外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

73 / 91
MAZIGIRE

 

 

 

 

 1対0で竹ノ子高校が先制点を上げた四回の表。状況は尚もワンアウト三塁と得点のチャンスは続いたが、マウンドの青葉春人はそれ以上の得点を許さなかった。

 外野フライでも内野ゴロでも竹ノ子高校に追加点が入るこの状況において、青葉は続く六番外川からこの試合九つ目の三振を奪うと、外角低めのストレートで七番石田をショートゴロに打ち取り、このイニングを最少失点で切り抜けてみせる。

 しかしこの前半戦の内に一点が入ったのは、星菜にとってもチームにとっても間違いなく大きかった。

 

 そして、攻守交代した四回の裏。

 ときめき青春高校の打順は二番の三森右京から始まった。

 

(打線から援護を貰った。後は、私の責任だ)

 

 先制点を入れてもらったことによって投球のリズムが崩れるほど、星菜はヤワなメンタルをしていない。

 星菜はこれまでと同じ投球フォームと腕の振りからボールを放り、淡々とした投球で右京と対峙していく。

 

「クソッ!」

 

 右京は何故こんな遅い球が打てないのかという苛立ちをありありと表情に浮かべながら、星菜の投じた110キロ程度のツーシームを詰まらせ、名手鈴姫の守るショートゴロへと打ち取られていく。

 

 先頭打者が倒れ、ワンアウト走者は無し。

 そして続く三番――金髪の輝く優美な少女が、堂々たる足運びで右打席に入った。

 

「……ようやくおでましか」

 

 小山雅――この試合で引退を決めている、星菜の親友である。

 彼女が自分と戦う為だけにこの試合を企てたのだということは、彼女自身の口から聞いている。そして、その舞台を整える為に先発の青山を物理的にノックアウトしたことも。

 彼女は自分の知らぬ間に野球を始めて、知らぬ間に野球を辞めていた野球少女だ。星菜の胸にはこの時、言葉に表しきれないほどの感傷があったが……勝負となると話は別である。

 ただキャッチャーミットを目掛けて無心に投げ込み、チームを勝利へと導く。星菜はそれこそが自らに課せられたこの試合での役割だと理解していた。

 

(貴方が、どれだけ凄いバッターだとしても……)

 

 彼女はこの打席に入る前に、挑発的な言動から「ホームランを打つ」と星菜に予告している。それは決して根拠のない虚言ではなく、彼女の自信と実力に裏打ちされたものなのだろう。

 しかし星菜とて、彼女を打ち取れるだけの自信はあった。

 球速だけはリトル時代から全く上がっていない星菜であるが、ボールのキレ、制球力、変化球の精度、投球技術――球速を除いたあらゆる面で、星菜はこの場に居るどの投手をも凌駕していたのだ。

 だからこそ、小山雅を前にした今の星菜に怯えはなかった。

 

「ストライク!」

 

 ワインドアップからの一球目。挨拶代わりに投じたのは内角高めのストライクゾーンに入っていくフロントドアのツーシームだ。

 雅がそのボールを微動だにせず見送ると、球審が素早くストライクをコールした。

 

(焦らず、慎重に)

 

 制球は星菜の生命線だ。カウントを取りに行く際は、これまでと同じくストライクゾーンの四隅を丁寧に突く投球を心掛けている。

 しかし制球が良いからと言って何も考えずにストライクゾーンにばかり放っていれば、相手打者には堂々と踏み込まれてしまうだろう。

 だからこそ、投球術として打者付近に投じるブラッシュボールやタイミングを狂わせる見せ球が必要になっていく。星菜が二球目に投じたのは、その内の後者であった。

 

 ストレート以上に勢いが込めた腕の振りから放たれた、大きな弧を描くスローカーブ。

 

 打者の目線とタイミングを狂わせるそのボールは、フワッという擬音が似合う70キロ台の球速で雅の膝下を抜けていき、素手でも捕れそうな勢いを持って六道のミットに収まった。

 球審の判定はボールである。しかし、それはバッテリーの狙い通りだ。このボールは先のツーシームのようにカウントを取りに行くボールではなく、打者を幻惑し、次のボールを投げる為の布石に過ぎないのだから。

 

(よく見てなよ雅ちゃん。これが……)

 

 元来のセンスというものか、星菜は元々質の良いストレートを持っている。

 それはボールの回転数――一般的にノビやキレと言われるものに直結していく要素だ。投手の指先から弾かれてからキャッチャーミットに到達するまでのボールの回転数が多ければ多いほど初速と終速の幅が狭くなり、ボールは失速せず真っ直ぐに伸びていくのだ。

 星菜のストレートもまた球速が遅い割には回転数が多い為、打者の目には実際の球速よりも速く見えていた。いつか鈴姫と勝負した際、星菜は「私のストレートは体感140キロだ」と言ったことがあるが、それはあながち冗談ではない。

 星菜のストレートは素でも体感130キロ近くまで打者に速いと感じさせる球質である。それに加えてボールの出どころが見にくい投球フォームと球持ちの良さ、今しがた投じたスローカーブのような打者のタイミングを狂わせる球種を交えることによって、体感140キロ近くまで水増しすることが出来るのだ。

 

(世界で一番速い115キロだ!)

