外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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最強の野球少女

 

 

 ――永い、眠りだった。

 

 今この時を経て、ようやく本来の実力(・・・・・)を発揮した彼女の姿に星園渚は我が子の成長を喜ぶように満面の笑みを浮かべた。

 彼からしてみれば、今の彼女の投球は意外でもなんでもないものだった。

 これまで彼女を苦しませてきたコンプレックスの存在は、彼女の心に自分の成長が止まったものとばかり錯覚させ続けてきた。自分はもう伸びしろが無いと。自分の才能では、これが限界なのだと。どれだけ厳しい練習を重ねても、女である自分には周りの男子達のように飛躍出来ないのだと――彼女はずっと、そう思い込んでいた。

 

 だからこそ、彼女はかつて夢見ていたプロ野球選手への道も諦めた。

 彼女は女子の身でありながら類稀な素質を持ち、かつ諦めが悪く野球にしがみつこうとする執着心を持ちながらも、妙に一歩退いた現実主義者(リアリスト)であろうとする一面が強かったのだ。

 

 つまるところ彼女は、無意識の中で自分自身に限界の壁を作ってしまっていたのである。

 

 順風満帆だった筈の彼女の野球人生にそれが起こったのは、中学時代に味わった最初の挫折からか。

 今まで誰にも負けなかったものが大した選手でもない野球部員に打ち負かされ、それまで培ってきた自信を粉々に砕かれた。敗北と周りからの否定が無意識の中でイップスを発症させ、彼女自身が気付かぬ内に己の左腕にブレーキを掛けていたのだろう。

 

 彼女は決して、115キロで終わる投手ではなかったのだ。

 

 今の彼女を見ていると、彼女に自分の投法を伝授してあげたのは失敗だったのだろうと星園は思う。才能が開花した彼女の姿を目に、星園は後悔する。

 力で足りない分を、技巧で補う。その発想自体が間違っていたとは思わない。しかし星園も彼女も、教わり教わる関係になる以前に大切なことを失念していたのだ。

 

 泉星菜が本来伸ばすべきだった、彼女が生まれ持った天性の長所を。

 

『君はこの僕を超えられる逸材だったんだ……嬉しいけど、悔しいな』

 

 彼女の最大の武器は制球力でも球種の多彩さでも出どころの見にくい投球フォームでもない。それらはあくまで、彼女の最大の武器を生かす為のオプションである筈の武器だった。

 

 彼女最大の武器は昔と変わらず、浮き上がるような伸びを持つ「本物の」ストレートにあるのだから。

 

「ストライク! バッターアウトッ!」

 

 三番小山、四番鬼力、五番朱雀と続くクリーンアップを三者連続空振り三振に切り伏せ、彼女はグラブを叩く。その内、鬼力と朱雀に投じたウイニングショットはどちらも外角低めギリギリのストレートだった。

 キャッチャーミットへと至っていくボールには、とてつもない回転数から凄まじいノビを生み出していた。そして球速自体も、おそらく120キロをゆうに超えているだろう。

 それはまるで、彼女が今まで蓄えていた経験値を一気に注ぎ込みステータスアップしたような、RPGの勇者のように理不尽な飛躍であった。

 あまりにも非現実的――だが彼女は、そんな非現実的な才能の持ち主だったのだ。腐りさえしなければ泉星菜の才能はあの小山雅と比べて何ら劣るものではなく、最初から男子と女子などという常識的な物差しで測るべきではなかったのかもしれない。

 

『やっと過去を乗り越えた……いや、君はきっと「乗り越えさせてもらった」って言うんだろうね』

 

 中学時代深く心に負った傷はこの高校生活の中で癒され、迷いながらも回り道に回り道を重ねたことで彼女は多くの人と出会い、世界を広げた。

 それは、鈴姫や波輪達チームメイトだけではない。

 六道聖という幼い野球少女からは発破を掛けられ、努力する心を忘れなかった。

 同じ境遇に立ちながらも、決して挫けず前に進んでいく早川あおいという手本を見つけた。

 そして小山雅という、言わばもう一人の自分と戦い、一度打ちのめされたことでがむしゃらさを思い出した。

 最高のチームで最高の仲間達にお膳立てしてもらい、自分自身を本当の意味で見つめ直すことが出来たのだ。

 

 

 ――ここまでして目が覚めないほど、泉星菜は弱い人間ではない。

 

 

 覚醒した彼女の姿を見て、星園は死人でありながらも武者震いを覚えていた。

 それは「いつか生まれ変わったら、自分もあの子と投げ合ってみたい」と、そんな無茶なことを考えるほどに心を動かされていた。

 つくづく、野球の力というものは素晴らしいものだと思う。

 

