新人提督と電の日々   作:七音

91 / 107
異端の提督と舞鶴での日々 “キガン”の渾名・その四

 

 

 

 戦いを終え、統制人格たちとの同調が切れた途端、桐林を包んでいた冷却服の関節部から、青いジェルが溢れ出た。

 待機していたロッカーケースのマニピュレーターが、役目を終えた冷却服を回収し、上半身を覆っていた装具も持ち上がって行く。

 解放された彼の顔は、肩口まで伸びた髪も、吐息すら含め、まるで蝋人形のように白い。

 手首から先は逆に、黒いインナーとの境目が分からなくなるほど変色してしまっている。皮膚全層の壊死――第三度の凍傷だ。

 全体から煙が湧き出て見えるのは、体温が異常なほど低くなっており、周囲の空気を冷やしているからであろう。

 二mは離れている香取にも、底冷えする冷気が襲い掛かっている。

 

 

「う、ぐ……っ、ぁあ……」

 

「提督! 大丈夫ですかっ? 提督!?」

 

 

 苦悶の声に、香取は今にも泣き出しそうな顔で縋り付く。

 彼を浮かべていたアームが床へ収納され、完全に支えを失う前に、彼女はジェルで濡れた身体を抱きとめる。

 冷たい。氷の彫像を抱いているようだった。

 

 

「問題、無い……。いつも通り、だ……っ、く……」

 

「それは、そうですが……っ。疋田さん、後をお願いします!」

 

「了解です、早く桐林提督をっ」

 

 

 気丈夫な返事をする彼だったが、益のない強がりである事は明らか。

 半艤装状態の怪力で桐林を背負う香取が、指揮を栞奈に預けて仮眠室へ。

 自動ドアをくぐり、更に奥の自動ドアをもう一枚。そこは浴室にも見える場所であり、バスタブが灰色の液体を湛えている。

 壁際のタッチパネルを操作すると、その液体は一瞬でジェル状となり、緑の蛍光色に変化。

 一度、バスタブの縁へ桐林を腰掛けさせ、動かすことの出来ない脚から、ゆっくりとジェルの中に浸からせていった。

 

 

「い゛ぅぐ!? あ゛ぁ、あ、あ゛……っ」

 

「我慢して下さい、すぐに良くなりますから」

 

 

 ピリピリと、香取の腕に微弱な電気が流れる。桐林が目を固く閉じ、歯軋りして耐えている。

 濡れた手で電池を触った時のような、本当に微弱な電流だが、今の彼にとっては、全身を針で貫かれているに等しい。

 そうしなければ、もっと長く苦しむのだと分かっていても、辛い仕事だった。

 

 

(やはり、霊子戦闘後の発作が少なくなった代わりに、凍傷の深度は深くなって来ている……。いくら再生すると言っても、これでは……)

 

 

 桐林が霊子戦闘を行う際、副作用として、急激に体温が上昇してしまう。放っておけば生死が危ぶまれる域まで。

 彼と梁島が得た人外の再生能力は強大だが、これが脳細胞にまで働くかは分かっていない。

 それ故、なんらかの手段で強制的に体温を下げた方が良いだろう、と開発されたのが冷却服であり、着用者を文字通りに強制冷却する機能を持つ。

 最初はただ、凍えたり霜焼けになるだけで済んでいた。

 しかし、一ヶ月ほどで霊子戦闘時の平均体温は著しく上昇し、それに応じて冷却機能も強化された結果、戦闘後には身動きが取れないほどの凍傷を負うようになったのだ。

 冷却服を循環していたジェルは、微弱な電気を流すことで温度を変化させる特性があり、桐林が浸かっている緑色のジェルは、その設定温度を通常の平均体温近くで固定、“傀儡艦用の高速修復触媒”を混ぜたものである。

 

 モルヒネすら効かなくなった代わりに、こんな物が効いてしまうほど、桐林は人間を逸脱した。

 情報収集用プラグが身体に開けた穴も、どす黒く変色していた指先も、二十分としない内に完全回復する。

 そして彼は今、傷が急速に治る事で感じる激痛と痒みを、無言のまま耐えている。傷付く時よりも、治っていく時の方が何倍も辛いと、香取も知っている。

 いつだったか、オイゲンから報告された共感性ゲシュタルト崩壊。

 ひた隠しにして来た己の意思が漏れ出していると、彼自身が気付けない理由は、彼女らが報告しないからだけではない。

 凍傷を負うほどの寒さに耐え、それが皆へ伝わらぬよう、戦闘指揮を執る事で手一杯だからだ。

 

