外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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阿畑やすし、ココニ在リ

 

 六回の表、竹ノ子高校の攻撃。

 マウンド上の阿畑やすしは今、二塁に走者を置いた状態で三番鈴姫、四番波輪を迎えるというこの試合最大のピンチを迎えていた。

 この回先頭の矢部明雄に対しては、決して油断していたわけではない。打球は強くはなかったが、あの一球に関してはそよ風バッテリーよりも矢部の方が一枚上手だったと言う他ないだろう。矢部はツーストライクに追い込んでから投じた一球――低めに外したアバタボールを払うように捉え、三遊間を抜けるゴロヒットを放ったのである。

 追い込んでから打たれたのは勿体無い配球であったが、阿畑にとって先頭の打者を出塁させることは特に面白くない。

 走者を置いた状態では、アバタボールを使いにくくなるのだ。カーブ以上に球速の遅いこの変化球は阿畑の決め球であると同時に、走者にとっては何よりも盗塁しやすい隙となる。特に矢部明雄は竹ノ子高校きっての俊足の持ち主だ。捕手の木崎は一年生ながら並外れた強肩だが、彼の二盗を防ぐのはまず不可能だろう。

 

(まあ、その辺りの問題は今更やけどな)

 

 走者を一塁に置いた状況で盗塁されない為には、自ずと速球中心の組み立てにならざるを得ない。しかしその弱点を自覚しても尚、阿畑のメンタルは揺らがなかった。

 いくら走者が進塁しようとも、本塁にさえ帰さなければそのイニングは投手の勝ちなのだ。

 今の阿畑には、それを実践出来る自信があった。

 何球かストレートを連投し、牽制球も混じえながら一塁走者の動きを警戒する。そして次のボールで盗塁を仕掛けてこないと判断すると、阿畑は二番六道の内角高め(インハイ)へとシュートを投じた。

 六道が打撃フォームを解き、送りバントの構えに入る。それは、阿畑と木崎のバッテリーが予測していた行動だった。

 しかし六道も焦らない。打者にとって最もバントのしにくいコースである内角高めのシュートではあったが、ボールを打ち上げることなく巧みに三塁線へと転がしてみせた。

 

「まあええことよ。これでワンアウト、問題は次からや」

 

 送りバントを成功され、ワンアウト二塁となった。得点圏に走者を置いたこの場面で、二打席目ではアバタボールを見事センター前に弾き返した三番の鈴姫が打席に入る。

 

(簡単に攻めたらあかん……)

 

 五回表にも下位打線を相手にピンチを招いたが、迎える打者が彼となればその度合いはわけが違う。既に阿畑の中で鈴姫は、波輪に次ぐ要注意人物であった。

 阿畑は木崎のサインに頷き、セットポジションから一球目の投球動作に移る。

 選択したコースは外角、ストライクゾーンからボール球になるシュートだ。指先から放たれたボールは打者の手元で小さく曲がり、木崎の構えたミットへと狂い無く収まった。

 

「ボール」

 

 あわよくば手を出してもらいショートゴロを打たせたかったボールだが、鈴姫はそれをあっさりと見送る。一年生とは思えない落ち着いた佇まいは、秀麗な容姿も相まってか憎たらしく映った。

 

(うーん、なんやろなコイツ? なんかどっかで会った気がするんやけど……)

 

 その顔と言い、珍しい苗字と言い、彼とはどこかで会った気がした。しかしその記憶がどこまで正しいか、阿畑にはわからない。何か引っ掛かってはいるが、全くはっきりしないのだ。

 だがそれも、この勝負には関係の無いことだと頭から切り離す。グラウンドで違うチームに所属している以上、彼は阿畑にとって敵でしかないのだから。

 

「ストライク!」

 

 慎重に制球しながらも、腕の振りは緩めない。二球目に投じたのもまた外角の変化球だったが、一球目とは逆にボールゾーンからストライクになる曲がりの小さなスライダーであった。

 波輪のスライダーより球速は遅いし変化量も少ないが、阿畑にとって細かい制球の効く優秀なカウント球だ。打席の鈴姫はストライクゾーンギリギリに決まったそのボールに手を出さず、カウントはワンエンドワンとなった。

 

(待ってるのはアバタボールやろなぁ……)

 

