外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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スクランブル

 

 カキィン!――と、恋々高校の三番打者奥居の払ったバットが、波輪の投じたストレートを捉えた。

 山を張ったコースに丁度良くボールが来たというところであろう。1、2、3のタイミングで振り抜いたバットは、150キロを超える剛速球をものの見事に弾き返してみせた。

 

 ――アクシデントが発生したのは、まさにその瞬間だった。

 

 マウンド上の波輪が、左膝を押さえて蹲る。

 星菜の隣に座るほむらが、悲鳴混じりに叫んだ。

 

「波輪君っ!」

 

 あまりにも一瞬過ぎた為に反応が遅れたが、星菜はほむらから上がった叫びとマウンドから(・・・・・・)サード方向へ転がっていく白球を見て、今しがた起こった出来事を理解した。

 

 奥居の打ち返した打球が、波輪の左膝に直撃したのである。

 

 転々としていくボールをサード池ノ川が慌てて拾い一塁へと送球するが、バッターランナー奥居は既に一塁ベースを駆け抜けていた。記録は内野安打となり、これでツーアウト走者一塁二塁となる。しかし今の竹ノ子高校のベンチにとって、得点圏に走者を出したことなど問題ではなかった。

 竹ノ子高校はこの試合どころか、今後の野球部に関わるほどのピンチを招いてしまったのである。

 

「おい! 波輪にスプレーを持っていけ!」

「は、はい!」

 

 監督の茂木が血相を変えてベンチから立ち上がり、付近の部員に向かって怒鳴るように指示を飛ばす。普段常に気だるげにしている茂木だが、この時の表情は星菜達が今までに見たことがない感情が浮かんでいた。

 

(あの当たり方はまずい……)

 

 踏み込んだ足である左膝の――それも丁度皿の部分に当たったのだ。ラインドライブの掛かった奥居の打球は鋭く、直撃後の跳ね返り方も尋常ではなかった。マウンドに蹲った波輪は立ち上がることが出来ず、苦悶の表情を浮かべていた。

 内野手全員が集まったマウンドへと茂木の指示を受けた部員が駆け寄り、その手に持ったコールドスプレーを波輪の膝に吹きかける。しかし焼け石に水か、それでも波輪の表情が和らぐことはなかった。

 

「波輪、一旦こっちに下がれ! 池ノ川と外川は肩を貸してやれ!」

 

 即座に「最悪の事態」へと判断が及んだ茂木が、この試合初めてベンチから出て声を上げる。

 早急にベンチに下げ、適切な処置を施す必要があると――この場に居る誰もが同意見だった。

 自力で立ち上がることの出来ない波輪を内野陣の中でガタイの良い二人が支えながら、ベンチへと一歩ずつゆっくりと歩いてくる。

 一方ベンチでは次なる茂木の指示を聞くまでもなく、マネージャーのほむらがクーラーボックスの中から大量の氷とビニール袋を取り出し、アイシングの用意をしていた。

 

(川星先輩……)

 

 打球が直撃したと見るや即座に行動に移ったほむらの対応は、あまりにも素早かった。その間同じマネージャーでありながらもすっかり出遅れてしまった星菜に出来たことと言えば、テキパキとこなされていく彼女の作業を見守っているだけだった。

 そして数秒後池ノ川と外川に連行されてきた波輪がベンチへと腰を下ろし、ズボンの裾を捲り上げた膝にほむらが用意したアイシングを直に当てることで応急処置を施した。

 張り詰めた空気が、その場に漂う。

 波輪の左膝が、青く腫れ上がっていたのだ。

 

「……悪い。ちょっとこの試合、無理かもしれない」

 

 重い沈黙を破ったのは、あははと困ったように笑いながら放たれた波輪の一声だった。その言葉に対し真っ先に反応したのはマネージャーのほむらではなく、監督の茂木であった。

 

「そんなことは当たり前だ。下手すりゃこの試合どころか、大会も危ないぞこれは。……なんとか、加藤先生に診てもらうよう頼むか……」

「すみません、監督。つつッ……」

 

 普段は野球部の監督とは思えないほど覇気の無い男だが、それでも選手の怪我についてだけは口を酸っぱくして気を付けるように言っていたことを星菜は思い出す。そして実際に怪我人が発生した今、彼の姿は星菜達の知る茂木林太郎とはまるで別人のように見えた。

 だが、そうやって感心している場合でもない。試合中のエース投手の戦線離脱が何を意味するのか、それが理解出来ない星菜ではなかった。

 

「……いや、お前が悪いわけじゃない。あんな打球は現役時代の俺にだって捕れないさ。それでも、もう少し上手く避けてほしかったところだけどな」

「おお痛たた……打球が速すぎて……悔しいなぁ全く……」

「波輪君、大丈夫ッスか……?」

「折れちゃいないと、思いたいけど……」

 

 彼にとって膝の痛みと降板せざるを得ないことへの歯がゆさ、そのどちらが大きいかは、星菜にはわからない。だがどちらにせよ、監督の茂木が下せる決断は一つだった。

 

