外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
――何も無い、真っ白な世界。
星菜がこの場所を訪れるのは、随分と久しぶりな気がした。
鈴姫との友情を取り戻してからというもの、星菜は再び帰ってきたこの野球漬けの日々に確かな充実を感じていた。故に思い悩むことも減り、自然とこの世界に浸り込む機会も減っていたのである。
しかし星菜は今、ここに来た。
「彼」に会う為に。
「彼」と相談する為に。
不要な時は全く訪れないくせに、必要な時だけ訪れる。それが都合の良いことだというのは百も承知だ。
しかしそれでも、今の星菜にとっては他の何よりも「彼」の助けが必要だったのだ。
『どうした? 試合中に、こんなところに来たら駄目じゃないか』
星菜の訪れた白い世界に朧のように浮かび上がってきたのは、見た目は二十台後半に見える若い青年の姿だった。
細身ながら180センチ以上もある長身から、彼は苦笑した様相で星菜の姿を見下ろしていた。
――そう、今は試合中だ。故に星菜が本来居るべき場所はグラウンドにあり、間違ってもこんな場所に居てはならない筈だった。
お前は今ここに来るべきではないと……そう追い返そうとする青年だが、星菜とてそんなことは既に承知の上だった。
間違っているとわかっていても。卑怯だと思われても。自らの精神状態の不安定さを認識している今、星菜には彼との対面が必要だったのである。
「……雅ちゃんを抑えたい。どうすればいいか、教えてください」
心苦しさと後ろめたさから言葉を言い淀みながら、星菜は目の前の青年――星園渚に対して用件を述べる。
彼女が絞り出した頼みに対して、彼は静かに目を瞑り、数拍の間を置いて語り出した。
『小山雅か……確かに、あの子は凄いバッターだ。性別の壁とか、体格の壁とか……君がずっと苦しんできたものを、遥かに通り越して彼方に置いているよね。体力さえ保てば、あの子はもうプロの一軍でもやっていけるんじゃないかな?』
199個もの勝ち星を僅か三十台中盤で積み重ねていった伝説的な名投手、星園渚。そんなプロ中のプロとも言える彼が手放しにそう評する時点で、あの小山雅という選手の異常性は明らかであった。
稀に見る天才――彼女は既に、あの猪狩守と同じ次元に立っているのだ。
そう語り、真剣な眼差しで星菜を見つめる星園の瞳に、冗談の色は無かった。
『彼女はそれほどのバッターだ。いくら技術があっても、技術だけではどうにもならないレベルに彼女は居る。確かに、君の持ち球で抑えるのは厳しそうだ』
「……わかってる」
『君がここに来たのは、僕なら彼女を抑える方法を知っていると思ったから……僕の「魔球」を教わりに来たのかな? 泉星菜』
星菜と星園は、星菜が生まれた時から一心同体だった存在である。お互いが考えていることは言葉に出さずとも何となく理解しており、それ故に話の展開は速かった。
しかし、それがすんなりと通るとは限らない。星園は明らかに、星菜の頼みに難色を示していた。
「……無謀だってことは、わかってる」
『ああ、無謀だね。あれはそう簡単に覚えられるものじゃないし、ましてや試合の真っ只中で習得するなんて不可能だ。よくある少年漫画じゃあるまいし』
「わかってる……でも!」
お互いに考えていることがわかるからこそ、星菜は彼にこの頼みを聞き入れてもらえないこともわかっていた。
だがそれでも、星菜には譲れなかった。
だから、ここに来たのだ
少しでも可能性があるのなら……星菜は藁にも縋る思いだった。
「私は……雅ちゃんに勝ちたいんだ!」
今の星菜は、どんな手を使ってでも彼女に勝ちたいと思っていた。
そう思うだけの理由が、この試合の中で出来てしまったのだ。
それはこの試合が小山雅の引退試合だからという話とは一切関係無いのないもので。
今もなお星菜の心の中で膨らみ続けているその思いは、もっと初歩的な――「勝ちたい」という、野球をするチームの一員として至って当たり前のものだった。
