9月12日(自由行動日) 11:00 アリサ・ラインフォルト
鏡の前に立ち、身支度を整える。うん、おかしなところはない。
あまりそわそわしてもダメね。シャロンったら本当に勘がいいというか、何でもお見通しというか。
普段通りにしていれば気付かれることはまず無いと思うけど、そう断言できないのがシャロンだもの。
「自由行動日くらいは私服で出歩きたいところだけど。まあ仕方ないわ」
私の通うトールズ士官学院には――というか士官学院の体裁を保っているところは大体そうらしいけど、休日というものがない。
それは軍の在り方に沿う形で定められたって聞いてるけど、軍人さんだって非番くらいあるでしょうに。
確かに事が起これば、休みなんて関係なく軍務に付くわけだから、休日と銘打てない理由は分からなくもないけどね。
そういう訳で、私達学院生も休日ではなく自由行動日というものが設けられていた。
休みじゃなくてカリキュラムがないというだけだから、外出の際は原則として学院服の着用が義務付けられている。
実家を出る時に何着か私服は持ってきているけど、今日まで数える程しか着ていない。
「年頃の女の子がおしゃれも出来ないなんて間違ってるわ」
言っても仕方がないこととは分かっていても、つい口に出してしまう。
叶うなら、私服を着て、友達と色々なお店をまわって――というのは士官学院生には中々無理なお話。
軽く息を吐いてから、私はいつもの赤い学院服に袖を通すのだった。
――11:20
約束の時間までまだ余裕がある。
何気なく部屋の外に出て、二階まで降りてみたら談話スペースのソファーにリィンが一人で座っていた。
「リィン、どうしたの?」
声を掛けても返事はない。どうしたのかしら。
少し気になったから近寄って顔をのぞき込むと、リィンはまぶたを閉じて寝息を立てている。
「なんでこんなところで寝てるのよ」
まだ昼前なのに。フィーじゃあるまいし。
つい顔を近付け過ぎてしまった。さすがにちょっと離れないと……
「あ……」
眠っている時の彼は思いのほか幼く見えた。どこかあどけないというか、少年の面立ちというか。
勝手に頬が緩む。こんなに近くでリィンの顔を見るなんて今までなかったかも。
入学初日、旧校舎の地下に落とされてリィンが私をかばってくれた時も、距離は近かったけど顔は見えなかったし。
あれ、なんでだったかしら。
「っ!」
だってあの時リィンの顔は、私の、む、む、胸に――
何の考えもなく例の一件を思い出してしまい、いたたまれない恥ずかしさが全身を巡る。
せっかく忘れていたのに。
記憶がフラッシュバックして、気付けば私はあの時と同じように、反射的に右手を振り上げていた。
振り上げた右手を、理性でその場に押し留める。それはそうよ。あの時のことは清算済みだし、それにリィンは今何もしていないわけだし。
眠ってる男子にいきなりビンタとかする女子はいないわよ。
落ち着け、落ち着くのよアリサ。
「……ん、アリサ?」
不意にリィンの目が開いた。
「きゃああっ!」
心臓が跳ね上がって、頭が真っ白になる。
遅れて思考が戻ってきたとき、振り上げていたはずの右手はすでに振り抜かれていた。
視界の中には片頬に手形をくっきりと残したリィンが、スローモーションで椅子から崩れ落ちていく姿が映っている。
「はあっはあっ……」
乱れた呼吸を整える前に、床に倒れ込んでいたリィンは頬を押さえながらよろよろと体を起こす。
彼は開口一番こう言った。
「まず俺は……何を謝ったらいいんだ……?」
「起きる時は起きるってちゃんと言いなさいよ……」
「……それは無理だろ」
眠っている男子にビンタする女子がここにいた。
ふらふらと立ち上がったリィンに謝ろうとするも、引っ叩いた理由に具体性も正当性もないので、どう言ったらいいのか悩んでしまう。
「あの、とりあえずごめんなさい。その、悪気があったわけじゃないのよ?」
「いや、気にするな。アリサのビンタは二発目だからか、体が自然に受け身を取ってくれたらしい。一発目の時はそれは痛かったものだが――」
「三発目いくわよ?」
余計な事を思い出さないで。
それにどう見ても受け身は取ってなかったじゃない。もしかしたら私に気を遣わせない為にかもしれないけど、あなたはもうちょっと言い回しに気を遣いなさいよ。
一応感謝はするわ。
非があるのはこっちだし、私ももうちょっと素直に謝れればいいんだけど。当面の課題だわ、これは。
「それはそうと、アリサはどこかに出かけるのか?」
三発目回避の為か、リィンは話題を変えてきた。もちろんそれは、私にとってもありがたい。
「ええ、ちょっと約束があって。もう少ししたら出るわ。リィンは? というか何でこんなとこで寝てたのか先に聞きたいんだけど」
「あ、ああ。朝一で剣の稽古をしていたんだが、一通り終わったから休憩のつもりで座っていたら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ」
「はあ……なるほどね。せっかくの自由行動日なのに相変わらずというか。でも、こういう日は色々な頼まれ事受けてるんじゃなかったの?」
「必ずあるわけじゃないからな。いや、昨日ロジーヌから頼まれたことはあったんだが、少し都合がつかなくて。彼女には悪い事をした」
ピクリと私の何かが反応する。
確かV組の女子で清楚を絵に描いたような物静かな人だ。よく礼拝堂に出入りしているのを見かける。
何でかしら。私、今、機嫌が悪くなったわ。
「へえ……リィンは優しいのね。特にロジーヌさんみたいな、おしとやかな女の子には」
「ア、アリサ?」
言いながらリィンに詰め寄っていく。
「よ、よくわからないぞ。何の話だ」
じりじりと距離を狭めると、リィンは「そ、そうだ、シャロンさんに寝覚めの紅茶を淹れてもらおう」とか言って階段側に向き直った。
そのまま小走りで階段を下っていく。何よ、その露骨な逃げは。
「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」
私も階段を下りながら、あくまで平坦な口調で問う。
「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」
依頼の内容はともかく、付け加えられた最後の一言も何だか腑に落ちない。
リィンはそういう頼みをあまり断らない。それ以上に大切な用事って何なの。
「へー何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」
「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」
今度はトワ会長? あなたって、あなたって――
