宇宙歴七六八年七月一七日。ハンス・アウレール・グデーリアン宇宙軍大将が率いる黒色槍騎兵艦隊がアルテナ星系に到着。この時既に同盟軍はイゼルローン防衛艦隊を押し込み、要塞を中心点に包囲しつつあった。しかし黒色槍騎兵艦隊の到着によって同盟艦隊はイゼルローン防衛艦隊の殲滅を断念し後退する。
黒色槍騎兵艦隊の到着後、帝国軍はイゼルローン回廊からの撤退に向けて準備を始める。元々要塞建設の作業員は後方へ退避していたが、代わりに帝国艦隊支援の為にエルザス辺境軍管区から大量の後方要員がイゼルローン要塞へと派遣されていた。帝国艦隊が撤退する前にこれら後方要員を退避させる必要がある。黒色槍騎兵艦隊を中心に、各艦隊の比較的損害が軽微な部隊が同盟遠征軍と対峙して時間を稼いだ。
宇宙歴七六八年七月二〇日未明。突如として帝国宇宙艦隊は全線に渡って後退を始める。これに同盟遠征軍は困惑した。国防委員会や統合作戦本部は帝都オーディンで有力者が巻き込まれる事件が発生したことは掴んでいたが、その規模や詳細は帝国上層部の必死の情報統制によって掴めていなかった。
尤も、あれほど大きな事件となると完全な隠蔽は不可能だ。同盟側もすぐにその詳細を知ることになるのだが、少なくともこの時点で遠征軍はクロプシュトック事件のことを知らず、黒色槍騎兵艦隊に続いて赤色胸甲騎兵艦隊、紫色胸甲騎兵艦隊の二個艦隊がイゼルローン回廊に向かっていると信じ込んでいた。
ジャスパーは当初罠の存在を疑ったそうだが、やがて情報部が帝国軍の通信を傍受し、摂政と閣僚を巻き込む大きなテロ事件の発生によって帝国軍が撤退を余儀なくされたことが判明する。ジャスパーは帝国軍の動きからこれが真実だと判断し、追撃に動いた。
イゼルローン要塞が大爆発を起こしたのはその瞬間だった。要塞に接近していた同盟軍第一一艦隊がイゼルローン要塞の崩壊に巻き込まれ艦艇数千隻を失う大損害を被り、その他の艦隊も崩壊した要塞の残骸と混乱する第一一艦隊が邪魔になり追撃を断念せざるを得なかった。
一連のイゼルローン戦役において同盟側が最終的に投入した戦力が六万隻。その内一個艦隊に匹敵する規模である艦艇一万八〇〇〇隻余り、兵員二一〇万人余りを失った。一方帝国側は最終盤に到着した黒色槍騎兵艦隊を合わせて艦艇四万隻を投入。艦艇一万五四一一隻、兵員一六二万八〇二人を失った。両軍の被害を考慮するに回廊の帝国軍は物量差から敗北を避けることが出来ない一連の戦闘において最大限善戦したといえる。一方で同盟側は当初の想定を超える損害を出したものの、概ね大きな失敗も無く勝つべくして勝った、といえるのではないだろうか。
自由惑星同盟本国ではこの後暫く反戦運動が高まるが、やがてドラゴニア辺境軍管区に取り残された帝国軍地上部隊が相次いで降伏、あるいは大敗すると同盟市民は概ね遠征軍の挙げた戦果に満足し、フレデリック・ジャスパー以下遠征軍首脳部を称賛するようになる。宇宙歴七六九年にはこの功績によってジャスパーは統合作戦本部長に就任し、チャンバースはウォーリックが敗れた政界という戦場に乗り出すことになる。
余談だが同盟側では遠征軍の出した損害が決して首脳部のミスによるもので無いという事を強調する為にリヒャルト・フォン・グローテヴォール、クレーメンス・アイグナー、オスカー・フォン・バッセンハイム、ホルスト・フォン・パウムガルトナーらを「双璧の四天王」として名将として称えた。またグレゴール・フォン・ミュッケンベルガーを筆頭とするドラゴニア特別派遣艦隊の生き残りを指して「新世代の一一人」という造語が作られ、盛んに喧伝された。……ミュッケンベルガー少将やメルカッツ准将は順当だとして私がその一人に選ばれたのは単にライヘンバッハという有名すぎる名前とたまたま分艦隊司令官代理という目立つポジションにあったという事が理由だろう。
宇宙歴七六八年一〇月四日。黄色弓騎兵艦隊司令官オスカー・フォン・バッセンハイム宇宙軍大将を乗せ、ドラゴニア特別派遣艦隊は帝都オーディンへと帰還した。黒色槍騎兵艦隊はフォルゲン、黄色弓騎兵艦隊と第一辺境艦隊の残存兵力はボーデンへと後退、アムリッツァの臨時基地はいくつかの小惑星で構成されていたが、全て恒星アムリッツァに投下され消滅する。イゼルローン回廊の失陥を受け帝国は再びエルザス辺境軍管区の放棄を余儀なくされた形だ。