『雅ちゃんを言い訳にするのかい?』
――しかし、間髪入れずに掛けられた星園の問いに、星菜は首を横に振った。
小山雅に勝ちたい――だがそれは、それだけでは手段であって目的ではない。
星園から向けられる意地悪ながらも真剣な眼差しを受けた星菜は、自身に生まれた心境の変化に対し苦笑し、本当の思いを静かに紡いだ。
「うん……雅ちゃんだけじゃない……私は、この試合に勝ちたいと思ったんだ。この試合だけは負けられない。負けたくないから……私はもう、みんなに迷惑を掛けたくない」
矢部明雄から掛けられた言葉も、チームを鼓舞するチームメイト達の声も、星菜には全てが懐かしい感覚だった。その感覚は星菜にとって、栄冠を掴んだかつてのリトルリーグ時代以来のものだったから。
友と仲直りして。
今の仲間に受け入れられて。
背番号を貰って。
この試合では、そんな仲間達に星菜は勇気づけられた。
だから思ってしまったのだ。
この場所をもう二度と、失いたくないと。
自分を信じてくれる仲間を、もう二度と裏切りたくないと。
そして何よりも、星菜にはいつまでも周りに甘えている自分が許せなかったのだ。
「……悔やんでいるだけで……自分の心を守ろうとするばかりじゃ、強くなんてなれないって思い知った。……みんなに思い知らされた」
他人の優しさに甘えて、自分の過去ばかり振り返って。
予防線を張ることで、傷の痛みを和らげようとする。思えば、それが泉星菜の人生だった。
だがそれでは、何も始まらないのだと思い知った。たったそれだけのことが、星菜が竹ノ子高校に入って得た教訓である。
『なら、君はどうしたい? 何をして、何になりたい?』
「……わからない。だから、貴方に聞きたかった。……教えてよ、星園さん……」
わかりかけていた。
しかし、またわからなくなっている自分が居る。
かつての自分と考え方が似ていながら、自分以上の才能を持っている小山雅と対峙したことによって――そんな彼女からはっきりと自分の人生を否定されて、時間を掛けて固まりかけていた星菜の心は再び揺らいでしまったのだ。
「私は……強くなりたい。だから……貴方の知恵を貸して」
この迷いを捨てたい。もう一度、立ち向かう勇気が欲しかったから。
その一心で、星菜はもう一人の自分である星園渚に答えを求めた。
そうすることで自分の選択に自信を持ちたかったというのが、星菜がここを訪れた一番の理由でもあった。
星菜の頼みを目を逸らさずに聞き届けた星園は再び目を瞑り、しばらくの間を空けて目を開く。そして、微かに微笑んだ。
『……星菜、君が来るべきなのはここじゃない。早く試合に戻れ』
そして言い放たれたのは、頑なな拒絶だった。
頼みを聞き入れてもらえなかった――既にわかっていた結果に対して、星菜は帰る場所のわからない子犬のように叫び、髪を振り乱した。
「わかってるさっ! 私がここに来るべきじゃなかったってことは! それでも私のボールじゃ、雅ちゃんを抑えられない! あの子に対してもう、何を投げても無駄なんだ! 結局……っ、貴方の知恵が無くちゃ勝てないんだよ私は……っ!」
星園からそう言われるのはわかっていた。自分の頼みの愚かさにも気づいていた。
しかし、このまま何も得られないまま試合に戻ることを……今の自分がチームに迷惑を掛けてしまうことが、星菜には許せなかった。
耐えられなかったのだ。打たれる恐怖に。負ける悔しさに。……居場所を失う恐怖に。それは泉星菜という投手の、人間的な面における一番の弱さであった。
どんなに取り繕ったところで、彼女は酷く臆病で、怖がりな少女なのだ。
星園渚は星菜にとって前世の自分。言わばもう一人の泉星菜とも言える存在だ。当然のように彼は星菜の心の弱さを見透かしており、その恐怖も理解していた。
故に。
だからこそ、彼は星菜を突き放した。
