外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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恩師と野球少女

 

 

『大丈夫。今からでも遅くない』

 

 その言葉が、星菜の心に小さな勇気を与えた。

 もしその言葉を放った人物が男子の野球選手であったなら、星菜の心に響くことはなかっただろう。それどころか言われた途端、「お前に私の何がわかるんだ!」と激怒していたかもしれない。星菜は己がそう言ったひねくれた性格であることを理解しているつもりだ。

 その言葉を掛けてくれたのが他でもない彼女だったから――同じ立場として傷を舐め合うことも可能な早川あおいだったからこそ、星菜の心は揺れ動いたのである。

 

「……ふふ」

 

 今日は、自分には居る筈がないと思っていた「理解者」が出来た。

 そしてその理解者と、友人になることが出来た。

 

「うへへ」

 

 それはバファローズの神童裕二郎投手がノーヒットノーランを達成した時以上の幸福感を星菜に与え、心では彼女と別れ自宅に帰った今でもその余韻が残っていた。

 寝巻きを纏った星菜はリビングにあるソファーの上でうつ伏せに寝転びながら、右手に持った携帯電話をじっと眺めていた。そんな姉に向かって、それまでテレビで野球中継を観ていた弟の海斗が振り返って声を掛けてきた。

 

「どうしたの姉ちゃん。さっきから携帯眺めてニヤニヤして……ちょっと気持ち悪いよ」

「うん、気にするな。私は気にしない」

「いや、俺が気にするんだって! 大体なんなのその笑い方!? 何か姉ちゃんらしくなくて不気味すぎるんだけど」

「……ん、そうかな?」

「そうだよ!」

 

 帰宅後から延々と携帯を眺めて微笑んでいる姉の姿を不愉快に感じていたのか、海斗は若干表情を引きつらせながらそう怒鳴った。

 だが最高に上機嫌な今の星菜にとって、その程度の雑音は取るに足らないものだった。彼の言葉を適当に流した後も、尚も気にせず携帯画面を眺める。

 

《早川あおい先輩》

 

 そこには星菜がファミレスで交換した、敬愛する先輩のメールアドレスが記されていた。

 

「へへ、やったやった」

 

 両足をバタつかせながら、星菜は一切自重することなく満開の笑みを咲かせる。後ろで弟が何か言っているようだが、全く聴こえない。聴こえないったら聴こえない。星菜は今、完全に自分の世界に入っていた。

 

「……いや、この方が姉ちゃんらしいのかなぁ……」

 

 しかしただ一言、弟が呆れたように呟いたその一言だけは、耳に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分から歩み寄る――その決意をした星菜ではあったが、翌日の土曜日は野球部に顔を出すことすらなかった。

 それは星菜がまた体調を崩したわけではなく、部活動その物が休みだったからである。

 四月上旬に行われた紅白戦以来、本格的に甲子園を目指し始めた野球部の練習は徐々に過酷になり、最近では休日も休みなく練習を続けていた。

 部員達全員に疲労が溜まってきたところで、この土曜日は身体を癒す為の授業も練習もない完全なOFF日となっていたのである。またさらに翌日の日曜日も同じ理由で休みとなっており、野球部にとっては貴重な連休となっていた。

 しかし登校のない完全な休日だからと言っても、星菜の朝が普段より遅くなることはない。この日も登校日と同じ時刻に起床すると早朝から十数キロのランニングに出掛け、心地良い朝日を浴びながら汗を流していた。

 ランニングが終わり、自宅に帰った頃には、既に時計の針は十時を回っていた。後二時間もすれば一日の半分が終わってしまうのが悩ましい限りである。

 

「ふう……」

 

 帰宅した星菜は着替えを持って風呂場へと直行し、温水のシャワーを浴びて身体中の汗を洗い流す。今日一日はこれからも運動をする予定ではあるが、午後に入る前に一旦気分を変えておきたかったのである。大量の汗でシャツがベタつく感覚は昔から慣れてはいるものの、そんな星菜にとっても取り払っておくに越したことはなかった。

