外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
成り行きでクラスの人気者である泉星菜と友達になった日から、数日経った日のことである。
鈴姫の自宅は彼女の自宅の近くにあった為、放課後の帰り道は二人で一緒に歩くことになっていた。その際下校中の二人を見たクラスメイト(主に男子)達は揃いも揃って冷やかしの声を浴びせ掛けてきたものだが、鈴姫にとってはそれもまた心地の良い物であった。冷やかされることによって自分が彼女の隣に居ることをより強く実感出来る為、寧ろご褒美だったのである。
多分、自分は彼女に対して「そういう感情」を持っているのだろう。幼いながらも鈴姫は、当時から己の気持ちを何となく理解していた。
そんなある日、彼女は唐突に切り出した。
『やきゅう?』
『うん、野球! 前の学校に居た時は軟式のをやってたんだけど、四年生になったら硬式のリトルに入ろうって思ってるんだ』
『星ちゃん、野球やってたんだ。運動神経抜群だもんね』
『ふへへ、それほどでもあるよ!』
軟式だの硬式だのという話は当時の鈴姫にはわからなかったが、野球というスポーツの存在はもちろん知っていた。仕事から帰宅してきた父親の傍らで、何度かプロ野球の試合をテレビで見たことがあったのだ。
常識として野球は男が行うスポーツだということも知っていたが、鈴姫は彼女がそれを行っていることに関しては何も不思議に思わなかった。
何と言っても彼女は天才だ。女子ではあるが、学年に居る男子の誰よりも高い運動能力を持っているのだ。ドッジボールでは誰も捕れないほど速い球を投げてくるし、五十メートル走もクラスで最も速く、体育の時間では常にヒーローであった。
故に、鈴姫は驚かない。彼女ならば当然のように野球も上手いのだろうと、心から納得していた。
『……ケンちゃんは、変に思わないんだね』
『え? なんで?』
『ふふ、何でもない。でね、もし良かったらさ……』
だがそんな鈴姫にも、彼女が言い放った次の言葉には驚かざるを得なかった。
『ケンちゃんも来年、一緒に野球やろうよ!』
――ふと、過去の思い出を振り返った。
自分が野球をするようになったきっかけ。今の自分の原点。それこそが、彼の全てであった。
七年も前になる思い出を今更になって振り返ったのは、今朝に見た夢の内容と、今目の前に当の人物が居ることが原因であろう。
(まずい、余計に集中出来なくなった……)
現在鈴姫は近くからトスを上げてもらったボールをネットに向かって打つ「トス打撃」を行っているのだが、十九球ものボールを打っても尚思い通りの感触を得られなかった。
とにもかくにも集中力が足りない。練習中に過去の思い出を振り返っているようでは、とてもではないが集中出来ているとは言えないだろう。
これじゃあ矢部先輩達のことは言えないな、と心の中で自嘲の声を吐く。すると、二十球目のボールをネットに突き刺したところで彼女がトスを上げる手を止めた。
「……スランプ、ですか?」
そして、訊ねてくる。
本調子でないとは言えそれでも並の選手よりは鋭い打球を飛ばしており、大半の野球部員達にも隠し通せる自信があったのだが、彼女にはやはり気付かれていたようだ。「ああ」と、鈴姫は短く肯定の言葉を返した。
「……スランプと言うのは、一流の選手になってから初めて使える言葉なのですよ?」
「......わかってるよ。相変わらず、君は手厳しいな」
「……スイングに力みがあります。両肩に力が入りすぎていますね」
「……だろうな」
「……気づいていたのなら、もう少し意識して練習してください」
「……申し訳ない」
「……いえ、こちらこそ、出過ぎた発言をすみませんでした」
「ああ……」
「………………」
「………………」
実に、気まずい空気である。彼女との会話の間には、やはり言い知れぬ空気が漂っていた。
昔とは偉い違いだな、とつくづく思う。これまで積み重ねてきた多くの苦難が、お互いの心を変化させてしまったのである。
しかし、そんな会話でも久方ぶりに彼女と言葉のやり取りが出来たことに、鈴姫は喜びを感じていた。
