言うのなら白黒はっきりつけようではないかね」
「もちろん構いませんわ。それで内容は?」
ずれた眼鏡を押し上げて、教頭は言う。
「君が自慢だというⅦ組の生徒達と、私が選りすぐった貴族生徒達で勝負をしてもらおうじゃないか。名目としては体育祭のようなものでいいだろう。開催時期は今から一か月後! 無論、観客がいた方が盛り上がるだろうから、全学院生を総動員させる」
「望むところです。ですが、そうすると勝負は生徒任せになってしまいますね。私達も緊張感を持つためにこんな提案はいかがでしょう」
「ほう。言ってみるといい」
あたしはにやりと笑った。
「Ⅶ組が勝てば私が教頭に、貴族生徒達が勝てば教頭が私に。何でも一つ命令できるというのは?」
「な、なんということを!?」
「あ、いいんですよ。貴族のお坊ちゃま、お嬢ちゃま達が実戦経験もあるⅦ組に勝てるとは思いませんもの。私、過ぎたことを言ってしまいました。やはり前言の撤回を――」
「待ちたまえ! 所詮は寄せ集めのクラス。幼い頃より厳しい教育の下に育てられた貴族生徒達が負ける道理はない。受けて立とう」
かかった。教頭はこの手の揺さぶりには弱いと思っていたのだ。
さあ、覚悟してもらうわ。
「では私の要求から。教頭、あなたは財布の中にとある写真を入れていますね?」
「な、なぜそれを……!?」
元遊撃士の情報収集力を甘く見ないで欲しいわね。
隠れてそれを眺めてにやつく様子を見るに、恐らく家族の写真などではなく、何かこう――エッチな感じの写真だとあたしは推測する。
お堅く見える人程、裏に暗い欲望を抱えていたりするもんなのよ。絶対絶対そうなのよ。エロヒゲメガネめ。
「もしⅦ組が勝った場合は、その写真を大量にコピーして屋上から学院中にばらまかせて頂きます。もちろん写真の裏には“ハインリッヒ教頭のいけないヒ・ミ・ツ”と書き記して」
「お、お、おのれ、劣悪な! ならば貴族生徒達が勝った場合、君には水着姿で学院中の清掃をしてもらうぞ!」
「なっ!? 私にそんな辱めを受けさせようとするなんて! やっぱりそういうのが好きなんじゃないですか!?」
「やっぱりとはなんだ。勘違いしてもらっては困る! 私の精神的苦痛に比べれば、これでも生ぬるいくらいだ!」
何が生ぬるいのか。そんなことしたら、確実にお嫁にいけなくなるじゃない。そしてあたしのそんな姿を記録する為だけに、シャロンが導力カメラを用意してくるのが目に見えているわ。
これは何が何でも負けられない。
「楽しみにしていたまえ。全生徒の前で恥をかく瞬間をな。掃除道具くらいは用意させてもらうよ」
「教頭こそ。そんな暇がおありでしたら、写真の回収手段を今から考えていた方がいいと思いますわ」
本日最後になる鼻息をふんと鳴らして、教頭はあたしに背を向けた。
遠ざかるその背中に「いーっ!」と自分の頬を引っ張ってみせる。
勝負は一か月後。つまり十月の半ば。学院祭よりは前になるわけね。
題目は『特科クラスⅦ組と貴族生徒連合軍対抗のエキシビジョン体育祭』。
負ければ水着で学院掃除。
「……完全に勢いだったけど、大変なことになったかも。だけど――」
あの子達なら大丈夫。今まで身に付けた成果を存分に発揮してもらうことにしましょう。
あたしの名誉の為にも、お嫁に行けなくならない為にも、
「勝つのは絶対Ⅶ組なんだから!」
~FIN~
☆おまけ☆
9月12日(自由行動日) 11:30 ルビィ
机の下で丸まっていると、リィンとアリサの声が聞こえてくる。アリサがリィンを怒っているみたいだ。またリィンが何かしたのかな。何もしていなくても怒られてる時があるみたいだけど。
首を持ち上げると、リィンの足とその向こうにアリサの足が見える。
アリサが詰め寄ると、リィンの足はこっちに向かって下がってきた。
リィンは机にぶつかった。頭の上でバラバラと何かが崩れる音や、転がる音が聞こえて来る。