『さっき自分で言ってたじゃないか、そうやって自分の心を守ろうとしているだけじゃ駄目だって』
「…………っ」
しかし。
言葉では突き放していても――彼は間違いなく、泉星菜の味方だった。
『気持ちで負けるなっていう誰にでも言えるような精神論は、個人的にあまり好きじゃない。だけど今の君のように気持ちの時点で負けていたら、小山雅にも、他の誰にも勝てはしないさ。それはもう、勝負する以前の問題だからね』
「……私は……」
『なんでそんなに怖がるんだ? 打たれたっていいじゃないか。負けたっていいじゃないか。プロの世界じゃあるまいし、勝ちに拘ることだけが野球じゃない。負けて得られるものだってたくさんある』
泉星菜の理解者の一人として、星園渚は持論を語る。
説教めいた物言いは、今の星菜にとって最も必要だったのかもしれない。
『確かに、仲間の為に勝ちたいっていうその気持ちはとても大事だと思う。だけどそう思うんならまず、そうやって自分自身に負けていたら駄目だと思うよ、星菜』
「星園……」
『……まあ、僕の持論だけどね。偉そうに言ってみたけど、結局どうするかは君次第だ。ただ、僕が言いたいのは、いつまでもこんな死人に頼るなってことさ。自分の意志で前に進めるようになった今の君にとって、僕の存在は必要無いんだから』
「そんなこと……」
『でも、それでもこんな死人の話を聞きたいんなら、一つだけ言っておこうか』
自嘲的な笑みを浮かべながら、星園は自分よりも一回りも二回りも小さい星菜の肩に手を添えた。
彼は彼女の頼みは受けない。けれども彼は、たった一つだけこの言葉を贈った。
『野球は楽しい。形はどうであれ、仲間と楽しんでこそ価値のあるものだってね』
――その言葉を最後に白い世界は消え去り、星菜の意識は現実へと引き戻された。
「星菜、大丈夫か?」
横合いから掛けられた鈴姫の心配そうな声に、星菜がゆっくりと目を開く。
そして再びグラウンドに目を移した星菜は鈴姫の言葉に頷き、しばし「彼」の言葉に思いを馳せながら応える。
「……星園渚に、会ってきた」
「……そうか」
星菜の中に居る彼女の前世の存在――星園渚のことは、鈴姫もまた認知している。
故に彼に会ってきたという言葉の意味も、すぐに察することが出来た。
「小山雅を抑える方法を聞きに行ったのか?」
「駄目だった。死人に頼るなって怒られた」
「……他には、何か言われたか?」
「いじめられたよ」
「なんだと?」
「……まったく、どいつもこいつもそんなのばっかりだ」
星園渚と言えば、現役時代プロの世界で名球会クラスの活躍を収め、若くしてこの世を去った悲劇の名投手である。そんな彼に星菜が会ってきたと聞いて、その目的を察するのは鈴姫にとって難しくはない。
あの天才打者を抑える方法が無ければ、恐らく全打席敬遠でもしなければ竹ノ子高校がこの試合に勝つのは難しいだろう。鈴姫の目から見ても、あの小山雅という選手はそれほどまでに実力が突出しているのだ。
彼女を抑えられる手があるのならば参考までに聞いてみたいところであったが、鈴姫がそう訊ねた途端、星菜の機嫌が目に見えて悪くなった。
「いつもそうだ……お前達もあの人も結局、いつもそうなんだ……!」
そして込み上がってきた感情を抑えきれぬとばかりに、星菜は取り乱した。
「みんなして私を責める……! 受け入れない人は私を否定して! 受け入れてくれる人はみんなして私に自分で決めろと言う……! どいつもこいつも正しいことを言ってるくせに、無責任な言葉で私をいじめる……っ」
「……俺は、君の味方だぞ?」
「それが、ずるいって言っているんだよ……! お前もこのチームの人達も、そういうのが卑怯なんだ……っ」
「星菜……」
「お前もみんなも、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ……! こんな女の前で張り切ってさ……!」
それは明らかに、彼女らしからぬ姿だった。