「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」
「何か誤解をしていないか!?」
言ってて自分でも分かってる。
困っているロジーヌさんの頼みも聞いてあげたかったけど、普段お世話になってるトワ会長も無下にもできないし……みたいな感じなんでしょう。
いつものお人好しだってことは理解してる。でもなんだか妙に心がざわついて、落ち着かないの。何なのよ、もう。
一階に着く。
今日は誰もいないみたい。さっきマキアスの姿が目に入った気はするけど、意識の外だったので少し曖昧だ。
「アリサ、俺は――」
「な、に、よ?」
私がじろりとにらむと、リィンは「その……」と言葉を濁しながら足を引く。
「言いたいことがあるなら早く言って頂戴?」
私が一歩前に出ると、リィンはさらに一歩引く。
「私もこの後予定があるのよ。お互い良い日になるといいわね?」
口の端を上げて笑顔を作って見せる。でも多分目は笑っていない。
私の“怒っている時の乾いた笑顔”に「な、なんだか分からないが、もう許してくれ」とさらに数歩下がったリィンの足が、すぐ後ろの机に強くぶつかった。
たくさんの何かがバラバラと音を立て机上に転がっていく。
「うわっ」
「あ!」
リィンがぶつかった机にあったのは、マキアスが普段から愛用しているチェス盤。盤上の駒は机が揺れ動いた衝撃で、残らず倒れて散らばっていた。
「……まずい」
「……そうね」
マキアスはチェスを指している時に、近くで騒いだりすると結構怒る。いや、元々何かと怒りっぽいんだけど、チェスが絡むと尚の事だ。
リィンは手早く散乱した駒をかき集めて、盤上に再び戻し始めた。
「崩れる前の配置を覚えてるの?」
「いや、少し視界に入った程度だから微妙だが、だからといって、このままにしておくと俺達マキアスに相当絞られるぞ」
「それは勘弁願いたいわね……」
見る間に白と黒の駒が立ち並んでいく。うん、なんかそれっぽくなってきた。
「こんな感じだったか?」
「よく分からないけど、大丈夫じゃない? ――きゃっ!?」
最後の駒をリィンが盤に置いた時、机の下から突然ルビィが飛び出してきた。そのまま私の足の間を抜けて入口から走り去っていく。
「な、な!?」
事あるごとに私の足の間を潜って行くのやめて欲しいんだけど!
ルビィを追った視線を再び盤上に戻そうとしたところで、
「あら、お嬢様? それにリィン様も」
私の声が届いてか、シャロンが調理場から顔を出した。
「い、いたの? シャロン」
「これは失礼致しました。お嬢様とリィン様の仲睦まじいお時間をお邪魔してしまうなど、このシャロン何とお詫びすれば……」
「そ、そういうことを言ってるんじゃないのよ!」
絶対分かって言ってるわ。いつものこと、というか昔からのことだもの。
……あら? シャロンの襟元……?
「うふふ、まあ?」
シャロンの視線が机のチェス盤に向いた。何か考え込む素振りを見せたシャロンは、すぐに曇った表情を浮かべる。
「もしかして、マキアス様のチェス盤を崩してしまわれたのですか?」
「そうだけど……よく分かったわね」
駒が散乱しているならともかく、一応配置は戻しておいたのに。
「ああ、これは大変なことになってしまいました。お二方少々お待ちを……」
そう言い残すとシャロンはもう一度、調理場の奥へと引き返していく。
「お待たせしました。これを」
少ししてシャロンが戻ってきた。その手にはボロボロで所々が穴だらけになった、小さな棚のようなものが抱えられている。
「実はこの棚は――」
――12:30
シャロンの話を聞いて、私とリィンは第三学生寮からすぐに出発していた。
どのみち私は出かける所だったし、リィンもトワ会長に用事があるって言っていたので、学院に向かったんだと思う。
とりあえずマキアスに会ったら全力で謝っておこう。ちょっと怖いけれども。
「時間には間に合ったわね。えーと……あ」
トリスタの中央公園、そのベンチの一つに彼女は座っていた。
背中側だったけどすぐにわかる。緩やかなウェーブのかかった薄紫色の豊かな髪に、赤いリボン。そして貴族生徒を象徴する白を基調にした学院制服。
フェリス・フロラルド。同じラクロス部で私の友人、そして今日の待ち合わせ相手だ。
「フェリス? ごめんね、待たせちゃったかし――」
「今来たところですわ!」
彼女はベンチから勢いよく立ち上がり、こちらに素早く振り向いた。私が言い終るより早かった。
「え、フェリス怒ってる?」
「お、怒っていませんわ!」
ならいいんだけど。フェリスって時間に疎いイメージがあったから、多少遅れても私の方が早く着くと思っていたのに。
今来たところだったら、待たせたわけじゃないみたいだけど。
「さっそく行きましょうか。フェリスはあまりトリスタのお店には入らないのよね」
「せいぜい《キルシェ》くらいですわ。だから、その……今日は任せますわよ?」
「ええ、大丈夫よ」
今日はフェリスと二人でショッピングだ。
彼女はあまり一人で買い物をしたことがないらしく――というか、今まで必要な物はフロラルド家の使用人が用意してくれたそうだ。その感覚は私にも分からなくはない。
ただ、今回ばかりはその使用人――サリファさんに頼むわけにもいかなかった。
「サリファはどういうものを喜ぶのかしら?」
「んー、フェリスが贈ったら何でも喜んでくれると思うわよ。私だってシャロンの好みとか今一つわからないし」
ショッピングの目的はこれ。
私はシャロンに、フェリスはサリファさんにそれぞれ内緒で贈り物をすることだった。
なんでそういう話になっているかと言えば。
以前より仲が良くなったといっても、私とフェリスは一緒に遊びに行ったりということがまだなかった。
それをお互い中々切り出せずにいたんだけれど、つい最近、話をする内に私たちに共通の話題が見つかった。それがシャロンとサリファさんだ。
長年自分の家に仕えてもらっているけど、今まで贈り物と呼べるようなものを渡したことがない。
最近ちょっとそんなことを考えていて、何気なくフェリスに話してみたところ、偶然にも彼女も同じようなことを思っていたらしい。
そんな所から、今回のサプライズ計画と一緒にお出かけ企画がスタートしたのだった。
「そういうものなのですか。でも贈るからには私もちゃんと選びたいですわ」
「ふふ、そうね」
フェリスはプレゼントを決めかねているみたい。
けど私はもう贈る物自体は決まっていた。それが決まったのはついさっきのことだが。
寮を出る前、シャロンと話した時に気が付いたけど、いつも彼女の襟元にある青色のブローチが付いていなかった。
あのシャロンがうっかり付け忘れたなんてことは私には考えられない。となれば壊れたか失くしたか。