 

 打者の目から左腕の見えない投球フォームから繰り出される球質の良い、緩急を交えた115キロのストレートは115キロであってただの115キロではない。流石に超高校級の好打者から空振りを奪うことまでは難しいが、高校野球界でも通用する威力を十分に発揮していた。

 世界で一番速い115キロだと豪語するストレートが精密機械の如く外角低めに決まっていくと、ストライクの判定と同時に球審の右手が勢い良く上がった。

 

「そう簡単に、打たせるもんか……」

 

 彼女が球速だけを見て「通用しない」などととほざいたのなら、今度は星菜が彼女を見下すことになる。まだ一度もバットを振っていない雅の顔を見て、星菜はポーカーフェイスの裏で鼻を鳴らした。

 ナイスボールという言葉と共に六道から返されたボールを受け捕りながら、星菜はテンポ良く次の投球動作に移ろうとする。

 

「ガッカリだよ……」

 

 ――打席の雅から「失望」の声が吐き出されたのは、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 小山雅は、その心に立ち篭った落胆の感情を抑えることが出来なかった。

 

 泉星菜――自分が今に至るまでの道標となった、かけがえのない大切な友達。

 昨日、グラウンドの外から彼女の投球を眺めていた時からも、彼女の投球技術の高さはわかっていた。

 その実力も、野球センスもただ者ではないように見えた。

 今この試合においても彼女の投球は決して弱くないときめき青春高校の打線をノーヒットに抑えており、その実力が高校野球界でも通用しているという事実を存分に知らしめていた。

 雅がこうして打席に立ってみれば、球速という重いハンディを懸命に埋めようとした彼女の努力の程を肌で感じることも出来た。

 制球の良さに、遅い球を限界以上に速く見せる投球技術、そして変化球のキレ。それらのみを取れば、彼女の能力はあの猪狩守と比べても遜色はないだろう。

 

 だからこそ、雅はその胸に深い失望を抱いたのである。

 

 そして、落胆した。

 気を抜けば涙を流してしまうほどに、雅は星菜の投げる情けない(・・・・)ボールを哀れんでいた。

 だからか……その心の中で複雑に絡み合った感情が、雅の口から罵倒とも言える言葉を紡ぎ出したのである。

 

「ガッカリだよ……君がこんな偽物のピッチャーになっていたなんて。こんな情けないボールを投げるために、今までずっと青春を捧げていたなんて!」

 

 堪えようのない苦しみと悲しみと共に、雅はマウンドに立っている友に向かって吐き出す。

 それは雅の心を守っていた最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。

 

「なんだって……?」

 

 放たれた雅の言葉に、星菜が眉を顰める。

 ホームランを予告した時と同様に、さしもの彼女もこれには気を悪くした様子だった。

 そんな星菜の顔を見て、雅はその脳裏にかつて彼女と過ごした思い出の一部を想起した。

 

 喧嘩するほど仲が良いという格言があるように、回数はあまり多くないが、雅には彼女と喧嘩したことが過去に何度かある。

 尤もいずれも十分と経たずに仲直りするような小さな喧嘩であったが、意図せずして迂闊な一言で怒らせてしまうことがあったのだ。

 雅の記憶に残っているのは星菜と知り合ってまだ間もない頃のことで、初めて彼女の趣味が野球であることを知った時のことだった。

 

(そう……あの時も、そうだったね……)

 

 女の子なのに彼女は野球が大好きで、将来はプロ野球選手になることを目指していると知ったあの時、雅はなんでそんな「変なこと」をするのかと彼女に訊ねた。

 当時の雅にも悪気があったわけではない。おぼろげながらも野球というものを男が行うスポーツだと認識していた彼女にとって、幼くともそんな競技を好き好んで行っている彼女のことが不思議に思えたのだ。

 当時の雅が抱いたのは当然と言えば当然の疑問だったのだが、雅の訊き方や星菜の受け取り方が悪かったこともあってか星菜に「大好きな野球を馬鹿にされている」と誤解され、口論になったのである。

