虹の軌跡   作:テッチー

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そんなⅦ組の一日 ~エリオット

9月12日(自由行動日) 10:00 エリオット・クレイグ 

 

 

 朝食後。自室に戻るなり僕はさっそくバイオリンを手にした。これはもう習慣だ。

 リィンは剣を学ぶことを好きとは言わず、あるのが当たり前、自分の一部だと教えてくれたことがある。剣のことは分からないけど、リィンの言葉は理解できた。

 それは僕が音楽に抱いている気持ちと同じだったからだ。

 あって当たり前。

 僕の家は音楽一家だった。亡くなってしまった母さんも、最近ますます母さんに似てきた姉さんも、音楽と共に生きている人だ。もちろんそんな環境で育った僕も。

 父さんは職業軍人だけど、音楽にも理解がある。母さんや姉さんが演奏する曲を、いつも機嫌よく聞いていたし、僕が音楽を習うことを咎めたりもしなかった。

 ただ本格的に音楽を学び、僕がそういった専門の道に進むことだけは、最後まで首を縦には振らなかったけど。

 オーラフ・クレイグ。それが僕の父さんの名前だ。

 階級は中将で、率いる部隊は帝国軍最強と謳われる第四機甲師団。軍務につく人間ならその名を知らない人はいなくて、猛将、“紅毛のクレイグ”なんて呼ばれている。

 僕とは正反対だ。唯一の共通点は髪の色くらいかな。

「さて、と」

 弓を持ち、弦を弾く。

 いつもと変わらない音色。今日は天気もいいし、湿度も少ない。音の伸びやかさも上々だ。

 ただ何気なく弾いているだけだから楽譜は別に必要ない。思うままに音色を奏でることが、僕は楽しい。

「………」

 父さんとは先月末、ガレリア要塞への実習で久しぶりに顔を合わせた。軍服姿の父さんは少し緊張したけど、でも話してみたらやっぱり普段の父さんだった。むしろ普段過ぎて恥ずかしいくらい。

 それでも父さんは何だかんだで、僕に帝国男子らしくあって欲しいというのが本音みたいだ。

 強く、誇り高く。

「………」

 その言葉で、直感的に僕が思い浮かべるのはラウラとガイウスだった。

 強さはもちろんなんだけど、ラウラは貴族としての自分に誇りを持ち、ガイウスは故郷そのものを誇りに思っている。

 二人の生き方や言動を間近で見てきて、僕は強さも誇りも、その定義は人によって違うと知った。

 なら僕にとっての強さって、誇りってなんだろう。

「エリオット」

「うわあ!?」

 まったくの不意打ちに声をあげ、思わずバイオリンが顎置きからずれ落ちてしまうところだった。

「ラ、ラウラどうしたの?」

 まだ荒い呼吸のまま部屋の戸口に目をやると、そこには腰に手をあてたラウラが立っていた。

「驚かせたのならすまない。扉が開いていたのでな。それでもノックはさせてもらったのだが、演奏に夢中で気づかなかったようなので声をかけさせてもらったのだ」

「ううん、こっちこそごめん。何か用だった?」

「ふむ、エリオット。そなた今日は空いた時間があるか?」

 なんだろう。嫌な予感がする。予定がないことはないんだけど。

「えっと、今日は夕方から吹奏楽部の練習があるんだけど」

「では昼は空いているのだな」

 会話に無駄がない。そう言われてしまうと否定もできない。

 わずかにとまどった僕の無言を肯定と受けとったラウラは「なら、十二時に水着持参の上、ギムナジウムまで来るがよい」と、どこか嬉しそうな様子で言う。

 もう口調が決闘を申し込む騎士のそれだ。

 何の用か聞いてみたけど「来れば分かる」とだけ言い残して、ラウラは立ち去ってしまった。

「一体何なんだろう……?」

 検討も付かない。とりあえず大変な何かに巻き込まれたことだけは直感で分かった。

 

 