 

「はぁ……っ、あ゛、は……う、ぁあぁ……」

 

 

 ゆっくりと血色を取り戻し、苦悶の表情から、疲れ果ててはいるが、穏やかな顔へと変わっていく桐林。

 香取の心は反比例して重くなっていくけれど、それをおくびにも出さず、彼女は紫色の手を両手で握る。

 

 

「提督。作戦は成功です。重巡棲姫の撃破、お見事でした」

 

「……成功……? どこが、だ……」

 

「え?」

 

 

 吐き捨てるような掠れ声に、香取が首を傾げる。

 個体数すら把握できていない、上位深海棲艦という存在。捕獲できなかったのは確かに槍玉に挙げられるかも知れないが、それは承知済み。

 立ちはだかっていた大きな壁を突破したのだから、喜んで良さそうなものを、何故。

 

 

「駄目なんだ……。こんな、“力”に頼る、ばかりじゃ……。使えば、勝てて、当たり前……。でも、それじゃあ駄目なんだ、よ……」

 

 

 微かに左眼を開け、すぐにまた閉じる。

 舞鶴事変で桐林が得た、恐らくは上位深海棲艦の瞳。起こり得ない奇跡を、無理やり引き寄せる“力”。

 そう。確かに勝てて当たり前だ。だが、なぜ彼がそれを言うのか。よりにもよって、“力”の代償に箝口令を敷いた彼が。

 奇跡に頼らず戦おうとするなら、まず話さねばならないのに。彼女たちの安全は、桐林が魂を削って確保しているのだと。

 これを知らぬまま、“力”に頼り切った現状を変える事など、出来るはずがない。

 

 

「分かっておいでなら、どうして皆さんへ御教えにならないのですか。こうまでして守っている事を。

 今の艦隊運用は、提督の御力を前提に成り立っています。それを御自身で否定なさるなど、矛盾しています」

 

「……そう、だな……。自分は、矛盾ばかり、抱えて。どうしようもない、馬鹿だな……」

 

 

 香取の鋭い指摘にも、桐林は苦笑を浮かべるだけ。

 矛盾。

 全てを貫く矛と、何物にも貫かれない盾。

 ぶつけ合わせれば砕け散ってしまうそれを、彼は両手で振るっている。

 なんとなく使った言葉であったが、今の彼を言い表すのに適切な表現だった。

 

 

「教えるのだけは、駄目だ。

 冷却服は、“力”を使い熟せていないから、使っている、だけ。

 もっと慣れれば、使わずに済む……。

 だから絶対に、何があっても知らせるな。今まで、通り」

 

「……どうして、ですか。どうしてそこまで……」

 

 

 痛みが和らいだのか、先ほどまでより幾分か明瞭に、桐林が言う。

 堪らず、顔をしかめて問い返す香取。

 しばらく、迷うように沈黙してから、彼は繋がれていた手を解き、香取の頬へと添える。

 

 

「その表情が、嫌いなんだ。出来れば、見たくない」

 

 

 まだ、人の体温にしては冷た過ぎる指。

 無骨な感触のそれが、色のついた体温調節用ジェルではなく、透明な雫――涙で濡れた頬を拭う。

 自分が泣いていると意識した瞬間、香取はいよいよ、我慢できなくなってしまった。

 

 

「また、矛盾していますよ……。お嫌いならっ、どうして御自分を痛め付けるように戦うのですか! 私は、私だって、貴方の苦しむ姿なんか! なんで……!?」

 

 

 添えられた手に己の手を重ね、香取が咽ぶ。

 この表情が嫌いだと言う。見たくないとまで言う。

 だったら、どうして改めてくれない。愛する人が自傷する姿を見せられて喜ぶ女なんて、この世界のどこに居る。

 私は含まれていないのか。私だったら泣いても、傷付いても構わないのか。

 そんなの、堪らない。こんな事、耐え続ける自信がない。

 

 溜め込んでいた感情が、好き勝手に言葉となり、爆発する。

 秘書官として。桐林の全てを知る者として、一人抱え込んでいたものが、時限爆弾のように。

 しかし、彼は。

 

 

