9月12日(自由行動日) 11:20 リィン・シュバルツァー
「きゃああっ!」
そんな叫び声と共に、左頬を鋭い痛みが襲う。
ぐらりと傾いていく視界の中に、息を荒げながら右手を振り抜いたアリサの姿が見えた。
朦朧とする意識は痛みのせいなのか、寝起きのせいなのか分からない。
びりびりと痺れる左頬、ぐわんぐわんと反響する左耳。
定まらない思考だったが、半年前にも経験した痛みが記憶の底から蘇り、アリサの平手打ちが炸裂したのだと理解した。
「俺は……何を謝ったらいいんだ……?」
第三学生寮二階。階段前のソファーから床に転げ落ちた俺は、尻もちを付いたままアリサを見上げた。
「起きる時は起きるってちゃんと言いなさいよ……」
アリサは落ち着かない呼吸のまま、理不尽な要求を突き付けてくる。
それは修行したら出来るものなのだろうか。一瞬本気で熟考し、「……それは、無理だろ」と最終的に導き出した答えを彼女に告げた。
ご意向に沿わない返答にもう一発覚悟したが、アリサは言いよどみながらも俺に謝ってくれた。
「あの、とりあえずごめんなさい。その、悪気があったわけじゃないのよ?」
なら、なぜ俺はビンタをもらったんだ。
会話を交わすうちに、さっきの一撃の話から逸れていく。結局、引っ叩かれた理由は謎のままになってしまった。
「――というか何でこんなとこで寝てたのか先に聞きたいんだけど」
アリサがそんなことを聞いてくる。
それはなんでだったか……そうだ。
「あ、ああ。朝一で剣の稽古をしていたんだが、一通り終わったから休憩のつもりで座っていたら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ」
朝方の出来事を順に思い返してみる。
朝食を済まし、日課の剣の稽古も一通りこなし、部屋の外に出たところで俺はエリオットに出会ったんだ。
エリオットは“強さ”について悩みを抱えていたらしい。どこまで参考になったか分からないが、俺は少し話をした。その後だったか、このソファーに座ったのは。
まさかビンタで起こされるとは思いもしなかったが。
「はあ……なるほどね。せっかくの自由行動日なのに相変わらずというか。でも、こういう日は色々な頼まれ事受けてるんじゃなかったの?」
「必ずあるわけじゃないからな。いや、昨日ロジーヌから頼まれたことはあったんだが、少し都合がつかなくて。彼女には悪い事をした」
今日はトワ会長の手伝いをすることになっていて、頼まれたのもロジーヌより先だった。
悩みはしたが依頼の内容から、意外と適任そうなユーシスに声を掛けてみてくれと彼女には伝えている。
「へえ……リィンは優しいのね。特にロジーヌさんみたいな、おしとやかな女子には」
瞬間的にアリサの雰囲気が変わった気がした。声音がわずかに低くなり、口調にどことなく棘を感じる。
これはアリサの機嫌が悪い時だ。
俺と話していると、時々アリサは機嫌が悪くなる。
そしてその理由はいつだってわからない。特に怒らせるようなことを言った覚えはないんだが。
「よ、よくわからないぞ。何の話だ」
無言の迫力に気圧されて、俺は後退を余儀なくされる。
「そ、そうだ、シャロンさんに寝覚めの紅茶を淹れてもらおう」
階段に向き直って、一階まで撤退だ。シャロンさんに仲立ちをしてもらわないと。彼女は彼女で事をややこしくしたりもするから、一種の賭けではあるんだが。
しかも困ったことに、彼女はわざとそれをやっている節がある。
「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」
急ぎ階段を降りる俺に、アリサは追撃を仕掛けてくる。
ナイトハルト教官の講義で習っただろう。逃げる敵を深追いしたら駄目なんだぞ。
「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」
足は止めずにそう言うと「へー何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」と荊のように鋭い言葉が弾き返ってきた。
「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」
プツン、と何かが切れた音が聞こえた気がした。
「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」
苛立ちを顕わにアリサが詰め寄ってくる。い、一体なんなんだ!?
いつの間にか一階に到着していたが、友軍候補であるシャロンさんの姿は見えない。
あっという間に俺はラウンジのソファー側に追い詰められる。
両脇はソファーに阻まれ、背後には小さなテーブル。完全に退路を断たれてしまったが、アリサが攻勢を緩める気配はない。すでに追い打ち作戦は殲滅作戦に変わっているようだ。
「アリサ、俺は――」
「な、に、よ?」
一言区切る毎に、怒気、毒気、冷気を込めて言い放ってくる。短気は損気だぞと言いかけて、必死でその言葉を喉の奥に押し込めた。
「言いたいことがあるなら早く言ってちょうだい?」
言ったら怒るだろ、絶対。
「私もこの後予定があるのよ。お互い良い日になるといいわね?」
アリサは口許だけ笑ってみせる。ビンタから始まった時点で、多分もういい日じゃない。
「な、なんだか分からないが、もう許してくれ」
その時、気付かない内に引いていた足が、後ろの机に強く当たった。
ガタンと音がして、バラバラと何かが転がり落ちていく。たくさんのチェスの駒だった。これはマキアスのものだ。
激昂した彼の顔が脳裏に浮かび上がり、急激に腹の底が冷えていく。
「……まずい」
「……そうね」
さっと血の気が引いて、アリサも平静さを取り戻す。チェス関係で怒ったマキアスは、その説教に容赦がない。
急いで駒を拾い集めると、手早くそれらを盤上に戻していった。
クイーンがここで、ルークがここか。あ、それだともうチェックが掛かっているからダメか。
少し目についたくらいなので正直配置は曖昧だが、この後のことを考えると放って置くわけにもいかない。
「こんな感じだったか?」
何とかそれらしく並び直し、最後の駒を盤に置いたところで、机の下からルビィが飛び出してきた。
叫ぶアリサをよそに、ルビィは彼女の足の間を抜けて、寮から出ていってしまう。相も変わらず神出鬼没というか、行動が読めないというか。
「あら、お嬢様? それにリィン様も」
アリサの叫び声が聞こえたのか、調理場からシャロンさんが顔をのぞかせた。
シャロンさんは俺とアリサ、それぞれに意味ありげな視線を巡らすと、
「これは失礼致しました。お嬢様とリィン様の仲睦まじいお時間をお邪魔してしまうなど、このシャロン何とお詫びすれば……」
仰々しく頭を下げる。一体何をどう見たら、その結論に至るんだ。
「うふふ、あら?」
シャロンさんは俺の後ろの机に目を向けた。
「もしかして、マキアス様のチェス盤を崩してしまわれたのですか?」
相変わらず鋭い。駒は戻し終わっているのに何で分かるんだ?