『頑張れ、星菜。君はもう、誰にも負けない立派な野球選手だ』

 

 永い眠りから覚めた今、ここからが彼女の本当の野球人生だ。

 その人生に死人が口を出す必要は、もはやどこにもなかった。

 

 

 

 

 

「ぬおおおおっ!!」

 

 七回の表。星菜が披露した快投に呼応するように、ときめき青春高校の二番手朱雀もまた剛腕を唸らせた。

 150キロを超える剛速球がアバウトなコースながらも豪快にキャッチャーミットへと突き刺さり、この回一番の星菜から始まる竹ノ子高校のバットは、ことごとく空を切った。

 絶好調の三番矢部すらも全く手も足も出ないという、恐るべき投球内容である。

 好打順で始まったこの回も三者連続の三振に倒れ、早い時間で再び攻守が交代する。

 

 ――しかし、今の泉星菜もまたときめき青春高校打線につけ入る隙を与えなかった。

 

 七回の裏。六番茶来、外角低め一杯のストレートを見逃し三振。

 七番神宮寺、予想以上に手元で伸びてくるストレートを擦り、キャッチャーフライ。

 八番青葉、星菜の投球に対応すべく際どいコースのボールを見極めようとするが、最後は雅と同じく低めに外れるチェンジアップを空振り、三振に倒れた。

 

 野球用語には「ラッキーセブン」という言葉があるように、高校、プロ野球共に七回は統計的に見ても点が入りやすいことで有名なイニングである。

 しかしこの回の両投手、朱雀南赤と泉星菜はどちらも難なく相手打線を三者凡退に打ち取り、試合は3対2の竹ノ子高校リードのまま八回へと進んでいった。

 

 

「凄いよ君は……あの頃のまんまだ」

 

 終盤にも拘わらず低調な自軍の打線に対して、既に雅の心に思うことは何もない。自分が打てないのだから、他の打者に打てる筈がないのだ。

 

 はっきりと言おう。小山雅は今、心の底から震えていた。

 

 しかしそれは恐怖でも畏怖でもない。彼女の心にあったのは、やはり泉星菜こそが自分にとって最大の壁だったのだという確信だ。野球人生の最後に決着をつけるべき最強の宿敵だと思っていたのは間違いではなかったのだと、彼女は喜んですらいた。

 

 ベンチへ引き下がってくる青葉に苦言すら浴びせずに、雅は楽しげな笑みを浮かべて守りにつこうとする。

 そんな雅に向かって、ベンチに座る老人監督が静かな声で呟いた。

 

「とても、引退する野球部員の顔には見えんな……」

 

 それは何故か、小さな声ではあったが既にグラウンドに足が向かっていた雅の耳にも、はっきりと聴こえる言葉だった。

 

「……やめなきゃいけないから、やめるんだよ」

 

 誰が好き好んで、こんな楽しいスポーツをやめるもんか。

 彼の言葉が聴こえた瞬間だけぴたりと立ち止まった雅は、彼にしか聴こえない声量で一つだけそう返すと、駆け足でショートのポジションへと向かった。

 

 

 ――あとはあの子を超えるだけだ。もうこれ以上、ボク(・・)に失うものはないのだから。

 

 

 

 

 八回の表。この回は一度だけ、竹ノ子高校打線のバットが快音を響かせた。

 それは先頭の四番、鈴姫の打席である。鈴姫はボール気味のストライクゾーン高めに入ってきた150キロを超える朱雀のストレートを逆方向へと弾き返すと、バットの芯で食った痛烈な打球はそのままレフトの前へと落ちる「筈」だった。

 

「アウト!」

 

 しかしその打球が到着したのは、右利き用グラブの網の中だった。

 ショートの小山雅が背走しながらジャンピングキャッチを敢行し、彼の打球を高く伸ばしたグラブへと収めたのである。

 

「化け物か……」

 

 どう考えてもヒットになる筈の打球を、ことごとく処理してみせる。

 悔しいが、彼女の守備力は間違いなく自分より上だろう。いともたやすく行われる彼女の魔術師的な好守備を前にして、打った鈴姫の方もまた同じショートとして賞賛するしかなかった。

 

 

「ストライク! アウト!」

 

