外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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正直な気持ちでいこう

 

 

 ――実力で、諦めたかった。

 

 その言葉が何を指してのものなのかは、今更問うまでもないだろう。

 野球のことだ。

 以前小山雅と会った時、彼女は必死になって野球をやってるのが馬鹿らしくなったと――同じ女子選手である早川あおいを引き合いに出しながら、そう言っていた。

 しかし、それまで青春という青春を野球に捧げてきた者が野球を諦めるなどということは、口で言うほど簡単なものではない。そのことを、経験者たる星菜は理解しているつもりである。

 そしてそれは、雅もまた同じ筈だった。

 

「言い訳も出来ない条件で、壁にぶつかって、惨めに負けて……それで私は、野球を続けることに諦めをつけたかったんだよ」

「……っ」

 

 そう、同じだったのだ。

 彼女の言葉は、野球など諦めてしまえれば楽だったと嘆いていた――以前の星菜に。

 

「それは……!」

「私の才能が本物じゃないってことを、誰かに証明してほしかった。女の子が野球をすることが間違いだったんだって、言葉じゃなくて力で証明してほしかったんだ」

 

 ズキリッと胸に痛みが走る。憂いを帯びた表情でそう言う雅の顔は、つい最近までの星菜とそっくりで。

 特に、野球を諦めることに言い訳を欲しがっているところが、悲しいほど似ていた。

 なまじ自分が経験したことであるが故に、星菜には彼女の気持ちが手に取るようにわかってしまった。

 

「猪狩君だけは力を見せてくれたけど、何だろうね……そんなに遠いとは感じなかった。確かに私以上の天才だとは思ったけど、どれだけ頑張っても打てないとは思えなかったんだ」

 

 諦めなければならないと思い、それらしい言い訳を欲しがって、道に迷っている。

 自嘲するような笑みを浮かべながら雅が星菜の目を見つめ、星菜はその視線を静かに見つめ返した。 

 

「……それどころか私は、彼とはいつか再戦したいって思っている。野球を諦める為に始めたエース破りで、寧ろ今までよりもやる気が上がってしまったんだ。これじゃ、本末転倒だよ」

 

 野球に対する未練から野球部のマネージャーとなり、その結果さらに未練が強まり、結局は選手として戻ってきた。

 この半年の間に星菜の身に起こった出来事は、以前の雅と再会した時に粗方話し終えている。

 故に、雅の方もまた星菜と自分が似通った心情にあると考えているのだろう。星菜を見つめる雅の瞳は、星菜に対して同調を求めていた。 

 

「どうして……私に、そんなことを話したの?」

 

 我ながら、白々しい質問だと星菜は思う。野球少女である雅が、同じく野球少女である自分に対してそんな話を切り出す理由などそう多くはないだろう。早朝のランニングで活性化した思考の中、星菜は数少ない選択肢の中で今しがた雅が抱えている思惑に当たりをつけると、彼女にそれを確認するべく問い質す。

 その問いに対して雅はニ拍ほどの間を置くと、怒らないで聞いてね?と前置きした上で言い放った。

 

「君にも、野球を諦めてほしかったから」

 

 案の定、というところである。それは星菜にとって、予想通りの言葉だった。

 その言葉だけを抜き取って聞けば、あまりにも勝手すぎる言い分であろう。しかしこの野球人生の中で雅の苦労と似たものを経験してきた星菜にとっては、純粋な善意として受け取ることが出来る言葉だった。

 

「女の子が……特に君みたいな子が野球なんて続けても、得なんて無いよ」

「………………」

 

 雅のその思いはかつて星菜に向かって中学時代の野球部の監督が言い放った言葉と同じで、身勝手ではあるが正しい言い分なのだ。

 黙り込む星菜に対して、雅は申し訳なさそうに、苦笑を浮かべながら言葉を続けた。

 

「ずっと、辛かったんだ。野球を続けてきたことで、私は辛い思いをいっぱいしてきた……。みんなを騙して、利用して、負担を掛けて……挙句の果てにこの有様だよ。こうなったら駄目だし、君にだけはなってほしくない」

 