途端にシャロンさんは、悲哀とも焦燥とも取れる表情を浮かべる。
「ああ、これは大変なことになってしまいました。お二方少々お待ちを……」
急に調理場へと引き返していく。
どうしたんだ? 戻ってきたシャロンさんの腕には、ぼろぼろになった小さな置き棚が抱えてあった。
「お待たせいたしました。これを」
「なんですか、それは?」
「実はこの棚は、今朝方にマキアス様が壊してしまったものなのです」
「マキアスが……なんで?」
彼女の表情がかげる。
「いつものようにラウンジのお掃除をしておりました所、私の不注意でほうきを机に当ててしまいチェスの駒を崩してしまったのです。慌てて駒を元の場所に戻したのですが……」
どんどん重たくなっていくシャロンさんの口調に、俺とアリサはごくりと息を飲む。
「マキアス様は盤上の配置を全て記憶しておられたようで、所々入れ違った駒を見るや憤激されました。謝罪する間もなく、手近にあったこの棚に狂わんばかりの怒りをぶつけ始めたのです」
「……そ、それってシャロンの冗談でしょ?」
アリサが願望を込めて聞くも、憔悴の色を瞳に浮かべたまま、シャロンさんはただ無言で見つめ返してくるだけだった。
「シャロンは怯えて調理場の隅に隠れるより他ありませんでした」
小さく肩を震わす。
「しばらくすると音も収まったので、マキアス様の様子を確認しようと思いました。すると物静かにラウンジに立ち尽くしておられたのです。落ち着かれたものと思い、謝罪を申し上げようとしたのですが……」
嫌な予感がした。
「その手にご愛用の導力散弾銃が握られているのを見て、シャロンは思わず足を止めました」
導力散弾銃。俗にショットガンと呼ばれるマキアスが使用する武器だ。
「その直後でございました。銃を掲げられたかと思いきや、すでにぼろぼろになった棚に即座に狙いを移し、慈悲の一片も感じさせない機械的な動作で引き金に指を掛け、そして――」
シャロンさんの視線が改めて、廃材と化した棚に向けられた。
「始末、という言葉が相応しいでしょう。その後マキアス様は何事もなかったかのようにソファーに戻られ、チェスの続きを再開されました。眼鏡を光らせ、口許に冷ややかな笑みを浮かべたまま。シャロンは……シャロンは……!」
うう、と嗚咽を漏らしながら力なく壁に寄り掛かる。
正直、本当かどうかは疑わしい。
いくらマキアスでもそこまでのことを……だけどチェスが絡むと普段見せない一面を覗かせるのも事実だし……
仮にその話が本当だとしたら、現実としてある問題は一つ。
「ということは、今の状況は今朝に続いて二回目……ということですか」
シャロンさんは無言のままこくりとうなずく。
「私達これ、相当まずいんじゃないかしら!?」
アリサの言う通りだ。しかし、どうすれば――
動揺を隠せない俺達に、シャロンさんが「お逃げ下さいませ」と静かに口を開いた。
「あとはこのシャロンめにお任せを。マキアス様も時間が経てば落ち着かれましょう。お二人とも元々今日は予定がおありのご様子。どうぞこのままお出かけ下さいませ」
調理場の隅で怯えるしかなかったというシャロンさんに任せていいのか、そんな疑問が頭をよぎったが、時間を空けるというのは賛成だ。
急いで身支度を整え、俺とアリサは寮を出る。
いつになく幸先の悪そうな俺の自由行動日は幕を開けた。
――13:00
「リィン君ごめんね~」
生徒会室に出向いた俺をトワ会長が出迎えてくれた。
今日は物品整理を手伝うことになっている。彼女は元々一人で片付けるつもりだったそうだが、中には一人で運ぶにはさすがに重たい物もあって、それで俺に声をかけるに至ったらしい。
何度も、無理にとは言わないよ? 時間が空いてたらでいいんだよ? と申し訳なさそうに言うトワ会長の頼みを断る術を、あいにく俺は持ち合わせていない。
「気にしないで下さい。それで俺は何からしたらいいでしょうか?」
「うん、だからほんとにごめんね!」
「何がでしょうか?」
「実は――」
トワ会長は生徒会室内をぐるりと見渡した。そういえば随分さっぱりとしたような。書類や資料の束もきれいに整えられている。
「リィン君が来る前にほとんど済ましちゃったんだよ。実際に片付けてみると動かせないほど重い物ってそんなに無くってね。あとはあれを本校舎の用務員室に運ぶくらいかなあ」
トワ会長が指さした先にあったのは不要な備品の入った箱で、両脇に抱えられる程度の大きさだ。
「そうでしたか。来るのが遅れてしまったみたいですみません」
「ううん。せっかくの自由行動日だし、たまにはリィン君にも息抜きして欲しかったし。こっちこそ呼び立てておいてごめんね」
再三謝ってくれるトワ会長を見て、逆に何だか申し訳ない気がしてきた。
「気にしないで下さい。だったら俺はこの備品を用務員室に持っていきますね」
「それくらい私がやるから大丈夫だよ」
これ以上トワ会長に何かをさせたら、俺の立つ瀬がない。
半ば強引に箱を持ち上げた俺に「ありがとう、またお礼するからね」とトワ会長は笑ってくれた。
「そうだ。私も今日は仕事が片付いちゃったし、久々にお菓子でも作ってみようかな。完成したらリィン君のところに一番に持っていくよ」
「本当ですか? それは……ちょっと楽しみですね」
「えへへ、腕によりをかけちゃうよ」
本当に楽しみだった。トワ会長の手作りのお菓子なんて食べたことがない。それだけでも今日ここに来た甲斐があった。
軽い足取りで本校舎へと向かう。用務員室は中庭側の入口から入った方が近いので、正面ではなく校舎の裏手に回ることにした。
その途中、技術棟前を通り過ぎようとした時、
「――頼む! もうお前しか頼れねえんだ!」
屋内から大きな声が聞こえてきて、思わず足を止める。
この声はクロウだ。
朝から見かけなかったが、技術棟に来ていたのか。何かジョルジュ先輩に頼み込んでいるようだが。
「作れないことはないけど、そんなもの何に使うのさ。悪巧みかい?」
「それは言えねえ。だがお前を男と見込んでだ!」
「悪い予感しかしないなあ」
会話の内容が見えないが、立ち聞きは趣味が悪いか。
声はかけずに、そのまま中庭に向かうことにした。