「そこら中に憲兵が居るな……」
「無理も無いでしょう。……事が事ですからね」
ドラゴニア特別派遣艦隊の艦艇三八〇〇隻が入港したのは第一二特派戦隊が出立したオストガロア宇宙軍基地であった。基地の空気は張り詰めており、目につくように多数の憲兵が配置されている。
「総監部の連中も居ますね。しかも警保や監査じゃない、あいつら多分特事局だ」
「軍内マルシャですか……司令官閣下の予想通り面倒なことになりそうです」
憲兵総監部出身のブレンターノ法務部長が嫌悪感を滲ませながら発言し、ペイン憲兵隊長も顔をしかめた。
「何です軍内マルシャって?……どうせロクでもない組織でしょうが」
「社会秩序維持局の尖兵だ。軍務省や統帥本部と同じように、憲兵総監部も基本的には軍内事件に内務省が首を突っ込んでくるのを嫌っている。だが、特事局だけは相手取るのが貴族だからか積極的に社会秩序維持局と協力するらしい」
「よくご存じですね。クラーゼン情報部長。……『毒を以て毒を制す』という理屈は分かるんですがね。『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』って言葉を知らなかったんですよあいつらは。曽祖父の頃はもう少しまともな組織だったんですが、今では社会秩序維持局の小役人共と同じロクデナシの集まりですよ」
エルラッハ作戦副部長の質問にラルフが答え、さらにブレンターノ法務部長が顔をしかめながら吐き捨てた。ブレンターノ家が機関に協力するキッカケにも社会秩序維持局と憲兵総監部特事局が絡んでいたらしい。「強大な組織は強大な反発を招く」というのは確か最後の憲章擁護局長アレハンドロ・サラサールの言葉だったか、まさしく至言である。残念ながらサラサールと違い歴代の社会秩序維持局長はその事に気づいていなかったか、意図してそれを無視した。
第一二特派戦隊の首脳部が旗艦リューベックを降りると憲兵の一団が私たちの前に立ちふさがった。
「アルベルト・フォン・ライヘンバッハ宇宙軍准将。そしてヴィンツェル・フォン・クライスト宇宙軍中佐。お二人には憲兵総監部への出頭が命じられております」
「理由は?」
壮年の憲兵が私に敬礼した後、徐にそう言った。私は端的に理由を問いただす。
「ここで口にするのは憚られる内容かと……」
「そうか、では後で聞かせてくれ。今は疲れているんだ。そこをどいてくれ」
「お待ちください。そういう訳にはいきません」
私が横を通り抜けようとすると士官が腕を掴んできた。
「……拘引を命じられている訳でも無いんだろう?一応教えてやるが君たちは今非常に失礼な事をしている。私は生来温厚な質だが、家の名前と部隊を背負っているんでな。あまり無礼な事をされると私も笑って済ませられなくなる」
私が睨みつけると士官は怯んだ様子だ。そこでブレンターノ法務部長が進み出る。
「少佐。貴官に聞きたいのだが先ほど『出頭が命じられている』と言ったな?ならば出頭命令書を見せてみろ」
「承知しました。こちらです」
士官がブレンターノ法務部長に仰々しい書類を手渡す。
「……話にならんな。これはただの出頭要請書だ。直属の司令官たるミュッケンベルガー少将のサインも軍務尚書のサインも宇宙艦隊司令長官のサインも無い。である以上、これは強制力を持った出頭『命令書』ではなく参考人に対する任意の出頭『要請書』に過ぎない。違うか?」
「……」
士官は黙り込む。ブレンターノ法務部長の言うことは正しい。強制力を持った出頭命令を出せるのは高等法院と内務省保安警察庁だけである。個人としてはこれに皇帝、摂政、内務尚書、司法尚書が加わる。
「憲兵総監部は確たる証拠があれば勿論拘束命令を出すことが出来る。だが出頭命令はその部隊の司令官か軍事行政の代行者である軍務尚書、あるいは全宇宙艦隊のトップである宇宙艦隊司令長官の承諾が無ければ出すことが出来ない。それが無い以上は単なる参考人としての出頭要請に過ぎず、正当な理由が有れば拒否は可能だ」
「まさか司令官閣下と後方部長の軍務が正当な理由にならないと言うつもりは無いよな?ドラゴニア特別派遣艦隊と第一二特派戦隊がどのような状況に置かれているか、知らない訳でもあるまい」
ブレンターノ法務部長に続きヘンリクが睨みつける。士官は苦しい表情だ。
「……承知しました。また日を改めてご協力をお願いしたいと思います」
