殺意に狂え。
憎悪の快楽に身を浸せ。
滅侭滅相――――眼に写る総ての塵を
◇◇◇
黒い魔力が彼の身体を埋め尽くす。それは人間の負の波動。憎悪は魔力へと変貌し、彼の身体から溢れ出していく。圧縮された高密度の魔力は破壊の牙と化し、結界に罅を入れ、周囲の物を台風の如く吹き飛ばし、天井を崩壊させ、家を半壊させる。
黒い魔力は少年を中心に渦を巻き、その密度を増していく。それは人智を超えた何か。集められていく魔力の収束は、まるで黒い蛹のようだった。
そう、蛹だ。これは今、誕生しようとしている。憎悪と殺意を糧に、これは人智を超えた何かへと生まれ変わろうとしている。そのことを理解していながら、修験者たちは何もしなかった。
否。しなかったのではない、出来なかったのだ。まるで喉元に刃を突き立てられているような殺気。指一本でも動かせば即座にその頸を斬り落とすといわんばかりに放たれていた極限の殺意が、彼らの動きを停止させていた。
それは永遠だったのかもしれない。それは刹那だったのかもしれない。
分かることは一つだけ。
――――刻は満ちた。
「ォ」
周囲に展開していた魔力が一点に収束する。より強度に、より濃密に、より深淵に、今まで欠けていたものをかき集めるように。彼の内に眠りし魂が殺戮の舞台に歓喜の産声を轟かせる。
さあ――――その
「ォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
瞬間。視認できるほどの高密度な黒き魔力の蛹は収束し――――爆発した。
巻き起こる黒き旋風。魔力そのものが周囲の障害物を根こそぎ破壊する。跡形もなく消し去る家。抉り抜かれた大地。だが、それは余波でしかない。それは敵を排除するために行ったものではない。
魔力の奔流がやみ、その姿が顕になる。そこにいたのは一人の少年――――ではない。
黒い影。成人男性ほどの体躯を持つそれは、全身を一分の隙間もなく黒い闇に覆われていた。全身から滲み出るように溢れだすそれは影としか形容できないものだった。影に呑まれたその身体から、爛々と燃える蒼き双眸だけが光を放っている。
その姿を前に、彼らは思わず後退さった。
「……なんだ、なんなのだ、貴様は」
これは人間などではない。人間であっていいはずがない。これに比べれば悪魔など可愛いほうだ。
底無しの怨念。底無しの殺意。人間とも悪魔たちとも違う、全く別の存在。放たれる気配に畏怖し、恐怖し、嫌悪する。
「…………」
顕れた影は動かない。まるで電気の切れたロボットのように彼らを静かに見つめるだけ。ゆえに、それが恐ろしくて仕方ない。放たれている殺気は減るところか密度を増し、蒼き双眸は彼らを捉えて逃がさないというのに。
それはまるで、何かを解き放つための溜めを作っているような恐ろしさがあり――――
「ぅ……ぁ、ぁああああああああああああああああああああっ!!」
その恐怖に耐えきれなかった一人の修験者が腰から刀を抜き、恐怖を打ち消すように雄叫びをあげながら斬りかった。
「……ッ! 待て、早まるなッ!!」
先ほど姫島朱璃から叔父と呼ばれていたこの団体の長が慌てて止めようとするが、些か遅すぎた。修験者の男は頭上に刀を振り上げ、静かに佇む影に向かって渾身の力を込めて振り下ろす。それは急がれながらも極められた一振り。動作にブレのない、鍛え上げられた剣士の一撃だった。
斬った、と男は確信する。今まで刀を振り続けてきた経験が影を斬り捨てる様子を予知する。目前に刃が迫っているというのに影はピクリとも反応しなかった。
所詮、黒き天使の娘に心を穢された者。先程の悪寒は気のせいだったに違いない、と男は心の中で嘲嗤う。
ゆえに、男は気づかない。影は男の刀に反応出来なかったのではなく、
「……ご、ガはッ!?」
――――単に、反応する価値もなかったということに。
