そこで彼らは“高川”と名乗る少女に出会う。
一夏の思い出、一夏の出会い、“僕”は、その中で、ちょっぴり大きくなっていくのだった。
その日の夏は、いつもより暑く感じられた。
僕と兄は、その夏に、たくさんの思い出を作ることを決めた。兄は受験で、遠くの高校へ行ってしまうからだ。
「兄ちゃーん、これ、どこまで続いてるのかなー!」
少しばかりの甲高い鉄の音と、自転車の回る音がする。僕はなんとか体を立たせて、少し急な上り坂を駆け上がっていた。
兄は僕がきつくて大変なはずの坂を、スイスイっと進んでいってしまう。
いつのまにか、大きく声を張り上げなくてはいけなくなっていた。
セミが夏の空を貫く音、どこにでもある夏の音をかき分けて、兄が僕に言葉を返した。
「んー、どうだったっけなぁ! でも、まだ先はあるはずだぞ! 止まるなよ!」
もとよりそれはわかりきっていたことだ。
ここに来るまで、途中なんども寄り道をしながらではあるものの、一時間も経っている。兄は一度決めたことはわけもなく絶対に曲げない人間である。
それに僕もここまで一時間という道のりと、どんどん深くなっていく森に、かなり意地になっていた。
「わかったぁ!」
声を大きく返しながら、勢い良くペダルを漕ぐ足に力を入れる。
急がなくては、兄は僕を心配しているが、思いやってはくれないのだから。
たどり着いた先はふるぼけた小さなお寺だった。
住職は、はたしてどこかに居るのだろう、入り口に、スクーターのような乗り物が打ち捨てられている。忘れっぽいのか、鍵はそのままになっていた。
「少し拝みに行きますか」
ここに来るまでの坂道で、息絶え絶えの僕と違って、余裕たっぷりで門を眺めていた兄は、ふとそんな風に提案した。
「僕は、いいよ、少し、休んで、行くから」
なんだよそれ、と兄は僕の言葉に口をとがらせる。そりゃそうか、僕だってここまできたんだ、先へ進みたい気持ちがないでもない。
さて、どうしようかと大きく吸い込んで、その時だった。
「そうよ! もったいないじゃない! そんなの!」
聞いたこともない、けれど耳にやさしい鈴のような声が聞こえた。
大きく息を吸っていた僕は、驚いてそれを止めてしまう、眼を何度も白黒させて、やがて深く咳き込んでしまった。
「あ、ちょっと、大丈夫?」
声の主は、驚いたようにしてこちらに寄ってくる。僕は座り込みながら、そんな彼女の足音と、遠くからのんきに大丈夫かと、聞いてくる兄の声を聞きながら、落ち着くのを待った。
そうしてから、僕は漸く声の主に意識を向けた。
……多分、僕は咳き込むことで、一度意識を全部持っていかれたんだ。だから、そのあと意識を向けた先には、僕の全部が向いていたのではないか、そう思う。
何が言いたいかといえば、僕は目の前の少女に見入っていた。
紫の色が特徴的な花の刺繍がいれられた白のワンピースに、少しの風があるのか、ゆらりと水玉リボンが揺らめく麦わら帽子、そこから覗く、心配そうな顔。
どれもが、僕の知らないものだった。
心臓が、思わず跳ね上がるのを感じる。
これが一目惚れっていうのだろうか、僕は、声を失っていた。
「……大丈夫?」
「…………うん」
――見上げた空に、麦わら帽子から覗く太陽。けれども僕はその太陽以上に、彼女が眩しく映っていた。
それから、戻ってきた兄と一緒に自己紹介をした。
どうやら彼女は兄と同い年のようで、僕の1つ年上であるようだ。そんな彼女は、自分の名前を答える時、少しだけ考えてから、
「高川……かな?」
と、少しだけ疑問符をつけながら答えた。
僕と兄、高川という少女は、すぐに仲良くなった。彼女の勝気な性格は、兄や僕とは相性が良かった。加えて、なんと彼女の目的も、僕達と同じくこの夏休みに遊んで回ることだったのだ。
そんな訳か、僕達はその日をお寺の中で遊びまわることに終始した。
今年の目標はアウトドア、であったから、とても充実した物だったと思う。
気づいたら昼の日差しが夕日の紅に変わっていて、夏の陽気も、少しばかり和らいだようだ。