 ――10:30

 簡単に身支度を整えた後、僕は自分の部屋を出た。

 約束の時間には早いけど、少しブックストアに用事があったので、学院に向かう前に寄って行こうと思っていた。

 階段に向かう途中、奥の部屋から誰かが出てくる。

「あ、リィン」

「エリオット? どこかに出かけるのか」

 リィンは額の汗をタオルで拭っていて、よく見れば息も上がっている。

「うん、ちょっとね。というかリィンすごい汗だよ。もしかして剣の稽古してたの?」

「ああ、まあ習慣みたいなものだからな」

 習慣。やっぱり僕と同じだ。それをわざわざするとか、時間を割いてとか、そういう感覚じゃないんだ。

 僕は楽器を、リィンは剣を。手にしているものは全く違うけど、根底にあるものは同じなんだと思う。

 ……いや、それは少し違うかもしれない。さっき父さんのことを思い出してから、どうも心に引っ掛かるものができてしまった。できたというより、思い出したという方が正しいか。

 気付いた時、僕は心に呟いたはずの言葉を口に出してしまっていた。

「リィンはさ、強いよね」

「エリオット?」

 きょとんして、リィンは僕の顔を見返した。

 脈絡のない言葉に困惑しているかもと思ったけど、僕がもう一度口を開く前にリィンは苦笑した。

「そんなことはないさ、まだまだ修行中の身だしな。それに俺からしたらエリオットの方が強いと思うぞ」

「ええ!?」

 そんなことはありえないよ。例えば僕が魔導杖で魔獣を全力殴打したら、こっちの腕がへし折れる気がするし。

「単に戦闘力の事じゃないさ。心の話だ」

「あはは、それこそありえないよ」

 そう、それが引っ掛かりだった。僕とリィンの根底の違いが全てを表している。上手く表現できないけど、一番近い言葉は信念だと思う。僕は音楽が好きだし、その道に進みたいという気持ちは本物だ。

 ただ、気持ちがあっても、行動を貫き通すことは出来なかった。

 父さんの反対を押し切る道もあったと思う。だけど僕はそこまではせず、妥協という形でトールズ士官学院に入学した。

 以前ヘイムダルに実習で行ったメンバーには伝えたことがあるけど、もちろんこの学院に来たことを後悔はしていないし、むしろ今となっては良かったとも思っている。

 それでも――何かをしたくて、強い気持ちを持ってここに来たわけじゃないのは事実だ。

 軍関係の学校に行くこと、音楽からは離れたくないこと。父さんと僕の食い違う希望をすり合わせた場所が、ここだったんだ。

 入学から半年経った今、Ⅶ組としてではなく、僕個人としてこの学院で何をしたいのかと問われたら、きっと未だに答えることはできない。

「何かあったのか?」

「大したことじゃないんだ。気になったことをつい考え込んだだけで」

「……それならいいんだが」

「僕はそろそろ行くよ。話を聞いてくれてありがとう」

 それでもリィンは気を遣ってくれたみたいで、階段に向かう僕を引き留めた。

「何なら今度一緒に座禅でもやってみるか? 心も鎮まるし、考えも定まってくるぞ」

「うん、考えておくよ」

 座禅っていうのは、東方に伝わる精神統一の一つだったかな。そういった修行とかは今まで縁遠い感じだったけど、試しにやってみてもいいかもしれない。

 そういえばリィンは自分の流派から、形式上は破門になっていたはずだ。それでも剣を持ち続けることに葛藤はあったと思う。

 ケルディックで彼が言った、“自分を見つける為”という言葉と、剣の道がどこかで重なるものなのかは分からないけど。

 悩みながらも前に進むリィン。悩んでしまって後ろを振り返る僕。

 僕は、僕にない“強さ”が少し羨ましい。

 

 

 ――11:30

 ブックストア《ケインズ書房》。ジャンル毎に立ち並んだ書籍に目を通しながら、僕は目当ての本を探していた。

 学術書や参考資料なんかは学院の図書館で事足りるんだけど、それ以外となるとやっぱり書店を頼るしかない。

「うーん。どこにあるんだろう?」

 Ⅶ組の中でブックストアをよく利用しているのは委員長とマキアスだ。出かける前に大体の場所くらい聞いておいた方が良かったかもしれない。ちょうどマキアスは一階でチェスを指していたようだったし。

