外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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初めて出会った日のこと

 

 

 ――四歳の頃の話である。

 

 星菜は走り回ったり、高いところを上ることが好きだった。日頃から高いところを探し回ってはよじ上り、その度に「危ないからやめなさい!」と両親から叱られていたものだ。

 当時の星菜は年相応に行動力があり、年相応に活発な子供だったのだ。

 そしてその日もまた、幼い星菜は塀の頂を目指していた。

 

『とうっ!』

 

 裏庭に飛び出し、自分の家の塀をよじ上ろうとする。本来ならば即刻家の者に注意されるのだが、生憎にも父は仕事に出掛けており、母は来客を応対すべく玄関に居る為、この時星菜の周りは親の目が届かない状態にあった。幼い星菜はこれ幸いとばかりに、この家に引っ越してから前々から目標に定めていたその塀の制覇を行おうとした。

 塀の大きさは大人ならば普通に立っているだけでも向こう側が見えてしまうような低さだったが、しかしそれでも四歳児の星菜にとっては身長の倍以上もある巨大な壁だった。どれほどジャンプし短い手足をばたつかせても、星菜の指先は塀の半分にも届かないだろう。

 

 しかし幼い星菜は諦めが悪く、また妙に賢かった。

 

 星菜は自力での登頂は無理だと判断するなり一旦家の中へと戻り、家中から積み木や洗面器など足場になる物を手当たり次第かき集め、塀の前に次々と重ね置きしていった。そうして簡易的な階段を作ることで、星菜は塀の制覇を目指したのである。

 

『よし! いくぞー!』

 

 早速、階段を上っていく。滅茶苦茶な造形の階段は見た目通り星菜が一歩踏み出す度に足元がぐらつく脆さだったが、星菜の体重が軽かった為か、意外にも慎重に上ってさえいれば崩れ落ちることはなかった。

 

『そ~と……そ~と……おりゃ!』

 

 一段、二段と自作の階段を上り、最後まで上りきったところで星菜は塀の頂上を目掛けて一気に跳躍した。

 その瞬間、とうとう強度の限界を超えた階段が音を立ててバタバタと崩れ落ちていったが、その頃には既に星菜の足は塀の上へと移っていた。塀の制覇を完了したのである。

 

『やった~!!』

 

 一歩間違えれば高所から転落し大怪我を負うことになっていたのだが、幼い星菜はそんなことまでは気が回らず、この時は目標としていた塀の制覇を成し遂げたことがひたすら嬉しかった。

 得意げな表情を浮かべ、ガッツポーズを取る星菜。そして塀の上に立って周りを見渡した瞬間、星菜は自分より高かった物が低く見える光景が嬉しくて堪らず、夢中になってその一メートル以上の世界を眺めていた。

 

 ――そんな時である。

 

 ポンッと、何かが跳ねる音がした。

 

『ん?』

 

 その音が気になり、星菜は音が聴こえた方向へと顔を向ける。

 そこは丁度、星菜の上った塀の向こう側――隣の家の裏庭だった。

 

 ――着物を着た一人の少女が、白色のボールを突いていた。

 

 少女の肌はそのボール以上に白く、まるで雪のようだった。そして特に目を引いたのが、星菜の黒髪とは違う金色の髪だ。

 頭の後ろでポニーテールに結ばれた長い髪は、真横を通り抜けていく風に従ってゆっくりと靡いている。小さな身に纏う着物はこの上なくその容貌に似合っており、星菜には彼女の周りだけ違う世界のように見えた。自分と同じ世界にいるとは思えないほどに、彼女の姿が幻想的だったのだ。

 その時こそ塀の上から見下ろしている形だが、身長は星菜よりも少し高い程度に見える。おそらく年齢も同じぐらいなのだろうと星菜は思った。

 少女は星菜の視線に気付かず、尚もボールを突き続けている。

 しかし星菜の目には彼女が楽しんでそれを行っているようには見えず、ただ暇な時間を潰す為に退屈そうに行っているだけに見えた。

 

