外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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小さな前進

 夕日は完全に沈み、時刻は午後の七時を迎えようとしている。

 駅周辺に並び立つ内のとあるファミリーレストランの中では、夕食を摂ろうと訪れた学校帰りの学生達や家族連れの来客達で賑わい始めていた。

 その来客の中に、泉星菜と早川あおいの姿があった。バッティングセンターで出会した二人はその後気の済むまで打撃練習を行った後、あおいが「一緒にご飯でも食べようか」と提案してきたのである。

 星菜はその提案を、二つ返事で受け入れた。元々あおいとは話したいことが山ほどあったのだが、出来ればバッティングセンター内よりも落ち着ける場所で話をしたいと考えていたのだ。その点、ファミレスはまさに打って付けの場所だった。

 入店後窓際のテーブルに着き、財布と相談した手頃な料理を注文した後、料理が出来上がるまでの待ち時間を使って二人はゆっくりと語らうことにした。

 

「この間の練習試合、観に来てくれてありがとね」

 

 先に話を切り出したのは、やはりあおいの方だった。どうやら練習試合の日、あおいはマウンドに居ながらも星菜が球場に来ていたことに気付いていたようだ。屈託のない笑みを浮かべて礼を言う彼女に恐縮しながら、星菜は敬意を込めて言葉を返した。

 

「素晴らしい投球でしたね」

「一点取られちゃったけどね。でもあの試合は、ボクもみんなもかなり調子が良かったよ」

「早川先輩、全ての球種が低めに決まっていましたからね。打線の皆さんもよく振れていました」

 

 星菜による手放しの賞賛の言葉は、お世辞ではなく本心からの物だ。先日パワフル高校との練習試合で見せたあおいの投球は当初の予想を遥かに超えており、辛口の星菜と言えど快く満点評価を与えられるものだった。

 四球を一切出さなかったことも含め、精密な制球力を生かしたあおいの投球は、まるで星菜を喜ばせる為に投げていたように思えるほど好みな内容であった。

 

「……何故、あの試合に私を呼んだのですか?」

 

 しかし知り合い(小波大也)からの噂でご存知だったとは言え、あおいが初対面の人間である星菜に対して自分の登板試合を観に行くように言ったのは不思議に思っていた。その理由を想像出来ないわけではないが、今一度確認しておきたかったのである。

 あおいはその質問に対し、簡潔に答えた。

 

「君のことを元気づけたかったからだね。ボクが投げて、小波君が打っている試合を見せれば、落ち込んでいた君も元気になってくれると思ったんだ」

「落ち込んでいた? ……そう、見えたのですか」

「うん。落ち込んでいたって言うか、悩んでいるように見えたと言うか……君、今すっごく迷ってるでしょ?」

 

 星菜が思っていた通り、あおいはこちらのことを気遣ってあの練習試合に招待したようだ。

 しかしその言葉を受けて、星菜は胸の奥にチクリと何かが刺さったような痛みを感じた。

 

「……何故、そのようなことを言うのですか?」

 

 図星だったのだ。

 あおいの言う通り、星菜は今、迷っている。今だけではない。高校に入学する前からもずっと、星菜は「野球をすること」への迷いを断ち切れていないのだ。

 あおいは頬を緩めながら、しかし真剣な眼差しを向けて応じる。

 

「野球が好きで好きで仕方がない癖に、周りが気になってどうしたら良いのかわからない。ボクもそうだったからね。今の君を見ていると他人事には思えなくて……失礼だけど君の目は、あの頃のボクとそっくりなんだよ」

「………………」

 

 似た者同士、同じ女性野球選手として共感することがあったということか。星菜としてはその心遣いはお節介ではあったが、決して不愉快なものではなかった。

 この人になら、本当にわかってもらえるかもしれない――あおいと相対してみて、星菜にはそう思うことが出来たのである。

 

「ボクも、去年は辛かったよ。野球部に入ってからは体力的な問題もあったし、周りから変な目で見られることもあった」

 

 頼まれたわけでもなくそう語り出すあおいの目は、しかしその話の内容とは対照的に明るい色をしていた。

 不愉快な経験をしてきたことは確かだが、それも今となっては良い思い出だと――そう語っているように見える。

 

「でも、それでも野球が好きだから。ボクは野球部に入って、本当に良かったと思ってる」

 

 曇り一つ無い笑みを浮かべて、あおいはそう言い切った。

 女性選手同士にしか理解出来ない苦しい思いをし続けても、あおいは尚も前を向いて野球を続けているのだ。ただ純粋に野球が好きだからと――たったそれだけの理由で。

 やはり、彼女は強い人間だ。あおいの表情を見て、星菜はつくづくそう思った。

 野球があらゆる障害を乗り越えられるほどに好きだというその気持ちは、今の星菜にも理解することが出来るものだった。しかし理解出来るが故に迷い、悩んでいるのだ。

 その心理を見抜いてか、あおいは星菜に対し容赦無く問い質してきた。

 

