外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
しなやかなアンダースローから投じられた白球が、鋭い回転を上げて地面へと落ちていく。
早川あおいが投手として絶対の自信を持っていたのがこの「シンカー」である。キレ味は鋭く、変化量も大きい。そして右打者の内角低めから狙った位置にボールを落としていく制球力も正確であった。
そんなシンカーを危なげなくショートバウンドで捕球した小波が、両手でボールの土を拭きながら言い放つ。
「あおいちゃん、今日はここまでにしよう」
この日、延々と投げ込まれてきた彼女のボールの数は既に180球は超えているだろう。上を見上げればつい先ほどまで昼間だった筈の空は茜色に染まっており、そんな空がこれまでの投げ込みに集中していた彼女に時間の経過を思い出させてくれた。
「まだ……あと十球!」
「駄目だ。いくらなんでも投げすぎだよ。昨日だって150球以上投げているんだから」
一心不乱にボールを投げ続けるあおいに対して、捕手でありながらも彼女のストッパー役でもある小波は冷静な判断を忘れなかった。
あおいが人一倍努力家なのは知っているし、そも彼を含む野球部の皆はそんな彼女の美徳に魅かれて集まってきた男達ばかりだ。しかし、何事にも限度というものがある。彼女が何を目指してこうして投げ込みを行っているのかはもちろん理解しているが、それでもこれ以上のオーバーワークは許容できなかった。
「じゃあ後五球だけ投げさせて! お願い……! あと少しで掴めそうなの!」
「掴めそうって……疲れでフォームが崩れ始めているのにかい?」
「それは……っ」
「そのフォームでもコントロールを大きく乱さないのは流石だよ。正直、僕は今まで君のスタミナを侮っていた。だけど、過ぎたるは及ばざるがごとしだよ。練習の為の練習をしたって意味が無いんだ。どんなに上手くなっても怪我をしたら元も子もないんだし」
あおいの方とて、これ以上の投げ込みが過度な練習だということは疲労で重くなった右肩から理解している筈である。
しかし、感情の部分が彼女にそれを認めさせなかった。小波の指摘に返す言葉を言い淀んだ後、彼女は苛立ちを募らせた表情から怒気を込めて言い放った。
「今さらっ! 怪我なんか怖くない! つべこべ言わずさっさとボールを渡しなさい!」
それは、彼女の中で積み重なっていたこれまでの感情が爆発した結果でもあった。
一向に先行きの見えない女子選手の立場に、先日出会った野球マンのこと。望んだ成果を得られない練習の日々。……これまでがずっとそうであったように、一向に思い通りに行く気配のない現状にあおいは叫んだ。
「私なんか、怪我したって関係ないじゃない! どうせ……! どうせ私は……試合に出ないんだから……っ!」
彼女とて、焦っているのだ。
恐れてもいた。
このまま一向に改善の兆しが見えないまま、運命に従って野球から離れていきそうな未来が怖かった。そんな自分に変わってしまうことを、あおいは心の中で恐れていたのだ。
泉星菜という同じ志を持つ後輩の前ではそう言った自分を見せない彼女であるが、元来早川あおいという少女は冷静な人間ではなかった。
しかし、彼女のボールを受ける小波は今ここでその感情をぶつけてくれて良かったと思った。
彼女の今の態度は子供のような八つ当たりにしか過ぎないだろう。しかし、吐き出せばその分楽になる。またそこから始められる。
なまじストレスを溜めに溜めた結果最悪なところで爆発させてしまった幼馴染が居るだけに、小波には彼女までもそんな目に遭ってほしくなかった。
「……投げやりなこと言わないでくれ、あおいちゃん。誰が何と言おうと、君はうちのエースだ」
小波は彼女の感情を察した上で、そう言い返す。
幼馴染の野球少女ほどではないが、彼女もまた不器用な人間だ。それがわかっているからこそ、小波の言葉は穏やかだった。
そして、その次は叱責である。小波は眉間にしわを寄せ、強い言葉で言い放った。
「だから君も、怪我をしていいなんて二度と言うな。そんなことは僕が絶対に許さない」
「……っ」
同情や哀れみは、彼女にとっては不愉快なものにしかならない。
