外角低め 115km/hのストレート【完結】 作:GT(EW版)
(だーめだよ……全然ダメ……)
昨夜はプロ野球で応援しているバファローズのエース、神童裕二郎投手がノーヒットノーランを達成したことで、星菜の機嫌は非常に良かった筈だった。
だが、紅白戦の一回表から始まった彼女の内心毒舌解説は、未だ尚鎮まることはなかった。それどころか一回裏の現在、その毒舌度はさらに悪化していた。
と言うのも、紅組のマウンドに立つ池ノ川貴宏が、星菜にとって最も嫌いなタイプの投手だったからである。
池ノ川はその強肩を生かしたオーバースローから確かに力のある速いストレートを投げるのだが、コントロールがあまりにも悪かった。白組先頭打者の矢部は初球を打ち損じてくれたから助かったものの、続く二番小島には一球もストライクが入らずフォアボールを与え、三番外川が打席に立った今もカウントはスリーボールのノースリーとなっていた。
(四球を恐れずにしっかりと腕を振れているのは良いけど、ど真ん中を狙って外角高めに大きく外れているようじゃどうにもならない。これじゃ六道先輩も、リードのしようがない)
本職は
池ノ川がマウンド上で露骨に苛立ちながら、外川に対して四球目のボールを投じる。
不格好な野手投げから放たれたそのボールは、大きくストライクゾーンの外へと外れる。
球審の茂木がフォアボールを告げると打者の外川が嬉々として一塁ベースに向かい、次の打者である鈴姫健太郎が左打席へと入った。
紅組
「うおらっ!」
池ノ川が気合を入れ直し、打席の鈴姫に対して一球目のボールを投じる。スピードは先までより若干落ちているが、制球は六道のミットが僅かに動く程度のコース――左打者に対しての
(それでいい。140キロなんて要らないから、コースを突けば。でもそれだけじゃ――)
ベンチから眺める星菜はその一球に小さく頷くが、だからと言って賞賛はしない。今の池ノ川が球威よりも制球を重視するべきだとは思っていたが、それを実現出来たところで投手としての彼が星菜にとって最低の評価であることに変わりはなかった。
(鈴姫には、まず通用しないだろうな……)
打者を打ち取るのは一定の球威と制球力、そして何よりもタイミングだと星菜は考えている。ストレートのスピードに自信のない投手は他の武器として、逆に自信がある投手はそのストレートをより速く見せる為、緩急を付けた変化球が必要だ。
池ノ川にはおそらく、それがない。
彼のストレートに頼ったこれまでの投球に星菜が何故外角に変化球を投げないのかと呟くと、隣に座るほむらから「投げられないんッスよ」という何ともわかりやすい言葉が返ってきた。
球は速いがコントロールが悪すぎて、その上変化球も投げれない。以上の点を踏まえれば、この時点で池ノ川の底は十分に知れたと言って良い。彼を紅白戦の先発投手に指名した茂木監督も、既に気づいていることだろう。
――池ノ川貴宏に、投手の適性はないことに。
それを決定づけるように、金属バットからの快音が響いた。鈴姫の一振りが、外角高めに入ってきた池ノ川二投目のストレートをジャストミートしたのである。打球はあっという間にライト波輪の頭上を越えていき、そのままノーバウンドでネットのフェンスへと直撃した。
それを見た二塁ランナー小島が悠々と三塁ベースを回ると、間もなくホームベースへと生還していく。一塁ランナー外川は打球を処理した波輪から物凄い送球が帰ってきた為、三塁を回ったところで足を止めた。
ほむらのスコアブックに、鈴姫のタイムリーツーベースヒットと白組先制の記録が追加される。
一回裏にして0対1。だが星菜は、このイニングにおける失点がそれだけで終わるとは思っていなかった。寧ろ本気で他校との試合に勝ちたいのなら、この程度の投手からは一イニングで八点は取らなければならないと思っている。
「あっさり先制したッスね」
「……私の予想、外れましたね。この試合は白組のワンサイドゲームか、乱打戦になると思います」
「ほむらもちょっと予想外ッス。全然駄目じゃないッスか池ノ川君」
今のツーベースヒットは、なるべくしてなった当然の結果である。打った鈴姫としては今のボールをホームランに出来なかったことを悔やむところであろう。
(……昔は私よりもずっと小さかったのに、飛ばすようになったなぁ)
さも当然のことをしたような涼しい表情で二塁ベースを踏んでいる鈴姫の姿は、打たれた投手としてはたまったものではないだろう。池ノ川はさらに苛立ちを募らせ、その苛立ちが次の打者を相手にも響くという悪循環に陥っていた。
「ボールフォア」
「フハハ! 満塁ですよ満塁」
白組五番の青山が一球もバットを振らずにフォアボールを選び、全ての
キャッチャーの六道始め紅組の内野陣がマウンドに向かって落ち着くよう声を掛けるが、その言葉も池ノ川の耳にはどこまで届いているのかわからない。
ああなると、投手はひたすらに孤独で、苦しいだけだ。ストライクが入らず塁を埋め、ストライクを入れようと力を抜けばあっさりとツーベースを打たれてしまう。そして次の打者相手にはどうすればいいのかわからなくなり、フォームが崩れて制球が定まらなくなる。
ここからは開き直ってフォアボール連発を覚悟して思い切り押していくか、後ろを信じて制球重視の力を抜いた球を投げ続けるか――そのどちらも通用しないと思った時点で、投手は死んだも同然なのだ。投手が何もわからなくなってしまえば、もうアウトを取ることは出来ない。
――だからか、池ノ川は炎上した。
