外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

72 / 91
竹ノ子の未来を担え君の手で

 

 

 ツーアウトからの走者が出塁し、打席には二番の六道明が入る。

 その初球だった。

 

「ランナー走ったぞ!」

「っ!」

 

 青葉が六道の打席に高速スライダーを投じた瞬間、一塁走者である星菜が完璧なスタートを切った。

 投手の青葉が無警戒だったことが何よりも功を奏したと言える。星菜は彼のモーションを完全に盗み、二塁への盗塁を成功させたのである。

 星菜の走力は一般的な女子としては非常に高いものがあるが、平均的な高校球児と比べればそれほど速い方ではない。それでも結果として危なげないタイミングで二塁に到達することが出来たのは、彼女の盗塁センスの高さと青葉、鬼力バッテリーの警戒の薄さによるところが大きかった。

 

(よし)

 

 ベンチから盗塁のサインが出ていたわけではないが、星菜はこのタイミングならば絶対に成功するという確信を持って走り、その狙いを的中させたのである。

 それによって状況はツーアウト一塁から二塁へと変わり、一転して竹ノ子高校先制のチャンスとなった。

 

「やるね星ちゃん、盗塁も上手いじゃない」

「……どうも」

「まあ、今のはバッテリーが無防備すぎたね。あんな風に一度もランナーを見ないで投げていたら誰だって盗めるよ」

 

 いくらランナーが投手、それも女の子だからってツーアウトのランナーを警戒しないのは良くない。捕手からの送球に対して素早く二塁ベースのカバーに入った雅が、滑り込んだ星菜の足にタッチした後でボールを返しながらそう言った。

 ツーアウトの走者である以上、仮に盗塁を阻止されたところで次の回は二番からの好打順になる。

 盗塁が失敗した場合におけるリスクが少ない状況でありながらバッテリーの警戒が薄かったことに関しては星菜もまた同意見であり、だからこそ星菜は二盗を敢行したものだ。

 

 しかしどうにも、雅の言葉が妙に鼻について聞こえてしまう。

 

 それは星菜の中で、同族嫌悪に近い感情だった。今の雅の態度はまるで入学当初の自分――選手として復帰する前の、野球をすることを完全に諦めていた頃の星菜と同じで、自分以外の野球選手を心から見下しきっているように見えた。

 

(もしかして、貴方は……)

 

 だからこそ星菜には、彼女の感情を理解出来てしまう。

 今の雅の思考が、これまでの言動から鑑みてもある程度察することが出来てしまったのだ。

 

「……初回の打席」

「ん」

「青山君に打球をぶつけたのは、わざとだったの?」

 

 故に星菜は、彼女に問うことにした。

 言葉にして問うことによって、彼女の真意を確かめたかったのだ。

 

 球審からプレイの声が掛かったことで二塁ベースからリードを取り、目の前の試合に一定の注意を払いながら星菜は背後に立つショートの雅に問い掛ける。

 その問いと同時にマウンドの青葉が二塁に牽制球を送ると、星菜はヘッドスライディングで帰塁し、再びベースカバーに入った雅と接触した。

 タッチの判定はセーフ。

 一方で星菜の察する雅の心中は、とてもではないがセーフとは言い難かった。

 

「だったら何さ?」

「凄いバットコントロールだと尊敬する。……だけど、軽蔑するよ」

「心外だね。私はバッティングの基本を実践しただけなのに」

 

 送られてきた牽制球を投手に返しながら、雅は薄い唇をつり上げながらそう言い返す。

 口ごもる星菜に対して、それに……と雅は言葉を続けた。

 

「あんな打球、避けられない方が悪いじゃないか」

 

 そこには悪意も憤怒も無い。ただひたすらに呆れきった口調で語った後、雅は笑った。

 

「公式戦でもないのに、ピッチャーがあの程度の打球で簡単に利き手を怪我するようじゃ話にならないね。私はそんな二流なんかと残り三打席も勝負するのは真っ平御免だよ」

 

 二流投手とずっと勝負するのは嫌だから、彼を早々に退場させる為にあの一打を放った。雅の発言に込められたニュアンスをそう受け取った星菜は、その心に打ち付けられるような痛みを催した。

 自分の知っている雅は、そんなことをするような人ではなかった。

 穏やかで優しい彼女は、こんな……心の歪んだ自分みたいなことを言う人ではなかったと――友人の変貌ぶりを見て、星菜には掛ける言葉が見つからなかった。

 

「……わざとだったんだね、やっぱり」

「最初から私の目的は君さ、星ちゃん。私は君と勝負する為だけにこんな試合を組ませたんだ。君とは試合の中でちゃんと勝負したいと思ったから。星ちゃん好みのシチュエーションでしょ? こういうの」