それを理解しているからこそ、小波はただ必要な事実を述べた。
彼女は恋々高校のエースだ。他の誰もがそれを認めなくても、恋々高校の野球部員は、小波大也は認める。
どこのチームに自分のところのエースを潰す馬鹿がいるものかと、小波はそう言い返す。それがあおいにとっては効果的だったようで、あおいは申し訳なさそうに頭を下げた。
「……ごめん。つい、カリカリしちゃって……」
「大丈夫さ、秋までまだ時間はあるんだ。焦らず、じっくりいこう。ここで無理をして身体を壊したら、折角の公式戦も出れなくなるんだからね」
「私、本当に出れるのかな……」
「野球部のみんなと竹ノ子高校の人達と、加藤先生も協力してくれているんだ。絶対に出れるさ」
でなきゃ、みんなで高野連にテロでも起こそうか。冗談めかしながらそう言って、小波はあおいの心を励ます。
彼女の努力を間近で見続けてきた彼だからこそ、報われてほしいと切に願う。
中学時代のいざこざから、小波は一度は野球から離れようとした。だからこそ小波は当時野球部のなかったこの恋々高校に入ったのだが、彼は今もまだこうして野球を続けている。
それは何故か? ――勇気をくれた人が居たからだ。
早川あおいという、誰よりも野球を愛し、努力する人がこの学校に居た。
彼女の存在が、小波大也に野球への情熱を取り戻させてくれたのだ。
「ありがとう、小波君……でも、もう一球だけお願い。それで、今度こそ終わりにするから」
「……わかった。悔いが残らないように、思い切り来なよ」
既にオーバーワークの域に達しているが、意地でも折れようとしない彼女の姿勢に妥協点を見つけて小波はやむなくボールを返す。
捕手の姿勢でしゃがみ、ど真ん中を要求して大きく構える。ここでの投げ込みの球種は彼女に一任している為、小波は自分からはサインを出さなかった。
「シンカー、行くよ」
「オーケー」
この日投じた200球近い投球の中で最も多く投げ込んだ球種、シンカーを宣言し、あおいはワインドアップから大きく振りかぶる。
あの日、野球マンを名乗る奇妙な乱入者に完膚なきまでに叩きのめされてから、あおいは彼とのリベンジの為、そして何よりも自分自身のレベルアップの為に一層ハードな練習に取り組んできた。
その一つが、このフォーム改造である。
元々あおいには並外れた制球力があった。野球マンとの勝負でも、決して最初から投げミスをしていたわけではないのだ。
だがそれでも、制球力だけでは勝てなかった。小手先の技術だけではどうにもならないほどの天才が、彼女の前に現れてしまったのだ。
……彼に負けたことは今でも夢に出てくるほど悔しい。しかし、負けたからこそあおいは次のステップを踏むことが出来たとも言えた。
敗北が人を育てるか、或いは腐らせるか。それは実に人それぞれであるが、今のあおいは決して――野球マンに負けた時までのあおいではなかった。
「ッ!?」
以前よりも身体全体を使ったフォームで、テイクバックを大きく下から振り払った右腕から、小波がこれまでに見たことのないスピンの掛かったボールが迫っていく。
彼女が宣言したのは、間違いなくシンカー――直球の軌道から利き腕のクロス方向に曲がり落ちる変化球だった筈だ。
しかしこの時投じられた一球は、彼女がこれまでに投げたどのシンカーよりも速く、大きく、鋭かった。
――かの天才猪狩守からも名捕手と認められていた筈の小波大也のミットを掠り、完全に捕り損ねてしまうほどに。
それは、後に高校野球界を席巻することになる魔球、「マリンボール」が誕生した瞬間だった。
その日、空は快晴の野球日和だった。
普段サッカー部等他の運動部と共用している竹ノ子高校のグラウンドだが、この日は野球部だけが貸し切りの状態だった。それは無事他校との試合を行えるだけのスペースがこのグラウンドに確保出来たということでもあり、普段よりも広々とした空間には今、竹ノ子高校とときめき青春高校の二校の選手達が整列して対峙していた。
「この日が来るのをずっと待っていたよ」
お互いのチームに挨拶を交わし、一同がそれぞれのベンチに戻ろうとする中で、金髪の少女が同様に竹ノ子高校のベンチに戻ろうとしていた星菜の背中へと語りかけた。