先導するように寺の門をくぐった高川は、くるりとステップを踏みながら振り返り、そしてニコリとこちらへ笑いかけた。
太陽が沈む先に、森は一直線の道を作っている。
青く茂った葉の先から、道の奥から、まばゆいばかりの光が、僕と兄を包んでいた。
「ありがとう、今日は楽しかったわ」
「明日はここで会えるのかな」
「そうね、ここだけの友人、この場所でだけ会うことを許された友達、なんだかとってもかっこいいじゃない」
僕と高川はとても楽しく会話を交わした。
兄は少しだけ複雑そうな顔をしていたけれど、なにやら少し心をえぐるものがあったようだ。まぁ、去年の蛮行を思い出せば、なるほどすごく納得がいった。
「なによ、不満そうね」
兄の心中を察したらしい高川が、少しだけ兄に近づいていく。からかうような目付きで、出来ればこっちにそれを向けて欲しいな、などと僕はそんなことを思っていた。
ともかく、彼女の様子はとても楽しそうだ。たじろげば結構。面白い話でもでれば、彼女は喜んでくれるだろう。
「いや、別になんでもいいだろう」
堅物ながらも、やんちゃ坊主な面もある。優秀ながらも、期待されるよりは親しまれるような兄の性分は、去年の夏、丁度暑さの盛に、暴走していた。
まぁようするに思春期にありがちな行動というやつで、現在僕も、自覚ながらにやめられない奴だ。
「あはは、気障ったらしい台詞に心を少しえぐられているんだよ、去年の兄ちゃんはひどかったからね」
「お前が言うな! まったく、大概じゃないか、今のお前も」
僕のことを兄が“お前”なんて呼び方で呼ぶのは、たいてい兄が恥ずかしがっている時だ。今回も僕から顔を逸らして、頬の朱は、決して夕焼けの赤だけではないだろう。
「あっはは、案外おもしろい人なのね。兄貴らしくて、しっかりしてて、もっとお固い人なのかとおもった」
「夏に思い出を作ろうなんて言って弟を連れ出すくらいだし、兄ちゃんも彼女が出来れば一端のプレイボーイなのかもしれないけどね」
とはいえ、僕は兄の恋人というものを全くとして見たことがない。顔は悪くないのだし、割りとモテる部類に入るのだけど、何故かそれが明るみに出ることがないのだ。
彼女との付き合いはある。実際後々付き合っていたという人の事をあげて兄が肯定したこともある。けれども、絶対に“今の”彼女さんのことを、僕は知ることができないのだ。
散々からかって、十分彼女も楽しめたのだろう。こちらによってきていた体を、くるりと返して背を向ける。
朱に濡れた体は透き通るような白を併せて、幻想的としか言い様のないものになっていた。
光を浴びれば影となる、先程までの彼女は、夕暮れを受けての暗がりに、顔を隠してしまっていたのだ。
「まぁ、そういうわけだからさ、えっと……その」
元気が溢れていたはずの高川は、何故かその時に限って、縮こまったように声を潜めた。ためらうような、振り切るような、そんな弱々しい声を半ば隠し気味に、僕達へと言葉を向けた。
僕は思わず足を前へ向けていた。
少しだけ遠くにあった彼女に近づいて、しかしどういうわけか、彼女には近づけない、僕と彼女の間には、大きな大きな壁があるようで、けれども。
高川の顔は、すぐ側にあった。
近づいていた僕のすぐ側で、高川は振り返り、朱が差した顔を、恥ずかしげな笑みに染めている。僕の中で、再び感情が弾けるのを知った。
「また……遊んでくれますか?」
一度、僕はこの感情を味わっている。忘れるはずもない。そう、この寺を訪れた時のこと、初めて彼女を眼にした時だ。
見上げた先の、太陽を背にした彼女の姿は、僕を捉えて離さなかった。
あの時、僕に二度目の声掛けをしてくれた時と、今の彼女はよく似ていた。
まるで……別人にでもなってしまったかのように、僕は――
「はい」
ただ、そう頷いた。
それから、毎日僕と兄はお寺へ通った、その度に高川は僕と兄の前へ突然現れ、僕達を驚かしては笑った。
