新人提督と電の日々   作:七音

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異端の提督と舞鶴での日々 進撃の眞理(杏瓊)

 

 

 

 大規模攻勢作戦を明日に控えた、五月某日。

 桐林は、艦隊庁舎二階にある、情報管理室に居た。一四三五を時計の針が指し示している。

 まだ外に日の光が満ちている頃合いだが、窓の無いこの部屋は薄暗い。

 光源と言えば、桐林が寄り掛かるデスクに埋め込まれた、投射ディスプレイ式PCの青いスクリーンセーバーだけだ。

 

 

「里帰りはどうでしたか、疋田さん」

 

 

 そして、その青い光に照らし出される人間が、もう一人。

 デスクに着き、疲れ切った表情を浮かべる、疋田 栞奈である。

 

 

「それがもう、散々でしたよ。

 再会してしばらくは口汚く罵ってた癖に、私が兄さんみたいな調整士になったって聞いた途端、手のひら返しちゃって。

 おかげで帰ってくるのに余計な時間掛かっちゃうし、あんなのが親だと思うと、恥ずかしいです」

 

「……そうですか」

 

「まぁ、ついででしたし。三行半も突き付けてきましたし。この話はやめましょう?」

 

 

 栞奈は今朝まで、艦隊運用の合間を縫い、故郷へと帰っていた。

 桐林の調整士は彼女が専属で勤めており、いつまた敵の襲撃があるかも分からない今、本来ならば休暇など許されるはずもないのだが、彼は強引にそれを推し進めた。

 故郷に錦を飾りたいだろう、というのは建前上の理由で、彼女自身が言った通り、本来の目的は別にある。

 栞奈は懐から、一・五cm四方のキューブ――この時代の諜報機関が用いる、特殊記憶媒体を取り出した。

 

 

「例の病院についての情報です。詳しい事はこちらに」

 

 

 コトリ。キューブがデスクに置かれると、キューブから情報を読み込み始めたPCが、スクリーンセーバーを終了させる。

 瞬く間に、デスクの上には多数のフォルダーが映像として投射された。

 偶然か、あるいは必然か。桐林がフランから受け取った情報にあった、兵藤と関係のあるらしい病院は、栞奈の生まれ故郷にあったのである。

 舞鶴艦隊が編成されて、早三ヶ月以上。上層部の監視の目も緩くなりつつあり、今が好機と判断した桐林は、兵藤 凛についての本格的な調査を開始した。

 無論、栞奈本人が動くと気取られてしまうため、実際に動いたのは別の人間……。舞鶴事変で浅からぬ縁が出来た、陸軍人三羽烏たちだった。栞奈は囮も兼ねていたのだ。

 ほぼ無償で働いてくれた彼らには失礼だが、三羽烏と三馬鹿が掛かっているのは言うまでもないだろう。

 

 

「すみません。貴方にこんな、諜報員のような仕事をさせてしまって」

 

「いえいえ、問題ナッシングです。私も覚悟決めちゃったので、毒を食らわば皿まで、ですよ」

 

「……助かります」

 

 

 元を正せば、栞奈はただの警備員。それが桐林の騒動に巻き込まれ、今では汚れ仕事の手伝いまで。

 心苦しさに、桐林は珍しく弱気な顔を見せるが、帰って来たのは朗らかな笑顔で、オマケに力こぶも作って見せる。

 この明るい人柄に、どれほど助けられているか。

 いくら言葉を尽くしても足りないくらいだが、一先ず礼を言うだけに留め、桐林は投射された情報の確認に移った。

 

 病院の写真や複製ホームページ、勤務する医療関係者や患者の情報など、纏め上げられた情報は多岐に渡る。

 しかし、どれもこれも極普通の情報ばかりで、これといって妙な点は見つけられなかった。

 唯一、桐林の目に留まったのは、とある入院患者と、その親族に関する詳細。

 注釈として、この患者が兵藤の肉親であった可能性が示唆されている。

 

 

「これが先輩の、本当の名前……」

 

「らしいですね。どうも、お爺さんが入院してらしたみたいですが、当時の関係者の足取りは追えませんでした。ほとんどが亡くなっているようです」

 

 

 明記されていた氏名を眺め、桐林は感慨深く呟いた。

 兵藤 凛という偽名とは似ても似つかない名前だが、真実かどうかは疑わしい。

 死亡した関係者も、小林 倫太郎が手を下した可能性がある。

 そうまでして隠蔽する必要があったのか、と言われれば、素直に頷けない部分も。

 情報は得られたものの、活かすにはまだ足りない状態だ。

 間近にある桐林の顔を見つめ、栞奈が尋ねる。

 