 溢れ落ちてくるのは、世に絶望した老婆のような自嘲の言葉だ。

 それは星菜にとって――他でもない星菜だからこそ、既視感を覚える光景だった。

 

「星ちゃんには……歳下だけど私にとって誰よりも憧れだった君にだけは、あんなに無意味で無駄な時間を一年でも多く過ごしてほしくなかったから。だから言ったんだけど……はは、私ったら、とんだお節介だね」

 

 ――私がそうだったから。

 

 ――君もそうなる。

 

 ――そうなるかもしれない。

 

 ――そんなのは駄目だ。

 

 ――だから、させたくない。

 

 なるほど、これは確かに他人に言われてみると何とも腹が立つ言葉だ。あの時の六道聖はこんな気持ちだったのかと、星菜は黒紫色の髪の少女の姿を脳裏に浮かべながら苦笑を浮かべた。

 親切にも聞こえようが、主張の押し付けと言ってしまえばまさにその通りである。しかし、星菜自身も女子選手の後輩である六道聖に対して同じようなことを言った経験がある為に、星菜にはそんな雅のことを責める気にはなれなかった。

 

「星ちゃんは私にとって今でも大切な友達だから、放っておけないと思ったんだ」

 

 雅がそれだけは譲れないとばかりに、力強く言い切った。

 面と向かって友達と言われるのは気恥かしさもあったが、その気持ちは星菜にとっても心から嬉しいと思えるものだった。

 

「……私も、雅ちゃんのことは今でもそう思っているよ」

「ありがと。……あはは、この一年で一番嬉しかった言葉かも」

 

 年齢と共にお互いに性格が変わっているが、それでも昔と変わらずに友達で居たいと。星菜の気持ちを知った雅は花の咲くような笑みを浮かべ、星菜もまた雅の気持ちを知って柔和に微笑んだ。

 しかし星菜は、雅の焼いたお節介にだけはやんわりと拒絶を示した。

 

「雅ちゃん、その気持ちだけはありがたく受け取るよ。でも、私は野球を諦めない。まだまだ、野球にはしがみついていくつもり」

 

 彼女の言葉と、その意志に共感は出来る。

 正しいか間違っているのかで言えば、正しいのだろうとも思う。

 しかしそれは正しいからと言って、今更星菜の心を揺るがすことはない。

 星菜は過去を振り返りながら、返す言葉を紡いだ。

 

「諦めなきゃいけない、私はここには居られない……そんなことばかり考えて、私はずっと動けなかった」

 

 女子選手故の苦悩を、今とて星菜は乗り越えたわけではない。全てが過去のこと、終わったことだと忘れることも出来はしない。

 だがそれでも、今の星菜の心にはかつてほどの迷いは無かった。

 屈折していて、優柔不断で――そんな自分を受け入れてくれたお人好しな仲間達の姿が、星菜の脳裏に浮かんでいく。

 

「だけど私の周りには、そんな私を叱ってくれる子や、待ってくれる人、励ましてくれる人が居たんだ」

 

 そんな仲間達の優しさを裏切って、今更どうして後に退けようものか。

 退ける筈が無い。退いてなるものかと――悪い結果になることすら承知した上で、星菜が選んだ確かな道だった。 

 

「その人達のおかげで、私はやっと前向きになれた気がしたから。……だから、私は野球を続けるよ」

「でも、現実は非情だよ。そんな仲間達と過ごした君の大切な時間すらも、結局は全部が全部、無駄になってしまうんだ」

「無駄なんかじゃない!」

「星ちゃん……」

 

 星菜の心境の変化に対してあくまでも冷静な視点から指摘する雅の言葉に、星菜は声を上げて否定する。

 無駄――それは、星菜がずっと否定を求めていたことだ。努力した結果が全て無駄に終わることなどありはしないと、愚直に信じ続けたかったことだ。

 一度は信じることをやめてしまった星菜だが、今はきっと、違う。

 星菜は例えこの先、野球を続けてきた今までの時間が報われることがなくとも、それが無駄なことだったとは思いたくなかった。

 そして彼女の言う通り、自分では女子選手としての運命に逆うことが出来ないのだとしても……星菜は他の誰かに自分の野球人生を否定させる気はもう無かった。

 

