新人提督と電の日々   作:七音

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 皆様、お久しぶりです。
 勤め先が事業を畳んだり、自宅警備員になったり、自宅警備員じゃなくなったり、車に追突されたりする日々を過ごしていましたが、筆者は元気です。
 まだ新しい職にも慣れていませんから、次回の更新時期は未定ですが、とにかく執筆できる状態には戻りましたので、今後とも宜しくお願いします。



異端の提督と舞鶴での日々、番外編 忠犬ヨシフの受難

 

 

 

「こちらが、飯島様から送られてきた追加報告書になります」

 

 

 舞鶴鎮守府。

 薄暗い情報管理室の机に着く主へと、香取は手書きの報告書を差し出す。

 古めかしい、Eyes Onlyとスタンプが押されたページを幾度か捲った後、彼――桐林は、椅子の背もたれを軋ませた。

 

 

「テロリストが数人と、残るほとんどが複数人による愉快犯か。世も末だ」

 

「全くです。自身の行為が、周囲にどのような影響を及ぼすのか。そんな事すら想像できない人間が多過ぎます」

 

 

 故 吉田元帥とも親交の深かった陸軍中将――太田 左京の秘書官である、飯島 翼少尉による報告は、給糧艦 間宮の艦上で行われた、一般市民との交流イベントの裏事情に関すること。

 表向き、統制人格と使役妖精が働く飲食店、甘味処 間宮の試験営業として開かれたこれは、舞鶴事変後の掃討作戦からも逃げ延びた、反政府組織残党を標的とする囮作戦だったのだ。

 今回の計画、一般へこそ実施を公開されていないが、あえて敵側に情報を漏らすなど、桐谷が強引に推し進めただけあって、一定の成果を挙げることが出来た。

 徹底的な排除により後が無くなったとはいえ、元が反政府組織。

 発見された爆発物は、火災目当ての遅延発火装置だけでなく、鉄片を混ぜた、身体に巻きつける手製爆弾などもあり、一歩間違えれば惨事が引き起こされていただろう。危険な賭けだったと言える。

 

 桐谷が何故このような強硬策に出たのか。

 理由は不明だが、無事に終わった事で発言力は確実に伸びつつあり、ひいては桐林の影響力も増してきている。

 しかし、苦く思う部分も少なくなかったようで、彼は側で控えていたもう一人の女性――間宮へと頭を下げた。

 

 

「済まなかった、こんな任務に巻き込んでしまって」

 

「いいえ、どうかお気になさらず。

 少しでも提督のお役に立てるなら、それが私たちの本望ですから。

 それに、多くの一般の方々に喜んで貰えるというのは、得難い経験でした」

 

「……助かる。だが、無事に済んだのは運が良かっただけとも言える。今後はもっと安全に配慮した、別の形での実施をさせるつもりだ」

 

「そうですか。了解致しました」

 

 

 対する間宮は、見る者を安心させてくれる、たおやかな笑みを浮かべている。

 元々、能力者に使役される為の存在ではあるが、人々の笑顔を間近に見るという事は、彼女にとって良い体験だったのだろう。

 けれども、一般人を巻き込みかねない作戦だったことも確か。桐林の「別の形」という言葉に、心なしか安堵したようにも見えた。

 

 間宮の返事を受け、桐林は報告書の後半へと視線を戻す。

 能力者の特権を羨んだ若者グループ。

 注目されたくて仕方なかったパイロマニアの兄弟。

 統制人格という存在そのものを否定したい自称リアリストたち。

 愚にもつかない連中の詳細ばかりが並んでいたが、報告書の最後の数ページだけは趣が違っていた。桐林が眉をひそめる。

 

 

「一人だけ、被疑者不明の案件があるな」

 

「はい。今回の報告はこれが主題のようです」

 

 

 桐林の問いに、報告書の内容を暗記した香取が頷く。

 間宮にとっても忘れ難い事柄だったようで、彼女は厳しい表情で話を継いだ。

 

 

「ご存知の通り、私のような給糧艦には強力な通信設備が備わっており、過去、無線監査艦としても活動していました。

 深海棲艦の出現で、一般において技術後退が起こっている現在、使用される携帯電話なども旧式となっていますから、報告にあった愉快犯の補足は容易でした」

 

「ですが、この案件に関しては痕跡らしい痕跡が全く残されておらず、完全に後手に回ってしまいました。陸軍の新鋭機器にも、不審な反応は無かったようです」

 

 

 作戦中の間宮と香取は、危険度の高い反政府組織の人員を陸軍に任せ、その他 愉快犯の検挙に貢献した。

 使役妖精たちの視界を介したり、特殊な改造を施した機器で、犯人同士が連絡し合う際の電波を傍受したり。

 笑顔で一般客の応対をしつつ、裏では諜報活動と不審者の警戒に努める。彼女らは事も無げに言っているが、大いに神経をすり減らす仕事だったのは間違いない。

 そんな中、警戒していたはずの区域で不審物が出た。さぞ肝が冷えた事だろう。

 

 

「端的に申し上げますと……。この物体は人類が知りえない、未知の鉱物でした」

 

「未知の鉱物?」

 

「確かに存在し、手に持つ事も可能なのですが、あらゆる計測機器に反応しないのです。あるいは、これが暗黒物質なのでは……という意見も出てきている程で」

 

 

 浮かない顔で、香取は曖昧な物言いを繰り返す。

 報告書には、一枚の写真と複数のスケッチが添付されており、写真が黒革のバックを、スケッチがその内容物を、多角的に描いているらしかった。

 バッグはごく普通の市販品だったようだが、その中身――何本かの黒い四角柱が複雑に組み合わさった物体は、一体なんなのか。想像もつかない。

 一つ、桐林の脳裏によぎったのは、深海棲艦が史上初の撤退をした、あの戦いだ。

 あの戦いで、一時的とはいえレーダーに映らない敵艦の存在が確認されたが、同様の存在は以降確認されず、のちに出現した双胴棲姫が欺瞞能力を有していた事もあり、深くは追求されずにいた。

 もしかしたら、これは深海棲艦が。しかし、なんの為に。利敵行為としか思えない。

 