「ああ、覚えておこう」
憲兵たちは私の前を立ち去って行った。
「……ふう。肝が冷えました……」
大柄のレンネンカンプ参謀長の後ろに縮こまっていたクライストが呟く。
「まだ安心するのは早いですよ後方部長。特事局は簡単には引き下がりませんからね」
ブレンターノ法務部長がそう言うとクライストは青褪めた表情で頷く。……帝都における爆弾テロの犯人がクロプシュトック侯爵ならば、一門に属するクライストと、一門に属する予定だった私はとばっちりを食う可能性がある。皇族であるクレメンツ大公とフリードリヒ大公に危害を加えている以上、クロプシュトック侯爵に対する大逆罪の適用は免れない。そうなれば少なくともクライストはタダでは済まない。
帝国における連座制は時代が下るにつれて、若干緩和されている。貴族社会において複雑な姻戚関係が築かれるようになったことが理由だ。まず、ルドルフ大帝の勅令――事実上の憲法――に対してエーリッヒ二世止血帝が事実上の縮小解釈を施した上で新たに大逆罪の刑罰規定を設置した。さらにマクシミリアン=ヨーゼフ二世晴眼帝が下した『枢密院改組二関スル一連ノ勅令二関スル捕足』『高等法院設置二関スル件』『高等法院二於ケル法解釈二対スル指針』で示された一連の解釈――通称ミュンツァー解釈――によって多くの法律において連座制の規模が縮小された。
それでも判例によると大逆罪の連座制度では「三親等以内の者を死刑とする」「五親等以内の者は死刑又は無期懲役とする」「九親等以内の者は罰することが出来る」となっている。(この他、直系・傍系・尊属・卑属の別に関しても色々とあるが省略する)クライストはクロプシュトック侯爵の曽祖父の妹の曾孫である。つまり八親等以内の血族にあたり、処罰される可能性はある。
ちなみに私は結婚式の半月前にオトフリート五世陛下が亡くなった為に、未だコンスタンツェ――カミル・フォン・クロプシュトック伯爵の娘――と籍を入れていなかった。籍を入れていたら四親等以内で一発アウトである。しかしながら婚約者という立場は変わっていない訳であるから、油断も出来ないといえよう。
「そうか。お前の下にも憲兵が来たか……」
宇宙歴七六八年一〇月五日。オストガロア基地に一泊した私はその後、帝都近郊のメルクリウス市にある自宅へと帰ってきた。
「……父上。私は今どのような状況に置かれているのでしょうか?イゼルローン回廊から戻ってくる間もある程度の情報は収集して来ましたが……どうにも判断がつきません」
「無理もないだろうな。帝都の人間でも状況を全て正確に把握している人間はいないはずだ。……お前はどこまで知っている?」
父、カール・ハインリヒ・フォン・ライヘンバッハ退役元帥は腕を組んでそう言った。私は父に自分が聞いている限りの情報を話した。
宇宙歴七六八年六月一二日。
パーティーが始まって二時間ほど経った頃である。突如としてパーティー会場で爆発が起こった。不幸にも爆発の中心には摂政ブローネ大公を初めとする殆どの閣僚と、皇族二人、一部の軍高官が集まっていた。帝都の外では残念ながら詳細な情報がつかめなかったが、少なくない要人が死亡したようだ。
憲兵総監部は四日後、ウィルヘルム・フォン・クロプシュトック侯爵を首謀者として断定した。クロプシュトック侯爵はパーティーに出席していたが、用を足すためにパーティー会場から出ており難を逃れていた。憲兵総監部はクロプシュトック侯爵とその一党の拘束に動いたが、その時既にクロプシュトック侯爵は帝都オーディンを離れ自らの領地へと戻っていたという。尤も、クロプシュトック侯爵は領地から自身の潔白を訴えているが……。
難を逃れた政府と軍の高官たちは大いに狼狽えたが、ここで自身も軽傷を負ったクレメンツ大公が強いリーダーシップを発揮し、混乱の収拾に努めた。情報漏洩の防止と前線で戦う将兵を動揺させないことを目的に黒色槍騎兵艦隊の接近までイゼルローンに対して事件の存在を黙っていたのも彼の判断だ。クレメンツ大公は一連の事件を通じて大いに声望を高めたようだ。
「まあ、概ねお前の言う通りだな。……だが実際はもっと酷い」
父は事件の詳細について話し始めた。その内容は私の想像を超える物であった。
摂政ブローネ大公、宰相代理兼国務尚書アンドレアス公爵、財務尚書カストロプ公爵、内務尚書ノイエ・シュタウフェン侯爵、宮内尚書キールマンゼク伯爵、司法副尚書バルマー子爵、科学副尚書エールセン子爵を含む高級官僚二一名が死亡。生き残った残り三名の閣僚も全員重傷を負い入院している。