 些細な喧嘩の切っ掛けは、どれもお互いに幼かったから話がこじれてしまったというだけだ。喧嘩が終われば雅も星菜の夢に理解を示して応援するようになり、少しずつではあったが彼女自身もまた野球というスポーツに魅かれていった。

 

 ――そして巡り巡って、二人は今に至る。

 

 星菜が投手で、自分は打者。お互いに野球という競技のグラウンドで対峙しているこの瞬間が雅には感慨深く、そして今また似たようなことを言い放とうとしている自分にも感傷を抱いた。

 

 しかしその言葉だけには、既に欠片の容赦もなかった。

 

「所詮、女の子が投げる球なんてその程度で限界だってことさ!」

 

 小山雅にとって、泉星菜が大切な友達だからこそ……雅はこの打席で彼女のボールを見た瞬間、許せなくなった。

 彼女はこれだけの才能があって、努力もしているのに――たかが女であるが為にこんな情けないボール(・・・・・・・)しか投げられないのかと。

 

 ――彼女は自分に野球を諦めさせるどころか、性別の壁すら超えていない。

 

 雅はこの打席で彼女のボールを一目見て、そう確信したのである。

 

「何を言って……!」

「君みたいな女の子が野球をするのは間違いだって言ったんだよ! 他の奴らはどうでもいい! だけど君だけは、ここにいちゃいけなかったんだ!」

「……っ!」

 

 それは、早川あおいに向けたものとは種類が違う叫びだった。

 彼女のことを愛していたからこそ、雅は言わずには居られなかった。こんなボールを見てしまっては、もはや黙って居られなかったのだ。

 ああ、なんでこんなボールしか投げられないのか。

 ああどうして、こんなボールしか投げられないのに野球を続けているのか。

 他でもない……泉星菜ほどの女の子が。

 

 それは雅にとって、何もかもが間違いだったのだ。

 

「はっきり言うよ、星ちゃん! こんな情けない球しか投げれない君に、野球を続けるのは無理だ!」

 

 かつて自分の道標となってくれた彼女ならば、今の自分に今度こそ野球を諦めさせてくれると信じていた。

 

 ……野球人生というものの無意味さを説く自分に、彼女は言ったのだ。

 誰かに無駄だと思われても、自分だけは無駄じゃなかったと信じている。だから他人の言葉で野球を諦めるつもりはないと。自分の野球人生の終わりは、自分自身の手で決めるのだと。

 堂々とそう言い切ってみせた彼女の姿はまさしく雅の知る綺麗な泉星菜のままで……その姿に雅は、この日が来るまでずっと光を見出していた。

 

 彼女ならきっと、今の自分を救ってくれるのではないか――また自分に、導きを与えてくれるのではないかと。

 

 だが、期待は裏切られた。希望は踏みにじられた。

 最初から疑念はあった。だけど、信じたくはなかった。

 しかし彼女の投げるボールを打席から見たことで、雅には嫌が応にもわかってしまったのだ。

 

「生まれてきた時点で、君は野球の神様から見放されていたんだからねぇ!」

 

 彼女もまた一流になれなかった、早川あおいと同じ凡百の投手に過ぎなかったのだと。

 

「……君、それ以上の暴言はやめなさい」

「はっ、高野連の人は黙ってなよ。あんた達が言うには女の子は選手扱いされないんだろ? いつもは居ない者扱いしているくせに、都合が悪くなればそれかよ」

 

 連盟出身の球審から掛けられた制止の言葉に、雅は蔑みの視線を向けながら言い捨てる。

 

「本当にね、あんた達の傲慢さにもっと早く気づくべきだったよ。私も、星ちゃんも……あんた達のおかげでこのザマだ」

 

 星菜の投球では絶対に、自分には勝てない。当然、この心は永久に救われないままだ。

 泉星菜に見出した光が偽りだと知ってしまった以上、雅にとってこの試合には何の価値も無かった。今更退場を宣告させられようとも、もはや痛くも痒くもない。

 

 しかしそんな雅の冷め切った心に火を灯したのは、他でもない彼女の言葉だった。

 

「それを……貴方が言うのか? さっきから聞いていれば何だよ……! 貴方の方がずっと傲慢じゃないか!」

「……なに?」

 

 ――混沌としたグラウンドに、激昂する星菜の叫びが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ほんの少し前までの自分なら、雅の言葉に何も言い返すことが出来なかっただろう。

 正直言って、この時星菜が雅の言葉から受けた心の傷は浅いものではなかった。

 