 

「ですが、問題は不審物自体ではありません。これと根元を同じくすると思しき物が、過去に発見されていた事が問題なのです」

 

「どういう事だ」

 

 

 考え込もうとする桐林の意識を、更なる報告で引き戻す香取。

 細められる右眼には、間宮が返した。

 

 

「人類が宇宙進出を夢見て、月への移住を最終目標に建造が進められていた、洋上マスドライバー。その爆破テロは、人類史における大きな惨事としても、記憶に新しいと聞きます」

 

「まさか……?」

 

「情報封鎖が為されていましたけれど、崩壊したマスドライバー近辺で、今回発見された物と同様の、基盤のようにも見える板が発見されていたらしいのです」

 

「……となると、爆発物であった可能性もあるわけか。いや、形状が違うのだから、機能も別……。本当に人類淘汰会がやったのか、疑わしくなってきたな」

 

 

 桐林は天井を仰ぎ、深く溜め息をつく。

 人類淘汰会。正式名称、人類種淘汰推進委員会。

 舞鶴事変でも槍玉に挙がったテロ組織だが、三十年ほどに及ぶ彼らの活動で最も有名なのが、間宮の言ったマスドライバー爆破だった。

 完成を間近に控え、月を人類の受け皿とするべく考えていた人々は、大いに落胆し、彼らの名を記憶に刻まざるを得なかった。

 当時の淘汰会は国連も巻き込んだ作戦で壊滅。射殺を免れ逮捕された構成員まで、全員が死刑の判決を受けたのだが、こうした組織を徹底的に排除すると、往々にして善人ぶりたい愚か者が擁護に現れる。

 現在の淘汰会は、その者たちの支援を受けた二次団体なのだ。

 まぁ、その残党も今回の一件でほぼ駆逐した。もう煩わされる事はないだろう。

 

 問題なのは香取の言った通り、人智の及ばない物品が、双方の場で発見された事。

 爆破が淘汰会の犯行でなかった場合、それは不審物を置いた何者かによる犯行となる。

 逆に、彼らが実行犯であった場合、今回と同じく何者かが意図的に不審物を置いた事になる。

 前者であれば、間宮はおろか、イベントに参加していた全員が消滅していたかも知れない。地図が書き換わっていた可能性すら。

 後者であっても、危険だった事に変わりはないが、何故このような物を置いたのか、理由が判然としない。

 

 

(もどかしいな……。いや、ようやく情報が入り始めたんだ。焦らない方が良いか)

 

 

 兎にも角にも、まず情報が足りない。結論付けるのは先にした方が良いと思われた。

 気持ちを切り替え、桐林は予てからの気掛かりを香取に問う。

 

 

「硫黄島の方は」

 

「残念ながら、敵の手に落ちたようです。現在、衛星では存在を確認できません」

 

「……そうか。事態の推移は把握しているんだろうか」

 

 

 予想していた返事ではあったが、桐林は落胆を隠せない。

 住む人間はおらず、資源的に見て守る価値など無い場所だが、あの場所には歴史があった。どうにも気分が落ち込む。

 それに敢えて気付かぬふりをし、香取は続けた。

 

 

「報告書によりますと、第二次大侵攻――双胴棲姫との戦闘が勃発した際、監視人員の交代に齟齬が生じたらしく、気付いた時には……。記録してあるはずの映像も、クラッシュしています」

 

「やはり、か」

 

「提督? やはり、とは?」

 

 

 またしても予想通りの返事を受けた桐林が、やおら椅子を回転させ、背後の壁を向く。

 右手で眼帯へと触れ、ほんの少し意識を集中させれば、その視線の延長線上――舞鶴の港や工廠で働く、明石たちの存在を感じられた。

 普通の人間では絶対に感じ取れるはずのない、命の気配を。

 

 

「こうなってから、勘付いていたんだ、薄々と。

 人類の歴史の裏側には、“何か”が居る。

 深海棲艦……いや。近年、深海棲艦と呼称されるようになったモノが」

 

 

 かつて未来世紀と呼ばれ、夢の世界とされた二十一世紀を越えてなお、人類史は一進一退を繰り返している。

 先に挙げたマスドライバーへのテロを始め、アメリカにあるイエローストーン火山の超々小規模噴火、新生南アフリカにおける史上初のF6スケール竜巻の発生、第二次ツングースカ大爆発など、まるで人類の進歩を阻むように起きてきた、天災と人災。

 もしもこれらに、何者かの“意思”が介在していたとしたら。

 突飛な陰謀論としか聞こえない話だが、深海棲艦という存在が現れ、それに身体を侵された男が言うと、無視しきれない信憑性があった。

 

 

「戦争状態になる以前から、人類は深海棲艦の干渉を受けていた……」

 

「確証も何もないがな」

 

「しかし、今回は物証が得られました。これで何某かの進展が見られるのでは?」

 

「それを扱う部門に、“あちら側”の手先が居なければ、だが……」

 

 

 うつむく香取、楽観的な間宮に振り返るのは、諦観を秘めた眼差し。

 けれど、重苦しい空気を振り払うように、すぐさま首が振られた。

 思考を重ねる事は重要だが、それだけで物事が進む事もない。

 ひとまず棚上げとし、桐林が二人を労う。

 

 

「ともあれ、ご苦労だった。順序が逆になったが、二人とも、ゆっくり休んでくれ」

 

「はい。お心遣い、感謝致します」

 

「とは言え、鹿島が横須賀に行っている今、私が休む訳にはいかないんですけどね……」

 

「……苦労を掛ける」

 

「では、元気を出して頂くためにも、一服しませんか? お茶をお菓子をご用意しますので」

 

「あら、良いですね。是非お願いします、間宮さん。提督?」

 

「そうだな。執務は一息入れてからにしよう」

 

 