シャロンにしてはそれも考えにくいけど、とにかく私の目的は、代わりになるブローチを贈ることだった。
「とりあえず最初は雑貨屋でも行ってみましょうか」
「楽しみですわ」
それは私も同じ。
少し前まではフェリスと一緒にショッピングなんて考えられなかったもの。
気持ちを弾ませて、私とフェリスは《ブランドン商会》へと歩を向けた。
――13:00
「いらっしゃい、お嬢さん方」
店に入ると店主のブランドンさんが笑顔で出迎えてくれた。
「ちょっと小物とかアクセサリーを見せて頂くわね」
「ああ、ゆっくりしていってくれ」
食品、雑貨が主な商品だけど、実は店の奥には小洒落た装飾品もあったりする。値段も手頃でデザインも悪くない。
「ふうん。初めて来ましたけど、小さい店ですのね」
「ちょっ、フェリス!」
ブランドンさんのこめかみがピクッと脈打ったのがわかった。だけどそこは商売人、「悪いなあ、自営の小さな店なもんでね」とにこりと笑みを浮かべてくれた。
「まあ一通りは揃えているから我慢して見てやってくれよ」
「ふう、仕方ありませんわね。でもこの照明の暗さは何とかなりませんの? 導力が行き渡っていないのかしら」
「……ふ、風情ってやつでね」
カウンター越しにも彼の憤りが伝わってくる。笑みの奥で、歯を噛みしめているらしく、引きつった頬が小刻みに震えていた。
そうだった。フェリスはこれで相当の天然だ。悪気は全くないのだけど、ブランドンさんにそれが伝わるはずもない。
「フェリス早く行くわよ」
「急になんですの?」
早々にフェリスの手を引き、小物のある棚へと進む。
「……あら」
ガラス板の上に陳列された装飾品の数々に、フェリスは予想外だと言わんばかりの声をもらした。
「意外と色々ありますのね」
「だから言ったでしょ」
イヤリング、ネックレス、ブレスレットにブローチ。そこまで品揃えが多いわけじゃないけど、質は悪くない。
たぶんブランドンさんのこだわりで仕入れているんだと思う。安っぽ過ぎず、いい物を。かと言って手が出ない額でもない。学院生が多い町だから、そんな配慮をしているのかもしれない。
「わかりましたわ。ではこの棚の物を全て包んで下さいまし」
「フェリス、貴族買いはやめなさい」
「き、貴族買い!? そんな名前がついていますの?」
多分ついてないけど。
「贈り物っていうのはね。一つでいいのよ。しっかりその人の事を考えて、心を込めたものを手渡すの。そうじゃないと貰った人も嬉しくないわ」
「そういうものですのね……でもさっき私が贈ったものなら何でも喜ぶと……」
「こ、言葉のあやよ!」
あれやこれやと悩んではみるも簡単には決まらない。
私もシャロンに贈る用のブローチを探してみた。今一つピンとくるものがない。
いいものはあるけど、シャロンに似合うものがないというか。
「ねえ、フェリス。多分ブティックにもアクセサリーはあると思うし、なんなら質屋も見てみましょうよ。ここに拘らなくてもいいんじゃない?」
そう提案した矢先、フェリスは「……あ」と声を上げ、棚の奥に隠れていた一つのブローチを手に取った。
じっとそれを見つめるフェリス。
銀の縁取りを施された楕円形をしていて、中心に使われている輝石は控え目な薄紫の光沢に覆われている。
「気に入った?」
「ええ、とても」
ブローチを眺めたまま、一言だけ感想を述べる。
まさか一つ目の店で決まるとは思わなかった。正直、いいブローチだと思う。
あれならシャロンにも似合いそうなんだけど、先に見つけられたから仕方がない。
うん。時間もあるし、この後フェリスには私のブローチ探しを手伝ってもらおう。
「君達、何をやっているんだ」
「きゃあ!」
急に背後から声を掛けられ、思わず叫んでしまった。しかも、この声は……
「マ、ママ、マキアス? どう、したの?」
振り返った先にいたのは、やっぱりマキアスだった。まさか私を追ってきたとか……?
「いや、ちょっと。ああ、そうだ、アリサ――」
ま、まずいわ!
「っ! あー、早く買い物の続きをしなくちゃ、行くわよフェリス。おじさんお会計!」
「あ! 袖を引っ張らないで下さいな!」
カウンターまでフェリスを引っ張っていき、急いで会計を済ます。
ブローチは中々のお値段だったけど、ためらいも驚きもせず、平然と財布を開いたフェリスはさすがというべきなのかしら。私もまあ、実家はラインフォルトだけど、金銭感覚はまだまともな方……だと思う。
いえ、それよりも今は早くこの場から離れないと。
「ラッピングは後でもいいわ。いくわよフェリス!」
「ア、アリサ? 待ってくださいな!」
もしシャロンの言ってたことが本当だったら、私達大変なことになるんだから。
――13:30
「もう、なんですの? 急に」
「ご、ごめんなさい。とりあえずいいブローチが買えて良かったじゃない」
店を出た私達は、再び中央公園まで戻ってきていた。
マキアスが追ってくる気配はない。もしかしてやっぱりシャロンのいつもの冗談だったのかしら。まだ油断はできないけど。
「それでフェリス、お願いがあるんだけど、私もシャロンにブローチを贈りたいの。手伝ってもらえる?」
「ええ。それはもちろん構いませんが……」
「助かるわ。とりあえずミヒュトさんの店にでも行ってみようかしら」
買い物続行。改めて歩き出そうとしたその時、
「あらーん? そこにいらっしゃるのはフェリスさんじゃない?」
野太い声が鼓膜を震わした。木々がざわざわと不穏に揺れ、小鳥たちのさえずりが一斉に止まる。
一瞬びくりとしたフェリスの表情が強張りを見せた。怯え、に近いかもしれない。
声の主はすぐにわかった。
たとえグラウンドの端から端まで離れていても、一発で見分けがつくそのシルエット。1年Ⅱ組所属、貴族生徒のマルガリータさんだ。
マルガリータさんは私たちに向かってゆっくり歩いてくる。ズン、ズンと一歩足を踏み出す度に小鳥達が飛び去っていくのは、多分偶然じゃない。
距離が縮まってくるにつれて、フェリスの緊張も増していくように感じた。
「うふふ、ごきげんよう」
私達の前で足を止めたマルガリータさんは、私ではなくフェリスを見て挨拶をする。若干釈然としないけど、それよりも私はフェリスの様子が気になっていた。
「マ、マルガリータさん、何かご用で? 今日はお兄様なら外出しておりますわよ」
「そうなのよお。最近ヴィンセント様とはすれ違いの生活が続いていて、全くお会いできていないの」
「そ、そうですの。お兄様もあれでお忙しい人ですので。それでは私達この辺で――」
「だから、今日はあなたに用があってきたのよお」
半ば強引にその場を離れようとした時、マルガリータさんは右手をフェリスの眼前に突き出した。掌底と見間違えるような速度と威圧に、フェリスの前髪はぶわりと波打った。