『ねえ!』

 

 星菜は塀の上に腰を下ろすと、落ち着き無く足をばたつかせながら声を掛ける。

 すると少女はボールを突く手を止め、自分を呼び掛けてきた声の主を探してキョロキョロと周囲を見回す。しかしその存在が塀の上に居るとは気が付かなかったのか、少女は周囲に人の姿が見えなかったことに不思議そうに首を傾げた。

 その姿に、星菜はにししと笑みを溢す。自分が今彼女の目線よりも高いところに居るという事実に、大きな優越感を感じたのだ。

 

『え……なにこの声? やだっ、おばけ……!?』

 

 周囲に誰も居ない筈なのに声だけが聴こえてくるという恐怖体験に、少女はその場に縮こまって怯えの声を漏らす。

 怖がらせるつもりは無かった星菜はその様子を可哀想に思い、彼女に対してもう一度大声で呼び掛けることにした。

 

『おばけじゃないよ! こっちこっち! うえをみてよ!』

『う、上……? あっ、なんかいる!』

『なんかじゃないよ! ほしなだよっ!』

 

 声に従い、恐る恐る上の方向を見上げる金髪の少女。

 そこでようやく星菜の存在に気が付いたのか、少女は安堵と驚きの表情を同時に浮かべるという器用な反応で出迎えてくれた。

 

『あ、あぶないよっ! そんなところにいたら落ちちゃう!』

『へーきへーき! きもちいいんだよー!』

 

 自分の身長よりも高い場所である塀の上に座っていた星菜の姿に、少女は至って常識的な言葉を放つ。

 しかし星菜は自分の行動を省みることなく、笑って言い返した。

 少女は尚も心配そうに見上げてくるが、星菜はそんな彼女の目を気にも掛けずその場に居座った。

 そして問い掛ける。

 

『ここって、きみのうち?』

『そ、そうだけど……』

『じゃあ、おとなりさんなんだ!』

『えっ、きみ、となりの家の子なの?』

『うん! わたし、ほしなっていうの! よろしくねっ!』

『……へんな子』

『へ、へんじゃないよ! ほしなだよ!』

 

 当時、家の事情により引っ越したばかりである星菜にとって、その町にはまだ年齢の近い友達は一人も居なかった。

 だからだろうか、少女の姿を見た瞬間から星菜は「この子と仲良くなりたい」と思ったのである。当時の積極性が今の自分にもあればとはよく思うことだ。 

 

『ねえ、きみはなんてなまえなの?』

『え?』

 

 自己紹介の後で、星菜は金髪の少女に名を尋ねた。

 すると少女は両手で白いボールを抱き抱えながら、二拍ほどの間を置いて名乗った。

 

『……おやま みやび』

 

 

 小山 雅(おやま みやび)――彼女は、星菜にとって古い友人だった。

 星菜が四歳の頃、星菜と彼女は互の家が隣同士で年齢が近かったこともあり、初めて出会ったあの日を境に一緒に遊ぶことが多かった。

 彼女は良くも悪くも活発だった当時の自分とは対照的で、穏やかでおしとやかな性格だったことを覚えている。最後に会ったのが随分前のこととは言え、星菜には彼女の正体に気付くことが出来たのは容姿もあるが、そんな彼女が持つ当時と変わらない柔和な雰囲気を今しがた対面した少女に感じたというのもあるのかもしれない。

 

 ただ今の彼女が野球をやっていたことは、星菜にとって全くもって予想外であった。

 

「まさか、貴方が野球をやっていたなんて……」

「驚いた? 君が引っ越すって言って別れた時からかな。私も君みたいに、野球をしたいって思ったんだ」

 

 星菜の知る小山雅という少女は、少女らしい少女であるが故に野球とは縁が遠い人間だったのだ。

 まさかそんな人間とバッティングセンターで再会することになり、あまつさえあれほど見事な打撃を見せられることになろうとは誰にも予測出来まい。

 