 窓が無い部屋では分かり辛いが、ちょうど時間も頃合いの一五○○。間宮の提案に、残る二人も頷いた。

 連れ立って管理室を後にし、陽光の差し込む廊下を歩きながら、桐林はふと、この場に居ないもう一人の秘書官を思い出す。

 突如として来襲した金剛たちを送り届けているはずの、鹿島の事だ。

 昨日の作戦の直前――早朝に舞鶴を立った彼女だが、留守電通りなら、当日中に着いたのは確実。

 横須賀へ残してきた面々の性格を考えれば、歓迎会やら横須賀見学やらの持て成しを受け、あちらを出発するのは最速でも明日か。

 一応、数日間の休暇も、という形で送り出したため、遅くなっても問題無いものの……。

 

 

(変な影響を受けないで、そのまま帰って来てくれれば良いんだけどな)

 

 

 一番の心配は、鹿島が妙な事を吹き込まれたりしないか、だった。

 励起当初と比べると、頭のネジが数本抜けて――もとい、雰囲気が緩くなっている事もあり、不安が残る。

 出来ることなら、自分の知っている鹿島のままで帰って来て欲しいと、桐林は無言で祈るのだった。

 淡い期待が、すでに全くの無駄になっていると、知る由もなく。

 

 事は、十一時間ほど前に遡る……。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 唐突だが、自己紹介をさせて頂く。

 某は犬である。名前はヨシフ。もちろん、前世がスターリンという訳ではない。

 幼き頃、不運にも母と死に別れてしまった某だが、幸い、心優しい少女――暁殿の世話で生き長らえ、その姉妹である名付け親――響殿の計らいで、我が大殿である桐林様の家に厄介になっている。

 時の流れというものは、まさしく光陰矢の如し。拾われてから早くも一年近くが経過した。

 手前味噌ながら、某も逞しく成長したように思う。

 人で言えば二十歳前後。そろそろ犬生を共にする嫁が欲しい年頃なのだけれど、大殿の留守を預かる身。今は辛抱の時と、気を引き締めるばかりである。

 

 さて。

 斯様な状況に置かれている某が、いま何をしているのか。

 それは……。

 

 

「ぇへへ……。提督さぁん……。鹿島はぁ……。ふひ……」

 

 

 平たく言うと、食堂で雑魚寝している鹿島殿の、抱き枕任務である。

 アンティークとか呼ばれるらしい鳩時計の音によれば、現在時刻は○四○○。そろそろ空が白み始める頃だ。

 周囲には、大殿に付き従う少女たちが大勢、同じように雑魚寝している。

 舞鶴からやって来た鹿島殿の、歓迎会という名の宴会の結果だった。

 スカートやら上着やらが捲れ上がり、人間の男性であれば、色んな意味で催す光景と思われるけれども、あいにく犬なので興奮できない。

 損をした気分になるのは何故であろうか。

 

 某、犬を初めて見るという鹿島殿の希望で参加した……というか、抱きついて離れてくれなかったので参加せざるを得なかったのであるが、なんとも姦しい宴だった。

 長門殿の挨拶に始まり、鳳翔殿の手料理が並べられ、那珂殿が歓迎の歌を歌い、何故か赤城殿もアイドルソングを完璧に振り付きで踊って見せ、加賀殿の演歌には皆が聞き惚れた。ほぼ隠し芸大会であったな。

 加えて、金剛殿が舞鶴鎮守府から持ち帰ったという、大殿由来の品々を景品としたビンゴ大会まで開かれてしまい、ご覧の有様という訳だ。

 給された飲み物に、酒類は混ざっていなかったはずなのだが……。皆、明るい話題に飢えていたのだろう。

 これに目くじらを立てるなど、無粋というものか。

 

 

「むふふ。提督さん、意外と毛深ぁい。それにぃ、凄く筋肉質で……」

 

 

 ……とはいえ、鹿島殿のやけに艶かしい手付きと寝言は、どうにかならぬものか。

 内容から察するに、某を大殿と勘違いしているのは間違いない。

 しかしだ。某の好みはパツキンのチャンネー(ゴールデン・レトリバー)辺りであって、人型生物と情欲を交わす趣味も無い。ぶっちゃけ迷惑だ。

 致し方無い。ここは一つ、皆を起こさぬ程度の音量で、鹿島殿に某が犬であると示してみよう。

 耳元に口を寄せて……。ワフ。

 

 

「やぁん……。最初からいきなり、ワンちゃんプレイなんて……。でも、提督さんが望むなら、私……」

 

 

 何故にそうなる。

 鹿島殿は目を閉じたまま、ますます頬を赤らめていた。

 抱きついていただけだったのが脚まで絡み、もはや逃げ場すら。

 いかん。いかんぞ。このままでは純潔が奪われてしまう。初めては同じ種族でお願いしたかったのに!

 と、密かに戦慄している某であったが。

 

 

「ん……あれ、ヨシフ君……? 提督さんは……」

 

 

 間一髪、鹿島殿は目を覚ましてくれた。

 いやはや、危ない危ない。あと一歩という所で助かった。

 俗に言うMK5……マジでキスする5cm手前という奴だ。某の純潔は守られた……!

 いやまぁ、他の娘たちとは、普通に顔を舐めたり風呂を共にしたりしているのだが、鹿島殿相手だと妙な危機感が……。

 

 

「もしかして……夢、だったの?」

 

 

 人知れず安堵の鼻息を漏らす某を置いて、鹿島殿は上体を起こし、辺りを寝ぼけ眼で見回している。

 ウィスキーの瓶を枕に眠る那智殿と隼鷹殿。寝たまま前髪を直そうとしている阿武隈殿と、同じく寝たまま妨害する北上殿。

 はだけた着物の合わせから溢れそうな蒼龍殿に、ビンゴで当てた使用済みコーヒーカップを抱きしめる高雄殿。

 その他諸々の少女たちを眺めた後、彼女は唐突に頭を抱えた。

 

 

「そ、そんなぁ……。すっごく良い所だったのにぃ……! 夢とはいえ、あと、あとちょっとでぇ……!」

 

 

 ふむ。この様子からすると、鹿島殿は夢の中で、大殿と睦んでいたようだ。

 いや、正確に言うなら睦みかけていた、か。

 女性に気を持たせる方だとは存じていたが、大殿よ。罪な男であるな……。

 

 

「まだ明け方なんだ……。どうしよう、完全に目が覚めちゃった。

 総員起こしには早過ぎるし、朝ご飯もまだ、よね。う~ん……」

 