中庭東側の入口を入ると、用務員室はもう目の前だ。
「あれ?」
用務員室には鍵が掛かっていた。
さっき生徒会室へと向かう途中に、落ち葉を掃いているガイラーさんを見かけたから、今日が非番というわけではないはずだが。
「困ったな。鍵を開けてもらわないと」
学生会館からの道中ではガイラーさんを見なかったので、グラウンド側か校舎内のどちらかだろう。
とりあえず正面入り口側に向かってみる。幸い、すぐに彼は見つかった。
ガイラーさんが階段前で何人かと話している。
「ん?」
その中の一人が急に向きを変えて、階段を駆け上がっていく。
後ろ姿しか見えなかったが、赤い学院服に三つ編みのおさげ髪だったので、遠目にも委員長だと分かった。あんなに走ってどうしたんだろうか。
その委員長の背中を見送っているのはガイラーさんに……サラ教官とメアリー教官か? 何だか珍しい組み合わせだ。
二、三言ガイラーさんと話をした後、彼女たちはその場から離れていった。
近付いて、ガイラーさんを呼び止める。
「何かな?」
「借りていた備品をお返ししたくて。用務員室の鍵を開けてもらえませんか」
「ふむ……」
顎をしゃくり、まるで品定めでもするかのように、俺の頭のてっぺんから爪先までねぶるように視線を這わせる。ガイラーさんはにたりと頬を緩めた。
「悪くないね」
悪寒が背筋に走り、冷たい汗が滲みだす。
狩人が獲物をみるようなこの目はなんだ。
「本来なら君の熱い要望にお応えして、用務員室でゆっくりと二人で過ごすことはやぶさかではないのだが。今はどうしても外せない用事があってね」
そんなオーダーを出した覚えはないぞ。なんで二人で用務員室に入ることになっているんだ。
ガイラーさんは階段を見上げている。二階から不穏な空気が渦巻いている気がするのは気のせいか?
「外せない用事……ですか?」
「理性と本能の狭間に囚われる、才ある少女の枷を壊すという用事がね」
「はあ……」
さっぱり意味がわからない。
「備品は用務員室の前に置いてくれて構わない。後で責任を持って片付けておこう」
それだけを言い残すと、ガイラーさんは異様な雰囲気のまま二階へと姿を消した。
妙な胸騒ぎがしていたが、ひとまずは言われた通り用務員室のドア横に荷物を置く。
「よしこれで終わり。後は……あ」
そこで気が付く。
俺の今日の用事はこれで終わってしまった。
――13:30
「さてと、これからどうするかな」
外に出て軽く伸びをする。
半日は生徒会室の片付けに費やすつもりだったのだが、それはトワ会長がほとんど済ましてくれたわけだし。
これなら昨日、ロジーヌの頼みを受ければよかった。
ユーシスが昼前に寮を出たところを見ると、おそらく俺の代わりに礼拝堂での授業を引き受けてくれたのだろう。
帰ってきたらユーシスに謝らないといけない。顔を合わすのは怖い気もするが。
「トワ会長も仕事が片付いたって言ってたし……」
生徒会の手伝いもなく、自由行動日にしては珍しく依頼もない。普段なら歩き回っているだけで何かと頼まれごとをされるのだが、今日はそんな気配もない。
時間が空いたはいいが、それならそれでやることが見つからない。
「……釣りでもするか」
結局そんな結論に至ってしまった。朴念仁。そんな揶揄をされるのも不本意ながら仕方ないことかもしれない。
学院の敷地内にも釣りスポットがある。
中庭、花壇奥の池溜まり。月を重ねる毎に魚の種類が増えていく謎の釣り場だ。ケネスが放流でもしているんじゃないかと、そんな疑問が浮かぶほどだ。
すでに正面玄関から出てしまっていたので、グラウンド側を回ってもう一度中庭に向かうことにする。
ギムナジウムの前を通り、ようやく花壇に差し掛かったところで、
「うん、いい感じだな」
凛とした声音が耳に届いた。中庭に見慣れないジャージを着たラウラと、その両サイドに女子が二人控えている。
「ポーラとモニカ……だよな」
これもあまり見かけない組み合わせだ。
ここ半年あまりの依頼をこなす内に、いつの間にか学院関係者の名前と顔はほとんど一致するようになっていた。
「ラウラたちは一体何をやってるんだ?」
彼女たちが見上げる先にあった光景を目にし、絶句する。
エリオットとガイウスが壁をひたすらよじ登っているではないか。
「エリオット、もう少しだ!」
「ゆ、指先が痺れてきた……」
そんな二人をラウラは助けるでもなく「その調子だ」と落ち着き払い、モニカは「落ちたら痛いよね? ね?」などと、執拗に彼らを追い詰めている。
ポーラに至っては「落ちた時のペナルティーが必要じゃない?」といかにも怪しげな機材を、壁を登る二人の下に楽しそうに設置し始めた。
状況を見ても何をやっているのかは不明だが、二つだけ理解できたことがある。
絡まないでおくのが良さそうだということ。そして、ここで釣りをすることは叶わないということだ。
後じさりながら踵を返し、俺は速やかにその場を離れた。
エリオット。朝に話した“強さ”っていうのは、多分そういうことじゃないと思うぞ。
――14:10
足の向くまま、今度はアノール川へ。やはり釣りならあの場所だろう。
「あ、そういえば餌を切らしているんだったか」
うっかりしていた。
仕方がないから川は一度素通りして、ミヒュトさんの店に行くことにした。
貴重なクオーツや掘り出し品を扱っている上に、なぜか釣り用の撒き餌まで揃えているので何かと重宝している店だ。
道中、ブティックのショーウインドウ――その中のマネキンに目が留まる。
「……アリサによく似たマネキンだな」
まだ距離はあったが、遠目にもそう見えた。
そしてなぜかⅠ組のフェリスにそっくりなマネキンも隣に置かれている。
あまりに精巧な作りなので本人達と見間違える程だったが、もしかしてマネキンのモデルにでもなったのだろうか。
……さすがにそれはないか。しかしあのマネキンを見ていると、今朝ビンタされた頬が疼きだすのはなぜだろう。
「アリサの平手打ち……トラウマになりかけているな」
ずきずきする頬をさすりながら路地に入り、質屋《ミヒュト》の扉を開く。
店内にミヒュトさんの姿はなかった。
「外出しているのか? 店も開けっぱなしで不用心だな」
