外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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きっと、果たせたかもしれない約束

 

 彼女が居なくても、どこかで野球を始めていたとは思う。

 しかし彼女が居なければ、男の世界である野球に対してこうまで執念深く打ち込むこともなかっただろう。

 

 彼女の方はきっと、覚えていないのが残念なことだ。

 

 あの日、彼女と別れた時、小山雅がその後どれほど辛い思いを抱えることになったのか。

 泉星菜という存在が雅に対して、どれほど大きな影響を与えていたのか。

 

 幼少の頃の記憶というものは得てして大切なものであるが、儚く消えてしまいがちなものだ。時の流れは残酷という言葉があるように、昔は仲良くしていた友達との思い出などは精神と身体の成長と共に酷く曖昧になってしまい、夢の出来事のように忘却してしまうか、或いは都合の良い脚色を足したりなどして美化されがちなものだ。

 彼女が過ごしたであろう激動の時間を思えば、彼女が雅との思い出を昔のまま綺麗に保存しておけなかったのも無理はない。だから雅は、このことを彼女が忘れているからと言って、それを咎めようとする意思はなかった。

 だがあの日、二人がまだ小学校もまだ低学年だった頃――小山雅と泉星菜は確かに交わした筈だった。

 

『いつか、いっしょに野球しようね!』

 

 ――どこかできっと、果たせたかもしれない約束を。

 

 

 

 

 

 

 あの頃はまだ、何も苦労を知らなかったから。

 抱いた夢に対して、どこまでも純粋に追いかけることが出来たから。

 

 だが今は、今の小山雅にはそれが出来ない。あの日思い描いた未来を選ぶことなど、既に出来はしなかった。

 

(私達はもう選ばされたんだ……目の前にあるのはあれも駄目、これも駄目な現実さ。だからやめた方がいいんだよ、野球なんてものは)

 

 竹ノ子高校のグラウンドの外れから野球部の練習風景を眺めながら、雅は思う。

 遅刻寸前まで呼び止めたお詫びに星菜をバイクで送り届けたついでに、雅は竹ノ子高校野球部の練習を見学することにしたのだ。友が練習をしている姿をこの目で一度見ておきたかったし、彼女が所属している野球部のレベルも少々気になった。

 竹ノ子高校と言えば世間的にはエースの波輪風郎のワンマンチームという印象が強いが、肝心の波輪が右肩の故障によって投げられないでいることもまた雅は知っている。しかしもし彼が万全の状態で投げられるのなら、雅とて真っ先に勝負を吹っ掛けていたところだろう。

 彼もまた、雅に野球を諦めさせることが出来たかもしれない才能の持ち主だったのだから。

 

「でも、怪我なんかしちゃったら折角の才能も全部無駄になっちゃうね。本当に残念だよ」

 

 野球部が活動をしているグラウンドに、彼の姿は見えない。噂通り、やはり彼の右肩の具合は思わしくないのだろう。

 人よりも恵まれた才能を持って生まれて、相応の努力もしておきながら、思い描いたように行かない現実がそこにある。雅にはそれが実に悲しいものだと思う一方で、何とも間抜けな話だと思った。

 卓越した実力がありながらそれを生かすことの出来ないもどかしさは、どこか今の自分とも重なって見える。

 

 ……やめよう、妙な感傷を抱くのは。

 今私はここで、竹ノ子高校野球部の見学をしているのだから。

 

「……良い選手も何人か居るけど、随分と極端な野球部だね」

 

 雅がしばらく練習を眺めていると、グラウンドでは監督自らのバットによるシートノックが始まった。

 ポジション別に着いて打球を処理するこの守備練習は、わかりやすく実戦を想定したものである。そして雅の目を持ってすれば、打球処理の動きを一度見ただけでも誰の守備が上手いのか下手なのかは一目で理解することが出来た。

 雅が竹ノ子野球部の中で上手いと感じたのは、星菜を除けば三遊間とセンターの瓶底眼鏡の男だ。特にショートを守る色男の守備力は、驚愕に値するレベルのものであった。雅の守備とも遜色は無いように見え、地肩の強さで言えばあちらの方が上回っているぐらいだろう。そして高い身体能力を頼りすぎない基本に忠実なフィールディングは、個人的に雅の好みに合致していた。

 

「あれが鈴姫健太郎……星ちゃんの旦那さんか」

 

