外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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ひとりじゃない

 

 呼吸が乱れる。

 心が乱れる。

 後に振り返ってみても、その時の精神状態は平常心とは程遠かったと思える。

 ならば、何が悪かったのか?

 センター矢部の守備だけが悪かったのか?

 ならば、自分は悪くないのか?

 そんなことは無い。確かに彼も失策を犯したが、最も悪いのは星菜自身のピッチングだ。

 まだあの時点では失点していなかったし、後の打者を抑えれば済む話だった。さらに言えば、星菜が奥居を三振にさえ取っていれば彼の守備範囲へとボールが行くことはなかったのだ。

 

(……もう、三振しかない。私が三振を取れば、矢部先輩がエラーすることはなかったんだ!)

 

 それが、その時星菜が出した結論である。もはや気が動転していたとしか言い様が無い。

 後一歩で勝てた試合が、味方守備のつまらないミスの為にツーアウト二塁のピンチを招くことになった。その事実が、星菜の中にある苛立ちを一気に爆発させたのである。

 

(外角のスライダー? この期に及んで、何を言っているんですか? そんな配球じゃ駄目です! 内角に思いっきりストレートを投げなくちゃ、このレベルのバッターからは三振を取れない!)

 

 奥居に続く四番小波を敬遠の四球で歩かせた後、捕手の六道が五番陳に対して出したサインはこれまで通り打たせて捕る配球に基づいたものだった。

 しかし冷静さを欠いたその時の星菜に、彼の要求を呑むことは出来なかった。

 恋々高校の五番陳は相手投手の利き腕に応じて打席を変えるスイッチヒッターだ。左投手である星菜に対して右打席に入った陳からは、ぶつけるぐらい強気に責めなければ三振は奪えない。

 

 三振だけを狙うしかない――そのような星菜の勝手な判断が、直後の逆転スリーランホームランを許すサイン無視へと繋がったのである。

 

 六道のサインを無視して内角高めへとストレートを投げようとした結果、余計な力みが発生。制球を乱し、あろうことかど真ん中へと入ってしまったのだ。

 好打者である陳がその失投を逃す筈もなく、彼の打球は瞬く間にレフトスタンドを越えていった。

 

 

 頭に血が上っていた

 冷静さを欠いていた。

 そして投手にとって必要不可欠である――味方守備への信頼を失っていた。

 スコアボードに刻まれた「3」の数字がようやく星菜の目を覚ました頃には、既に遅かった。

 

「……すみません……」

 

 タイムを掛けてマウンドに駆け寄ってきた六道に対して、星菜は自身の勝手な投球を顧み、深々と頭を下げる。

 俯いた顔を上げることは、出来なかった。その顔は、人に見せられるものでなかった。

 涙が溢れた。

 自分があまりにも弱くて、情けなくて。

 その謝罪をどう受け取ったのか、六道はそんな星菜に対して短く言った。

 

「……切り替えろ。まだ裏の攻撃が残っている」

 

 その時の彼がどんな顔をしていたのか、俯く星菜にはわからない。ただ己の不甲斐なさ故に、星菜は彼の顔を直視することが出来なかった。

 しかしサインを無視した星菜に対して、彼は何の罵声も浴びせなかったのだ。

 

 

 それは、他の選手達も同じだった。

 打たれた星菜に対して誰一人として批難しない。誰一人として責め立てない。

 それはまるで、始めから星菜が打たれることがわかっていたような反応で。

 始めから全く、「お前には期待していなかった」とでも言っているような反応で――。

 

(……そう……だよな……)

 

 泉星菜が打たれることはその程度の扱いなのだ。

 彼らにとっては責め立てる価値すらない、くだらないものだと。

 そういうことなのだと、星菜は認識した。

 

「……一人で舞い上がって、馬鹿みたい」

 

 今更の話ではあった。中学時代から、既にわかりきっていたことだ。

 泉星菜の野球選手としての価値など、自分が思っているよりも遥かに安いものなのだと。

 