「君は、野球が好きなの?」

「好きです」

 

 星菜はその質問に対して、即答だった。

 過去に幾度となく否定され続けてもまだ、星菜は野球が好きなのだ。野球が嫌いになったのなら、今日のように一人でバッティングセンターに通い続ける筈も無い。

 あおいはその返答を聞いて満足そうに笑むと、小さく頭を下げた。

 

「変なこと訊いてごめんね。でも、今の君を見ていると放っておけないんだ。小波君が可愛がっていた後輩だからっていうのもあるけど、ボクは君の助けになりたいと思った。……多分ボクになら、少しでも君の気持ちをわかってあげられると思うから」

「……ありがとうございます」

「お節介かもしれないけど、こんなボクで良かったら力になるから。そうやって、一人で悩まなくていいんだよ?」

「いえ、そんな……」

 

 どこの誰に影響されたのやら、何ともお人好しな先輩である。あおいの言葉は嘘のように甘く聞こえたが、星菜はそれを自分でも驚くほどに快く受け止めていた。

 星菜は本来、半端に高いプライドの為にそう言った哀れみを受けることは嫌いな性格である。しかし近い立場であるあおいが相手ならば、それでも不思議と悪い気はしなかったのである。

 

「そこでボクは聞いてみる。君はどうしたいの?」

「……どう、とは?」

「マネージャーのままで良いのか、選手に戻りたいのかってこと」

「……内角に、厳しく攻めてきますね」

「ごめんね。でもこうでも言われないと、はっきりしないでしょ? うるさい先輩だなぁって思いながらで良いから、ボクに教えてくれないかな」

 

 遠慮なく星菜の「迷い」の核心を突いてくるのは、あおい自身が星菜の立場を理解しているからこそであろうか。女性野球選手の先輩として、例え憎まれ役になってでも今の自分の気持ちをはっきりさせてあげたいと――大方そんなところだろうかと星菜はその意図を察する。

 どこまでも、お人好しな先輩である。しかし言われてみれば、自分には彼女のように強く踏み込んでくる人間こそ必要なのかもしれないと星菜は思った。

 

「……わかりません」

 

 だがあおいに厳しく内角を突かれてもまだ、星菜には本心を曝け出すことが出来なかった。

 それは答えることを渋ったわけではなく、星菜には自分自身の心がどこにあるのかもわからないのである。

 

「……そっか。うん、それでも良いと思うよ」

 

 あおいはその返答に対して残念そうな顔一つせず、それどころか力強く頷いて言ってみせた。

 

「あはは、自分でもどうしたら良いかわからないから悩んでいるんだもん。それがわかれば苦労はないよね」

 

 あおいは自分の掛けた質問の方が間違っていたと、そう言って笑ってみせる。

 星菜にはその言葉が、「まだ焦らなくて良い」と励ましてくれているように聞こえた。

 

「今はわからなくても良いけど……これだけは言わせて。君は確か、野球にしか熱中出来ない女の子なんて誰も受け入れてくれないって言ったよね? でもボクは、そんなことはないと思う」

 

 真剣な眼差しのまま、あおいが星菜の目を見つめながら続ける。

 

「君のことを受け入れてくれる人は、必ず居るよ」

 

 それは泣いている子供を落ち着かせる母親のような、優しげな口調だった。

 あおいの言葉を聞いて、星菜の脳裏には思い当たる存在である一人の少年の姿が浮かび上がってきた。

 ……彼女の言う通り、星菜が野球をすることを受け入れてくれる存在は近くに居るのだ。星菜はバッティングセンターに居た時に呟いた自らの言葉を、心の中で訂正する。

 リトルリーグ時代から面識のある「彼」は、いつだって星菜のことを認めてくれていた。中学時代も不器用でこそあったが星菜の味方をしてくれて、庇い続けてくれたのだ。

 

 ――だがそんな彼すらも、星菜の気持ちを理解してはくれなかった。

 

 彼にならわかってもらえると思っていた。

 彼だけは自分のことを理解してくれると信じていた。

 ある日その信頼を裏切られたと思った星菜は彼にその怒りをぶつけ、以来まともに口を聞いていない。

 

「でもね、待ってるだけじゃ駄目だよ?」

「……っ!」

 

 そんな星菜の心を、直接覗き込んだかのようにあおいの一言が揺さぶってきた。

 

「受け入れてほしいって思っているなら、自分から動かなくちゃ」

「……私は……もう……」

「大丈夫。今からでも遅くない」

 

 ――何故だろうか。

 