「これでも、結構上手いんだよ? つい最近までは野球部で三番を打ってたし、打率だってチームで一番だったんだから」

 

 自慢げな顔をして胸を張る雅に向かって、星菜には掛ける言葉が上手く見つからず、無礼にもしばらく茫然としてしまった。

 そんな星菜に対して、雅が苦笑を浮かべて言う。

 

「あはは、信じられないって顔してるね」

「いや、そういうわけじゃないんです。ただ、貴方が野球をしていただけでも驚きなのに、高校で野球部に入っていたなんて……」

 

 自分や早川あおいのような境遇に、昔の友人である彼女まで居たと聞かされた星菜の心中は何とも言えない複雑なものだった。

 彼女と趣味を共有出来ることへの喜びは大きいが、それ以上にその境遇を心配する気持ちがあったのだ。

 喜びが三割、心配が七割というのが雅に対する感情である。尤も早川あおいと出会う前の自分ならばそれとは違う心境になったのだろうが、鈴姫とも和解を果たし、野球を続けることを選んだ今の星菜には精神的な余裕があった。つまり、他人のことを心配するだけの余裕があるのだ。自分と同じ境遇に居る他の人間に対して、星菜には六道聖と対峙した時よりも真摯に向き合うことが出来た。

 その相手が、かつて仲の良かった友人ともなれば尚のことだ。

 

「大変ですよね、私達が野球を続けるのは」

「ああ、高校野球の規定のこと?」

「え? ええ、それもありますが……」

 

 無論、これは哀れみとは違う感情だ。自分もまたそうであったように、野球少女にとって同情や哀れみといった感情は時と場合によっては真っ向から否定されるよりも心に来るものだ。

 だが、自分ならばそんな女性選手にしかわからない複雑な思いを、彼女と共有することが出来る。

 早川あおいが自分にしてくれたように、星菜は雅の為に何か相談に乗れるかもしれないと思ったのだ。

 しかしその星菜なりの親切心は、あっけらかんとした雅の言葉を前に要らぬお節介と化した。

 

「うん、そうだね。だから私も、今年の七月で野球部をやめちゃった」

 

 その言葉を聞いた瞬間、星菜には彼女の目を直視することが出来なかった。

 

「新聞にも載ったことだけど、今年の大会で女子選手が試合に出たせいで出場停止になったチームがあってさ。私の居た高校とは違うところだけど……その話を聞いて、私もなんだか必死になって野球をやってるのが馬鹿らしくなっちゃって」

「……そうですか」

 

 彼女は――小山雅は既に、野球少女ではなくなっていたのだ。

 星菜には、彼女の下したその決断に対して責め立てる気は無かった。

 今夏の大会で早川あおいの為に恋々高校が起こした問題はメディアを通じて全国中にもある程度広まっており、それが切っ掛けで他の野球少女達がユニフォームを脱ぐという事象も考えられる限りは別段おかしな話ではなかった。

 野球などやめた方が良いとわかっていてもやめられない――それこそつい最近までの星菜のような人間にとって、かの出来事は野球少女が野球を諦めるのには十分な理由だと思えたからだ。

 

(他人事じゃない……私も一人だったら、そうなっていた可能性は高いから……)

 

 だから客観的に見て、小山雅の決断は正しい。

 女子選手という圧倒的不利な立場にあって、今も尚熱心に野球を続けていられるあおいのような人間の方が異常なのだ。星菜としては野球をやめたと言った雅に対して、寧ろ安心すら抱いたぐらいだ。

 ただ、彼女が自分の知らないところで野球をしていて、知らない間に野球をやめていたということには一抹の寂しさを覚えた。

 たらればの話になるが、星菜はこの時、世が世なら彼女と一緒に野球が出来たかもしれないという「もしも」を考えてしまったのだ。

 

「それで、星ちゃんはどうなの?」

「え?」

 