 

 シャワーを浴び終えた星菜は上下の下着と着替えのジャージをさっさと身に纏うと、少々空腹を感じていたので台所へと向かった。

 日頃から泉家の食卓を支配している母親ほど美味しい物を作れる自信はないが、星菜には一般家庭に出す味として恥じない程度には自炊出来る自信がある。野球を辞めた後は料理を趣味にしようかと考えたこともあるぐらいだ。恐らくあの時川星ほむらから熱心に誘われることがなければ、友人の奥居亜美と共に料理部に入っていただろうことは想像に難くない。

 頭の中で適当に昼食の献立を考えながら、星菜は台所まで辿り着く。

 

「星ちゃん、ちょっと頼んでもいいかな?」

 

 そして冷蔵庫の中身を調べようとした瞬間、後ろから最も聞き慣れた声を掛けられた。

 

「なに?」

 

 星菜は振り返り、その声が聴こえた方向へと目を向ける。今年で四十路を迎えると言うのに依然艶のある黒い髪に、栗色に澄んだ大きな瞳――そこに居たのは間違いなく、星菜の母親であった。

 その右手は、水色のランチクロスに包まれた長方形の箱を持っている。星菜自身もほぼ毎日使用しているそれを、一目で弁当箱だとわかった。

 登校のない土曜日と日曜日も、母は朝早くから起床して昼食の弁当を作る。それは野球部のマネージャーをやっている星菜の為でもあるが、リトルリーグに所属している弟の海斗の為でもあった。

 今日母が作ったその弁当は、まさしく海斗の為だ。しかしそれが今彼女の手にあるということは――星菜はその理由を察し、苦い笑みを浮かべた。

 

「……海斗、忘れていったの?」

「そうなのよ。あの子ったら寝坊したって言って慌てて出て行くんだもの。星ちゃんこれから外出するなら、ついでに届けてくれないかしら?」

「わかった。河川敷のグラウンドに居るんだよね? まったくアイツは、しょうがないなぁ……」

「助かるわ。車には気をつけてね」

「大丈夫」

 

 母親が時間を割いて作ってくれた弁当を、持っていかずに家に忘れた。そんな親不孝者には後で苦言を呈さなければいけないな、と思いつつも星菜の表情は厳しくなかった。と言うのは他でもない星菜にもまた、かつてリトルリーグに居た頃は今の弟と同じことをしていたからだ。

 人にはあまり言えないが、小学生時代の星菜は相当なやんちゃ者だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おげんきボンバーズ――それが星菜の弟である泉海斗が入団した、リトル野球チームの名前である。「おげんき川」の河川敷に広がる小さなグラウンドを本拠地に構えるそのチームは、星菜にとっては懐かしさの塊だった。

 

(中学時代は一度も行ってなかったけど、ここはあの時のままだな……)

 

 おげんきボンバーズというこのリトルチームは、小学四年生から六年生までの間星菜が所属していた野球チームでもある。当時非凡な才能に加えて肉体的にも成長が早かった星菜は丸林隆など他のチームメイトを圧倒し、五年生からエースに任命されてはチームを引っ張っていたものだ。そして全国大会に二度出場し、いずれも優勝を飾った――という栄光がある。

 過去の思い出は美化されるものとは言うが、それを差し引いても当時の感動は人生最高のものだったと星菜は振り返る。

 弟には自分達のように全国制覇をしろとまでは言わないが、是非ともこのチームで良い経験をしてほしいものだと思う。仲間と共に一つの目標に向かっていくことがどれほど素晴らしいことか……星菜はそれを、他の誰よりも理解しているつもりだった。

 

 

 河川敷グラウンドは、星菜の自宅から割と近い距離にある。

 徒歩にして二十分近く。目的の場所に到着した星菜が一旦立ち止まってグラウンドを眺めていると、小学生特有の甲高い掛け声が聴こえてきた。

 自分よりも身長が小さい少年野球選手達が、地面を転がってくる打球を捌いて一塁へと送っている。弟が所属しているリトル野球チームは現在、内野のポジション別で守備練習を行っていた。