今になってもまだ、彼女に対する感情は変わっていないらしい。鈴姫はそのことを、改めて理解した。
「……あの……」
鈴姫が器用にも無表情でそんなことを考えていると、星菜がその沈黙を破った。
常に自信満々だった昔とは別人のように、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「……今更、こんなことを言うのは恥ずかしいですが……」
鈴姫は、黙って言葉の続きを待つ。
彼女が何を言うつもりなのかはわからないが、恐らく彼女は、それを言う為に自分の練習に付き合ってくれたのだと直感したからだ。
数拍の間を置いて、彼女は言い放った。
「私も、もう一度、野球をやろうと……思います」
ぎこちなく、しかし最後まで言い切った。
その言葉は鈴姫にとってあまりにも唐突であり、そして同時に、今まで何よりも待ち望んでいたものだった。
「高校では公式戦に出られませんが、それでも……」
「……そうか」
「貴方だけには、先に言いたかった……だから、その……」
「わかった。なら監督やキャプテンにも伝えた方が良いな」
「あ……はい。そうですね……」
本当に、今更の話だと思う。
内心では喜びに打ち震えている筈なのだが、鈴姫がそれを外面に出せないのはこれまでの経緯があるからだ。
涙が出るほど嬉しい筈なのに、笑うことが出来ない。それどころか彼女の言葉が酷くつまらないもののように感じ、気付けば怒りすら覚えている自分が居た。
「……人の気も、知らないで……」
ほぼ無意識に、鈴姫は吐き捨てた。
「なんで君はそうなんだよ……! 勝手に野球部を辞めて……勝手に居なくなって……!」
嫌なことを、思い出す。
彼女に誘われて地元のリトルに入団してから、今に至るまでの野球人生を。
彼女は持ち前の天才肌を遺憾なく発揮しチームのエースとして順調に成長していったが、そんな彼女とは対照的に鈴姫は三年間とも補欠であった。人並み以上に努力したとは思うが、体格が悪かった為に打球がほとんど前に飛ばなかったのである。
そして、中学時代。
鈴姫は小学六年春から必死に勉強し、エリート校である白鳥学園附属中学校へと入学した。地元の公立校に入学しなかったのは、他でもない彼女の進路先がその学校だったからだ。今にしてみればストーカーのように思うが、鈴姫にとって彼女は一番の親友であると同時に憧れの存在であり、最大の目標だったのである。
野球に関してもリトル時代こそ補欠に終わったが、いずれはレギュラーを取り、彼女と同じ試合に出たいと考えていた。それこそが鈴姫の、ささやかな夢だったのだ。
しかしその夢は、半分だけしか叶うことはなかった。
中学に上がって以降、鈴姫は文字通りの急成長を遂げた。小学校時代は140センチも無かった身長は一年で158、二年で166、三年生になって173センチへと変貌していったのである。昔は女子生徒に間違われるほど細かった腕も一年の秋には引き締まった筋肉に覆われ、リトル時代とは比べ物にならないほど打球を飛ばせるようになった。そう言った肉体的な成長に加えて元々持ち合わせていた努力家な性格と野球部の監督の指導法が身に合ったのもあり、二年の春には一番ショートのレギュラーの座を掴み、試合で結果を出すようになった。
中学野球の名門校でレギュラーを掴むという偉業を、鈴姫は成し遂げたのだ。しかし彼が出場する試合のマウンドに、彼女の姿は無かった。
二人の立場は、完全に逆転していたのである。
中学野球で順調に飛躍していった鈴姫に対し、彼女は一度として試合に出ることはなかった。
元々は、女子選手としての身体能力差による挫折だった。
だがそれも「思いがけない出来事」からプロの大投手だった「前世の記憶」を手に入れたことで完全に克服し、彼女はチーム一の投手になった筈だった。
――しかしそれでも、彼女がマウンドに上がることはなかった。
彼女を試合に出さない理由をどれだけ問い詰めても、監督は答えをはぐらかすばかりだった。
そしてある日、彼女の冷遇に異議を唱えた野球部の主将小波大也が監督に暴行を加えるという事件が発生し、責任を感じた彼女は部を退部してしまったのである。