筋骨隆々と言った体格の高校球児達の中で一際異彩を放つ二人の少女――泉星菜と小山雅。
呼び掛けられて足を止めた星菜は雅の方へと振り向き、その表情を窺った。
「……雅、ちゃん……?」
声からも異変を感じていた。
いや、もっと言えば一昨日掛かってきた電話の時からだ。始めは自身最後の試合に赴くことへの緊張からかと思っていたが……星菜は彼女の表情を見て自身の認識の間違いに気づいた。
まるで、氷のようだ。表情には一片足りとも綻びはなく、星菜の知らない小山雅の表情がそこにあった。
そして、ただ冷たいだけではない。金色の瞳からは試合に対する喜び、憂い、執念が……そして、星菜には身に覚えのない強い「憎しみ」のような感情が感じられた。
あまりにも複雑な思いを滾らせている眼差しに、星菜は得体の知れない恐れを抱いた。
「雅ちゃん、貴方は……」
「良い試合にしようね。フフ……星ちゃんとの勝負だぁ……」
そんな表情をした雅に対して疑問を感じた星菜が問い掛ける前に、彼女は踵を返して自身の守備位置――ショートへと歩いていった。
今から行われる竹ノ子高校との練習試合が引退試合になると、彼女は言っていた。
しかしどうにも、長年続けてきた野球の花道を飾るには不穏すぎる雰囲気を感じながら、星菜は竹ノ子高校側のベンチへと戻っていった。
一番ピッチャー青山。
二番キャッチャー六道。
三番センター矢部。
四番ショート鈴姫。
五番サード池ノ川。
六番ファースト外川。
七番レフト石田。
八番セカンド小島。
九番ライト鷹野。
この日、予定通り不在の茂木林太郎に代わって監督を代行する波輪風郎が読み上げた、今回のスターティングメンバ―である。
攻守の大黒柱である波輪が欠場せざるを得ない中、監督の茂木が部員達の夏休みでの成長を加味して組みなおしたのがこの打線の並びだ。中でも成長著しいと見ているのが、矢部明雄と青山才人の二人である。
矢部は今年最初の練習試合で犯してしまった悔しいエラーをバネに、練習への姿勢を改めて以降は目覚ましい活躍をしている。
青山もまた、鈴姫を除く一年生の中ではこの夏で最も伸びた選手と言っても過言ではないだろう。自信のつく結果としてはまだ現れてはいないが、星菜の目から見ても彼は間違いなく入部した頃のそれとは一段も二段もレベルアップしている。
彼に関しては監督の茂木がプロにまで行きかけた元投手であり、先輩には波輪風郎が居たことが大きいだろう。二人の教えから得るものは大きいようで、春よりも球速は大きく上がり、使える変化球の数も増えていた。星菜もまた求められれば彼に指導する立場に回ることもあり、当人の要望でカーブの習得やフォームチェックなどを手伝うことがあった。
普段タカビーな発言が目立つ青山であるが、彼もまたマウンドを背負う者の一人として恥じない努力を行っているのだ。茂木が今日の先発に星菜ではなく彼を起用したのも、そんな彼の成長を買ってのことだった。
「フハハ! ここは僕の先頭打者ホームランで、自援護と行きましょうか!」
「出来やしないこと言ってないでさっさと行ってこいや」
試合前の取り決めにより、この練習試合では竹ノ子高校は先攻、ときめき青春高校は後攻となっている。
あちらの先発投手の
「……時々、ああいう根拠のない自信が羨ましいと思います」
「あー、ほむらも時々そう思うッスね。青山君はあれさえなければ有望な一年生なのに」
思わず呟いた星菜の言葉に、隣に座るマネージャーのほむらが同意見を返す。
常に自信家で、前向き。あいつは現実が見えているのかと疑問に思うこともあるが、彼の野球に対するポジティブな姿勢はネガティブで傷付きやすい星菜にとっては掛け値なしに見習うべき点であった。
「プレイ!」
球審には高校野球連盟から来た大人の審判が、塁審にはホームグラウンドである竹ノ子高校の一年生達がそれぞれつく。
そして球審の口からプレイボールの声が掛かり、二校の練習試合が始まった。
ときめき青春高校の先発投手は朱雀南赤ではなく、青葉春人だった。テイクバックの大きいサイドスローから投じられるボールは朱雀ほどの球速はないが140キロ前後のストレートとカーブ、そして変化の大きな高速スライダーが武器の本格派右腕である。
