外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
それから数日間、星菜達竹ノ子高校野球部は概ねスケジュールに従った練習の日々を送った。
合宿以前よりも練習内容は厳しくなっていたが、日々の練習が選手の体力の上昇に合わせて増えていくのは至って当たり前のことだ。故に星菜にとって、その程度のことは大した変化と呼べるほどでもなかった。
そして今日に至るまでの間、先日噂に聞いた「エース破り」がこの竹ノ子高校に現れることもなかった。
竹ノ子高校だけでなく、近頃は彼が他所の高校に現れたという話すら聞かなくなり、件の人物もそう遠くない内に人々の間から忘れ去られていくのだろうと星菜は察した。
人の口で語られた噂など、所詮はその程度の扱いだということだろう。
エース破りなど、やはりどことも知れない誰かが流したくだらない妄想話に過ぎなかったのだと、星菜は今一度改めて理解する。
しかし不思議にも、星菜はそのことに対して安堵と同時に落胆の感情を抱いていた。
星菜自身、初めて気付いたことである。実在していたのならば、星菜はその「エース破り」との対決を楽しみにしていたのだ。
星菜もまた一人の野球人として、腕の良い野球選手と勝負出来る機会をそれなりに期待していたのである。
早川あおいの名誉を考えれば「エース破り」は実在しない方が良いのだが、自分が勝負出来なかったことに対して星菜が落胆していたこともまた事実だった。
さて、八月も残り僅か。県代表として夏の甲子園へと駒を進めた海東学院高校は順調に勝ち進んでいるようだが、悲しいことに予選で脱落している竹ノ子高校にとっては大して関係の無い話題だった。
この日に当たって夏休みという長期休みの終わりが近づいてきたことで、竹ノ子高校野球部員達は矢部明雄を筆頭に何人かは溜まりに溜まった宿題の消化に忙しない様子である。
野球の練習に勉強と、両方こなさなければならないのが部活少年の辛いところだと、焦る彼らの姿を見て星菜は他人事のように思ったものだ。
その日の練習が終わり、疲労した身体で帰宅した自宅の中。
冷房が程よく通った自室にて、星菜は現在絨毯の上に寝そべりながら野球小説を読みふけっていた。
上機嫌に鼻歌まで歌い、星菜はこの部屋に居るもう一人の人物へと当てつけるようにその姿を見せつけていた。
星菜が自宅、それも自らの部屋に他の誰かを招き入れることは多くない。
数年前までは弟の海斗が遊びに来ることが多かったが、その彼も最近は姉の部屋に入るのが気恥ずかしい年頃なのだろう。元々自宅に招くほど仲の良い友人が少ない今の星菜は、自室では自分一人で過ごすことが常だった。
そんな星菜の自室の中に珍しく居座っている部外者――鈴姫健太郎が迷惑そうに眉をしかめながら、リラックスした体勢の星菜に向かって低く声を掛ける。
「あのさ」
「何だよ?」
「そこでそうされると気が散るんだけど」
「それはお前の集中力が足りないだけだ」
「いや、そういう問題じゃ……はぁ……」
うつ伏せに寝転がりながら快適そうに野球小説を読んでいる星菜に対して、鈴姫と言えばちゃぶ台ほどの大きさのテーブルの前に窮屈そうに座りながら、ほどほどに分厚い問題集を広げて睨み合っていた。
星菜は自分の時間を満喫しているが、鈴姫は現在夏休みの宿題に取り組んでいる真っ最中だったのだ。
「おい、なんでそこで溜め息をつくんだよ?」
「……こっちはコレの消化で四苦八苦してるって言うのに、君は気楽なもんだな」
「私はもう合宿前に終わらせたからね。今更やることがないんだ」
「おいおい、早すぎだろ」
目の前で学生の本分に邁進している鈴姫を見て星菜が欠片も焦りを抱いていないのは、星菜にとってそれが既に通った道であるが故。夏休みの終わりが近づいている今、彼がこうして夏休みの宿題に取り掛かろうとするよりも数日前に、星菜は既に自らに課せられた分の宿題を終わらせていたのだ。
本格的に野球の練習に取り組み始めたことによって、星菜の中では勉強をする時間は以前よりも格段に少なくなっているが、だからと言って勉学の面で堕落したというわけではない。寧ろ気持ち良く野球をする為にと、煩わしい宿題などは早々に片を付けるように徹底していた。
勝ち誇った笑み――所謂ドヤ顔を浮かべながら、星菜は身体を横に倒して鈴姫の顔を見る。
