“ノルウェイの霧には魔物が潜んでいる――――”
そんな噂が存在した。それは所詮身も蓋もない戯言。親が子供を叱る際に脅す時に言う御伽噺のような都市伝説。進化し続ける文明社会において嘘として笑われるような程度の低い与太話でしかなかった。
しかし、神秘は時に文明すらも欺く。元来、噂というものは元となる何かがなければ成り立たない。吸血鬼伝説ならばワラキア公ヴラド三世の『
火の無いところに煙は立たない。つまり、その噂もれっきとした真実が実在した。
AA級はぐれ悪魔“
彼こそがこの霧の――――いや、正確に答えるならば
人の目を欺き、文明も欺き、自然すらも欺く不可視の守り。闇に影に、良識への憧れ、禁忌への畏れによって覆われた彼の魔城は、幾重もの結界、強大な魔力によって隠蔽された魔域と化していた。
そして。仮に万が一にでも見つけることが出来れば――――その時は噂通り霧に潜む魔物に食われてしまうことだろう。
「いやはや、実に素晴らしい」
古城のとある一室。完璧な密室で白衣を着た男は静かに微笑んだ。
「流石は数少ない妖怪の中でも貴重な種族だ。まさかこの手に入るとは、私の幸運も捨てたものではないな」
白衣の着た男は、しかし医者には見えなかった。むしろその逆。白衣は真っ白だが、その身から匂う死臭と血の匂いが拭い切れない。身体に染み付くほど血を浴びたのが分かる彼は、命を救う医者ではなく、死を与える研究者なのだろう。
彼、AA級はぐれ悪魔であるシヌイは、恍惚の笑みを浮かべながら愛しい我が子を撫でるようにテーブルの上に横たわるそれを撫でた。
『…………!』
それから感じるのは、生理的嫌悪。しかしそれは非常に弱っており、死にはしないがとても動ける状態ではなかった。なのでそれはされるがまま、しかし瞳は強く男を睨み付けていた。
もしもその殺意を具現化できるなら殺せるほど鋭い眼光で男を睨み付けるが、男はそれをむしろ微笑ましそうに見ている。
あと何日、その眼をしていられるのかと嘲笑うように。
「安心したまえ。簡単には殺さんよ。その形態をじっくり完璧に解剖するまでは命の保証をしよう。……まあ、精神の方はどうなるかは知らないがね」
くつくつと男は嗤う。それは壊れた壊人の微笑。研究に狂った男の姿だった。
「む――――」
ふと、男は虚空に視線を向けた。見えているのは暗闇ではない。彼が展開している魔城に、何らかの獲物を捉えたからだ。
この結界は、いわば男にとって体内と同じだ。何らかの異物が侵入してくれば、即座にそれを察知することが出来る。
「ほう……これは珍しい。ここに来る侵入者など、数十年ぶりだ。はてさて、死にたがりなのか、あるいは……」
侵入者の位置を早速探し出し、更に笑みを濃くする。
「北と西……たった二人。しかも人間の若造達か! 実に面白い。ならば盛大に迎え入れるとしよう。久しぶりの客人達だ。貴様らが誰を討伐しにきたのか、たっぷりその身に骨の髄まで刻むとしよう!」
男の声と同時に、暗闇に双眸が浮かび上がる。それも十や二十そこらではない。数十、数百を凌駕する魔群。その魔群を従える王は、高らかに宣告する。
「では、今宵の
◇◇◇
「よっ……と」
次元の狭間を潜り抜け、目的地であるノルウェイに到着する。正確な位置は分からないが、オーフィスに送って貰ったのだから間違いはないだろう。
「というか、ほんと何でもありになってきたなオーフィス……」
閉じていく次元に亀裂を見ながら感慨深く呟く。本来なら日本からノルウェイに来るまでに数時間、さらに費用も馬鹿高く掛かっていただろう。しかしオーフィスのおかげで、次元の狭間を利用することで物理法則を無視したショートカットが可能となった。
あとこれ、頼んでおいて言うのもあれだけど時差ボケとか大丈夫なんだろうか……
「まあ、考えてても仕方ないか……」
そう言いつつ懐から小さな小瓶を取り出し、中身を口に含む。中にいたのは先ほどオーフィスから貰った『蛇』である。
しかし、オーフィスの『蛇』といっても力を増幅させるものではない。今飲んだのは『言語変換能力』を宿した蛇であり、これを飲めばしばらくの間は自分の知らない言語も自動的に知っている言語に変換され、さらに自分の話した言語が自動的に相手の言語に変換されるという非常に優れた品物だ。
ちなみに昔初めて海外まで次元の狭間を利用して行った時は言葉が通じなくて同業の連中に襲われて大変だった。幾ら精神年齢は他の者より高いと言っても、本格的な英語を聞き取れられるほどまでは習得できていない。以来無駄な戦闘にならないように飲んでいる。