 当たり前なことを言われているだけだと言うのに、何故こうも心が震えるのだろうか。

 星菜は自らの身に起こっている異変に、思考が混乱していた。

 それ故に、言葉が出てこない。あおいの言葉に対して何言でも返せるというのに、口では何も返すことが出来なかった。

 

「……あ、あれ? 泉さん?」

「……っ……! だい、じょうぶ……ですっ……」

「いやあの、ごめんね! そんなつもりで言ったんじゃなくて……! ……どうしよう」

 

 何故だろうか、止まらないのだ。

 

 瞳から溢れてくる――大粒の涙が。

 

 

 

 

 

 

 

 思えば今までずっと、誰かにわかってほしかったのかもしれない。

 

 そしてわかってもらえた上で、今の自分のことをはっきりと否定してほしかったのだろうと星菜は思った。

 早川あおいという先輩は、今の星菜にとって道標とも言える存在だった。

 苦しみから逃げることなく、自ら望んで野球をすることを選んだ少女――そんなあおいのことを、星菜は心から尊敬していた。

 そんな彼女に厳しくも温かな言葉を掛けてもらえたことが、嬉しかった。少しだけ、心の中が洗われたような気がしたのである。

 

 しばらくして涙が止まった後、星菜はようやく運ばれてきた料理を味わいながらあおいと話をした。

 今度は悩みとは関係の無い、他愛の無い世間話である。例えば道端で交通事故に遭いそうになった野球部の主将を、その場に居合わせた副主将が「危ないでやんす! ヘアーッ!」と叫んで間一髪で救助した話や、主将と交際している先輩マネージャーの惚気話が最近うるさくなってきた話等、普段親しい友人にしか言わないようなことを話題にした。

 星菜は会話能力に自信がある方ではないが、あおいが聞き上手の上に話し上手だった為、二人の会話は思っていたよりも弾んだ。

 

「それでね、小波君ってば酷いんだよ? ウチのマネージャーや理事長の娘さん、ソフト部の子達からも一斉に言い寄られてるのに、全然気付いてないんだよねぇ」

「あはは、中学時代もそうでしたね。大勢の女子生徒から好意を寄せられていて、近くに居ることが多かった私はその人達によく睨まれていました」

「あ、ボクもそんな感じだよ。別にこっちはそんなんじゃないのにねー」

「あの時は野球に必死でそれどころではなかったので何も感じていませんでしたが、今思うと恐ろしかったですね……」

 

 話の種として巻き込んでしまった数人の野球部員達には心の中で謝りながら、星菜はあおいと談笑する。野球少女として共通の話題を持っている二人は、学校に居る友人達とはまた違った内容で会話をすることが出来るのだ。それが星菜には新鮮で、楽しい時間であった。

 

「泉さん……じゃなくて、もう星菜ちゃんって呼んでもいいかな?」

「はい、どうぞ」

「ありがと。ボクのことも名前で呼んでいいよ」

「わかりました。あおい先輩」

 

 その時間の中で、あおいとは友人関係になれたと思う。友人の定義は人それぞれで、下の名前で呼び合える関係になれば友人だと言う者も居れば、その程度では友人と認めない者も居る。星菜には、あおいが前者の人間であることを信じたかった。早川あおいという人間を、星菜はいつの間にか好きになっていたのだ。

 きっかけはピッチングコーナーでの投球を見てからか練習試合を見た時からかはわからないが、星菜は彼女と友人になりたいと思っていた。

 

(……多分私は、この人のファンになったんだろうな……)

 

 自分には無い強さを、彼女は持っている。

 だからこれから先、少しずつでも学んでいきたいと思う。

 彼女の心の、その強さを――。

 

「さっきの質問ですが」

「ん?」

「マネージャーのままで良いのか選手に戻りたいのかと、先輩は訊きましたよね?」

「うん。でも、無理矢理答えを出さなくても良いんだよ?」

「大丈夫です。……もう、大丈夫です」

 

 自分のことを受け入れてほしいのなら、まずは自分から動く。

 先ほどあおいが言ったその言葉が、星菜の胸に残っている。

 たったそれだけの言葉が、星菜には自分の進むべき道を指し示してくれたように感じたのだ。

 今の自分がすべきことは、バッティングセンターでがむしゃらにボールを打ち返すことではない。

 もっと簡単で、誰にでも出来ることなのだと気付かされた。

 

(そうだ、私は……)

 

 窓の外へと目を移し、星菜は夜の街並みを眺める。

 本来ならば暗闇で何も見えない筈のその道は、辺りの外灯や建ち並ぶ民家の光によって明るく照らし出されていた。

 

「もう、答えは出ているんだと思いますから」

 

 ――その日。

 

 泉星菜ははっきりと、前に進み出した。

 







 星菜のやる気が上がった!▼

 あおい病になってしまった!▼

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