「まあ、だからこうしてお前の勉強を見てやれるわけで」
「だったら本ばっかり読んでないで、俺の宿題を見てくれないか?」
「はいはい、後で見てやるよ」
現時刻は夜中の七時半頃。野球部の練習が終わり、高校から帰宅したのが丁度一時間前だ。
それから星菜が入浴を済ませて髪を乾かしたと同じぐらいの時刻に、鈴姫がこうして星菜の自宅を訪れたという次第である。
この状況に至ったのは、鈴姫から部活動の帰り際に「宿題を見て欲しい」と頼まれた星菜が、「なら今夜、家に来い」と自らの家に誘ったのが発端であった。
鈴姫としてはまるで同性の友人に対するような警戒心の無い星菜の言葉を受けて男として思うことが無かったわけではないが、彼女が他でもない自分のことを信頼しているからこそそのように誘ってもらえたのだと、彼が内心で高笑いを浮かべていたことは星菜の知るところではない。
星菜も星菜で一年以上ぶりに彼を自宅に招くに当たって思うことは色々とあり、今はその内心を曝け出すことなく一見リラックスしているように見える姿で平静を装っているのだが、そのことは幸いにも鈴姫の知るところではなかった。
妙な感覚である。
決して嫌なわけではないが、いつもとは違う空気――そんな慣れない感覚から逃れるように野球小説の黙読を続ける星菜の耳に、鈴姫が問題集のページを叩くシャープペンシルの音を止めて言った。
「……今更言うのもなんだけど、良かったのか? こんな時間に家まで押しかけて」
「あ、うん。健太郎なら大丈夫だって母さんも言ってたしね。私も、別にお前なら遅くまで居てもらっても構わないから」
「信頼されてるのな、俺」
「うん。母さん、久しぶりにお前の顔見れて嬉しそうだったし。結構気に入ってるみたいだよ」
「それは素直に嬉しいな」
夜中に高校生の男女が同じ空間に……と文章で表せば何とも背徳的だが、何も今現在星菜と鈴姫でこの家に二人きりで居るわけではない。
下の階には母も居るし、弟の海斗も居る。母が鈴姫のこの時間での来訪を認めてくれたのもおそらくその為――だとは思うが、鈴姫を玄関先で迎えた際に見た母の顔を思い出すとこの考察にも少々自信が無くなる。鈴姫の顔を一瞥した後で母がこちらに見せたニヤついた表情は、まるで自分に対して何かを期待していた顔だった――と星菜は振り返る。
(何を期待しているんだか……)
……母は自分達の関係に対して色々と誤解している様子だが、それも苦笑で済む問題だ。何にせよ、家族が彼のことを好意的に見てくれているのはありがたい話だった。
「……にしても、相変わらず君の部屋は男っぽいな」
星菜がそんなことを考えていると、鈴姫が勉強の手を止めて周囲を見回しながら呟いた。
定期的に清掃を行っている星菜の部屋には、誰か他の人間を招き入れるに当たって恥ずかしいところは何も無い。いや、寧ろ無さすぎると言えた。
素朴な色をした部屋にはこれと言って特別な物は無く、一般的な高校生男子が想像するような少女らしい部屋とは言い難かった。それどころか壁際に並んだ野球用品の姿を見れば、少しマメな性格をした野球少年の部屋にしか見えないだろう。
そんな彼の言葉に星菜は不快な顔をすることなく、極めて日常的な調子で言い返した。
「寧ろお前は、ぬいぐるみとかたくさん並んだ部屋を私に期待していたのか?」
「……違和感でおかしくなりそうだ」
「でしょ? 私も色々やってみたことはあったけど、どれもこれも私には似合わない気がして元に戻したんだ」
「ああ、なるほど。この部屋がほとんど昔のままなのはそういうことか」
「そういうこと……だけど、あまりじろじろ見るなよ」
「あ、ああ、悪い」
思えば家族以外の人間に自分の部屋を見せるのは、随分と久しぶりのことだ。
そう思うと妙に恥ずかしくなり、興味深げに部屋を見回す鈴姫の視線を言葉で遮ることにした。
星菜はパタンと野球小説を閉じるとゆっくりとその場から起き上がり、部屋の出口を指差して言った。
「……そろそろ夕飯が出来ると思うから、下行こう。お前も食べて行けよ」
「いいのか?」
「母さんもそのつもりだろうしね」
「助かる。今日は家には誰も居ないから、少し困っていたんだ」
こんな調子では、野球小説の内容もさっぱり入らない。
集中力が続かないのはきっと空腹のせいだ。そう思うことにした星菜は鈴姫にもやや強引に問題集を閉じさせ、共に部屋を退出することに決めた。