 ミスを犯せば叱責される。そんな当たり前なことすら、泉星菜には当てはまらないものなのだと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けると、週の始まりである日曜日となった。

 星菜が目を覚ましたのは、朝の七時だった。カーテンを開けた窓から外を眺めれば心地の良い朝日が降り注ぎ、今日の天気もまた快晴であることがわかる。

 昨日が試合だったということもあり、この日の野球部の活動は休みとなっていた。しかし監督の茂木からは昨日の試合の反省点を各々のノートへ記入し、月曜日に提出するように宿題が出されている。敗戦の戦犯である星菜としては書く内容には困らないが、何も嬉しくない、頭が痛くなる思いだった。

 

「ランニングでもしてくるか……」

 

 星菜が起床してから放った第一声には、眠気が一切無かった。一睡して身体の疲労も取れているし、気分も昨夜よりかは落ち着いている。とは言っても平常時とは程遠い精神状態であり、依然うやむやな感情が心の中に残っていた。

 こんな時はがむしゃらに走り回るに限る。走り回ることでストレスを和らげてからでなければ、机と向かっても良い反省文は書けないだろう。星菜はそう思い、タンスの中から上下のジャージを取り出すことにした。

 

 

 そうして寝巻きからジャージに着替えた星菜が、軽く朝食を摂るべく二階の自室から一階の居間へと下りた時のことである。

 

 星菜の前には、どういうわけか何の脈略も無しに五枚の札束が差し出されていた。

 

「はい」

「はい?」

 

 目の前にあるのは、朝の挨拶よりも先に朗らかな笑みを浮かべて五枚の一万円札(・・・・)を差し出してきた母親の姿だ。

 階段を下りた矢先に待ち構えていたその光景に、星菜は呆然と立ち竦む他なかった。

 

「母さん、えっと、これは……?」

「五万円よ」

「それは見ればわかるけど……」

 

 そう、五万円分の札束である。星菜のようなアルバイトをしていない高校生にとっては縁のない大金が母の手に握られており、それが今目の前に差し出されているのである。

 時々、母はこういった突拍子も無い行動を起こすことがある。そんな時は決まって気持ちの良い笑顔を見せてくるのだが、顔を見る限り今回もその類のようだった。

 そこまでしか状況を掴めない星菜がしばし無言のままに居ると、母はようやく事情を話してくれた。

 

「これを貴方に渡してって、昨日の夜お父さんに頼まれたのよ」

「えっ、父さん帰ってるの? でも、何だってこんな大金……」

「最近、中々顔を合わせることが出来ないお詫びだって」

 

 五枚の一万円札の出処は彼女の夫、星菜の父親らしい。話を聞くに父は星菜が熟睡している深夜の時間帯に帰宅し、今は仕事の疲れを癒す為に布団の中に居るようだ。

 星菜の父親はIT企業「シャイニング」に勤めている。その会社は近年から台頭し着々と勢力を伸ばしている一流企業なのだが、収入に恵まれている半面激務であり、休暇は少ない。その為学生である星菜や弟の海斗とは時間が合わず、姉弟とも中々実父と顔を合わせることが無い――というのが泉家の親子関係であった。

 

「……別に、そんなのいいのに」

「そう言わないで、貰える物は貰っておきなさい。このぐらいのお小遣いでもあげないと、自分が何の為に働いているかわからないって言ってたわ」

 

 半ば強引に渡された計五万円の札束を受け取り、星菜は眉尻を下げる。顔を合わせることが少ない父親ではあるが、それでも彼の都合をわからないほど子供な星菜ではない。それに、父は少ない時間の中でもしっかりと星菜達姉弟へ愛情を振りまいてくれている為、五万円という「お詫び」を受けるほど迷惑を掛けられた覚えが無いのである。

 そんな星菜の反応に苦笑しながら、母は言った。

 

「お父さん、言ってたわ」

「……なんて?」

「星ちゃんがまた野球をやっていることが、嬉しいって。中学のことがあったじゃない? それでお父さん、「俺が野球を教えなければ良かった」って、ずっと責任感じてたから」

