外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
泉星菜が野球部を辞めたのは、女子だからではなく泉星菜だったから――十一歳の少女から掛けられた容赦の無い言葉に星菜は落ち込んだが、その一方で目からウロコとばかりに納得していた。
言われてみればなるほど、確かにその通りである。現に早川あおいのように女子でも高校で野球を続けている者は居るのだ。女子だから駄目だったという先ほどの話は、確かに聞き苦しい言い訳だったのかもしれない。
(……言われても仕方ないな。どんな理由があっても、結局諦めたのは私自身が弱かったからだ)
先ほどの話は星菜がかつて体験したことではあるが、実のところその中には嘘も混じっている。
星菜が中学の野球部を辞めた理由は、男女間での能力差に挫折したからではない。その問題に関しては、「前世」の技術を手に入れたことで解決しているのだ。
しかし、それをこの少女に話すことはしない。
何しろ経緯が特殊すぎるのだ。彼女が自分のようにプロ野球選手の前世を持ち、尚且つそれが今後蘇る可能性など考えるべきではなかった。
故に星菜は、「前世の記憶を取り戻さなかった自分」を仮定してみることにした。
「前世」を手本に投球技術を磨いた星菜であるが、あの日もし記憶を手に入れることがなければ、男女間の能力差に挫折したまま野球を諦めたことは想像に難くない。
六道聖の夢を否定するつもりはないが、彼女が昔の自分のように目の前に立ちはだかる壁に対して無知な状態ならば、先輩として助言をしておきたいと思ったのだ。
――しかし言い方が悪かったのか、意図しないところで六道聖を怒らせてしまったようだ。
彼女は明確に敵意を持って、星菜の顔を睨んでいた。
(下手くそだな、私は……)
星菜としてはそのような顔をさせたくて言ったわけではないのだが、彼女には先ほどの言葉が自分の夢を否定しているように聴こえてしまったのだろう。振り返ってみると、やはり言い方に問題があったように思える。
本当の思いを言葉で伝えるのはやはり難しいものだと、星菜はつくづく思った。
(……でも、この子がちゃんと自分の意志を持っていることはわかった。そのことは、嬉しい)
しかし誤解にせよ、野球をしている自分を否定されたことに対して彼女が反発してきたことは、嬉しく思った。
心が折れてしまった頃の自分は、今の彼女のように激する気力すら沸かなかったものだ。彼女にはこのまま、どうか最後まで反発し続けてほしい。
(なら、その気持ちに応えないとな)
その姿は怖いもの知らずだった頃の自分を見ているようで、星菜には全てが懐かしかった。もしも昔の自分が今の自分を見たら、その時は彼女のように強い言葉で否定してくれたのだろうか。星菜には、そう考えずにはいられなかった。
既に「貴方のようにはならない」と宣言された時点で、自分の二の舞を踏ませないというこちらの思惑は果たしているのかもしれない。
だがそれとは別に、星菜はかつての自分と似ているこの少女とは正々堂々とぶつかり合いたいと思った。
――きっとまさる監督は、それが狙いで自分と彼女を対面させたのだろう。
こうして過去の自分と似ている彼女と勝負させることで、今の自分をかつての自分と向き合わせたかったのだと――星菜はこの時、彼の意図をはっきりと理解した。
(過去と向き合うことで変わるものがあると……そう言いたいのですね、監督)
口ではさっぱりわからないと言っておきながら、どうやら彼には全てお見通しだったようだ。
なるほど。これならばこの心も――救われるかもしれない。
「……ふふ」
ボールを持った左手にグラブを添えながら、ゆっくりと後頭部まで振りかぶる。
そのまま流れるような動作で右足を振り上げ、両手を胸の下へと持っていく。
そして目標よりも一塁ベース寄りの方向に右腕を高く上げると、グラブを着けた手首を招き猫の前脚のように折り曲げた。
――見ろ、六道聖。
ボールを持った左腕のテイクバックを極端に小さくし、打者の目からボールの出どころを見にくくすべく全身を使って左腕を覆い隠す。