(青春、か……)
不意に、先日再会した幼馴染――小山雅の言葉が脳裏に過ぎる。
辞書的な意味では、夢や希望に満ちた活力のみなぎる若い時代を人生の春に例えたものを、青い春と書いて「青春」と呼ぶようだ。
今の星菜には夢と呼べるほど大きなものは無いかもしれないが、少なくとも以前よりも遥かに希望と活力に満ち溢れているだろう。
恋愛的な意味でのそれは置いておくとして、そういう意味では確かに泉星菜は青春を満喫しているのだ。
(……充実しているのは間違い無い)
そう思い、星菜は自身の背中に続いていく鈴姫の姿を一瞥した後でふっと笑みを漏らす。
自分が思っていたよりもずっと、私はただの少女だったのかもしれない――今一度、星菜はそう思った。野球に対する執着が薄れることを恐れている星菜としては、それは麻薬のように甘美かつ、恐ろしい感情だったが。
――翌朝のことである。
星菜はこの日、目覚まし時計の設定よりも早くに目が覚めてしまった。
昨日星菜が床に着いたのはあれから夕食を摂って軽く鈴姫の勉強を見てやり、彼の帰宅を玄関先まで見送った後の夜中の十一時頃のことだった。
鈴姫にとっては随分と遅い時間での帰宅になったわけだが、彼らの住まいは元々徒歩でも五分と掛からず、道中にも大した危険は無い為、この近所間の行き来のみ鈴姫の側には許されていた。それだけ、鈴姫健太郎のことは彼の家内から信頼されているのだ。
尤もそれは鈴姫側の都合であり、当然のことながら星菜の方は家の掟としてそんな夜中にまで外を出歩くことは近所の間であろうと許されていない。そのことを忘れて普段の調子で「家まで送ろうか」と言ってしまい、母親から軽い叱りを受けたのが寝る前に残った一日最後の記憶である。
以前までの星菜なら、言葉には出さないまでもそんな家の掟には嫌だと感じる思いがあった。
こんなちっぽけなことですら男の彼は許されて、女の自分には許されないのかと――まるで子供のような、しょうもない感情を抱いていた。
しかし、今の星菜は「そのことについては」思い悩むことはなかった。
その変化は、普通の見方をすれば星菜が一つ大人になったからだと見えるだろう。自分が女であることを強く自覚した上で、受け入れて前を向いて生きている。そう考えれば、この心情の変化は喜ばしいことであった。
しかし星菜の頭は、そのことを野球選手としての退化だと捉えていた。
「……私は他の何よりも、野球の方が優先だったのにな……」
女としての成長は、野球選手としての退化だと。
それは誰かがそう決めたわけではなく星菜が勝手に考えていることであるが、これまでの野球人生の中で常に意識していたことだ。
女としての自分の弱さを心から完全に認めてしまうことは、星菜にとって野球選手としてのプライドを放棄することと同じだった。
他の誰かに言われる分には良い。だが他でもない自分自身が女であることを受け入れてしまえば、ことあるごとに言い訳してしまうのではないかと。
例えば、自分はよく頑張った。試合に出れないのは女だから仕方が無い、などと――自身が野球選手である以前に女であることを優先した場合、星菜にはこれから先の野球人生でそう言い訳しない自信が無かった。
(もしもこのまま高野連が女性選手の出場を認めなかったら、私の心はきっと……)
自分が本気で野球に打ち込めるタイムリミットは既に目の前まで迫っていることを、星菜は理解する。
鈴姫は高校を卒業するまでは待ってくれると言っていたが、星菜自身がそれまで待てそうにない。
このまま公式の舞台で女性選手の出場が認められなければ、今度こそ自分は野球を諦めるだろう。その確信は、彼の顔を見る度に強まっている。
野球を諦めさえすれば、星菜は心置きなく「野球選手として」ではなく「女として」彼の傍に居られるから……彼がそれを望むにしろ、望まないにしろだ。
(今の私には、そうなりたいのか、そうなりたくないのかすらわからない……わからなくなってしまった)
練習をしている時は考えないことだが、星菜の中では野球に対する情熱が以前よりも曖昧になっている気がした。それは鈴姫にも相談していないことだ。
認めるしかないのだろう。今の自分には、かつてほど野球に対する未練が無くなっていることを。
(今の私は本当に、野球少女と呼べるんだろうか?)
