外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
星菜が野球部の練習に参加することを表明した際は部員達一同から大いに驚かれたものの、不思議なことに批判的な声を浴びることは全く無かった。おそらくは監督の茂木や主将の波輪から根回しがあったのかもしれないが、日頃の自分の行いが功を成した結果だとも星菜は思っている。
中学時代の過ちを二度と繰り返さない為、星菜はこれまで常日頃から他人から嫌われぬようにと心象の良い態度を心がけてきたつもりだ。ほむらの前では少々あったが彼らの前では素の性格を出したことはほとんどなく、常に礼儀正しく、そして控えめな言動をしてきた。彼らからこうもすんなりと受け入れてもらえたのは、そう言った自分が被っている猫を好意的に見られているからなのだろうと星菜は考えていた。
本来の自分は、決して彼らの思うような上品な人間ではない。だが演技でも上品ぶることによって泉星菜という人間が評価されるのなら、その方が良かった。
――こうして彼らの中で、純粋に野球に打ち込むことが出来るのだから。
拙いコミュニケーション能力ながらも星菜は周囲に対して内に篭った感謝の気持ちを振りまくと、思うがままに自己の練習に励んだ。普段は猫を被っているが、練習に集中している間だけは普段よりも自分らしく在れるような気がした。
そして、時は土曜日へと移る。
主将の波輪はもちろんとして、この日を待ち望んでいた野球部員は多い。何せ今年の新チームが始動して以来、初めて行う対外試合なのだ。竹ノ子高校の校舎の前にて多くの野球部員達が集合しているその場所には、練習日以上の緊張感が漂っているように見えた。
試合を行う山の手球場へは朝の八時に校舎前に集合し、民間のバスを利用して移動する予定である。皆それなりに気合が入っているのであろう、星菜は集合時刻よりも十分以上前に到着していたのだが、その頃には既に十七人もの野球部員達が集まっていた。
「あ、星菜ちゃんだ。ユニフォーム、似合ってるじゃん」
「こんな地味なユニフォームでも着る人が着れば変わるでやんすね」
「……ありがとうございます」
この日、星菜が身に纏っていたのは前日まで練習着として使っていた高校指定のジャージではなく、緑色を基調とした竹ノ子高校のユニフォームであった。監督の茂木が気を利かしてくれたのか練習に参加すると言った次の日からメーカーに発注を頼んでくれたらしく、昨日の練習が終わった後に星菜の元まで届いた次第である。
急ピッチで仕上げてもらった為にその出来には些か不安はあったものの、実際に着てみれば特にこれと言った問題はなく、星菜の寸法にピッタリと合っていた。
サイズが小さい為に端からは高校球児と言うよりもリトルリーグの選手に見えるだろうが、開口一番に社交辞令を言ってきた波輪を始め、無闇にこちらのコンプレックスを突いてこなかった部員達の優しさに星菜は感謝した。
当然のことながら、背番号は貰っていない。星菜自身も元より今回の試合に出場する気は持ち合わせておらず、出場する資格があるとも思っていなかった。
ベンチ入りメンバーの十八人の中で、試合に出れるのは実力のある一部の人間だ。星菜は自分の実力が他の補欠部員よりも劣っているとは思っていないが、それでも彼らから受ける心象の良し悪しについては常に頭の中にあった。
ほんの数日前に入部してきたばかりの女子選手が、入学時からこれまで野球部員として頑張ってきた自分達を差し置いて試合に出る。それがどれほど大きな顰蹙を買うことになるのか、気に掛けない星菜ではなかった。
無論、本心を言えば試合には出たい。しかしそのことでチーム内に不和が生まれるのなら、星菜は幾らでも自分の気持ちを押し殺すつもりで居た。
「これで監督以外は全員揃ったか?」
「先輩、青山の奴は腹痛で休むみたいッスよ」
「はあ? アイツ、しょうがねぇなぁ……」
故に星菜は、自ら前に出ようとはしない。
投手が一人欠席したという報告を聞いてこちらを一瞥してきた主将の視線にも、先程からチラチラと何か言いたげにこちらを見ている元友人の視線にも、あえて気付かないフリをしていた。
