外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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覚醒
マリンブルー


 

 

 

 朝日に照らし出された水平線には、雄大ながらもどことなく儚さを感じる。

 特別な理由があるわけではないが、星菜はその儚さが好きだった。潮風に当たり静かな波の音を聴きながら、星菜は合宿場付近の浜辺に一人佇んで海原の景色を眺めていた。

 あの広大な深い青色を見ると気分が落ち着くのは、海が人間にとって母親だからか。まるで詩人のように一丁前に感傷に浸っている自身のことを「似合わない」と思いながら、星菜は苦笑を浮かべた。

 

「……随分、久しぶりに見た気がするな」

 

 自宅が海から遠い場所にあることと、普段休日はそれほどの距離まで遠出することのなかった星菜は日頃このように近くから海を眺めることは滅多になかった。改めて振り返ってみて、星菜は自分の行動範囲の狭さに呆れたものだ。

 星菜が最後に海水浴に出掛けたのは、今から十一年前まで遡る。弟の海斗がまだ生まれておらず、星菜が四歳の頃、一家三人の家族旅行で訪れたのだ。そこまでは覚えているのだが、誤って飲み込んでしまった海水の味等、細かい部分は全く覚えていなかった。

 

「星菜」

「……ん?」

 

 星菜がそうしてしばらく漠然と海を眺めていると、後方から名前を呼ばれた。

 潮風に揺られる髪を右手で押さえながら振り向くと、そこには鈴姫健太郎――ランニング中だったのだろう、星菜と同じく竹ノ子高校指定の緑色のジャージに身を包んだ彼の姿があった。彼はそのまま、昨日の練習試合の疲労を微塵も感じさせない足取りで駆け寄ってきた。

 

「なんだ健太郎か。おはよう」

「おはよう。君もランニングか?」

「私の場合はランニングって言うよりも、散歩かな。なんだかすぐに目が覚めちゃって」

「俺もそんなところだ。池ノ川先輩のいびきがうるさくてね」

 

 時刻はまだ朝の六時前だと言うのに、どうやら彼も起床時間は早かったようだ。

 しかし昨日の試合では六回からマウンドを下りた自分とは違い、彼は九イニングフルに渡って出場している。竹ノ子高校野球部にとって欠かせない戦力である彼に怪我をされてはたまったものではなく、マネージャーの立場としては十分な睡眠を取った万全な状態で今日の練習に当たってほしいところだった。

 目の下にクマが無いか等を確認する為、星菜は下から覗き込むように彼の顔を窺った。

 

「大丈夫? 今日から本格的に合宿なんだから、健太郎はちゃんと寝ないと。そんなにうるさいんなら監督と相談しておくよ?」

「……いや、そこまではいい。早速早起きで得したことがあったし」

「そう? ならいいんだけど」

 

 顔色は良く、目の下にクマも無かった。無事に昨日の疲れは取れているようだと、星菜は安堵した。

 最近は疎かになっているが、星菜はまだマネージャーを兼業している立場だ。部員の体調を管理することは、星菜にとって最も重要な務めなのである。

 特にこの鈴姫健太郎は、昔から無茶な練習を行うことが多かった。人並み外れた努力家であることは彼の美点だと思っているが、何事もやりすぎは良くない。根を詰めすぎて波輪風郎のように大怪我をされては、今まで行ってきた練習すら無駄になってしまうのだ。

 星菜は彼には、彼にだけはそうなってほしくなかった。

 

 

「昨日は、流石だったな」

 

 静寂の浜辺に二人並び立って海を眺めていると、鈴姫が言った。

 それが何のことか、星菜には問い返すまでもない。今だけでなく昨日も散々言われた言葉だが、やはり一選手として人から褒められて悪い気はしなかった。

 

「……いや、普通のことをやっただけだよ」

 

 鈴姫の言葉に気取った言葉を返す星菜だが、内心では間違いなく浮かれている部分があったし口元も常よりだらしなく綻んでいた。

 そのことに気付いたのだろう。鈴姫は触れないでおけば良いものを、悪戯な笑みを浮かべて指摘してきた。

 