馬鹿な悩みだとは思うが、星菜にとってそれはこれまでの自分の在り方を覆しかねない悩みだ。
こればかりは誰の言葉に頼るわけにはいかず、自分自身で答えを出さなければならない。
勿論早川あおいや鈴姫健太郎、そして星菜の中に居るもう一人の自分の言葉にも、頼るわけにはいかなかった。
「……なるようになるしか、ないのかな」
朝っぱらからこんなことに頭を悩ませていても、仕方が無いか。
そう思った星菜は家を飛び出すと、鬱屈した思考を吹き飛ばすべくランニングに出かけることにした。
時刻はまだ朝の六時。バスに乗って竹ノ子高校へ向かうには、幾分か早すぎる時間だった。
この朝星菜がランニングのコースに選んだのは、眼下で緩やかに流れている「おげんき川」の河川敷、その横に沿った道路であった。
河川敷の一部には星菜がかつて所属していたリトル野球チーム「おげんきボンバーズ」の練習場があり、信号も少なく早朝は車の通りも少ないという理由から、最近の星菜はこのコースを利用して走っていた。
自分のペースを守り、それまで思い悩んでいたことが嘘のように軽快な足取りで走り続けていく星菜。
――その時だった。
「あっ」
ランニングの走行スピードに合わせて景色が流れていき、眼下におげんきボンバーズの扱う河川敷の練習場が見えた時、星菜は思わず声を上げる。
早朝故に本来ならばまだ人が集まっていない筈のグラウンドに、三人の人影が見えたのだ。
内一人は、この夏休みに偶然の再会を果たした金色の瞳と髪を持つ幼馴染の少女だった。
「雅ちゃん? それに……」
距離はまだ離れているが、視力の良い星菜はその姿を見間違えなかった。
そしてその顔の輪郭がはっきりと見えるまで走り寄った星菜は、グラウンドに立っている人物の一人がやはり小山雅であることを確認した。
彼女の方はまだ星菜の姿に気付かず、両手に一本の金属バットを構えてその場に悠然と佇んでいた。
それだけでも、驚くことではある。
しかしそれ以上に驚いたのが、雅と共にグラウンドに居る二人の人物の姿だった。
「……っ、なんで、あの二人が……?」
その二人の内一人は、この地区のみならず全国的に名の通った人物であった。
彼の姿をこうしてテレビ画面越しではなく生で見るのは、夏の大会二回戦の日、スタンドで遭遇した時以来である。
高校二年生にして身長は180センチを超え、程よく完成された体格の少年。左腕から投げる速球は最速150キロを超える豪腕にして、キレのある七色の変化球を自在に投げ分ける技巧の繰り手でもある彼。
打者としての能力も高く、昨夏の甲子園と今春の甲子園では共に観衆の前で豪快なホームランを放っており、既にプロ野球のスカウトからは投打共にドラフト一位級の評価を受けている正真正銘の「怪物」。
二十年に一人、いや、それ以上の逸材と持て囃される彼は、星菜を含めた誰もが認める「天才」だった。
――彼の名は
そんな彼は今、愛用のグラブを片手に18.44メートル先に立つ小山雅と対峙していた。