外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
まさか彼女が――というのが、マウンドに上がった星菜に対する六道明の心境である。
かつてリトルリーグでの栄冠を欲しいままにした泉星菜という野球少女の存在を、聖の従兄である明もまた耳にしていた。
明はこのおげんきボンバーズのOBというわけではないが、自身が可愛がっている従妹が入団したリトル野球チームという縁から、部活が休みの日には今日のようにコーチとしてチームの練習に顔を出すことがあった。その折に、明もまさるの口から彼女の噂を聞いていたのである。
しかし今日まで、明は件の「泉星菜」が自分の所属している高校野球部のマネージャーと同一人物だとは思っていなかった。
もちろん、その名が同姓同名であることから彼女のことを連想しなかったわけではない。それでも明が二人を同一人物だと思わなかったのは、まさるの言う「泉星菜」と明の知る「泉星菜」とでは明らかに性格が異なっているからであった。
まさるの話によれば泉星菜という少女は監督のことを呼び捨てで呼ぶような礼儀知らずの上に、普段から口やかましくて男勝りな少女だったとの話だ。
しかし明の知る泉星菜は誰に対しても丁寧な言葉遣いで、物腰柔らかく儚げな印象が強いおしとやかな少女である。
その二つの性格があまりにも対照的であることから、明は二人のことを関係の無い別人だと思っていた。
しかしその認識が、この場で覆されてしまった。
お姫様のように可憐な自分達のマネージャーが、まさか凄腕の野球選手だったなどとは――明には想像も出来なかった。
キャッチボールをするまではやはり別人ではないかと疑っていたものだが、今となってはもはや認めるしかない。
(……確かに、良い球を放る)
捕手として彼女のボールを受けてみれば、その実力が並大抵の物でないことがわかる。しなやかな腕の振りと言い、完璧な体重移動と言い、投球フォームの完成度は竹ノ子高校のエースである波輪風郎と比べても遜色無く、部の正捕手である明の目から見ても文句の付けどころがなかった。
球速は高校野球公式戦を基準にすれば遅いかもしれないが、まだ高校一年生であることを考えればそれでも十分な速さである。加えて何よりも、無駄のないオーバースローから放たれるボールは非常にコントロールが良かった。
これらの要素と左腕であることも考慮すれば、はっきり言って青山才人や池ノ川貴宏などよりも使えそうな投手である。後はまだ見ていない変化球のレベル次第だが、彼女が「選手」だったならば茂木監督も喜んで彼女を二番手投手に任命したことだろう。
(歯がゆいな……いや、だからこそマネージャーに甘んじているのか)
彼女の姿と投げるボールを見比べると、驚くよりも現実味を感じられず、やはり信じられないものだ。女性としても細身なあの体格でこれほどのボールを投げられるまでに、今まで一体どれほどの練習をしてきたのだろうか? 少なくとも、並大抵の努力ではなかった筈だ。
彼女の実力は、波輪以外の選手が心許ない竹ノ子高校の野球部員として申し分のないものである。特に現在悩まされている投手不足問題を解消する為には、是非とも戦力になってほしいと声を掛けたいところだった。
しかし、彼女の性別は「女」である。
たったそれだけのことが、あまりにも重い足枷だった。
高校野球連盟が定めた規定は、女子選手が公式戦に出場することを許していない。最近ではそう言った規定の改正を求める声も上がっているようだが、それで彼らの腰が上がるかと言えばやはり絶望的だった。
(くだらない話だ……)
明はその規定を、あまり良い物だとは考えていない。
野球は男子のスポーツであり、女子にはソフトボールがあるからというのがあちら側の言い分であろう。
だが彼女らの野球をやりたいという純粋な思いを、たったそれだけの理屈で踏みにじってしまって良いものなのだろうか。
時代は変わっていくものであり、近頃は高校の野球部でも男子に混じって練習を行う女子部員達の姿も多い。少数だからと言って、彼女の存在を蔑ろにして良いものなのかと疑問なのだ。
確かに肉体の構造上、基本的には女子よりも男子の方が身体能力は高い。正々堂々とレギュラー争いを行った結果、男子に能力で劣る女子が試合に出られないのならば、それは仕方のないことだと思う。しかしレギュラー争いに勝った筈の女子部員までも、そう決まっているからとベンチにすら入ることが出来ないのは――明にはどうしても、理不尽に思えた。
(プロが高校野球に出るのとは違う。同じ野球部員である女子が高校野球に出るのが何故悪いのだ? これでは、聖だってプロになれない……)
一高校球児に過ぎない明が強くそう思うのは、自身が可愛がっている従妹がプロ野球選手を目指す野球少女だからである。
従妹――聖が野球を始めるきっかけを与えたのは明であるが、彼は彼女に秘められた桁外れの才能を見抜いていた。
決して、身内びいきなどではない。明は聖のことを、自分などでは足元にも及ばない天才だと確信している。彼女のプレーを時にコーチとして間近で見てきた明は、その異常な成長スピードに戦慄すら覚えていた。