「もう……。香取ぐらいにしか、甘えられないからな。頼らせて、欲しい。……駄目か」

 

 

 こんな事を、言うのだ。

 真っ直ぐに香取を見つめ、他の誰にも見せないであろう、弱々しい顔で。

 胸が苦しい。締め付けられたり、張り裂けたりするどころじゃない。

 なんて男。

 この気持ちを、知っている癖に。そんな風に言われたら、何も。

 

 

「貴方は、酷い御方です。卑怯です。最低です」

 

「あぁ……。すまない、ごめん。許、し……」

 

 

 眼を閉じ、大粒の涙を零し続ける香取に、桐林は微睡みながら、謝罪を繰り返す。

 やがて、身体が目に見えて弛緩し、疲労から眠りに落ちたのだと分かる。

 

 本当に、ろくでもない男だ。

 身勝手で、優しくて。

 秘密主義なのに、隠し切れなくて。

 真摯であるはずが、答えをはぐらかされてばかり。

 あぁ、それでも。

 

 

「提督」

 

 

 強くて弱い、彼が。

 どうしようもなく、愛おしい。

 

 顔がジェルに落ちないよう、香取は桐林の身体を支え。束の間の安らぎに揺蕩う彼と、額を合わせた。

 吐息と体温を、間近に感じる。

 あと十分もすれば、彼は目を覚ます。

 仮眠室へ戻り、出撃していた仲間たちが戻るまで、気を休めず待ち続ける。

 そして必要とあらば、また、手脚を腐らせながら戦うのだろう。

 

 

(せめて、今だけは。この一瞬だけでも)

 

 

 香取は祈る。

 たとえ束の間でも、彼の心が安らいでくれるよう。

 そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 鈴生りの果実。

 恐ろしく暗い、海の底を思わせる場所に、その輝ける植物は生えていた。

 基準となる物が周囲に有らず、大きさすら判然としないが、強いて言えばマスカットに似た果実は、自ら光を発して存在している。

 

 どれ程の時間が流れたのか、不意に果実は明滅を繰り返し始めた。

 最初は全体が蛍のように。

 やがて根元から光が失われ、一つ、また一つと、果実自体もどんどん枯れていく。

 そうして、最後の一粒。

 先端に残された果実まで輝きを失うかと思われたが、しかしその一粒は、他の果実から養分を吸収でもしたのか、目を眩ませる閃光を放ちながら、肥え太る。

 

 果実の内側に、人影が見え始めた。

 人と呼ぶには、脈動する触手のような影が余計だが、とにかく急激に成長したらしい“それ”が、手脚を必死にバタつかせる。

 やがて、“それ”を覆っていた果実の膜が破れ、中身が溢れた。

 

 

「ッガフ!? ゴホ、ゴホ……!」

 

 

 常闇へと落ちる事もなく、存外近かったらしい床――なのかどうかも分からない漆黒だが――で、薄緑の粘液に塗れてえずくのは、腹から二本の触手を生やす、一糸纏わぬ少女。

 桐林とビスマルクが討ち果たしたはずの、重巡棲姫だった。

 自らの触手に寄り掛かり、どうにか立ち上がろうとする彼女だったが、脚は産まれたばかりの子鹿のように覚束ない。

 やっと立ち上がったかと思えば、粘液に滑ってまた倒れ込む。

 

 

「御無事ですか、重巡棲姫様」

 

 

 いや、倒れ込む寸前に、手が差し伸べられた。

 黒いコートの袖に包まれた腕の主は、重巡棲姫と似た雰囲気を持つ深海棲艦。戦艦レ級だ。

 

 

「アァ……。レ級、姉サマ。イラシテ イタノ、デスネ」

 

「はい。ずっと見ていましたよ。“彼”の戦いからは目が離せませんから」

 

 

 どこからともなく取り出した、純白のシーツで重巡棲姫を包み、彼女は微笑んだ。

 その手を助けに、今度こそ立ち上がった重巡棲姫は、シーツごと己の身体を触手たちで巻き上げる。

 肉を挽くような、布を裂くような、鉄を擦り合わせるような。奇怪な音が数秒。

 触手が解かれると、そこには桐林艦隊と相対した時と、寸分違わぬ状態の重巡棲姫が立っていた。

 

 

「依り代とはいえ、躯体を壊されたのは初めてでしたね。どうですか? 擬似的に“殺された”気分は」

 

 