 二打席目の内容と今現在における打席上の反応を見る限り、彼が何を待っているのかはある程度予想出来る。

 アバタボールは狙ったからとそう簡単に打てる球ではないが、彼は実際に二打席目に打っている。それでもあえてアバタボールを投げるか、このまま違う球種で攻めるかは難しいところだが……捕手木崎が要求してきたのは後者だった。

 左打者への内角。投手の利き手とは反対側に立つ打者の、インコースに向かって投げるストレート――クロスファイヤーと呼ばれるボールである。二球外角を意識させた直後なら、その球が有効だと判断したのだろう。

 その選択は結果的に、正解ではあった。

 非常に危ういところではあったが。

 

「ビビったぁ……心臓に悪い打球打つなや」

 

 内角一杯に投じたこの日最速の142キロのストレート――鈴姫はそれを真芯で捉え、フェンス直撃の打球を放ってみせたのだ。僅かにライト線を外れたファールボールではあったが、危うく配球ミスによって先制の失点を許すところであった。

 

「一年のリードを責めるわけにはいかへんな。まあ、とりあえずこれで追い込んだんや。後は……そう、わかってるな木崎」

 

 一瞬肝が冷えたが、結果的にツーストライクへと追い込むことが出来た。

 ツーエンドワンならば投手有利のカウントであり、次の一球がボール球になろうとさして問題は無い。もはや「新魔球」をお披露目するお膳立ては十分と言えよう。

 阿畑の性格をよく理解しているのか、木崎の出したサインは阿畑の望み通り、この試合で一度も使ったことのない「新魔球」のサインだった。

 

 

 

 

 

 

 阿畑やすしという男は、決して才能に恵まれた人間ではない。

 阿畑に波輪風郎や猪狩守、樽本有太のような剛速球など、一生かかっても投げることは出来ないだろう。それでも高校野球レベルでは平均以上の球速を持ってはいるが、彼らのような天才選手と比較すれば雲泥の差があった。

 身長も173センチ程度と投手としては心許なく、いずれも180センチを超えている彼らとは比べるまでもない。持って生まれた身体的な才能は普通の高校生と何ら変わりなく、野球エリートのそれとは言い難かった。

 だが阿畑は誰よりも努力家で、負けず嫌いだった。

 走り込みや投げ込み、地道ながらも常人ならば途中で投げ出すであろう過酷な練習をあくる日も繰り返し続け、急成長はしなくとも着実に、少しずつ力を付けていった。

 今では代名詞となっている「アバタボール」もまた、その過程で習得した変化球だ。

 しかしそのアバタボールですら、決して最初から完成していた球ではなかった。

 

(アバタボール、お前とは長い付き合いやな……)

 

 過去を振り返り、感慨に浸る。

 現代の魔球と呼ばれるナックルの存在を知り、習得に励んだのはリトルリーグ時代のことだ。小学五年生当時の阿畑は弱小チームの次期エースとなれるそこそこ速いストレートは持っていたが、何一つとして変化球を投げることが出来ず、「九十九宇宙」という同級生のライバルに挑んでは返り討ちにされるという日々を延々と送っていた。

 そんなある日、偶然テレビで行われていたメジャーリーグの中継から「ナックル」という変化球を初めて見て、「これだ!」と閃いたのである。

 誰にも変化を予測出来ないあの変化球を投げることが出来れば、どんなライバルにも勝てると確信した。それは自分好みの美しい女性を見た時のような、わかりやすい一目惚れだった。

 それから本やビデオで資料を集め、その投げ方を徹底的に調べることへと移した行動は早かった。しかし手が小さく握力も弱い小学生時代では最後までナックルを投げることは叶わず、完成は雲のように遠かった。

 しかしナックルを習得しようと練習を重ねた結果、阿畑はナックルとは違う奇妙な変化球を覚えた。ナックルのように無回転でも揺れて落ちもしないが、打者の手前で僅かに沈んでいく。スローボールとも微妙に異なる、チェンジアップの投げそこないのような変化球だった。

 それがアバタボール1号――「タコヤキボール」と名付けた、阿畑やすしが習得した最初の変化球である。

 今からしてみれば変化球と呼ぶのもおこがましい拙さであったが、当時の阿畑は自分が初めて投げることが出来た変化球に興奮し、歓喜に打ち震えた。自慢したい一心で九十九宇宙の家へと押しかけ、意気揚々と勝負を挑んだのには日も跨がなかったほどである。

 

