新人提督と電の日々   作:七音

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在りし日の提督と密やかな決意

 

 

 

 

 その日も■■■は、工廠へと足を運んでいた。

 屋根付きの大きな建物の中、重機の動く音や、それに負けじと張り上げられる声とかが響いて、もうとにかく騒がしい。

 けれど、普段ならただの騒音にしか感じない音も、妹の産声の一端だと思えば、どこか愛おしく、楽しく感じられる。

 

 

(■■、どんな子になるのかなぁ)

 

 

 建物の壁沿いにある階段を登り、二階に相当する高さの足場で、まだ建造途中の■■を眺める。

 輪切りになった船体を見ていると、ちょっとだけ、自分が真っ二つにされているような気にもなるけど、もっと気掛かりなのは、提督に励起されるであろう■■のこと。

 今の■■■は、こうして思考するだけの意思を──知性を宿している。

 でも、かつては文字通りの操り人形で、けっこう長い間、その状態は続いていたと聞く。

 せっかく妹が産まれても、すぐには言葉を交わす事が出来ない。

 人間の赤ちゃんだったら、泣いたり笑ったりしてくれるのに。

 率直に言って、残念だった。ま、妹の誕生自体はもちろん嬉しいんですが。

 

 そんな風に、複雑な思いを抱えたまま、足場の手すりに寄り掛かっていると、騒音に紛れて二つの足音が聞こえた。

 この状況では、普通の人間は聞き取れないだろう、軽妙なリズムの一方と、落ち着いたリズムのもう一方。

 顔を向けてみると、こちらに歩いてくる人影が見える。

 白い詰襟。あれは、■■■くんと、確か……■■さん?

 

 

「あれ、■■ねーちゃん。また工廠に来てんの?」

 

「■■■くん、こんにちは。■■さんも、お久し振りです」

 

「ちわーっす」

 

「どうも。いやはや、本当に久し振りですね」

 

 

 笑顔で挨拶すれば、■■■くんは気楽に、■■さんは腰の低い返事を。

 ■■■くんとは結構な確率で会ってるけど、■■さんは何時ぶりだろう? あの会議室での顔合わせ以来?

 残念なイケメンさんのキャラが濃くて、正直忘れてたかも……。すみません。

 

 

「なんだか珍しい組み合わせですね」

 

「確かに。偶然、そこで出会っただけなんですけどね?」

 

「散歩してたんだよ。とにかく暇でさー。学校ないし、遊ぶとこもないし」

 

 

 足場の手すりから上半身を乗り出すようにして、■■■くんも工廠の風景を眺めている。

 言われてみれば、確かに交遊施設なんて近くにないような。

 軍事施設なんだから当然だけど、■■さんは大人として思う所があるようで、苦い顔をしていた。

 

 

「個人的に、■■■君くらいの子を軍人扱いするとか、はなはだ不適当だと思うんですが、時勢には逆らえませんしねぇ……」

 

「時勢、ですか……。えっと、■■さん、お子さんは?」

 

「娘と息子が一人ずつ。だから尚更ですよ」

 

 

 遠い目に浮かんでいるのは、きっと■■さんのご家族。

 当たり前の事だけど、普通の人間には血の繋がった家族が存在する。

 血の繋がり。血族。肉親……。

 ■■■にとって、船体構造をほぼ同じくする■■が、かつて姉妹艦として扱われた。

 改鈴谷型なのだから、鈴谷型、最上型も姉妹艦なんだろうけど、■■■としてはそういう感覚は薄い。

 だからこそ妹の誕生が待ち遠しいんだけれども、産まれたら産まれたで、きっと■■さんみたいに心配しちゃうんだろうなぁ。

 

 

「ご歓談中、失礼します」

 

 

 背後からの唐突な呼び掛け。

 心地良いバリトンボイスに振り向けば、■■■くんたちと同じく、白い詰襟を着る男性が立っていた。

 ■■■の提督よりもかなり若い……。まだ成人していないような印象を与える青年は、ニッコリと微笑んでいる。

 

 

「能力者の■■ ■■殿、■■ ■■■殿。そして、重巡 ■■の統制人格殿とお見受けしました。相違ありませんでしょうか」

 

「……はい。そうですが?」

 

「誰だよアンタ」

 

 

 ■■さんの曖昧な営業スマイルはともかく、■■■くんの警戒心満載な視線を受けても、青年の微笑みは崩れない。

 それどころか、ますます笑みを深くして、彼はキビキビとした敬礼を私たちへ。

 

 

「申し遅れました。本日付けでこちらに配属となった、■■■ ■■と申します。初めまして」

 

 

 優しげな声が告げた名は、つい先日、鎮守府へと現れた御老人と同じ名字。

 それは彼が、世界でも屈指の財閥である、■■■家の次期当主だという事を示していた。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「はっ──!」

 

 

 気合一閃、右手に構えた短い竹刀を振り抜く。

 パァン、と小気味良い音。

 後退しながら受ける事で衝撃を流した伊勢が、竹刀を正眼に構え直しつつ、表情を歪めた。

 

 

「っくぅ……。ホント、提督の打ち込みは重いわぁ~」

 

「やはり、まともに打ち合うだけ損だな」

 

 

 伊勢の隣には、腰を低く、八相──右斜め上に竹刀を構える日向が立つ。

 その威圧感を前にして、自分は順手に持った右の竹刀腰溜めに、逆手に持った左の小太刀の鞘──電解ダマスカス製の鞘を、身体の前で地面と水平に構える。

 柔軟なトレーニングウェアは、その動きを遮ることはなかった。

 

 自分たちが実戦形式の立ち会いを行っているのは、舞鶴鎮守府の自艦隊庁舎地下にあるトレーニング施設。その中央にある、畳敷きの武舞台だ。

 太陽が中天に差し掛かるまで、もう少しの時間を要する頃合いである。

 舞鶴事変のような事態を未然に防ぐため、卓越した白兵戦技能を持って顕現した伊勢たちに、こうして指南を頼んでいる訳だが、自分でも意外な事に、楽しかったりする。

 

 以前の自分であれば、手も足も出せずに弄ばれ、不貞腐れつつ疲労困憊になるのが関の山だっただろう。

 が、異様なほど向上した身体能力は、基礎訓練で剣術を囓っただけの男を、剣の達人二人相手に立ち回らせている。

 頭で思い描いた通りに身体が動く。

 狙った場所に、正確に攻撃を打ち込む。

 放たれた鋭い一撃を、紙一重で回避する。

 アクション映画の主人公になったみたいで、純粋に身体を動かすのが楽しいのだ。

 

 

「どんどん強くなっちゃってまぁ。初心者相手に二人掛かりは心苦しかったけど、そうも言ってられないわね、日向?」

 