まあミヒュトさんを知っている人なら、この店に強盗に入ろうなんて思わないだろうけど。一筋縄ではいかない雰囲気があり過ぎて困る。
カウンターまで歩み寄って気付いた。
「ミ、ミヒュトさん!?」
ミヒュトさんは椅子に座り、うなだれている。顔をのぞき込むと白目を剥いていた。生気の欠片も感じられない。意識があるのかさえ定かではなかった。
「だ、誰がこんな真似を」
薄々感づいてはいた。様々な情報網を持っているらしいミヒュトさんはどこか“世間の裏”に通じているところがあると。
どこかの危険な組織がミヒュトさんを亡き者にしたのかもしれない。
武器密売の闇ブローカーか、あるいは怪しい宗教団体か、もしかしたら以前サラ教官が口にした《身食らう蛇》とかいう謎の結社か。
いずれにせよ、ミヒュトさんはもう戻って来ないのだ。
「くそっ!」
刹那に湧いた激しい怒り。握りしめた拳をカウンターにどんと打ちつける。
「ぐうっ」
その時、ミヒュトさんから呻き声が漏れた。
生きている。
「ミヒュトさん! ミヒュトさん!」
安堵と焦りが混じり、必死に声をかける。
少しのあと、ようやくミヒュトさんは意識を取り戻した。
「よかった。無事だったんですね」
「お前は……ここは……肉が、肉玉が……」
本当によかった。記憶が定まらないのか、よく分からないことを口走ってはいるが。
傾いていたミヒュトさんの体を戻そうと肩に触れる。その瞬間だった。まるで電流でも走ったかのように彼はビクリと身を震わせた。
「う、うおおおおっ! やめろおお!」
絶叫。それは俺に対しての言葉ではない気がした。激しくぶれて焦点の定まらないミヒュトさんの眼は、その先にある何か得体のしれない恐怖に怯えているようだった。
「ぐあああ!」
「ミヒュトさん!? 何を!」
弾かれたように椅子から立ち上がったミヒュトさんは、俺に向かって拳を振り上げると、一切の容赦なく殴り掛かってきた。咄嗟に引いた体が後ろの棚に強くぶつかって、陳列されていた商品を派手に飛び散らせる。
「ぐっ!」
ミヒュトさんは今正気じゃない。再び繰り出された拳をかいくぐって回り込むと、背後から首を両腕で締め上げた。
「落とすだけです! 悪く思わないで――うっ!?」
頸動脈を圧迫する為に力を入れていたはずの腕が、無造作にかけられた彼の手によって容易く引き剥がされていく。
手首を掴まれたまま力任せに振り払われ、成す術なく中空を舞った俺の体は、受け身を取る暇もなくカウンターに打ち付けられた。
嗚咽をもらした俺の視界に「ムフォー!」と雄叫びを上げたミヒュトさんが迫りくる。
どこかで聞いた一声だと思ったのも一瞬、染みついた感覚が考えるよりも先に体勢を戻す。
やらなければ殺られる。刹那によぎる言葉が拳を固めた。
左掌を突き出し、右拳を脇に引く。無手の構えで、迫り来るミヒュトさんを正面に捉える。
「うおおおっ!」
「ムフォオッ!」
瞬きよりも早く、互いの拳が交差する。ミヒュトさんの一撃は俺のこめかみを掠め、俺の一撃はミヒュトさんの顎を掠めた。
決定打ではない。だが二撃目の必要はなかった。
ミヒュトさんは再び白目をむくと、その場にくずおれて動かなくなる。
顎からの衝撃に脳が揺れたのかもしれない。元々意識が不安定だったのも要因の一つのようだ。
荒れに荒れた店内の真ん中で、俺は力なくへたりこんだ。願わくば今の衝撃で、ミヒュトさんの記憶が飛びますように。
「……撒き餌は諦めるか」
今更ながらこの店に来た目的を思い出し、疲れの溜まった息を吐く。
――14:40
川に餌の付いていない針を投げ落とす。
虫でも捕まえて餌にしようと思っていたが、もはやそんな気力と体力は残されていなかった。
これで魚など釣れるはずもないが、釣りの真似事でもしていれば心も落ち着くだろう。
今はそれで十分だ。
「……結局ミヒュトさん何だったんだ」
あの後、乱雑になった店内を片付けてから、ミヒュトさんは元の椅子に座らせておいた。
顎への一撃以外に外傷はなかったようだし、呼吸も安定していた。
誰かに連絡しようかとも考えたが、それは止めておくことにした。直感だが、そこまでの大事ではない気がする。
しばらくしたら目を覚ますと思うが、問題は一連の事柄をミヒュトさんが覚えているかどうかか。
釣竿を片手に川縁に腰を下ろす。吹き抜けた風がふわりと前髪を揺らしていった。
「気持ちいいな。ガイウスが好きそうな風だ」
がさりと近くの木陰から音がする。そこにいたのは、短い尻尾に見覚えのある茶色い毛並み。
「ルビィ? 寮を出て行ったと思ったらそんな所にいたのか」
名前を呼ぶとルビィはそばに寄ってきた。
相変わらず自由なやつだ。口に何か咥えている様だが、また変な物でも見つけたのだろうか。
頭を軽く撫でてやると、ルビィは気持ちよさそうに体を伸ばした。
ずいぶん毛並みの質が良くなっているのは女子達のおかげだろう。
どこで手に入れたのか上質の犬用トリートメントで、手厚いケアを定期的に実施しているらしい。
「お前は呑気だよな。わかってるのか? 俺たちがお前と一緒にいられるのは、あと一か月くらいしかないんだぞ」
二か月。それが第三学生寮でルビィを預かれる期限。
ヴァンダイク学院長から出された条件の一つだ。つまり十月の半ばまでに、新しい飼い主を見つけなくてはいけないのだ。
「ん?」
じっと水面を眺めていたルビィは、ぴくりと耳を動かして、不意に首を持ち上げた。
同時に餌の付いていない釣り針がぐっと重たくなる。
「あ、しまった。根掛かりだな」
針だけだし当たり前か。
目を凝らして水底を見てみると、大きな石の間に針が引っ掛っている。こうなっては簡単に外せない。
糸が切れるのも承知で、強く竿を引っ張り上げた。
石に針が掛かっていたわけではなかったらしく、少し竿の位置がずれると、そのままリールを巻き上げることが出来た。
ぱしゃんと飛沫を立てて、釣り針が水面から上がる。
何か光るものがぶら下っていた。ガラスの破片だろうか。とりあえず糸を手繰り寄せてみる。
「これは……ブローチか?」
丸い縁取りで青い輝石のはめ込まれたシンプルなブローチだ。なんでこんなものが川底に?
