外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
二人は親友同士、本当に仲が良かった。
天真爛漫で常に勝気な泉星菜と、おしとやかで大人しい小山雅。二人はまさに正反対な性格であったが、だからこそお互いに足りない部分を補い合うことが出来ていた。
引っ込み思案な雅を星菜が引っ張り、星菜がやりすぎれば雅がそれを止める。まるで姉妹のように、二人の関係は程よくかみ合っていたのだ。
時に雅が向こう見ずな星菜のやらかした問題行動によってとばっちりを受けることもあったが、それでも雅が彼女の存在を鬱陶しく感じたことはなかった。
色々と迷惑を受けることもあったが、それ以上に雅は星菜と居る時間が楽しかった。端的に言って、雅は泉星菜というお転婆な友人のことが大好きだったのだ。
比較的裕福な家庭の中で箱入り娘として大事に育てられていた幼少当時の雅には、彼女のような年齢の近い友人が居なかった。そんな事情も手伝ってか、雅はいつでも元気で明るい星菜と居る時間に大きな幸せを感じていたのである。
――しかし、そんな二人の関係は唐突に終わりを迎えた。
それぞれ雅が九歳、星菜が八歳の頃のことである。お互い同じ学校で小学四年生、三年生への進級を控えていた季節に、雅はある日星菜の口から聞かされた。
『転校!?』
『……うん。あと一か月たったら、もうひっこししなくちゃいけないんだって』
転校――家庭の事情により、星菜が雅の居る町を去ることになったのである。
心苦しそうに別れの話を切り出した彼女の顔にはやはり普段の元気は欠片も無く、この町で最も仲の良かった友人と離れ離れになることへの悲しみの気持ちが浮かんでいた。
彼女にとってもまた、小山雅という少女はその心の中で大きな存在だったのだ。
『そんな……うそだよね……? いやだよ、星ちゃん……!』
『わたしだっていやだよ……っ!』
雅にとって、それはあまりにも残酷な宣告だった。
幼い故に行動範囲が限られている二人にとって、友人の引っ越しは今生の別れと何ら変わりはない。その苦しみは果てしないほどに大きく、揺れる雅の瞳からは耐え難い悲しみとして涙が溢れてきた。
もちろん、星菜の両親とてまだ幼い娘達の為にとこの町を去らずに済む方法を模索してくれた。しかし、その努力も最後まで報われることはなく、二人の別れの日はとうとう訪れることとなった。
『……また会えるよ。うん、ぜったい会おう!』
別れは辛くて仕方がない。だが、それでも……星菜は力強くそう言い切った。
雅ちゃんとはいつか、また会える。だから笑って見送って、と――星菜はこの日まで泣いてばかりだった雅に対して、励ますようにそう言った。彼女自身も、その目に浮かぶ大粒の涙を拭いながら。
『星ちゃん……』
『大丈夫っ! 私ね、プロ野球選手になるんだ。そしたら、またこの町に帰ってこれるよ。だって、この町にはプロ野球チームがあるもん!』
かけがえのない親友との別れを前に、星菜は雅にそう約束した。
泉星菜は、当時から夢を持っていた。プロ野球選手という、この町で小山雅と出会う前から持っていた壮大な夢を。
当時彼女らが住んでいたその町には、プロ野球チームの本拠スタジアムがあった。プロ野球選手にさえなれば、そのスタジアムで試合をすることが出来る。どこに居たって、この町を訪れることが出来るのだと。
だから雅ちゃんともまた会えるのだと――雅がその日までいつも見ていた自信満々な表情で、星菜は言った。
『……本当……?』
『ほんとにほんと! その時は雅ちゃんのこと、球場に呼んであげるね!』
自分がプロ野球選手になることを微塵も疑っていない、自分の将来に対して何の悲観も抱いていない――どこまでも眩しくて輝いていた、泉星菜の宣誓だった。
その言葉を後に、星菜は手を振りながら踵を返す。
瞬間、この町で彼女と過ごした大切な思い出が、次々と雅の脳裏に過っていった。
泉星菜――明るくて元気で……誰よりも優しくて強い。彼女は雅にとって一つの憧れであり……初めて出来た最高の友達だった。
故に雅はこの時、その心に一つの目標を抱いた。
プロ野球選手になってこの町に戻ってくる――星菜がそれを実現させてくることを、雅は信じて疑わない。彼女なら、絶対に出来ると心の底から確信している。