刃が影の脳天を断ち割る寸前、刀を振る男の動きが停止する。そして、突如口から血を吹きだした。何が起こったのか、突然の事態に混乱する彼だったが、ふと身体に何やら違和感を覚えた。何かが喪失し代わりの異物が体内に潜り込んでいる奇妙な感覚。そちらに視線を向ける。
自身の胸を深々と貫く黒い禍々しい腕。それがそこに存在した。
「……な、なにィ……ッ?」
無造作に振るわれた腕。まるで蠅を払うように振るわれた腕は男の心臓が存在した場所を易々と貫いていた。その光景を目前にしてもなお、男は信じられなかった。
影は勢いよく腕を引き抜く。噴出する血の雨。血を最も多く持つ臓器は影の手に握られ、男の身体から引き離される。男は茫然と、悪い夢でも見ているような表情を浮かべながら絶命した。
そう、これは夢だ。私はまだ眠っていて、もうすぐ目が覚めるのだ――――と。
……ある意味、男は幸せだったのかもしれない。何故なら、彼は混乱しながら死ねたのだから。死の恐怖を感じず、まるで夢を見るような心地で逝けたのだから。
ここから待ち受ける真の地獄。狂気に染まる真の絶望を知らずに逝けたのだから――――
「……ァ」
グチャリ、と影が手のひらの心臓を造作もなく握り潰す。血は勢いよく噴出し、影の身体を血で染めていく。そして、その血が動力のように、影の身体が小刻みに震え出す。
漏れた
「――――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
――――極限の殺意を込められた咆哮に総て塗り潰された。
「――――!!」
迸る咆哮だけで地面に亀裂が走り、余波で修験者達の肌をビリビリと震わせる。腕を顔の前に翳して衝撃に耐えるが、その光景はまさに悪夢そのものだった。怖いモノ知らずの若者ならともかく、ここにいるのは皆死地を乗り越えてきた強者達だ。だからこそ、目の前の相手との絶望的な力の差を肌で感じ取っていた。
そして――――
空を割るような咆哮を轟かせながら、影は男が使用していた刀を片手で拾い上げ、修験者達に突進する。大地を蹂躙しながら野獣の勢いで迫る影を前に一瞬恐怖する彼らだったが、彼らとて姫島に縁のある者達。すぐさま思考を切り替え、懐から何やら模様が描かれた札を取り出した。
その札は戦闘用に編み出された簡易術式。事前に準備しておくことで、後に魔力を込めることで術式を発動させるというモノだった。札に刻まれたのは”焔”の印。札は紅蓮に燃え上がり、全員で練り上げた一つの呪が顕現する。
「――――唵!」
瞬間、影の周囲が爆発した。激しい業火に呑まれる影。下級悪魔なら一瞬で消し炭に、中級悪魔でも重症は免れない獄焔。それが直撃したことに確信し、修験者達は笑みを浮かべ――――凍り付く。
爆炎が一瞬の間もなく消失する。まるで目障りだと無造作に振るわれた素手が爆炎に触れた途端、焔は一瞬で跡形もなく消え失せた。
馬鹿な――――と、彼らの思考が停止する。何かの術で防がれたのならばまだ分かる。しかしこれは違う。影は何の術も使わず、ただ触れただけで焔を消滅させてしまったのだ。そのような光景を目の前にして驚愕しないほうがおかしいだろう。
ふと、影の蒼き双眸が爛々と輝く。それは深淵の闇を覗き込んでいるような不気味さがあり、畏怖の念を感じずにはいられない。
まるで、”死”を視ているような――――
「――――ァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
再び迸る咆哮。影は疾走し、修験者達の元へ迫る。その咆哮で我に返った彼らだったが、それは余りにも遅すぎた。
紫電一閃。雷鳴の如く凄まじい速さで振り抜かれた刀が眼前にいた三人の修験者を斬首する。まるでバターを斬るような滑らかさで断ち切られた首が宙を舞い、地に落ちる。
「き、貴様ァァああああああああああああああああああああッ!!」