 ――しかし、結果は惨敗だった。

 

 始めはストレート以外のボールを投げることに驚いた九十九だが、対応は早かった。阿畑は時折ストレートも混ぜて投球に緩急をつけたがタコヤキボールでは最後まで一球も空振りを奪うことが出来ず、僅か一打席目にして呆気なく長打コースへと運ばれたのである。

 

「くそっ! なんでや!」

「そのタコヤキボールってのを投げる時だけ、ピッチングフォームがめっちゃ緩むんや。それじゃあ何投げるかバレバレやで」

 

 腕の振りの緩み、投球フォームのズレ、そう言った致命的な欠陥に気付いたのは勝負が終わった後のことだ。不完全とは言え初めて変化球を投げることが出来た喜びから、幼い阿畑は重要なことを失念していたのである。

 

「弱点は克服したで! 勝負や九十九!」

 

 それから数ヵ月後、阿畑はシャドーピッチングや投げ込みと言った地道な練習でその欠陥を修正し、再度九十九へと挑んだ。

 しかし、対戦の結果は変わらなかった。

 

「なんで打たれるんや……」

「お前のその球、空振りするほど変化ないからな。こっちからしてみりゃヒットにしなくても、適当にカットしてりゃあええだけや。そんなチェンジアップもどきより、本物のチェンジアップか他の変化球を覚えたらええんやないか?」

「うっさい! これはチェンジアップやなくてナックルや! 凄い魔球なんや!」

「へいへい」

 

 惨敗の都度寄越された九十九の言葉は、今にして思えば彼なりの親切なアドバイスであった。こちらの欠点を客観的に分析し、その解決法まで丁寧に示してくれたのだから。

 しかし当時の阿畑にとってライバルから助言を貰うなど屈辱以外の何物でもなく、その親切心に気付くことはなかった。九十九とはそれが原因で喧嘩することも珍しくなかったぐらいである。

 

「言われた通り新しい変化球を覚えたで! 勝負や!」

「懲りずに何度もやるなぁ……まあ、ええけど」

 

 それでも最終的には助言を聞き入れていた阿畑は、意地を張りながらもそれなりに現実を見ていたのだろう。

 そしてそこまで暇でなくとも頻繁に訪れる阿畑の挑戦を受けてくれた九十九も、そう悪い気分ではなかったのかもしれない。

 

「………………」

「4打数2安打やからワイの勝ちやな。そこそこええカーブやったで」

 

 何度挑戦しても九十九の勝利は変わらない。

 しかし一年が過ぎて六年生へと進級する頃には少しずつ、ほんの少しずつだが阿畑の実力は九十九へと迫っていた。

 

「九十九!」

「おっしゃ、やろう」

「またかいな、あんたら仲ええね」

「まあなんや、腐れ縁?」

「ライバルや!」

「ふっ、対戦成績全敗のライバルがどこにおるねん」

「なんやと九十九!」

「せやかて阿畑!」

「「ふはははははは!」」

「……もうやだこの先輩」

 

 二人の関係が対等なライバルへと、そしていつの間にか親友にまでなっていたことに気付いたのは阿畑でも九十九でもなく、小さな頃から彼らと近所付き合いしていた幼なじみの「芹沢(せりざわ) (あかね)」だった。

 彼女がそんな二人の関係を呆れながらも見守ってくれていたのは、彼女もまたそんな他愛ない日常を好いていたからだと言っていた。

 彼女はいつも、二人の勝負を見届けてくれた。

 そして阿畑が努力している姿を誰よりも傍で見てくれたのも、彼女だった。

 

 中学校卒業後、阿畑はあかつき大附属高校に入学した九十九を倒す為、地元のそよ風高校へと入学した。

 一年後、茜はそんな阿畑と同じ進路を選択し、野球部のマネージャーになってくれた。

 彼女が実際に口に出して言ったことはないが、それが自分の為ならば嬉しいと阿畑は思う。

 野球でも勉強でも九十九に勝てなかった阿畑だが、彼女と共に過ごす日常だけは勝ち取ることが出来たのだ。「そこはワイが一番勝ちたかったとこなんやけどな……」とは、後に再会した九十九が溢した愚痴である。それを聞いて阿畑は、自分は天才ではなかったが勝ち組ではあったと思った。

 