遊ぶ場所は、お寺だけではなかった。
時には、少し古い、高川の思い出の場所だという隣町の駄菓子屋へ向かった。
商店街の隅にあるような、その古ぼけた店では、既に年老いたお爺さんが出迎えてくれた。少し口数はすくないようだったが、笑みを絶やさず、僕達のことを歓迎してくれた。
最後にお礼を込めて、カウンターの近くにある駄菓子で、オススメは何かと聞くと、ゼリーを詰めたらしい細長い棒を、二つ取ってくれた。
しかし僕達は三人だ。
すぐに訂正を入れようとするが、高川が必要ないというので、結局僕達は二つ駄菓子を買って駄菓子屋を後にした。
他にも、五年前まで本屋だった店に、高川は思い出づくりだと僕達を誘った。
出てきたお爺さんは、孫の名前だろうか、アヤメという少女の名を口にしたが、僕達の用事は高川のことだ。彼女の名前をだすと、お爺さんは納得が言ったのか、その高川の思い出話をしてくれた。
高川は昔から勝気な性格だったらしく、男子たちに混じってスポーツをしたり、中学では部活にも励んでいたそうだ。長い間、ずっとそんな昔話ばかりをしていた。
やがて日が暮れてくると僕達はお爺さんの元を後にした。お爺さんは少し驚いたように眼を開きながらも僕達を送ってくれた。もし何かあったらまた来てもいいと、そんな声をかけてもらいながら。
高川の思い出の場所は、少しばかりおかしな場所が多かった。
時には街の一角で荒地になっている場所に来ると、そこでままごとをした。態々必要もないのに妹の役割まで用意して、まぁ、高川が楽しそうならば、僕はなんでもいいのだけど。
不思議な事に、僕達は移動中のことを決して覚えてはいなかった。楽しい記憶で、あるはずなのに、僕たちは、少しだけ憂いのあるお爺さん達の顔ばかりが印象に残っていた。
僕は、もとより一目惚れに近い形ではあったけれど、会う度に高川のことが好きになっていった。勝気さの中に見える弱々しい別人のような態度、僕が守らなくてはならないと思うには十分だった。
兄は――後になって思えば、既にこの時兄は、僕の恋心を理解していたのだろうが――僕の事を煽るようにからかっていた。その時の兄はいつになく楽しそうだった。
ともかく、そんなことをしているうちに、時間はあっという間に過ぎてゆく、月日は、七月の終わりから、八月の初めへと変わっていた。
「ねぇね、受験はどうするの?」
そんな会話を、寺の木陰で休んでいる最中、高川はそんなことを僕達、特に兄へ問いかけてきた。
「ん? 少し遠くの進学校を受けるつもりだが」
「どんだけよ? 優秀なんだ」
「まぁ一応な」
楽しそうに木に背を預けながら座り込んでいた高川は、ここに来る最中に買ってきたジュースを飲む兄を見上げていた。
高川の身長は僕とほとんど同じであるわけだけど、この場合、高川は随分と兄を上に見ていた。
「それで? 高川はどこに通うんだ?」
そんな兄との身長差を気負う様子はなく、兄の問にもスラリと答えていた。
高川はスラリと高校の名前を言った。兄が腕組みをして一つ頷く。
「そうなのか……ん? 県外か?」
兄はその高校に聞き覚えがなかったのか――僕はもとより高校の名前などしったこっちゃないが――問いかけているようだった。
「違うけど、どうかしたの?」
「……ふむ、いや、なんでもない」
少しだけ兄は考えこむような素振りを見せた。腕組みの際に傾いたペットボトルから、雫が一滴こぼれ落ちた。――僕はそれが、単なる水滴には見えなかった。なぜだか知らないが、僕の感情に、変なものが浮かぶのを感じていた。
兄は次の日、僕といっしょに高川の元へは向かわなかった。
「なんだか、勉強が忙しくなってきたらしいよ」
そんなはずはない、とは思ったものの、高川には兄に言われた通りの理由を話した。高川も、疑問ではあるようだったが、素直に、
「そうなの」
と頷いていた。
それからというもの、兄は僕と高川が遊ぶ時に、加わることが少なくなってきた。本人は受験が云々、といっていたが、夏のはじめに、この夏休みは思い切り遊び倒すと豪語していた兄であるから、普段から律儀な兄が、そんな宣言すらも、破棄するとは思えなかった。