 

「どうします。まだ追跡調査しますか」

 

「いえ。とりあえず、ここまでに。明日は作戦の決行日でもありますから」

 

「ですね……。やっぱり、あの“力”を……」

 

「使わざるを得ないでしょう。覚悟しておいて下さい」

 

「……了解です」

 

 

 兵藤からも頼まれている。

 桐林が望むのなら、まだまだ働くつもりの栞奈だったが、首は横に振られた。

 優先すべきは軍務であり、ましてや次の作戦で、彼は間違いなく、あの“力”を使う。

 事前に様々な準備をしておかなければならないし、事後処理の準備にも手間が掛かる。

 万全の状態で挑むには、一先ず調査のことは置いて、戦いへと集中しなければ。

 

 互いに命運を預かる二人は、薄暗い部屋の中、静かに頷き合う。

 と、そこへノックの音が二回。

 

 

「提督、香取です。少々お時間を宜しいでしょうか」

 

「ああ。入れ」

 

「失礼致します」

 

 

 許しを待って入室したのは、クリップボードを小脇に抱える第一秘書官、香取だった。

 が、栞奈の姿を見つけ、はたと彼女は立ち止まる。

 そして、気不味く二人の様子を伺い……。

 

 

「……もしかして、お邪魔でしたでしょうか?」

 

「ちょ、なに言ってるんですか香取秘書官! 無いですから、提督が私に興味持つわけ無いです。ええ、あり得ません!」

 

「そこまで力一杯否定しなくても……」

 

 

 もしや、逢引の邪魔をしたのでは? と考えた香取なのだが、栞奈は椅子から立ち上がり、勢いよく両手を振り回して否定する。

 あまりの力説ぶりに、ひょっとして彼のことを嫌いなのかしら? なんて、今度はそう思ってしまう。桐林も微妙に寂しそうだ。

 ともあれ、本日の秘書官補佐である海風と、執務を代行しているはずの香取が、わざわざここまでやって来たのだ。

 重要な案件なのだろうと、桐林が話を戻す。

 

 

「何かあったのか」

 

「あ。失礼しました。それが、急なお客様が見えられまして……」

 

「お客さん? こんなタイミングで来るなんて、怪しいですね」

 

「はい。私も疋田さんと同じように思うのですが、何分、相手が相手ですから、対応に困っているんです」

 

 

 ほとほと困り果てた、といった風に、香取は頬に手を当てる。

 今ではどんなセクハラ親父にも、笑顔で折檻――もとい、対処できる香取にここまで言わせるとは、よほど厄介な客のようである。

 桐林は重ねて尋ねた。

 

 

「誰なんだ、その客は」

 

「……桐谷中将の御息女。千条寺 眞理杏瓊様と、お付きの方々が数名です」

 

「なんだと」

 

 

 予想外な名前が耳へ飛び込み、桐林の眉が露骨にしかめられた。

 千条寺 眞理杏瓊。

 襲名披露宴の裏で出会い、それきり会う事の無かった少女。

 以前の彼であれば、驚きつつも歓迎しただろうが、今の彼にとっては、酷く扱いに困る来客である。

 

 

「如何なさいますか。今は鹿島に応対させていますが、お帰り頂きますか?」

 

「……いや、会おう。会わずに帰しては、後が怖い」

 

「ですよねぇ……。桐谷中将、怖いですもんねぇ……」

 

 

 関わり合いになりたくない、というのが桐林の本音だ。

 しかし、実際そんな事をしたら、どんな嫌味を言われるやら、想像すらつかない。

 溜め息混じりに、彼はデスクから腰を上げる。

 栞奈もPCを休止状態とし、キューブを回収して席を立つ。

 左隣に香取。背後に栞奈を引き連れて部屋を出る桐林の足取りは、やや重かった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 程なく、桐林一行は庁舎一階の応接室に辿り着き、「失礼する」と一声掛けてからドアを開ける。

 アンティーク調の落ち着いた調度品が目立つこの部屋は、建設時に桐谷が手ずから用意した部屋だった。

 生憎と桐林の趣味ではなかったが、スヴェンを始めとする来客には好評であり、利用頻度も高い。

 入室する彼の姿を見るや否や、応対していたらしい鹿島が、涙目でソファから立ち上がった。

 

 