「ああ。私たちにも意地がある。……そろそろ、勝たせてもらおうか」

 

 

 何やら目配せをした二人は、言い終えるや否や、歩調を合わせて吶喊してきた。

 向かって右に伊勢。左に日向。対する自分は重心をやや後ろに、伊勢がしたような後退防御を想定して身構える。

 二振りの竹刀に、二振りの小太刀。

 数が同じなら、後はどう立ち回るかで勝負が決まる。

 

 八歩ほどの距離が、一瞬で詰まる。

 その勢いを乗せた突きと袈裟斬りが、伊勢、日向から放たれた。

 後退は、しなくても良いか。

 右の竹刀で突きを逸らし、左上からの袈裟斬りは鞘で受け止め、そのまま押し返す──つもりだった。

 

 

「うぉっ!?」

 

 

 けれども、攻撃を逸らされた伊勢は、自分の横を通り抜けながら、足払いを仕掛けてきた。

 伊勢の右脚に右の足首を弾かれ、逆に体勢を崩してしまう。

 日向が見逃す訳もなく、竹刀の先端がこちらの鳩尾に向けて突き下ろされる。

 が、自分は左脚のバネだけで横へ跳躍。数歩離れた場所に宙返りで着地した。

 これで一呼吸……と行きたいのに、間を置かず伊勢が迫り来る。

 

 

(右構え。胴を薙ぐ? いや、フェイント!)

 

 

 向かって左からの胴打ちと見せかけ、伊勢は直前で身を低くし、またも足元を狙ってきた。

 直感に従い、小さくジャンプして回避したのだが、それすら折り込み済みだったか、宙に浮いた自分を日向の逆胴──向かって右からの薙ぎ払いが襲う。

 どうにか間に小太刀と鞘を挟んだけれど、統制人格の膂力は容易く人体を吹き飛ばす。

 軽く数mは飛ばされ、背中から着地してしまうも、勢いを利用して逆でんぐり返し。

 すぐに立ち上がろうとするが、体勢を整える暇はなかった。

 

 

「ほらほら、どうしたの提督! 足元がお留守よっ?」

 

「剣道の試合ではないんだ。行動の選択肢を己で狭めるな。……ふっ!」

 

 

 連打。連打。連打。

 息つく間もない、流れるような連携攻撃に、自分は防戦を強いられる。

 電解ダマスカスの鞘は、竹刀に比べて遥かに重い代物だったが、今の自分の筋力を持ってすれば存分に扱えた。小太刀なら言わずもがな、手足のように振り回せた。

 しかし、それでも捌き切れないほど、体術をも織り交ぜた攻撃の密度は高い。

 というか……。

 

 

(目のやり場に困るっ)

 

 

 動きが激しくなるに連れ、彼女たちの穿いているスカートがヒラヒラと舞う。

 伊勢も日向も、その事に気付いているのか、あえて無視しているのか。惜しげもなく見せつけてくるのだ。

 いや、きっと当人にそんなつもりはないだろうが、男としては嬉しくも辛かった。

 もちろん、色気づいていて勝てる相手ではない。

 自分は煩悩を捻じ伏せ、二人の同時上段攻撃を受け止めたタイミングで攻勢に転じる。

 

 力で強引に竹刀を跳ね上げ、続け様に日向へと、短く踏み込んで肩から体当たり。意趣返しとばかりに吹き飛ばす。

 そして、伊勢と一対一の状況を作った後、横槍が入らない内に、撃退条件である有効打を狙う。

 戦線に日向が戻るまで、猶予はほんの二~三秒。充分だ。

 

 残り三秒。

 日向へ体当たりしている間に、たたらを踏んだ伊勢も体勢を立て直していた。

 畳み掛けるには、短い得物が有効な距離──至近距離での戦いを挑むしかない。

 二秒。

 自分は伊勢に向けて大きく踏み出し、またも正眼に構えられた竹刀へ、小太刀と鞘を交差させて噛ませる。強引に捻じれば、彼女の手から竹刀がすっぽ抜けた。

 その背後で、床に転がった日向が起き上がろうとしている。

 一秒。

 得物を失った伊勢は、捻じられた反動か、両腕を広げるように硬直。だが、しまった、という顔も一瞬。すぐさま格闘戦の構えを取ろうと。

 しかしながら、その一瞬で充分だった。

 

 

(貰った!)

 

 

 まだ構えきらない腕を掻い潜るよう、小太刀を伊勢の首元へ差し向ける。

 当てはしない。ただ突きつけるだけ。

 あとほんのコンマ数秒で、こちらの勝ち。

 

 そう、確信した刹那。

 

 

「甘いわよっ」

 

「──んグっ!?」

 

 

 顎に衝撃。

 伊勢が視界から消えた。違う、自分が天井を向いている。

 軽く意識が遠のき、自分は後ろへ倒れ込んでしまった。

 何が起きたのか分からないまま、ただ呆然と伊勢を見上げると、彼女の右手には、竹刀が逆手に握られていて。

 

 ……柄で、顎を打ち上げられた? そうか、日向の。

 理解した途端、全身を虚脱感が襲う。

 また負けてしまった……。これで十戦全敗、か……。

 

 

「竹刀にも打点は複数存在する。あらゆる使い方、使われ方を想像しておかなくてはな」

 

「やっぱり、固定観念はそうそう抜けないわよねぇ。大丈夫?」

 

 

 両手を空にした日向と、竹刀で己の肩をトントンする伊勢が、自分を見下ろしている。

 自分が王手を掛けたと確信した時、割り込むには遠いと判断した日向は、伊勢に向けて竹刀を投擲。それを見もせずに受け取った伊勢のカウンターを食らった。

 何が起きたのか整理するとこうなる。

 全く、恐ろしい達人も居たものだ。

 多分、統制人格同士のシンパシーみたいな感覚のおかげでもあるんだろうけど、勝てる気がしない。

 

 というか君たち、スカート穿いてるのを忘れてませんか?