 完全に甦生された事を確認し、レ級が慇懃無礼にも聞こえる問い掛けをする。

 が、重巡棲姫はその態度を責めるどころか、目上の者に対する礼儀正しさで返す。

 

 

「奇妙ナ、感覚デシタ……。

 何モカモ カラ解放サレル ヨウナ、浮遊感。ソシテ、魂ヲ囚ワレル ヨウナ、閉塞感。

 生キ還ル トイウノハ、コンナニ苦シイ モノ ナノデスネ……」

 

「その様で。世界でも僕らだけでしょうね、死ぬ事よりも、生き還る事の方が辛いと知っているのは」

 

 

 感慨深く、両の手を握り締める重巡棲姫。

 彼女は確かに死んだ。死にはしたけれど、双胴棲姫のように成熟直後では無かったのが幸いした。

 桐林との戦闘後に回収され、また産まれ直したのだ。他の深海棲艦には無いこの不死性が、“姫”の特徴でもある。

 北方棲姫はそもそも産まれる前だったので、この範疇には収まらない。

 

 

「それはさて置き。姉サマという呼び方は、どうにかなりません?」

 

「オ嫌、デスカ?」

 

「嫌という訳じゃないんですが、なんというか、こそばゆくて。先達ではありますけど、僕なんか下位の存在ですし」

 

「私ハ、ソウハ思イマセン。コノ素晴ラシイ躯体ハ、姉サマ ガ居ナケレバ産マレマセン デシタ。私ガ、活カセテ イナイ ダケデ……。モット姉サマ ノ、卑猥ナ触手捌キ ヲ学バナイト!」

 

(褒めてるつもりなのかな、この子は……)

 

 

 むんすっ、とガッツポーズをして見せる重巡棲姫に、レ級は酷く心外な顔だ。

 まぁ、艤装の動きを卑猥と評され、喜ぶ女(?)もそう居ないだろう。

 余談だが、重巡棲姫とレ級の関係は、人間で言う所の姉妹というより、親子に近い。

 未だ三分の二が空席である“姫”級。

 その座へとレ級の組成情報を流し込み、より純化。余計な情報を削ぎ落とした結果として、重巡棲姫が産まれたのである。

 また、重巡ネ級もレ級から産まれた存在であるが、あちらは劣化コピー、雑多なクローンと言った方が正しく、働き蟻に近い。

 

 

「というか、言葉に淀みが無くなってませんか? 前より抑揚がハッキリとしていますし、語り口も落ち着いてもいるような……」

 

「……言ワレテ ミレバ」

 

「きっと、“彼”と切り結んだのが原因でしょうね。“死”という経験によって、最適化が急激に進んだんでしょう」

 

「ナラバ、アノ男ト戦イ続ケタラ、私ハ……ドウナル ノ デスカ?」

 

 

 レ級からの指摘に、重巡棲姫と二本の触手が小首を傾げた。

 まだ、彼女が産まれてから三カ月。

 本来ならば不要な対話機構であるからして、数年、いやさ数十年を掛けて最適化が行われるはずが、わずか数回の交戦で、より人に近しい存在となっている。

 これは驚くべき事なのだ。

 例えるなら、人間の進化の過程からアウストラロピテクスを除外し、一足飛びに類人猿から人類へと進化したようなもの。

 意図的にではなくとも、間接的接触で、ミッシングリンクに類する突然変異を引き起こす、あの“男”。

 重巡棲姫の、純粋な好奇心と、微かな恐怖を混ぜ合わせた問い掛けには、しかし意外にも、悪い意味で適当な返答がなされた。

 

 

「さぁ、分かりません。

 “彼”こそ、不可能、不可解、不条理の結果らしいですからね。

 僕たちに対し、どんな影響力を持っていても不思議ではないでしょう」

 

「アノ男ハ、一体……?」

 

「いずれ、全てが明らかになりますよ。

 “母”の意思も、天変地異で人類をこの星に留める理由も、出来レースを続ける意味も。

 それまで僕たちは、ただ従っていれば良い。でしょう?」

 

「……ソウ、デスネ」

 

 

 彼女らの――深海棲艦の正しい在り方を説かれ、重巡棲姫は頷く。

 納得できていないという感情が、ありありと顔に描き出されている。

 それで良い。それこそ、レ級が求めた反応だ。

 

 