「誰かに無駄だったと思われても、私だけは無駄じゃなかったって信じてみせる。だから私は、もう他人の言葉で野球を諦めるつもりはないよ。私の野球人生の終わりは、私が決める」

 

 それは星菜にしては珍しく、確固たる信念を込めて言い切った言葉だった。言いながら星菜は、自分で思っていたよりも案外心の中は纏まっているものだなと自らの心情の変化に感心していた。

 胸中から吐き出された星菜の思いを聞いた雅は残念そうに、しかしどこか嬉しそうに言った。

 

「そっか……やっぱり、君はこれからも野球を続けるんだね」

「完全燃焼するまではね。このままじゃ、諦めがつかないよ」

 

 それが、今の星菜に出せる精一杯の答えだ。

 他の何かに動かされるだけではなく、自分の意志で選ぶということ。今だけは自分の気持ちに正直に生きていくことを、鈴姫と話し合った日以来、星菜はその心に誓っていた。

 

「……雅ちゃん、貴方がこれからどうするんだとしても、自分に嘘をつくことだけはやめた方がいい」

 

 そんな星菜だからこそ、この言葉を雅に捧げた。

 

「そこまで野球に熱中しておいて、自分の心を騙し続けられるわけがないんだ」

 

 星菜がこれまでの経験で得た、数少ない教訓の一つである。

 野球を続けることが嫌になったというその気持ちが雅にとって本当の気持ちなのだとすれば、星菜にはこれ以上彼女に指図するつもりはない。しかし、その気持ちが彼女にとって不本意な感情なのだとすれば、星菜には雅の思いを否定したかった。

 やがて羽ばたいていく社会の荒波の中では、自分の気持ちに正直で在り続けることは誰にでも出来ることではない。

 だが、思うままに青春を謳歌することが出来る今ぐらいは、正直で在っても許されるべきなのだ。それが星菜と――星菜の中に居る「彼」の考えだった。

 そんな星菜の言葉を受け取ると、雅は肩の力を抜くように頬を弛緩させた。

 

「ありがとう、星ちゃん。でも……今の私は正直者だよ。色んな人を騙していた分、せめて今ぐらいは正直にいようと思ってる」

 

 星菜の思いは、無事に伝わった。

 その言葉に何を思ったのだろうか、雅は複雑そうな顔で空を仰ぎながら、小さな声で呟いた。

 

「……だから、イライラするのかな。これだったらまだ、「ボク」という仮面を着けていた頃の方がよっぽど楽だった」

 

 雲の数を数えるようにして、雅はしばらくそのまま空の景色を眺めていた。

 日の光が強くなった空の色は、朝焼け間もない暗さとは別れ、既に透き通るような青に染まっている。

 また随分と野球日和だなと思いながら、星菜もまた彼女に釣られて空を見上げてみた。

 そんな二人穏やかな時間を破ったのは、ふと思いついたように吐き出された雅の言葉だった。

 

「星ちゃん、そろそろ時間大丈夫?」

「あ」

 

 空の色が明るくなっている。それは即ち、朝日がより高く昇っているということであり――時間の経過を意味していた。

 猪狩守と遭い、雅と話し、思えばランニングの為に家を出てから一時間近く時間が過ぎてしまっている。

 間抜けなことに今更その事実に思い至った星菜は右腕に巻きつけていた腕時計に目を落とすと、その指針を見て愕然とした。

 

「っ……もう、無いじゃん……」

 

 もう、最寄りの駅から出発するバスが無い時間であった。

 竹ノ子高校の休日の練習開始時刻は八時からとなっており、基本的に朝の早い星菜にとっては本来余裕のある時間だった。七時頃に出発する自宅から最寄りのバスに乗っていけば余裕を持って間に合うようになっている為、星菜は普段から時間に追われることは皆無だった。