 そんな至近距離で立ったまま見下ろされると、見てはいけない物が丸見えなんですけども。繰り返しになるが、目のやり場に困る。

 ……自分が起き上がれば良いだけか。

 バレないうちにさっさと……。

 

 

「あれ、足、が」

 

 

 自分では立ち上がろうとしているのだが、なぜか下半身に力が入らず、尻餅をついてしまった。

 何度か繰り返してみても、フラついては座り込んでしまう。

 お、おかしいな。

 

 

「脳を揺らしたんだ。いくら君でも、しばらくは立てないだろう。まだ寝ていた方がいい」

 

「い、いや。このくらい……うぐっ」

 

 

 日向は安静にするよう言ってくれるが、負けた上に気遣われるのはやはり悔しい。

 ちっぽけなプライドを満たしたくて、意地だけで立とうとするものの、よほど上手く揺さぶられたのだろう。やっぱり立てなかった。

 なんとか上半身だけは起こし、情けなさに打ちひしがれていると、背後に誰かが近づいて来る気配。

 振り返れば、そこには唯一の観戦者である秘書官──香取が立っていた。

 

 

「提督。今朝からずっと稽古をなさっているんです。そろそろ休憩を取って下さい」

 

「香取……」

 

「これは秘書官としての、正式な申し入れです。宜しいですね?」

 

「……分かった」

 

 

 すぐ隣へ跪き、タオルを差し出す笑顔の香取だが、有無を言わさぬ迫力のようなものがあり、しぶしぶ頷く。

 顔をフカフカなタオルに埋めると、確かに疲労しているのを感じた。肉体的……というより、精神的な疲労だ。

 今の自分の身体は、あらゆる意味で規格外。やろうと思えば、三日三晩戦い続ける事も可能だと思われた。

 それが不可能なのは、精神が追いつかないから。

 

 この身体──“力”を使い熟せたなら、きっと自分は無敵になれるのだろう。

 ……無敵? 無敵になって、なんだ。

 自分は無敵になりたいのか? 違う。違うはず。

 でも、戦うには“力”が必要で。護るためには“力”が必要で……。

 ダメだ。やっぱり疲れている。思考が纏まらない。休まないと。

 

 

「いいお返事です。では、こちらへ」

 

「は?」

 

 

 不意に、身体を引き倒された。

 抵抗する気など起こさせない、とても優しい力加減は、自分の頭を柔らかいものに導く。

 天井と、それを遮るような香取の微笑みに、数秒経ってから思い至る。

 

 え。なんで自分、膝枕されてるんだ?

 

 

「ただ床に寝転ぶよりは、この方が良いと思ったのですが。……ご迷惑、ですか?」

 

「い、いや。迷惑では、ないが……」

 

 

 困惑が顔に出ていたようで、香取の方から意図の説明が。

 確かに、床で大の字になるよりも、膝枕の方が良いに決まっている。

 ましてや、相手が香取だ。

 街ですれ違えば、男女問わず99%の確率で美女と表するだろう、見目麗しい女性だ。

 喜んで然るべき状況、なんだろうけども。

 それより、新しいオモチャを見つけたように笑う伊勢と、珍獣でも見かけたような顔付きの日向からの視線が、とても鬱陶しい。

 

 

「なぁにぃ~? 提督ぅ、いつのまに香取秘書官と仲良くなったのよぉ~?」

 

「……元々、険悪な関係じゃない」

 

「そうは言っても、極自然に膝枕をする関係でもなかったように思うが?」

 

「………………」

 

 

 面白半分、興味津々な追及に、渋い顔で黙りこくるしかなかった。

 一方、香取は追及すら楽しんでいるような、そんな素振りで無言を貫いている。

 あの一件……。内務省次官補との一件以来、彼女は目に見えて笑顔を浮かべるようになった。

 自分の言葉で、香取が胸の内に抱えていた憂いを払えたのなら、それは本当に喜ばしい事だ。

 けれども、こんな風に……甘やかされてしまうと、対応に困る。

 今の自分に、応えるだけの余裕はない。もし応えてしまったら、きっと、香取に溺れるだろう。

 自分は弱いのだ。いくら強靭な肉体を得たとしても、そこに宿る精神が、ガラスのように脆い。

 一度溺れてしまえば、おそらく自力では這い上がれないだろうから。

 だから自分は、酷い事をしていると理解しつつ、ただ心地良い疲労感に身を委ねる。

 

 

「ぁ、あのぉ……」

 

 

 ややあって、酷く申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

 いつの間にやって来たのだろう。声の主は、妙に身を縮こませる和装の少女──瑞穂だった。

 

 

「も、申し訳ありません。お邪魔するつもりはなかったのですが……」

 

「いや、いい。何かあったか、瑞穂」

 

「あ……」

 

 

 恐縮する瑞穂の謝罪を遮り、自分は上体を起こす。

 すでにフラつきは解消されていて、問題なく立ち上がる事ができた。

 ……香取の残念そうな吐息には、気付かなかった事にする。

 

 

「はい。執務室の方に、外部の……携帯、電話? から、直通連絡がありまして」

 

「直通連絡?」

 

 

 執務室に据え置かれている電話機へは、当たり前だが、番号さえ知っていれば誰でも掛ける事が可能だ。

 しかし、これまた当然の事ながら、その番号が外部に漏れる事はあり得ない。

 もし直通連絡可能な番号が漏れたりしたら、それこそ執務に支障をきたす大問題だろう。

 推測だが、桐ヶ森提督とか梁島提督の番号がバレた場合、ファンからの電話で回線がパンクするかも知れない。

 以上の理由から、掛けてきたのは軍関係者であろうと予測できたが、香取も秘書官として疑問に思ったのだろう、立ち上がって瑞穂へ問い掛ける。

 

 

「瑞穂さん。どなたからの連絡だったのですか?」

 

「それが……。名前をお尋ねする暇もなく、一方的に用件だけを告げて、通話を終えられてしまい……」

 

「あらま」

 

「随分と無礼だな」

 

 

 それぞれに訝る伊勢と日向。自分も、おそらく彼女たちとは違う理由で眉を寄せた。

 執務室の電話機は、執務室に置かれるだけあって高性能であり、逆探知機能も備えている。

 外部からの連絡ともなれば、即座に発信源の洗い出しが行われるはずなのだが、携帯からの発信としか分からないなんて。電子戦の防御法を心得ている?

 ひょっとすると、また良からぬ輩がちょっかいを掛けようとしているんじゃ……。

 嫌な予感を禁じ得ず、しかし緊張を気取られぬよう、平静を装って自分は質問を重ねる。

 

 

「それで、その通話の内容は?」

 

「ええと、確か……。

 あの日の約束を果たしに行くから。髪を洗って待ってなさい。

 ……だったかと。若い女性の声でしたわ」

 

「髪を……?」

 

 

 予想外の単語が耳に飛び込み、首を傾げてしまった。

 首を洗って……なら慣用句として通じるが、髪?