――これが壁を越えようと足掻いた女の、全力投球だ。
ゆったりとした投球フォームから、腕を振るう瞬間だけ一気に加速し、星菜はボールを放った。
「――ッ!?」
バシンッ!と、今までとは一段違う衝撃音がキャッチャーミットから響いた。その瞬間星菜の双眸が捉えたのは、バットを振ることすら出来ず表情を驚きに染めている六道聖の姿だった。
「ど真ん中だよ?」
「――ッ、くっ!」
前置きなくいきなり投球フォームを変えたのは、少し卑怯だったかもしれない。
だが、こればかりは仕方がない。
あまりにも純粋なこの少女を相手にするには、これ以上白々しく嘘をつきたくなかったのだ。
変化球は使わない。だが、全力で勝負する。それが星菜にとって、今彼女に見せられる最大の誠意であった。
(……言い訳は、確かにしていた)
捕手の六道明からボールを返されるなり、星菜は二球目の投球動作へと移る。予め投げる球種とコースを決めている為に、投球のテンポは早かった。
(……そうしなければ自分を納得させられなかった。……そして、諦めたことを正当化出来なかったから……)
ワインドアップから、ゆったりとモーションに入る。
ボールの握りはストレート。狙いはストライクゾーンのど真ん中だ。
(「あの時」も、悪いのは私だった。なのに私は見苦しく言い訳して、アイツに責任を押し付けてしまった……)
外角でも内角でもない、打者にとってはそのままバットを出すだけで真芯で捉えることの出来る絶好球である。
しかしそのボールを、六道聖は大きく空振りした。
(……今からでもやり直せるだろうか……もう一度、
投球フォームとボールのノビに幻惑され、タイミングが取れていない。いくらコースが甘かろうと、スイングするタイミングが遅ければボールを打つことは出来ない。そして何よりも、今の彼女は星菜に対する怒りからか肩に力が入りすぎていた。
悔しがる六道聖の姿から、星菜は一人の男の姿を思い浮かべる。
かつて星菜が性別間の能力差に苦しんだ時、先ほどの聖のように厳しく叱咤してくれた友が居た。
彼はいつも善意で練習に付き合ってくれて、星菜の目の前にある壁を壊すことを手伝ってくれた。
(……本当に今からでも、遅くないのだろうか……)
しかし、星菜は諦めていた。
本気で野球をすることを。そして、本当の自分と向き合うことを。
(……もう一度戻れるだろうか、あの頃の私に)
似ている境遇でありながら自分とは違い前に進み続けている早川あおいや、かつての自分と同じように未来への希望に満ち溢れている六道聖と出会ったことで、星菜の心には不思議な感情が芽生えていた。
迷いが――恐怖が薄れているのだ。心は安心に包まれており、身体が軽く感じた。
だからか、今の星菜には余裕があった。心なしか視界が広がったように見え、打席に立つ少女の姿もこれまでよりはっきりと見えるようになった。
「始動がワンテンポ遅いよ。それと君は甘い球が来たと思うと無意識に力んで、それまでの集中力が途切れてしまうんだ。ボールがちゃんとバットに当たる瞬間まで、最後まで見届けて」
「なっ、何を……」
「一度深呼吸して肩の力を抜くこと。無理に遠くへ飛ばそうと思えば思うほど、フォームが崩れて自分のスイングが出来なくなる」
「……! そうか……」
彼女、六道聖は小学生――それも女の子とは思えない鋭いスイングをしている。細身な体つきから見るに単純な筋力は少ないのだろうが、全身の使い方やキレ、何より腰の回転が速く、それが彼女のスイングスピードを高めているのだと思える。
彼女の野球歴が何年になるのかは知らないが、若干十一歳とは思えない野球センスである。少なくともプロを目指すと言うほどの才能が、今の彼女にはあった。
「ふふ、素直でよろしい」
「……むっ……」
その上彼女は、かつての星菜よりも純粋な心を持っている。
敵投手の言葉に律儀に従って深呼吸を行う彼女の姿は、星菜の目には微笑ましく映った。
そんな星菜の視線に不機嫌そうに眉をしかめながらも、彼女は再び構えに入った。