宇宙艦隊司令長官フォーゲル元帥、幕僚副総監マイヤーホーフェン上級大将、憲兵総監クラーマー大将、兵站輜重副総監クルーゼンシュテルン大将、地上軍第一軍集団司令官ゲッフェル大将、赤色胸甲騎兵艦隊副司令官ヴァルテンベルク中将、教育総監部要塞砲戦監シュトックハウゼン中将、近衛第二分艦隊司令官フォルバー中将、統帥本部人事部長アルレンシュタイン中将、士官学校長フェルデベルト中将らが二四名の将官が死亡。またクヴィスリング退役元帥も爆発に巻き込まれ死亡したそうだ。軍務尚書アイゼンベルガー元帥を含む数名を除いて、他の軍高官の殆ども負傷しており、ある軍務省職員は「軍務省にとって涙すべき四〇分の再来だ」と嘆いた。
その他、枢密院副議長リンダーホーフ侯爵、オーディン高等法院副院長フレーゲル侯爵、枢密院議員ノイエ・バイエルン伯爵ら領地貴族の出席者にも多くの犠牲者が出ている。最終的に五六名が死亡、三〇〇名以上が負傷しその二割は瀕死の重傷を負ったという。
「……これほど大きな事件だ。帝都のあらゆる組織が混乱していたが、それでも社会秩序維持局と保安警察庁の両組織は争うようにして
父は難しい表情である。……父は憲兵隊の動きに疑念を抱いている様子だ。
「そして、それだけ早く動いた割に、犯人の特定には四日も時間をかけている。……この事件で当初疑われたのはリヒャルト大公殿下だ。リヒャルト大公殿下はパーティーに出席する予定だったが、腹痛を理由に出席を取りやめている。事件直後にはリヒャルト大公殿下がクレメンツ大公殿下を狙って事件を引き起こしたという噂がまことしやかに囁かれていた」
「……リヒャルト大公殿下がですか?しかし……犠牲者にはアンドレアス公爵を始めとするリヒャルト大公派の要人が複数含まれています。クレメンツ大公の支持者もフレーゲル侯爵を始めとして複数巻き込まれていますが、肝心のクレメンツ大公が軽傷で難を逃れていることを考えると……」
私の意見を聞いて父は頷いた。
「その通りだ。事件の被害が明らかになるにつれてリヒャルト大公を黒幕とする噂は小さくなっていった。その代わりに様々な流言飛語が飛び交い始めた。ブラウンシュヴァイク公爵とクレメンツ大公が結託して起こした自作自演、リューデリッツ派による軍上層部へのテロ、リッテンハイム侯爵によるブラウンシュヴァイク派に対する攻撃、共和主義思想に被れた開明派と軍内改革派の一部による暴走、フェザーンの暗躍、帝前三部会の平民議員過激派による陰謀、果てはフリードリヒ大公がクーデター計画を失敗させて自分も巻きこまれたとか、政治に嫌気がさしたブローネ大公が多くの高官を道連れに自殺したとか、単なるガス漏れが原因だとか……まあ、他にも色々あった。……ちなみに私とクヴィスリング元帥、ゾンネンフェルス元帥による帝国上層部への復讐、という噂もあったぞ」
父は苦笑している。なるほど、確かにどれもセンセーショナルで、証拠は一切無くても「もしかしたら……」と思わせる程度の力を持った噂だ。すぐに「まさかな」と笑って流すだろうが。
「そんな中、突如として憲兵総監部がクロプシュトック侯爵を犯人と断定する発表を行い、帝都のクロプシュトック派……というよりはリヒャルト大公派か?を一斉に検挙した。クロプシュトック侯爵を初めとする二〇名弱は憲兵総監部の追跡を逃れて帝都を脱出したか潜伏を続けている。……それとなアルベルト、お前に言わないといけないことがあるんだが……」
父はきまり悪そうな様子だ。第二次ティアマト会戦の後、父はよく言えば冷静さを身に着け、悪く言えばやや翳のある印象を受けるようになった。父の内心は分からないが、多くの同志と戦友を失った戦いに思う所もあったのだと思う。それでも往年の果断さが損なわれた訳では無い。父のこんな様子は珍しかった。
「何でしょうか父上?」
「うむ……あのな、実はお前の婚約者であるコンスタンツェ嬢が助けを求めて来られてな。この家で匿っているのだ……」
「……は?」
父は誇り高き帯剣貴族である。誇り高き帯剣貴族に助けを求める女性を見捨てるという選択肢は無い。……しかしそれにしたって限度があるという物だろう。我々は既に大義の為に色々なモノを犠牲にしてきたのだというのに……。