 若い女性の声。

 約束。

 髪。

 尊大な物言い。

 この三つの情報が導き出す、発信者の正体に心当たりは。

 

 ……あ。あった。

 居たよ、やたら髪にこだわる女の子が、一人だけ。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 シャワーで汗を流し、言われた通りに髪も洗い、黒い詰襟へと着替え、自分は執務室へ向かっていた。

 伊勢、日向は姉妹で剣術対決するらしく、瑞穂はそれを観戦したいとの事で、連れているのは香取だけ。とくに会話もないまま、歩を進める。

 両開きの重厚なドアへと辿り着くと、三歩後ろを歩いていた香取が前に。

 

 

「浜風さん、香取です。戻りました」

 

 

 ノックと共に室内へ呼び掛け、「はい」という返事を受けた香取がドアを開けた。

 至れり尽くせりで、なんだか落ち着かないけれど、とにかく執務室へ入る。

 出迎えたのは、秘書官用の執務机を借りて書類をまとめていた浜風だ。

 

 

「すまなかったな、留守番をさせて」

 

「いえ、これも職務ですので」

 

 

 労いの言葉を掛けると、彼女は背筋をピンと伸ばして立ち上がり、生真面目に敬礼で返す。

 今日は処理すべき案件も特になく、文字通りの電話番や、書類の整理くらいしか頼む事がなかったのだが、まさかそんな日に限って変な電話が掛かってくるとは、浜風も思っていなかっただろう。

 

 

「瑞穂から話は聞いた。問題ない、知り合いからの連絡だろう」

 

「そうでしたか。なら安心ですね。内容が少し不穏でしたから、何かの予告ではないかと、気を揉んでいました」

 

「……確かに、何も知らないとそう聞こえるな」

 

 

 ホッと胸を撫で下ろす浜風。対する自分は、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 約束を果たす、待っていろ。

 下手したら、犯罪予告と取られてもおかしくない。

 もう少し落ち着いた表現を使って欲しいものだ。

 

 

「それにしても、何時にこちらへいらっしゃるのでしょうか。お出迎えの準備がありますし、困りました」

 

「そうですね。お茶請けや茶葉も、良い物を用意しませんと」

 

 

 顔を突き合わせ、浜風と香取は細かい段取りを話し合っている。

 瑞穂に聞いた限りだと、確かにいつ来るのか分からない。

 好きな食べ物の情報とかも持ち合わせていないし、待つ側としては困りものである。

 

 と、頭を悩ませていた所に、《コンコン》というノック音が聞こえてきた。

 伊勢たちはまだ手合わせ中だろうし、誰だろう……とか考えていたら、ノックからほとんど間を置かず、ドアは開けはなたれる。

 驚く自分と香取、浜風の視線を集める、その小柄な人物は。

 

 

「やっほー。来たわよ、桐林。さぁ、私に髪を染めさせなさい!」

 

 

 過去最高の笑顔を浮かべた、ゴッドバードバレーさん──もとい、桐ヶ森提督だった。

 やけに到着が早い……んじゃなくて、この分だと舞鶴に到着してから電話をかけたのか。

 大きなリュックを背負い、黒の軍服に身を包んでいる姿は、自分の知っている彼女と変わらないのだが……。

 この笑顔は一体、どうした事だろう?

 

 

「お、お早いお着きで、桐ヶ森提督……」

 

「あら。何時に行くか言ってなかったかしら? まぁいいじゃない、些細な事よ。それより、そっちの二人。見ない顔ね」

 

 

 全く遠慮せずに、ズカズカと執務室へ入ってきた桐ヶ森提督は、不躾な質問を香取たちにぶつける。

 不躾とか本来は使うべきじゃないだろうが、今回は適切だと思いたい。

 とにかく、話しかけられた事で驚きから立ち直った二人は、彼女に向き直って敬礼を。

 

 

「も、申し遅れました。桐林舞鶴艦隊、第一秘書官を務めます、練習巡洋艦の香取です」

 

「陽炎型十三番艦、浜風です。以後、お見知り置きを」

 

「ふぅん……」

 

 

 型通りの挨拶に、桐ヶ森提督が二人をジロジロと、上から下まで舐めるように観察していた。

 そして、視線が浜風の胸元辺りでピタリと止まり、およそ三秒。今度は自分の身体を見下ろし、「チッ」と大きく舌打ちする。

 ……気持ちはお察ししますが、浜風が異常に“素晴らしい”だけであって、貴方も普通にある方だと思いますよ。

 それから浜風。君は何も悪くないから、そんなに怯えなくても大丈夫だ。……だと嬉しい。

 実際、どうにか折り合いをつけたのだろう桐ヶ森提督は、何事もなかったように挨拶を返す。

 

 

「ま、よろしく。桐ヶ森よ。じゃ、早速で悪いんだけど、浜風。染めるの手伝って頂戴」

 

「はい? 手伝う……。あの、提督の御髪(おぐし)を染める、という事ですか?」

 

「そうよ。さっきそう言ったじゃない。前に約束したし」

 

「本気だったんですか……」

 

「当然。私、守れない約束はしない主義よ」

 

 

 然も当然と胸を張る桐ヶ森提督。

 言われてみれば、吉田元帥の葬儀の時に、そんな事を言われたような気もする。

 その後の騒動ですっかり忘れていたが、まさか本気だったとは……。

 別に嫌って訳じゃないけど、正直、裏がありそうでちょっと怖い。

 そんな気持ちが顔に出ていたらしく、香取が助け舟を出してくれる。

 

 

「あの、桐ヶ森大佐? そうは仰いますが、提督にも執務の都合が……」

 

「そのくらい、貴方一人でもなんとかなるでしょ。まだ艦隊規模は小さいし、通常出撃もしてないみたいだし。それとも無理?」

 

「……いえ。そのような事は、ありませんけれども」

 

 

 ──が、しかし。なんだか押しの強い桐ヶ森提督に、香取も言いくるめられそうになっていた。

 なんだろう。こんな物言いをする人だっただろうか。

 虫の居所が悪い? なら、さっきの輝かんばかりな笑顔は……?

 小さくない違和感を覚えたが、追及してみるにはまだ弱いとも感じ、自分は彼女の気紛れ? に付き合おうと判断。香取へ歩み寄り、小声で話しかける。

 

 

(すまない、香取。言い出したら聞かない人なんだ。実際、大した執務もない。今日は任せていいか)

 

(……分かりました。提督の御指示とあれば)

 

 

 香取も一応は頷いてくれるものの、顔には「面白くありません」と書いてあった。

 いや、傍目から見ると笑顔なのだが、なんとなく。

 ……これが済んだら、甘いものか何かで機嫌取ろう。

 

 

「話は決まったみたいね。さぁ、洗面台のある場所に案内しなさい! 毛染めのイロハを叩き込んであげるわ!」

 

 

 こちらが気を揉んでいるとも知らずに、まるで遠足前日の小学生みたいなテンションで、桐ヶ森提督は瞳を輝かせている。

 やっぱり少し変な気がするけれど、女性には気分が変わりやすい日もあると聞くし、変に騒ぎ立てないでおいた方が無難か。さっさと地下の大浴場へ向かおう。

 

 執務を香取に任せ、自分と浜風、桐ヶ森提督は人気のない廊下を行く。

 さっきから地下と地上を行ったり来たり。随分と忙しない。

 原因が他愛ない事なのは幸いだが、左隣を歩く浜風の表情は、どうにも今の状況を納得できない、と言いたげだった。

 

 

(提督。桐ヶ森大佐はなぜ、あんなに楽しそうなんでしょうか?)