釣り上げたものでも、落とし主の判らないものを持っていくのは気が引けるし……
どこかで見たような気もするが、どうにも思い出せない。
ひとまず川縁の端、目立つ所にそれと分かるよう置いてみた。もしかしたら探しに来た人が見つけるかもしれないし。
「よし、そろそろ餌になりそうな虫でも探すか」
気合を入れ直した時、自分の名前を誰かに呼ばれたような気がした。
なぜかルビィがそそくさと木の陰に隠れてしまう。
辺りを見回してみる。そして橋の上にその人物を見つけてしまった。全身の血が冷えわたり、畏怖を覚えた体がみるみる強張っていく。
「マ、マキアスっ!?」
橋の上からマキアスが俺に向かって何かを叫んでいる。
まさかチェスの事で俺を追いかけてきたのか。どこか笑っているようにも見えるが。
唐突に、忘れかけていたシャロンさんとの会話を思い出した。
――所々入れ違った駒を見るや――狂わんばかりの怒りをぶつけ始めたのです――
「お、俺に狂わんばかりの怒りをぶつけに来たのか!?」
いや、あれはシャロンさんの冗談の可能性もある。普通に散歩でもしていて、俺に声をかけただけかもしれない。そうだ、そうに違いない。しかしチェスを崩してしまったことは謝らないと。
「マキアス、チェスのことは済まなか――」
――謝罪を申し上げようとしたのですが、その手にご愛用の導力散弾銃が握られているのを見て――
彼女の言葉が否応なく脳内で再生され、言葉が詰まる。いくらマキアスでもこんな町中で武器なんか所持しないはず。そう思いかけて息を飲んだ。
片腕を掲げたマキアス。その手には黒光りする長物が携えられていた。
「シ、ショットガン!?」
――その直後でございました。銃を掲げられたかと思いきや、すでにぼろぼろになった棚に即座に狙いを移し、慈悲の一片も感じさせない機械的な動作で引き金に指を掛け、そして――
「待ってくれマキアス! 話を聞いてくれ! 冗談なんだろう!?」
――始末、という言葉が相応しいでしょう。眼鏡を光らせ、口許に冷ややかな笑みを浮かべたまま――
「あ、ああ……!」
全ての状況がシャロンさんの言った通りに動いている。
あの笑みは獲物にとどめを刺す直前の舌なめずりということなのか。あるいは追い詰めて逃げ場を失った標的を嘲笑っているのか。それほどまでに、マキアスのチェス盤を崩したことは罪深いことだったのか。
その口許がわずかに開き、こう言い放ったように見えた。
――チェックメイト――
逆光で黒く塗り込められたマキアスの表情は見えず、妖しい光を放つ眼鏡だけが浮き立っている。
ついに銃口がこちらに向けられた。
前後左右に逃げ場がない。もう選択肢は一つしかない。
「うおお!」
俺は川の中へと飛び込んだ。
もはや退路はここだけだ。幸い散弾銃の射程は長くない。どうにかして距離を取らなければ。
流され過ぎないよう、力を振り絞って精一杯泳ぎ続ける。気付けばマキアスは橋の上から姿を消していた。
威嚇だけだったのか?
しかしすでに川の中。浮き沈みを繰り返しながら対岸を目指す。流れに抗いながら、俺は確信した。
今日は久しぶりの厄日だ。
――15:00
何でこんなことになってしまったんだ。
自分にそう問いかけた時、最初に思い浮かんだ不義理はユーシスの一件だった。
ロジーヌからの依頼を断わる形でトワ会長の頼みを優先し、あげくその引継ぎを無関係なユーシスに振ってしまったのだ。
ユーシスには依頼を受けたのかの確認を含め、昨日の内に謝っておくべきだったのだが、何となく二の足を踏んでしまい、部屋のドアを叩くことができなかった。
明日でいいかと後伸ばしにした結果、結局のところ未だユーシスには会えていない。
だから、これは受けて然るべき罰なのだろう。
少し罰が重すぎるような気がしないでもないが、甘んじて受け入れるしかない。
今からでもいい。ユーシスに謝りに行こう。そうしないと俺の気が済まない。
水を吸って鉛のように重たくなった服をまとい、ひたひたと水を滴らせながら礼拝堂へと向かう。
一歩歩くごとに靴の中の水がびちゃりと音を立て、不快な感触が足裏から伝わってきた。
礼拝堂が見えてくる。丁度ユーシスが扉を開いて中に戻るところだった。
「ユーシス!」
びっちゃびっちゃと足を踏み鳴らしながら、駆け寄ってその背中に叫ぶ。
ユーシスは振り返りながら「リィンか。お前のおかげで俺は面白いことになっているぞ」とたっぷり皮肉を浴びせてくれるが、俺のずぶ濡れ姿を見ると不意を突かれたように目を丸くした。
「お、お前?」
「俺が悪かった! 許してくれ、ユーシス! この通りだ」
誠心誠意、頭を下げて謝る。垂れた前髪から水が落ち、足元に水たまりが広がっていった。
「わ、分かったから、頭を上げろ」
「許してくれるのか?」
「子供のおもりなど造作もないことだ」
礼拝堂に向き直るユーシス。
「それよりもお前……いや何でもない」
何か言いかけたようだったが、言葉を途中で切り上げる。彼は毅然とした態度で礼拝堂へと戻っていった。
悪いとは思っているが、やっぱり適任なのは間違いなかったようだ。
ユーシスが礼拝堂内に足を踏み入れた途端、大勢の子供達がその体に一斉にしがみつく。
「ええい、お前たち離れるがいい!」
「やっぱり似合ってるな」
気になるのは子供たちに混じってフィーとミリアムがいることか。別に違和感はないが。
「俺はそろそろ寮に帰るか……」
今日は外を歩くと何かとトラブルに見舞われる。もうこれ以上のアクシデントはごめんだ。部屋でゆっくり休むとしよう。
帰路につく俺の背を、涼やかな風が柔らかく押してくれる。普段なら心地よく感じる秋風も、濡れた体には冷たかった。
――15:30
「シャロンさん、ただいま戻りました。……とりあえずタオルをもらえますか」
第三学生寮の扉を開くと、ラウンジの掃除をしていたシャロンさんはこちらを見るなり目を