 

 しばし落ち込んだ鹿島殿であったが、やがて窓の外を見やり、某の頭を撫でつつ独りごちる。

 普通ならば二度寝でも出来ようものの、彼女は客人。勝手知ったる我が家のように寛ぐのは無理な相談であろう。

 この状況で可能な事と言えば、皆を起こさぬように食堂を抜け出し、表を散歩するくらいのものだ。

 うむ、健康的で実によろしいな。ついでに、某の散歩も済ませてくれれば有り難いのだが。道具一式は某が持ってくるので。

 

 

「あ、そうだわ! 確かこっちには、提督さんの昔の私室があったはず……。

 昨日は色々あって言い出せなかったけど、今だったら誰にも知られないうちに!」

 

 

 ところがである。

 鹿島殿は不意に目を輝かせ、力強く拳を握りしめたのだ。

 ……大殿の私室? 確かに存在するが、忍び込むような場所ではなかろうに。

 もしや、よからぬ事を考えているのではあるまいな。だとしたら、番犬として見過ごせぬぞ……?

 

 

「起こさないように……。そぉっと……」

 

 

 即刻、用向きを問い質したい所だったが、あいにく人語は理解できても喋れない。

 ここはひとつ、後を追って直接この眼で確かめねばなるまいて。

 そう考え、ゆっくりと立ち上がる鹿島殿に続き、某も四つ脚で立ち上がる。

 睦月殿の「もう食べられにゃいぃ……」という寝言を聞き流し、「ぁふ……ん」という吐息が色っぽい陸奥殿をまたぎ、一人と一匹が開口窓の方へ。

 そして、鹿島殿の脚が球磨殿の側に降ろされた瞬間――

 

 

「球磨は普通の球磨に戻りたいんだクマー!」

 

「ひぅっ!?」

 

 

 ――アイドルの引退ライブが如き叫びが迸った。

 突如として起き上がった球磨殿に、思わずビクゥッ!? と硬直する某と鹿島殿。

 しかし彼女は数秒後、何事も無かったかのように再び横になる。

 枕代わりとされた多摩殿が、「重いにゃ……」と呟いていた。遠方からは、「那珂ちゃんは永久に不滅だもん……」という呻き声まで。

 きっと、球磨殿がやらされているクマ・レンジャーに掛かっているのであろうが、心臓に悪い。

 

 

「ね、寝惚けてただけかぁ……。ビックリしたぁ……」

 

 

 ホッと胸を撫で下ろし、鹿島殿はまた歩き出す。

 某も、フンス、と溜め鼻息を漏らしてから、姿勢を低くして後ろに張り付く。

 余談というか、むしろ蛇足であろうとは思うのだが、一応付け加えておこう。

 安産型の尻を包むのは、レースがたっぷり施される、純白の布地だった。

 雄犬には全くもってどうでも良い事なのだけれども、大殿を始めとする人間の男ならば、恐らく喜ぶのであろうなぁ……。

 話を戻そう。

 テラス席へと続く開口窓を出て、宿舎を軒下伝いに西へ歩けば、大殿の私室に続く渡り廊下が見えてくる。

 十数mのそれを渡れば、十六畳ほどの広さを持つ家屋はすぐそこだ。

 風呂・トイレ付きとの事で、この部屋が完成した時、大殿が大いに喜んでいたのを覚えている。学生時代の六畳間とは大違い、だそうである。

 

 

「ここが、提督さんの……」

 

 

 入り口であるドアの前に立ち、鹿島殿は感慨深く家屋の眺めている。

 ううむ……。昨日の宴会での言動から察するに、悪事を働くような娘でない事は分かっている。

 けれど、何かあってからでは遅いのだ。女所帯を守る唯一の雄として、心を鬼にせねば。

 そう決意した某は、ドアノブに手を伸ばそうとする鹿島殿のスカートの端を咥え、クイッと軽く引っ張った。

 

 

「きゃっ。ヨ、ヨシフ君? ついて来てたの?」

 

 

 そこでやっと某の存在に気づいたらしく、驚いた顔でこちらを覗き込む彼女。

 某はスカートを離し、白磁のような脚に纏わりつくようにしながら、段々と私室から遠ざけようと試みる。

 不審者相手であれば、噛み付いて引きずり回す事も可能だが、婦女子相手だと少々面倒であるな……。

 ともあれ、困惑する鹿島殿を押しやり、距離を取らせる事には成功した。これで某の意思を汲み取ってくれれば良いのだが。

 

 

「……? あ、そっか。仮にも提督さんのお部屋なんだから、警備システムがあって当然よね。迂闊に近づいたら危なかったわ……。ヨシフ君、偉い!」

 

 

 だから何故にそうなるっ。

 ポン、と小さく柏手を打った彼女は、満面の笑みで某の頭を撫で、斜め上の発言をした。

 いやいやいや違う、そうではないのだよ鹿島殿っ!?

 あまりの驚きに硬直してしまった某だったが、スキップしながら家屋を回り込もうとする後ろ姿を、狼狽しながらも追いかける。

 しかし、縁石を辿って追いついた頃には、すでに配電盤付近にある警備システムの操作パネルを見つけられてしまっていた。

 

 

「あった! ええと……。ふむふむ、単純な機械警備ね。システムの更新パッチを当ててない……。これなら、私でもクラック出来そう」

 

 

 どこからか携帯端末らしき物を取り出して、何やらゴソゴソと配電盤を弄っている鹿島殿。

 困った、某の位置からでは見えぬ。いい加減、強硬手段で止めねばならぬだろうか。

 だが、放っておいた所で大した事は起きないような気も……。

 あああ悩ましい、悩ましい事態だ。某はどうすれば……?

 

 

「伊達に、舞鶴鎮守府の秘書官はやってませ……んっと!」

 

 

 ――と、悩んでいる内に事が済んでしまったようで、鹿島殿は携帯端末をしまい、急ぎ足で玄関ドアへ戻って行く。 この行動力。流石は大殿の補佐役と言った所か。舞鶴でもさぞかし活躍しているのだろう。

 ……いや感心してる場合ではないぞ某よ! 全力で不法侵入しようとしているではないかっ!