『そもそも俺は、女という生き物が嫌いだ。どいつもこいつも鬱陶しいんだよ。何もかも劣っている癖に、男と対等ぶりやがって』

 

 中学時代の監督が小波大也に言っていた言葉が、星菜の脳裏に蘇っていく。

 それらはずっと忘れたいと思っていた記憶だ。野球選手としての星菜を徹底的に全否定する雅の言葉は、未だ癒えきっていない星菜のトラウマを的確に刺激していたのだ。

 

 自らの叫びにグラウンドが静まり返り、注目が一身に集まっていることを感じる。だが、それでも星菜には開く口を止められなかった。

 

 雅が言わずには居られなかったように、星菜もまた何に代えてでも黙っては居られなかった。

 私情をグラウンドには持ち込むまいと決めていたが……ここまで馬鹿にされれば話は別だ。

 

 故に星菜は、その仮面を外すことに何の躊躇いもなかった。

 

「いつまでもいじけて、自分の弱さを誰かのせいにして……! そういう考えが甘いんだよっ! 貴方がそうなったのは誰のせいでもない! 貴方自身が招いた結果だ!」

 

 まるで過去の自分自身に対するように、星菜は雅の在り方を否定した。

 ようやくわかったのだ。今まで雅の眼差しに不穏さを感じ、恐れを抱いていたのかが。

 星菜が恐れていたのは、変わり果てた雅の冷たい瞳に対してではない。今再び、かつての自分その物と向き合うことが星菜には怖かったのだ。

 

 目の前の現実に挑むことが怖くて、いつまでもうじうじと悩み続けていた自分。

 そんな自分とどこまでも似ている彼女に対してだからこそ、星菜の中でとうとう堪忍袋の緒が切れたのである。

 

「ふん……本当は悔しいんだよね? 自分はあおいさんみたいに強くなれないから! 自分を綺麗に強く見せようとしたって、中身は空っぽのままで……貴方はそうやって現実から逃げてるくせして、全部誰かのせいにして不幸ぶってんだろっ!」

「ッ……! 何がわかるんだよ君に!」

「どっちがだよ! 貴方こそ、私が受けた苦しみを何だと思っているんだ!」

「私は君を心配しているんだ! こんな情けないボールを投げているよりも、君には色んなことが出来たんだ! 私の知っている泉星菜はずっと前を走っていて……野球なんかでつまらない二流で終わる人じゃなかったからっ!」

「勝手な理想を押し付けんな! 今の私が昔と違うのは見ればわかるだろ!?」

「……ああ……ああそうだね! 君は友達との約束を破るような子じゃなかったッ! あの頃の君は決して私を裏切らなかった! 大切な約束を忘れたりなんかしなかったよ!」

「貴方こそ、昔はこんな情けない人じゃなかった! 自分を棚に上げて偉そうに言うな!」

 

 寧ろ、今全力で自分のことを棚に上げているのは己の方だと自覚しているが、それでも星菜は叫んだ。

 説教ではない。ただ、腹が立ったのだ。雅のことを大切な友人だと思っているからこそ、星菜には彼女が自分みたいになっていることが許せなかった。

 恐らく自分も鈴姫や小波、六道聖や早川あおい、そしてこの竹ノ子高校の皆に出会わなかったら……今の雅の居るところまで堕ちてしまっていたのだろう。だからこそ、許せない。許せなくなった。

 

「……座ってください、六道先輩」

「あ、ああ……」

「審判も、プレーを再開しましょう」

「は、はい」

 

 導火線に点火された炎はそう簡単には消えない。消える時は、爆発し終わった後の静寂だ。

 元々は激情家であった星菜には、雅の発言の何もかもが神経に障っていた。

 

「情けない球がどうか、試してやろうじゃないか!」

 

 自分みたいなうじうじ女を、これ以上増やしてたまるかと――そんなことを考える星菜は怒りの中でも最低限の冷静さを失うことなく、雅を抑えるべきボールを左手に握り、グラブを添えてワインドアップに入る。

 そして雅もまたバットを構え、闘志に滾った眼光で星菜の投球フォームを睨んだ。

 

 

「雅っ!」

「星菜ああっっ!!」

 

 

 左腕を隠した招き猫のような投球フォームから、泉星菜が右打席の内角へとボールを解き放つ。

 神主のような構えから正面に突き出したバットを振りかぶり、小山雅が左腕から放たれたボールを一閃する。

 

 ――互いの宿敵の名を叫び合いながら繰り広げた第一ラウンドは、つんざくような金属音を轟かせて幕を下ろした。

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。