 そうして感傷に浸っていると、今度は雅の方から問い掛けられた。

 興味津々という具合の彼女の眼差しを受けて、星菜は問いの内容を今の自分の近況についてのことだろうと察する。

 長年別れていたとは言え、元は誰よりも仲の良かった同性の友人だ。話している内に、星菜はかつて以心伝心のように通じ合っていた彼女との付き合い方を思い出していった。

 

「星ちゃんだってこんなところに来たってことは、今でも野球を続けてるってことだよね?」

「……一応、続けています」

「そっか。……ふふ、星ちゃん、雰囲気が昔と違うなって思ったけど、そういうところは今も同じなんだね」

「そういうところ?」

「野球が好きだってことさ」

「ああ……」

 

 雅の微笑に、星菜は苦笑を返す。

 あの時とは何もかもが変わってしまった自分だが、野球への思いだけは何も変わっていない。そう自負していた星菜であったが、他人からもそう言われるのは照れくさいものだった。

 

「……そこだけは変わらなかったと言うか、変えられなかったと言うか」

「含みがある言い方だね。なになに? やっぱり深い話があったりするの?」

「深い……のだろうか? ……よくわかりません」

「あはは、何それ。はっきりしないなぁ」

 

 星菜の記憶にある小山雅という少女は、女の子を絵に書いたような可愛らしい乙女だった。

 一方で小山雅が持つ泉星菜のイメージは、男の子のように活発で好奇心旺盛な女の子と言ったところだろうか。

 それが今ではこの通り、あの頃の面影は影も形も無い。

 十年近く経てば人は変わるのが自然だが、こうして改めて考えてみると星菜はしみじみとそれを実感した。

 雅もまた似たようなことを考えているのか、会話中にも今の星菜の姿をまじまじと見つめていた。

 

「星ちゃんは、これから時間空いてる?」

「今日は練習が休みなので。恥ずかしながら、暇を持て余していました」

「じゃあ、話せない? 久しぶりに星ちゃんと会って、嬉しくなっちゃって」

「もちろん、構いません」

 

 昔別れたこの友人との再会に、星菜としても積もる話は山ほどあった。

 自分が聞かせたい話はもちろん、彼女から聞いてみたい話も。

 外面上こそ冷静を装ってはいるが、今の星菜の脳内は彼女との再会という事態に喜びのあまり舞い上がっていた。故にこのバッティングセンターとは別の落ち着ける場所で話したいという彼女の提案に、星菜は快く応じることにした。

 

「あそこの喫茶店でいい? スイーツでも食べながらさ」

「はい」

 

 雅と共にバッティングセンターを後にした星菜は、彼女に連れられて近くにある喫茶店へと足を運んでいった。

 その道中も、二人は会話を弾ませる。

 

「しつこいけど、星ちゃん本当に雰囲気変わったよね~。見た目的には昔のまま順当に成長した感じなんだけど……美人になっててびっくりしたよ」

「あれから十年近く経っているんですから、人は変わりますよ。そう言う貴方だって、昔とは少し変わっています。綺麗なのは相変わらずですが」

「はは、それもそうだね。あとお世辞ありがとう。……でも私に敬語は使わなくていいからね? 星ちゃんは、昔みたいに雅ちゃんって呼んでよ」

「……そう言ってくれると、助かります」

 

 彼女に対して敬語は必要無いと頭ではわかっているのだが、長年染み付いてしまった癖は意識しなければ抜けないものだ。竹ノ子高校は異常に緩いが、上下関係の厳しい白鳥中学の野球部で染み付いた「上級生への言葉遣い」というものは、友人であったとしても直接許可を貰えなければ崩すのは難しかった。

 しかし昔と同じように接して良いと言われ、星菜は気が楽になった。

 頬を弛緩させながら、星菜は心の底から思った言葉を言い放つ。

 

「私もまた会えて嬉しいよ、雅ちゃん」

 

 今はただ、彼女と再会出来たことがとにかく嬉しかった。

 

 


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