そして時折僕についてきたかと思えば、高川を連れ出し、なにやら二人だけで会話をしているようだった。
僕の胸に、キリキリとした痛みが浮かんだ。
高川はといえば、やはりいつもどおりではあるものの、いつもより気の弱い部分が大きく出ていたような気がした。
「今日も、楽しかったね」
しおらしいような、高川の姿、普段であれば、僕や兄――最近はほとんど僕だけだけど――をからかうように、楽しげに笑って見せていたのに、ここ最近はずっとこんな様子だ。
惜しむような、悲しむような、そんな表情。
僕は高川が好きだ、けれど、高川には笑っていて欲しい、あの恥ずかしげな笑みであれ、いつもの楽しげな笑みであれ、高川が笑っていてくれれば、僕はそれで良かったのに。
「いつまでも……こんな時間が続けばいいのに」
僕は、それに答えることができなかった。
高川が、高川ではないような、そんな気がしたからだ。
それに僕自身、この不気味な不和に、喧嘩をしているわけでもないのに遠ざかっていく、理不尽な違和感に、蓋をしたかったのも、あるだろう。
そんなある時のことだった。
「実はね、このお寺にはある噂があるの」
そんなことを、高川は珍しく来ていた兄と僕に語ってみせた。
なんでもこの近くの墓地の木は、霊験あらたかなもので、そこにおまじないをかけて行動をすると、絶対に成功するというものだった。ただし、かけられるおまじないは、一生につき一つだそうだが。
そしてそれは一人で夜に行わなければならず、誰にもそのおまじないの内容を喋ってはいけないというのだ。
「俺もそれは聞いたことがあるな、五年くらい前から広まっているらしいが」
考えこむような素振りを見せる兄は、高川へ決して嫌な感情を覚えているわけではないのだろう、だったらなぜ、高川を避けるのか、僕には絶対に理解できないことだと思った。
高川は、いつものように笑っているのに。
それから、高川の試してみようという提案に、僕も兄も、頷いた。夜の墓地、危ないような気もしたが、僕も兄も、なぜだか絶対に大丈夫な気がしたのだ。
暗がりの中訪れたお寺の前で待っていた高川のワンピースに刺繍されいてるのは、赤い綺麗な花だった。高川は大概毎日白のワンピースで、二種類の花の刺繍を交互に使い分けているようだった。僕達も似たような服装を使いまわしているから、いつしか服は僕達のトレードマークになっていた。
「きたわね! 弟の方なんか、今にも逃げ出しそうな雰囲気してるのに、よくもまあ、ってところよね」
「こいつも大概一度決めたことは曲げないからな、随分な似たもの兄弟だよ、俺達は」
手にしたライトを交互に僕と自分へ向けて照らしながら、兄はそんなふうに笑って言った。高川は僕に近づくと態々自分の顔を下からライトアップしてみせた。
「幽霊、でるかもしれないわよ? 精々気をつけることねー」
そんな高川は、なぜかムダにどうが入っていて、なにかお化け屋敷にでも精通しているのかと、僕は一人苦笑した。
「出たら面白いかもね、肝試しみたいなものだしさ」
僕は、努めて楽しそうに笑った。むしろ楽しくあるべきだと自分に言い聞かせるように、からからと元気のいい笑い声を上げた。
釣られて高川も、楽しそうに声を上げた。
「それじゃあ、俺からまずは行ってくる、ルートは教えてもらった通りでいいんだよな?」
「もっちよ、割りと大きな石畳だから、迷うことも無いだろうしね」
兄がそれを遮るかのように、高川へと問いかけた。
むしろ、これまで話題にこそ出ていたものの、不気味だからと近寄らなかったのだ。僕も兄も、当然高川も、その位置は確り記憶している。
それから兄が帰ってくるまで、僕たちは少しばかりの会話を楽しんだ。
内容はここ最近の話題、出会った頃から今までの、昔話へ終始していた。なぜか、僕はそれを止めることができず、また高川も、それをやめようとはしなかった。