「ピッチャー交代だ」

 

 そして次の問題は、彼が降りたマウンドに誰が上がるかということになる。

 今この場に控えの一番手である青山が居れば間違いなく彼に出番が回ってきたところだろうが、この日に限って彼は不在という状況である。彼の他に投手経験のある者と言えば、散々な内容ではあるが紅白戦で登板したことのある池ノ川貴宏だけだった。

 彼がマウンドに上がればたちまち同点に追い付かれ、そのまま一気に逆転されるであろうことは想像に難くない。何せいきなり小波大也を相手取ることになるのだ。後半戦を残して攻守の要である波輪が引き下がれば、竹ノ子高校としては厳しい戦いになるだろう。

 いや、間違いなく負ける。その確信が星菜にはあった。

 しかしだからと言って、仮にもチームの一員である自分が諦めるわけにはいかない。今後の試合展開を考えると絶望的だが、星菜は波輪に代わってマウンドに上がることになるだろう池ノ川に向かって月並みの応援の言葉を送ろうとする。

 

 その時だった。

 

 星菜がグラウンドに向けた視線を、監督の茂木が遮ったのである。

 

「……泉、準備しろ」

「はい?」

 

 そして次の瞬間、彼は言った。

 

「波輪に代わって、お前が投げろ」

 

 波輪が降りたマウンドを守る――茂木はあろうことか、その役目に星菜を任命したのである。

 星菜にとってそれは、決して思いがけないと言うほどの言葉ではなかった。そんなことはまず有り得ないだろうと考えていた一方で、心のどこかでは期待していた部分もあったのである。

 或いは多くの悩みを抱えた胸の中でも、「自分なら波輪の後を守り抜けれる」という自信だけはあったのかもしれない。この時茂木から指名を受けたことで、星菜は己の本心がどこにあるのかを理解した。

 だが同時にそれが波輪の不運を喜んでいるように思えて、心底どうしようもない女だと自己嫌悪に浸った。

 そんな星菜の姿から何を悟ったのか、茂木は星菜に対して、安心を促すような微笑を浮かべた。

 

「まあ、細かいことは気にするな。どうせ非公式の練習試合だ。今向こうと話を付けてくるから、それまで肩を温めて待っとけ。池ノ川のように四球さえ連発しなければ構わんから、結果は気にしないで思い切り行ってこい」

「あの、私は……」

「おっ、星菜ちゃんが投げるのか。いきなりピンチの場面で投げさせて悪いな」

「波輪先輩……」

 

 本当に、自分が試合に出ても良いのだろうか。

 女子選手である自分が……それも数日前練習に参加したばかりの自分が茂木の指名を受けたからと言って、図々しくマウンドに上がることを他の部員達は何も思わないのだろうか。

 主将の波輪は、優しいから何も思わないかもしれない。だが、しかし――やはり後暗い、負い目のような感情が星菜の心にはあった。

 

「頑張れッス、星菜ちゃん!」

「えっ、星菜ちゃんが投げるの? よっしゃ、これで勝てる!」

「が、頑張ってくださいっ!」

 

 しかしそれでも周りに目を向ければ、聴こえてきたのはそんな自分すらも快く応援してくれる彼らの言葉だった。

 初めて練習に参加した時から、彼らは何かと自分のことを気にかけてくれた。

 

(野球は下手くそだけど……私とは比べ物にならないほど、良い人達なんだよな……)

 

 ここ数日部の一員として共に練習してきたことから星菜は散々思い知らされてきたつもりだが、竹ノ子高校の野球部員達は揃いも揃ってお人好しなのである。

 星菜自身これまで素の自分を隠して優等生として演じ続けてきた効果もあり、自分に対する彼らの心象はすこぶる良いことには気づいており、この野球部に居る限りは中学時代のような目に遭うことはないともわかっているのだが、それでも星菜の心から本質的な恐れが消えることはなかった。

 己が望むことを行うことによって起こることが、怖くて堪らないのだ。

 

(……私は……)

 

 試合に出たいのか、出たくないのか。答えは問われるまでもなく決まっている。

 後はこの恐怖に打ち勝てば良い。それだけなのだが、星菜にはそれだけのことが難しかった。

 

 その時、頭の中から男の声が聴こえた気がした。

 

『投げたくて仕方が無い癖に。断る理由なんか無いだろう?』

 

 ――ああ、そうだ。私はこの時が来ることをずっと待っていた。

 

『しのごの言わずにマウンドに上がりなよ。そうすれば自然と、余計なことは考えられなくなる。だから何も、怖くなんてないさ』

 

 ――他人事だと思って簡単に言うよ……。でも、「お前」の言うこともわかる。

 

(……何だって今になって出てくるんだよ、星園……)

 

 心の中で溜め息をつくと、星菜はちらりと恋々高校のベンチに目を向ける。そのベンチの前にはこの回の裏に遂に登板するのであろう、キャッチボールで肩を慣らしている緑髪の少女の姿があった。

 

「……わかりました」

 