結局、鈴姫の夢は叶わなかった。だがそんな自分事は、もはやどうでもいいことだった。
ただ彼女のことを思い、人知れず涙した。
彼女を終始冷遇した監督のことは恨んだが、自分が選手として成長出来たのは彼のおかげでもあった。彼は彼女への扱い以外は、非常に優秀な指導者だったのである。鈴姫以外にも彼の指導によって大成出来た選手は多く、部員からの信頼は相応に厚かった。
もちろん、だからと言って鈴姫が彼を許す道理は無い。いかに自分を鍛えてくれた恩師と言えど、他の誰よりも大切な友人を傷付けた存在を許せる筈が無かった。
だが鈴姫には、それ以上に許せないものがあった。
「一人で勝手に解決するなって言っただろ! 俺が一体どれだけっ……!」
その一つが、今目の前に居る彼女だ。大事な決断をする前に、自分を頼ってくれない彼女が許せない。
我ながら何とも不器用で、子供じみた理由である。
再び彼女と共に野球が出来るかもしれないことを素直に喜びたいのが本心なのだが、それまでの経緯がそれを許さない。
「……ごめんなさい……」
「なんで君が謝るんだよ……! くそっ、何を言ってるんだ俺は……」
和解して過去の、元通りの関係に戻れればどんなに嬉しいか。
だが過去に二人の間に起こったある一件が、お互いに踏み出すことの出来ない要因となっていた。
自分がもっと、彼女に気を掛けていれば。
もっと、監督に反発していれば。
小波なんかに、彼女を任せなければ……。
今にして思えば、彼女を助ける方法はいくらでもあった。しかし、全てが遅すぎたのだ。
白鳥中学の野球部への入部を期に、彼女は変わってしまった――。
それは野球部の主将、小波大也が泉星菜を巡る口論の果てに野球部の監督を負傷させた事件の後日のことである。
星菜は不運にも事件の現場に居合わせてしまった為、しばらくの間人間不信に陥ることになった。その間、鈴姫は学校の誰よりも彼女の傍に寄り添っていた。小波すらも信じることが出来なくなっていた当時の彼女だが、何故か鈴姫だけには気を許していたのである。
それまで共に過ごした時間が多かったが故に、積み重ねてきた信頼が大きかったのだろう。しかし鈴姫はそのことに特別な優越感を感じることはなく、ただその胸にあるのは彼女の心を追い詰めた監督と、彼女に要らぬ責任を感じさせ、退部の原因を作った小波への怒りだった。
彼女は不登校にこそならなかったが、その瞳には本来の輝きはなくなっていた。そんな彼女の姿を見る度に、鈴姫は胸が締め付けられるように痛くなった。
――もう、小波なんて信じない。これからは、自分が傍に居なければ……。
彼女が最も信頼している友人としての使命感が芽生え、それからというもの鈴姫は何としてでも彼女に元気を取り戻させようと行動した。
野球部の部活は大会もあった為に非常に忙しかったが、希少なOFF日には彼女を連れて遊びに出掛けた。と言っても、行き先は一般的なデートスポットではなく彼女の希望を呑んだ結果高校野球やプロ野球の試合が行われている野球場がほとんどであったが、彼女が楽しめるのならそれで良しとした。やむを得ず野球部を退部してしまった彼女だが、野球そのものへの愛情は全く薄れていなかったのだ。
『健太郎……』
『ん?』
『……ありがと』
事件からあまり日が経っていない間は交わした言葉は多くなかったが、そう言った時間を過ごしたことで彼女の人間不信は少しずつ和らいでいった。最後まで小学生時代のような元気を取り戻させることは出来なかったが、鈴姫は彼女が微笑んでくれるようになったことに対し、ただ安堵した。
その時は、ほとんど恋人に近い関係だったのかもしれない。
鈴姫も彼女も一度として互いの想いを伝えることはなかったが、それに等しい信頼を寄せ合っていた。
――そう、鈴姫は誤解していた。
自分が彼女から誰よりも信頼されていると疑わなかったその自惚れが、最大の過ちだったのである。
小波と監督が引き起こした事件から、一年半もの時間が過ぎた秋。
三年生になり、自身の中学最後の大会を終えたことによって部を引退した鈴姫は、受験勉強の息抜きがてらその日も彼女を連れて屋外に出掛けていた。