目の前に何かが落ちてきた。多分、さっきまで机の上にあった何か。
それは見たことがあった。マキアスがいつも大事そうに使っているものだ。こればかりはマキアスも触らせてくれなかった。
なんだろう。白い……馬の形をしている。
朝に言っていたサラの言葉を思い出した。
『――じゃああれね、白馬の王子様でも探すとするわ』
王子様っていうのは何なのかわからない。ただ白馬っていうのは白い馬のことだ。
じゃあサラはこれを探していたんだ。だったらサラに渡してあげないと。
そう思って白い馬を口にくわえようとしたけど、マキアスの怒った顔が頭に浮かんだ。
そのままでしばらく考える。
マキアスの怒った顔か、サラの笑った顔か。
……決まった。
それをくわえる。
朝にシャロンに連れて行ってもらったところだけど、散歩でもしながらサラの所に行こう。もう一度町を回って、朝には寄らなかった公園で一休みして、川で魚を眺めて、それからあの学院へ行こう。
何だか楽しくなってきた。
気付いた時には、もう走っていた。アリサの足の間を駆け抜け、扉の隅に作ってもらった専用の出入り口を鼻先で押し開ける。
見慣れた景色が目の前に広がる。
暖かな日差し、緑の匂い、柔らかな風、鳥のさえずり、たくさんの人が歩く音。
待ってて。サラの探し物、今持っていくから。
~FIN~
☆後日談×11☆
●ユーシス●
「あ、ユーシス先生だー」
「次はいつ来てくれるの?」
最近町を歩いていると、やたらと子供達が話しかけてくるようになった。
中には「ロジーヌ姉ちゃんを返せ!」などと覚えのない中傷を投げつけてくるやつもいるが。
ロジーヌとも日曜学校の一日講師をやってから、学院内でよく会話をするようになった。
また俺を教壇に立たせようと色々画策しているらしい。だからそういうことはリィンの方が向いていると言ったのだが、子供達がなついたから俺の方がいいとのことだ。
もう好きにするがいい。
……あのクッキーが貰えるのなら、別段悪い話ではないか。
●マキアス●
まったく大変な目にあったものだ。チェスの駒に傷がなかったからよかったものの。これからチェスをしている時は、その場を離れないようにしないとな。
そういえば、最近リィンとアリサに若干気を遣われているというか、怖がられていると感じるのは僕の思い過ごしだろうか?
あとシャロンさんが「あの時のお詫びです」と手作りのケーキを出してくれたりしたが、まったく詫びられるような覚えがないんだが。
僕の知らないところで何かやったのか。問いただすもシャロンさんは「うふふ」といつものように笑うだけだし。
よくわからないが、いつの間にか理不尽な不名誉を身に被っている気がするぞ。
●ラウラ●
あれ以来ガイウスもエリオットも悩みが吹っ切れたかのように、二人ともいい表情をしている。
私もポーラと仲良くなったし、とてもいい一日だった。
そういえばポーラと一緒にいる時に二人とすれ違うと、表情が青ざめて動きが固まるのはなぜだろうか。ガイウスはともかくエリオットなど「ポ、ポーラ様!?」と怯えてすらいるようだし。
ふむ、これはもう一度荒療治が必要かもしれん。
委員長にまた小説でも借りるとしようか。
●ガイウス●
「よう、ガイウス。昼飯まだだったら食堂行かないか」
あの兄妹を送り届けてから、クレイン先輩が親しげに声を掛けてくれるようになった。
長兄同士だからか話も合って、ついでに気も合う。Ⅶ組と美術部以外でできた知り合いは初めてだから、正直嬉しいものだ。
この辺りの地理にはまだ不慣れな俺を、色々と連れ出してくれたりもした。時間を見つけて水練に付き合ってくれるのもありがたい。
クレイン先輩が言うには、俺はなんでも弟分とのことだ。
ということは俺にとって先輩は兄貴分ということか。今まで経験したことがないから不思議な感覚だが。
まあ、悪い気分じゃないな。
●エマ●