 

(分からん。生来の髪の色にコンプレックスを持っていて、カラーリングにも一家言あるみたいなんだが、とにかく従おう。歯向かうと後が面倒だ)

 

(……腑に落ちませんが、了解しました)

 

 

 スキップでも始めそうな桐ヶ森提督に聞こえないよう、本当に小さな声で浜風と囁き合う。

 階級は上と言えども、初対面の人物に顎で使われるのだ。不服と思うのも当然だろうが、ひとまず形だけは納得してくれたようで、浜風もそれ以上は言わなかった。

 徒歩からエレベーター、また徒歩と介して、目的地である大浴場に到着。誰も使っていないのを浜風に確認してもらってから入室する。

 広大な脱衣所の、洗面台と鏡がズラリと並ぶ一角を目にすると、桐ヶ森提督が鼻息荒く進み出た。

 

 

「へぇ。なかなか広いじゃない。私のトコも、これだけ豪華だったら良かったのに……っと。あ、桐林。上着脱いどいて」

 

 

 リュックを降ろした彼女は、愚痴を零しながらも手際良く準備を進めている。

 複数ある洗面台のド真ん中に陣取り、周辺に取り出した新聞紙を敷きつめ、その上へ、気を利かせた浜風が持ってきたスツールを置く。

 次に、小さな小瓶と綿棒、シールが貼られた台紙を持ち、上着を脱いだ自分の側に。「袖捲って」と言われたので、また指示通りにすると、綿棒で小瓶の中身を少量腕に塗り、その上へ丸いシールを貼った。パッチテストだろう。

 それから、背中を押されてスツールに座らされる。

 上着を脱いで浜風に預けた桐ヶ森提督は、手首部分にゴムが入ったビニールの手袋をはめ、年季の入った割烹着姿に。

 自分も上着と眼帯を浜風へ頼み、次なる行動を待つ。

 

 

「さて、と。まずは塗る前の下準備と、現状把握ね。ちょっと髪を弄るわよ」

 

「はぁ……」

 

 

 床屋で使うようなケープを羽織らせ、何か、油っぽいクリームを生え際に塗りつつ、丹念に髪の毛を観察する桐ヶ森提督。

 最初は普通に優しい手付きだったのだが、やがて、髪をいじる手がプルプルと震え始めた。

 

 

「痛みはなし、キューティクルがしっかりしてて、張りも完璧……。何よこれ!? 一体どんなケアすれば、こんな健康で理想的な髪になるの!?」

 

「いや、あの、そう言われましても、特に何もしていないんですが……」

 

「アンタそれ嫌味!? 私が、私が日々どれだけ苦労していると……っ!」

 

「ぅご、おっ、ぐふっ」

 

「お、落ち着いて下さい、桐ヶ森大佐。締まってます、締まってますから!」

 

 

 何やら逆鱗に触れてしまったらしく、桐ヶ森提督がケープの首元を掴んで悔しがった。

 大して苦しくはなかったけど、浜風が間に入ってくれなかったらヤバかったかも知れない。

 まだ十代の女子だろうに、どんだけ酷いんだ……。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……。わ、悪かったわね。

 ちょっと、胸の内に溜まっているものがあったもんだから……。

 オッホン。今度こそ始めるわ! まずは混合液の作成からよ!」

 

 

 やり過ぎたと自分自身で分かっているのか、彼女は割と素直に頭を下げる。

 そして咳払いを一つ。リュックから二本のプラスチックボトルと深めの受け皿を取り出し、気も取り直して作業を再開する。

 

 

「パッチテストも問題ないみたいだし、今回は私特製のオリジナルで行くわ。天然素材の高級品よ?

 作るときのコツは、とにかく丁寧に、念入りに混ぜること。混ぜ方が足りないと染めむらに繋がるから注意して頂戴。

 スプレータイプのでもない限り、普通は二種類の薬液を混合させて作るから、これが基本だと思っておいて」

 

「なるほど……。勉強になります」

 

 

 受け皿に移された黒と茶色の薬液が、刷毛で手早く混ぜられていく。

 浜風が興味深げに眺めているが、実際、見るだけで熟達していると分かる、見事な刷毛捌きだった。

 

 

「じゃあ、いよいよ塗っていくわ。慣れれば順番は関係ないけど、お勧めは後頭部、両サイドに天辺付近、最後に前髪と生え際が良いんじゃないかしら」

 

「ふむふむ……。手慣れていますね、流石です」

 

「苦労したのよ、これでも……」

 

 

 解説を交えつつ、桐ヶ森提督は言った通りの手順で刷毛を動かす。

 刷毛に適量の混合液を取り、一定のペースで毛先へ。

 やった事があるので分かるのだが、ただこれだけでも結構難しかったりする。自分じゃこうは行かないな……。

 オリジナルの薬液まで作れて、染めるテクニックも驚くほど高い。

 彼女の抱えているコンプレックスは、想像していた以上に根深いのだろう。

 少しだけ、後ろめたいような気分にさせられた。

 当の本人が、今は楽しそうなのが救いか。

 

 

「はい、塗り終了。後はしばらく放置して、ぬるま湯で濯いでからシャンプーとリンスね」

 

「なんだか、あっという間に終わりましたね。これなら私にも……」

 

「それは私の腕が良いから。普通はこの三倍はかかるし、慣れてなければ更に時間かかるから、覚悟しておいた方がいいわよ」

 

「う。り、了解です」

 

 

 感傷的なことを考えている内に、毛染め液の塗布は終わっていた。

 浜風が簡単そうだと思ってしまうのも仕方ないほどの、実に凄い手際だった。

 自分も浜風も、この域に達するには、まだ時間が掛かりそうだ。気長に修練を積もう。

 

 ビニールのキャップを被されて、しばらく。

 色素が定着したのを見計らい、桐ヶ森提督は次の作業……シャンプーに取り掛かる。

 理容院とかにある専用の台ではないため、かなり前のめりに頭を下げる。ちょっと窮屈だ。

 が、いざシャンプーが始まると、そんな事も忘れてしまうくらい快適だった。

 細い指が髪を梳き、丁寧に、労わるように頭皮を揉みほぐしてくれる。

 これは……。なんとも……。

 

 

「どう? 痒い所とかある?」

 

「いえ。凄く、気持ちいいです」

 

「そうでしょうとも。喜びなさいな、この私にシャンプーして貰えるんだから」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