しかし今口にしている全霊の恨み節こそが、彼女が腹の中で考えている感情の全てなのだろうと鈴姫は悟る。
彼女はいつだって辛い立場に居て……彼女自身も、そう思い込んでしまっているから。
だから今まで、彼女はずっと苦しんでいたのだ。
「何が野球は楽しいだよ……! そんなこと……そんなこと……っ」
脈略もなく、それでも心底腹立たしそうに、彼女はただひたすらに怒りの言葉を吐き続ける。
そして――
「当たり前だ! バカヤローッ!!」
――今まで燻り続けてきた何かが吹っ切れたように、彼女は力いっぱい叫んだ。
「かっ飛ばせ小島っ! かっせかっせぇ!!」
それは、どこの誰に向けていたものだったのやら――言いたいこと全てを早口で捲し立てた後、彼女はグラウンドを見据え、ただがむしゃらにプレイ中の選手を応援する。
仲間達に交じって声を張り上げて――普段冷静な彼女らしからぬあまりの形相に、周囲は一瞬びくりと肩を震わせるが……彼女のその姿はこの場においては鈴姫だけが知っている、リトル時代当時の彼女そのものであった。
「……本当にこいつは……めんどくさい女だ」
彼女の心境の変化を察した鈴姫が、呆れたような口調でそう呟く。
しかしその心情は、試合でヒットを打った時よりも遥かに上機嫌なものだった。
打席に立っているのはこの回先頭、八番打者の小島だ。左打席でバットを短く持った彼は、それまで青葉の高速スライダーを前に為すすべもなくツーストライクに追い込まれていた。
しかし、ベンチの応援を背に受けた今の彼が必死にボールに食らいつこうとしているのは誰の目に見ても明らかである。
打席ではホームベースに覆いかぶさるように前に立ち、思い切り踏み込んでゴロを転がそうという意識がはっきりと見える。内野安打だろうとエラーだろうと何でもいいと、彼は彼なりに塁に出るべく奮闘しているのだ。
ツーナッシングに追い込まれた後、彼は紙一重でボールを見極め、ツーエンドツーの並行カウントまで粘りを見せていく。
そして、青葉が決め球に投じた次の一球だった。
「痛ッ……!」
コースは内角、球種は高速スライダー。
空振りを奪うべく内角から膝元のボールゾーンへと曲がっていった彼のボールは僅かに制球が狂い、身を翻そうと
「よし! ナイスデッドボールだ!」
「フハハ! 今のは避けてようとしていましたね!」
「ああ、どう見ても避けようとしていたな。あれならデッドボールで間違いない」
「お前らちょっとはあいつの足を心配してやれよ」
「大丈夫だろ。上手く当たってたし」
避ける素振りを見せなかったり故意に当たりにいったものであればボールと判定されていたかもしれないが、ここで球審が告げた判定は死球であり、小島は名誉の負傷を負いながら一塁へと歩いていく。念の為ベンチからは補欠の一年生が治療に向かったが、当たりどころが良かったらしく、彼は無事をアピールするようにベースの上で跳ねていた。
この場合、痛かったのは先頭打者の出塁を許したときめき青春高校の方であろう。
「怪我したらどうするつもりだよ。ちゃんと避けろ、下手くそ……」
「おい、先輩だぞ」
喜ぶベンチを他所にネクストバッターズサークルに向かう星菜の呟きは、小島の打席を危ないと批判する。
今の死球は投手青葉の制球ミスと、彼のスライダーの曲がりの大きさが仇となった結果であった。
しかし打者の小島が素早く反応すれば、体に当たる前に避けることが出来た筈のボールだった。彼は故意に、避ける反応を遅らせたのである。
恐らく小島は、まともに戦っても自分では青葉を打てないからと……怪我のリスクも恐れず死球を受け入れたのである。
「本当に……なんなんだこの人達は」
そんな小島の闘志に盛り上がる一同を見て、星菜にはもはや呆れの言葉しか出ない。
馬鹿みたいに純粋で、自分が正しいと思ったことに全力で取り組んでいける。彼らは自分と違って、性根が真っ直ぐなのだ。