「はひっ!?」
「ちょっとマルガリータさん……え?」
右手に何か持っている。可愛らしいリボンのついた小さな包み紙だ。
マルガリータさんの握り拳と比較してそう見えただけで、実際はそこまで小さくはないけれど。
「私が作ったラブクッキーよお。あなたからヴィンセント様にお渡しして欲しいのよ」
「な、なんで私が? 同じ第一学生寮ですし、直接お渡しになればいいではありませんか」
「そうしたいのは山々なんだけど、第一学制寮は男女間の部屋の行き来が他の寮より相当厳しくて。エントランスで待ち伏せしたりもしたけど全然会えないのよねえ」
マルガリータさんは口から、ごはあと蒸気の塊を吐き出した。
彼女的には恋する乙女の切ないため息とか、そんな感じだったのかもしれないけど、私には獲物を前に牙を剥く魔獣にしか見えない。
「そういうわけで、これ渡してもらえるかしら」
さらにずいと前に出された包み紙からは、およそクッキーから出ているとは思えない毒々しい瘴気が立ち上っている。
「お断りしますわ」
フェリスは毅然とした態度で首を横に振った。
「どんな物でも心を込めた贈り物は、直接本人に手渡しして下さいまし。そうでしょアリサ?」
「その通りよ、フェリス」
よく言ったわ。
その直後、辺りの雰囲気が一変した。
ずしりと空気が重くなって、どこか息苦しささえ感じる。四方を隙間のない狭い壁に囲まれたかのような閉塞感と重圧感。
そんな肌にまとわりつく粘度のある空気が、マルガリータさんから発せられていると気付いた時、私の、いえ私達の足は自分の意志とは関係なく震え出していた。
「だめよお、そんなこと言っちゃ。だって……」
さらに一歩踏み出す。ズシンと大型の機械人形のような足音を響かせたマルガリータさんの表情には、形容し難い含み笑いが浮かんでいる。
盛り上がった頬の肉が瞳を押し上げた。細く鋭さを増した視線をフェリスに向けると、彼女は巨大な二枚貝を思わせる分厚い唇を静かに開いた。
「――だって私は、あなたの未来のお義姉さんなのよお」
――13:50
「ミヒュトさん、私達をかくまって!」
質屋《ミヒュト》の扉を勢いよく開けるなり、カウンターで雑誌を読んでいたミヒュトさんに叫ぶ。
本来ならシャロンのブローチ探しに来るはずのお店だったけど、今は身を隠すことが目的だ。
マルガリータさんが無理やりクッキーを渡そうと、フェリスを追って来ている。
「なんだあ、お前ら?」
息を切らしながら店に飛び込んできた私たちを、ミヒュトさんは思ったほど驚かなかった。
それどころか「仕方ねえな。ほら、こっちに入ってこい」と私達を招き入れてくれた。
促されるままカウンターの下に潜り込む。大人二人が十分に入れるスペースがあった。
「助かりますわ」
「ごめんなさい、ミヒュトさん」
何だかミヒュトさん、すごく手慣れた感じがあるのは気のせいなのかしら。何気ない顔でまた椅子に座って雑誌を開いてるし。これならなんとかやり過ごせそうね。
大まかな経緯は走りながらフェリスが話してくれた。
要点をかいつまむと、マルガリータさんはフェリスのお兄さんのヴィンセントさんに恋をしていて、怪しげなお菓子を作っては渡しに来ていたそうだ。
だけどヴィンセントさんが逃げたり隠れたりで彼女をかわすうちに、その標的が妹であるフェリスにシフトしてきたらしい。
要は妹から仲良くなって兄に近づく作戦だ。ただそのアプローチが激しく、さすがのフェリスも押され気味とのことだった。
「マルガリータさんの積極性はすごいわね。機動力というか何というか」
「機甲師団を志望すればいいと思いますわ」
「兵士として?」
「戦車としてですわ!」
あれはラインフォルトでも製造不可能だから。
「お前ら黙ってろ。……来たぞ」
ミヒュトさんが小声でそう告げてすぐ、カランカランと扉が開く。
誰かが店内に入ってきた。ずしずしとカウンターに近付いてくる足音は、床越しにも感じられる程の重量感がある。
間違いなくマルガリータさんだ。
「なんだ。見ない顔だな。なんか入用か?」
普段と変わらない演技を、ミヒュトさんはそつなくこなして見せる。
「違うわ。女の子を探しているの。薄紫の髪をした子なんだけど、こっちには来なかったかしら?」
私もフェリスも口に手を当て、一切の物音を立てない様にしていた。出来るなら呼吸も止めたいくらいだ。
「そんなお嬢さんがこんな店に来るかよ。お前さんも用がそれだけなら出ていってくれ」
さすが接客放棄の0点店主。もう演技なのかも分からないくらい普段のミヒュトさんだ。
「そう……残念ねえ」
助かった。その思いが気を緩ませかけた時、
「な、何をしやがる!?」
滅多に聞くことのない彼の焦った声が店内に響き渡り、浮かびかけた安堵は一瞬でかき消えていった。
「あなたは好みじゃないわあん」
「や、やめ……!」
私達のいる場所からはミヒュトさんの足しか見えないので、状況が全く掴めない。
頭上から漏れてくる呻き声。次の瞬間、ミヒュトさんの両足がふわりと浮き上がって、そのまま宙に留まってしまった。
(う、うそでしょ!?)
「ぐふふう」
「ぐあああ!」
全身が粟立つような笑い声と、苦痛に満ちた叫び声が重なる。
額から流れ落ちた冷たい汗が、手の甲に雫の跡を残した。
ミシミシと何かを締め上げていく低い音。ビキビキと何かが圧砕されていく鈍い音。
すでに声も出さず、じたばたとばたついていたミヒュトさんの足は、間もなくだらりと力をなくし、吊るされた干し肉のようにその場をたゆたった。
椅子に突き戻されたミヒュトさんは、大きく横に傾いたまま動こうとしない。
とどめを刺すかのように彼の膝上に投げつけられた雑誌が、ばさりと音を立てて床に落ちた。
「ひっ!」
フェリスが声を出してしまった。
「……あらーん」
気付かれてしまった。
もうここまでだ。フェリスに目配せとジェスチャーで次の行動を伝える。理解してくれたようで彼女はうなずいた。
息を吸い込み、三本立てた指を順番にたたんでいく。3、2、1――
「行くわよ!」
私とフェリスはカウンターの左右から二手に分かれて飛び出した。
「あ、あらん?」
マルガリータさんはとっさに反応が出来ず、私とフェリスに何度も首を巡らしている。
これくらいのコンビネーションは普段からラクロス部でこなしているもの。
呼吸の読み方や、初動のタイミングは手に取るようにわかるわ。
ミヒュトさんのことは気になったけれど、うなだれた顔を注視する勇気はなく、私たちはそのまま店を飛び出した。
「この後はどうしますの!?」
「つ、次は……」
片っ端から隠れられそうな所を探すしかないじゃない。
捕まったらフェリスはともかく、私はミヒュトさんみたいにされちゃうかもしれないのよ!