だからこそ、雅は自分自身に問い掛けたのだ。
――自分はただ、その日が来るのを待っているだけか? と。
――星菜と出会う前の、ただ家で大人しくしているだけの自分に戻って良いのかと。
『……私も、なる』
『え?』
自分の傍から立ち去ろうとする星菜の背中に、雅もまた宣誓する。
『私も、星ちゃんと同じプロ野球選手になるっ!』
その時には既に、雅は四年間共に過ごした星菜の影響によって、おしとやかな自分に耐えられなくなっていたのだ。
彼女と同じプロ野球選手を目指す――雅もまた、星菜に対してそう叫んだ。
星菜と同じ目標を持って走り続ければ、いつかそう遠くない日にその道が交わる時が来るかもしれない。幼い子供にとって、十年という年月は途方もない時間だ。それだけの時間をただ黙って待ち続けられる自信が、雅には無かった。
両親は、きっといい顔をしないだろう。それでも必ず説得してみせる。この夢を叶えてみせる。
振り向いた星菜は大人しい雅が初めて見せた決意の表情に驚き、そして笑った。
『……うん! いっしょにがんばろう!』
二人が確かに交わした、確固たる友情の約束である。
『いつか、いっしょに野球しようね!』
いつか訪れる輝きに満ちた未来を信じて――その日、小山雅は野球少女となった。
それは、忘れてはならない筈の記憶だった。
それは、忘れさせてはならない筈の記憶だった。
二人が大人に近づいていくほど、色褪せていった大切な思い出。
雅の十六年の人生にとって、それは最大の分岐点であった――。
「流石じゃな」
「どうも」
攻守交代によってときめき青春高校のベンチに戻ってきた雅が、監督の大空飛翔から賞賛の言葉で出迎えられる。彼女が今しがた行った好プレーは、並のショートにはまず出来ない守備だ。そして何よりも彼女の守備範囲が恐ろしいのは、普通の選手では追いつけない打球を飛び込むまでもなく簡単に捕球してしまったところにある。
彼女にとって、先ほどのプレーはファインプレーでもなんでもない普通の守備に過ぎなかったのだ。
そんな彼女は自身に送られてくる賞賛の声におざなりに対応すると、相手のマウンドに上がる竹ノ子高校の先発投手へと目を移した。
「なんだ、相手のピッチャーはあの女の子じゃないのか」
「前の試合で、鬼力がホームランを打った奴だな」
向こうの先発は泉星菜で来れば良かったのだが、残念ながら全てが雅の思惑通りとは行かなかったようだ。
もちろん相手の先発が違う可能性は雅とて想定していた。これは練習試合だし、言わばお試しの場。決してチームの中で一番良い投手が投げなければならないというわけではないのだ。
「でも向こうの監督もKYッスねぇ~……あれ? そう言えば向こう、監督居ないじゃん! マジッパネェ」
「用事で来れないんだってよ。今日はキャプテンが代わりにやってるらしい」
「ほーん」
この試合における雅の目当てを知るチームメイト達は、あちらの先発投手が泉星菜でないことを知るなり露骨に拍子抜けした顔を浮かべるが、当の雅はと言うといっそ不気味なまでに平然としていた。
相手のマウンドに上がった青山才人という招かれざる客人に対して、別段落胆も怒りも感じていない。彼に向けられる雅の目は、どこまでも虚無だった。
「はっ、雑魚はさっさと引っ込めりゃいいだろーが」
「その通りだ。わかってるな左京、右京」
「おう、二者連続ホームランでも打ってあっちのお姫様を引っ張り出してやるぜ」
イニングは一回の裏、ときめき青春高校の初めての攻撃だ。
この時、ときめき青春高校のチームメイト達は今日で野球を引退する小山雅の為に最高の舞台を作ってやるのだという気持ちで一つに纏まっていた。誰も彼もガラの悪い顔つきをしているときめき青春高校の野球部であるが、不良グループよろしく彼らの仲間意識は人一倍強いのだ。
そして、小山雅自身にもそれだけの人望があった。
相手のマウンドに彼女の花道を飾る相手として相応しい泉星菜という投手が居ないのなら、彼女が出てくるまで徹底的に打ち込んで降板させればいい。先頭の一番打者「三森左京」がそう吐き捨てると、バットを担ぎながら左打席へと向かった。
(……まあ、心配しなくてもこの回であの子は出てくる)
彼らの気持ちが有り難くないと言うと、それは嘘になる。自分の為に泉星菜を引きずり出してくれるのなら、それは大いに結構だ。