「そう言う割に嬉しそうだな。にやにやしてるぞ」

「うっさい。嬉しいに決まっているだろ」

 

 それに対して星菜が取った反応は、誤魔化しではなく開き直りだった。

 冷静を取り繕うのはやめ、堂々と頬を弛緩させて笑みを溢す。そう言った顔を人前で出来るのは、相手が異性であれど誰よりも気を許せる人間だったからなのかもしれない。

 嬉しいに決まっている。そう、「昨日のこと」を振られて、星菜が嬉しくない筈がなかった。

 

「嬉しいなら、始めからそうやって笑えよ」

「そんなことをしたら、皆から自分のことしか考えていないって思われるじゃないか。好投したって、チームが負けてちゃ何の意味も無い。嬉しいなんて言えるもんか」

 

 昨日の練習試合――結果を言えば、竹ノ子高校は2対0で敗北した。

 先発した星菜は六回までを二安打無四球無失点に抑える好投。しかし試合は七回からマウンドに上がった青山がときめき青春高校の四番鬼力からツーランホームランを被弾し二点を失い、攻撃では相手投手の朱雀と七回からマウンドに上がった青葉春人の二人の前に完璧に抑え込まれ、竹ノ子高校打線は屈辱的にも完封リレーを喰らうこととなったのである。

 自分自身の投球内容は良かったと言えど、チームが負けた以上表立って喜んで良いものだとは思えなかった。

 

「それはそうだけど……チームが負けた責任は君に無いだろ」

「そうやってお前は、私だけはぶくの? 私だって、チームの一員のつもりなんだけどさ……」

「いや、俺はそんなつもりじゃ……!」

 

 星菜個人としては満足の行く投球内容であった。七回から青山に交代されたのも星菜のスタミナが切れたからでも投球に問題があったからでもなく、茂木から聞いた話では始めからこの試合は二人で継投していく予定だったらしく、星菜自身も口惜しさはあったがその采配には練習試合ということもあり納得していた。

 昨日の試合の敗北の責任は、星菜には無い。しかし面と向かってそう言われるのは自分が竹ノ子高校というチームから仲間はずれにされているようで、良い気分ではなかった。

 星菜が少し怒気を込めてそう言うと、鈴姫が慌てて弁解し始めた。普段は涼しげな顔をしている彼の珍しい一面を見て、星菜は「くっ」と思わず腹を抱えた。

 

「ぷっ、くくっ……はははっ! 健太郎ってばなに慌ててるんだよっ。大丈夫だよ、怒ってなんかいない」

「……性質の悪い冗談はやめてくれ。普段冗談を言わないだけに、怖すぎるから」

「ごめん。もうしない。許してください」

「ああ」

 

 鈴姫の至極尤もな言葉を受け、星菜は素直に頭を下げる。

 星菜としては「お前のことは信じている。だからこのぐらいのことでは拒絶したりしないから安心してくれ」という意思表明のつもりで冗談を言ったつもりだったのだが――どうにも、彼にはあまり伝わらなかったようだ

 ならば素直にその言葉のまま直接言えれば良いのだが、どうにも抵抗感が拭えない。つくづく不器用な女だと、星菜は自嘲の笑みを浮かべた。

 

「……でも、そんな不謹慎なことを思っているのは事実だよ。チームは負けたけど、私自身は良いピッチングが出来て嬉しかったって、そう思っているのは確かだ」

「いいんじゃないのか、それで。試合の中で自分が活躍して喜ぶのは当たり前のことだろう? 確かに、その上チームが勝てば言うことないけどさ……昨日のは元々、チームの課題をはっきりさせる為の練習試合なんだ。勝敗は二の次だろ」

「課題か……チームとしては、やっぱり打力不足かな。私個人としては球速不足にスタミナ不足、身長不足に体重不足、そもそも公式戦に出られないとかもう、色々ありすぎて困るぐらいだよ」