「えーと、これかな」

 店主のケインズさんに場所を聞こうかと思った矢先、本棚の一角に目当ての本を見つけた。

「あ、エリオット君?」

 聞き覚えのある声に視線を向けると、髪を左右二つにまとめたお団子頭が視界に入る。とっさに本棚へと伸ばしていた手を引いた。

「や、やあ、ミント」

 同じ吹奏楽部の一年でフルート担当、小柄な僕よりさらに一回り小さい女子生徒だ。

「エリオット君がブックストアにいるなんて珍しいね? それもこんな朝早くに」

「う、うん。ちょっとね。というか十一時半はもう朝とは言わないよ」

 自由行動日のミントはどれだけ寝ているんだろう。フィーといい、もしかして体が小さな人程、睡眠を取るものなのかな。ああ、でもそれなら僕が該当しないか。

 取り留めもなくそんなことを思っていると、ミントが「あー!」と声を上げ、続いて意味ありげな笑みを向けてきた。

 ミントの声に驚いたのか、ケインズさんがカウンター越しにこっちを見ている。

「そっかー。エリオット君も男の子だもんね? そういう本も買うよね?」

「へ?」

「私も実家のお父さんの部屋でさ、そんな本を見つけちゃって。しかもうっかり片付け忘れて、お母さんがそれを見つけて大変だったんだから」

 ミント、何か勘違いしていない? それよりもミントのお父さん……

「すごい怖い顔でお母さんが詰め寄ったら、お父さんは帝国男子の嗜みとか言うし。あはは、食器が投擲器になったの初めて見たよ。今となってはいい思い出だけどね」

 笑えないし、多分お父さんにとってはいい思い出ではないと思う。

 僕の父さんとはずいぶん違う。もし父さんが母さんや姉さんとそんなケンカになっていたら、うちの場合は楽器が宙を舞うのかな。

 グランドピアノVS紅毛のクレイグ。たぶんピアノが勝つんだろうな。

「そういえばエリオット君のお父さんって、軍で猛将って呼ばれてるんだよね」

「う、うん。ミントも知ってたんだ」

「有名な人らしいからね。知ってる人は知ってるみたいだよ」

 らしい、ということはミントもどこかで聞いたレベルのようだ。

 正直、父さんと比べられるのは肩身が狭いので、自分からはあまり言わないんだけど。でもクレイグの名前から、察せられることもあるのか。父さんの部下にあたるナイトハルト教官と話す姿も、その一因だったりするのかもしれない。

 ミントはこほんと咳払いしてから続けた。

「だからね。猛将の血を引くエリオット君だから、そんな本を買っても不思議じゃないんだからね?」

「え、いやいや、ミント? 違うよ、僕は――」

「いいの、何も言わないで。私も何も言わない。私は小説の新刊買いにきただけだから。あ、今日は吹奏楽部の練習もあるもんね? また夕方にね。エリオット君が猛将だってことは二人の秘密だからね?」

「ちょっと話を聞いてよ!」

 ミントは言いたいことだけをまくし立て尽くすと、早々に会計を済ましてブックストアから出ていってしまった。

 最後まで僕をちらちらと何度も横目で見ながら。

 僕が猛将ってどういうことさ。後で誤解を解いておかないと。

「……はあ」

 ため息が漏れる。そもそも僕が今ブックストアにいるのはミント、君の為なのに。

 改めて、目当ての本を棚から手に取った。

 タイトルは『分かりやすい指導の仕方』と『初心者から始めるフルート演奏』の二つ。

「まあ、こんなところかな」

 もうすぐ吹奏楽部の定期演奏会があるのに、ミントのフルートパートのミスがどうしても目立っている。

 彼女も頑張っているし何とかしたいんだけど、僕もフルートの指導には余り慣れていない。

 少しでもかみ砕いて教える為に、今日は参考になりそうな本を探しに来たんだ。

 それなのにミントは盛大な勘違いをしてしまった。誰にも言わないっていうし、誤解が広がることはないと思うけど。

 二つの本を重ねてカウンターまで持っていくと、妙に神妙な面持ちのケインズさんが「待っていたよ」と静かに口を開いた。

「え、はい。お会計お願いします」

 無言のケインズさんはカウンターの奥から、本を入れる袋を取り出した。どういうわけか、いつもの白い袋と違う真っ黒い袋だ。 

「袋、変わったんですか?」

 ケインズさんは首を横に振った。

「この袋はね。外からは絶対に透けて見えないようになっている。いわゆる紳士の為の袋さ」

「はあ」

「これを手に、胸を張って大通りを歩くといい。君は……猛将なんだろう?」

「は!?」

 ケインズさんまで誤解している! 猛将ってそういう代名詞なの!? 