行き先は彼女に任せたところ、やはり地元の野球場となった。その日は高校野球の秋の地区予選が催されていたのである。
この時の彼女は、後に出会うことになる川星ほむらにも劣らぬ野球観戦マニアになっていた。彼女いわく野球部を退部した後は暇な時間が増えてしまった為、新しく野球観戦が趣味になったのだと言う。その言葉を聞いて鈴姫には重い沈黙を返すことしか出来なかったが、彼女は柔和な表情で笑ってくれた。
『大丈夫だよ。もうあの時のことは、気にしてないから』
『……ごめん』
『いや、だから気にしないでってば。元々健太郎は何も悪くないんだし』
事件から一年半が過ぎたと言っても、彼女が完全に立ち直ったとは思えない。
今までの自分を――野球にかける全ての思いを否定された挙句、完膚なきまでに打ちのめされたのだ。その気持ちは同じ経験を味わった女子野球選手ならばいざ知れず、男子の野球選手に過ぎない鈴姫には本当の意味で理解することは出来なかった。
それが堪らなく、悔しかった。そしてそんな鈴姫の心情を気遣ってか、彼女は気丈に振舞う。
『これからは、女の子らしく生きることにしたから。だからもう、悔いはないよ』
『女の子らしく、ねぇ……』
『なに? 私、何かおかしいこと言った?』
『いや、別に……』
彼女の言葉を聞いて、改めてその姿を見つめてみる。
野球部に居た頃は坊主頭にしていた頭髪は肩まで掛かるセミロングにまで伸ばしており、艶やかな色合いでよく手入れされている。そして日差しによって黒く焼けていた肌も、彼女が元々持っていた色白さを取り戻していた。
確かに客観的に見れば、女の子らしくしているというその言葉に偽りは無い。野球部に居た頃とは比較にならないほど身だしなみを整えており――本当に、綺麗だった。
以前から元の素材が良いことを考えれば学年の誰よりも綺麗になるだろうとは思っていたが、改めて見ると彼女の容姿はまさに天下一品であった。長い付き合いであっても、思わず見とれてしまうほどに。
『なに呆けてるんだよ?』
『わ、悪い』
ただ一つ、彼女自身が己の魅力についてあまり自覚していないのが難点だろうか。決して鈍感というわけではないのだろうが、彼女はこちらが寄せている想いに気付いていないように思える。
だがそれならばそれで、しばらくはこのままで良いのかもしれない。まだ彼女の心には、こちらの想いを受けるだけの余裕は無いだろう。時間を掛けてからゆっくりと、心を交えていければ良いのだ。
鈴姫は「そういう話」でのこれからのことを思い、小さく溜め息をついた。
『あ、そろそろ始まるみたいだね。健太郎の入る海東高校と、竹ノ子高校の試合』
『……そうだな。どうせ勝ちは見えているけど、一応将来の先輩方を応援するか』
『うん。竹ノ子も二回戦まではなんとか勝ったけど、所詮は一年生チームだからね。プロ注目ピッチャーの樽本からしてみれば、完全試合以外許されない相手だよ』
『さらっと酷いことを言うな君は。せめて周りに聴こえないように言ってくれよ頼むから』
『でも、それを含めて「私」だから……』
『ああ、知ってる。それでこそ星菜らしいな』
『えへへ』
『……なんで笑う。まあ、良いけど』
球場の観客席の一部で交わす、他愛の無い会話。人間不信になった時はどうなることかと思ったが、こうして彼女が自然に笑うことが出来るようになって、とりあえずは一安心だ。そんな笑顔を誰よりも近くで見ることが出来るということも、非常に喜ばしいことである。その際席の近くから誰かが舌打ちする音が聴こえてきたが、鈴姫はあえてその方向に得意気な顔――所謂ドヤ顔を見せつけることで応じてみせた。残念ながら、性格の悪さには自信があるのだ。そうして涙目になった相手を見て、鈴姫は愉悦した。
小波でも他の誰でもない。彼女の隣に居る資格があるのは、自分だけなのだと――この時の鈴姫はそう確信していた。
『プレイボール!』
グラウンドの方向から、主審の声が響く。
鈴姫が当初入学する予定だった海東学院高校と、後に入学することになる竹ノ子高校の試合。二人はその行方を、最後まで見届けた。