まだ自分の得意分野であるキャッチングに関しては遅れを取る気はないが、打撃に関しては既に自分を超えているのではないかと思っている。野球を始めてたった一年弱の小学生が、小中高と野球を続けてきた高校生よりも打てるようになったのである。明には聖の成長が、我が従妹ながら末恐ろしくなっていた。
彼女は間違いなく、プロ選手になれる逸材だ。そのような存在が古くから定められている理不尽な規定で苦しむ光景など、明には想像したくもなかった。
「ラスト三球、お願いします」
「わかった」
――ああ、だからなのか。
顔を上げ、明は悟る。
今現在マウンドに立っている少女の姿は、その苦しみを味わったからこそ儚いのだと。
六道聖という少女がどれほどの実力を持っているのかはわからないが、彼女はあくまでリトルリーグの小学生である。しかし星菜は現在高校一年生の身であり、さらに「前世の記憶」を上積みさせれば野球経験の差は天と地以上もの開きがあった。
まさる監督は勝負と言ったものの、星菜は彼女に対して全力で投げる気は全く無かった。
「変化球のサインは要りません。今回私は、ストレートしか使いませんので」
星菜がマウンドに上がって投球練習を始める前に、捕手役を務めてくれることになった六道明に向かって放った言葉である。
それを聞いて、明が僅かに眉間をしかめた。
「それは、相手が小学生だからか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
明は従妹の実力を侮られているのだと思ったようだが、星菜からしてみればそのようなつもりは欠片もない。ただ星菜は自分がこの対戦で「すべきこと」を決めた際に、ある程度自身の投球に制限を付けておく必要があると判断したのである。
この勝負では、変化球は使わない。
加えて星菜は本来の投球フォームである「招き猫投法」を封印し、あえてオーソドックスなオーバースローで投げる予定だった。
それは決して、単なるハンディキャップというわけではない。
星菜には、そうしなければならない理由があるのだ。
「私は野球少女の先輩として、従妹さんには中学野球の壁を感じさせたいのです」
対戦の時が、訪れた。
投球練習のボールを見た限り、泉星菜のコントロールは噂通りに良いようである。
六道聖は愛用の金属バットを持ってニ、三回ほど素振りをすると、ゆっくりと右打席へと向かう。その手前まで来たところでヘルメットを外して丁寧に一礼した後、聖はヘルメットを被り直し、バットを上段に構えた。
「……どうぞ」
「では、投げますね」
聖が打撃フォームに入り準備が整ったところで、マウンド上の泉星菜が投球動作に入る。
その瞬間から聖は目つきを変え、彼女の姿を鋭く睨んだ。
大きく振りかぶり、投球練習で見たものと変わらないオーソドックスなオーバースローから、彼女が一球目を投じた。
「ストライク」
風を切り裂いて通過していくそのボールを微動だにせず見送った聖の耳に、受け止めた捕手の口から判定の声が聴こえた。
聖はその判定を一切不服に思うことはなく、即座に次のボールへと意識を切り替える。捕手からボールを投げ返された泉星菜もまた、早いテンポで二球目の投球動作へと移った。
左腕から放たれたボールは、先ほどとはほんの少しだけ軌道がずれていた。
(今度は……半個分足りない)
左足を上げてタイミングを合わせた聖は、出かかったバットをスイングに入る寸前の位置で止める。
そしてボールが乾いた音を立ててキャッチャーミットに到達した瞬間、審判兼捕手である従兄が感心げに呟いた。
「よく見れるな……」
「際どいが、ボール半個分だけ外れていると思った。当たっているか、明兄さん」
「ああ、その通りだ。今の球は当たっても内野ゴロだろうな」
泉星菜の球はゆうに100キロを超えており、聖達が行っているリトルリーグの試合では見たことのない速さである。
しかし聖はその速球に対して何ら動じることなく、機械のように冷静にボールの軌道を見切ることが出来ていた。
そのメンタリティーの強さ、集中力の高さこそが天才野球少女たる六道聖の才能であった。
(外のコントロールが、良い)
そして、小学生離れした分析力を持っている。
事前の投球練習と、実際に打席に立って見送った二つのボールによって、聖は星菜の特徴である制球力の高さを見抜いていた。今彼女が投げたボールも綺麗に整った投球フォームや投球練習中から安定し続けているリリースポイントの位置から分析して、ストライクを狙ってストライクゾーンを外れたわけではなく、凡打を誘う為にあえて際どいボール球を投げたのだと悟った。
(なら少し、ベース寄りに立つか……)
外角一杯に110キロ以上ものストレートを投げられては、小学生の力で前に飛ばすのは至難である。故に聖は打席での足の位置をさりげなくホームベース寄りに移動させ、バットを出した際に外角のボールを真芯で捉えやすいように対策した。
泉星菜がその対策に気付いているのか否かはわからないが、彼女が次に投じた三球目は再び外角低めへと向かってきた。
(甘いっ!)