「……じゃあ、父さんが起きたら「そんなことはない」って言ってあげないとな」

「ええ、そう言ってあげると喜ぶわ」

 

 星菜が現在野球部のマネージャーを兼業しつつ練習にも参加させてもらっていることは、既に両親に伝えている。その時は二人とも最初こそ良い顔はしなかったが、それでも星菜が決めたことならばと最終的には快く受け入れてくれたものだ。

 

「それで、その五万円は新しいグローブを買うお金にでも使ったらどうかって」

「父さん……」

 

 父は大の野球好きである。

 星菜が幼少の頃から好んで野球に打ち込んでいたのも、そんな父親の姿がきっかけだった。

 野球に関することで気になったことがあればいち早く彼に質問し、悩み事もまた真っ先に聞いてもらっていた。仕事が忙しくなってからはそう言った相談事は小波のような頼れる先輩、友人達を相手にすることが多くなったが、ここぞというところではやはり父親が助けてくれたものだ。例えば件の騒動の後日に白鳥中学の監督を辞任に追い込んだことや、校内での星菜の立場を悪くしないように信頼出来る教師達に話を付けてくれたこと等……例を挙げればキリがない。

 

「お詫びをされるどころか、こっちがお詫びしたいぐらいなのに……」

 

 そのように、昔から父には助けられてもらってばかりいるのだ。それがわかっているからこそ星菜は中々顔を合わせることが出来ない父親に対し尊敬こそ抱いても、悪感情を抱くことはなかった。

 故に、この札束を受け取る気にはなれない。自分には受け取る資格があるとは思えないのだ。

 星菜がそう言って札束を返却しようとするが、母はその手をそっと押し返した。

 

「何言ってるのよ。親が子に尽くすのは当然のこと。子供なんて親に迷惑掛けてなんぼなんだから。貴方の場合はもう少し我が儘になってくれた方が嬉しいぐらいよ」

「……散々、我が儘言っているでしょ。反対を押し切って白鳥に入ったり、一度やめようとした野球をまた始めたり……私って、やってること滅茶苦茶じゃないですか」

「そうね。でも良いんじゃないの? 若い内には滅茶苦茶やっても。子供が迷惑を掛けることばかり恐れていたら、一番したいことも出来ないまま大人になって、後悔する。あの時ああすれば良かったってね」

「……でもだからって、そうやって皆が皆やりたい放題やっても」

「それはそうよ。だから、その為に私達大人が居る。貴方達子供が度を越えるぐらい無茶をやったら、私達がそれを止める。まあ、あのアホンダラ監督みたいな見た目だけ大人な人も居るけど……またあんなことが起こったら、その時は今度こそ私が止めるわ。もう健康面はバッチリだしね」

「いや、母さんにこそ無茶はさせられないよ」

「はいはい。でも、そういうこと。だから貴方は私達を信じて、そうやって周りに迷惑掛けることばかり恐れてちゃ駄目よ?」

 

 母は普段と同じ優しい声で、しかし真剣な眼差しを真っ直ぐに向けて言った。星菜を見つめるその瞳には強い感情と大きな説得力が込められており、その言葉は自然と胸の中に落ちてくるものだった。

 

「……そういうものなのかな」

「ええ、そういうものよ。だからそのお金も、今は有り難く受け取っておきなさい。でも、後でお父さんにお礼を言うのよ」

「……うん」

 

 大人として、そして親の目でそう言われてしまえば、十五の小娘に過ぎない星菜に言い返すことは出来なかった。泉星菜の中に星園渚という「前世の記憶」があったとしても、星菜の心は紛れもなく繊細な少女の物だからだ。

 そのことを星菜が語らずとも、母と父は理解していた。だからこそ二人は星菜の心を娘としてはっきりと認め、愛してくれている。星菜はそんな両親のことが、思春期が始まって以降は直接口にこそしていないが大好きだった。

 