 ここに本人が居ないことをいいことに、雅は意地悪な笑みを浮かべながらそう呟く。星菜自身は否定していたが、話を聞いた限りではどう考えてもそのようにしか思えないのだから仕方が無い。

 しかし、彼女が仲の良い友人に対して男と女の仲になることを頑なに否定したがる気持ちは、雅にもよくわかっていた。何より野球のことを考えなければならない今の彼女では、「そういう気持ち」にはなれないのである。彼女ら野球少女は、女としてはどこまでも不器用な人間であった。

 

「だけどロマンのある話だよね。小さな頃から友達だった女の子と男の子が、高校生になった今でも同じ夢を追いかけて、同じ舞台に立とうとしているなんて……まるでドラマや映画みたいだ」

 

 現実はそうそうドラマや映画のようには行かないことを、雅はこれまでに散々思い知らされてきた。しかしそれでも、雅の心のどこかには彼女らのことを羨ましいと思う気持ちがあるのかもしれない。

 彼女らを否定したい思いと、応援したい思い。複雑な二つの思いが、雅の心には確かに混在していた。

 

「ねえ、君もそう思うでしょ?」

 

 このまま一人でじっと見ているだけでは、余計なことまでも考えてしまいそうだ。そう思った雅は、気を紛らわせる為に、適当に近くにいた少年へと声を掛けることにした。

 雅が声を掛けたその相手は彼女から五メートルほど横の位置に立ち、先程から静かに野球部の練習風景を眺めていた少年だった。

 

「おーい、君だよ。そこの君」

「えっ? ぼ、僕!?」

「そう、そこの丸っこい君のこと」

 

 唐突に話を振られたからか、もしくは集中していたからか。中々こちらの声に気づかない少年の元へと近寄りながら、雅が再度呼びかける。

 近づいてみてわかったが、思っていたよりも大柄な体格である。身長は180センチ近くあり、胴回りの広い体型は華奢な雅と並ぶとまるで丸太と割り箸だ。

 しかしその身体はただだらしなく太っているわけではなく、二の腕の筋肉は引き締まっており、見た目からは想像し難いがテニスでもやっているのだろうか、彼の手には幾つものマメも見えた。

 横から急に呼び掛けられる形となった丸っこい少年は慌てた様子で雅の側へと振り向くと、挙動不審に言葉を返した。

 

「ぼ、僕は本当にお似合いだと思うよっ、あの二人は。む、昔から仲が良かったし、いつも一緒に頑張ってたから……」

「ん、なに君? 君、昔からあの子達を知っているような口ぶりじゃない」

「あっ……え、えっと……」

「ああ、ごめん。急に話しかけて悪かったね」

「い、いえ、とんでもございませんっ」

 

 雅としては気まぐれに話しかけただけだが、どうやら彼は二人とは昔からの知人らしい。

 しかしまあ何とも大柄な見た目に反しておどおどした態度である。雅が前に居た「ときめき青春高校」には居なかったタイプの男子であり、雅にとってはなんだか新鮮な気分であった。

 同級生かなと思って話しかけたのだが、こう見えて歳下の一年生なのかもしれない。尤も今の雅は、例え相手が先輩であろうと自身の態度を変えるつもりはなかったが。

 

「昔から野球が上手かったでしょ、女の子の方は」

 

 客観的に見た自身の親友の評価等、少々気になった雅は彼に問い掛ける。答えないならそれでも構わなかったが、数拍の間を空けたものの彼は律儀に答えを返してくれた。

 

「は、はい。泉さんは小学生の頃から、何でも出来ました。どこを守っても僕より上手でしたし、僕よりもずっと、ずっと凄いピッチャーでした……みんなやっつけて優勝したんです」

「あの頃の敵は猪狩兄弟しか居なかったって、あの子は懐かしそうに言ってたね。過去の栄光というのはよくある話だけど、本当に残念だよ。あの子が男の子でさえあったら、今でも猪狩君と比べられるレベルだったろうに」

 

 リトル時代の星菜がいかに優秀な選手だったかは、本人の口からも思い出話として聞いている。

 そして彼の話を聞く限りでは、客観的に見ても当時の彼女は相当に高い次元にあったのだろう。それが過去の話で収まってしまうことは、彼女の友人として寂しく思えた。

 

「い、今でも!」

「ん?」

 

 グラウンドで皆と共にノックを受けている彼女の姿を眺めながら感傷に浸っていると、雅にとっては思わぬところで少年の言葉が割り込んできた。

 