彼がリリーフとして出てきた以前の試合では、竹ノ子高校のナインは鈴姫以外誰一人としてヒットを打つことが出来なかったものだ。
(私はフォアボールを選ぶことが出来たけど……みんなにはまたきつい相手が来たもんだ)
奥居にあおいに皆川に阿畑に朱雀に青葉と……公式戦を含めて、つくづく竹ノ子高校が試合をするチームには好投手ばかり揃っているものである。それだけ近年の高校野球にはレベルの高い投手が揃っているということでもあるが、たまには普通のピッチャーと戦いたいとぼやく矢部の気持ちもわからなくはなかった。
実際のところ、彼ら超高校級の投手を相手にするには竹ノ子高校の打線はまだ貧弱である。波輪が復帰すれば秋までには形になるかもしれないが、それでもこの激戦地区で甲子園を目指すには心許ないと言えた。
「ストライク! バッターアウト!」
その弱点を露呈するように、早速たった三球で凡退してしまった一番青山がベンチへと帰ってくる。
投手の青葉が彼に投じたのはストレート、ストレート、スライダー。それぞれ見逃し、見逃し、空振りという内容の悪い三振であったが、無理もないだろう。青葉のキレを前にしては、彼にはまだ荷が重いと言わざるを得なかった。
三球三振という結果に彼が一番打者の役割を果たせたかどうかははなはだ疑問だが、取り敢えず青葉の調子がすこぶる良さそうだということはナイン全員に伝わってきた。
「ストライク! バッターアウト!」
続く二番六道も呆気なく三振に倒れる。こちらは変化球でカウントを取ってから、決め球にはストレートの空振り三振だった。
「……前よりもボールが来ているぞ」
「心配無用でやんす。今度こそオイラの華麗なバッティングを見せるでやんす!」
打席に立った感想を忠告として伝える六道と擦れ違いながら、リードオフマンとしてではなく初めて三番打者として出場した矢部が打席へと向かう。
頼もしい発言をするに当たって、矢部明雄という男には決して実力がないわけではない。
しかし、何故かその背中が頼もしく見えないのもまた矢部明雄という男の愛嬌めいた特徴であった。
「言っちゃなんだけど、三番矢部君ってなんか暗黒臭がしない?」
「キャプテンがそんなこと言っちゃダメッスよ! ……まあ、ほむらもそう思うッスけど」
「どうにも矢部先輩は、得点圏になると力んで凡退することが多いですからね。でもリストの強さと言い走塁技術と言い、あの人の野球センスはどこに出しても恥ずかしくないと思います」
冗談めかしながら矢部明雄の頼りなさを語る波輪に苦笑しながら、星菜は後輩の立場として副主将の存在感にフォローを入れる。
ちゃらんぽらんな本人の器質からか確かに小物的な部分は見受けられるが、それでも矢部明雄という選手はチームの中軸に相応しくないわけではないのだ。
「間違いなく、このチームでは二番目に良いバッターですよ。矢部先輩は」
身体能力もあり、野球センスもある。将来的にどこまで成長するのか楽しみな選手だという評価は、星菜の中でも偽らざる思いだった。
そう、星菜が言った次の瞬間だった。
「打った!」
「まじか!?」
矢部明雄の第一打席目。青葉が投じた初球だった。
彼が内角に目掛けて投げ切った渾身のストレートを、矢部は狙いすましたかのようなフルスイングでジャストミートする。
白球は弾丸のようなライナーで瞬く間にレフトの頭を越していくと、フェンスとして張り巡らされた柵へと突き刺さっていった。
「いいぞ矢部君!」
「流石、足は速いッス!」
レフトがボールを追っている間に打者走者の矢部は一塁を回り、ボールがショートの中継に渡る頃には既に二塁を陥れていた。打球の速さが災いして単打になってしまう恐れもあったが、矢部の俊足の前には要らぬ心配だったようだ。
「やるッスね矢部君! でも、星菜ちゃん。そこまで持ち上げておいてさらっと二番目って明言しちゃうのはどうッスかねぇ……なんか引き立て役みたいなニュアンスを感じるッス」
「え?」
「まあ矢部君なら二位でも満足しそうだし、いいんじゃないか。しっかし信頼してるんだな、今のうちで一番良いバッターのこと」
「……打率的に言っているだけです」
これでツーベースヒット。二者連続三振の後に生まれた思いがけない得点のチャンスである。