「ああ、そう言えば。この間星ちゃんが払ったユニフォーム代の分だけど、お母さん財布の中に入れておいたからね。一応確認しておいて」

「え?」

「私に言ってくれたら払ったのに、星ちゃん一人でやっちゃうんだもの。部活に必要な物ぐらい親に負担させなさいって」

「……うん、ごめん。あと、それと……」

 

 そう、口には出さなかったのだ。

 今、この時までは。

 

「……ありがとう、母さん。母さんも父さんも、大好きです……」

 

 弟に聞かれたら悶えものだな、と。

 そう思いながら言い放った言葉は、母親に無事伝わった。小学三年生か四年生ぐらいを最後に長いこと言っていなかった為か言われた方はしばらくキョトンとしていたが、理解した途端その腕に抱きつかれることになったのは、星菜にとっても予想外の事態だった。

 家の親は案外、親馬鹿なのかもしれない。十五歳も後半になって初めてその疑惑が頭に浮かんだ星菜は、しかし今のところはされるがままになることを選んだ。

 気恥ずかしくはあったが、居心地が良かったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しいグラブの購入は前々から考えてはいたが、学生故の手持ちの少なさからしばらくは諦めざるを得ないという実情が星菜にはあった。

 そこで舞い込んできたこの五万円という大金である。正直に言えば助かるなどというどころの話ではなく、父には感謝の極みであった。これだけあればグラブは勿論スパイクも買い揃えることが出来、これまで以上に練習が捗ることだろう。全くもって、試合に出られない野球選手もどきには勿体無い話である。

 家を出る前に、星菜は川星ほむらに電話を掛けた。新品のグラブということで彼女が以前「新品を買いに行くならほむらも一緒に行くッス!」と目を輝かせながら言っていたことを思い出したからだ。

 しかし彼女からは、今日は都合が悪いという言葉が返ってきた。

 心底行きたそうではあったが、理由を聞くにどうやら彼女は昨日の試合で見付けた課題をノートへ書き殴る作業に忙しく、今は手が離せない状態なのだと。その言葉は星菜の胸に痛いほど突き刺さり、星菜は必要な物を購入次第即行で帰宅し、反省文を書くことを心に誓った。

 その為には、楽しんで商品を選ぶわけにはいかないだろう。

 

「グラブと言えば、ここだな」

 

 星菜がランニングがてら表に出て早速向かったのは、駅付近にある野球専門の用品店だった。周囲にも何軒かスポーツ用品店が建っているが、その中でも星菜は昔行き着けていたお気に入りの店を選んだ。

 店の名前は「太田スポーツ用品店」。店長の苗字がそのまま看板になっている、何の変哲もない用品店である。店内は決して広くはないが名の通ったメーカーが製作した品質の良いグラブやバットが豊富に並んでおり、星菜の要望にはまず応えてくれるだろうという安心感があった。

 

「ヘイ! いらっしゃー……い?」

 

 星菜が手動の扉を開けて入店するとレジに立つ店員の男から威勢の良い声が上がったが、星菜の姿を見るなり目を丸くして固まった。思わずクスッと笑みが溢れる。野球をする人間が入店する野球用具専門店の中に、そんな競技とは無縁そうな女子高生が一人で入ってきたのだ。店員がこうも露骨な反応なのは些か気にはなったが、驚くのも当然だろうと星菜は思った。

 少し前までなら奇異な目で見られることに不愉快さを感じたかもしれないが、今の星菜は精神的に安定していた。母と交わした言葉が、幾分か心を楽にしてくれたのかもしれない。

 店員と目が合ったので愛想笑いを返すと、星菜は目的である左利き用の投手用硬式グラブを見つけるべく店内を移動した。

 

 ――と、その時だった。

 

「あっ」

「む?」

「ほう」

 

 バッタリ、と。

 特徴的な黒紫色の髪の男と、その後ろで店棚のキャッチャーミットを左手にはめて弄んでいる、男と同じ髪の色の少女と出会したのである。

 それは情けない姿を晒した昨日の今日では星菜が最も会いたくなかった人物である六道明に加え、そんな情けなさとは対照的な強い少女――六道聖との再会だった。

 

 


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