僕は、それを……
「――ただいま」
兄が帰ってきたのは、数分後の事だった。ほとんどテキパキと事を終わらせてしまったのだろう。続く僕は、少しだけ緊張を覚えながらも出発した。
そこには、とても大切な物がある。そんな気のせいにも程があることを、思っていたからだ。
――高川と出会ってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。
この一ヶ月間は、僕にとってとても充実したものだった。兄と一緒に外へ出かけて、高川という女の子に出会って、そして初めて恋をした。
そんな一ヶ月を、僕はもう終えようとしている。
高川とは、会おうと思えば会えるだろう、夏休みが終われば、態々このお寺での関係を続ける必要もない、だからこれからはもっと色々な場所を回りたい、とも思っているのだ。
だというのに、僕の中にある違和感は、それを許してはくれなかった。
あの日を境に崩れだした僕達の関係、惜しむ高川に、疎遠になっていく兄。僕は訳もわからず取り残されて、一人っきりで置き去りにされていた。
それがとてもこわかった。
あまりにもリアルな感覚が、僕に恐怖を訴えてくるのだ。
……未来への不安や、過去への後悔、そんな感情を抱いたのは、もしかしたらコレが初めてだったのかもしれない。
あまりに僕が陰気な感情を溜め込んでいたからか、もしかしたら幽霊がよってきたのかもしれない。気がつけばライトの明かりは消え、僕は真っ暗闇の中、ただ一人取り残されてしまった。
手を動かせれば、もしかしたらスイッチを切り替えられるのかもしれないが、体は動かず、まばたきも口を動かすこともできず、それでも息が詰まるかのような状況に、僕は置かれてしまった。
怖い、と思うのかもしれないが、僕はそうはならなかった。知っていたからだ、この場所でどれだけ僕を引きずり込もうとしても、意味は無いのだと。
――ふっと、花の香がした。とてもやさしい香りが、風とともに僕を包んだ。
気がつけば僕を戒めていたチカラはどこかへと消え、僕は今までどおりの僕へ戻った。それが正しいことなのかはまだ解らなかったけれど、ともかく僕は、元の居場所へ戻ることとした。
兄の残したおまじないの痕、他にこういった痕はないのだな、と思いながら、僕はその場から離れていった。
僕が帰ってくると、高川が僕と入れ替わりに墓地へと向かっていった。
ひんやりとした感触が消えて行くのを感じる、目の前にあるのが兄だと、ようやく実感できたような気がした。
それから少し時間が経った。
それから大分時間が経った。
それからかなり時間が経った……気がした。
「……兄ちゃん、まだかな」
「まだだろ」
なんだろう、なんとも言えない、何かを言いたい、何も言えない、もどかしい、もどかしい、どうすればいいのか解らない。
自分が自分で、僕は僕。
兄がとても早く帰ってきたこともあるだろうが、僕にはその時間がとにかく長く感じられた。兄は僕の問いに、仕切りにまだだと繰り返した。
「でも、全然帰ってこないよ」
「確かにそうかもしれないが、それを言ったら同じ事だぞ?」
兄いわく、僕もそれ相応の時間をかけて、向こうとこっちを行き来していたらしい。確かに思い返してみれば、道中のことはすっかり忘れてしまったが、それの道中自身にかけた時間は、とても長かったような気がする。
そう考えると、漸く僕も元の調子が戻ってきていた。そして、兄と僕が、こうしてふたりきりで居るのも随分久しぶりだと、気がついた。
「……ねぇ、兄ちゃん」
「なんだ? まだ高川は帰ってこないだろうが?」
「いや、違くて……えっと、あの」
僕は言葉を渋っていた。その言葉は、僕の感情の根幹へ触れてしまうものだったからだ。……けれど、一度言葉にしたものを、躊躇うことはできなかった。
「高川と、何を話していたの?」
驚きに兄の顔が染まった。僕がそうやって問いかけるのを、兄は想定していなかったのだろう。