 あまりにも心地良くて、素直にお礼を言ってしまった。

 誰かに髪を洗って貰うなんて子供の頃以来だが、なんだか落ち着く。

 頭を撫でられているようでもあり、こう……。癒される、というか。眠ってしまいそうだ。

 

 ワシャワシャとシャンプーが泡立ち、シャワーで洗い流しては、またワシャワシャ。

 最後にリンスを馴染ませて、しっかりと濯いでからドライヤーでブロー。

 夢見心地のまま、いつの間にか全ての工程が完了していた。

 

 

「さ、終わったわよ。一応、自分でも確認してご覧なさい」

 

 

 ケープを外す桐ヶ森提督が、改めて毛染め終了を告げる。

 真正面に据えられた鏡を覗き込めば、そこにはかつての自分が居た。

 まぁ、顔の傷とか、違う点は幾らでも見つかるけれど、それでも懐かしい風貌だ。

 

 

「おおぉ……。完璧に染まってる……。しかも、変に突っ張った感じが全くない」

 

「という事は、提督が御自分で染めた時には、そんな感じがあったのですか?」

 

「ああ。しかも、かなり強い臭いが残ってな……」

 

「臭いは使う薬液にも寄るわね。まぁ、私のは使用頻度も考えて、可能な限り無臭に近付けてあるわ。ほんのり香る程度に香料を足してもいるけど」

 

「言われてみれば」

 

 

 前に染めた時は、のっぺりと、明らさまに「染めました」と自己主張する黒さだった上に、薬液臭さも酷かったのに、今回はない。

 それどころか、髪をかき上げると微かに爽やかな……。男から匂っても違和感のない、柑橘系を思わせる香りが立つ。

 浜風に手鏡を持ってもらい、襟首なども確認するが、白い所は残っておらず、しかも自然な染まり具合。

 使う薬液もだろうけど、熟練者に染めてもらうと、こんなに違うんだなぁ……。

 

 

「どうよ! 前とは雲泥の差でしょ? たかが毛染め、されど毛染め、なんだから!」

 

「そうですね。正直、舐めてました。ありがとうございます」

 

「素直でよろしい。ふふ、どういたしまして」

 

 

 ドヤ顔で胸を張る桐ヶ森提督が、なんだか年相応に見えて微笑ましい。

 思えば、誰かとこんな風に、気兼ねなく笑い合うのは久しぶりだ。

 色々な……。本当に色々な事があって、心から笑うという事を忘れていた気さえする。

 感謝しよう。

 彼女のおかげで、自分はまだ大丈夫だと、再確認できたのだから。

 

 微笑み合う自分たちを、どう見たのだろう。

 二枚の上着を抱えていた浜風も、どこか優しげな表情を浮かべ、桐ヶ森提督を労った。

 

 

「お疲れ様でした。見ているだけで何も出来ませんでしたが、せめてお茶を用意しますので、談話室へどうぞ」

 

「そうね、頂くわ。でも、道具の片付けとかあるし、先に行っておいて貰える?」

 

「了解です。提督?」

 

「ああ、頼む」

 

 

 頷き返すと、浜風は上着をこちらへ返し、キビキビとした動作で脱衣所を後にする。

 その背中を見送りつつ、自分は上着を着直すのだが、どうしてだか、桐ヶ森提督の顔色は優れない。

 ……いや、優れないのとは違う。まるで仮面でも被ったかのように、表情が違って見えた。

 

 

「……ふぅ。これで、やっと本題に入れるわね」

 

 

 一つ、溜め息を吐いた彼女は、返された上着を隣の洗面台へと無造作に投げ、椅子に座ったままの自分と斜向かいに、台へ寄り掛かる。

 

 

「桐林。アンタに聞きたいことがあるの。答えてくれるかしら」

 

「……質問の内容にもよりますが、善処します」

 

 

 異様とも感じる変化を目の当たりにし、自分は知らず、身を硬くしていた。

 彼女にもそれは伝わったはずだが、全く意に介していないのか、真っ直ぐこちらを見つめて続ける。

 

 

「殺したの? あの男を」

 

 

 その言葉が耳朶を打った瞬間、頭の奥が冷えていくのを実感した。

 桐ヶ森提督の指す人物には心当たりがある。

 覚悟していた問いだ。

 表情筋を殺し、用意しておいた返答をする。

 

 

「なんの話か、分かりかねます」

 

「……某日、某所で発生した交通事故。

 乗っていたのは某内務省次官補と、お付きの運転手。

 雨でスリップして高速道路の高架から崖下に転落した、という事になっているわよね」

 

 

 彼女が諳んじる事件は、ほんの一週間ほど前に報道され、物議を醸した案件である。

 

 

「車は落下の衝撃で爆発炎上。でも、死体は見つかっていない。

 オマケに、高架の側壁に突き破ったような痕跡はなく、どうやって転落したのか、皆目見当もつかない。

 この話を聞いた後ろ暗い連中は、みんな怯えているわ。次は自分かも知れない、って」

 

 

 概要を語る桐ヶ森提督の瞳が、自分を射る。

 側壁も破らずに崖下へ落下。

 その状況を再現するには、クレーンか何かで車を釣り、上を超えるしかない。だが、現場に重機の痕跡はないと報道で聞いた。

 車一台を、なんの痕跡も残さずに崖下へ落とす方法など、それこそ尋常ならざる“力”を用いなければならないだろう。

 存在を認められているものの、未だ有効に取り締まる法のない、異能を用いなければ。

 

 

「その事故は不可解な事ばかりですが、怯えている人間には、怯えるだけの理由があるんでしょう。自業自得では?」

 

「……そ。あくまで、そういうスタンスなわけ。なら良いの。“アレ”がどうなったとして、胸が痛むはずもないもの」

 

 

 彼女は肩をすくめ、皮肉るように眼を細めた。

 “アレ”という呼び方に、明確な悪意──侮蔑を込めて。

 

 

「その、某内務省次官補に、思う所でも」

 

「無いと言ったら嘘になるわね。私も危うく“食われ”かけたし。

 どうせなら、この手で殺したかった。

 あ、言っとくけど未遂だからね。

 というか、守ってもらったんだけど。……兵藤さんに」

 

 

 ドクン、と。心臓が暴れる。

 予想だにしない名前が、脈拍を早めていく。

 自分の知らない、先輩の過去。

 知りたい。聞きたい。話して欲しい。

 そう思うと同時に、桐ヶ森提督は洗面台から離れ、硬直する自分の後ろへ。

 

 

「アンタは、変わったわね」

 

 

 両肩に手が置かれた。

 鏡越しに見る彼女は、思い出を懐かしむような、とても穏やかな表情で。

 

 

「悪い事じゃないはずよ。変わる事で守れるなら。けど、その中に……」

 

 

 声が近づく。

 後頭部から耳元。

 顎の付け根を降り、そして。

 

 

「アンタの守りたいものの中に、私は入ってる?」

 

 

 首元で、発生源は止まった。

 近い。とても近い。

 桐ヶ森提督の細腕が、絡まっていた。

 桐ヶ森提督に、抱きつかれている。

 

 ………………えっ。なんで?