突発の欠席部員が約一名出たものの、無事に集合が完了した竹ノ子高校野球部員達はバスに乗り込み、球場へと向かった。これがあかつき大附属や海東学院のような資金に余裕のある学校ならば専用のバスが用意されていたのだろうが、生憎にも竹ノ子高校は田舎の公立校である。一般の利用客も乗り合わせているバスの中では若干窮屈だったが、今の星菜にとっては然程気になる問題ではなかった。
移動中の星菜の頭は、今回の練習試合の対戦校のことで一杯になっていたからだ。
(恋々高校か……)
練習に支障を来す恐れがあった為に昨日まではなるべく考えないようにしていたが、やはり当日になるとどうにも落ち着かないものだ。恋々高校と言えば昨年から共学になった元女子校というのが一般的な認識だろうが、星菜にとってはそれだけではない。
早川あおいと小波大也という、自分が世話を掛けた二人の恩人が居る高校なのである。
今回は試合をしに来ている以上、あまり話すことは出来ないだろう。しかし星菜の心には、二人に会えるかもしれないという期待が少なからずあった。
(いや、でも会わない方がいいのかもしれない。あおいさんはともかく、あの人とは……)
会いたいようで、会いたくないような。
言葉には表現し難い、複雑な心境だった。
星菜の心構えが曖昧な間にもバスは滞りなく進行していき、程なくして山の手球場へと到着した。
山の手球場は良く言えば年季のある球場で、悪く言えば古めかしい球場だ。しかしそれでも高校野球の公式戦で使われることがある程度には整備されている為、普段校庭のグラウンドで練習している竹ノ子高校野球部からしてみれば立派な野球場には違いなかった。
星菜達が球場入りすると場内では既に恋々高校の選手達が練習している最中であり、こちらの来訪に気付いた主将が一同の練習を中断させると帽子を外して挨拶してきた。竹ノ子高校の主将波輪もそれに応え、メンバー全員で挨拶を返した。
「やっぱりキャプテンは小波君なんスね」
「……みたいですね」
星菜がこの空気を味わえたのは、年にしてリトルリーグ以来のことだった。しかしそのことに感動するわけでもなく、今一つ実感が沸かないというのが正直なところだった。
女子選手である自分が、ここに居て良いのだろうか――そう言った後暗い感情は、ここでも付き纏ってきていた。
「俺らも始めるぞ。良いっすよね監督?」
「ああ、試合は一時からで、それまでは好きに練習して良いんだとさ。くれぐれもあちらさんの邪魔はするなよ」
「おし、じゃあ空いてるとこ使ってランニングするぞ」
竹ノ子高校用に割り当てられたベンチに野球用具を置くと、星菜達は波輪に先導されて土のグラウンドへと足を踏み入れる。普段のように一同整列してランニングから始めようとするが、一人だけ列に加わらない者が居た。
「おい鈴姫、始めるぞ」
「………………」
「おーい!」
「……ああ、すみません」
鈴姫健太郎――彼は一人その場に佇み、恋々高校の練習風景を眺めていた。
波輪が二度声を掛けたことでようやく反応を返したが、すぐにまた立ち止まってしまい、再びあちらの方向を眺め始めた。
いや、眺めていると言うよりも、もはや睨んでいると言った方が正しい鋭い目つきをしていた。
まさかと思い星菜が目を向けるが、彼の視線の先に居たのは恋々高校の主将――小波大也であった。
(まったくアイツは……)
中学時代は同じ野球部で先輩と後輩の関係だった二人だが、鈴姫は先輩である彼のことを慕ってはいない。
実際に二人が喧嘩をしているところまでは見たことないが、星菜が野球部を退部して以降、「あんな奴」だとか「役に立たない先輩」だとか、頻繁に彼の陰口をついていたことが記憶にある。
当時から鈴姫は彼に対して深い憎しみを抱いているようだったが、星菜にはその理由に心当たりがあった。
「練習、始まりますよ?」
「……あ、ああ。悪い、大丈夫だ」
恐らくは、自分のせいだ。