 

「え……?」

 

 その光景を見て、星菜は目を大きく見開く。

 それは少年達の行っている練習に対して驚いたからではなく、少年達に向かって打球を飛ばしているノッカーの姿が見知った人物だったからである。

 

「ファースト、もっと足を伸ばして捕れ」

「ハイッ!」

「セカンド!」

「お願いします!」

 

 少年達に守備動作を指導しながらノックを行っているその人物は、星菜は昨日も顔を見ている。

 黒紫色の髪と凛々しい顔立ちが特徴的なチームの正捕手――六道明。竹ノ子高校の野球部員であった。

 

「六道先輩が、なんでここに……」

「おや? 年若いおなごがこんなところに来るとは珍しい」

「あ……」

 

 星菜はしばらく彼の姿を呆然と眺めていたが、不意に横合いから掛けられた声によって思考が切り替わる。

 声の方向に顔を向けるとそこにはいつから居たのか、野球のユニフォームを纏った老人が杖をつきながら立っていた。

 その老人は星菜にとって、これが初対面の人物ではない。それどころか小学校高学年の頃は毎週のように顔を合わせてきた人物であり、星菜がこの世で最も尊敬している野球の恩師であった。

 

「監督っ!」

「ほえ?」

「監督、まだ監督を続けていらしたんですね!」

「お、おおぅ? はて……前に会ったことがあったかね?」

「私です! 泉星菜です! もしかしてお忘れに……?」

「泉……泉星菜? 星菜って言ったらあのお転婆娘で……うえええ!?」

「あはは、その星菜です」

 

 懐かしい顔を見たことで気分が高揚し、自然と頬が綻ぶ。そんな星菜に対して目の前に居る老人――おげんきボンバーズの監督が、普段は糸のようになっている目をクワッと見開いた。

 その老体に響きかねない大層な驚きぶりに苦笑しながら、星菜はペコリと一礼して挨拶を交わした。

 

「おお~、こりゃおったまげたわ! あの悪ガキが、こんなに立派になって」

「はは、監督はお変わりないようで」

「ホッホ、たった三年じゃわしは変わらんよ。お主が変わりすぎなんじゃよ。偉いべっぴんになってたもんだから見違えたわい。せっかくナンパしようと思ったのに」

「……本当に、お変わりないようで」

 

 星菜にとっては時間にして三年以上ぶりの再会であったが、八十年以上も生きているこの老人にとってはその程度の時間はそう懐かしむほどのものではないのだろう。少しだけ不安に思ったが彼は自分のことをしっかりと覚えているようで、昔と変わらない様子に星菜は安堵した。

 

「今日は、弟にお弁当を届けに来たのです」

「おお、海斗か。そう言えばあやつ、お主の弟じゃったな」

「今、どこに居ますか?」

「あそこ」

「ん? ああ、本当だ。では、終わるまで待ってて良いですか?」

「おう、好きにせい」

 

 懐かしい恩師と再会したことで星菜は昔話に花を咲かせたいところだったが、この場所を訪れた当初の目的を思い出し、一歩踏み止まる。

 星菜は再度グラウンドに目を移し、監督が指差したセカンドの守備位置を確認する。数人が一列に並んでノックの順番を待っているその場所では、確かに星菜の弟である泉海斗の姿があった。

 

「アイツ、上手くやっていますか?」

「お主に仕込まれたのかは知らんが、新入りにしちゃ中々やりおるよ。まあお主よりは素直なんで、教える方としちゃ助かっとるがな」

「あはは……やっぱり私、問題児でした?」

「おうよ。お主、わしの言うことよりも小波の言うことの方が聞いてたからな。面倒臭くて敵わんかったわい」

「あの時はすみませんでした。ぶっちゃけて言いますと、あの頃の私は監督のことを舐めていたんです」

「じゃろうな。わしのことを監督じゃなくて「まさる」と呼び捨てにした選手なんて、後にも先にもお主しかおらんわ」

 

