外角低め 115km/hのストレート【完結】   作:GT(EW版)

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シンカー投げお姉さんとアウトロー投げ猫

 

 

 少女にとって野球とは、己の人生を捧げるに足る最愛の恋人であった。

 

 故に少女は周りの友人達のように流行りの服や異性との恋愛事に興味を抱くことはなく、ただひたすらに白球を追い掛け続けてきた。

 しかし、本来野球は女ではなく男が行うスポーツである。中学野球までならばまだしも、高校野球ともなればそもそもの原則として女性選手の公式戦参加は認められていない。故に、少女が幼き頃に思い描いた「プロ野球選手」になる夢など叶う筈もなかった。

 だが少女はそれでも、例え試合に出ることが出来なくても野球を続けたかった。夢が叶わないと諦めてもまだ、少女は純粋に野球が好きだったのだ。

 しかしそんな思いすらも、少女は事あるごとに否定されてきた。女子と男子では身体能力に差がある為、女子がどれほど努力をしたとしても、同じ分だけ努力した男子達に追いつくことは出来ないと。そんな世界である以上、「女が野球部に入るなんて有り得ない」と言われ続けてきた。

 だが少女には、男女間にある身体能力差を埋めて余りあるほどの実力を持っていた。

 身体能力で劣るなら技術を磨けば良い。そう考えた少女は「剛」を捨てて「柔」を極め、あるプロ野球選手の投球フォームを参考に「サブマリン投法」を完成させたのである。打者にとってリリースを限りなく地面へと近づけたアンダースローから放たれるボールは、その変則さ故に対応しにくく、加えて少女には精密なコントロールと空振りを取れる大きなシンカーという二つの大きな武器があった。

 中学のシニアチームにも、少女の実力は間違いなく通用していたのだ。

 しかし、周囲の人間は少女のことを男子と対等な野球選手としては見てくれなかった。少女の身には結果を出している時すらも「女の癖に~」や「女の子なのに~」と言った蔑みや哀れみの視線が付き纏ってきたのである。

 

 ――もう、いいや……。

 

 視線ばかりが気になって、少女には自分が本当に野球を愛しているのかがわからなくなった。

 少女とてそう言った視線には昔から慣れていたが、だからと言って何も感じないわけではないのだ。それまで少女の心に溜め込まれていたストレスは、中学校を卒業する頃になってとうとうその胸を押し潰してしまった。

 

 ――疲れた……もうボクのことなんて、放っておいてよ……。

 

 だから高校に上がった際、少女は野球を諦めるつもりだった。野球をやめて、友人から誘われたソフトボール部に入ろうかと考えていた。

 しかし少女の心の中では、どこかで野球を諦めきれない自分が居た。今まで愛していた野球をこんなところで捨てたくないと、せめて完全燃焼したいという思いがあったのである。

 そんな未練によって野球への情熱が再燃した少女は、入学当初は毎日投げ込みを行わなければ気が済まないような状態になっていた。

 

『やあ、今日もやってるね』

『……また君? 今日は何の用なの?』

 

 そんなある日のことである。

 少女と同じ恋々高校の制服を身に纏った一人の男子生徒が、飄々とした態度で話し掛けてきた。

 放課後の校舎裏で少女が壁を相手にボールを投げ込んでいると、彼は決まって近寄ってくるのだ。

 

『昨日と一緒だよ、野球部への勧誘さ。それと、そうやって毎日投げ込み過ぎるのは肩に良くないよ? ピッチャーの肩は消耗品なんだから、気を付けて練習しないと』

『君に言われる筋合いは無いんだけど。もう放っておいてよ!』

『はは、それは出来ないよ。こんなことで、僕達のエースに怪我なんかしてほしくないし』

『何が……何がエースだよっ! どうせ君だって、野球をやっている女の子が珍しいからって誘っているだけでしょ? すぐに飽きたら捨てる癖に、勝手なこと言わないで!』

『……ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ僕と奥居君は、野球選手としての君が欲しい。本気で、君の実力を評価して言っているんだよ』

『――っ、そんな顔して、謝らないでよ……』

 

 彼がやって来る度に追い返しても、次の日は何事もなかったかのように現れる。

 何度断っても、執拗に勧誘してくる。

 「僕がこれから新しく作る野球部に、君には投手として入部してほしい」と――言葉は、いつも同じだった。

 その健気な思いに、いつしか少女の心は揺れ動いていた。彼が本当に自分のことを女の子としてではなく純粋に野球選手として評価してくれるのならば、それがどんなに嬉しいことか――彼の甘い言葉を信じたくなっている自分に、少女は気付いていたのだ。

 

『……君は本当に、ボクが欲しいの? 言っておくけど、ボクは野球部のマスコットになる気はないよ』

 