「今でも、泉さんは凄いです! 女の子なのに、野球が上手くて……僕とは違って、ずっと諦めないで頑張っていて……っ」

 

 まるで彼女の努力を知っているような口ぶりで、彼は声を荒らげて言った。

 その言葉からにじみ出ている感情を、雅は知っていた。それはどこか、今の自分が抱いているそれと通ずるものがあったのだ。

 それは、持たざる者による持つ者への渇望――自分には無い物を持っている存在に対する憧憬、或いは嫉妬か。

 雅はそう言った感情を察知する感覚には、昔から優れている方だ。丸っこい少年の方も、今は自らの気持ちを隠す気は無いようであった。

 しかしたったここまでの会話だが、雅には何となく彼の素性を推測することが出来た。

 

「君はもしかして、丸林隆って名前かい?」

「えっ? どうしてそれを……」

 

 これも思い出話として、星菜から聞いた話だ。

 星菜が小学生時代に所属していたチームには、自分以外にもとても優秀な投手が居たと。

 その子の名前は丸林隆。星菜にとってはエースの座を争ったライバルであり、誰よりも頼りになる抑え投手だったと。

 そして雅はその投手のことを、多少の情報ならば星菜から聞く以前からも知っていた。

 

「どっかで見たことある顔だなと思ったけど、いつだったか前に見た新聞の写真だ。丸林隆……確か、中学軟式の準優勝投手だったっけ」

「ぼ、僕のことを知ってるんですか?」

「私、記憶力は良い方なんだ。興味のあることはそんなに忘れないよ」

 

 細かいところまでは覚えていないが、彼のことはどこかの新聞紙で少し話題に挙がっていた記憶がある。

 中学生ながら最速140キロに迫る剛速球を誇り、軟式球ながら変化球の切れ味も抜群。あかつき大附属や帝王実業高校等甲子園常連の名門校からも注目されるスーパー中学生だったという情報に、雅は目を通した覚えがある。

 写真で見た顔も目の前にある丸っこい特徴的な顔だったからか、何となく印象に残りやすかったのも覚えていた理由の一つだろう。違っていたら少し恥ずかしいが、彼の反応を見る限り雅の推測は正しかったようだ。

 

(奇妙なもんだね……)

 

 星菜の練習を見に来たら、かつて星菜と共に野球をしたチームメイトと出会い、そのチームメイトは中学時代に名を馳せた好投手だったとは、人の縁とは奇妙なものである。

 さらに言えばこのような小さな高校に、その二人が共に入学していたこともまた奇妙だった。星菜に鈴姫健太郎に丸林隆、同じリトルに所属していた三人が中心となって甲子園を目指せば、それはそれはさぞ面白い青春物語となっただろうにと、雅は有り得たかもしれない光景を想像し、苦笑する。

 しかし現実として彼が今野球部の練習に混じっていないということは、つまりはそういうことなのだろう。

 

「でも、そんなどうでもいいことはもう忘れることにしたよ。あのピッチャーは今どこの高校でやっているんだろうなって考えたこともあったけど、君はもう野球をやめたみたいだし、興味もすっかり無くなったから」

「っ……」

「無様なもんだね。そうやって、野球をやめた癖に未練たらたらな目で野球部の練習を見ている気持ちは、私にはとても理解出来ないよ」

「だって……だって僕はっ……」

「もしかして、高校でも自分のエラーでチームに迷惑をかけるのが怖いのかい? 怪我とか、単純に野球がつまらなくなったのがやめた理由なら仕方が無いけど、それが理由だったらちょっと笑っちゃうね。そもそもメンタルが野球に向いていなかったとしか言い様にない」

「……! そ、そのことも知ってるんですかっ?」

「あれ、ビンゴだった? はは、馬鹿馬鹿しい。そんなしょうもない理由で野球がやれないんだったら、君のチームメイトだった人達はさぞや満足だろうね」

「……っ……あ、あなたに何がわかるんですか……!」

「そうだね、わかりたくもなかったよ」

 

 雅の記憶している新聞の情報では、丸林隆の率いるチームは決勝戦で、優勝まであとワンアウトのところで逆転負けを喰らい、惜しくも敗北を喫していた。その逆転負けの引き金となったのは投手丸林自身による痛恨の悪送球である。

 エラーがトラウマになって、野球が怖くなったのではないかと――雅の言った言葉は大した根拠もない質問だったのだが、勘が良いことにどうやらこちらも的中してしまったらしい。