 正面に、右に、左に。ノッカーの六道明が一打ずつバウンドを変えながら、ポジション別に打球を転がしていく。どれも飛びついて捕るような難しい打球ではないが、基礎を固めていくには効果的な打球である。

 内野手にはヒット性の当たりよりも、簡単な当たりこそ手堅く抑えてほしいものだと星菜は考えている。難しい打球を難しい場所に飛ばされてしまうのは、打たれた投手が悪い。故に、内野手がそれを捕れずにヒットにしてしまうのは仕方がないことだ。しかし、内野手のイージーミスで簡単な当たりをエラーもしくはヒットにされてしまうのは、投手にとって精神的にきついものがある。ファインプレーは要らないが、イージーミスはするな。それが星菜の、守備に関しての考え方だった。

 

「そういや、お主ももう高校生か……あの頃はって言うのは、今はもうわしのことを舐めておらんのか?」

 

 ノッカーの六道明も自分と同じ考え方なのかなぁと考えていた星菜の思考は、老人からの質問によって中断させられる。

 星菜はグラウンドを眺めながら数拍の間を空けると、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 星菜は当時、彼の下で野球をしていた頃のことを思い出す。

 小学生時代の星菜は誰がどう見てもやんちゃな性格だった為、彼には随分と迷惑を掛けてきたものだ。しかし幼い星菜は彼に叱られる度に反発し、教育者である彼の気持ちなど全く理解しようとしていなかったのである。

 そのことを星菜は今更ながら、申し訳なく思っていた。

 

「このチームに入って監督の下で野球が出来た私は、本っ当に幸せ者でした」

「……そういうことは、三年前に言ってほしかったのう」

「その後の三年間で思い知らされたんですよ。監督が私にとって、いかに素晴らしい指導者だったのかって」

 

 このチームに居た頃の星菜は、自由その物だった。

 何にも縛られることなく、まるで猫のようで。

 ただ投げて、打って、走って――自分が好きなことを思うがままに行い、結果を出し、仲間達と笑い合うことが出来ていた。

 人は失ってから、初めて気付されることが多いと言う。星菜にとってのそれは、まさしく「純粋に野球に打ち込める」ことへの幸福感であった。

 当時の星菜は、それが特別に幸福なことだとは考えていなかった。しかし中学に上がってからの三年間で失ってしまった今になって、自分にそんな時間を与えてくれた恩師のことを敬えるようになったのだ。

 

「……今になってそんなことを言うってことは、お主も色々あったんじゃな」

「はい。色々ありました」

「そりゃあ、性格も丸くなるってもんよのう。じゃがはっきり言うとちょっと寂しいぞ、今のお主を見てると」

「そう、ですか……」

 

 長年リトルリーグで監督をやっていれば、今の星菜のような人間も他に見たことがあるのだろう。彼は多くを語らずとも星菜の中学時代を察してくれたらしく、グラウンドの方向を眺めながらも労わるような表情を浮かべていた。

 

「だからわしは言ったんじゃよ。白鳥中だけはやめとけって」

「でも、あの中学に行ったことは後悔していませんよ。他の中学では、あそこほど現実を知れなかったでしょうし」

 

 過去を振り返ってみて、あそこでああすれば良かったと思えばキリがない。後悔だらけの人生だが、その分学ぶことが多かったのは確かである。

 そう、白鳥中で過ごした時間は、決して無駄なものではなかった。

 

(……そう考えられるようになったのは、あおいさんのお陰なのかな)

 

 三年前までは、女である自分が野球を続けていくことがそこまで過酷なものだなどとは思っていなかった。幼い故に、立ちはだかる壁に対して無知だったのである。

 そこにあるものがいかに巨大な壁かを知ることが出来たという点では、中学の進路選択に失敗したとは考えられない。それは間違いなく、星菜にとって今後の為になる経験だったからだ。

 

 ――ああ、その通りだ。

 