「私は、猪狩守さんにはそう言ったけど……」

 

 これでは巻き込まれて怪我をさせられた青山があまりにも不憫だと、星菜は思う。

 彼が打球の直撃を受けた時、星菜は自分のことを疫病神のように感じていたが……どうやらそれは、あながち間違いではなかったようだ。

 こんなことならあの時余計なことを言わないでさっさと猪狩と勝負しておくべきだったと、星菜は自らの発言を悔いた。

 

「でも、君との勝負は思ってたよりつまらなくなりそう」

 

 そんな感情で苦々しく唇を噛む星菜に、雅が一昨日の電話の時と同じ冷たい口調で言った。

 先は青葉に向けていた――人を見下しきった目を、星菜に向けながら。

 

「あんな子供だましのピッチングじゃ、私には通用しないよ」

 

 こちらの反論を一切許さないように、彼女はそう言ってまだ見ぬ勝負の結果を断定する。

 挑発、と言うには些か行き過ぎている驕った発言である。

 鈴姫健太郎からはなんだかんだで身内に甘いところがあると言われていた星菜だが、それでも彼女のその発言が気に障らないほど気が長くはなかった。

 

「……言ってくれるじゃないですか。猪狩守さんから打てなかったくせに」

「事実だよ。何なら、今から予告してあげてもいい。これはあくまでも敬遠されなかったらの話だけど……」

 

 星菜は眉間にしわを寄せて雅を睨むが、雅は顔色一つ変えずに言い返す。

 それもまた絶対的な確信に満ちた、あまりにも大胆な発言だった。 

 

「次の打席、私は君からホームランを打つ。一発、豪快な奴をね」

 

 侮辱している、というわけではない。

 まるで実際に未来を見てきたかのように、雅は至って冷静にそう言い捨てた。

 

 

 

 

 

 

「ストライク、バッターアウト!」

 

 打席の六道明が内角のストレートに振り遅れ、空振り三振に倒れる。

 セットポジションになった青葉は走者の居ない状態に比べてやや制球を乱していたが、それでもフルカウントから決めにいったボールは目的を成し遂げた。

 ツーアウト二塁のチャンスで打てなかった六道は苦々しい顔でベンチへと引き下がり、星菜もまた裏の守りに移るべく一旦ベンチへと戻ろうとする。

 しかし、その前に。

 

「雅ちゃん」

「何だい?」

 

 ショートからすれ違う金髪少女の背中に対して、星菜はその名前を呼んで彼女を呼び止めた。

 彼女から受けた言葉に対して、星菜の内心は穏やかではなかったが……それでも星菜は、これまで辿ってきた女子選手としての境遇から彼女の精神状態を察せぬほど鈍感ではない。

 今の彼女が異常な状態であることを、星菜は見抜いていたのだ。

 故に星菜は本当なら彼女の予告ホームランに対して「やれるもんならやってみろ」と強気に言い返したいところであったが、ここはあえて違う言葉を選んだ。

 

「楽しいですか?」

 

 何が、とは言わない。星菜はたったそれだけの抽象的な言葉だけでも、今の彼女には意図が伝わるとわかっていた。

 振り向いた雅は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに平静に戻って問いに答える。

 

「楽しいさ。あの時君と別れてからずっと、私はこの時が来るのを待っていたんだから」

「あの時?」

 

 約束したろう? ――そう言い残して、雅は攻撃のベンチへと帰っていく。

 同じくベンチに戻り、ヘルメットを置いてグラブを手に取るまで、星菜はこの心に引っ掛かっているものがさらに煩わしくなっていることを感じていた。

 

 しかしマウンドに上がれば、星菜の心からそのような雑念はたちまち消え去る。

 

 野球は純然なるスポーツだ。今は試合中である以上、星菜は淡々と自分の役割を果たしていくことが優先だと考えていた。

 確かに同じ女子選手として、一人の友人として、小山雅とは話をする必要がある。

 彼女は今、非常に危うい状態だ。この試合を引退試合と銘打っていることもあり、これ以上失うものがない故にその心にはもはや何の躊躇もないだろう。

 

 ――だから、簡単に捨てることが出来てしまう。野球人として大切なものでさえ。

 

 彼女は今、悪い方向に振り切れて投げやりな気持ちで野球をしているのだと――星菜は自身の経験則から、雅の心情をそう推測していた。

 だからこそ、星菜は彼女と徹底的に話し合いたいと思う。もちろん――

 

(この試合を終わらせた後でっ!)