「最近の軟弱者は知り合いに見られるのが恥ずかしいなどと言って、わざわざヘイムダルまで行く輩も多いのに、君のその堂々たる立ち振る舞いたるや、まさに誇り高き帝国男子の象徴。猛将の二つ名に恥じないものだ」

 こんなことで誇り高いとか言われてしまったら、ラウラやガイウスの誇りはどうなるの。

「ち、違いますよ! あれはミントが勝手に言っていただけで、僕はこの本を買いに来たんです」

 カウンターに重ねた二つの本に目を落とすと、ケインズさんは不敵に笑った。

「皆まで言わなくてもいい。だが猛将にしてはいささか弱腰じゃないか。一見して普通の参考書の間に、目当ての本を挟むなどと――」

 そう言ってケインズさんは上段にある本を手に取った。

「な、なに……?」

「いえ、その二冊だけなんですけど……」

 驚愕の様子で目を見開いたケインズさんは、何度も本の裏表を見返した。

 さらに何度も何度も本と僕の顔を交互に見て、ずいぶん長く黙考した。

「ははは、済まなかった。早合点したみたいだ」

「いえ……それは構いませんが」

 だったら何で、僕の本は黒い袋に詰められているんだろうか。

「ぜひまた来て欲しい。その袋は君の前途に対する先行投資だと思ってくれて構わない」

「あの……」

「君に資格があるのなら、裏ケインズ書房は自らその扉を開くだろう。若き獅子の帰還を待っているよ」

 裏ってなんだろう。僕は返答を濁しながら、ブックストアを後にした。よく分からないけど、しばらくこの店には入らない方がいい気がする。

 程なくして、黒い袋を手にぶら下げた僕の眼前には、いつもと変わらないトールズ士官学院の正門があった。

 どことなく不穏な空気を感じたけど、意を決して門をくぐる。

 女神様、どうか今日も平穏な一日でありますように。

 

 

 ――16:00

 ……正門だ。

 変だな。さっき正門をくぐったと思ったんだけど、気が付いたら夕方の日差しだし、何だかずいぶん時間が経っているような。

 それに体中が余すところなく痛い。昼の事を思い出してみようとすると、乾いたムチの音と誰かの高笑いが脳裏に反響して、まるで周波数の合わない導力ラジオのようなノイズ音が僕の思考をかき乱す。

 ラウラに呼ばれて、ガイウスに会って――ああ、だめだ。思い出せない。

 僕は今からどこに行くんだったっけ。

 それは覚えている。この後は吹奏楽部の練習があるんだ。だから音楽室に行かないと。

 ミントにフルートの演奏を教えてあげないといけないしね。でも買った本はまだ読んでないや。

 ……あれ? 本を買ってから今まで時間はあったはずなのに、何で僕はまだ本を読んでいないんだ。

 どうにも言うことをきかない体と、霞がかって定まらない思考を引きずって、僕は本校舎の扉を開いた。

 

 

 ――16:30

「やあ、エリオット君遅かったね」

 音楽室に入ると、ハイベル部長が声を掛けてくれた。丸眼鏡をかけて温和そうな見た目だけど、音楽に対する熱意は人一倍あって、僕も尊敬している。

「君はいつも来るのが早いから、少し心配してしまったよ」

 集合時間を過ぎてしまったみたいだ。ハイベル部長に頭を下げて、手荷物を教室の端に置く。

「エリオット君……?」

 ハイベル部長が不思議そうに僕を見る。何か顔に付いていたのかな。

 パート毎に並べられた楽器の間を通って、僕は自分の椅子へと向かう。

 楽器の配置は部員の皆で済ませてくれたみたいだ。自由行動日の自主練習にも関わらず、十人近い部員がそろっている。これなら十分演奏できるし、選曲の幅も広がる。

 あとで遅れたことは謝っておかないと。

「エリオット君、待ってたよー」 

 椅子に向かう途中、フルートパートの前列に座っていたミントが手を振ってくる。

 普段なら手を振り返すぐらいはするんだけど、何だか今はすごく全神経が集中している感じだ。軽い会釈だけして、僕はミントの横を通り過ぎた。

「ほええ?」

 間の抜けた声が耳に届く。ごめんね、いい集中具合だから途切れさせたくないんだ。

 椅子に座って、自分の楽器のコンディションを軽く確認する。

 吹奏楽にチェロやバイオリンは基本使用しない。ただ例外として唯一使われる弦楽器がある。フォルムはバイオリン、でもその大きさは二回りは大きい――それが僕が担当するコントラバスだ。