 星菜は最近になって気付かされた。自分はずっと、目の前の壁から逃げ続けてきたのだと。

 そんな星菜だからこそ、その壁に真っ向から立ち向かっていく存在が――早川あおいのことが、眩しく見えたのである。

 今の自分がどうするべきか、彼女のお陰で少しだけ見えてきた。だが、まだ足りない。

 星菜は非常に厚かましくはあるが、かつて世話になったこの恩師から何か助言を貰えれば、さらにもう一歩進めるのではないかと思っていた。

 

「その現実は、どんなものじゃった?」

「辛いことや悲しいことばかりで、泣いてばかりでした」

「ふむ。まあ、人生なんてそんなもんじゃよ」

「だけど私は逃げたくなくて……まだ、心では諦めたくないんです」

「そうか」

「野球は、一度辞めました。でも、私はまだ好きなんです! 野球をやりたいんです!」

 

 また甘えるのか? と頭の中でもう一人の自分が責め立ててくる。

 それに対し、これで最後にすると誓う自分が居る。

 他人に甘えてでも、星菜は自分自身への答えを早急に出したかったのだ。

 

「……私は、どうすれば良いのですか?」

 

 感情が昂ぶり過ぎている為か、口から出てくる言葉は支離滅裂で、傍からは何を言っているのかわからないかもしれない。

 彼がこの問いに対して「わからない」と返してくれるのなら、それでも良かった。星菜はただ、今の自分に対して何か一言でも言ってほしかったのである。

 

 しかし恩師が返したのは――小さな笑みだった。

 

「お主、もうわかっとるじゃないか」

 

 労わるような表情から一転し、彼は意地の悪そうな微笑を浮かべる。

 そして何を思ったのか、グラウンドに居る誰かに向かって手招きをし始めた。

 

「おうい六道! ちょっとこっち来なさい」

「はい」

「お主じゃない! 妹の方じゃ!」

「監督。私は妹じゃなくて従姉妹なのですが」

「それはわかったからこっちに来なさい」

「……はい」

 

 監督の呼び掛けに応じ、ノックを行っていた六道明がその手を止める。

 すると彼の傍ら――キャッチャーの守備位置に立っていた少年が、駆け足で向かってきた。

 

「……!」

 

 少年がこちらへ近付き、その顔がはっきりと見えるようになった瞬間、星菜は驚きに目を見開いた。そんな星菜の反応を面白がり、監督はホッホッホといかにも年寄りめいた笑い声を漏らした。

 端麗で中性的な容貌に、日本人形のような色白い肌。黒紫色の長髪を一束に纏めており、瞳は大きく、色は赤い。心なしか少々不機嫌そうな表情を浮かべている彼――いや、「彼女」は、少年ではなく「少女」だったのである。

 

「八十二年間も野郎で生きているわしには、おなごのお主が考えとることなんてさっぱりわからん」

 

 少女を呼び寄せたおげんきボンバーズの監督は、星菜に対し意味深な笑みを浮かべながら語り出す。

 

「人一倍気が強い癖に、肝心なところで臆病になるんじゃよなぁお主は……」

「………………」

「ほれ、これやるよ」

 

 星菜は彼の意図を読み込めずにしばらく困惑していると、不意に球形状の物体を手渡された。

 硬い手触りに、ほんの小さな弾力――長年慣れ親しんでいるその感触から、星菜には直接目を向けずともそれが野球のボールであることがわかった。

 

「……監督」

「悩みはいつも、それで解決してきたじゃろ。わしに頼るのも結構じゃが、今回はそっちの方が手っ取り早いかもしれんぞ?」

 

 何故これを手渡してきたのか――そう問おうとした星菜だが、直後に掛けられた言葉によってなるほどと納得した。その時星菜が抱いたのは何の取っ掛りもなく、あっさりとすり抜けていくような感情だった。

 星菜が両手でボールを弄んでいると、監督は自身の元に呼び寄せた黒紫色の髪の少女に向かって告げた。

 

「六道よ、ちょっとばかしこっちのお姉さんと勝負してみないかね?」

 

 ――その言葉に対する少女の返答は、星菜の「野球少女」としての分岐点であった。

 

 

 


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