 だが少女には、己の気持ちに素直になることが出来なかった。

 ルール上女性選手の公式戦参加が可能な中学校時代ですら、散々苦い思いをしてきたのだ。女だからという理由で他の部員と同じ練習が出来なかったり、ろくに試してもいない癖にスタミナ不足と言われては先発資格を剥奪されたり。女は男よりも劣るという周囲の抱く先入観によって、彼女は一度としてその実力を満足に発揮出来なかったものである。

 高校野球では、それがさらに過酷になっていく。どんなに練習して技術を磨いたとしても、ルールとして決められているからという一言で女性選手はベンチに入ることも出来ない。

 そんな環境に一人で飛び込んでいけるほど、少女は自分が強い人間だとは思っていなかった。

 

『もちろん、本気だよ』

『ボクにまた、あの時みたいに苦しめって言うの?』

『自分の実力をちゃんと評価してもらえる場所で、何も気にせず野球が出来るなら……それでも良いんだろう? 君は』

『それは……!』

『七瀬さんから聞いたよ。君が今までどんな思いで野球をやってきたのか。……どんなに辛くても、それでも君は、野球を諦めていないってことも』

『…………っ』

 

 そう、少女は決して強くはない。嫌なことがあれば落ち込むし、辛いことが続けば心も折れる。だが、支えてくれる者さえ居れば頑張れる。少女は不屈な人間ではないが、屈しても立ち上がれる人間だったのだ。

 不幸なことに、今まで少女が所属していた野球チームにはそのような頼れる存在はどこにも居なかった。少女の味方が誰も居なかったわけではないが、そんな人間はいずれも何らかの下心を持って接してくるような連中ばかりだったのである。

 この男には、不思議とそんな連中から感じられるような不快感は無い。少女は彼を、純粋に自分のことを受け止めてくれるキャッチャーのような男だと感じていた。何故だかわからないが、傍に居るとこちらも居心地が良いのだ。

 それでもまだ完全に信用しているわけではないが、彼のことは出来れば信用したいなとは思っていた。

 

『君の要望にどこまで応えられるかはわからないけど、僕に出来ることがあれば何でもする。だから、野球部に来てくれないか?』

『……君はどうして、そこまでボクに入れ込むの?』

『僕は野球部のキャプテンだから、近くに居る逸材をみすみすソフト部へ逃したくないっていうのが理由の一つ。あともう一つは、君が僕の友達に似ていたからっていうのがもう一つの理由かな』

『友達に似ている? へぇー、ボクに似ている子なんて珍しいね』

『その子は僕の一つ下の幼馴染で、君と同じ女の子のピッチャーだったんだ。しばらく会ってないけどね』

『……そうなんだ』

 

 少女は何故この男はこんなにも上手く自分の心に入り込めるのかと疑問に思っていたが、そんな彼の言葉を聞いた際にはなるほどと納得した。似ている人間が友人に居れば、それと同じように接すればそうそう不快には思われないものである。

 彼の話を聞いて、少女はその彼の友人というのが自分と同じような悩みを抱えていないか心配になった。こんな自分に似ている人間が何人も居ては、あまりにも可哀想だと思ったのである。

 そう言った少女の心配は的中していたらしく、その友人のことを語る彼の瞳は憂いを帯びたものだった。

 

『僕は、その子の力になれなかった。キャプテンなのにその子の苦しみをわかってあげられなくて、その子の心を傷付けてしまったんだ……だからあの子に似ている君に入れ込んでいるのは、罪滅ぼしみたいなものなのかもしれないね』

『ボクはその子とは違うよ? ボクなんか助けたって、その子には関係無いのに』

『わかってる。でも、このままじゃ僕も君もきっと後悔すると思う。だから野球をすることを、諦めないでほしいんだ。出来るだけのことはするから』

 

 ――ああ、この人は本気なんだ……。

 

 自分の顔を真っ直ぐに見据えている彼の瞳を見て、少女はようやく確信した。

 彼の心には、何の侮蔑も下心も無い。哀れみはあるがそれは決して、少女にとって屈辱的な同情深いものではなかった。

 どこまでも純粋で、そして頼りがいのある眼差しであった。

 

『あははっ……』

『早川さん?』

『ふふ、負けたよ。決めた。ボク、野球部に入る』

『本当に!?』

『練習と練習試合しか出られなくてもいい。それでも君と野球やるの、面白そうだもん』

『ありがとう。公式戦も、何とか出れるようにしないとね』

『こっちこそ……ありがとう。あと、今まで冷たく当たってごめんね? 本当は羨ましかったんだ。野球部を作ろうって頑張っている、心から野球が大好きな君達のことが』

 