この勝負どころの場面で現れるのはこの試合の四番打者――波輪が怪我してからはこの座を一人で守っている、現状のチームで「一番目に良いバッター」の鈴姫健太郎だった。
(さて、どうなるかな……)
合宿での試合では、鈴姫は唯一この青葉からヒットを放っている。その時は青葉がカウントを取ろうと投じた外角のストレートを上手く捌き、レフト前に運んだのだ。その時もまた、出会いがしらの「初球」だった。
「ボール」
今度もまた初球を狙われているかもしれない。そう判断したのであろう相手側のバッテリーが、まずは緩いカーブを低めに外してきた。
ツーアウト二塁と迎えたこの試合最初のピンチに、あちらも慎重に攻めて来ていると星菜は感じる。
二球目、今度は緩急を生かした球威のあるストレートが
「ふんっ!」
三球目、青葉は自身の最大の武器である高速スライダーを選択した。
投じられたボールはストレートに近い球速から大きく変化し、外角のボールゾーンから曲がってキレ良くストライクゾーンへと入ってくる。
それは左打者の目からはベースよりも大分遠くに見える一球であり、打つことが出来ないと見逃しても仕方のないボールだった。手を出すにしても外角一杯に制球された難しいボールであり、ここは見送って次の一球に掛けるのが得策であろう。
普通の打者であれば。
一閃。鈴姫のスイングが、完璧なタイミングでボールを捉えた。
瞬間、彼が振り抜いた金属バットから快音が響く。
鈴姫はこの一球、青葉が得意とするボールゾーンから外角に入ってくる高速スライダーを狙っていたのだ。過去に一度勝負している投手である以上、青葉の実力は知っている。左打席からは遠くに見えても必ずストライクゾーンに入ってくる筈だと、青葉の高速スライダーの変化と制球力を信頼しているからこそ出来た思い切りの良い打撃だった。
「よっしゃ!」
「先制だ!」
痛烈な打球は投手青葉の真横を通り抜けていき、ベンチの選手達が喜びの歓声を上げる。
二塁走者矢部のスタートは速く、このタイミングならばセンターからのバックホームは間に合わない筈だと。その時、誰もが先制点の奪取を確信していた。
――しかし、その期待は一瞬にして裏切られる。
二塁ベースを抜けていき、センターの前へと転がっていく筈だった打球は、即座に横合いから割り込んできた
「っ……!」
打球のスピードは速かった。
飛んだコースも完璧の筈だった。
星菜はその瞬間、我が目を疑った。センター前へ抜けていくタイムリーヒットとなる筈だった鈴姫の打球は金色の遊撃手によって飛び込むまでもなく阻まれ、優雅なステップから投じられた一塁への送球によって打者走者はアウトにさせられたのである。
何故、ショートがそんな場所に居るのか。それは、打った当人である鈴姫もまた驚愕している様子だった。
確かに二塁に走者が居た為、ショートの守備位置は定位置よりもやや右寄りになっていたが……そんな要因を踏まえても、彼が完璧に捉えた痛烈な打球は捕られる筈がなかったのだ。
それこそ、名手である鈴姫自身がショートを守っていたとしてもだ。
「サンキュー! やっぱ茶来のショートよりも頼りになるぜ」
「これぐらいは、当然さ。でも青葉君、配球が単調だよ。今回は予測しやすいバッターで助かったけど、私だっていつもあんなところを守っているわけじゃないんだから気をつけなよ」
「あ、ああ。気をつけるよ」
相手のショート、小山雅は予め鈴姫のスイングのタイミングを読み切っており、最初から打球が飛んでくる方向を予測していたのだ。そして青葉が足を上げた瞬間僅かに右寄りにポジション取りを変えることによって、二遊間のヒットコースを狭めていたのである。
しかし、だからと言って今の鈴姫の打球ほど速ければ普通は抜けていく筈であり、それは彼女のあまりにも広大な守備範囲が無ければまず生まれない好プレーだった。
「雅ちゃん……」
小山雅。最初から警戒はしていたが、それでも想像の上を行く彼女の実力を感じ取り、星菜は思わず畏敬を込めて彼女の名を呟いた。
一方で小山雅はそんな星菜の声を聴いていたかのようにちらりとこちらを一瞥すると、不敵な笑みを浮かべてときめき青春高校のベンチへと戻っていった。
一回の表が終了。彼女の引退試合は、始まったばかりである。