 しかし、既に時刻が七時を過ぎている状態ではシャワーは諦めるしかないにせよ、一旦野球用具一式を取りに帰ってから向かうにしても時間が掛かりすぎてしまう。

 仮にそれで八時に間に合ったとしても、練習開始時刻ギリギリである。それでは、もはや一年生の身分で許される集合時刻にはならないだろう。この時、星菜はマウンドで得点圏に走者を置いた状態よりも思考が纏まらず、蒼白な表情を浮かべていた。

 

「送っていくよ。私が呼び止めちゃったせいだしね」

 

 そんな星菜に対して、雅が落ち着いた表情で後方――グラウンドの最端に寄せて駐車しているオートバイへと親指を向けながら言った。

 責任を感じたのか、雅は焦る星菜へと救いの手を差し伸べたのである。

 

「あのバイク、雅ちゃんのだったの? ……って言うか、バイク乗れたんだね」

「前に居た学校の嗜みでね。バイクぐらい乗れないと、周りがうるさいんだ」

 

 ベンチから立ち上がり、雅はスタスタとオートバイの元へと向かっていく。事は急を要し、もはや彼女の好意に甘えるしかなかった星菜は、己の間抜けさを恥じながらも彼女の後に着いていった。

 

「それで、今からあれで君の家に帰って、練習場に着くまでどれくらい掛かるかな?」

「……二十分あれば、なんとか」

「OK、十五分で行こう。案内よろしくね」

「あっ」

 

 雅は自身のバイクの元に着くと荷台に括りつけていたスポーツ用のバッグからヘルメットを一つ取り出し、下手からそれを星菜へと投げ渡す。

 両手で受け取った星菜はすぐに礼を言ってそのヘルメットを頭に被ろうとしたのだが、思いがけないヘルメットの造形を見て表情を引きつらせてしまった。

 

「ヘルメット、余計に一つ持ってて良かったなぁ」

 

 ヘルメットの色は桜色。やや派手なカラーリングだが、雅の性格と可愛らしさを思えば彼女に似合う色だとは思う。星菜が問題だと感じたのはその色ではなく、あくまでもその奇抜な造形にあった。

 正面の中央部にはダイヤモンドのようなイラストが描かれており、耳あて部分にはアンテナのような形の装飾品が無意味に施されている。

 ヘルメットは頭部全体を覆うタイプのようだが、前部分に広がるバイザーは妙に鋭角的であり、ヒロイックな造形をしていた。

 これではそう――バイク用のヘルメットではなく日曜日朝に放送されているような戦隊ヒーロー物の被り物である。

 それでも見る者が見ればこれを格好良いと評価するのかもしれないが、生憎にも今の星菜にとってこれは過剰すぎる造形としか言い様が無かった。

 

「これ……被らなきゃダメ?」

「え、駄目でしょ」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 

 星菜の知る小山雅という少女のファッションセンスは同年代の子供達よりも際立って良かった記憶があるのだが……それも時が経てば変わるということなのだろう。自分のように。

 時の流れの残酷さを身に染み渡らせながら、星菜は雅から渡された戦隊ヒーローチックなヘルメットを頭に被る。嫌々ではあったが、バイクの同乗を許可してくれた上に安全の為にこれを用意してくれたのは彼女の善意である以上、感謝の意を示すことだけは忘れなかった。

 

「はは、似合ってるよ」

「……あんまり見ないでください」

「えー、折角かわい……格好良いのに」

 

 良い年こいてこのようなヘルメットを被っていると思うと、恥ずかしいことこの上ない。この場に雅以外の人間が居ないのがせめてもの救いだろう。

 そんな羞恥心と一人悶々と戦っている星菜を他所に、雅は見せびらかすように至って普通のバイク用ヘルメットを被る。それも、悪意は無いのだろう。

 

 程なくして二人の野球少女を乗せたオートバイは音を上げて発進し、河川敷のグラウンドを後にした。

 

 






 ※グラウンドを使用した後は、きちんと整備をしましょう。

 本文ではテンポが悪くなるので省略してしまいましたが、一打席勝負で荒れてしまったグラウンドの整備は猪狩兄弟の二人が華麗にやっておきました。

 次回はかなり久しぶりに原作メインキャラの丸林君が登場。主に雅ちゃんの視点で進めていく予定です。


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