とはいえ、兄は答えることをしなかった。今は必要ないと語り、それ以上を話そうとはしなかったのだ。僕はなんとか追究しようとしたが、高川がその後すぐに帰ってきて、僕はそれ以上兄を問いただすことはできなかったのだった。
それから数日後、僕と兄は高川の元を訪ねていた。もとより僕はあの日以降も通っていたが、兄にもかならず来るようにと言われ、また兄も、今まで頑なに断り続けていた僕の誘いを、その日は二つ返事で了解したのだ。
僕は結局、蚊帳の外のまま、最後に日を迎えようとしていた。今日は夏休み最後の日、もし何かがあるとすれば今日で、僕は今日に至るまで、全く真相を知る由もなかったのだ。
自分が蓋をした結果、別に後悔はない。けれども、高川と一緒にいることを選んだ選択は、決して正解ではなかったのだろう。
僕はとても緊張し、今もとても胸が熱い。体がほてり、うまく考えが回らない。ずっと、ずっと、すこしずつ少しずつ、僕が高川と出会ってから貯め続けてきた感情だ。
恋心、なのかもしれない。
愛情、ではないのかもしれない。
でも僕は、それを愛だと、決めつけた。
「……今日がそうなのか?」
緊張をたもった兄の言葉に、高川は頷いた。秘密めいた会話、僕の中にある感情が、もっと熱を上げて唸るのを感じた。僕はそれを黙らせ、二人の様子を見守る。
「ついてきて」
高川はそうやって兄を誘った。僕は付いて行こうとしたのだが、体がなぜか、動かなかった。あの時とはまた違う、首は動くし口も動く、呼吸もできるし立っていられる、けれど、動かなかった。
「ま、待って、待ってよ! 僕を置いて行かないでくれ! 僕は――! 僕はッ!」
体の中が熱い。
熱い、熱い、熱い。
感情が沸騰するように、僕の中に多くの記憶が泡のように浮かんでくる。高川と出会い、高川と約束し、高川と遊んで、高川とともにいた。
僕は、彼女の名前すらも知らないけれど、僕は、彼女とこの夏、一番となりに、居続けたんだ。
動いて欲しかった。
前へ進んで欲しかった。けれど、僕にそれは許されなかった。前へ進まなかった罰だ。それは単純に、真相という話ではなく、僕が恋心を、胸の奥に閉まっていたから。
僕は前へ進めたのに、僕は彼女に言葉を贈ることが出来たのに、僕は、――ずっと彼女の隣にいることを、声を大にして、叫べばよかったのに!
「高川! 高川! 高川ァ!」
何度も僕は彼女を呼んで、けれども彼女は答えを返してはくれなくて。
僕はずっと、そこにいて……ただ、蓋をした場所に、ずっと居座り続けたままだった。
「――、」
兄が、僕の名前を呼びながら、帰ってきた。
高川は……いなかった。どこにも、どこをみても、兄を問いただしても。
体は動いた、それは役目を終えたように僕を解き放ち、僕は見上げるように兄へ近づき睨みつけた。
「高川はどうしたの! 高川は、高川は!」
「……帰るぞ」
小さな声が、僕の熱に金槌を入れた。叩いて、壊して、引き伸ばすように、兄の小さな声に、僕の顔がぽかんとした呆けたものに変わるのを感じた。
「帰るぞ、俺達の居場所は、もうここにはない」
「……なんで! なんでだよ! 僕は、僕は高川に会わなくちゃ、会わなくちゃいけないんだ!」
「会ってどうする! 告白でもするか? あいつは絶対に受けてはくれんぞ!? 絶対にだ!」
兄の言っていることが理解できない。
僕は兄を振り払い、思いっきりかけ出した。足は止まって、くれなかった。
兄は僕を引き止めなかった。あそこで兄と高川に、何かがあったのは間違いない。コレまでのことで、兄が高川と何かを話していたのは知っているし、その何かが不穏当では無いことも知っている。
それでも高川は消えたのだ。
兄は僕を止めなかった。僕にも高川の真実をしる権利がある。兄が何かをしたわけではない、彼女の中にずっと存在していた真実を、僕は知る権利がある。
僕の中にあった熱が、僕へ爆発的な加速を与えた。信じられないほどの走りで、僕はあっという間に目的地――おまじないをした墓地へとたどり着いた。