しかしその為に彼らがどれほど張り切ろうと、この試合にかけていようと……雅にとってはどうでも良かった。
彼らが頑張らずとも、既に結果は見えている。一番の三森左京、二番の三森右京がヒットを打とうがアウトになろうが、三番の自分が打ち終えた後には既に役者は整うのだということを雅は欠片も疑っていない。
絶対的な確信を胸に抱きながら、雅はなおも無表情でグラウンドを見つめていた。
一番センター三森左京。
二番ライト三森右京。
三番ショート小山。
四番キャッチャー鬼力。
五番レフト朱雀。
六番セカンド茶来。
七番ファースト神宮寺。
八番ピッチャー青葉。
九番サード稲田。
小山雅がショートに入ったことで完成した、ときめき青春高校のベストオーダーである。
始動当初こそ一年のブランクからか、今一つ実力を発揮しきれてはいない様子だった。しかし厳しい夏合宿を経た今、竹ノ子高校の選手達がレベルアップしたように彼らも相応に力をつけていると見て良いだろう。
相手にとって不足は無い。心配なのはこちらの先発青山が、どこまでこの打線を相手に拮抗出来るかというところだ。
(さて……)
何と言ってもこの打線で要注意なのは小山雅である。スコアブックと共にほむらが持っているメンバー表から相手のスターティングメンバーを覗き込んで確認した後、星菜はマウンドの青山を見守る。
その一球目。青山がノーワインドから軽く上体を捻りながら足を上げると、オーバースローから投じたボールがショートバウンドでキャッチャーミットへと収まった。
「ナイスボール」
打席の三森左京が、見逃せばボール球になる筈だったそのボールを空振りしたのだ。青山のボールは捕手が捕る時こそショートバウンドにはなったが、一度はストライクゾーンに入ろうとしてから地面へと
「おお、早速投げたッスね、波輪君直伝のフォークボール」
「意外に……と言うと失礼ですが、フォークはすぐに覚えましたね、青山さんは。私が教えたカーブはあまり上手くいっていないみたいですが」
「あはは、青山君も贅沢ッスねぇ」
「青山はワシらが育てた」
「はいはい名コーチ名コーチッス」
初球はストレートを狙ってくると読んでいたのだろう。要求した六道明も、狙ったところに投げ切ってみせた青山も見事なものである。
このフォークボールは以前のときめき青春高校との試合では投げなかった、もとい投げられなかったボールだ。波輪が教えた結果習得した青山の新しい変化球に、打席の三森左京も首を傾げていた。
「ストライク!」
二球目。今度は左打席の外角低めいっぱいに決まったストレートに、球審が手を上げる。
指に掛かった良いボールだと、ベンチから眺めている星菜はその一球を素直に賞賛する。球速は130キロ近く出ているだろう。入学したばかりの頃とは比べ物にならない威力だと、星菜は青山の確かな成長を感じた。
ツーナッシングと簡単に追い込んだ青山はテンポ良く投球動作に移り、続く三球目を投じる。
こちらも際どいコースに決まったストレートを、打者三森左京が辛うじてカットし、打球は左に切れるファールとなる。
「フハハ! 絶好調ですよ!」
指先の感覚と打者の反応から球で押せていると感じたのか、気を良くした青山がマウンドで歓喜の声を上げる。マウンド上では常にポーカーフェイスであろうとする星菜とは対照的に、彼の態度は端から見ても非常にわかりやすかった。
「ちっ……!」
だが、今のところは言うだけのボールは来ているようだ。
続く四球目。打者三森左京は青山がここでも投じてきたフォークボールに手を出し、当てるだけの形になった打球は力なく一塁へと転がり打ち損じのファーストゴロに倒れた。
青山は見事注目の先頭打者を打ち取り、危なげない形でワンアウトを取ったのである。
「いいぞ、その感じだ。これはひょっとしたら、あいつも結構いい線いくかもしれねぇな」
彼にフォークを教えた張本人である波輪が、そのボールのキレに頷きながら青山の投球を賞賛する。
まだ一人打ち取っただけでは気が早いが、彼が秋までに順調に育ってくれれば竹ノ子高校にとって大きなプラス材料である。強豪校相手では厳しいかもしれないが、面白いところまでは行けるかもしれないと感じているようだった。
「アウト!」
「ナイスショート」