――14:20
「ジュリアさん、何でもいいから試着できる服を貸して!」
《ミヒュト》を出て右手にある階段を登れば、その店はすぐにある。
ブティック《ル・サージュ》だ。
何気に店内にはメアリー教官が普段着ている服のカラーバリエーションが飾っていたりする。
「はい、あの……?」
「すぐに着れるようなものを、早く!」
呆けたままの店主のジュリアさんを急かす。状況は分からないままに彼女はいくつか服を用意してくれた。
「変装でもしますの?」
「そんなことをしてもすぐに見つかるわ」
「では何を?」
「この場所にはいないって思わせてやり過ごすわ」
そう言って店の外に面しているショーウインドウを指差す。それを見たフェリスは首を傾げた。
「……マネキン?」
《ル・サージュ》の入口扉を挟んで両脇に、ガラス張りのショーウインドウがある。
普段は季節の新作モデルなどを展示するスペースなんだけど、ジュリアさんの協力の下、今はその中に私とフェリスが収まっていた。
両方にそれぞれが入ることも考えたけど、一緒に動けるメリットの方がありそうだったので、それはやめておいた。
「ほ、ほんとにこれで大丈夫なのですか? 店の中に隠れていた方が……」
「だから賭けだって言ったでしょう。それにジュリアさんをミヒュトさんのような目には合わせられないし」
「それはそうですが……」
私はブラウンを基調とした薄手のジャケットに、上品な羽根飾りがついたキャスケットをかぶっている。
一方のフェリスはライトグリーンのワンピースを学院服の上から通し、目立つ髪は後ろで括って、顔が見にくいようにニットベレーを合わせてもらった。
「はい、じゃあ行くわよ。せーの」
「仕方ありませんわね」
マネキンらしく私たちはポーズを決めたまま静止する。
私は両腰に手を当て、顎を少し上げての見下し目線。フェリスは優しげな微笑みを浮かべ、両手を自然に前で揃えたお嬢様スタイル。
「や、やるわね。様になっているというか」
「ふふん、
恰好はともかく、私達の表情ってバランス悪くない? 同じショーウインドウ内に混在したらちょっと違和感があるでしょうが。
せめて表情だけでも変えようとしたところで、
「変ねえ、こっちのほうだと思うんだけど」
あの声が響き、些細な動きでさえも許されない状況になってしまった。
「せっかく今日のクッキーは成功したんだもの。絶対に逃がさないわあ……!」
何て声量。周囲のガラスがびりびりと振動する。
「あらん?」
マルガリータさんの視線が私達に向けられた。否応なく緊張が高まっていく。絶対動かない。瞬きさえもしない。
「ふうん。秋の新作かしら。でもだめ、趣味じゃないわ」
あ、そうですか。
「そもそもこの店。服のサイズが小さすぎるし、顧客を馬鹿にしているとしか思えないわあ」
あなたが大きすぎるのよ。ああ、声に出して叫びたい。視界の端に映るフェリスの横顔もぴくついている。
「それにこのマネキンもまるでダメねえ。ポーズも表情も三流の素人以下だわ」
な、なんですって。
「私がショーウインドウに入った方が、よほどお店の売り上げに貢献できるんじゃないかしらあ。ぐふふ、いやらしい目つきで見たらだめよお」
マルガリータさんはショーウインドウの前で次から次へとポーズを取り始めた。時々うふーんとかヴィンセントさまーんとか艶めかしい声を上げながら。何よ、この罰ゲームは。フェリス耐えてよ、お願いだから。
しばらくすると気が済んだのか「まあ、こんなものねえ」と一言呟き、マルガリータさんは私達に背を向けた。
なんとかなった。
彼女の背中を見送りながら息を吐いて、固まった体勢を少しだけ崩す。その時「ふえっ」とフェリスが小さくのけぞった。
フェリス? 声を出すにはまだ早いわよ。
制する意味でも彼女に振り向くと、何か白いふわふわしたものがフェリスの鼻先をくすぐっている。
それが私のキャスケットから垂れた羽飾りであると気付いた時には、フェリスは「へくちっ」と小さなくしゃみをしてしまっていた。
マルガリータさんの足がピタリと止まった。
「まあ、可愛いくしゃみだことお……!」
ぐふっと笑ったマルガリータさんが振り向いた。だめだ、完全に気付かれた。
「くしゃみくらい我慢なさいよ!」
「なっ? アリサのせいですわ!」
段差につまづきそうになりながらも、ショーウインドウから店内に戻って辺りを素早く見回す。すぐに隠れられそうなところはない。かといって今外に出るとマルガリータさんと鉢合わせになる。
やっぱりあそこしかない。
覚悟を決めてそこに向かい、私は試着室のカーテンを閉めた。
「お邪魔するわよお」
ガランと勢いよく扉が開き、マルガリータさんが店内に入ってくる。
「うふふ、どっちかしらねえ」
試着室は二つある。どうやら彼女は迷わず試着室前まで直進したらしい。
「面倒ね、そおれ」
二つ揃って開かれたカーテンがぶわりとはためき、試着室が全開にされた。
その中には私たちはいない。
「あららあん?」
「今よ!」
ミヒュトさんの時と同じく、隠れていたのはカウンターだ。
試着室に気を取られた隙を突いて抜け出し、《ル・サージュ》からの脱出に踏み切る。
「ジュリアさん、必ず後で服のお金払いに来ますから!」
「申し訳ありませんわ!」
事の成り行きに呆然としているジュリアさんに、それだけは告げて店を出ようとすると「うちのマネキン、ポーズとかとってないのよ?」といらない情報を返してくれた。
なんでこのタイミングで恥ずかしいことを言うのよ。
「アリサって結構天然ですわね」
「あ、あなたに言われたくないわ!」
ほんとに今日はどういう日なのかしら。部活の練習以上に走り込んでる気がするわ。
――14:40
「ジェーンさん、助けて!」
もうその言葉しか出て来なかった。ブティックの次はガーデニングショップだ。
これでトリスタ西側の店舗は全て回ったことになる。これ以上は行動場所が限定されてくるので、さすがにこの辺でやり過ごしておきたい。
とりあえずマルガリータさんの足が遅い事が唯一の救いだった。
「あら、どうしたの?」
「じ、実は――」
ジェーンさんは要点だけを伝えた私の説明で納得してくれたらしく「そういうことなら、少し店の中に隠れていなさい」と植木や花が立ち並ぶ店内に入らしてくれた。