 

 

「き、きき、桐ヶ森、提督?」

 

「こんな時くらい、藍璃って呼びなさいよ。ばか」

 

 

 より強く、しかし苦しく感じない程度に腕が締まる。

 当然、密着度も高まり、彼女の吐息を感じられた。

 顔は伏せられ、鏡でも確認できない。

 けれど、小刻みな震えは、確かに伝わってきて。

 

 っていうか、ホントになんでっ!?

 い、いつの間にかフラグでも立ててたとか?

 でも、今まで一切、そんな素振り欠片も見せませんでしたよねぇ!?

 どうすりゃいいんだ、これぇ……。と、とにかく何か、何か話さないと……!

 

 

「じ、自分、は、あの、あ……。ぁ、藍──え゛っ!?」

 

 

 しどろもどろに、どうにか会話を繋ごうとする自分だったが、錆び付いた動きで首を巡らせてみると、驚愕せずにはいられなかった。

 何故ならば、超至近距離にある桐ヶ森提督の顔は、今にも吹き出さんばかりの、すんごい笑顔で飾られていたからだ。

 ……もしかしなくても、からかわれた? や、やられた……っ!

 

 

「あっれぇー。どうしたのよー。続きはー?」

 

「き、き、き……君は……っ!?」

 

「ぷぷぷー。何よムキになっちゃってー。ついさっきまでその気だった癖にー」

 

 

 大慌てで腕の中から逃げ出すと、彼女は口元に手を当て、おかしくてしかたないといった様子で、狐のように眼を細めている。

 もう間違いない。確定だ。自分は、桐ヶ森提督にオモチャにされたのだ。

 今日の彼女は一体なんなんだ?

 妙にテンションが高くて、今までだったらしそうにない事までやってきて。訳が分からない。

 だが、困惑する自分を他所に、小悪魔な少女は親しげにこちらの肩を叩きまくった。

 

 

「アンタ、気負い過ぎなのよ。もっと肩の力を抜きなさい。

 それから、ちゃんと誰かに甘えなさい。

 相手は選ばなきゃ駄目だけど、そうねぇ……。

 さっきの秘書官、香取だっけ。彼女とか良いんじゃないの?

 見た限り、向こうも満更じゃないみたいだし」

 

「な、なんなんですか、急に。いい歳した男が、甘えるなんて」

 

「いいじゃない、いい歳した男が甘えたって。自分だけに甘えてくれる男って、女は嬉しいものよ」

 

「……それは、同じ女性としての意見ですか」

 

「さぁ? 単なる個人的見解。的外れかもねー」

 

 

 ジト目で問い返すと、なんとも適当な答えが返ってくる。

 やっぱり、分からない。

 今日の桐ヶ森提督は、いつにも増して理解不能だ。

 けれど、面白おかしく遊ばれたせいで、確かに肩の力は抜けていた。

 香取や浜風、明石相手だと、こうは行かなかっただろう。

 魂を重ねて戦う仲間ではなく、肩を並べて戦う仲間だから、なのだろうか。

 ……分からない。

 

 

「そろそろ行きましょう。浜風が待っていますから」

 

「はいはい。案内よろしく、ロリ林提督?」

 

「“はい”は一回でお願いします、ゴッドバードバレーさん」

 

 

 理由は定かでないにしても、この感覚は、不快ではなかった。

 決して、不快などでは。

 

 軽口を言い合いながら、自分たちは脱衣所を後にする。

 肩を並べ、歩幅を合わせて。

 ゆっくりと。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「それじゃ、私は帰るから。見送り、ご苦労様」

 

「いえ」

 

 

 茶飲み話に花を咲かせて、数時間後。

 桐ヶ森──神鳥谷 藍璃は、私用の小型電気自動車に乗り込みながら、香取、浜風を引き連れる桐林に声を掛ける。

 桐林は直立不動で返事をし、香取たちは敬礼を。

 運転席のドアを閉め、シートベルトを締め。そのまま出発しようとした藍璃だったが、ふと、ある事を思い出して窓ガラスを下げる。

 

 

「ああ、そうそう。言い忘れる所だった」

 

「なんでしょう」

 

 

 呼び掛けると、桐林が車へ歩み寄った。

 藍璃はドアに肘を掛け、茶飲み話の席で出た事柄を語る。

 

 

「アンタの艦隊増強計画に、潜水母艦があったわね」

 

「大鯨のこと、ですか」

 

 

 桐林の髪を染め終えた後、彼と藍璃と浜風は、一階にある談話室で様々な話をした。

 仕事の話。生活の話。食事や遊びの話……。

 途中からは香取や瑞穂など、桐林艦隊の皆が集まったのだが、その中で、これから励起する予定のある船の建造計画──艦隊増強の案も話に出た。

 そして、その中には潜水母艦という艦種の船があったのだ。

 藍璃にとって酷く懐かしい、胸をざわつかせる船の名前が。

 

 

「空母への改装も前提としてるんでしょうけど……。止めておいた方がいいわ」

 

「……それは、何故?」

 

 

 桐林は問い返す。

 大鯨とは、潜水艦隊旗艦として、物資の補給や、少ないながら艦載機の運用能力を持ち、空母としても改装可能な船である。

 空母となってのちは、計画した速度こそ出せなかったものの、祥鳳や瑞鳳など、改装空母として戦線に送り出された。

 抜きん出た性能を秘めていた訳ではないが、軽空母として一定水準の力を有し、桐林の艦隊でも活躍できるはずだ。

 それをわざわざ止めるのだから、理由が気になって当然だろう。

 彼の気持ちも理解でき、藍璃はなんでもない風を装って、自らの過去を明かした。

 

 

「“飛燕”の桐ヶ森が最初に沈めた空母なんて、縁起悪いでしょ」

 

 

 桐林の右眼が、わずかに大きくなる。どうやら知らなかったらしい。

 いや。もしかしたら既に調べていて、本人の口から聞くとは思っていなかっただけか。

 どちらにせよ、これから苦難の道を歩まねばならないのだ。験を担ぐ方が良いに決まっている。

 

 

「じゃ、もう行くわ。強要するつもりはないけど、頭の隅にでも入れて──」

 

「桐ヶ森提督」

 

「……? 何よ?」

 

「自分も言い忘れている事がありました」

 

 