 彼の立場からしてみれば、名前も知らない初対面の人間に自身のトラウマを心無く抉られるという実に迷惑な話だ。

 雅としても、この時は何故そのような言葉が己の口から出てきたのかすぐにはわからなかった。

 彼と自分は初対面の人間同士であり、彼が何故野球部の一員としてあの場に居ないのかなどは本来聞いてどうにかなる話でもない。

 あ、そうなんだ、と――たったそれだけで、雅は彼との会話を切り上げれば良かったのだ。

 しかし今の雅の心には、そう出来ない理由があった。

 

(こいつは私達とは違って、いつでも舞台に上がれる癖に……!)

 

 心に沸き上がっているこの苛立ちだ。

 苛立ちの理由は、持たざる者が抱く「持っている癖にそれを使おうとしない者」への深い嫉妬心である。

 誰が自分の道をどう選び、何を思おうとそれは個人の自由の筈だ。しかし赤の他人である雅がそれを指摘し、あまつさえ頭ごなしに否定することは、もはやエゴの押し付けでしかないのかもしれない。

 彼とて彼なりの理由があって、野球部には入らなかったのだろう。初対面の名前も知らない人間に対して、あれこれと言われる筋合いは無い筈だった。

 

「ぼ、僕は……!」

「……ごめんね、名前も知らない女の子にそんなことを言われる筋合いは無いよね。悪かったよ」

 

 何か一つ、苦し紛れのように言い返そうとした丸林少年に対して、冷静になって自らの発言を省みた雅が頭を下げる。

 雅とて、頭の中では自分の心情が無茶苦茶であることはわかっているのだ。しかしその気になればいつでも舞台に上がれる丸林隆とは違って、舞台に上がろうとしても不可能だという現実を突きつけられた人間である雅には、冷たい言葉の一つも言わずには居られなかった。彼に対して、苛立ちを感じずには居られなかったのである。

 

(……本当に何様のつもりなんだろうね、私は)

 

 どうかしている。

 自分自身で思っていた以上に、小山雅という人間は歪んだ性格になっていたのだ。

 そんな彼女に比べて、丸林隆はその体格に反して随分と温厚な人間らしい。いや、この場合は温厚で助かったと言うべきか。彼が少しでも気の強い人間だったなら、この時雅に対して激昂し、一つ間違えれば手を上げていてもおかしくはなかった。

 尤も気が強かったら今頃はこんなところには居らず、グラウンドの中で野球部の一員として励んでいた可能性の方が遥かに高いだろうが。

 

「あなたは一体、なんなんですか……?」

 

 近くに居たからって、適当に話しかけたりするんじゃなかった。苛立ちと自己嫌悪と呆れからそう後悔する雅に対して、丸林少年が至極まともな質問を浴びせてきた。

 それに対して雅は、先ほどの発言の侘びも兼ねて正直に答えることにした。

 

「私は小山雅。君と同じで、最近まで野球選手だった人だよ」

 

 自嘲の表情を浮かべながら、雅は視線をグラウンド内へと戻す。

 丁度その頃、彼女の無二の友であり、今でも現役の野球選手である少女がフリー打撃のマウンドに上がっているところだった。

 

 程なくして、彼女がその投球を雅の目に披露する。

 

 細腕から投じられる曲がりの大きく切れ味の鋭い変化球、遅い球速ながらも正確無比な制球力に、雅は七割の感心と一割の同情、そして二割の落胆を抱いた。

 

 ここからでは距離が遠い為に少々わかりづらいが、今も諦めずに野球選手としてあの場に居る彼女の投球は、正直言って当初の予想よりも上回っていたと言えよう。

 打者の反応を見る限り、確かにあれならば高校野球界でもある程度は通用するのだろう。華奢で可憐な身の少女が屈強な高校球児達をバタバタと切り伏せていく光景は、傍目から見る分には圧巻ですらあった。

 彼女自身は嫌がるだろうが、雅はここまで自分の投球スタイルを極めたその努力に惜しみない賞賛を浴びせたいと思うし、気持ちとしては今すぐ抱き締めて褒めてやりたいぐらいだ。

 

 「自分の野球人生の終わりは自分で決める」と、そう言うだけの実力は確かに備わっているのだろう。

 ならば……ならばこそ雅は、彼女に挑むことに躊躇いは無かった。

 

(よし、やるか)

 