「落ち着いたようだね。じゃあ、最後の一球を投げようか」
「そうですね。次のボールを打って最後にします」
「ふふ、出来るものならね」
……ずっと、力んでいたのだ。
己の信念を貫き通すことが出来なかった自分の弱さが悔しくて、そしてそんな自分すらも受け入れられず、言い訳ばかりしていた。
それが、今の泉星菜という女である。
(……私も、もう少し力を抜いてみるか)
投球や打撃のように、もう少し力を抜いて生きてみよう。
彼女達のように、自分の気持ちには正直に生きていこう。
(弱い自分を肯定して、もっと馬鹿になってみるか)
それがきっと、今の泉星菜には必要なのだと思う。
このマウンドに立って、どこかかつての自分と似ている少女と対峙してみて、それがわかった気がした。
(突き当たった先が今度も行き止まりだった時は、また悩もう)
遠回りかもしれない。
全てが無駄に終わるかもしれない。
だがそれ以上に、自分の心には譲れないものがあることに星菜は気付いてしまった。
(どんなに辛くても、私は
それは、理屈ではないのだと。
ただ自分も早川あおいや六道聖と同じように、野球を愛しているのだと。
「行くぞっ!」
だからこそ、もう一度歩みを進みたい。
星菜は振りかぶり、三球目のボールを投じる。
その瞳には何の憂いも無く、ただ純粋な野球選手としての情熱だけが宿っていた――。
決着は両者の宣言通り、その一球でついた。
泉星菜の投げたボールはまたしてもど真ん中のストレートで、しかしその球には今まで以上の威力が込められていた。
対する六道聖は、今度こそそのボールを捉えた。泉星菜の助言に従って始動をワンテンポ早くした力みの無いスイングでバットを振り抜き、グラウンドに初めて快音を響かせたのである。
しかし、打球はヒットにはならなかった。センター方向に弾き返した打球は痛烈なヒット性の当たりだったのだが、投手の泉星菜による素早い反応によってあえなくグラブに収められたのである。
勝敗で言えば聖はこの勝負に敗れたことになるのだが、彼女の打撃を間近で見届けた捕手の六道明は従兄として誇らしい思いだった。
三球ともど真ん中だったとは言え、聖はたったあれだけの助言で星菜のボールをジャストミートしてみせたのだ。他者からの助言を一瞬でモノに出来るのは、立派な才能である。少なくとも、この六道明には無いものだ。
彼女ならばきっと、星菜の言った壁すらも乗り越えていけると思いたかった。
「いい当たりだったけど、惜しかったね」
「……何故、変化球もコースも使わなかった?」
そしてこの場に居る天才は、恐らく聖だけではない。
捕手として彼女のボールを受けた明は、そのことに気付いていた。
「打たれた時の言い訳を残しておく為……と言ったら、君はどうする?」
「……もう一打席、勝負をお願いしたいところです」
「ふふ。そういうところも、リトル時代の私と似ているね。でも、わざと甘いところに投げたのはそんな理由じゃないから安心して」
突然ボールを放す寸前まで左腕を見せない変則的な投球フォームに変えては、三球ともど真ん中に――それも最初の一球から一ミリ足りとも変わらない同じ場所へとストレートを投げ続けた彼女。星菜もまた並外れた才能を持っていることを、明は確信していた。
最初の勝負とは違うフォームで投げてきたが、それでも彼女はほとんど手の内を明かすことなく勝利してみせた。打者に対して、自分が不利になる助言をしてまでもだ。
彼女にとっては、これは始めから勝負ではなかったのかもしれない。
「君はまだ小学生で、覚えることがたくさんある。まだ、私と戦う資格が無いんだよ」
「なに?」
「あ、いや……君を馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ君とはお互い、もっと対等になってから戦いたいと思ったから」
星菜が、真っ直ぐに聖を見る。
「君はもっともっと上手くなる。だから君が良ければ、いつか成長した君と本気で戦わせてほしい」