(この子の中には好奇心が芽生えている。

 北方棲姫もそうだったが、これは深海棲艦には無い仕様。

 もっと考えなさい。もっと疑いなさい。

 その先に、この星の未来があるのですから)

 

 

 触手と戯れる、妹とも、娘ともつかない少女を見守りながら、レ級はほくそ笑む。

 己の企みが、もしかすれば、“母”の思惑通りかも知れないという考えに至りつつ、なおも。

 全ては、輝ける明日の為なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《オマケの小話 月の光と日本酒と》※鹿島さんは出ません

 

 

 

 

 

(あ~ぁ……。どうしよう)

 

 

 重巡棲姫との戦いから二日後の、深夜の桐林艦隊舞鶴庁舎。

 黄色いスクリュー柄のパジャマの上に、薄手のカーディガンを羽織る照月は、一人、常夜灯が灯る廊下を歩いていた。

 理由は単純。眠れないからだ。

 出撃任務を終えた統制人格には、必ず数日間の休息を取る決まりになっている。

 あわや轟沈かという憂き目にあいつつ、死線をくぐり抜けた照月も、もちろん休息期間にあるのだが、昨日に続き寝付けない。

 そんな訳で、対面のベッドで眠る秋月を起こさぬよう、コッソリ部屋を抜け出し、トボトボと寂しく、当て所も無く散歩していたのだが……。

 

 

「ひゃっ。……あれ? 提督?」

 

 

 通り掛かった部屋のドアが突然開き、小さく飛び跳ねてしまう。

 現れたのは、頭一つ分以上も背の高い、白いワイシャツとズボン姿の男性。

 漆塗りの手桶を持った、桐林だった。

 

 

「なぜ起きている。休息を義務付けたはずだが」

 

「あう……。ご、ごめんなさい。私、帰ってから、その……。夜になると、目が冴えるようになっちゃって……」

 

 

 薄明かりの中、鋭く細められた右眼に、照月が萎縮しながら言い訳を始める。

 本当の事なので、言い訳と称するのは可哀想かも知れないが、どうにも、そういう雰囲気が放たれていた。

 秋月型最初の喪失艦となった彼女は、二三○○から○二四○にかけて、その身を海へ沈めていった。

 先の戦闘で致命的な雷撃を受け、この記憶がフラッシュバックするようになったのだ。

 言われずとも察したらしい桐林が、気不味く廊下で立ち竦む。

 照月本人も気不味い思いをしていたけれど、ふと気になり、手桶の中身に注視した。

 

 

「それ、お酒ですか?」

 

「ああ。寝酒にな」

 

 

 彼が持ち上げるその中には、様々な品が入っていた。

 五合瓶と小さな壺。金継ぎが施された江戸切子のショットグラス。ぐい呑み。おしぼり。小皿が二枚に箸一膳。

 これからどこかで、一杯やるのだと分かる。

 盃が二つあるのは変だけれど、特に、照月はショットグラスに関心しきりだ。

 細工の精妙さも然る事ながら、青い下地に不規則な金色の筋が入り、味わい深い盃へと仕上がっている。

 

 

「眠れないなら、付き合うか」

 

「へ? ……ええっ!? で、でも、私って一応、未成年的な見た目だし、お邪魔なんじゃ……」

 

「統制人格に飲酒の制限は無いだろう。……無理にとは、言わんが」

 

 

 それをどう思ったのか、彼は照月を飲みに誘う。

 意外や意外。予想外にも程がある誘いで、慌てふためく照月。

 しかし、言葉尻から微かな寂しさも感じられ、長々と迷った挙句……。

 

 

「そ、それじゃあ……。お供させて、頂きます」

 

「ん」

 

 

 全くもって興味の無い酒宴の誘いを、受けていた。

 桐林が満足そうに歩き出し、三歩後ろを照月が追い掛ける。

 エレベーターで最上階の展望ラウンジに向かい、そこから更に階段で上へ。万が一の襲撃に備え、直接庁舎内へ降りられないようにしてあるのだ。

 ヘリポート 兼 屋上に繋がるドアをカードキーで開けると、まだ肌寒く感じる夜風が、カーディガンを揺らす。

 

 

「私、夜に屋上へ来るの、初めてです」

 

「そうか。まぁ、鍵が掛けられるからな」

 

 