 また慌てて追いかければ、今度はドアの前にしゃがみ込み、細い鍵棒のような物でガチャガチャやっている。

 さっきは日和ったが、これを止めねば番犬としての面目が立たん。いざ、網紀粛正っ。

 某は勢い良く不埒な婦女子へ飛び掛か――

 

 

「これで、よしっ。シリンダー錠で助かっちゃった。お邪魔しまぁす」

 

 

 ――る前に、開いたドアへ衝突してしまった。

 ズガン、と鈍い音。某も思わず「ギャウン!?」と鳴いてしまう。

 

 

「え? あ、ご、ごめんねヨシフ君! 痛かった? 痛かったよね。本当にごめんね」

 

 

 ヘバってうずくまる某の鼻を、鹿島殿は酷く申し訳なさそうに撫でてくれる。くうぅ、遅かったか……っ。

 というか、何故に解錠道具なんぞ持っているのだ。しかも使いこなしているのだ。本当に大殿の補佐役か?

 疑わしい眼を向ける某に気付かず、彼女は「一緒に入りましょうか」と室内へ。

 ……こうなっては仕方ない。またピッタリ張り付いて、妙な事をしないよう見張るしかあるまい。

 何も起こらなければそれで良し、見なかった事にしよう。某のダメダメな対応含め。

 

 

「清潔な空気……。使う人が居なくても、しっかりお掃除されてるんだ……」

 

 

 ドアの鍵を内から締め、スリッパを脱いだ鹿島殿は、畳間の中央に立ち深呼吸。

 もう太陽が顔を見せているからか、閉め切られたカーテンの隙間から差し込む光が、どことなく厳かな雰囲気を醸している。

 某も玄関マットで肉球を拭き、部屋へ上がらせてもらう。

 入り口脇の簡易キッチン。小型冷蔵庫。窓際の座卓。隅にあるクローゼット。押入れ。達筆過ぎて読めない掛け軸の掛かった床の間。

 何度か暁殿たちと入った事があるが、大殿が舞鶴へ行ってからは初めてだ。うむ、懐かしい匂いがする。

 そうしている間にも彼女は動き、薄明かりを頼りに、大殿の使っていた座卓へと近づいていく。

 何故かしばらく立ち尽くしてから、座椅子を引いてその上へ。

 

 

「座っちゃった……。これが、提督さんの見ていたもの、かぁ……」

 

 

 感慨深く呟いて、鹿島殿が座卓の上を指でなぞる。

 う~む。婦女子にとっては、普段は男が座っている場所に座るという事に、感じ入るものがあるのかも知れない。さっぱり理解できぬが。

 ついで、机の周りをキョロキョロと探り始める彼女だったが、最下段の大きな引き出しを開けた途端、ギクリと動きを止めた。

 気になって近づいてみると、広告の載った背表紙が上に向く雑誌があったようだ。

 

 

「ど、どうしよう。もしエッチな本とかだったら……っ。いいえっ、提督さんはそんな物……読んでなかったら不安かも」

 

 

 雑誌を手に取った鹿島殿は、困り顔を浮かべてはブンブンと首を振り、かと思えば急に落ち込んで見せ……。

 独り言も多いし、躁鬱の気でもあるのだろうか。色んな意味で心配になる娘である。

 そんな懸念を知らぬまま、彼女が意を決するような素振りで雑誌を表返しに。

 

 

「隔月刊 艦娘……。まぁ、これだったら健全な範囲、よね。うんう……ん?」

 

 

 印刷された表題を確認すると、目に見えて緊張を解く鹿島殿。

 そのままペラペラとページをめくり、ふと止まったのは……センターカラーの水着グラビア。といっても、犬である某には紫と青と黄色しか分からぬのだがな。

 文字も近眼であるが故に読めぬけれど、夜目は利くので、とにかく露出過多な女性の写真が載っているのは理解できた。

 なんだかんだ、大殿も女性への興味はあったらしい。実は男色家かと疑っていたのだが、金剛殿を始めとする皆には朗報だろう。

 

 

「そういえば私、水着って持ってない……。提督さん、どんな水着が好みなのかしら?

 あんまり露出が多いと、はしたないと思われちゃうだろうし、かと言って少な過ぎてもアピールできない……。難しい問題だわ」

 

 

 雑誌を置き、座卓に頬杖をついた鹿島殿は、悩ましげな吐息をこぼす。

 なるほど確かに。常に裸一貫の某たち犬と違い、日常のほとんどを着衣で過ごす人間にとっては、肌を見せるのが異性への訴えかけになる訳だ。

 しかしながら、人間には貞節やら何やらという概念もあるらしく、彼女が悩んでいるように、加減が難しいようだ。まこと、人間というのは難しい生き物である。

 だからこそ、全く違う種族である某にも、心を尽くしてくれるのだろうが。

 

 

「提督さんに選んで貰えたら幸せだけど、無理、よね……。

 うん、後でカタログとか見てみよっと。

 生まれて初めての夏は、提督さんとの関係を一歩進めちゃうんだから!」

 

 

 少しばかり難しい事を考えていたら、なにがしかの決意を固めたらしい鹿島殿は、雑誌を胸に明後日の方向を見ていた。とりあえず、頑張ってみて欲しい。

 その後、彼女はいそいそ雑誌を元あった位置へ戻し、はたと左の袖を捲る。時計を確認しているようだ。

 

 

「あんまり時間も残ってないし、見られるのはあと一箇所くらい……。となれば……」

 

 

 結構な時間が経過しているのか、気が付けば、部屋に入り込む光の量と強さが増していた。

 腹時計の具合いからして、おおよそ○四二○。バレない内に戻るつもりなら、あと十数分が限度か。

 次なる目標……いや、最終目標は決定していたのだろう。

 凛々しく表情を引き締め、鹿島殿が向かったのは……。

 

 

「目指すは、提督さんが使ってたお布団、ひいては枕!」

 

 

 なんと、押入れだった。

 音が出ないようにそろ~っと襖を開け、彼女は鼻息荒く中を覗き込む。

 布団? 枕? 何故にそんな物を目指す必要があるのか……。やはり理解できぬ。

 