 言いたかった事も伝えた事だし、藍璃はブレーキを踏んでエンジンのスタートボタンを押そうとするのだが、今度は桐林が引き止める。

 不思議そうな顔をする藍璃を見つめ、彼は言う。

 

 

「貴方も、入ってますよ」

 

「え?」

 

 

 それは、あの問いへの返答。

 単なるイタズラとして終えたはずの、弱々しい呟きへの答え。

 呆気にとられ、ややあってから、藍璃は緩やかに微笑む。

 

 

「生意気。私より弱い癖に」

 

「いつの話ですか。海の上なら、もう負けません。二度と、誰にも」

 

 

 また軽口を叩く藍璃に、桐林は一度、後ろを振り返ってから宣言した。

 彼が視線を向けた先では、香取がキリリと姿勢を正し、浜風が「何を話しているんでしょうか?」とでも言いたげに小首を傾げて。

 羨ましい。

 素直にそう思った。

 

 

「行くわ。またね」

 

「はい。お気をつけて」

 

 

 エンジンをスタートさせ、アクセルを少し踏み込む。

 少し進んでからルームミラーを確認すると、桐林は律儀にも、敬礼で藍璃を見送っていた。

 程なくその姿も見えなくなり、舞鶴鎮守府の出入り口にある、警備の厳重なゲートを抜け、車は京都の街中へ。

 通っている車はほとんどなく、しかも運転しているのが美少女とあれば、通行人の注目の的にもなりそうだが、窓ガラスには防弾加工だけでなく、特殊な偏光加工も施してあるため、藍璃の姿は誰にも見えない。

 また時間を置き、高速道路に乗った辺りで、藍璃はオートドライブを起動。合わせてタッチパネルも操作し、衛星通信を開始する。

 呼び出し音が数秒続き、やがて、スピーカーから特徴的なソプラノが流れ出した。

 

 

『珍しいですね。貴方からの直通連絡とは』

 

 

 通信相手は、“梵鐘”の桐谷であった。

 複数の国有衛星を経由して行われる通信は秘匿性が高く、特に桐谷が相手であれば、かなり安心して通話を行う事ができる。

 それを踏まえた上で、藍璃は特A級の機密情報について触れた。

 

 

「面倒だから本題だけ話すわ。例の計画、私を使いなさい」

 

 

 スピーカー越しにも、桐谷が息を飲むのが分かった。

 例の計画──赤の女王計画(Project・Red Queen)の被験者に、藍璃は名乗りを上げたのだ。

 梁島を介して説明を受けたのだから、危険性も重々承知している。

 だが、それでも必要なのだと、確信もしていた。

 

 

『正気ですか。確かに能力者は必要ですが、それは貴方でなくても──』

 

「失敗続き、なんでしょう。そして、その原因にも見当がついてる。私なら、クリア出来るんじゃない?」

 

『………………』

 

「らしくないわね。私に情でも湧いた?」

 

『……かも、知れません。とにかく、反対を表明させて貰います。桐ヶ森さん、貴方は貴重だ。まだ使い潰すには惜しい』

 

「やっとらしい口振りになったわね。でも余計なお世話。私の命は私が使う。何に賭けるのかも、私の自由よ」

 

 

 考え直すように言い聞かせる桐谷だったが、藍璃は頑として引かなかった。

 もう決めた。

 ……いや。ついさっき、決める事ができたのだ。

 

 

「アイツは、私を守ると言った。

 なら私も守ってあげなきゃ。

 だけど、隣に立つには足りないのよ」

 

 

 手の平を見つめ、そのあまりの細さに苛立ち、硬く握りしめる。

 ただ守られるなんて嫌だった。

 そして、“また”置いていかれるのも、嫌だった。

 しかし足りないのだ。

 今の藍璃では、今の藍璃のままでは、あの領域には手も届かない。

 なら、喰い下がらなければ。

 何もせず、指を咥えて黙って見ているだけだなんて、神鳥谷 藍璃の誇りが許さない。

 

 

「だから、私に可能性を寄越しなさい。そこから先は自分で掴むわ」

 

『……その自信は、どこから来るんですか?』

 

「あら、決まってるじゃない。私みたいな美少女が、こんな事で死ぬはずないもの。そんな世界的損失、運命が許さないわ」

 

 

 藍璃は胸を張って、桐谷に答える。

 もちろん本気ではない。

 こんな事を本気で言えるのは、頭のネジが全て抜け落ちたような間抜けだけだ。

 ただの強がりに過ぎない。

 こんな事で己を奮い立たせてきたからこそ、今の藍璃がある。

 もう、この在り方を変えるには、背負い過ぎた。

 

 

『自信過剰。いえ、誇大妄想も、そこまで行けば才能ですか。……お好きにどうぞ』

 

「そうするわ」

 

 

 悲しげにも聞こえる桐谷の呟きを最後に、通信は終了した。

 実に呆気なく、藍璃の運命は定まってしまった。

 どう転ぶのか予想もつかないけれど。

 引き返すことは、できない。

 

 

「あーあ。怖いなぁ……」

 

 

 運転席のシートをめい一杯に倒し、窓の向こうを─空を見上げる。

 まばらな雲が、やけに早足で視界を横切っていく。

 

 

「ねぇ。貴方は魂はどこに居るの? まだ、私を見守ってくれてるの? ねぇ、龍鳳(りゅうほう)……」

 

 

 懐かしい名を呼びながら、藍璃は瞼を閉じた。

 意識がまどろみに落ちるまで、そう長くは掛からなかった。

 

 

 






 アイリたん、メンタル池面すぎて主人公のポジションを食う。

 ついでに、 本編とはあまり関係ありませんが、この世界の車事情も。
 現実と同じようにガソリン車、ディーゼル車、電気自動車が主として存在しますが、ここにバイオエタノールなどを燃料にする車も加わります。
 一般に出回っているのは、日本国内でも生産可能な燃料であるバイオ燃料車なんですけど、作中で何回か言ってる天災やら人災でテクノロジーの停滞が起こっていて、ぶっちゃけ性能は良くありません。
 エンジンの構造が特殊で馬力が低く、最高速度もスクーター並み。
 なので、過去の遺物とも言うべきガソリン車などがまだ現役なのですが、化石燃料などはリッター当たりの値段がめっちゃ高く、電気自動車は燃費がすこぶる良好ですけども、代わりに車自体が最低でも四桁万円クラスなので、一長一短です。
 軍が使ってるのは、燃料供給の関係でガソリン車かディーゼル車が多くて、藍璃ちゃんが乗ってたのはガチの私物。
 作中の日本国内でも数台しか存在しないやつで、十八になったのと同時に買いました。ザ・ブルジョア。

 閑話休題。続けて舞鶴編とこぼれ話もお楽しみ下さい。



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