星菜はそんな彼らの在り方を、ずっと羨ましいと思っていた。……妬んでいたとも言っていいほどに。
だが、本当なら出来るのだ、自分にも。
自分は彼らのようになれなかったのではなく、なろうとしていなかっただけなのだと思い知った。
だから、小山雅の言葉なんかに憤った。お前に言われんでもわかってると、そう返して一笑に付すだけで良かった言葉に逆鱗を掴まれた。
泉星菜はずっと恐れていた。
自分の心が傷つくことに――今の自分が、今までの自分でなくなってしまうことに。
「俺だって!」
八番の小島が塁に出た直後、九番打者の鷹野が一球目から送りバントを仕掛ける。
彼のバットは投手青葉のストレートの球威に押されながらも跳ね返し、上手く勢いを殺された打球は一塁方向のフェアゾーンへと転がっていった。
同時に駆けだした一塁走者小島の足は早く、ときめき青春高校の一塁手がボールを捕まえた頃には既に二塁ベースへと到達していた。
「よし! ナイスバントだ鷹野!」
打者走者だけがアウトとなり、送りバントは見事に成功の形となる。
そして打順は返り、一番打者――星菜の番へと回ってきた。
「頑張れ星菜ちゃん!」
「打てる打てるよ!」
右肩にバットを担ぎながら、星菜は悠々と左打席へと向かい、得点圏で迎えたこの場面に登場する。
状況はワンアウト二塁。
八番と九番、貧打の竹ノ子高校の中においてさえ打力の劣る二人が繋いでくれた、得点のチャンスだ。
失点の直後に自分の打席に回ってくる。この状況は何か、因果めいたものを感じざるを得なかった。
「たかが女子投手の打席にみんなしてあんなに期待して……」
足元を慣らした星菜はすぐさまバットを構え、栗色の双眸で真っ直ぐに投手の姿を見据える。
そして小さく――捕手にも聞き取れないほど小さな声で言い捨てた。
「……大好きだよ、みんな」
自分で言って、自分の言葉に笑ってしまう。
そして球審によってプレイが掛かったその瞬間、青葉のボールに対する星菜の集中力はこれまでの限界を超えていた。
――既にこの心に、陰りは無い。
そこにあるのは真剣勝負の場においては温すぎるほどに、どこまでも穏やかで澄んだ感情だった。
(そうだ……私が、野球をやってきたのは……)
友に否定されて。
仲間に励まされて。
前世の自分に説教されて。
そして今、仲間の応援を聞いて、星菜の心は光に染まった。
挫けてばっかりで進歩の無い――あまりにも滑稽な自分に対して、既に真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなっていたのだ。
否定がなんだ。負けるのがなんだ。
自分は今まで周りから肯定される為に――勝つ為だけに野球をやってきたわけではない。
昔からいつだって、その筈だった。
ただ楽しそうだと思ったから野球を始めた。
ただ楽しいから夢中でやり続けた。
承認欲求も、勝利への執着も……野球を始めたあの頃の自分に、そんな俗な感情は無かった。
それは、野球をしているだけで満たされていたからだ。
投げることも打つことも、星菜にはその全てが喜びだった。
野球と言う競技の全てを愛おしく、素晴らしいものだと思っていた。
だから。
そんな競技の中で星菜が一番に追い求めていたのは、誰にも負けない実力でも、絶対に打たれない魔球などでもない。
考えてみれば、それは今も同じだった。
何もかもが幼かったあの頃と比べても、何一つ変わらない。
そう、泉星菜という少女はただ純粋に――
(同じ野球馬鹿たちと、全力で馬鹿やりたいだけだったんだ!)
金属の快音が響く。
白球がショートの頭上を越えて、左中間を割っていく。
手の痺れが大きかろうと、投球に支障があろうと、何ら関係ない。投手の投げたボールを打った打者は、ただ次の塁へ走るだけだ。
自らの心で答えを出し、がむしゃらに振り抜いた星菜のバットは――彼女自身を苦しませてきた過去を振り払うように、140km/hのスライダーを打ち砕いたのである。