同胞が殺されたことに激怒し、修験者達は己の得物を取り出しながら影に襲いかかる。前衛に槍、太刀、双剣を手に掲げ肉体強化の術式を使用する者。後衛にそれぞれ札を取り出し炎の槍、氷の槍、光の槍を宙に作りあげ、影に放つ者。息の整った完璧なコンビネーション。全方位からほぼ同時に影に攻撃を放つ。
それは見事だと称賛される手際だった。相手がただの獣ならば容赦なく惨殺できただろう。ゆえに、彼らは間違えた。相手が狂った化物だと確信し、訝しげなかった。
――――その間違いは、死を以て償わされる。
影の振るう刃が消える。否、正確に言うならば前衛の視界から消失した。同時に前衛の者達の身体に異変が生じる。己の得物は砕け、首が胴体から離れていく。
何故、という疑問が死に逝く直前で浮かんだ。宙を舞う首が眼球だけを動かし、影を見る。そこで彼らはようやく己の間違いに気づいた。
違う、これは獣などではない――――血に飢えた、戦鬼だ。
佇まいから気づくべきだった。狂ったように見えても、その技は極めた者の動き。同じ性能の得物が砕け散ったのも、おそらく白銀の刀身が黒い闇に覆われていたのが原因だろう。あの覆われた闇が刀の性能をあげ、彼らの得物を両断したのだ。
つまり――――関わるべきではなかったのだ。この影とは。
それが前衛達の最後の思考だった。同時に後衛が放った属性を宿した槍が影に迫る。それは既に懐にまで潜り込んでおり、振り切った刀で防ぐには到底不可能なことだった。
殺った、と後衛の修験者達は歓喜の笑みを浮かべる。前後左右に避けるのは不可能。上に逃げたとしても、空中ならば逃げることも躱すことも出来ないため今度こそ確実に殺せる。
同胞の敵を獲ったと、複数の槍が影を貫くことを幻視して。
直後――――影は
「な――――に――――?」
その呟きは誰のものか。しかしそれが彼らの心情すべてだった。高さ三十センチもない隙間に顔が地面に付く寸前まで下げられ、地面と平行するような姿勢となる影。その姿は正に獣のように見えた。
影の足元に力が込められ、地面が破裂する。同時に影は地面を滑るように低い姿勢のまま飛翔し、十メートルもの距離を一歩で”跳んだ”。
その速さは凄まじく、茫然としていた修験者達が躱せるはずもなく――――彼らを横切ると同時に斬り伏せる。
一太刀の元に斬り捨て、血の雨が降り注ぐ。僅か十秒にも満たない時間で行われた攻防は、影の圧勝だった。
ゆらり、と影の視線がある一点に向けられる。そこにいたのは一人の男性。姫島朱璃から叔父と呼ばれていた、この団体を指揮していた長である。
「…………」
修験者の男は仲間が殺されたというのに顔色一つ変えず、ただじっと影を見つめていた。ここで慌てふためくような男ならばこの団体の長にはなれないだろう。そう納得させる貫禄がこの男にはあった。
「……そうか。貴様は――――」
続けようとした言葉はいったい何だったのか。だが、その言葉が発せられることはなかった。
「――――殺ス」
まるで深淵のように底の見えない怨念。湧き上がる憎悪が黒い魔力となって影から溢れ出し――――刹那。距離は一瞬で詰められ、影の拳が男の頭部を一撃で粉砕した。
◇◇◇
――――ふと、姫島朱乃は目を覚ました。
どうやら気を失っていたらしい。身体に降り注ぐ雨の滴の冷たさで目が覚めたようだ。
(……あれ? わたし、なんで倒れて――――)
目覚めたばかりで働かない頭を動かして起き上がり、周囲を見渡す。そこには全壊した家があり、そして、
「……母、さま」
既に冷たくなって動かない、血だらけの母の死体を見つけた。同時に、何が起こったのか総て思い出した。
そうだ。ナナシ君と夕食の話をしていて、そこに変な人達が大勢で押し寄せてきて、化物呼ばわりされて、だけどナナシ君が庇ってくれて、そしたら母さまが斬られて、ナナシ君を身体から黒い何かが溢れだしてきて――――
「……ナナシ、君?」
ふと気づく。彼がいない。いや、それだけでなく襲ってきた奴らの姿も見えない。彼らの話が本当ならば、朱乃を殺さず立ち去るはずがない。まさかナナシ君が自分の代わりに、と最悪の想像をしたその時、
「ォォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
ズドンッ! とまるで地獄から響いてくるような雄叫びが轟いてきた。
「――――!」
その叫びに朱乃は恐怖する。生命としての本能が最大警報を鳴らしている。逃げろ、殺されたくなければ分け目も振らず全速力で逃げろ、と。
しかし、どうしてだろうか。確かにその声の主に恐怖している。だけど、
「……ナナシ君?」
何故か、その声が自分の知っている少年の泣き声のように訊こえた。
ゆっくりと、姫島朱乃はその雄叫びの元へ歩いていく。家の庭があった場所。そこにあるのは雨と混ざった赤い池、斬り殺された修験者達の死体。そして、
「――――ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
――――全方位に殺気を放ちながら咆哮する、黒い影が存在した。
影は止まらない。敵をすべて殺したというのに、まだ足りないと言わんばかりに空へ雄叫びを轟かす。身体を返り血で染めながら、大気を震わし咆哮する。
その姿は血に飢えた狂獣にしか見えないだろう。恐怖し、畏怖する存在。誰もがそう思うだろう。けれど、
――――その姿が、泣いている子供にしか見えなかった。
「……もう、いいんだよ、ナナシ君」
朱乃は咆哮を轟かす影の背中にゆっくりと近づいていく。その気配に反応するように影は振り返る。刀を持つ腕が動き、容赦ない斬撃が朱乃の首に向かって放たれた。
電光石火の如く放たれた一太刀。当然、幼い朱乃に避ける術はなく、次の瞬間彼女の首は宙を舞うだろう。
それでも、朱乃は何の恐怖も抱いていなかった。
そして、
脅威的なスピードで繰り出された刀は――――脅威的なスピードで止められた。
影の放った攻撃は、彼女の首から寸前の位置で停止していた。ガチガチと震えながら、刀を持つ反対の腕が必死に刀を振るう腕を抑え込んでいる。それはまるで相反する二つの意志がせめぎ合っているようだった。
本能が叫ぶ――――これは”魔”だ。■■が殺すべき対象だ。殺せ、ころせ、コロセ!
理性が嘆く――――嫌だ、殺したくない。失いたくない。
葛藤する意志。二つの意志は肉体の支配権を互いに奪い合いながら、影の魂を侵していく。
「あァああああああああああッ!! がァァあああああああああああああああッ!!」
炸裂する咆哮。慟哭に似た叫びをあげながら影はひたすら刀を振るう。常人には目にも止まらぬ乱舞。全方位から急所に目掛けて剣戟を振るい続ける。
しかし、全ての斬撃は彼女の一歩手前で必ず止まる。まるで目に見えない壁でもあるように、刃が彼女を傷つけることは決してなかった。
少しずつ、影から溢れ出していた圧倒的な重圧は消えていく。刀を振るう度に零れ落ちていくように、周囲の殺意が消失していく。
やがて、
「――――、――――――――ッッ!!」
一際大きく振り被られ、渾身の一撃が彼女に振り下ろされる。そしてそれが彼女の顔の手前で停止した時、影の動きも止まった。
ゆらりと、影の身体からすべての力が抜けた。刀は地面へと落下し、同じく影も前方へ崩れ落ちる。それは儚き陽炎の如く、消えてしまうような姿だった。彼女は両手を広げ影を受け止める。成人男性並みの体格と彼女では大きな差があり、思わず押し潰されてそうになるが、それでも彼女は抱き留めた。
冷たい雨が鎮魂歌を告げるように静かに降り注ぐ。すべてが幻だったような静寂。影から溢れ蠢いていた闇はほとんど形をなくし、そこにいるのは黒い人型のモノだった。
「……あけ、の?」
影は茫然と、まるで夢心地のような声で呟いた。弱弱しい、疲れ切った声で。
「……うん。名前、初めて呼んでくれたね」
朱乃は静かに影の身体を抱きしめた。影の身体は冷たく、まるで死人のようだった。影は力なく朱乃に倒れ掛かったまま、告げる。