 

「……あれ? なんで枕が二つ……?」

 

 

 不意に、後ろ姿の鹿島殿が小首を傾げる。

 某には見えぬが、何やら不測の事態が勃発したらしい。

 ゴソゴソと押入れの中を探り、振り返った彼女の手にあったのは、二つの枕。

 

 

「ど、どっちが提督さんのだろう……。どっちも無地で、色は緑と黄色……。可能性としては両方あり得るわよね。というか、両方とも提督さんのかな……?」

 

 

 ぺたん、と畳に正座し、二つの枕を前に腕を組む鹿島殿。

 ……ふむ。彼女にとっては、大殿が使用した物であるという事実が重要なのか。

 枕といえば、使用者の匂いが強く染み着くもの。某ならば判別は容易い。

 一肌脱ぐとしようか。

 

 

「こうなったら、匂いで確認を……ってダメ、ダメよ鹿島! そんなワンちゃんみたいなことっ。でも、他に方法なんて……っ」

 

 

 ……前言撤回。助けてやらん。

 身をよじって悶々する鹿島殿に悪意は無いのだろうが、微妙に犬の行動を恥と言われたようで不服なのだ。

 物の匂いを嗅いで何が悪いのか。匂いを嗅ぐという行為は、立派な自衛行動の一つなのだぞ? 全く……。

 それはさて置き、彼女は躊躇いがちに枕を手に取り、恐る恐る鼻を近づける。

 ヒクヒクと小さい鼻が動き、次にもう一つの枕を。

 

 

「ふむ。緑の方は、ちょっと野性味を感じる……。黄色の方は、微かにフローラルな香り……。つまり、提督さんの枕は黄色の方ね!」

 

 

 判定が下ったようで、鹿島殿は黄色い枕を両手で掲げた。

 ……うん? そうなのだろうか? 某は違う方だと思うのだが……。

 うむ。やはりこの距離でも分かる。床に置いてある方が大殿の枕で、彼女が持っているのはあの娘の……。

 と思った瞬間、有頂天だった視線が唐突に鋭くなった。キュピン! と擬音が入りそうだ。

 

 

「はっ、ちょっと待って。提督さんがアロマ・シガレットを吸い始めたのって、確か舞鶴鎮守府に移籍してから。

 今の提督さんは、常にアロマの良い香りを漂わせてるけど、横須賀時代は多分違うはず。

 つまり、提督さんが使っていた本当の枕は……。こっちの緑色の方ね! 私は騙されないんだから!」

 

 

 むぉ? い、いきなり正解を引き当てたな。

 詳細は不明だが、土壇場で正しい答えを導き出したという事は、それだけ大殿を深く想っている事の証左であろう。

 しかし、鹿島殿。騙す騙される以前に、女物の枕が何故にあったのかは疑問に思わぬのか?

 いや、本人が幸せそうというか、楽しそうだから別に良いのだけれども。

 

 

「ここにこうして……。よいしょ」

 

 

 某の複雑な心境を他所に、鹿島殿が畳へ大殿の枕を置き、身体の位置を変え、ポスン。

 頭を乗せて、静寂が十秒ほど。仰向けのまま彼女は呟く。

 

 

「なんでだろう。凄くイケナイ事してる気分。けど、なんか……良い」

 

 

 その表情は、実に恍惚としていて、かつ安らいでいるように見えた。

 なるほど。そういう事であったか。

 要するにこの娘は、大殿の使っていた物で、大殿の存在を近くに感じたかったのだな。

 某も、幼い頃は某だけで眠るのが怖く、暁殿の帽子の上などで寝ていた。当然ペチャンコになり、暁殿は涙目で某を叱り……。

 いやはや懐かしい。響殿の帽子にまで同じ事をしてしまい、「次やったら粛正(エジョフシチナ)だよ」と微笑みかけられたのも、今では良い思い出である。

 怖くなかったのか? はっはっは。漏らしたに決まっておろう。響殿には絶対逆らいません。正直な話、大殿や暁殿より優先順位が高いのは秘密だ。

 

 

「……電さん、可愛らしい子だったな。やっぱり私じゃ、育ち過ぎなのかしら……。もう少し、色々と小さければ……」

 

 

 なんとなく隣に伏せてみると、鹿島殿はこちらへ寝返りを打ち、寂しそうに某の背中を撫でる。

 電殿。暁殿を長姉とする四姉妹の末っ子であり、大殿の“お気に入り”。

 確かに、鹿島殿と比べると一回り小さい体軀の持ち主だが、何故それが育ち過ぎという発言に繋がるのだろう。

 大殿が電殿を気に入っているのは電殿だからであって、身体の大きさは関係無いと思うのだが。女性というのは変な所で悩むものだ。

 

 

「ううん。挫けちゃダメ! 私には私の武器があるはず! 電さんには負けないんだからっ。頑張れ私!」

 

 

 しかし、意気消沈していたのも束の間。自分で自分を励まし、鹿島殿に笑顔が戻った。

 うむ。昨日知り合ったばかりだが、この娘は笑顔が良い。笑っていた方が素敵だ。

 横須賀の皆を知る者としては問題かも知れぬけれど、応援したいものである。

 

 

「さて、と。もうそろそろ食堂へ戻って……あ、一応誰か来ないか確認を……」

 

 

 大殿の枕を一頻り堪能し終え、二つ揃えて押入れに戻した鹿島殿は、部屋を出ようと玄関へ向かう。

 そして、いざドアを開けようとしてから、不法侵入しているのを思い出したのか、ドアスコープで外の景色を覗いた。

 うっかり誰かと鉢合わせでもしたら大変だ。慎重なのは良い事である。

 

 

(ん~……ん? な、なんで電さんがこっちに来るの!? かかか、隠れなきゃ!)

 

 

 ……なんですと?