 その後、鈴姫の後に続く五番池ノ川と六番外川は共に三振に打ち取られ、この回も三者凡退に終わっていく。

 星菜を援護したい打線ではあったが、生憎にも朱雀の調子は気力だけでどうにか出来る次元を越していたという様相である。今の朱雀が披露している後先考えない全力投球は先発ではなく、二番手としてマウンドに上がったからこそ出来る投球であろう。

 

「150キロ超えのボールは、やっぱキツイなぁ……」

「上手いこと高性能なバッティングマシンでもあればいいんだけどね。まあ、今日の朱雀はうちに限らずあかつきや海東でも打てないよ」

 

 竹ノ子高校とときめき青春高校の間にあるリードは未だ一点のみ。しかし一点があるだけでも、星菜の気持ち的には十分助かっていた。

 今の朱雀南赤から点を取るのは難しい。ならば、この一点を全力で守れば良いのだ。

 

「結構球数も来ていると思うが、大丈夫か?」

「……この程度でバテてちゃ、甲子園で戦えないさ」

 

 八回のマウンドに向かうこちらの身を案ずる鈴姫の声に、星菜は気丈な態度で応える。

 実際、これまでの投球で体力はかなり消耗している。しかし星菜には今更誰かにマウンドを譲る気は無かったし、今の自分の状態ならばこれ以上失点を許さない自信があった。

 甲子園の炎天下での試合を想定すれば、この程度の消耗は寧ろ温すぎるぐらいだ。と、そんなことを自然に語る自分自身に、星菜は苦笑を浮かべた。

 

(ナチュラルに大会に出るつもりなんて、頭のおかしい女だ……)

 

 常に一歩後ろに下がったつもりで、難癖つけたがって物事を見ていたかつての自分。

 達観して大人になったつもりで、冷静になろうとしていたかつての自分。

 今にして思えば、それがどれだけ薄っぺらなものであったことか。

 自分で自分が馬鹿みたいだ。だがそれでも、星菜はそんな時間も無駄ではなかったと思いたい。……無駄だったとは、言わせない。

 

「健太郎」

「何だ?」

 

 憑き物が取れたような笑みを浮かべ直し、星菜は今一度気合いを入れるように帽子と頬を締め直す。

 そして鈴姫に対して今一度向き直り、投手として一つ頼んだ。

 

「この回が山場だ。ゴロを打たせていくから、後ろは任せた」

「三振取る気満々なくせに……任せろ、君は俺が守る」

「キザんな馬鹿者」

 

 八回の裏。ときめき青春高校は九番から始まるこの回、一人でも塁に出れば三番の雅へと打順が回る。恐らくは、それが彼女との最後の対戦になるだろう。

 

「勝つぞ、星菜」

「うん」

 

 ポンと背中を叩き、鈴姫がショートのポジションへと駆ける。

 そして星菜は、一歩一歩足元の感触を確かめるようにマウンドに上がった。

 

「プレイ!」

 

 数球の投球練習を終え、球審から号令が掛かる。

 向かい合う右打席には、ときめき青春高校の九番稲田の姿があった。

 

(勝つんだ……)

 

 捕手六道のサインを確認した星菜が、即座に投球動作に移る。その投球フォームは、小山雅との勝負の中で直感的に完成させたものだ。

 大きく振りかぶった後、右足を上げながら上体を大きく捻り、左腕を背中に隠しながら右手を招き猫のように振り上げる。

 朱雀南赤のトルネード投法に、これまでの招き猫投法を組み合わせたような投球フォームである。あえてこれに名を付けるなら、ネーミングはそのまま「トルネード招き猫投法」というところか。

 

「ストライク!」

 

 あの時、星菜は雅に対してひたすらがむしゃらに、強いボールを投げることだけを考えてボールを放った。

 個人としての感覚は、その程度のものだ。しかしその時から星菜は、かつてない手ごたえを感じていた。

 

「ストライクツー!」

 

 それはまるで、身体中に着けていた重りが外れたような――重力さえ感じなくなるほどの左腕の軽さ。

 それを感じた時、星菜はこれまで長い間、自分がずっと勘違いしていたことに気付いた。

 

(私の成長は、止まってなんかいなかった……)

 

 例えるなら、それは「ノミの天井」の話と同じだろう。

 ノミを飼育ケースの中に入れた時、ノミは自らのジャンプ力によって跳ぶ度に天井に叩きつけられてしまう。

 そうして何度も叩きつけられ、痛い思いをする内にノミは小さく跳ぶことを学習していくのだが、しばらくその環境で育て続けると、箱の天井を取っ払った後も本来のように高く跳ぶことは出来なくなるという。

 

 ノミに生来備わった驚異的ジャンプ力が、失敗経験によって失われるという話である。

 