「……俺のせいだ。朱璃さんが死んだのも、こんなことになったのも、全部全部、俺のせいなんだ。分かってたのに、自分が存在してはならないモノだって分かっていたのに、甘えていた。逃げていた。その結果がこれだ。何も出来ない。生きているだけで周りを不幸にする存在。それが、俺なんだ」
「…………」
それは魂からの嘆きだった。溜めに溜め込んできた思いが零れてしまったような声。おそらく今まで何かをずっと悩んでいたのだろう。それが分からない朱乃には口を開く資格がなかった。
だけど、
「俺が……俺が、最初から関わらなければよかったんだ」
「――――それは違うよ」
それだけは、否定しなければならなかった。
抱きしめる腕に更なる力を込める。少しでも届くように、この
「わたしね、ナナシ君と出会って嬉しかったよ。たまにしか会えなかったけど、一緒に過ごす時間が楽しかった。わたしね、友達が欲しかったんだ。母さまも父さまも一緒にいて楽しいけれど、それでも心の何処かでは友達が欲しかった。憧れてたんだ、そういうの」
あの楽しかった時間を、幸福だった思い出を否定してほしくない。出会わなければ良かったなんて言ってほしくない。
君と出会えたことを、不幸だなんて思いたくない。
「わたしね――――ナナシ君と出会えて、幸せだったよ」
「――――ッッッ!」
息を呑むのが聞こえた。影の身体が小刻みに震えている。ギチギチと、何かに耐えるように振動する。戸惑うような擦れた声で問い掛ける。
「だけど……俺のせいで朱璃さんは死んだ。俺があの暖かい陽だまりを全部壊したんだ。そんな俺が……何かを求めるなんて間違ってる」
「…………」
そう言われ、朱乃はふと母の遺体を思い描いた。
死んでしまった母さま。もう二度と笑いかけてくれることはない。そう思うと悲しくて哀しくて暗い気持ちが溢れそうになる。けれど、それをひたすら飲み込んで朱乃は微笑んだ。影の顔の位置からでは朱乃の顔を見ることは出来ない。けれどそれでも朱乃は微笑んだ。笑っているのが伝わればいいと思いながら。
それは、彼女が初めて浮かべた誰かのための笑顔だった。
「……それでも、ナナシ君はわたしを助けてくれたよ」
「……え?」
優しい声で彼女は告げる。
「殺されるはずだったわたしを、ナナシ君は助けてくれた。何も出来ないなんて嘘。護ってくれた、救ってくれた」
だから、
「ありがとう、ナナシ君」
「――――」
その一言で、影の身体は硬直した。少しだけ彼の身体に力が戻る。
「俺、は……」
少しずつ、影の腕が朱乃の背後に回っていく。戸惑うような、本当にいいのかと葛藤するような、恐る恐るといった様子で。
「……良いのか? 俺が、誰かの側にいても。俺みたいな、他人を不幸にするような存在でも?」
「……いいんだよ」
もう一度、朱乃は強く影を抱きしめた。怖がりで臆病者で、それで誰よりも優しい彼のために。ほんの少しでも勇気をあげれたらいいと思いながら。
ゆっくりと、影の腕が朱乃の背後に回る。そしてそのまま、抱き返そうとして。
瞬間――――高密度に圧縮された雷光が、影の身体を吹き飛ばした。
「がア、ガアああああああああああぁぁぁァァァ――――ッ!!」
「ナナシ君!?」
直撃した左肩から煙をあげながら、影は激痛にのたうち回る。無様に地面を這い蹲りながら、直撃した箇所を抑えて悲鳴をあげた。
何が起こったのか分からない。けれど早く彼の元へ行かなければ、と朱乃が駆け寄ろうとするが、彼らの間に一人の人影が空から舞い降りた。
「無事か、朱乃ッ!!」
「……父、さま?」
黒い翼の生えた堕天使。朱乃の父親であるバラキエルが、そこにいた。
「どうして、父さまが……」
「話は後だ。今は私の後ろに隠れていろ!」
そういうと、バラキエルは影の方へ身体を向ける。
――――待って。
どうして、そんな怖い眼で彼を見るの? どうして、まるでわたしを彼から守るように立っているの?