「まあ、リィン様。滝にでも打たれてきたのですか?」
「どんな予想ですか」
俺のイメージってどうなってるんだ。大体、滝に打たれるにしても服ごとはいかないだろう。
「うふふ、どうぞ。シャワーでも浴びられますか?」
タオルを差し出しながら、シャロンさんはそんな申し出をしてくれる。そういえばずいぶん体も冷えていた。
「すみませんが、お願いします」
「今なら寮内には誰もおりませんので、シャロンが心を込めてお背中をお流し致しますわ」
「やっぱりやめておきます」
そんな姿をアリサに見られでもしたら、それこそビンタじゃ済まない。気が済むまで、あらん限りの矢を撃ち込まれることになりそうだ。
「あら、冗談ですのに」
くすくすと笑いながらシャロンさんは言う。シャワーはもちろん浴びたいが、少し休んでからでいい。
とりあえず自室に戻り、濡れた学院服を脱いで部屋着に着替え直した。
「なんだか……大変だったな」
床に腰を落として、ベッドに寄り掛かる。一息つくと、一気に溜まっていた疲れが押し寄せてきた。
シャワーを浴びに行かないと。しかし一度座ってしまうと、立ち上がるのが億劫になってくる。
まどろみに溶けてしまいそうだ。重くなったまぶたが落ちていく――
――17:00
目を開ける。
霞む視界の中に時計を捉えると、針が示している時刻は十七時。
おかしい。十分程度目を閉じていたつもりだったのに、一時間半も経っている。
「いつの間にか眠っていたのか?」
ベッドの端に手をかけて立ち上がる。
ぐらりと歪んだ景色に思わずたたらを踏んで、今度は机にもたれかかってしまった。
何だか寒気がする。頭はふらつくし、目頭が熱い。
「っくしょん!」
そしてくしゃみ。鼻をすすると、喉の奥に鈍痛が走った。
「これ……風邪だ」
冷えた体のまま、毛布も使わずに床でうたた寝をしたのだから、それはそうなっても仕方がないことか。
うかつだった。せめて先にシャワーを浴びて体を温めておけば良かった。
遅い後悔を感じながら、おぼつかない足取りで壁伝いに部屋から廊下へと歩み出る。
せめてシャロンさんに状態を伝えて、薬を用意してもらわないと。
手すりを脇に抱えるようにして、一段一段時間をかけて階段を降りた。
ようやくの思いで一階に辿りついたが、ラウンジにシャロンさんの姿は見えなかった。
「シャロンさん、いませんか……ごほっ」
咳も出てきた。声が出しにくいし、もう立っているのもしんどい。ひとまずソファーまでは行かなければ。
のろのろと向き直った時、扉の開いた音がした。
「リィンか? 今日は寮にいたのだな」
聞こえてくる快活な声。ラウラが帰ってきた。
いいタイミングだ。シャロンさんが戻ってきたら、ラウラから俺の体調不良を伝えてもらえばいい。
「その、ごほっ、ラウっぐ!」
「リィン、どうしたのだ?」
話そうとするも咳き込んで言葉にならない。そんな俺の様子を訝しんでか、ラウラが近づいてくる。
そうだ、紙に書こう。ペンは確か棚に――
「あっ?」
「リィン!?」
ペンを取りに行こうとしたら、足がもつれてしまった。
そのまま崩れるように倒れ込んでしまうが、間一髪壁に手を付いて、何とか留まることができた。
危ないところだった。下手をしたら頭から床に突っ込んでいた。丁度よく目の前に柔らかい壁があったから良かったものの――
「え……」
嫌な予感のまま、落ちていた視線をゆっくりと上げる。
それが視界に入った時、列車砲の弾になって撃ち出されたかと思う程の、想像を絶する衝撃に慄然とした。
突き出された両の手の平は、見事に、寸分違わず、狙い澄ましたかの如く、まるで旬の果実をもぐかのように、ラウラの両胸をわし掴んでいたのだ。
俺は固まり、ラウラもまた固まっている。
氷に閉じ込められたみたいに時が止まっていた。
永遠とも思える数秒を経て、ラウラが震える口を小さく開いた。
瞬間、はっとして俺は体を引く。
まずはとにかくこの手を離さないと! だがそう思う意志に、体は付いて来なかった。
引きかけた足が何もないはずの床に引っ掛かり、さらに体勢が大きく傾く。
「はっ!?」
ラウラの胸に手を押し当てたまま、彼女を背後の壁に勢いよく押し付けてしまった。
どんっと大きな音が響いて、気付けばさらに強くラウラの胸をつかみ――いやもう、握りしめていた。
わざとじゃない。絶対にそれだけは言わないと。
「こ、これは……わざとっ! ぐふっふっ」
放たれた咳が最悪のタイミングで言葉を断ち切った。さらに不運なことに、何とか堪えようとして詰まった咳き込みは、自分でも耳を閉ざしたいくらいの下種な笑い声に聞こえた。
「なんでしょう? 大きな音……」
調理場からシャロンさんが顔を出して、こちらを見るなり「あら……まあ」と口許を手で覆った。しかし目元が笑っている。
ずっといたのか。なぜもっと早く出て来なかったんだ。むしろなぜ今出てきたんだ。最悪のタイミングを持っている人がここにもいたぞ。
「うふふ、お邪魔致しました」
そう言い残すと、シャロンさんはまた調理場へと消えてしまった。
今度こそ俺はラウラの胸から手を引いた。手の平にはじとりとした汗が滲んでいて、その感触は未だに消えてくれない。
どうなる、俺はこの後どうなる。
どう考えても無事では済まない。ばくばくと心臓が脈打つ中、思い返したのは入学初日、旧校舎地下にて行われた特別オリエンテーリング――その出口で戦ったガーゴイルだ。
ラウラの大剣によって両断され、中空を舞い飛んだ石の首が、俺のそれへとすげ変わる様を幻視してしまった。
「……ち」
顔をうつむけていたラウラが何かを小さく呟いた。
ついに実刑判決が下されるのか。
ラウラは顔を上げて、震える声で言葉を続けた。
「父上に言う……」
実刑判決ではなく処刑宣告だった。
顔から火が出るほどに赤面したラウラは、さっき自分がされたように、俺の胸をぐんと押した。