 一度は歩みを止めた。

 立ち止まって、倒れそうになった。

 だけど支えてくれる人が居るならば、まだ歩める。

 結局自分は、誰かに守ってほしかったのかもしれない。少女はこの時、自分自身の気持ちにようやく気が付いた。

 お姫様願望にも似たそれは非常に男らしくなく、今まで自分には無縁だと思っていた何とも女の子らしい感情だった。

 

『ボクに似てるって言う、その女の子のこと……もっと聞かせてもらってもいいかな?』

『いいよ。でも似てるって言っても僕がそう思ったのは同じ女の子のピッチャーってところと、変化球のキレとコントロールの良さ、投球スタイルぐらいだから。見た目や性格は全然違うよ』

 

 彼ともう少し、話がしたいと思った。

 そして彼の言う自分に似ているという少女の話を、聞いてみたいと思った。

 

『あの子には君以上に放っておけないオーラがあったって言うか……いつも悩んでいる時なんかは、まるで捨てられた子猫みたいでさ。ものすっごく、庇護心を刺激されるんだ』

『……ちょっと、会ってみたいかも』

『君もきっと気に入ると思うよ? 少しとっつきにくいところはあるかもしれないけど、君ならあの子とも気が合うだろうし。あの子も君と同じぐらい、野球が好きなんだ。僕に野球を教えてくれたのも、あの子だった』

 

 少女――早川あおいが「泉星菜」という存在を知ったのは、その時のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋々高校――それは一昨年から共学になった元女子校の名前で、スポーツでは主にソフトボール部が優秀な成績を収めていることで名が知られている。

 星菜は桜色のリボンが映えるその高校の制服に身を包んだ彼女――「早川あおい」と名乗った少女と共に、付近のベンチに座りながら自動販売機より購入したパワリンを飲んでいた。

 

「……では、小波先輩は恋々高校に入学されていたのですか?」

 

 星菜は喉の渇きを一通り潤した後、唇から瓶の口を離して今一度問い掛ける。

 その言葉に、あおいはほのかに苦笑を浮かべながら頷いた。

 

「うん。でも驚いたよ。小波君はしばらく会ってないって言ってたけど、まさか中学を卒業してから一度も会ってないなんて思わなかったから」

「……色々あって、会うことが出来なかったんですよ」

 

 現在星菜の頭からは、先程までピッチングコーナーに挑戦しようとしていたことなど完全に離れていた。先ほど出会った少女の口からそれどころではない重大な話を聞かされたことで、やや思考が混乱しているのだ。

 それは彼女が言い放った、「小波君」という一言が原因である。

 小波――小波(こなみ) 大也(だいや)。それは中学校時代、星菜が所属していた野球部の先輩の名前であり、互いに高め合ったライバルの名前であった。

 

「小波君、出会った時は事あるごとにボクと君を比べたがっていたからね。その時に、一つ下の後輩に「泉星菜」っていうボクと同じ女の子のピッチャーが居たって話を聞いたんだ」

「……先輩が、私のことを話していたのですか?」

「うん!」

 

 彼は星菜にとって、幾度となく世話になった先輩だった。

 投球練習をする時にはいつも座ってボールを受けてくれて。

 「前世の記憶」に悩まされた時は、星菜は星菜だという強い言葉で励ましてくれて。

 他のチームメイトが星菜のことを蔑ろにしても、彼だけはいつも味方をしてくれて。

 

 ――そして彼は、星菜の為に、監督に怒ってくれた。

 

 彼は中学三年生の頃、監督による星菜の扱いに対しその怒りを抑えきれず、遂にその顔面を殴打した。鼻が折れ曲がり顎が砕けるほど、我を忘れたかのように、何度も拳を打ち付けていた姿が星菜の脳裏に焼きついている。

 現場に居合わせた他の教職員達が止めに入らなければ、彼は監督をそのまま殴り殺していたかもしれない――そんな勢いで彼が激怒していたことを、星菜ははっきりと覚えている。

 彼が自分の為に怒ってくれたことは、涙が溢れるほどに嬉しかった。

 だがその為に彼は校則によって重く罰せられることになり、それまで来ていた野球名門校からの推薦を取り消されてしまった。

 彼は、中学野球の名門校である白鳥学園附属中学校の中でも随一の野球センスを持つ素晴らしいキャッチャーだった。

 

 ――そんな逸材たる彼の人生が、自分なんかの為に怒ったせいで壊れてしまった。

 

 それは、竹ノ子高校に入学した星菜が野球部に入らなかった理由の一つである。

 自分の存在が彼の居場所を奪ったことに対して、星菜は深く負い目を感じているのだ。

 

「あの方は他に、何か言っていましたか?」

 