ワンアウト満塁で迎えた白組の六番、沼田からセンター前に抜ける二点タイムリーヒットを浴びると、続く七番義村にも単打を打たれ、再び満塁となる。そして八番鷹野、九番山田による連続タイムリーヒットによって白組はさらに二点を追加し、池ノ川はこの回五失点となった。
打順は一巡し、尚も満塁のまま一番の矢部明雄へと戻る。
矢部は今度は予告ホームランなどせず普通に打席に立ったが、一球目に彼が見せたフルスイングは明らかに
紅組の内野陣はそのスイングを脅威に感じたのか、それまでホームゲッツーを狙って前に出ていた守備位置が全体的に半歩ずつ後ろに下がる。
「次、スクイズ行きますよ」
「え?」
そこで次に矢部が行うであろうことを悟った星菜が、これまでの池ノ川の投球に苛立っていたのもあって口に出してそう言った。
すると次の瞬間、池ノ川の二投目に対して矢部がバッティングの構えを解き、バントの構えを取った。バントによって三塁のランナーを帰す作戦、スクイズである。それも、これは矢部自身も生きようとするスクイズだ。制球重視を選んだ為か池ノ川の投球が真ん中に安定してきたところで、仕掛けるにはそう悪くない機会だと星菜は思う。
先ほどのフルスイングは、全てこの為の布石だったのだ。前進守備よりもやや後ろに下がったサードの守備位置を見るに、タッチプレーを必要としない満塁の状況でこそあるがサードランナーの生還はそう難しくはないだろう。これは矢部の作戦勝ちだ――と、星菜は思っていた。
だがそれは、良い形で裏切られた。
紅組の内野陣はまんまと騙されていたようだが、キャッチャーの六道明だけは彼の奇策に気付いており、池ノ川に対して投球の前にあえてボールをバットの届かない位置に外す「ウエスト」のサインを出していたのだ。
左のバッターボックスに向かって大きく外されたボールに対し、矢部が跳躍してバントを試みるもあえなく空振りしてしまう。スタートを切っていた三塁ランナーはキャッチャーとサードの間に挟まれると、すぐさま六道の手でタッチアウトとなった。
「おい矢部! お前からサイン出しといてそれはないだろ!」
「一々カッコつけようとするからだ! このおバカ!」
「チャンスだと本当に駄目だな!」
「俺が貸した漫画返せ!」
「フハハ! ミスは誰にもありますから気にしないでください」
「も、申し訳ないでやんす……」
紅組としては、これでようやくツーアウトである。白組としてはワンアウト満塁のチャンスがツーアウト一塁二塁になってしまい、矢部はベンチに居る白組ナインから熱い叱責を浴びていた。
だがその直後、彼は三球目のストレートをライト前に運び汚名返上。ランナーはまたしても満塁となった。
「……池ノ川君、最初よりはストライク入るようになったッスけど、なんだかポコポコ打たれてるッスねぇ」
「ストライクゾーンを狙いすぎて最初より腕が振れなくなっているから、多少コントロールは改善されても本来の長所である球威が無くなっているのです。スピードよりコントロールの方が大事だとは私も思いますが、あのような棒球なら誰でも打てますよ。コントロールを重視するのとボールを置きにいくのとでは全く持って意味が違うことを、池ノ川先輩はわかっていないのでしょう。見てください先輩のフォーム。身体の開きが早すぎて、バッターに対してずっとボールを見せています。こう言っては何ですが、あれではバッティングピッチャーよりも打ちやすいですよ」
「う、ううん? 星菜ちゃん……?」
「それに、鈴姫さんに打たれてから一度もインコースのストレートを使っていませんよね? だから白組の皆さんは思い切り踏み込んで、気持ちよくバットを振ることが出来るんです。あ、また外に投げました。何故あそこでインコースのストレートを使わないのでしょう? 使えないのか、使いたくないのか、使う度胸もないのか」
「ほ、星菜ちゃん目が怖いッス! 落ち着いて」
「……すみません。少し取り乱しました」
「今のは少しどころじゃないッスよ……」
紅白戦でフォアボールを連発しているようではどうしようもないので、とにかくストライクを投げる。その考え自体を決して悪いとは思わないが、その為に池ノ川という投手の持ち味が殺されてしまってはさらにどうしようもなくなる。
その結果がこれである。もはや池ノ川という投手には、何の見所も無かった。
(まったく……たかが紅白戦の試合で、何を怒っているんだか……)
星菜は彼の投球に対して苛立ちを超え、憤怒を抱いている自分に気付いていた。
だが考えてみればキャッチャーの六道や紅組の人間ならばともかく、自分が怒る理由など何もない筈だ。ましてや池ノ川貴宏は本来サードを守っている選手であり、投手として投げるのは今回が初めてである。そんな彼に対してマネージャーである星菜が抱くべきなのは、「出来ないならしょうがないか」というぐらいの考えで良かった筈だ。
それが今や、内心だけで行われていた解説が余すことなく口から出てきている始末である。
(先輩に当たってもしょうがないのに……)
ふと、星菜は考えてしまう。「もし自分が彼に代わってマウンドに上がったら、その時は白組の打線を抑えることが出来るだろうか」と。そんな考えが頭に浮かんでは、何を馬鹿なと笑い飛ばしていく。
この怒りの理由は何よりも、池ノ川に対する醜い嫉妬心からであろう。自分はそこに居る資格すら貰えなかったから、マウンド上でどれほど無様な投球を見せても投げ続けることが出来る池ノ川のことが気に入らないと――それはあまりにも滑稽で、勝手すぎる言い分だった。
「本当に、勝手なことばかり……」
そんな自分が、心底嫌になる。
自分があそこから離れたのは他の誰かから資格を貰えなかったからではなく、自分自身がそう決めたからだと言うのに。