そう言って、星菜はマウンドを降りる。その横顔を呆けたように眺める聖に対して、星菜は言葉の後に付け足すように言った。
「だからその頃には、「私のようにはならない」と言ったその言葉を、実現させていて。私は君の夢も思いも、否定しないから」
その時の泉星菜の表情はまるで太陽のように明るく、普段の儚さとは対照的な笑顔だった。
これがいつだったか矢部明雄が熱く語っていたギャップモエというものなのか。その表情を向けられたのは明ではなく聖だったのだが、明は思わず顔を赤くしてしまうところだった。この時のことを、明は後に「既に恋人が居なければ即死だった」と振り返ることになる。
そのようなおかしなことになっている従兄の心境を他所に、聖が短く凛とした声を上げる。
「一つ、聞いても良いですか?」
そう言って、聖は田中まさる監督が居るベンチへと向かおうとする星菜の背中を呼び止める。
星菜は歩みを止めると、再びその顔を聖へと向けた。
「本当に中学野球は、貴方のボールが通用しないレベルなのですか?」
その質問は、既に中学野球を経験している明にとっても気になることだった。
一打席目の星菜のボールなら、力のある野球部ならば打つのはそう難しくないだろう。しかし二打席目に見せた星菜のボールならば、よほどコントロールと変化球が悪くない限りは全く通用しないということはなかった筈である。
聖が感情の読み取れない口調で掛けた問いに、星菜が答えをはぐらかすように返す。
「それは一年後、君の目で確かめてみて」
何かを期待しているように、どこか楽しげな表情だった。
聖が求めていた返答を得られなかったことにむうっと唸ると、それを見て今度は星菜が問い掛けてきた。
「不安ですか?」
「……いいえ。不安どころか、今から一年後が楽しみになったぞ」
「――! ふふ、そっか……。これからも練習頑張ってね」
「……はい」
星菜は力強く放たれた聖の言葉に虚を突かれたような表情を浮かべたが、満足そうに笑んでその場を立ち去っていった。
その際「私もあの子に負けないように、頑張ってみるか……」と呟いた彼女の声を、明は聞き逃さなかった。
何も無い真っ白な世界に、一人の青年の姿が浮かび上がる。
一年と数ヵ月前、スローカーブを教わりに来た時以来だろうか。彼とこうして「夢」で会うのは、随分と久しぶりのことであった。
『また、選んだようだね』
彼はこちらの顔を見るなり、嬉しそうに言った。
選んだ――ああ、また選んだのだ。と言うよりも、自分の心と向き合う決心がついたというべきか。
『早川あおいちゃんやあの聖ちゃんって子も、きっと凄い選手になるだろうね』
それは、彼の元プロ野球選手としての勘だろうか。知り合った二人の女子選手からは、他の選手には無い物を感じられた。彼の言うことについては、自分もまた同感であった。
『勝負したいよね、あの子達と』
叶うなら、二人とは公式戦の舞台で勝負したいところだ。
ただそこに至るまでには多くの問題が待っているし、それ以前に自分には、向き合わなければならないものがある。
――明日、アイツと話してみるよ。
彼は許してくれるだろうか。……いや、許してもらえなくてもいい。許される許されないの問題ではなく、自分はそうしなければならないのだから。
『……良いことだと思う。でも、あまり自分を責めすぎるな。自分だけが悪いと決めつけずに、一度彼と思いっきりぶつかり合って、吐き出してしまうのも一つの手だよ?』
その資格が、今の自分にあるのだろうか――わからない。
『うーん、なんでそう一歩引いてでしか自分を見れないのかなぁ。そんな生き方、絶対損してるよ』
そんなつもりではないのだが。寧ろ自分は、周りに甘えながら好き勝手に生きすぎている。
『前会った時も言ったけど、君まで僕に影響されて老いる必要はないよ。今日決めたように、これからは楽にしてみなよ』
うん、わかってるさ……。
ようやくたどり着いた、たったそれだけ決意――青年はその言葉に頷くと霧のように姿をくらまし、そして目覚まし時計のベルによって、星菜の夢は途切れた。