ガイラーさんに追いかけ回された次の日。恐る恐る屋上の扉を開くと、驚くべきことにひび割れも焦げ付きも見事に修復されていた。全くその痕跡すら見受けられない。
「待っていたよ」
頭上から落ちついた声音が届き、ガイラーさんは屋上にすたんと降り立った。いつから待っていたんですか。というか一体どこから降ってきたんですか。
「私の小説の感想を言いに来てくれたのかな。それとも君の小説の続きを持ってきてくれたのかな」
どっちも違います。即座に身を返してその場を離脱。ついでに屋上の扉をバタンと閉めて、鍵も閉める。
「ふふ、次の話を早く書き上げないとね」
そんな言葉が扉の向こうから聞こえてくる。あれ連載物だったんですか。
どうやら私とガイラーさんの鬼ごっこはまだ続くみたいです。
●フィー●
基本的に私の毎日は変わらない。眠って起きて、また眠る。変わるのは眠る場所くらいかな。
最近のお気に入りはシャロンに教えてもらった中庭のベンチ。
あそこは涼しいし、花壇にも近いし、ついでに時々通りかかったエーデル部長がタオルケットをかけてくれるし。といってもヴィヴィが何かといたずらを仕掛けてくるから、そこまで気は抜けないんだけど。私の周りに肥料とか撒いても、背とか伸びないから。
あ、変わったことが一つあったっけ。
あれから委員長との勉強の約束はちゃんと守っている。時間の三十分前から《ARCUS》に連絡がひっきりなしに入るから遅れようもないんだけど。
『フィーちゃん、今どこですか? 迎えに行くのでその場から絶対に動かないで下さい!』とか。
そしてやってきた委員長と手を繋いで、その日の勉強場所に向かう。正直ちょっと恥ずかしい。
うん、やっぱり委員長はお姉さんっていうよりお母さんだね。
●エリオット●
ミントのフルートは日増しに上達してきた。それは嬉しいんだけど、最近少し困っていることがある。
「猛将! 猛将! いい本入ったんだけど見ていかないかい?」
本屋の前を歩いていると、ケインズさんがそんなことを言って手招きしてくる。
「エリオット君、今日は猛将なの? いいよ、皆には内緒にしておくよ!」
店頭で雑誌の表紙を眺めていたミントも、無駄に大きな声を辺りに響かせる。
僕はごく一部の人達から猛将と呼ばれるようになってしまった。
ほんとにやめて欲しいんだけど。
姉さんと父さんに知られたら、僕は一体どうなってしまうんだろうか。
●アリサ●
私はシャロンに、フェリスはサリファさんに、それぞれブローチを渡すことができた。
残念だったのはマルガリータさんの襲撃にあってしまったので、二人でゆっくりお店を回れなかったことかしら。
だったら今度はヘイムダルのお店を回ろうと、現在二人で計画を立てている真っ最中。
廊下でそんな話をしていたら、物陰から「ムフォッ」と声が響き、そこには目を光らせながら佇んでいる大きな影が。
まさか追ってくる気なの? ヘイムダルのブティックでマネキンの真似なんて絶対やりたくないんだけど。
近い内にもう一騒動ありそうな気がして、私とフェリスは顔を見合わせた後、がっくりと二人そろって肩を落とすのだった。
●リィン●
あの日の記憶がまるでない。
風邪を引いて倒れたからだろうか。風邪を引いた理由はもちろん、何をして過ごしていたのかさえ思い出せない。
あれ以来、マキアスに出くわすとどうも落ち着かないというか、何かされそうな気がしてつい身構えてしまう。
さらに委員長を見ると、喉の奥から凄まじく苦い何かが這い上がってきて思わず吐きそうになるし、アリサを見れば、左頬に焼けるような痛みがずきずきと襲ってくるようになった。
あとラウラは俺の前に立つとき、胸前で腕を組む回数が多くなった気がする。まるで何かを守るように。
そういう時、どうしてか俺の両手がざわざわと疼きだすのだ。
そんな様子をシャロンさんはくすりと笑うし。
……俺、大丈夫だよな?