 フリー打撃で誰一人としてヒット性の当たりを打っていないところを見れば、彼女の実力が期待以下でないことはわかる。

 早朝の出来事さえなければ、雅はこの時点で「エース破り」の「野球マン」として彼女に勝負を仕掛けていたところだろう。

 しかし雅があえてそうしなかったのは、早朝に星菜が猪狩守に対して堂々と言い放った一言が要因だった。

 

『貴方と勝負をするなら、私は勝ち負けに言い訳の余地を作りたくないのです』

 

 負けず嫌いで意地っ張り。他人を振り回すのが大好きな癖に、中々責任を取ってくれない。まさしく雅の知るままの星菜と同じあの言葉が、雅に今この場で勝負を仕掛けることを善しとしなかった。

 

「ふふっ」

 

 雅は懐から、おもむろに携帯電話を取り出す。

 そして宛先の名に「大空監督」と書かれた文字を選ぶと、彼女は躊躇うことなく発信ボタンを押した。

 

「丸林君、君は物事への未練を綺麗に無くすには、どうするのが一番いいと思う?」

「え?」

 

 スピーカーの向こう側にて、通話相手を呼ぶコール音が一回、二回と鳴り響く。

 この時間では、あちらも竹ノ子高校と同じく練習の真っ最中だろう。すぐには電話に出られないことは、雅もわかっている。

 故に、雅は粛々と待ち続けた。

 

「私はね。いつまでも未練を抱き続けるような綺麗な思い出を、全部壊してしまうことだと思うんだ。野球なんてもう懲り懲りだ、もう二度とやりたくないってぐらい、思い出すのも嫌な記憶にしてしまえばいいんじゃないかってね」

「な、何を言って……」

 

 丸林少年の表情筋が引き吊っている様子が、目に見なくてもわかる。今の自分はきっと、狂った悪人のような顔をしていることだろう。

 その間にも、携帯電話のコール音は通話の相手を呼び続ける。

 

「私は君みたいに、いつまでもウジウジしたくないからね……思い残すことがないように、私はこの思い出を壊すことにしたよ」

 

 六回、七回、コール音が八回目に到達した時、雅の望む相手が遂に着信の手を取った。

 

 最初に聴こえてきたのは、「もしもし、久しぶりじゃな。元気か?」と言ったこちらのことを気遣うような言葉であり、年老いた老人の声音だった。

 彼の名前は、大空 飛翔(おおぞら ひしょう)。かつて雅が所属していた、ときめき青春高校野球部の監督である。

 

「練習中なのに、どうもすみません。実は私から監督と、野球部のみんなにお願いしたいことがあるんです」

《なんじゃ? そうか、戻ってくる気になったのかえ》

「……相手は、竹ノ子高校で」

《む……?》

 

 言い放った途端、相手側が息を呑む様子を雅は察する。

 雅は冷たく、凍りついた眼差しを浮かべながら淡々と要件を話す。

 二度と野球をしないと決めなければ決して口に出すことが出来ない、強い覚悟を込めた言葉を。

 

「私に、最後の試合をさせてください」

 

 自分自身に最後の舞台を用意する。

 どこまでも自分勝手に。心の仮面も全て脱ぎ捨てて。

 利用出来るものは、全て利用してみせる。かつて友人だった人達に嫌われても、雅には構わなかった。

 

 ――そうして彼女は、自身の「引退試合」の開催を、かつての監督に承諾させた。

 

 

 

 

 

 

 勝負をするのなら、言い訳の余地を作りたくない。

 ……ああ、流石は心の通じ合ったかつての親友だ。こういう部分では、昔からよく気が合ったことを思い出す。

 

 雅の方も同じだ。自分の心に決着をつける為の舞台に、言い訳の余地など作りたくない。だからこれは、これだけは雅にとってどうしても必要な準備だった。

 

(そうさ……私は私に野球を始めさせた君を倒して、野球への憧れも、君への憧れも全部無くしてやる!)

 

 それはこちらの勝手な事情に彼女らを巻き込むことを意味するが、彼女らにだって利はある筈だ。後ろめたい思いなど、今の雅には欠片も無かった。

 

「ふふ、一緒に野球をしようじゃないか……私達は友達だからね!」

 

 マウンドに立つかつて自身の目標だった少女の姿を見据えながら、雅は哄笑を上げる。

 

 ――最高潮の気分の中で何かが軋む音を感じたが、雅にはそれすらもどうでも良かった。

 

 

 

 


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