 楽曲にもよるけど、コントラバスはソロパートもある上に音量を上げるのが難しいから、自分で言うのも何だけど、多分この部で僕以外には扱えないと思う。

「はい、皆さん集まっていますか?」

 演奏準備が整ってまもなく、顧問のメアリー教官が音楽室の扉を開いた。

 普段から演奏の指揮はメアリー教官が取ってくれることが多い。教官はタクトを片手に指揮者の位置に立つと「がんばりましょうね」と、楽譜とにらめっこをするミントに微笑みかけた。

「えへへ、はーい」

 そう言うミントだけど、すでに吹き口を反対にしてフルートを持っている。

「ミント君、フルートの向きが逆だ」

「あ」

 僕が指摘する前にハイベル部長が教えてくれた。ミントは焦ってフルートを持ち替える。周りの部員はいつものことながら笑っている。

 この雰囲気が好きだ。真剣に吹奏楽に取り組みながらも、学生らしい楽しさや明るさがある。

「ふふ、それでは始めましょうか。曲目は――」

 メアリー教官がタクトをしなやかに振り上げ、僕はコントラバスの弦に弓を添えた。

 

 

 ――17:00

 各パートの音域を確かめながら、ウォーミングアップ代わりの曲をいくつか演奏する。

 まだ準備運動といったぐらいなのに、ミントはもう精一杯のようだった。

 指が追いつかず音がずれ、焦って楽譜を見間違って音も違う。それでも前よりはずいぶん上達しているんだけど。

「ミントさん、ここをこの様に指で押さえて――」

「うう、ごめんなさい」

「なに、一つずつ出来るようになればいいさ」

 メアリー教官とハイベル部長が交互に指導に入っている。中々うまくいかないみたいだ。

 何気なくミントの様子を見ていて気付いた。ミントは指の位置は悪くないけど、腕の角度がよくない。あれじゃすぐに疲れてしまう。

 部長達の横から口を挟むのは少し気が引けたけど、ミントの為だしやっぱり言っておこう。

「ふむ、少しよいか。ミントの腕の位置なのだが」

 僕が口を開いた途端、なぜか音楽室に流れる空気がピシッと音を立てて凍った気がした。

「え、エリオット君……? 今なんて」

 ハイベル部長には聞こえにくかったのかな。

「ミントの腕の位置の話です。ミント、その持ち手では腕が疲れて一曲保たんのではないか?」

 ミントは僕を凝視したまま固まっている。他の部員たちも同様だった。

 僕はそんなに変な事を言ったんだろうか?

 硬直していたミントの口がパクパクと動き「エ、エ、エ……」と震えた声が聞こえてきた。

「エリオット君が猛将になっちゃったー!」 

 な、何が? ていうか猛将って!?  