●シャロン●
お嬢様の為とは言え、皆様方には大変なご迷惑をかけてしまいました。特にリィン様には不憫の一言で、シャロンは猛省と後悔の日々に胸が張り裂けてしまいそうですわ。
皆様の円滑な人間関係を取り戻せるよう、早くあの日の誤解を解いておかねばなりませんが……
まあ、まだそのままでも宜しいかと存じます。
さて、次は何をしましょうか。
●サラ●
学生会館の食堂でⅦ組の面々と出会った。
皆そろって授業の復習をしていたそうだ。Ⅶ組は特別実習もあったりと他のクラスに比べてカリキュラムがハードだから、部活がない日に合わせて時々勉強会みたいなことをやっているらしい。
ほんと自慢の教え子達だわ。
「一段落したので、皆で何か食べようかと話していたところなんです。よかったらサラ教官も座っていきませんか?」
リィンがあたしにそんなことを言ってくれる。そうだわ。今こそメアリー教官のあれを実践する時。
さすがにあたしのスカートだと短いので、コートの裾を軽く持ち上げて、少し会釈。
そして一言。
「ええ、よろこんで」
瞬間、皆の表情が凍り付く。小さなざわめきは、あっという間に喧騒と化した
「なっ、なんの病気だ!? エマ君急いで薬の調合を!」
「わ、私こんな症状みたことありません。ラウラさんはどうですか!?」
「うん……尋常ではないな。ガイウスはどう見る?」
「誤って毒物でも食べたのではないか? フィーは何とかできそうか?」
「無理。酔ってその辺の雑草引き抜いて口に入れたんだと思う。ユーシス、馬用の胃薬いってみる?」
「ここまできては手遅れだ。諦めるしかなかろう。エリオット、葬送曲は弾けるか?」
「ひ、弾けるけど……ねえアリサ、一応シャロンさんに連絡して見たら?」
「喜んで様子を見に来ると思うけど、何とかなるとは思えないわね。もうどうするかリィンが決めなさいよ」
「また俺か。……よし、何も見なかったことにしよう」
あ、あんた達ねえ。
「いい加減にしなさいよー! 全員グラウンド十週、全速力!」
あちらこちらから不満の声があがる。だけどこの際知ったこっちゃないわ。今から体力付けときなさい。
あたしが水着姿で学院内の掃除をするかどうかは、全部あんた達の肩にかかってるんだからね!
☆☆そんなⅦ組の一日 END☆☆
最後までお付き合い頂きありがとうございます。一日シリーズラストはサラでした。やっぱり教官勢との話が主となってきましたね。そんな感じで、教頭との戦いが決まるまでがサラの一日となっています
彼女も彼女でトラブルに巻き込まれておりますね。またⅦ組を巻き込んで変なことになってますし。あと、彼女のセリフで“あたし”と“私”がありますが、一応使い分けています。誤字ではありませんのでご了承下さい。
ちなみにですが例のエキシビジョン体育祭は、実はこの小説の最終話にあたります。ただそこに到達するまでにはまだまだたくさんの話がございますので、乱文遅筆ではありますが、お付き合い下されば嬉しい限りでございます。
一日シリーズは終わりましたので、次回からはまた一話完結式で楽しくやっていきます!
次回は、久しぶりにⅦ組フルメンバー出撃の話となりますので、お楽しみ頂ければ嬉しいです。