 練習試合とは言え、試合で投げることが出来る。

 そして何よりも、これは同じ女子野球選手として尊敬している彼女と投げ合うことが出来る千載一遇の機会なのだ。

 それだけ舞台が整っているのなら、今後どうなろうと悔いは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バッターボックスの外でスイングを繰り返しながら、小波大也は試合の再開を待っていた。

 相手竹ノ子高校のエースである波輪風郎が、奥居の放ったピッチャー返しによって膝を負傷した。

 直撃という二文字がこの上なく当てはまる嫌な当たり方をしていた為、恐らく波輪がこの試合中にマウンドに戻ってくることはないだろう。彼には気の毒であるが、小波からは不運としか掛ける言葉が無かった。負傷の原因を作った奥居はただ綺麗なピッチャー返しを放っただけであり、彼が責められる謂れも無い。

 

(でも、健太郎君が星ちゃんの頭に当てた時はすっごい謝ってたなぁ)

 

 投手という捕手の次に打者から近いポジションを守っている以上、常に起こりうるアクシデントである。投手は日本野球の華ではあるが、最も危険なポジションでもあるのだ。

 

《竹ノ子高校の、選手の交代をお知らせします》

 

 場内のアナウンスが響く。

 小波の予想通り、竹ノ子高校は波輪を交代させるようだ。夏の大会を控えている今、たかが練習試合で無理をさせたところで悪戯に彼の将来を傷付けるだけだ。竹ノ子高校の監督は賢明な判断をしたと小波は思った。

 

《ピッチャーの波輪君に代わりまして――泉さん》

 

 そしてアナウンスが告げた二番手投手の名に、小波は思わず笑みが溢れた。

 

「……向こうの監督が加藤先生と審判を集めて何か話していたと思ったら、やっぱりそういうことか」

 

 竹ノ子高校のベンチから、使い古したグラブを右手に付けた少女が駆け出してきた。

 小さく揺れるセミロングヘアーの黒髪からは、中学時代坊主頭だった頃の彼女とはまるで違う印象を受ける。噂には聞いていたが今の彼女はかつてより身だしなみに気を配っているようで、中学時代の彼女しか知らない者が見れば全くの別人に見えることだろう。

 だが、彼女と幼馴染の間柄である小波大也には一目でわかった。

 彼女が自分の知っている、「泉星菜」であることを。

 

「あの監督は、凄い名将だ。本当にもう、最高の継投をしてくれたよ」

 

 嬉々とした呟きが、小波の口から溢れる。既に小波の中では、彼女を波輪の代役に任命した竹ノ子高校の監督の株が上限を極めていた。

 なんたる僥倖か。試合前からあわよくばという期待はあったが、よもやこのような形で彼女とあいまみえるとは思わなかったものだ。

 

(あの子と対戦するのは中学最後の紅白戦以来か。あの時の三振は、今でも忘れないよ)

 

 マウンドに上がった彼女はすぐに捕手を座らせると、テンポ良く投球練習を行っていく。急な事態に肩が出来上がっていないのではないかという心配は少なからずあったが、彼女は五球も投げれば十分とばかりに実戦に使えるボールへと仕上げていった。

 

(あまり投げ込まなくても、君なら感覚で制球出来るよね。ああ、楽しみだ)

 

 数分後、緊急登板の為通常よりも多く球数を放った彼女の投球練習が終了する。

 アウトカウントは二つ。走者は一塁と二塁に二人。現在自分が置かれているその状況を忘れかけてしまうほどに、この時の小波は高揚していた。

 

「……ありがとう、と言っておくよ」

「む?」

 

 打席に入る際、小波は竹ノ子高校の捕手に対して声を掛けた。尤も、返事は期待していない。ただマウンドに上がった彼女の姿を見れば、その場で言わずにはいられなかったのだ。

 中学時代、練習試合すらも出番を与えられなかった彼女が、今こうしてあの場所に居る。例えそれが竹ノ子高校にとって不測の事態だったとしても、今一度言いたかった。言わなければならなかったのである。

 

「あの子のことを受け入れてくれて、ありがとうございます」

「仰る意味がわからんのだが……ピッチャーがマウンドに上がるのは当然だろう」

「ふふ、そうだね。確かに君の言う通りだ」

 

 捕手から返ってきた怪訝そうな言葉に、小波は苦笑する。

 見回せば竹ノ子高校の面々は彼女がそこに居ることを当前のこととして受け入れており、小波にはその光景が何よりも嬉しく思えた。

 

(さあ星ちゃん。あれからどれだけ成長したか、僕に見せてくれ!)

 

 クローズドスタンスに立ち、バットを最上段に構える。

 その眼光に見据えた投手泉星菜の挙動を、小波は一挙一動とて見逃す気は無かった。

 

「プレイ!」

 

 球審から試合再開の声が掛かり、彼女がセットポジションに入る。

 しかし捕手とのサイン交換が上手くいかないのか、数秒の長い沈黙がその場を支配した。

 

 十秒過ぎた後でようやく右足を上げると、待ち待った第一球を――

 

 セカンドベースに向かって投じ、帰塁に遅れた二塁走者が刺された。

 

 


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