 ハイベル部長が駆け寄ってきて僕の両肩をがしっと掴む。今まで見たことがないくらい焦燥と戸惑いに満ちた表情で、眼鏡も蒸気に曇っている。

「エリオット君! 何か辛いことがあったのかい!? すまない、僕が至らないばっかりに……」

 言葉を詰まらせるハイデル部長の脇からミントも出てきた。

「わ、私がちゃんとできないから、だからエリオットくんが……」

「いや、だからミント、そなたの腕の位置が――」

「ふええ、そなたって何ー!?」

「落ち着けミント君、きっとソナタ形式のことだ!」 

 何だか大変なことになっている。事態の収拾を求めてメアリー教官に視線を向けると、彼女は窓際に立ち尽くして空を見上げていた。 

「女神よ。私の力不足でエリオットさんがおかしくなってしまいました。……ぐす」

 メアリー教官の頬を伝う一滴の涙。一体どうなってるんだ。

「何が原因でエリオット君が……」

「ああーっ!」

 うなだれるハイベル部長の横でミントが大声を上げた。彼女が指さした先にあったのは、僕が音楽室の隅に置いた《ケインズ書房》の黒い袋。

「あ、あの袋はもしかして……今日エリオット君が買ってたいかがわしい本!?」

「な、なんだとおっ!?」

「ああっ! 女神よ!」

「猛将がここにいるぞー!」

 他の部員たちも絶叫し、しかしそこは吹奏楽部らしいのかどうなのか、自分の楽器に今の心情をそのまま叩き込んでいる。

 楽譜が宙を舞う。

 ホルンやトランペットが音ならぬ唸りを上げ、ティンパニやドラムは16ビートのリズムを激しく打ち鳴らす。

 高音域のフルートに至っては、窓が震えるほどの怪音波を放っていた。

 混乱というより、もはや混沌の音楽室だ。

 叫ぶハイベル部長。

「きっと僕が演奏会直前に腕を怪我したりしたからだ。それがエリオット君の心労になったに違いない!」

「それは、そうかも!」

「後輩の立場的に一応そこは否定しとこうよ、ミント君!」

 これはどう収拾をつけたらいいのかわからない。そもそも何でこんな事態になっているんだろう。

「こ、こうなったら」

「ミント君!?」

 ミントが僕の黒い袋に向かって走り出した。

「あのいかがわしい本を捨てて、エリオット君を元に戻さなきゃ!」

「待つんだ、ミント君! 女性がそれを手にしてはいけない。その本は僕が適正に処分する!」

 焦っているらしいハイベル部長はミントを追いかけた。そして僕の黒い袋を手にしたのは、二人ほぼ同時だった。

 左右の取っ手をそれぞれが掴み、お互いに渡すまいと引っ張り合っている。

「離したまえ。僕は部長としてエリオット君を元に戻す義務がある」

「んんー! 私がエリオット君を何とかしますから、部長こそ手を離してくださいぃー」

「そうはいかない。君に有害図書を見せるわけにはいかないんだ!」

「そんなこと言って、部長が見たいだけなんじゃないですか?」

「そ、そんなわけないだろう!」

 二人の力に耐え切れず、袋が中心から裂けてしまった。裂け目から二冊の本がばさりと床に落ちる。

「な、二冊も!? 昼間から猛り過ぎだろう!」

「ほえ!? 早く布か何かで覆わないと!」

 言いながら落ちた本に手を伸ばした二人。

『え?』

 表紙とそのタイトルが目に入ると、そろって動きを止めた。

 彼らの挙動に合わせるように、鳴り響いていた周囲の不協和音もピタリと止まる。なんなの、このミュージカル的な演出感。 

「これは……『分かりやすい指導の仕方』に――」

「えーと『初心者から始めるフルート演奏』……?」

 部長とミントの視線が僕に向く。

 内緒にしておくつもりだったのに、見つかっちゃったよ。

 本を拾い上げたミントは、僕の前に戻ってきた。

「もしかしてエリオット君……私の為にこの本を買ってくれてたの?」

 僕はうなずいた。ミントに遅れてハイベル部長も戻ってくる

「自分のパートだけじゃなくて、ミント君の演奏にまで気をかけていたなんて……」

 それはそうだよ。吹奏楽は一人じゃできないんだ。

 僕は楽器を弾くこと自体も好きだけど、奏でた音色が重なり合って、調和して、一つの音楽に変わる瞬間が何より楽しいんだ。

「えへへ……ありがとうエリオット君。たくさん練習して、もっともっとフルートを上手に吹けるようになるからね!」

 ミントは満面の笑みを浮かべてくれた。

 その屈託のない笑顔を見て、ずいぶん久しぶりに安らいだ気持ちになる。心まで軽くなった気がした。

「うん、僕もいつでも練習に付き合うからね。がんばろう、ミント」

 そう言ってミントに笑い返す。

「あ……!」

 彼女は部員の皆と顔を見合わせた。そして、

『も、戻ったー!!』

 部長とミントが叫び、教官は「女神よ……」と、また空に祈りだす。

 今日のメアリー教官、そればっかり言っているような。

 トロンボーンとホルン、トランペットがやたらと荘厳なファンファーレを全力で奏で始めた。

「あはは……何これ?」

 ミュージカルのフィナーレみたいになってるんだけど。

 状況はさっぱり飲み込めないけど、とりあえず大団円ってことでいいのかな。

 

 

 ――18:00

「よいしょ。これで終わり、と」

 演奏用に配置した椅子を元の場所に戻し、楽譜を束ねて棚の中にしまう。

 来るときに少し遅れてしまったし、どうやら僕が原因で練習を中断させたようなので、部長に頼み込んで一人で後片付けをさせてもらっていた。部長は気にしなくてもいいと言ってくれたけど、僕がどうしても譲らなかったので、やむなく折れてくれた形だ。