 事件以来、彼とは一度しか会っていない。その際は、両手を付いて何度も頭を下げた記憶がある。

 自分が野球部にさえ居なければ、自分がさっさと野球部を辞めてさえいれば――こんなことにはならなかったのだと。

 

 だが、彼が星菜を責めることは一度としてなかった。

 

 それどころか。

 

『顔を上げて、星ちゃん。僕は元々あかつきに入る気はなかったし、推薦が取り消されたからと言ってもプロになれないわけじゃない。それに、アイツのことはいつかぶん殴ってやろうと思ってたからね。だから僕のことは気にしないで。ね?』

 

 そう言って笑っていたのが、星菜の記憶に残っている彼の最後の姿である。

 だがその笑顔も、優しい言葉すらも、当時の星菜には信じることが出来なかった。

 何もかもが苦しくて、星菜には純粋に受け入れることが出来なかった。口ではそう言っていても、星菜には自分が野球部に居た為に進路が断たれたことを、彼が恨んでいるのではないかと疑っていたのだ。

 今でこそ落ち着いてはいるが、当時の星菜は人間不信に陥っていた。それまで長く付き合ってきた家族や友人すらも信じることが出来ず、そうやって少しずつ彼のことまでも避けるようになり――いつの日からか全く顔を合わせることがなくなってしまった。人間不信が治った頃には彼は既に高校に入学していた為、そのまま疎遠になったというのが現在の二人の関係である。

 

「んーそうだね。とにかくあの人は、君のことを褒めていたね。ボクよりも球が遅いのに速く見えたとか、球種が多すぎてサインを決めるのが大変だったとか」

「ほ、他には……」

「バッティング練習で見せてくれるセンター前ヒットは、見学料を払いたくなるような芸術品だったとか、色々と凄いことを言ってたよ。大体そんな感じで、君は何か心配しているみたいだけど、特に悪いことは言ってなかったよ?」

「そうですか……教えてくださりありがとうございます」

 

 かつて世話になった先輩の近況を知りたくはあったが、それよりも彼が自分のことをどう話していたのかを最初に聞く辺り、星菜は今更ながら自分のことを小さな人間だと思った。あおいの返答を聴いてようやくそのことを自覚し、冷たく自嘲の笑みを浮かべる。

 

 ――人間不信が治った今だからこそ思うが、自分の為にあれだけ怒ってくれた小波大也が、自分のことを恨んでいる筈がなかったのだ。

 

 あおいからの返答を聞いて、星菜はほんの少しだけ肩の重荷が下りたような気がした。

 脱力した星菜が息を吐きながらベンチの背もたれに寄りかかると、ふと頭の上に軽い感触を感じた。それは隣に座る少女、早川あおいの手のひらの感触であった。

 

「あ、ごめんごめん! 何だか君を見てるとついこうしたくなっちゃって」

「……別に構いませんが、だからと言って初対面の人の頭を撫でるのはどうかと思います」

「あはは、気を付けるよ。でも、本当に噂通りの子でびっくりしたよ。……本当に捨てられた子猫みたい」

 

 一つ歳上とは言え子供扱い――もとい子猫扱いされるのは好きではない。だが不思議にもこの時、星菜には悪い気はしなかった。

 あおいの浮かべる含みのない微笑みに、すっかり毒気を抜かれたというのもあるが、何となく彼女とは波長が合うのだ。

 話を聞くには、彼女もまた自分と同じ野球少女だったと言う。しかし彼女は星菜と違って高校二年の今になっても現役で続けているらしく、その話には大きな興味をそそられた。

 

 ――もっと、話がしたい。

 

 傷を舐め合うような関係になるかもしれないが、それでも星菜は、彼女とは仲良くなりたいと思った。

 

「そうだ、泉さん。一つお願いがあるんだけど」

「何でしょうか?」

 

 そんな星菜の思いを知ってか知らずか、あおいが友好的な笑みを浮かべながら言う。

 

「さっきボクが使ってたあそこのピッチングコーナーで、投げてくれないかな?」

「私が……ですか」

「小波君からはコントロールも相当良かったって聞いているよ。だから、ボクに見せてほしいんだ」

「……わかりました。ですが、ご期待にお応え出来るかはわかりませんよ?」

「あはは、その顔で言う? 随分自信満々に見えるけど」

「え? あっ――」

 

 星菜には、その頼みを断る理由は無かった。寧ろ心の中では、彼女に自分の投球を見せたいとすら思っている。

 何が自分にそう思わせているのか――理由もわからずに崩れてしまったみっともない表情を隠しつつ引き締めながら、星菜はベンチから立ち上がり、ピッチングコーナーへと向かった。

 

 


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