「二人ともその観葉植物のそばに立って。動いちゃだめよ?」
「え、あの……ジェーンさん?」
「な、何をするんですの?」
ジェーンさんは植物の蔓や、大きな草花を私たちの体に巻き付けていく。
「木を隠すには森の中よ。丁度あなた達の服、土気色と雑草色だしね」
「ブラウンって言って下さい!」
「これはライトグリーンですわ!」
それって園芸用語なの? フィーが変な言葉使い始めたら注意しておこう。
「あ、ごめんなさい。言い直すわね、えと……秋のカマキリと夏のバッタみたいで二人によく似合っているわ」
「え……褒め言葉なんですか?」
「バ、バッタ……?」
話しながらもジェーンさんは手を休めず、あっという間に私達は周囲の草木と同化していった。
横のフェリスを見ると中々のクオリティだけど、これでマルガリータさんを騙せるかはわからない。
「ふう、できた。ん、あの子かしら?」
作業が終わると同時に、ジェーンさんがマルガリータさんに気付く。
体全体で風を切りながら、ゆっくりと歩を進める様は威風堂々というか、一個中隊くらいなら軽く殲滅できそうな迫力がある。
「ぐふふう、この辺ねえ?」
彼女はガーデニングショップの近くまでやってきたが、急に辺りを右往左往し始めた。
「……おかしいわ、匂いが途切れちゃったじゃない」
まさか匂いで追って来てたの? どうなっているの、マルガリータさんの嗅覚は
もしかして草花の匂いが邪魔して私達を見つけられないのかしら。それは予想外の僥倖というか。
「……やっぱり学生寮でヴィンセント様のお帰りを健気に待つしかないわあ」
自分で健気とか言ってるし。ともあれ、ようやくマルガリータさんは第一学生寮の方に向き直った。
やっと諦めてくれた。フェリスも安心したように深くため息をついている。
もう聞こえる心配もない距離だからか、フェリスが小声で話しかけてきた。
(なんとかなりましたわね)
(ええ、大変だったわ)
トールズ士官学院は色んな人がいるけど、彼女はその中でもかなり異色だ。
(そう言えばマルガリータさんも貴族なのよね? 貴族のイメージを変える必要がありそうだわ)
(多分あの方だけですわ。確か男爵家のご令嬢と記憶していますが。そう言えばⅦ組にも男爵家の男子がいましたわね。ええと……)
男爵家? ユーシスは公爵家、ラウラは子爵家だし……ああそうか、つい忘れがちになっちゃうけど。
(リィンのことね?)
(そう、そうですわ。同じ男爵家ですし、マルガリータさんもその方に求愛すれば――)
「そ、それはダメ!」
意識なく飛び出した言葉だった。気付いた時、私はフェリスの言葉の途中で、弾かれたように叫んでしまっていた。
「ア……アリサッ……!」
ひどく焦った様子でフェリスが私の袖を引いたけど、全ては遅きに失していた。
「……最近の植物はおしゃべりをするのねえん……?」
「ま、またこのパターンなの!?」
「今度こそアリサのせいですわ!」
ドスドスと地面を踏み鳴らして、マルガリータさんが戻ってきた。
巨大な空気の壁が押し迫ってくるような感覚を覚えて、体中の蔓を解いて急いで店の外に駆け出す。
「ま、待って」
フェリスの声に、出しかけた足をとっさに止めた。
「これが離れませんの!」
フェリスの腕に巻かれた蔓が、そばの観葉植物に絡まっている。必死に振りほどこうとするフェリスだけど、片手ではどうにもできないみたいだった。
「何とかするわ! ジェーンさんハサミ貸して!」
「え、ええ!」
ジェーンさんが奥にある園芸用の工具棚に向かう。その間にもマルガリータさんが肉薄する。
彼女がハサミを手にしたのを確認すると「こっちに投げて! 大丈夫だから!」と私は腕を伸ばした。
一瞬躊躇したジェーンさんだったけど、手渡しでは間に合わないと判断してハサミを投げ渡してくれた。
放物線を描いたハサミが宙を舞う。
同時にマルガリータさんもその巨体を跳躍させた。
限界まで伸ばした指先がハサミの取っ手に引っ掛かる。かろうじてハサミを引き寄せると、開いた刃先を蔓に押し当てて、ナイフの要領で断ち切った。
「捕まえたわあ!」
「捕まるもんですか!」
丸太のような腕が突き出されたのは、フェリスが蔓から解放されたのとほとんど変わらないタイミングだった。
一瞬前までフェリスの体があった位置に、もはや貫手と呼ぶべき突拳が繰り出される。
拳が空を切った反動で、初めてマルガリータさんの体勢が崩れた。
「フェリス!」
「アリサ!」
その機は私もフェリスも見逃さなかった。目線で意志を察し、ぐっと腰を屈めて呼吸を合わせる。
「せーっの!」
崩れた体勢が戻る前に、全部の力を込めた体当たりをマルガリータさんの半身にぶつけた。
それでも彼女はぐらりと二、三歩よろめいただけだったけど、うまい具合にさっき解いた蔓が今度はマルガリータさんの体に絡みついた。
「何よこれ!? う、うごけないわあ! 助けてえヴィンセントさまああん!」
断末魔の雄叫びを上げるマルガリータさん。
やがて全ての力を使い果たしたかのように、自分を拘束する蔓にぎしりとその身を預けて沈黙した。
「終わったわね……」
「……長い戦いでしたわ」
私はフェリスとハイタッチを交わす。パチンと鳴った手の平が熱くなった。まるで試合で点を決めた時みたいな心地よさだ。
「ふふ、行きましょうか」
「ええ!」
何事もなかったかのようにその場を離れようとした私達を「ちょっと二人とも?」とジェーンさんが呼び止めてきた。
「とりあえずお片付けを手伝ってもらえないかしら」
やっぱり、そうよね。
――15:00
ひとまず店回りは片付けた。
蔓に巻き付かれたままのマルガリータさんは、ジェーンさんの許可をもらってそのままにしておいた。意識が戻って、落ち着いた様子だったら解いてあげて下さいとは頼んでいる。
「それで、これからどこに行きますの? さすがにトリスタを歩き回るのはまだ危険じゃなくて?」
「うーん、そうよねえ」
ガーデニングショップを後にした私たちは、公園を抜けてトリスタ駅前に来ていた。
フェリスの言う通り、いつ行動を再開するかもわからないマルガリータさんの近くを、ウロウロするのは自殺行為に等しいし。
「駅まで来ちゃったし、そのままヘイムダルまで足を延ばしてもいいかもしれないわね」