しかし、オーフィスがどんどん万能便利キャラと成りつつあるな。このままいけばそのうちタイムマシンに似た何かを作ってしまいそうで少々恐ろしい。
「さて、と」
気を取り直して周囲を見回す。しかし――――
「……霧で何にも見えねえ」
周囲を埋め尽くすように白く濃い霧が、視界の悉くを支配している。まあこうでなければ噂通りではないので仕方がないことなのだろう。おそらく、この霧は邪魔な一般人などが誤って侵入できないようにするためのものだろう。
なのでここは、直感で行く先を決定して歩き出した。
こういう環境での直感はなかなか侮れない。視界が奪われている分、他の感覚器官がそれを補い感覚が非常に鋭い状態になる。ゆえにそういう場合の直感には従った方がいいのだ。
まあ、俺の場合はそれだけではないのだが……
と、考えているうちに霧が嘘のように消えていった。視界が広がり、目前にまるで御伽噺のような巨大な古城が姿を現した。広い庭に、長い道。夜には関わらず明かりが灯されていないその城は、まさに魔城だった。
俺はそれを前にして――――
「……感づかれたか」
何者かが自分の姿を捉えたのを本能的に察していた。
霧が晴れたのはおそらく結界の内側に入ったからだろう。それに反応したに違いない。普通、拠点を持つはぐれ悪魔は己の拠点に結界を張っている。今まで何体かの拠点を持つはぐれ悪魔と遭遇したが、どのはぐれ悪魔も皆自分の領土に結界を張っていた。
だから、この程度は予想の範囲内。そして――――
『――――!』
湧き上がる敵意。それも十や二十程度の数ではない。つい先ほどまで無人のように不気味な気配を漂わせていた古城から突如何かが出現する。
城の入口に立っていた俺を囲うように有象無象の集団が距離を詰めてくる。暗闇に浮かぶのは血のような紅い双眼。その総てがその肉を食わせろと明確な殺意と共に告げてくる。
その中で、一番近い存在の姿が薄ら見えた。ツギハギだらけの身体。元は人間だったのか、しかし人型をベースに様々な動物の部分が繋げられているため、原型が分からないほど改造されている。
もう彼等に人間としての理性は存在しないだろう。あるのは獣としての本能。“餓え”という本能を満たそうとすることしか、彼等の思考は働いていないはずだ。
ゆえに。だからこそ、その憐れな姿を見て、
「吾は面影糸を巣と張る蜘蛛――――ようこそ、この素晴らしき惨殺空間へ」
それはある種の自己暗示に等しい。殺意でその身を武装し、衝動に侵されながら思考を切り替える。身体は黒い闇に呑まれ、取り出したナイフは呪われたように黒い筋が張り巡らされる。
衝動が、血肉脈動細胞一つ残さず総てが目前の獲物等に対して訴えてくる。
――――殺セ。
――――アレヲ殺セ。ココデ殺セ。ダカラ殺セ。スグニ殺セ。アレラノ存在ヲ赦スナ。有象無象ノ総テヲ惨殺シロ。殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺シ尽クセ!!
「――――ああ、分かっているさ」
あんな死ぬことも出来ない姿なんて、あまりにも無残で無様すぎるから。
魔を滅ぼそうとする衝動が身を焦がす。喉が灼け、意識が飛びそうになるのを必死に抑え、得物を強く握り締める。
敵の数は未知数。実力も未知数。対するこちらは一人のみ。
客観的に見れば絶望的だろう。少なくとも数だけは自分の数十倍の敵が存在している。しかし、だからこそ言わせて貰おう。
「それがどうした」
所詮、烏合の衆。雑魚が何体集まろうが塵は塵だろう。その程度の戦力でこちらを潰せると侮っているなら眼にものを見せてやろう。貴様等が誰を敵に回しているのかを。
「斬刑に処す。その六銭、無用と思え」
刹那。その言葉が引き金となり――――一方的な殺戮を開始した。
◇◇◇
一方同時刻。信貴が訪れた北側とは反対の西側。そこでフリード・セルゼンは城の内部に入るために庭を横切りながら歩いていた。
「しかし、結界内に侵入と同時に襲撃とは、物騒な話だよなぁおい」
軽薄な笑みを浮かべながら、手元の銃をリロードする。普段は悪魔の弱点である聖なる光を宿した祓魔弾を装填しているが、先ほど遭遇した襲撃者には光の弾は通用しなかった。おそらく
と、他のエクソシストが訊いたら即ブチ切れそうな信仰皆無な考えをしているフリード。しかし彼は先ほど戦闘を行ったというのに息切れせずつまらなさそうに吐き棄てた。