 

 今は、この試合を全力で投げ抜く。三回の裏、より一層強まった思いでマウンドに上がった星菜の投球は、文句をつけようのない完璧な内容だった。

 八番の青葉はカウントワンストライクからスローカーブによってレフトフライに抑えると、九番稲田にはファールで追い込んでから投じた外角低めのチェンジアップを引っ掛けさせ、サードゴロに打ち取る。

そこでときめき青春高校の打順は一巡し、一番の三森左京に戻る。彼にはツーエンドツーの並行カウントから外角低めギリギリ一杯のストレートを投げ切り、球審から気持ちの良いコールが上がる見逃し三振を奪い取ってみせた。

 いずれも一度もスリーボール以上のボールカウントを与えず、勿論四死球は無い。一回裏の三分の二イニングから登板した星菜は、ここまで一人の走者も出さないパーフェクトピッチングだった。

 

 ――そんな星菜の好投に竹ノ子高校の打線が報いたのは、次の四回表の攻撃だった。

 

 この回の先頭、三番の矢部が初球から思い切ったフルスイングを見せる。

 彼が振るったバットは完全にストレート狙いであったが、青葉が投じてきたのは外角のボールゾーンに逃げていく高速スライダーだった。

 しかしそこで青葉の制球が僅かに狂い、本来ならば空振りを奪う筈だったスライダーは捕手の構えたミットよりも僅かに内側に入ってきた。

 故に矢部のバットは会心の当たりではなかったが、その先端に彼のボールを当てることが出来たのである。

 

「走れ矢部えええっ!」

「竹ノ子の韋駄天なめんなやあああっ!」

「うおおおっでやんすうう!」

 

 バットの先端に当たったボールはフェアゾーン、サードの前へと力なく転がっていく。とてもヒット性とは言えない、完全に芯を外れた打ちそこないの当たりである。

 しかし、打ちそこないが幸いした結果であろう。ときめき青春高校のサード稲田は素早く前進するなり素手でボールを掴んで一塁へと送球したが、ヘッドスライディングで伸ばした矢部の両手は間一髪のタイミングで一塁ベースまで届いていた。

 

「セーフ!」

「よっしゃ! 流石矢部君!」

 

 ベンチの声援に応え、自慢の快足を飛ばした結果である。

 記録はサードへの内野安打。相手サード稲田の守備には特に落ち度はなく、上手い具合に死んでくれた打球の勢いと矢部の並外れた走力が生み出した、待望のノーアウトの走者だった。

 

「健太郎」

「わかっている」

 

 そして迎えた、四番鈴姫の打席。ネクストバッターズサークルから左打席へと向かっていく鈴姫に星菜は一つ助言を与えようとしたが、要らぬ心遣いだと彼の背中は語った。

 星菜も鈴姫も知らないが、この時、二人が抱いている思考はほぼ完全に重なっていた。

 

 ――打席に立った鈴姫は考える。

 

(あのスライダーを仕留めるのは難しい)

 

 キレ味が鋭い上に、スピードが速く曲がりの大きい青葉のスライダーは確かに脅威である。左打者に対してはストライクゾーンの外側から入ってくる変化球になるが、このボールが厄介だということに変わりはない。

 しかし。

 

(足の速い矢部先輩が塁に出た今、盗塁を警戒した配球が増える……)

 

 ――ベンチから見守る星菜が、ときめきバッテリーの配球パターンを分析する。

 

 だからこそ、今はクリーンヒットを打つならばスライダー以外の球種に狙いを絞った方が確率は高い。

 その為の舞台準備が、ノーアウトから矢部が出塁したことによって整ったのだ。

 

(さっきの回で星菜に完璧にモーションを盗まれた反省からか、今はしつこいぐらいバッテリーの警戒が強まっている)

 

 ――鈴姫がこの状況で、狙うべき青葉の球種を一本に絞る。

 

 先の回では六道が凡退した為得点することは出来なかったが、それでも星菜の盗塁は確実に効いていた。

 それは打席に立った鈴姫を前にしても、中々一球目を投じず執拗に牽制球を送っている青葉の様子から見ても間違いない。

 存外、青葉春人という男は熱くなりやすい投手のようだ。

 

(狙うは初球……)

 

 ――ベンチから見守る星菜は忙しない青葉のマウンド捌きを見て、ここはあえて待ちにいくべきではないと判断する。

 

 青葉の高速スライダーはストレートと比べてもほぼ球速は変わらない、その名通りの高速スライダーだ。その球速差は数字に表せばほんの五キロ内程度の違いに過ぎず、盗塁阻止に与える影響としては誤差の範囲である。

 実際のところ、コースを間違えない限り高速スライダーが捕手の送球の足を引っ張ることはないだろう。しかしバッテリーがそう思っているかどうかはまた別の話であり――ここでは、先の回で星菜が盗塁を決めた時のボールが偶然にも高速スライダーだったことが幸いしていた。

 

 ――故に鈴姫にはこの時、青葉が一球目に投じてくる球種、コース、高さを予測ことが出来たのだ。

 

(外角高めのストレート!)