「ありがとうございます、エリオットさん」

 一段落したところでメアリー教官が音楽室に入ってきた。鍵は教官が持っているので施錠の為だ。

 一通り音楽室を見回したメアリー教官は、くすりと笑い声をこぼした。

「どうかしましたか?」

「いえ、ごめんなさい。楽器の片付けがとても丁寧なので……エリオットさんは本当に音楽が好きなのですね」

 教官にそう言われても、即座に返答できなかった。

 音楽が好き。それは間違いない。だけど。

「教官、僕は――」

「悩んでいるのですか?」

 心境を言い当てられ、どきりとする。

「その……はい。上手くは説明できないんですが」

「進路のことでしょうか?」

 的確過ぎる。さすがメアリー教官、その人柄からよく生徒に相談を受けているらしいけど、正直納得の慧眼だ。

「まだ入学して半年なのに、ちょっと気が早いですが。少し座ってお話ししましょうか」

 促されるまま手近な椅子に座ると、メアリー教官は僕の斜め前の椅子に腰かけた。上品な立ち振る舞いだった。

 そういえばこういう場合、対面で座るのはあまりよくないんだったっけ。その気遣いを自然に出来るあたり、生徒に人気があるのも分かる気がする。

 と言っても、僕の悩みもそこまで具体性のあるものじゃないので、教官には取り留めがなく、要領を得ない話を聞かせることになってしまった。

「なるほど。お父様の意に沿うこと、エリオットさんがやりたいこと。今はどちらの道にも向かえず、揺らいでいるのですね。そして周囲の仲間と比べてしまって、自分の道が見いだせないことに小さな焦りを感じている……というところでしょうか」

 メアリー教官、すごい。

「は、はい、概ねその通りです」

 彼女はしばらく黙考していた。ややあって口を開く。

「今はたくさん悩んで、揺らいでいいんですよ。この学院で過ごして、いつかエリオットさんだけの答えを見つければいいだけのことです」

「ですけど……」

 メアリー教官は穏やかに続けた。優しい口調だ。

「自分の道をすでに見つけているエリオットさんの仲間は、最初からその道を見つけていたのでしょうか」

「え?」

「きっと今のあなたと同じで、悩んで揺らいだ先にようやく見つけたのではないですか? いいえ、もしかしてまだ悩んでいる最中なのかもしれません」

 急にリィンの事を思い出す。レグラム実習の後のことだ。

 リィンは同行していたメンバー以外にも、それまで自分の中にあった畏れを教えてくれた。自分でも抑えきれない程の力だったと言っていた。

 道。リィンにとってはそれを御する為の剣の道。

 破門になっても習慣と言えるくらいに剣の稽古を欠かしていない。そうだ、彼もずっと揺らぎの中で足掻いている。

 僕はメアリー教官に質問した。

「教官は悩んだりはしなかったんですか? 確か伯爵家のご令嬢と伺っているんですが、その……士官学院の教官になることについて……」

 少し不躾な質問だったかもしれない。

 士官学院の教官としては、彼女はかなり珍しい方だと思う。

 大体の貴族子女はあらゆる嗜みを身に付けて、より上流階級の男性と結婚するのがステータスだと聞いたことがある。

 古い考えなのは分かるけど、エレボニア自体が古い制度を残している国なので、そういう意識が根付いていても不思議じゃない。

「もちろん私だって悩んでいましたよ。それに今年赴任したばかりなのに、実家からは縁談のお話が山のように来るんですもの。でも――」

 メアリー教官は言う。

「私はこの仕事を誇りに思っていますから」

 夕日に照らされた教官の横顔はいつもと変わらず優しい面立ちだ。けれど、その言葉には確かな芯の強さがあった。

「エリオットさん、音楽は好きですか?」

 メアリー教官はもう一度その言葉で問う。

 次は迷いなく答えることができた。

「もちろんです」

「それなら何も心配することはありませんね。さあ、そろそろ行きましょうか」

「あ、はい。あの、ありがとうございました」

「構いませんよ。いつでもお話聞かせてくださいね」

 メアリー教官の後に続いて音楽室を出る。 

 僕にはまだ自分の道は見つからない。

 それでも好きなものを好きと胸を張って言える強さは、持っていよう。

 いつかそれが揺らがない信念になって、僕の誇りに変わるまで。

 

 

 ~FIN~

 




お付き合い頂きありがとうございます。今回はエリオット編でした。彼は本編でも誰とも大きな確執を生むことなく、むしろ仲立ち役として頑張ってくれていましたが、何か一番進路で悩みそうだよなーと思い、今回のような話になりました。

さて残すところもあと少し。次回の『そんなⅦ組の一日』はアリサです。
お楽しみにして頂けたら幸いです。

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