恨みの原因は、この泉星菜にある。それがわかっているが故に星菜は列から外れて鈴姫の元に駆け寄ると、彼の意識を覚ますべく強引に腕を掴んでこちらに引き寄せた。
(……本当に、まったくもう……)
冷静なようで、一つの感情に囚われると途端に周りが見えなくなる。鈴姫健太郎という男は、そういう男だ。一度説教したくもあったが星菜にもまた同様の部分がある為、強く口に出すことは出来なかった。
だがぼそりと、ほんの小さな声だが思わず漏れ出てしまった。
「……私達は、野球をする為に来たんだからさ……」
近くに居た為にその言葉を聞き取ってしまったのか、鈴姫は一瞬驚いた後、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
そして星菜は、自分が言ったその言葉に納得し、頷いた。
そうだ、自分達は野球をする為にここに来たのだ。
だから今は、それだけを考えれば良いのだと――。
午前中の間に練習を切り上げた竹ノ子高校は軽く腹ごしらえを済ませ、刻一刻と迫る試合開始の時を待つ。
時刻は既に正午を回っており、両チームともスターティングメンバーが決定している。今回出場するそれぞれの九人の名前がアナウンスから発表されると、センター後方の電光掲示板に次々と浮かび上がっていった。
先行は恋々高校。そのメンバーは、星菜とほむらが偵察した際に見た物とはところどころ異なっていた。
一番ショート佐久間。
二番レフト球三郎。
三番ピッチャー奥居。
四番キャッチャー小波。
五番サード陳。
六番ライト天王寺。
七番ファースト小豪月。
八番センター村雨。
九番セカンド茂武。
これが、今回の恋々高校のスターティングメンバーである。
星菜が気になったのはやはり先発投手の名前だ。パワフル高校戦で先発した早川あおいの名前がメンバー表から外れており、二番手として登板した奥居が先発投手となっている。その他はセカンドを守っていた
これを見てはっきりしているのは、あの山道翔を打ち崩した打線とほぼ同じ面子が相手になるということだ。こちらの先発投手である波輪からしてみれば、相手にとって不足は無いと言ったところだろう。
そして、高校の竹ノ子高校である。
一番センター矢部。
二番キャッチャー六道。
三番ショート鈴姫。
四番ピッチャー波輪。
五番ファースト外川。
六番サード池ノ川。
七番セカンド小島。
八番レフト義村。
九番ライト石田。
茂木が発表したそれは、星菜が監督でもそうするだろうと言うところの顔ぶれだった。
星菜もまた日頃の練習を見て他の選手よりも優秀だと感じたのは、この九人である。本来ならばライトを守るのは一年生の青山だったかもしれないが、腹痛で休んでしまった以上はこれが現状のベストメンバーであった。
下位がやや薄いかもしれないが、上位打線に主力を固めて四番の波輪の前にランナーを溜めた方が竹ノ子高校としては効率が良いと星菜は考えていた。
「ビシッと頼むッスよ波輪君!」
「頑張ってください、波輪先輩」
勝敗の鍵を握っているのは、やはり波輪の活躍である。星菜は微力ながら彼を応援するべく、ほむらに続いて声を掛ける。すると彼は快活に笑い、右肩を回しながら「よーしお兄さん頑張っちゃうぞー!」と気合の入った声を上げた。
「なに!? ずるいぞ波輪っ!」
「ふはは、日頃の行いだよ日頃の」
「うぜぇ……」
「星菜ちゃん、オイラにも応援の言葉が欲しいでやんす!」
「はい。頑張ってください、先輩」
「……フッ、もはや今のオイラに敵は居ないでやんす」
試合に出場しない人間にも、出場しないなりの役目はある。本当はランナーコーチを引き受けたいところだったが今の自分はそこまで選手達から信頼されていないのか、その役目は他の補欠部員が行うことになっていた。人の良い彼らは皆口を揃えて「星菜ちゃんはここから応援の言葉を掛けてくれれば十分すぎるよ」とフォローしてくれたが、本当に役に立っているのかという不安は拭えなかった。
そして、時は来た。
時計の指針が午後の一時を差した瞬間、一斉に飛び出した竹ノ子高校、恋々高校両陣の選手達が審判員達の待つホームベース付近へと整列し、一礼を交わした。