 星菜の境遇に置き換えてみれば、これと似たようなものだ。

 飼育ケースとは「周りの環境」を意味し。

 ノミ本来のジャンプ力は「才能」に当たり、ジャンプは「挑戦」に当たる。

 天井にぶつかるのは「失敗」と「苦痛」の経験。

 小さく跳ぶようになるのは「学習」。

 天井を無くしても跳べないのは、「恐怖」による「限界」の自己設定。

 星菜もまた、跳べなくなったノミと何ら変わりはなかった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 だが今の星菜には、己の恐怖を打ち砕いてくれる仲間達が居る。

 天井はもうないのだと、教えてくれる仲間達が居る。

 

 故に、彼女はここで再び跳ぶことが出来た。それが星菜の身に起こった、数年ぶりの「覚醒」の真実だった。

 

「ナイスボール!」

 

 先のイニングの勢いをそのままに、星菜はときめき青春高校の九番稲田を三球で仕留める。いずれのボールも以前のそれを凌駕するキレを見せており、際どいコースに絶妙に制球されたその球を打者のバットが掠ることはなかった。

 決して剛速球と呼べるボールではない。しかし、捉えられない。左腕から放たれる星菜のボールは、一球ごとに力を増しているようですらあった。

 

「くそっ! なんで打てねぇっ!?」

 

 続く一番三森左京もまた、苛立ちを隠そうともせず空振りの三振に倒れる。決め球は外角低めに落ちていくチェンジアップであり、タイミングを完全に崩されていた。

 今まではストレートが遅かったからこそ食らいつくことが出来たボールであったが、ストレートの体感球速が爆発的に跳ね上がった今の星菜の変化球に対応するのは至難の業だった。

 

 雅を抑えて以降、ときめき青春高校の打線は完全に星菜に支配されていた。

 まさに打たれる気がしないというのが、今の星菜の安定感を指した言葉であろう。

 続く二番は三森右京。こちらも二球でツーストライクに追い込み、星菜のボールは打席上の彼を幻惑している。

 ネクストバッターサークルでは今か今かと自身の出番を待ち構えている雅の姿が見えるが、この回はこのまま三者凡退に終わり、勝負は最終回に持ち越しかと思われた。

 

 しかし、野球に「絶対」は存在しない。

 

 抜群の安定感を見せている星菜の投球であったが、だからと言って金輪際ときめき青春高校の打者に出塁のチャンスが無いわけではなかった。

 クリーンヒットだけが塁に出る方法ではないように、どんな投手が相手であろうと四死球やエラー、振り逃げと言ったあらゆる出塁の可能性が打者には残されている。

 

 ――当たり損ねのボテボテのゴロが内野安打になることもまた十分に考えられた可能性であり、それが現実に起こった光景を目の前にしても、別段星菜が驚くことはなかった。

 

「すまねぇ、俺のミスだ」

「ドンマイ、先輩で無理ならみんな無理ですよ」

 

 ときめき青春高校の二番三森右京との対決は、サードへの内野安打を許すことになった。

 彼がバットの芯を完全に外した打ち損じの打球には全く勢いがなく、勢いがなさすぎたが為にセーフティーバントのような当たりとなって三塁線上へと転がり、サードの池ノ川も懸命に送球したが間に合わなかったというのがこの打席の内容である。全くの偶然だろうが、それはこの試合の四回表にもあった矢部明雄の内野安打を再現したような打球だった。

 記録上はれっきとしたヒットだが、こんなものは投手からしてみれば不運な当たりだったと割り切るしかない。星菜は深呼吸して気持ちを切り替えると、力を込めた眼差しを向けて次の打者へと相対した。

 

「……さて」

 

 九番一番からツーアウトを簡単に取ったところで、二番に内野安打を許した。そしてときめき青春高校の打順は、最強の三番打者へと回る。

 

 三番ショート、小山雅。

 

 もはや言葉は不要とばかりに、彼女は何も語らず、悠然とした佇まいで右打席に入る。

 神主打法に構えた彼女が、鬼さえも殺しそうな眼光で星菜を睨みつけた。

 

「最後の勝負だ」

 

 ツーアウト、ランナー一塁。イニングが八回である今、打順の巡りを考えればこの打席が彼女の最終打席になるだろう。星菜もまたこの試合では(・・・・・・)彼女にそれ以上の打席を与える気は無かった。

 

 全力で抑え、そして勝つ。その為には彼女につけられた因縁も、今はどうでもよかった。

 

 

 

 

 


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