「まあ、前菜程度にはなったか。つーか、あの程度の連中しかいねえんだったら正直言って興醒めもんだぞ」
そういう彼の背後。つい先ほどまで戦闘が行われていたのか、
それらは弾丸を撃ち込まれて穴だらけにされたり、刃で斬り裂かれバラバラと化されている。容赦なく皆殺しにされ、庭は彼等の血で血の海と化していた。
それほどの血臭が蔓延する最中、しかしフリードは神父服に血の染み一つ付けていない。庭の惨状を見ればどれほど激しい戦闘だったのか予想は付くが、それでもフリードを満足させるものではなかった。
いつも通りの軽薄な笑みを浮かべながら、しかし眼には少々不満の色が見え始めている。
足りない、こんなものでは無いはずだ。オレを満足させろ、この程度じゃ――――
まるで飢えた獣のように。フリードは目をギラギラと輝かせながら進んでいく。そしてしばらく進んで行くと、城の門の前に辿り着いた。
城の門には相応しい巨大な扉。荘厳な雰囲気を放つ扉を前にして、フリードは不敵に笑みを浮かべる。
「ったく、こいつは随分とまあ厳重な守りだな」
肉眼では視認できない魔術的防御陣。さすがはAA級はぐれ悪魔と言うべきか、その術式は強引に破ろうとすれば侵入者を抹殺する効果が有る。
こういう解析事は苦手なんだよなー、とフリードが面倒事に頭を掻いていると、何が起こったのか、突如扉が勝手に開き出した。
「……罠か」
扉の内側は深淵を覗いているように暗い。扉の外側では内側がどういう構造をしているのか視認できないほどの暗闇。さらに感覚器官を誤認させる術も使っているのか、内側からの気配をまったく感じない。
あからさまな罠。普通ならばここで体勢を整えるために戻るのがセオリーなのだろうが、
「はっ。やっぱこうでなきゃ面白くねえよな」
フリードは愉快そうに口許を吊り上げ、迷いなく城へ入って行った。
城の内部に侵入して数歩歩くと、背後で扉が閉まる音が響いた。おそらく侵入してきた扉が自動的に閉められてしまったのだろう。だが、この程度は予想の範疇だ。一人ではぐれ悪魔を滅ぼすなんて酔狂なことをやるならば、自ら
フリードは自然体のまま、暗闇の中を歩いていく。しかしそれは気を抜いているからではない。むしろフリードは如何なる場合でも判断できるように常に警戒を全方位に張り巡らせている。
そもそも、構えというのは一種の隙を生み出すものだろう。構えは何処かに対し優位になるが、代わりに何処かに対して弱点になる。ならば必然、構えないことこそが最優の構えになる。
フリードが歩き出してどの程度時間が経過しただろうか。時間感覚さえ狂っている現状に思わず舌打ちし――――
◇◇◇
『さて。ここは一つ、どちらが私に挑むに相応しいか、君等の劇を魅せてくれ』
◇◇◇
刹那――――視界を光が覆い付くした。
「――――ッ!」
今まで視界が暗闇に覆われていたためか、突如視界に光が満たされて意識が眩む。攻撃を受けたのかと判断して周囲の警戒を最大限まで引き伸ばして――――いる。
白黒に点滅する視界。まだ視覚は不完全だが、それでもはっきり認識できるほど濃密な気配がフリードの前方に存在している。
ようやく慣れた視界。そこにいたのは黒い影だった。
噴き出るように身体から闇を放ち、持つ手には禍々しいナイフが握られている。無意識の内に放たれている威圧感が、十メートルも離れている肌をビリビリと震えさせる。
その姿を見た瞬間、フリードは内側から何かが湧き上がって来るのが理解できた。
“ああ、こいつは――――”
『――――』
黒い影が何かを言おうとする気配を感じる。
だが、
「――――死に晒せ」
“――――オレの、『敵』だ”
それよりも早く、一瞬の躊躇いもなく敵に向けられた銃のトリガーが引かれた。
今作のフリードは滅茶苦茶強キャラで設定されています。ぶっちゃけ聖剣使いを聖剣無しで勝てます。一応オリジナル武器を持たせたい。どうせなら型月設定で黒鍵とか。
ちなみにキメラ戦は削除。初めは書いてたのですがぶっちゃけイラネと思って端折りました。ちなみにシヌイのイメージは小物な水銀です。
というか今話で実は主要登場人物がもう一人出ているのに果たして何人気が付いただろうか……。
あと、今話の信貴は少し退魔衝動に負けてポエミーに。というかいつ能力や宝具の説明をするべきだろうか? 少々検討中。
では次回、信貴vsフリードをお楽しみに。