「――あーあ、あいつの馬鹿、兄貴なら弟の面倒くらい見なさいよ」
そんな声が、どこかからした。
「――高川!?」
「……知らないんだからね、馬鹿」
それっきり……高川の声は聞こえなかった。墓地の中を走り回って、行き着いた先で、途絶えたのだ。そこはあの木の前、僕は肩で生きをしながら、三つあるおまじないの痕を眺めて、そして視線を墓地へと移した。
それは何気ない行動で、“それ”を見た僕の頭は、ほとんど不意打ちに近い衝撃を受けた。
「……え?」
僕の中の熱が、ゆっくりと冷めていくのを感じた。
「なんだよ、これ」
それは真実という名の証だった。
「なんだよこれぇ!」
自分の中にあったすべてが、染まりきっていた何かが、急激に抜け落ちていくのを感じる。僕は何もかもを失ったように放心し、ただそれを眺めていた。
そこには、こう、書かれていた。
――『高川家之墓』、と。
あのあと、僕はわけもわからないまま兄のもとへと戻っていた。その最中、何をしていたのかは解らない。いつのまにか兄の前にいて、僕は兄の話を聞いていた。
――これは、そこで兄が語った話になる。
五年前、僕と兄が高川と遊んでいた空き地には、高川家という家族が住んでいた。とても仲の良い家族で近所でも評判だったらしい。
そんなある年の夏、思い出づくりのため高川家は家族で旅行に出かけることを計画する。しかし、そこで悲劇が家族を襲った。
移動中の車が、事故に巻き込まれたのだ。信号無視をした車が、高川家の車に猛スピードで激突し、両親はそこで亡くなり、その娘“かんな”は――
――更に兄は、そこから友人とした推測を、僕に語ってくれた。
高川はその娘の“かんな”で、偶然自分の墓の近くに立ち寄った兄と僕が楽しそうに遊ぶのを羨んだ。そのために、一緒に遊ぼうと化けてでたのだ。
兄の説明とともに思い返して、僕はあることに気づいていた。移動中の記憶がなかったこと、それは移動中高川が僕達を操っていたからで、移動してからも、少し古いおもちゃ屋や、既に閉じられた本屋に、態々いくことへの疑問を覚えなかったことも、高川が幽霊だったからだ。
それに、おもちゃ屋の主人は、最初駄菓子を買おうとした時、何も言わずに二人分しか駄菓子を手にしなかった。これは駄菓子を要らないという高川の心境を読み取ったのではなく、最初から高川が見えてはいなかったのだ。
そして本屋の元主人も、高川の思い出を語るばかりで、決していまの高川と話をしようとはしなかった。だが、最後に少しだけ高川を見て目を見開いていたのは、恐らく高川が一瞬だけ見えたからなのだ。
きっとおまじない中の僕を助けてくれたのはこの“かんな”なのだろう、かんなとはある花の名前で、主に七月から十月に咲くらしい。今は丁度盛りの季節だ。
あそこで聞こえた声も、僕を押し止めようとしたのも。
――そうして、高川は……高川かんなは、いつの間にか僕の前から姿を消した。すべては夢うつつのような、信じられないホントの話。
僕は、兄からすべての話を聞いた時、ようやく心の関が壊れてくれた。思い切り泣き出した僕を、兄は決して押し止めなかった――
――これで、僕と兄、そして高川かんなの話は終わり。
ここからは、少しだけそのあとの話をしよう。
兄はあの後勉学に励み、見事志望していた高校に合格した。一年が経ち、今では立派な高校生だ。学校生活も順調なようで、兄と頻繁に遣り取りをする僕へ、兄は楽しそうな毎日を語ってくれた。
僕はあれから携帯を持つことにした。兄は高校進学を機に携帯を持ったのだが、僕はある理由からすこしそれに便乗してゴネて、無理やり携帯電話を手に入れたのだ。
お陰で毎月の小遣いは零になってしまったが、別に後悔はしていない、必要なことだったのだ。
僕も今では受験生という身分になった。現在はとある高校に進学することを決め、頑張って勉強に励んでいる。兄は何気なく勉強と遊びを両立させていたが、コレがなかなか大変だった。