「あァ、ガァ……」
「貴様がやったのか……」
直撃した肩を押さえながら、影は力なく立ち上がった。茫然と、虚ろな光を放ちながら、蒼き双眸がバラキエルを見据えている。直撃した箇所からは血が流れ出し、抑えている手を赤く染めていく。
その姿はまるで蜃気楼のようだった。ゆらゆらと揺れる影。朱乃にはそれが今にも壊れてしまいそうなブリキの玩具に見えたが、バラキエルには不気味な存在として写ったのだろう。
「今すぐ朱乃から離れろ……」
声と共に周囲に無数の光の槍が展開されていく。その矛先は総て影へと向けられ、その命を奪わんと輝きを増していく。
「――――やめて」
それ以上言わないで。これ以上彼を傷つけないで。そう叫びたかったが、声が擦れ、身体が思う通りに動かない。普段とかけ離れた父親の雰囲気に恐怖し、朱乃はただ震えていることしか出来なかった。
そして、バラキエルは、
「――――この、
「――――」
その時。朱乃は確かに何かが崩れ落ちるのを訊いた。
「……ぁ」
茫然と、影は己の手元に視線を移す。
――――血で真っ赤に染まった、人殺しの腕を。
「……は、ははっ」
影は俯きながら、顔を手で押さえた。そして徐々に身体の震えが大きくなっていく。そして、その震えが耐えきれなくなった瞬間――――
「あはははは、ははははははははははははッ、はーはっははははははははははははははははははっはははははははははははははははははははははははっはははははははははははははっははははははははははははっはははははははっはははっはは――――――ッッッ!!!」
笑う。嗤う。哂う。わらう。ワラウ。
人間らしさを感じさせない、壊れた演奏器のように。泣いているのか笑っているのかも分からないまま、影は哄笑する。
その様子はただただ不気味で、おぞましく、恐ろしかった。様々な戦場を生き抜いてきたバラキエルでさえ影の様子に恐怖し、事情を知っている朱乃も未知の存在を見るように震えていた。
「ははははは――――……」
ふと、突如影の哄笑が止まった。そして、まるで全てを悟ったような疲れ切った声で。
「ああ、そうか……」
己を嘲笑うように、呟いた。
「俺は――――
この瞬間――――おそらく、彼の大切な何かが砕け散った。
「あははは、はははははははははは、はーはははははははははは――――ッ!!」
影は哄笑する。影の纏っていた闇が周囲の暗闇を侵食していき、陽炎のように茫とその輪郭を霞ませ、霧散するように闇の中へと消えていった。
残ったのは、影の闇の残り滓と、いつまでも頭で響き続ける哄笑だけだった。
残念、朱乃ルートはなかった!
朱乃ちゃん大好きバラキエルさん。彼の登場がなければヒロイン化も出来たかもしれないというのに、ドンマイ朱乃ちゃん!
フォローしておきますと、バラキエルさんは純粋に朱乃ちゃんを心配していたから今回のような行動を取りました。そりゃ娘が見るからに怪しい影に接近されていたら助けるためにあんな行動しちゃうでしょう、多分。
次回、ようやくメインヒロインの出番が! オーフィス萌え燃え隊、準備しておくように!!