 噂をすれば影が差す、という奴なのか。電殿がこの部屋へ向かっているらしい。

 これは不味い。とても不味いぞ。

 鹿島殿は一時の恥、お咎め無しで済む可能性もあるが、某はそうは行かぬ。

 番犬として宿舎の安全を守らねばならぬ者が、よりにもよって不法侵入を許した挙句、自分自身もそれに同伴したとあっては、皆の信頼はガタ落ち。今後の食事のグレードにも影響を及ぼす。

 ……逃げ場は無い。ならば隠れよう! きっとこれが最善手! ……だと良いが。

 とりあえず、右往左往しつつトイレへと駆け込む鹿島殿を、彼女が忘れたスリッパを咥えて追いかける。

 電殿が部屋のドアを開けるのと、トイレのドアが閉まるのは、ほぼ同時だった。

 

 

「お邪魔します、なのです……」

 

 

 電殿は控えめに声を発し、部屋の中へと上がったようだ。

 ふう……。なんとか身を隠せたな。

 音を出さぬよう鼻息を漏らす某。同じように深く溜め息をつく鹿島殿。

 すると、微かに襖が開けるような音が聞こえてきた。しばらくしてポスンと、さっき聞いたばかりの音も。

 やはり、大殿の物ではない方の枕は、電殿の物だったらしい。

 推察するに、自分の枕は普通に使い、大殿の枕は胸に抱えていると見た。

 なんとなくだが、当たっているような気がする。鹿島殿は緊張しまくり、まるで気付いていないが。

 

 

「鹿島さん、凄く綺麗な人だったのです……。あんな人が、いつも司令官さんの側に……」

 

(え? 私?)

 

 

 む。今度は電殿か。

 周囲が静かなせいか、小さな独り言はトイレの中にまで聞こえてきた。

 流石の鹿島殿もこれには気付いたようだ。自分の名前に驚き、耳を側立てている。

 

 

「きっと、あの人も……。やっぱり電じゃ、もう……。電は……」

 

 

 しかし、電殿の声は鹿島殿と違い、今にも泣き出しそうに聞こえる。

 潜伏中の鹿島殿ですら、心配そうな顔で様子を伺っていた。

 ……当然か。

 某が拾われてからはもちろん、それ以前からも、彼女と大殿は共にあったと聞く。

 どのような理由で、今の状況が作り上げられてしまったのか。某には考えすら及ばぬが、胸の内は理解できる。

 寂しくて、寒くて、叫び出したい程の虚しさを感じているに違いない。

 母を喪ったばかりの某がそうだった。暁殿と出会わなければ、どうなっていた事か。

 電殿は、大殿の枕に頼る事で、それをどうにか耐えているのだろう。

 枕を抱え、赤子のように丸まる姿を想像させられ、某まで寂寥感を覚えていた。恐らく、鹿島殿も……。

 

 ところがどっこい。

 次の言葉で、彼女は恐怖に顔を歪ませてしまった。

 

 

「枕から知らない(ひと)の匂いがするのです」

 

(……くぁwせdrftgyふじこlp!?)

 

 

 両手で口を覆い、全身を硬直させる鹿島殿。

 叫ばなかった事を褒めるべきであろう。某、ちょっと漏らしそうだった。

 たった一度。ほんの数分間、頭を乗せただけの匂いを感知するとは、犬の中でも飛び抜けて優秀な……警察犬レベルでなければ無理だと思われる。

 電殿、恐るべし。

 

 

「今までこんなこと無かったのに……。侵入者……? 一体、誰が……」

 

(ぁわわわわ……。どうしよう、どうしよううううっ!?)

 

 

 パタパタと部屋を歩き回る足音から、電殿の警戒心がビシビシ伝わってくる。

 それに比例して、鹿島殿の混乱も深まるのが分かった。

 しかし――ガチャリ。隣のバスルームが開けられる音を切っ掛けに、ようやく動かなければならないと気付いたようだ。

 

 

(そうだわ、窓! とりあえず窓から逃げよう! この場を凌ぐ事さえ出来れば、なんとでも言い訳できるもの!)

 

 

 本当に最小限の、蚊の鳴くような声で呟いて、細心の注意を払いつつ、鹿島殿はトイレの窓を開けた。

 前座の蓋へと足を乗せ、できるだけ音を立てないよう、窓の外へ身を乗り出す。

 んが。

 

 

(あれ。あ、あれ? お尻が、つっかえて……!?)

 

 

 小柄な女性とはいえ、トイレの窓は狭過ぎたのだろう。

 鹿島殿の尻……というか腰が引っ掛かってしまった。

 ジタバタする度、窓枠が軋む。

 

 

「誰か、居るんですか?」

 

(ひっ!?)

 

 

 音を聞きつけ、電殿が呼び掛けてくる。

 鹿島殿は更にジタバタ。窓枠ギシギシ。尻がポユンポユン。

 これはもう、ダメであろうなぁ。

 さらば。某の番犬としての信頼度。

 さらば。三歳児までの健康をサポートしてくれるカリカリのドライフードよ……。

 

 

「御用改めなので……す?」

 

 

 バタン! と、激しい音を立ててドアが開く。

 立っていたのは、電球柄のイラストの描かれた、黄色いパジャマを着る少女。

 手に風呂掃除用のブラシを持つ、電殿だった。

 

 

「よ、ヨシフちゃんと……お尻?」

 

 

 彼女は厳しい表情を浮かべていたが、某たちを見て逆に困惑したようだ。

 スリッパを咥えてお座りしている犬と、ジタバタし続ける婦女子の尻。

 ……うむ。某であっても狼狽えると思う。

 

 

「そのスカート……。もしかして、鹿島さん、ですか?」

 

「っ!? ……ワ、私ハ鹿島ナド トイウ名前デハ アリマセーン。トト、トイレ ノ妖精デース」

 

「いくらなんでも、その設定は無茶なのです」

 

 

 正体を言い当てられ、鹿島殿が金剛殿っぽい抵抗を試みるも、あっさり切り捨てられる。

 それで諦めがついたのか、ジタバタしていた足がダランと垂れ下がり、下半身だけの姿から哀愁が漂い始めた。

 

 

「ううう、ごめんなさいぃぃ……。どうしても、提督さんのお部屋に入ってみたくて……。出来心だったんです……。謝りますから、助けて下さぁい……」

 

 