 庁舎の右と左で、二機同時に発着が可能なヘリポートを横目に過ぎ、監視用小型レーダードームが置かれる高台へ、桐林は軽々と跳躍。照月はえっちらおっちら、梯子を使って登る。

 見兼ねた彼が手を差し出し、その手を借りて梯子を登り切ると、眼下には絶景が広がっていた。

 

 

「わぁ! 舞鶴の街が綺麗……」

 

 

 雲が多く、あいにくと月や星は見えないが、代わりに地上の星が瞬いている。

 高層ビル。街頭。わずかな車のヘッドライト。

 特に意識したことは無かったけれど、この明かりを守る為に戦っているのだと思えば、一層輝いて見えた。

 

 感動する照月の背後で、桐林は酒宴の準備を進める。

 と言っても、手桶から五合瓶や壺、グラスに小皿などを並べるだけ。

 最後に、壺の中身である梅干しを小皿へ取り分け、ハンカチを敷いて照月の座る席を作れば完了だ。

 

 

「照月。ここに座れ」

 

「そ、そんなっ、ハンカチが汚れちゃいますっ」

 

「だからだ。付き合わせておいて、服を汚す訳にはいかない」

 

 

 恐縮する照月を他所に、桐林は地べたに腰を下ろしてしまう。

 断っては逆に恥をかかせてしまうと判断し、照月も彼の右隣へ。

 

 

(なんだか、お、大人のデートをしてるような気分……。って、私ってば何を考えてるの!? 提督が私なんかに興味を持つわけ、無いんだし……)

 

 

 夜景を眺めながら、二人きりで酒を酌み交わす。

 確かにデートと言えなくもないが、桐林はなんとも思っていないようで、ぐい呑みを無言で手渡してくる。

 反射的にそれを受け取り、透き通った液体が注がれる様を見つめる照月。

 彼もまた、ショットグラスに手酌。盃を掲げて乾杯の代わりとした。

 

 

「い、頂きます」

 

 

 一息でグラスを半分ほど空にした桐林。続いて、照月がぐい呑みを傾ける。

 果物のような香りが鼻に抜け、舌を奇妙な味が刺激した。

 甘味、辛味、まろ味……。複雑過ぎて、イマイチ美味しいと感じられない。

 

 

「何が良いのかよく分からない、か?」

 

「あ、えと、そんな事は……。ちょっと、だけ」

 

「安心しろ。自分も味が分からん」

 

「え。じゃあなんで?」

 

「冗談だ。段々と慣れて、ゆっくり分かっていくんだ」

 

 

 能面かと見紛う顔で、桐林が指でつまんだ梅干しを囓っている。

 そんな風に言われても、冗談だと分かる訳がないのに――と、同じく梅干しを囓り、照月は顔をしかめた。

 恐ろしく酸っぱい。何故これを平然と食べられるのか。

 

 

「一つ、言い忘れていたことがあった」

 

「はい。なんでしょう」

 

 

 梅干しの酸っぱさを日本酒で洗い流し、「あ、これは良いかも」とか思いつつ、照月が左を振り向く。

 片膝を立て、また手酌する桐林は、街の遠景を見つめたまま、素っ気なく言う。

 

 

「先の出撃での対空戦闘、見事だった。これから当てにするぞ」

 

 

 ぽかん。

 思わず、大口を開けて硬直してしまう照月。

 無反応を訝しみ、今度は桐林が振り向いた。

 そして、驚愕し続ける顔を見やり、眉をひそめる。

 

 

「なんだ。驚くような事か?」

 

「はっ。いえいえいえ、でも……。提督には、その、怒られた記憶しかなくって……」

 

「………………」

 

 

 ハッとし、慌てて片手を振りまくる照月は、俯き加減にその理由を呟く。

 出撃前の会議室での一件もそうだが、励起されてこの方、叱られたり怒られたりした記憶しかない。

 帰って来てからの反省会は元より、面と向かって褒められた事は皆無。驚くのも仕方ない、と思うのである。

 しばらく無言が続き、「また変なこと言っちゃった……」と照月が後悔し始めた頃、彼はようやく――

 

 

「別に、好きで怒っているんじゃない」

 

 

 ――と、ぶっきらぼうにグラスを呷った。

 なんとなく。本当になんとなくだが、その横顔は、不機嫌そうに見えて。

 いや、不機嫌だと少しオーバーか。不貞腐れる、とも違う。ならば……。

 

 