『なんや今の球?』

『おう! 見たか、魔球「アバタボール」や!! 今度こそ本当に、揺れて落ちるんやで!』

『え? それってもしかして、昔投げようとしてたアレ? やったやないか! これなら宇宙にも勝てるかもしれんな!』

『おいおい……そこは「かもしれん」やなくて、はっきり「勝てる」って言ってくれや』

『嫌や。日頃から野球は何が起こるかわからんからおもろい言うてんのはやっちゃんやろ?』

『せやけどなぁ……まあ、真面目なマネージャーで助かるわ』

 

 高校に入学して初めて「アバタボール」を投げた時も、茜は傍に居てくれた。そしてまるで自分のことのように喜び、阿畑を祝福してくれた。

 しかしそのアバタボールすらも実戦では通用せず、心が折れそうになった時もあった。それでも、彼女は一時として阿畑のことを見放さなかった。

 「今のアバタボールで駄目なら、いつものようにまた改良すればええだけや」――明るくそう言って、何度も励ましてくれた。

 それがどれほど有難かったか、おそらく彼女はわかっていないだろう。彼女にとっては昔の関係の延長に過ぎず、阿畑やすしが日頃から行っている馬鹿を見守るのもまた、何ら特別なことではないからだ。

 だが、だからこそ阿畑は嬉しかった。

 そして、そんな彼女の為に勝ちたいと思った。

 いつしか彼女の為に勝ちたいと思うことが、阿畑の心を支える最大のモチベーションとなっていたのだ。

 

 阿畑はこれまでの野球人生を振り返り、マウンドに立っている今の自分に感慨深い思いを抱く。

 

「……凡ピーやったワイが、よくここまで来れたもんやな」

 

 木崎から受け捕ったボールを「二本」の指で挟むと、グラブの中で強く握り締める。

 ライバル達とチームメイトと、そして芹沢茜と歩んだ野球人生の結晶がそこにある。

 これがある限り、阿畑やすしは絶対に負けない。最後の夏にするには、まだ早かった。

 額から頬を辿って滴り落ちていく汗が、今は心地良い。あかつき大附属高校に居る最大のライバルに向けて、阿畑は小声で呟く。

 

「ワイの執念、ちゃんと見てろよ」

 

 出会った時から今に至るまで何度挑んでも勝つことが出来なかったライバルを打ち破る為、阿畑は魔球アバタボールを編み出した。

 今から投げるのは、敗北の度に改良に改良を重ねてきたアバタボールの集大成だ。

 阿畑やすしの執念がたどり着いた、最強の魔球だ。

 

「……勝負や」

 

 セットポジションから素早く左足を振り上げ、神経を目標に集中し、右腕を振り下ろす。

 二本の指から抜き放たれたボールは縫い目を見せたまま決して回転することなく、キャッチャーミットを目掛けて直進していく。

 回転の無い変化球。しかし打席に立つ鈴姫は、それが阿畑が今までこの試合で投じてきたアバタボールでないことに気付いた。

 そして、驚きに目を見開く。阿畑にはその理由を、三つまで想像出来た。

 

 一つ目は、目測でも球速が130キロ近く出ていたことがわかり、アバタボールのそれとは比較にならない速さだったこと。

 二つ目は、その目で最後まで確認出来ないほど大きく、鋭く曲がったこと。

 そして三つ目は、カットをする筈で振り抜いた自らのバットが、何の手応えもなく空を切ったことに驚いたのだと。

 

「ッ……ス、ストライク! バッターアウトッ!」

 

 判定する立場である球審すらも動揺し、反応が遅れた。

 相手ベンチの驚愕が目に浮かぶようで、阿畑は最高の気分だった。

 

「見たか! これが魔球“アカネボール”やあっっ!!」

 

 そして阿畑はキャッチャーミットに収まったボールを指差しながら、たった今投じた「新魔球」の名を高らかに叫ぶ。命名したのは今この瞬間。捕手の木崎も同様、そよ風高校のチームメイトすら初めて聞いた球種名であった。

 

 場内がどよめき、そして間を置いて歓声が上がる。

 名前の由来にいち早く気付いたであろう愛しの少女は今頃、そよ風高校のベンチの中で顔を真っ赤にして悶えていることだろう。

 心なしか、こちらに注がれるそよ風ナインの眼差しが冷たい。だがこの魔球の名前は他に思いつかず、命名のタイミングも今しかないと思ったのである。

 後悔など、どこにも無かった。

 

 


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