 きっと涙目になっているであろう鹿島殿の声で、電殿はなんとも微妙な顔付きに。

 苦味と酸味と甘味を一緒くたに味わったようなそれも、この状況では仕方ないだろう。

 方や、電殿には負けないと誓っておきながら、舌の根も乾かぬうちに醜態を晒すという有様。

 方や、大殿と離れ離れという苦境に立たされ、悲しんでいる真っ最中、窓枠にハマった桃尻を眺めている。

 酷い。改めて整理すると酷いぞこれは。

 

 

「えっと……。とりあえず、押せば良いですか?」

 

「は、はい。お願いしま――ぁんっ! ちょ、あの、お尻鷲掴みは、ひゃふっ!」

 

「すみませんっ、あ、あの、そんなつもりじゃ……!」

 

 

 とりあえず、某は無言でトイレの外へ。電殿と立ち位置を入れ替える。

 何はともあれ、鹿島殿の脱出に力を貸そうとする彼女であったが、手の置き場が悪かったか、艶っぽい喘ぎ声が響いた。

 ふむ。鹿島殿は尻が弱い、と。覚えたぞ。いや覚えてどうする某。

 

 

「じゃ、じゃあ、脚を引っ張ってみますから。う~ん……っ」

 

「ぐぇっ。ご、ごめんなさい、今度は胸が、窓枠につっかえ……!」

 

 

 それならば、と鹿島殿の両脚を脇に抱え、思いっきり引っ張る電殿であったが、尻に続いて別の出っ張りが障害となってしまったようだ。

 何故であろう。電殿の後ろ姿に、怒りの気配を感じた。触れないほうが良さそうである。

 

 

「すみません、鹿島さん。電だけでは、どうしようも無いみたいです。ちょっと人を呼んで――」

 

「お願いやめてっ!? なんでもしますからそれだけはっ!?」

 

「……な、なら、表に回ってみますね。あっちから引っ張れば、もしかしたら……」

 

「はい……。お手数をお掛けしますぅ……」

 

 

 某からすれば、別に見捨てても問題なさそうに思うのだが、人の良い電殿は最後まで付き合うようだ。

 腑に落ちない表情を浮かべつつも、某の横を通って部屋を出る。

 一瞬、ついて行こうかと思ったけれど、下手に動いて刺激するのは得策ではない。

 大人しく鹿島殿の尻を眺めて待とう。

 

 

「うう……。どうしてこんな事に……。宴会ではボロを出さずに済んだのにぃ……」

 

 

 何やら尻がボヤいているが、自業自得だと某は思う。

 ただ単に大殿の部屋へと入り、その枕に顔を埋めたかっただけなのだから、素直に鳳翔殿にでも言って入れば良かったのだ。

 犬だから理解できない部分なのだろうが、何故そうしなかったのか本当に理解に苦しむ。

 

 

「あ、電さん? とっても申し訳ないんですけど、出来るだけ早く、脱出……を……」

 

 

 ……ん? 鹿島殿の言葉が尻すぼみになったな。

 おそらく、電殿が外を回り込んできたのだろうけれど……?

 どうにも気になり、便座のフタの上へと移動。タンクに前脚をかけて窓の向こうを覗き込んで見れば、そこには電殿の頭と、予想だにしない人物がもう一人。

 

 

「どーもー。おはようございます、鹿島秘書官! 青葉型重巡洋艦の一番艦、青葉です! お困りのようでしたので、お手伝いに来ました!」

 

「ごめんなさい、一番見つかっちゃいけない人に見つかっちゃったのです……」

 

 

 ビシッと敬礼してみせる、セーラー服の彼女――青葉殿は、実に楽しそうな笑みを浮かべて鹿島殿を見ていた。

 電殿の顔は見えないが、声から察するに、きっと苦虫を噛み潰したような顔をしていると思われる。

 はて。どうしてそのような物言いをするのか。分からぬ。

 

 

「あ、青葉さんって、もしかしなくても、コラムを書いてらっしゃる……?」

 

「はい。そうですよ? けど、ご安心下さい! この事は内密にしますので。その代わり、鹿島秘書官と“お近付き”になれたら、青葉、とっても嬉しいんですが……」

 

 

 鹿島殿は、何故か身体を震わせつつ問い掛ける。

 対する青葉殿は笑顔を崩さず、朗らかに交友を深めようと申し出た。

 ほんの少し含みを感じた気もするが、気のせいであろう。青葉殿が妙なことをするはずがない。

 皆に隠れてオヤツをくれる娘は良い娘なのだ。うむ。

 

 

「も、もちろんですよぉ~……。宜しく、お願いします……」

 

「わーい! 青葉、感激ですー! それじゃあ、チャチャっと脱出しちゃいましょー!」

 

 

 鹿島殿の歯切れの悪さなど気にせず、青葉殿は満面の笑みで救出活動に移った。

 なんだかんだと騒がしい朝であったが、終わり良ければ全て良しとよく言う。

 某の失態も誤魔化せ、鹿島殿には友人が増えて、めでたしめでたし。

 この調子で、某を囲む少女たちのあれこれも、万事めでたく転がってくれれば良いのだが。

 四角いトイレの窓に切り抜かれる、明け方の空を見上げながら。某は、そう願ってやまないのだった。

 

 ……時に皆々様。

 朝食はまだであろうか? 某、お腹空いたでござる。

 

 

 

 

 

「うーむ。鹿島秘書官、身体の向きを変えてもらえますか? 横向きならなんとか……」

 

「じゃあ、電は下の方の手を引っ張りますね。鹿島さん、いきます!」

 

「お願いしま――あ、待って、スカートが窓の鍵に、ちょっと待、脱げ、脱げちゃいますうぅ!?」

 

 

 

 

 




「いやー、今朝は大変失礼しました。それで早速なんですが、インタビューさせて貰っても良いでしょうか? 舞鶴艦隊の美人秘書官姉妹についてお聞きしたいんですけども……?」
「えっ。び、美人だなんて、そんな……。私なんか、香取姉と比べたらまだまだで……。でも……」
「でも?」
「お話しするの、食後の運動を終えてからで良いでしょうか? 無駄かも知れませんけど、ちょっとダイエットしてみたくて……」
「……あ、了解しましたー。ではまた後ほどー」

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