 

 それは、まさに予測通りだった。

 コースは外寄り、高さはストライクゾーンよりもボール二つ分ほど外れている。やはり盗塁を警戒したウエストボールであろう。

 しかしその外し方は打席から見て中途半端であり、狙っていれば打てない高さではなかった。

 

 ――鈴姫の走らせたバットが、その真芯にボールを捉える。

 

 大きな打球の行方は瞬く間に左中間を破っていき、ワンバウンドでフェンスに当たって跳ね返ってきた。

 それを確認しながら一塁走者の矢部は二塁を回って三塁へと進み、打者走者の鈴姫は一塁を回って二塁へと到達する。打球を処理したときめきのレフト朱雀南赤から矢のような送球が返ってきたために一塁走者の矢部が一気に本塁まで帰ることは出来なかったが、竹ノ子高校のチャンスは走者一塁からノーアウト二三塁へと拡大していった。

 

「すげぇ……なんだあの打球」

「広角打法だな。アイツ本当に、どんどん成長してるな」

「愛の力は凄いッスねぇ星菜ちゃん」

「愛か。チッ」

「まさしく愛だな」

「……皆さん、なんで私を見るんですか」

 

 外しが甘かったとは言え、ボール球の高さを逆方向の長打コースに弾き返す鈴姫の打力は見事と言うほかない。入学時点でも元々高かった鈴姫の能力はこれまでの練習と実戦によってさらに磨きが掛かっており、星菜には彼がこの先どこまで成長するのか末恐ろしく思えた。

 

「打てよ池ノ川ー!」

「フハハ! 僕としては間を抜ける当たりで良しとしましょう、先輩」

「ったりまえだ!」

 

 一打先制、それも二点をもぎ取れる大チャンスに打席に立ったのは、この試合五番起用の池ノ川貴宏だ。

 この試合の流れを変える重要な場面であり、緊張の場面でもあったが意外にも彼は冷静だった。慎重にボールを見ていき、カウントはワンエンドツーのバッティングカウントとなる。

 

 ――その四球目だった。

 

「オラァッ!」

 

 打ったのは外角のスライダー。こちらもボールゾーンに外れる一球であったが、池ノ川はそのボールに左手一本で食らいついた。

 執念で打ち返した、と言うよりも「当てた」打球は前進守備のセカンドへと転がっていくが、駆け出した三塁走者矢部のスタートが速かった。

 

「っ……ファースト!」

 

 あの足とこの打球では、バックホームしても間に合わない。そう判断したときめき青春高校のセカンド茶来がボールを一塁へと送り、打者走者の池ノ川はアウトになる。

 

 しかしその間に三塁走者の矢部が本塁へと生還し、竹ノ子高校に先制点が入る。

 

 それはタイムリーヒットでなくとも、チーム全体で勝ち取った質の高い一点だった。

 

 

 

 

 

 

「すまねぇ、雅……一点やっちまった」

 

 自らの迂闊なミスで相手に先制点を許してしまったことを、ときめき青春高校の投手青葉が謝る。

 その言葉がこの場で雅に向けられたのは、彼女がこの試合を自身最後の試合にすると決めた引退試合だからか。

 だから、今日で野球人生を終える彼女の為にせめて勝利をプレゼントしてやりたい。それがときめき青春高校の主将であり、チームメイトであり、一人の友人として抱いた青葉春人の思いなのだろう。

 その気持ちはもちろん、雅にも伝わっていた。伝わってはいたのだが……雅はこの時、その優しさに何も感じていなかった。

 

 ――ピッチャーが失点した……それで? それがどうしたというのか。

 

 雅はこの試合の結果そのものに対して、さしたる拘りは持っていない。彼女にとって重要なのは、いかに自分が野球を続ける心残りを綺麗に無くせるかということだけなのだから。

 それをする為にはもはや、泉星菜を倒せれば十分だ。故にチームの勝敗など、彼女にとっては二の次三の次だった。

 

「まあ、いいよ。どうせすぐに取り返せる」

 

 しかし、勝つに越したことはないということもまた確かである。

 尤もそれについても、雅は今のところ全く気にしていなかった。

 

「あの子も所詮、一流になれなかったピッチャーみたいだし」

 

 次の回には自分に打席が回ってくる。そうなれば同点以上は確定しており、雅は自分が居る限りときめき青春高校の打線に得点の心配は皆無だと確信している。

 

 彼女の言葉は決して、慢心などではなかった。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。