予想通りの球種、予想通りのコースだ。予め狙っていたそのボールを見逃すことなく、聖は一気にバットを振り抜いた。
短く、何かが潰れたような金属音が響く。聖のバットは星菜が投じた外角低めのストレートに対して完璧なタイミングで命中したが、飛んでいった方向はキャッチャーの後方――バックネットであった。
「……ボールの、下か」
振り遅れたわけではないが、球の威力に負けたようだ。どうやら泉星菜のストレートは、こちらの想像以上に手元で伸びるようだ。
だが、それがわかれば次こそ捉えることが出来る。聖には、その自信があった。
たかが110キロ程度のボールなど、プロを目指す自分にとっては恐るに足らないものだと――そう思っていたのである。
「ふふっ」
そんな聖の顔を見て、泉星菜が小さく笑った。
その笑みはどこかいたずらっぽく、被害妄想かもしれないが聖には自分が小馬鹿にされているように見えた。
そして投球動作に入り、四球目のボールが向かってくる。
球種は、またしてもストレートである。しかし狙われたコースは、外角低めではなかった。
左投手特有の軌道で右打者の懐に食い込んでくる――クロスファイヤー。それは内野ゴロ狙いではなく、聖から三振を奪いに来たボールだった。
(舐めるなっ!)
しかしそのボールとて、聖の意表を突いたわけではない。ホームベース寄りに立っている以上、相手投手が内角を突いてくることもまた最初から覚悟していた。
寧ろ聖としては、その方がありがたい。聖にとって内角のストレートは、外角よりも得意な球だった。
右肘を折りたたみ、腰を素早く回転させる。コンパクトなスイングで思い描くのは、レフト前に運ぶクリーンヒットである。
タイミングは完璧。聖は今度こそ、泉星菜のストレートを弾き返す――筈だった。
「――ッ!?」
その場に金属音が響くことはなく、代わりとばかりにキャッチャーミットの衝撃音が響き渡る。
聖は驚愕に目を見開き、バットを振り抜いた態勢のままその場に固まった。
「……空振り三振だぞ、聖」
そして後ろから聴こえてきた従兄の声によって、聖はようやくその事実を理解した。
「タイミングが、外れたのか……?」
「いや、ドンピシャだった。ただお前は、ボールの下を振ったのだよ」
「……そうか」
「かなりのスピンが効いていたからな。さっきまでの球よりもさらに伸びてきた。今の球は、初見では俺でも打てないだろう」
聖は彼女との勝負に、負けたのだ。
従兄が遠まわしに励ますような言葉を送ってくるが、聖にはそれを受け入れることが出来ない。
元々、高校生対小学生の対決だ。小学生である聖が野球経験で勝る星菜に敗れるのは当たり前のことであり、従兄からしてみればそこまで気にしなくても良いことなのかもしれない。
だが、聖には悔しかった。リトルの試合で同年代の投手に打ち取られた時と同じか、それ以上に泉星菜に負けた悔しさは大きかったのである。
「うん。確かに、プロを目指していると言うだけのことはあるね」
しばらく打席の上で立ち尽くていた聖に向かって、マウンドの上から泉星菜が言った。
「六道聖さん。君には今投げた私のボールが、どんな風に見えた?」
泉星菜が聖を見つめる。聖も僅かに顔を上げて目線を向けた。
彼女が何を思ってそのようなことを問うているのかはわからないが、聖はその質問に対し、正直に思ったことを口に出した。
「リトルの試合では、見たことのないスピードと球威でした。それとコントロールも完璧で……今回は、私の完敗です」
「……なるほど。小六でそこまで言えるなら、大したものだよ。単純に私の球を凄いと感じてくれたのなら、今はそれで良かったんだけど」
聖の返答に泉星菜が一瞬目を丸くするが、すぐに微笑んで賞賛の言葉を送ってきた。
そして数拍の間を置いた後、彼女は言葉を続けた。
「私はね、今の君と同じ年齢の頃にはこの球を投げられるようになっていたんだよ」
「……リトル時代から、あのストレートを?」
「うん。だけど結局、私はこれ以上上には行けなかった。中学に上がった途端に身長も伸びなくなって、投手としての成長が止まってしまったんだ」
泉星菜は話し始めた。
いわく彼女はリトルリーグに所属していた当時こそずば抜けた実力を持っていたが、中学校に上がって以降は周りの男子達の成長に追いつけなくなり、いつしか完全に取り残されてしまったのだと。
「もちろん、努力はしたよ。名門の野球部で男の子以上の練習をしたし、変化球だって何種類も覚えた」
それは、血のにじむような呟きだった。