まぁ、僕の場合どうしようもない面もあるのだけど。
……丁度、一年。高川かんなとの話が終わって、一年が経った。
僕は高川のお墓参りに来ている。もともとこのお寺の共同墓地はそこまで広くはないが、手入れは行き届いている。僕がきた時には、既にある程度の手入れが成されていた。
手を合わせ、黙祷をする。
これまで、月に一回はかならず行なってきた。今日まで、ずっと同じ日に。……でも、今日でコレはおしまいにしようと思っている。僕にとってこの日が、大事な大事な日であることは、僕が一番理解しているからだ。
それから少しだけ、高川へと声をかけた。
「あの時、同じだった身長は、もう僕がすこしだけ越えてしまったよ」
このことを話すのは、今日が初めてだったはずだ。
僕はそうして立ち上がり、――声が聞こえて振り返った。
――それはとても聞き覚えのある声で、とてもやさしい、鈴の声で。
……これは、あの後僕が、ある人伝から兄に語ったことになる。
高川家は“四人家族”だった。“かんな”には妹がいたのだ。その妹は当時9歳で、今は丁度僕と同い年になる。
そう、その妹は生きていたのだ。家族三人がなくなる事故であったが、偶然姉が妹を守るようになる形で、妹はほとんど無傷で助かった。
しかし、それからほぼ一ヶ月の間、妹は目を覚まさなかった。そしてそれは驚くことに、僕と兄が高川と遊んでいた時期と一致するという。
そしてその間、妹はある“夢”を見ていたのだとか。
その夢は、見知らぬ兄弟と、自分たち姉妹が“一緒に”遊んで回る夢で、その弟は自分のことが好きで、兄はそれを応援していたのだとか。
――あの時、兄は高川に、僕が高川を好きであることを伝え、調べたことを問い詰めたのだとか、その時ははぐらかされてしまったが、お陰で僕は少し恥ずかしい事になってしまった。
思い返してみれば、高川の性格はまるで人が二人いるかのようで、荒地で行った“ままごと”には、必要もないのに“妹”という枠が用意されていた。そして何より、あの本屋、表に出た元主人は、最初家の中に引っ込んで、ある名前を呼ぼうとしていた。
孫の名前だとばかり思っていたが――実際そのとおりだったが――その少女のフルネームは“高川菖蒲”といい、今は元気に中学へ通っているのだとか。
そして今、僕は隣に並ぶ人へ問いかける。
“楽しかった?”と。
その人はそっと、囁くように答えて告げる。気恥ずかしそうに、少しだけ、嬉しそうに。
「……すべての思い出を、全部肯定出来る人なんていない、けど、胸を張って言える。あの夏は、私とお姉ちゃんが、キミ達に出会った夏は、決して楽しくない思い出じゃなかった」
僕は満足そうに頷くと、隣にいる菖蒲を伴って、その場を後にした。
あの夏に、手を伸ばした日差しは遠かった。僕はそれを手を伸ばして請うだけで、決して自分から手に入れようとはしなかった。
遠くにあるのは、僕のせい、手を伸ばせないのは僕のせい。
でも、僕はそれではダメだと教えてもらった。ただ手を伸ばすだけでは、ほしいほしいと駄々をこねるだけでは、
今なら解る、あの時の笑顔が、あの時の思い出が、あの時の太陽が、今は僕の手のひらにある事を。
僕達が去った後には、“四つ”のおまじないが残された大きな木。そしてどこからか、漂う、カンナの香りが残されていた。
カンナの花言葉は、「情熱」「快活」「上機嫌」「尊敬」「永続」「堅実な生き方」「堅実な未来」「妄想」「疑惑」。
菖蒲の花言葉は、「良い便りを待っています」「良き便り」「うれしい便り」「吉報」「愛」「あなたを大切にします」「私は燃えている」「消息」「神秘的な人」「信じる者の幸福」。
以下あとがき。
ふと夢に出てきた題材を、勢い余って形にして、更に登場人物に肉付けまでして公開してます。
千里山伝説放り出して一日かけて思わず書いてしまった代物なので、さすがに載せないのももったいないかと。
ちなみに高川姉に関しては、解釈はあえて語りません、そういうものだと理解していただけると嬉しいです。