「……提督。もしかして、拗ねてます?」

 

「知らん」

 

 

 もしや、と尋ねてみれば、これまたヘソ曲がりな返事。

 拗ねている。どう考えたって、拗ねている。あの桐林が。

 驚き桃の木山椒の木、というのはこういう場合に使うのだろう。

 

 

(提督にこんな一面があるなんて、考えてもみなかったなぁ……)

 

 

 日本酒のおかげか、それとも夜景の美しさのせいか。

 今日の彼は、いつもよりほんの少しだけ、気が緩んでいるような気がした。

 

 誉れ高い軍人、“帰岸”の桐林。

 強面で、自他共に厳しい、“鬼眼”の桐林。

 誰より皆の無事を強く祈り、心から幸せを願ってくれるという、“祈願”の桐林。

 ショットグラスを片手に、拗ねながら梅干しを囓る、ただの桐林。

 

 色んな彼が居るのだと、そんな当たり前の事を知って、何故だか照月は嬉しくなった。

 段々と慣れて、ゆっくり分かっていく。

 悪くない。

 

 

「あ。雲が晴れて……」

 

 

 突然、周囲が明るくなったように思え、照月が空を見上げる。

 雲の切れ間から、満月が覗いていた。

 陽光を反射し、柔らかく地上を照らす、月が。

 

 

「……提督」

 

「なんだ」

 

「月が、綺麗ですね」

 

 

 気が付けば、見惚れながらそう呟いていた。

 少々ナルシストっぽい? とも思ったが、名前に同じ字が入っているだけだし、きっと大丈夫。……だと助かる。

 桐林も同じ物を見上げ、感嘆の吐息を漏らした後、微かに呟く。

 

 

「ああ。もう死んでもいいな」

 

「えっ!? な、なに言ってるんですかっ、死んだらダメです! そんなの絶対に、ダメですっ!!」

 

 

 ――が、その内容はあまりに唐突で、また驚いた照月は桐林へと詰め寄ってしまう。

 せっかく新しい面を知る事が出来たのに。

 やっと仲良くなれるかも、と思い始めたばかりなのに、そんなの困る。

 真剣に、大真面目に怒る彼女だったが、しかし彼は肩をすくめるばかり。

 

 

「やっぱり、君も知らないか」

 

「はい? あの、何を……?」

 

「後で秋月に、言葉の意味を聞いてみると良い。そら、もう一献」

 

「ぁ、お、おっとっと……」

 

 

 五合瓶を差し向けられ、照月が反射的にぐい呑みで受ける。

 誤魔化された? どうして秋月姉の名前が? というか今、笑っていたような。

 様々な疑問が頭をよぎり……。でも、この場で問い質すのは無粋な気もして、ぐい呑みを傾ける事で気持ちを紛らわす。

 どうしてだろう。

 美味しくなかったはずの日本酒が、味を変えているように感じた。

 

 

 

 

 

「ねぇ、秋月姉? ちょっと聞きたい事があるんだけど……。『月が綺麗ですね』って、何か特別な意味があるセリフなの?」

 

「ブッ!? な、ななな、何、を、突然……。まさか照月、貴方も司令にそう言っちゃったの!?」

 

「え、うん。『もう死んでもいい』って返されて、凄くビックリしちゃった」

 

「……あのね、照月。そのセリフはね……」

 

「ふんふんふん。ほうほう。へー、そうなん――――――ぅえぇええぇぇえええっ!?」

 

 

 

 

 




「はあぁぁ……。どうして私が、金剛さんたちを横須賀まで送迎しなくちゃならないの……? 確かに免許は持ってるけど、香取姉のいじわる……」
「そう不貞腐れないで下サイ。こう考えたらどうですカ? ワタシたちを横須賀まで送っていくのデハなく、Youが横須賀まで遊びに行くのだト!」
「……なるほど。それもそうですね! 向こうに行けば、提督さんの昔の写真とかもあるはず……。鹿島、頑張ります!」
「その意気デース! ワタシのテートクCollection、チョットだけなら見せてあげてもいいですヨ? Let's a Go!」
(う~ん……。いいのかな、この子とあの子を会わせても……。メッチャ修羅場りそうなんだけど。ねー吹雪、どう思う?)
(私は少しだけでも寝たいので話しかけないで貰えますかお願いします鈴谷さん)
(お、おぉ……。なんかゴメンなさい……)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告