「私は構いませんわよ。どうせ三十分くらいの距離ですし」
「あ、じゃあせっかくだし、ブローチを探しながら、おしゃれなお店とか美味しいお店とか色々回ってみましょうよ」
「それはいいですわね。そんなお出かけ、ずいぶんしていない気がしますわ」
何だかんだでフェリスとは気が合う。息が合うっていう方がしっくりくるかも。友達ってそういうものなのかしら。
「じゃあ気を取り直して行きましょう!」
「ふふ、アリサはいつも元気ですわね」
トリスタ駅入口の階段に足を踏み出しかけた時だった。
――ズル。
そんな音が鼓膜を震わし、心中をざわつかせた。
ズル、ズルッ。
そんなはずはない。あってはいけない。
生唾を飲み下す。私とフェリスは角張った動作で、不穏な音のする方向へと振り返った。
「え!?」
「うそ……」
体に巻き付いていたはずの蔓を根こそぎ引きちぎり、それらを振り解くことなく四肢に垂らしたままのマルガリータさんが歩いてくる。
髪や制服の至る所に小枝や葉っぱが絡まり、もはや迷彩服と化した白い学院服は、山間における白兵戦闘のエキスパートみたいな出で立ちだ。
その右手にはクッキーの入った小包が、がっしりと握り締められている。
「ムフォオッ!」
灼熱の蒸気が鼻の双穴から噴出し、マルガリータさんは興奮したケルディック牛のような突進を繰り出してきた。
もう止められない。気圧されて反応も遅れた。かわせるタイミングと体勢じゃない。
とっさにフェリスを覆いかぶさって庇う。
動力弓を持ってきておけばよかったと詮無い後悔がよぎったのも一瞬、その視界はマルガリータさんの巨体に黒く塗り潰された。
光景がスローで流れる中、心の底から思った。
昼前にリィンを引っ叩いたことをもっとちゃんと謝っておけばよかった。ほんの少し素直になればこんな後悔をせずに済んだかもしれないのに。
――ああ、そういえば。
どうして私はさっき、マルガリータさんとリィンの話で、それはダメだと叫んだのだろう。
その問いに答えを出す前に、駅の扉が開いた音がした。続いて私にはあまり聞き覚えのない声が聞こえてくる。
「ふふふ、見たまえ。トリスタの町が僕の帰還を待ちわびているようだぞ。そう思わないか、サリファよ」
一秒にも満たないことだった。瞳の奥を光らせたマルガリータさんが、鋭敏な動きで突進の向きを急転回し、私達の脇を擦過しながら凄まじい速度で駆け抜けた。
「ヴィンセントざまああああ!」
「ひっ!?」
傍らに楚々と控えていたサリファさんは、なんとも上品な所作で身を翻すと、マルガリータさんの突進を難なく回避する。
一方、本能レベルにまで恐怖を刷り込まれていたヴィンセントさんは、足を動かすことも出来ず、勢いづく巨体を正面から受け止める事態なってしまった。
まるで導力車が衝突したような一撃に、ヴィンセントさんは紙切れのように宙を舞い、そのままトリスタ駅構内に押し戻される。
「サ、サリファ、僕に女神の如き救いの手を――」
「マルガリータ様はヴィンセント様のお帰りを心待ちにしておられたご様子。ならば相応の態度を以て返礼するのが、次期フロラルド家当主としての器量かと存じます」
マルガリータさんの下敷きになりながらも、こちらに手を延ばすヴィンセントさんの姿は、サリファさんによって閉められた扉に遮られ見えなくなってしまった。
「あ……ひっ? それはなんだ!? なぜ僕の口を無理やり開く!? やめ、やめろ……」
「はい、あーん。ムフォッ!」
「ぎゃああああああ!」
扉越しの絶叫を最後に、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。
「あら、お嬢様? それにアリサ様もご一緒でしたか。これはお二人とも素敵なお召し物で……」
私達に気付いたサリファさんは階段から下りてきて、恭しく頭を下げた。カマキリとかバッタとか言われなくて良かった。
「おそろいでお出かけでしたか?」
「え、えっと、その……」
言いよどむフェリスの背中を軽く押した。
たどたどしく学院服のポケットから小さな袋を取り出すと、彼女はそれをサリファさんに手渡した。
「お嬢様、これは?」
「い、いつも私やお兄様に仕えてくれているあなたへの贈り物ですわ。さっき買ったばかりなので綺麗な包みもありませんけど……」
「開けさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「え? あ、構わなくてよ」
サリファさんは袋を開けると、中のブローチを丁寧に取り出して、じっと眺める。
この人は表情があまり変わらないので感情が読みにくい。
「ど、どうなんですの。気に入らなかったらのなら別の物に――」
「いえ、お嬢様。このサリファ、とても気に入ってしまいました」
そう言うとサリファさんは、その場でフェリスが贈ったブローチを胸元に付けた。
「ふう、気にいったのなら良かったですわ。似合っていますわよ」
「ありがとうございます、お嬢様。これから肌身離さず付けさせて頂きますわ」
「そこまで大層な物じゃありませんことよ? 探せばもっと良いものが……」
「サリファはこのブローチが気に入ったのです」
そう繰り返したサリファさんは、本当にブローチを気に入っているようだった。
少し照れたのか、フェリスは「そう言えばお兄様を救出しませんと……」と駅の中に走って行く。
サリファさんは私に向き直ると、
「どうやらお嬢様がお世話になったご様子で。アリサ様、本日はありがとうございます」
深々と頭を下げ、彼女はこう続けた。
「どうかこれからも、お嬢様と良きご学友でいて下さいませ」
「ふふ、それはこちらからもお願いするわ」
フェリスも戻って来ないし、私は何気なくサリファさんに聞いてみることにした。
「そのブローチのどこが気に入ったんですか?」
するとサリファさんは「この石が……」とブローチの輝石に優しく指をあてる。
「お嬢様の髪の色と同じだからです」
そう言ったサリファさんの口許には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
――15:30
「やっと一息つけたわね……」
「なんだか疲れましたわ」
私達がいるのはトリスタ町内の川岸だ。