その反動で二、三歩後退する――程度なら良かったかもしれない。想像以上の膂力が背中まで突き抜け、すでに耐える力など微塵にも残っていなかった俺は、反対側の壁まで盛大に吹き飛んだ。
体全体がへしゃげるくらいに壁にぶち当たった後、塗りたてのペンキが垂れるように床にずるりと落ちて、そのまま力なく横たわる。
ラウラは真っ赤な顔のまま、階段を駆け上がって行ってしまった。
動かない、というか動けない俺のそばに、再び調理場から出てきたシャロンさんが粛々とした佇まいで歩み寄ってくる。
足元で立ち止まったシャロンさんは、静かな口調でこう言った。
「今、リィン様が考えていることを当てて差し上げましょうか?」
目線だけでシャロンさんを見上げると、変わらず柔和な笑みを口許に湛えている。今俺の思うことは一つ。今日は厄日、その一言だけだ。
シャロンさんは自信たっぷりに答えた。
「どうせならエマ様の方が良かった……ですね?」
「そんなわけっ、ぐふっふ」
咳も、災難も一向に止まらない。
――19:00
「ごほっごほ……」
シャロンさんに風邪を引いたことを伝えた後、満身創痍で自室まで戻ると、力尽きた俺はベッドに倒れ込んだ。
シャロンさんが言うには、風邪薬を切らしているらしく、雑貨店まで買いに行くとのことだったが、それ以降の音沙汰が全くない。
雑貨屋って《ブランドン商店》だろう。時間がかかってもせいぜい二十分くらいだろう。
どうして一時間以上も帰って来ないんだ。いや、もう帰っているのかもしれないが、こんな体調だと気配を察知する感覚まで鈍くなっているらしく、他階の様子が今一つ掴めない。
まったく、風邪を引くなんてしばらくぶりだ。
ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。足音は俺の部屋の前で止まり、誰かがこんこんと扉を叩く。
「リィン大丈夫? 入るわね」
やってきたのはアリサだった。
「シャロンから聞いたのよ。風邪引いたんですって?」
声が出しにくいので、ただうなずく。
心配して見に来てくれたのか。手に何かを持っていようだ。
「何も食べてないんでしょ。それじゃ治るものも治らないわ。お粥を作ってきたから、その……か、感謝しなさいよ?」
アリサはベッド横に、持ってきてくれたお粥を置いた。ちらりと見てみる。
変だ。俺の知っているお粥は白色なんだが、なぜか燃えるような赤色をしている。
「シャロンが教えてくれたの。体の熱を引かすには汗をかくのが一番いいんだって。だから発汗作用のある香辛料を隠し味に入れてみたのよ」
全然隠れていない。むしろステージの最前線でスポットライトを浴びている。いつぞやの煉獄スープに米を投下しただけだろ、それ。
「ん……んん!」
「そっか。起きられないのね? し、仕方ないから食べさせてあげるわよ。仕方なくよ!?」
スプーンを手にしたアリサは、お粥と呼ばれたモノを俺の口許に近づけてきた。
それはスプーンの上さえぐつぐつと煮立って、まるで慟哭を上げているように、しゅーしゅーと得体のしれない蒸気を噴出している。
「はい。あーん」
やめろ……やめてくれええええ!
がちゃ、と扉が開く音がした。
「失礼します、リィンさん。あらアリサさんも……」
「エマ。どうしたの?」
委員長が俺の部屋にやってきて、アリサの手が止まった。助かった。
「シャロンさんからリィンさんが倒れたと聞きまして。それで様子を見に来たんです」
ありがとう、委員長。おかげで俺は――待て、その手に持っているものは何だ?
俺の視線に気付いたらしく、「あ、これですか」と手に持ったものを掲げてみせる。
「おばあちゃん秘伝のお薬です。私も子供の頃、風邪を引いた時はよく飲ませてもらっていました」
そうじゃない。聞きたいのはどうして実験器具用のフラスコの中に、風邪薬と思わしき液体が入っているのかだ。
「記憶を頼りにしていたので調合に手間取ってしまいましたが、多分大丈夫です」
記憶を頼りにとか多分とか、その時点でだいぶ危険じゃないのか。
俺は市販の薬でいいのに。シャロンさん一体何をやっているんだ。
「でもお薬を飲むなら何か食べてからじゃないと」
「そうでしたね。ではアリサさんからお先にどうぞ」
「み、見られてるとできないわよ!」
「な、何がでしょうか?」
二人が揉めていた時、
「……リィン、少しよいか?」
三度目の扉が開き、普段とは別人のような、おずおずとした態度のラウラが部屋に入ってきた。
「アリサに委員長か。そなたらもいたのだな……まあ、いいか」
ラウラは枕元まで近づいてくると、その目線を落ち着きなく動かしながら歯切れ悪く言う。
「その……そなたが体調を崩しているとは知らなかったのだ。さっきは……あんなことがあって……気が動転してしまって……すまなかった。あの……今までにないことだったゆえ……」
待ってくれ。なんでそんな誤解を誤解で塗り固めるような言い方をするんだ。
「リ、ィ、ン~!? あんなことって何? 今までにないことって何なのよ!?」
「うふふ、私も聞かせて頂きたいですね……じっくりと」
アリサと委員長の視線が刺さる。
そんな二人には構わず、ラウラはタッパーを取り出した。
「今日の昼、エリオットとガイウスに食べてもらったレモンの蜂蜜漬けだ。程よい甘さと酸味が体に活力を与えるのだ。これを食べて体調を戻すといい」
タッパーには並々と注がれた蜂蜜の中に、レモンがまるまる一個浸かっている。
これをエリオット達は食べさせられたのか? 普通はレモンを輪切りか何かにするだろう。何を勘違いしてこんなものを作ったんだ。
「う……うぅ」
どれも今は食べられない。その意味を込めてアリサ、ラウラ、委員長と、三人に順に目で訴えたところ「ふむ、なるほどな」とラウラは何かを納得した。
「まずアリサのお粥、次に私のレモンの蜂蜜漬け、最後に委員長の薬がいいというわけだな」
違うぞ! どんな解釈の仕方だ!