「身長体重はそのままでいてほしいのが俺の個人的な我が儘だな。球速は……君の場合は特殊すぎて何とも言えない。案外、球が速くなったしてもその方が逆に打ちやすくなるかもな」

「ありそうで嫌だ。まあ、今更球が速くなるなんていうのも望み薄だけど」

 

 昨日の練習試合によってチームの課題は改めて明確になったと言えるが、星菜自身の場合はとっくの昔から克服に努めては失敗してきた課題である為、今更明らかにしたところであまり効果は無かった。

 球速という課題と向かい続けた結果確立したのが今の投球スタイルなのだ。球速アップは諦め、今後も変化球の強化を行っていた方が建設的だろう。尤も、それも既にほとんど完成されているが故にこれ以上の大きな飛躍は見込めないだろうが。

 

「俺の場合は筋力不足だな。波輪先輩が居るとは言え、このまま中軸を打つなら俺にももっとパワーが欲しい」

「でもそのせいで身体が重くなって、守備範囲が狭くなるほど筋肉を付けたら、お前の魅力が一つ無くなる」

「自分の身体のことは自分が知っているさ。これまでも散々考えてきたことだし、まあなんとかなるだろう。って言うか、なんとかする」

「頼もしいこと言うじゃないか」

 

 泉星菜には伸びしろが無いが、反対に鈴姫健太郎は今が伸び盛りな選手だ。

 星菜は彼ならばこの合宿で何かを掴み、また一皮むけてくれるだろうと確信(・・)している。

 そう、期待ではなく確信だ。彼は決して天才ではないが、自分とは違って確実に前へ前へと突き進んでいく。その内、自分が彼に完膚なきまで叩きのめされる日も遠くないだろう。

 

「……寂しいな」

「寂しい? なんでだ?」

「……自分で考えろ、ばーか」

 

 彼の頼もしさが寂しいと感じるのは、別段今に始まったことではない。

 それでも一向に慣れることは出来ず、そして慣れたいとも思えなかった。

 何度も何度も、彼に甘えたい気持ちばかり抱いていれば、野球選手として完全に終わってしまう。

 それだけは、嫌だったから――。

 

「……海、行きたいな」

「今、居るじゃないか」

「そうじゃなくて、久しぶりに海に泳ぎに行きたいなってこと」

 

 今の感情を誤魔化すように、星菜は海を眺めながら唐突に切り出す。

 海はこうしてぼんやりと眺めているだけでも気持ちが良いが、やはり水に直接肌で浸かっている方が気持ち良いものだ。特に太陽の光が一際強いこの真夏では一層その思いが強かった。

 

「そう言えば中学の終わり頃、君とプールに行ったことがあったな」

「ああ、私がちょっと人間不信になってた頃のこと? あの時は誘ってくれてありがと」

「……あの時は、俺よりずっと泳ぐのが上手い君を見て何とも言えない気分になったよ」

「昔から水泳得意だったしね。健太郎なんか、小学校の頃は水に顔すら着けられなかったじゃん」

「いつの時代だいつの」

「大切な記憶は全部、覚えているから」

「それは忘れてくれ」

「やだ。今のお前がいくらカッコつけてたって、過去は変わらないってことだよ」

「君はもうちょっと、今と未来を生きろよ」

「うん、頑張る」

「頑張れ、俺も頑張る」

 

 星菜が最後に海水浴に行ったのが十年前のこと。

 その頃は五歳児真っ盛りで、星菜はまだ鈴姫とも出会っていなかった。

 そこに思い至った時、星菜は笑みを漏らしながら隣に立つ鈴姫と向き合った。

 

「……そろそろ、合宿場に戻ろうか」

「そうだな。地獄の特訓の始まりだ」

 

 野球部の練習が激化していく今後、そうそう機会など訪れないとは思うがいつか海に行きたいと。

 家族ではなく、ここに居る一番の親友と一緒に――。

 

 


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