ときめき青春高校の続く二番打者、三森右京に対して青山は先のようにストレートとフォークを有効に扱いながら、最後は内角のツーシームを引っ掛けさせて簡単にショートゴロに打ち取った。
球速はあちらの先発青葉春人ほど速くはないが、丁寧にコースに投げ分ければ十分に打者を打ち取ることが出来る。ここまでの青山のボールはほぼ完璧に制球されており、星菜の持論をその身で体現しているとも言えた。
「いい感じいい感じッス」
「……ですね」
一番、二番を打ち取り、これでツーアウトだ。
そしていよいよ、彼女の打順に回る。
女子選手という異質な存在だからか、はては今の彼女が放っている独特の雰囲気のせいか、彼女が左打席に入った瞬間、グラウンドの空気が変わったように星菜は感じた。
「あの子が、星菜ちゃんの言っていた小山雅って選手ッスね」
「……はい」
小山雅――その第一打席だ。
彼女から感じる張りつめた空気はこの試合が彼女にとっての引退試合であるというプレッシャーからと考えるのが自然だが、どうにも星菜にはそれ以外の理由があるように見えてならない。
スイッチヒッターである彼女は右投手の青山に合わせて左打席に入ると、バットを高く突き出した神主打法の構えを取る。
――そして、第一球目だった。
その一振りは、泉星菜をマウンドへと駆り立てた。
小山雅が青山の投じた一球――外角低めのフォークを打ち返した結果、その打球が彼の右手に直撃したのである。
青山の反応が追いつかない、あまりにも鋭い打球だった。
彼の右手から跳ね返ってきたボールが転々としている間に打者走者の雅は悠々と一塁ベースを駆け抜け、記録はピッチャー強襲の内野安打となる。
雅がヘルメットのズレを直しながらその視線をマウンドへと向けると、予想通り竹ノ子高校の内野手全員が苦い表情を浮かべて投手の元へと集まっていた。
「青山っ!」
ベンチからはコールドスプレーを持った部員と、監督代行を務める波輪が慌てた形相で飛び出してくる。これもまた、雅にとっては想定済みである。
……尤も、彼ら竹ノ子高校の選手達にとっては些か想定外の事態かもしれないが。
「これはお気の毒に」
まるで感情の篭っていない棒読みのような声で呟きながら、雅は密かに微笑む。
しかし気の毒と思っているのは本当だ。ああ、あの青山という投手は不幸としか言いように無い。
彼が身分不相応にもこの試合のマウンドに上がってこさえしなければ、こうして
「まあ、精々突き指か打撲程度でしょ。この試合はもう無理だろうけど、悪く思わないでね」
狙い通り。我ながら、笑ってしまうほど狙い通りである。
痛みから苦悶の表情で右手を押さえている彼には気の毒だが、恨むのなら狙い通りの打球をまんまと打たれてしまった己の未熟さを恨めというのが雅の言い分だった。
バッティングの基本はセンター返しだ。それは野球をしていれば誰もが当然のように教わることであり、今の雅はそれを実践したに過ぎない。ただこの場合は、そのセンター返しの打球が少々低く、速すぎたというだけなのだから。
形からして見れば、グラウンドに居る誰もがそれを不幸な事故としてしか認識出来なかった。
その後、しばらくの間審判からタイムが取られ、竹ノ子高校はボールが直撃した青山の右手の状態をしきりに確認する。しかし結局青山は投球練習すらままならず、竹ノ子高校ベンチからは雅の思惑通り降板せざるを得ないという判断が下された。
青山はベンチで治療に専念する為に悔しそうにマウンドを下りると、監督代行の波輪が球審に向かって告げた。
「ピッチャー交代します」
それは、それこそがこの場で他の誰よりも、雅が待ち望んでいた展開である。
全てはこの「引退試合」の舞台を整える為に。ただ彼女を早期にマウンドへと引きずり出す為だけに、雅は意図的にあちらの先発青山を物理的に退場させる一打を放ったのだ。
別段、そこに悪意があったわけではない。雅はただ、彼を降板させる手段としてこれが最も手っ取り早いと思っただけだ。
(これで、邪魔者はいなくなった)
青山と入れ替わり、グラブを右手に着けた野球少女がグラウンドへと駆け出してくる。
マウンドに上がった彼女の姿を見て、雅は満足げに頷いた。
やはり、彼女こそがその場所に相応しい。心の底からそう思った雅は、熱い情念を込めた目で彼女の姿を見据える。
泉星菜――小山雅にとって愛してやまない、宿敵の姿を。