「たしかにバランスがいいかもね」
バランス感覚が間違っている。アリサは再びスプーンを構えなおした。今度は待ったなしだ。口の中に真っ赤なお粥が容赦なく侵入してくる。
「がっ!」
細胞の全てが常軌を逸した辛さに悲鳴を上げた。体が干からびるほどに、汗が吹き出す。
濡れた雑巾を絞り上げるように、一滴たりとも水分を残さないという悪意を孕んで胃に滞留する異形の塊。
これがお粥だというのなら、この世界の病人には一片の救いもない。
「よし次は私だな。……とはいえ、さすがに病人の口にレモンは入るまい」
常人の口にもまず入らないぞ。どうやってあの二人に食べさせた。
レモンのことを諦めたらしいラウラは、タッパーの淵を俺の口につけ、直接蜂蜜を流し込んできた。
「ごふっ!?」
「レモンの成分が蜂蜜に染み込んでいるだろうから、効能的には同じはずだ」
皮も剥いていないのにそんなことがあるわけない。
骨の全部がぐずぐずに溶けてしまいそうな、凶悪な甘さが体を巡っていく。
血液までも糖分に侵されていく感覚の中、身じろぎ一つできない俺はただ呻きを漏らすしかなかった。
「では次はお薬です。しっかり飲んで下さいね?」
矢継ぎ早に委員長がフラスコを片手に、ラウラと立ち位置を代わった。
せめてコップに移して欲しい。そう言いたくて果たせなかった俺の口に、フラスコの挿入口が添えられた。
「むっ? ぐっ? ごおっ!?」
緑とも黄とも言えない謎の液体が、どろどろと無遠慮に注がれてくる。
瞬間、喉の内側を直接バーナーで炙られたような耐え難い苦痛が、凄まじい苦味を伴って襲い掛かってきた。
「がんばって下さい、良薬は口に苦い物ですよ」
絶対、調合間違ってる。
苦さの領域を踏み越えて、すでに痺れが指先まで回ってきている。飲まずとも見ただけで子供が家を飛び出して、そのまま三日間は帰って来ないレベルの代物だ。
「がっは……」
もう意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だ。こうなれば気を失った方が楽かもしれない。
これ以上は限界だ。飲む量も少なくなるし、できればスプーンの方がよかったのに。
「――でき、れば、スプーンの方、が……」
声に出てしまっていた。
それを聞いたアリサは「元気になってきたわ!」と顔を明るくさせ、ラウラは「確かにその方が良かったか」と改めてスプーンを手にする。委員長も「配慮が足りず申し訳ありません」とフラスコから小皿に移した液体をスプーンですくい直した。
違う、今のは違う。もう俺はいらない。いらないんだ。
「はい、あーん」
「待てアリサ、もう順番は関係ないのではないか?」
「先にもう一口お薬を……」
ぎゅうぎゅうと押し合うように、三人は俺の枕元で騒ぎ立てる。
「あ、ちょっと押さないでよ、きゃっ!?」
「私は何もしていないぞ、なっ!?」
「ちょっとお二人とも、ひゃあ!?」
誰かが足を滑らせ、それが連鎖したのか、三人同時に俺のベッドに覆いかぶさるように倒れ込んできた。
さらに誰かの肘が俺のみぞおちを突き、嗚咽と一緒に思わず口を開いてしまう。
「いたた、大丈夫?」
「うむ……」
「ええ、リィンさんはご無事ですか?」
乗りかかったまま俺の顔に視線を向けた三人は、『……あ』と声を揃えた。
三つのスプーンがまるでそういうオブジェでもあるかのように、開いた口の中に綺麗に納まっている。
強制的に押し込まれた三つの異物は、胃の中で想定外の融和反応を起こした。
背骨がぎしぎしと軋みを上げ、意志とは無関係に上体が反り上がっていく。
やがて凝縮された不穏な力は体の中心で爆ぜ、あばらが全て噴出するかのような衝撃を俺に与えてくれた。
ついに意識が遥か彼方へと飛び去ろうとしていた。
全ての力を失い、急速に視界が狭まっていく。その最中、ばさっと何かが落ちる音が聞こえた。
うつろう瞳が最後に目にしたのは、床に落ちた鮮やかな色合いの小さな袋と、部屋の入口で呆然と立ち尽くしているトワ会長の姿だった。
そういえばお菓子を作ったら一番に俺の所に持って来ると……しかしそんな出来たてのお菓子は今、冷たい床の上に転がっていた。
違うんです、トワ会長。この状況は不可抗力なんです。
しかし言葉を発することは叶わず、その目を潤ませたトワ会長は身を返して走り去ってしまう。
トワ会長と入れ違うように、今まで一向に姿を見せなかったシャロンさんが、開いたドアの隙間からすっと現れた。相も変わらず、穏やかな微笑みの表情を浮かべて。
一体今まで何をしていたんだ。
今日は厄日だ。
何度目になるかもわからないその一言を胸中につぶやく。同時、俺の視界は暗く閉ざされ、意識が闇の淵に沈んでいく。
こうしてビンタから始まった俺の一日は、受難に見舞われたまま終わりを迎えたのだった。
~FIN
最後までお付き合い頂きありがとうございます。今回の一日はリィンでした。主人公は見た的な感じで、各メンバーの裏パートにちょろっとずつ実は出ていたりしました。そして中盤から後半にかけては主人公らしくトラブルのオンパレードとなっていますね。いい目にもあっている気はしますが。
そういえばちゃんと明言していなかった気がしますが、最初からストーリーを用意していたメンバーは11人。後はシャロンとサラの話で一日シリーズは終わりとなります。
ということは『そんな第三学生寮の一日』にした方がよかったのかなと、今更ながら思ったりもしましたが、二人ともⅦ組関係者ということでご勘弁ください。
ちなみに話のボリューム次第ではシャロンとサラで分けて出すか、シャロン&サラとして二話をまとめて出すかのどちらかになりそうです。
いずれにせよ、あと一話もしくは二話ですので次回もお楽しみにして頂ければ幸いです。