「……だけど私のボールは、周りの男の子達には通用しなかった。君を三振にしたストレートだって、私の居た中学の人には簡単に打ち返されてしまったよ」
「女の子の限界はね、男の子のそれよりも近くにあるんだ。根本的に体格が違いすぎるし、筋肉の付き方にだって差がある。だから私は、周りから「もう成長は見込めない」って言われたよ」
「それに、やっぱり浮くんだ。男の子に混じって野球をやっていると、どうしてもみんなから変な目で見られてしまう」
「……どうして私はこんなところに居るんだろう? いつからか、そんなことばかり考えるようになってしまって……」
「気付いたら、あれだけ頑張っていた野球を楽しいと思うことが出来なくなっていて……結局、私は野球部を辞めてしまったよ」
泉星菜は淡々と、自らの挫折談を語っていく。
それはまるで「プロ野球選手になる」という聖の夢を、現実的な視点に立って否定しているような言葉だった。
女性選手として野球を極めることは、男子のそれとは比べ物にならないほど険しい道程なのだと――彼女の瞳は、そう語っていた。
それは味わった挫折も、野球を諦めた自分のことも、全てを受け入れているような静かな眼差しだった。
「同じ女の子の野球選手として、聖さんには目の前にある壁の大きさをわかってほしいんだ。今は成長期だから良いけど、それが止まった途端、一気に周りの男の子達に追い抜かされてしまう。……私のようにね」
泉星菜はうつむいて唇を噛んだ後、黒髪を揺らして首を振り、改めて聖に目を向ける。
対する聖はただじっと、そんな彼女を見つめ続けていた。
「この先、中学に上がれば君も男子との壁を感じることになる。そうなれば、二度と立ち直れなくなるかもしれない。女の子がプロを目指すということがそれだけ苦しいんだってことを、よく覚えておいて」
泉星菜が最後にそう言い、二人の間を重い沈黙が流れていく。
彼女が聖の夢に対してそうまで否定的な言葉を紡いだのは、自分が経験した苦しみを後輩である女子選手に味わってほしくないが為であろう。
だからこのような話をしたのだと、聖は理解した。
随分と、優しい先輩なのだなと思う。
しかし聖には、そんなお人好しな先輩の言葉を受け入れることが出来なかった。
「私には、貴方の言っていることがわかりません」
きっぱりと、聖は言い切った。
「苦しみを味わう覚悟なら、貴方に言われなくても出来ています。第一何も苦労せずにプロになれる人間なんて、男子にだって居ません」
彼女の言うことは、違う。
絶対に、違う。
確かに自分達は女子である以上選手としての成長に大きな壁があり、男子と混ざって野球をしていれば嫌でもその差に悩まされることになるのだろう。その経験者であろう彼女の言葉には力強い説得力があり、聖の心にも重く響いてきた。
しかし六道聖は、その言葉を認めなかった。
理屈っぽく言っているが、彼女の言うことは所詮、ただの詭弁だ。
「言い訳をしないでください。貴方が壁に当たって野球部を辞めてしまったのは、貴方が女子だったからではなく、貴方だったからでしょう」
自分は女子だから仕方が無いと、いかにも尤もらしい言葉で挫折した己自身を慰めているに過ぎない。
――貴方と一緒にするな!
聖はその胸に、かつてないほどの怒りを抱いていた。
しかし反面、口から出てくる言葉はどこまでも淡々としていた。
「ただ女子だからと言い訳をして、自分の努力不足を認めない。そんな貴方だったから、進歩がなかったのです」
女子だから、男子には勝てないのか。
違う。自分の未熟さを性別に押し付けるな。
泉星菜がそうだったから、六道聖もそうなるのか。
ふざけるな。そんなこと、やってみなければわからない。
中学時代の挫折によって野球をやめたと言う目の前の少女が自分にとってありうる未来だなどとは、聖は断じて認めなかった。
「もう一打席、勝負してください」
そうだ、認められるものか。泉星菜が言っているのは、ただの言葉ではないか。女子が野球を極められないと、誰が決めたのだ!
例え身体能力に差があろうと、それだけが野球の優劣を決めるわけではない。そんな単純なスポーツでないからこそ、聖はこの競技に惚れたのだ。
「私は貴方とは違う。貴方のようにはなりません!」
聖はマウンドに立つ彼女に向かって左手に持ったバットの先端を突き出すと、強く怒気を込めて言い放った。
野球に掛けるこの思いが、あんな言葉で否定されてたまるか。
――この場で打ち砕いて、それを教えてやる!
それは二人の野球少女の誇りを賭けた、第二ラウンドの幕開けだった。