普段は釣りスポットらしいけど、今は誰もいない。
マルガリータさんはフェリスがどうやってもヴィンセントさんから引きはがせなかったので、後のことをサリファさんにお願いしてきた。
その横を素通りしてヘイムダルに行けるはずもなく、かと言って《キルシェ》で休憩という気分でもなく、気が付いたら風通しのいいこの場所を選んでいたという流れだ。
木陰に腰を下ろし、幹に背を預ける。ひんやりした感触が伝わってきて気持ちがいい。
「でもどうしますの。アリサもブローチを探すのでしょう?」
「ん……そうなんだけど」
どうもシャロンに似合う物が思い浮かばない。私があの襟元のブローチを見慣れ過ぎているからだと思う。
ただやっぱりシャロンが付け忘れた可能性もあるわけだし、一応本人に確認してからの方が良かったのかもしれない。
「どうしようかしら」
そう呟いた時、視界の端に何かがきらめいた。目を凝らすと、川縁に小さな光る物が落ちている。
あれってまさか。
立ち上がってそれに近寄ると、疑念は確信に変わった。やっぱりそうだ。
落ちているというより、置かれているという印象だったけど、間違いない。
「……これ、シャロンのブローチだわ」
装飾のないシンプルな円形の型取りに、海のように深い青色の輝石。
なんでこんな所にあるのかは検討もつかないけど、とりあえずそのブローチを拾い上げて、ハンカチで汚れを拭き取った。
傷はついていないし、留め具も壊れていない。
「どうかしました?」
「ふふっ」
「な、なんですの? 急に笑ったりして」
思わず笑い声をこぼしてしまった私を、不思議そうにフェリスが見ていた。
私は彼女に告げる。
「もうブローチは探さなくていいみたい」
――16:00
その後はガーデニングショップで放心状態だったジェーンさんに謝り、ブティックに寄って服代を支払った。
ジェーンさんは、マルガリータさんが咆哮を上げて蔓を引きちぎる様がよほど衝撃的だったらしく、私たちがお店に戻った時、ショックのあまり一人で植物に何かを語り掛けていた。
一応ミヒュトさんの様子も見に行ったら、変わりない不愛想な表情でカウンターに座っていてくれた。
巻き込んでしまった私達は怒られるかもと思っていたんだけど、どうやらミヒュトさんはその時の記憶が飛んでしまっているらしく、何も覚えていなかった。
不憫というか、ある意味幸せというか。思い出さないことを祈るばかりね。
「それじゃ、フェリス。今日は楽しかったわ」
「こちらこそ。ま、またどこかに出かけましょう」
「ふふ、もちろん」
本当なら少し喫茶店にでも……と思っていたけど、お互いもう疲れ切ってしまっていた。
目的も果たしたし、今日は寮に帰ってゆっくり体を休めることにしよう。
「それじゃあ、また部活でね」
フェリスは第一学生寮に、私は第三学生寮へと歩を向けた。
「あ、もうこれはいいんだったわ」
寮までの道すがら《ル・サージュ》で購入することになった羽根飾りつきキャスケットと、薄手のジャケットを脱いだ。
ペナルティを課されるわけじゃないけど、一応は校則違反だものね。これくらいなら許される気もするけど。
「ただいま」
「お帰りなさいませ。お嬢様」
扉を開いてエントランスに入ると、シャロンがモップを片手に玄関口を掃除していた。
なぜか床が水びたしだ。そういえば寮の前の道にも、点々と水の跡が残っていた。
「何かあったの?」
「いえ。普段通りのトラブルですわ」
トラブルが日常的にあったらたまらないわよ。
今日はまさにそれがあったわけだけど。
こそりとシャロンの襟元を窺うと、やっぱりブローチはついていないままだった。
「あー、シャロン?」
「はい?」
軽く咳払いしてから、私は川縁で見つけたブローチを取り出す。
それを見て珍しく、本当に珍しくシャロンが驚いたような顔をした。
「それをどちらで?」
トリスタの川で見つけた。そう言いかけて、私は言葉を口中に留めた。
「秘密よ」
「お嬢様が秘密だなんて……シャロンは嬉しくも寂しい気持ちでいっぱいです」
「どういう意味なのよ、それは」
なんで寂しさまで出てくるのか。
シャロンが見つけられなかったものを先に探し出して、少し得意気になっている自分がいる。
これはあれかしら。
妹が姉より先回りして勝った気になる――そんな心情なのかしら。
そう考えると、少し気恥ずかしくもあるけど。
「今お嬢様は、妹が姉より一歩前に出て、勝った気になっているという心境でしょうか?」
「な、なんで分かるの!?」
「秘密です」
ほんとに何でもお見通しだ。別に嫌なわけじゃないけれど。
シャロンはくすくすと笑って、私が渡したブローチを襟元にパチンと止めた。
「そういえばお嬢様はお出かけだったのですね。新しいお召し物をお買いになられたのですか?」
「え、ああ。これね。まあそんなところよ」
「自由行動日を満喫されたようで。今日は良い一日でしたか?」
腕に抱えていたジャケットに目を落とし、ふと気付いた。
私服を着て、友達と色んな店をまわる。
今日出かける前に無理だと思っていたことを、いつの間にかやっていた。普通の女の子同士のショッピングではなかった気はするけど。
それでも。
「ええ。楽しい一日だったわ」
「それは何よりでございました」
シャロンはにこりと微笑んだ。襟元にいつものブローチを煌めかせて。
――FIN――
お付き合い頂きありがとうございます。マルガリータさんが弾けちゃいました。
冒頭で自由行動日でも学院服うんぬんの件は、本編の様子に合わせて補完設定してみたものです。違和感なく設定が馴染めばいいのですが……
今回はフェリスとアリサの物語でした。シャロンとサリファは心情が読み辛いお姉さん達ですが、したたかでなくては名家の使用人は務まらないのかもしれませんね。
そういえば本編の回想シーンで登場していたシャロンは、アリサ10歳くらいに対し、全く現在と変わらない容姿でしたが、あなた一体何歳なんですかと突っ込みを入れたくなります。
では今年の更新はアリサで終わり、新年一発目はリィンとなります。お楽しみにして頂ければ幸いです。
碧の発売も6月と決定し、多分以降になる閃の続編も控え、待ち遠しい気持ちですね。
来年も皆様にとってよいお年でありますように。