「提督さん! やっと来てくれたんですね!」

 

「鹿島! もう、お客様に失礼でしょう? 申し訳ありません、失礼な真似を」

 

「はっ。も、申し訳ありませんでした!」

 

 

 その有り様を見ると、よほど緊張していた事は如実に伝わってくるのだが、来客の前では不味い。香取に叱責され、鹿島も慌てて頭を下げる。

 対面のソファに座っていたのは、一人の幼い少女。若草色のワンピースの上に、細かい刺繍の施されたケープを合わせている。

 背後に三人の女性が立ったまま控えていて、内一人は紺のスーツにタイトスカート。残る二人はクラシカルなメイド服を身に纏っていた。

 鹿島たちの背後を周り、上座に置かれた一人用ソファへと腰をおろす前に、桐林が少女に向けて会釈を。

 

 

「お待たせして、申し訳ない。雑務を片付けていたものですから」

 

「いいえ。マリの方こそ、ごめんなさい。急に、来たりして」

 

 

 桐林に合わせて立ち上がった少女――千条寺 眞理杏瓊こと、マリも突然の来訪を謝罪する。

 出会った当初より幾分か背が伸び、髪も長くなっているようだ。

 セミロング、というには少し足りない長さだが、それをバレッタで後頭部に纏めている。仕草や上等な衣服などから、上流階級の人間特有の気品が漂っていた。

 手で「お掛け下さい」と示し、桐林は腰を下ろす。マリが同じように腰を下ろすと、視線は背後の女性たちへ。

 

 

「失礼ですが、そちらの方々は?」

 

「マリの、付き人です。挨拶、して」

 

 

 問い掛けに、マリは女性たちへの指示で返す。

 まず進み出たのは、スーツ姿の女性だ。

 

 

「お初にお目に掛かりますワ。ワタクシ、マリ様の教育係を務めさせて頂いている、近藤、と申します。ドウゾお見知り置きヲ」

 

 

 桐林に向け、優雅に一礼した彼女は、微笑みながら眼鏡の位置を直している。

 髪は茶髪であり、後頭部でシニョンに纏め上げられていた。

 物腰は穏やかだが、どことなく鋭利な雰囲気を感じさせる。

 

 続いて進み出たのは、メイド服の女性二人。

 年の頃を見ると、女性というより少女と言った方が相応しいだろう。

 十代後半から二十代の、黒髪をポニーテールにする少女と、十代半ばといった年頃の、黒のセミロング少女が、ロングスカートをつまんで身体を低く。

 

 

「侍従の鈴山と申します。お噂はかねがね」

 

「ぉ、同じく、侍従のふぶ――っ!? ふ、吹石と申しましゅ! を、をみしゅりおきゅぐ……」

 

「あらあら。いけませんよ? 申し訳ありません、この子は新人なものでして」

 

「す、すみましぇん……」

 

 

 近藤と名乗った女性に習い、鈴山と名乗る年長のメイドは、しっかりと挨拶をこなす。

 一方、年少のメイドである吹石は、辞書の「しどろもどろ」という単語に、参考映像として添付したくなる様子だ。

 

 上品な物腰の鈴山。窘められ、これでもかと萎縮する吹石。無言で微笑み続ける近藤。

 三人の女性を、桐林がジッと見つめている。

 思う所があるのか、右眼は薄っすら細められており、ほとんど睨みつけているに近い。

 奇妙な沈黙が数秒ほどあり、吹石の顔色が土気色になり始めた頃、彼はようやく目礼した。

 

 

「どうぞ、よろしく。宜しければ、お掛けください」

 

「それでは、失礼しますワ」

 

 

 ソファを勧められ、近藤がマリの隣へと。

 鈴山と吹石は、一礼するも、侍従ゆえに立ち続ける事を選ぶ。

 応接室に満ちていた緊張感が解けていき、その瞬間、付き人三人は目で通じ合った。

 

 

(……Yes! バレてないみたいデース! ワタシたちの変装(Disguise)演技(Acting)は完璧ネ! 鈴谷も良い味出してマスよ!)

 

(そりゃあそうっしょー。キャラ変えてる上に、私なんか髪を編み込んで、カツラも被ってるんだし。女は女優って感じ?)

 

(本当にそうでしょうか……。こっちを見る視線がものすっごく鋭かったんですけど……)

 

(それはブッキーがトチったからデース。緊張し過ぎは良くないですヨ?)

 

(そーそー。金剛さんみたく、この状況を楽しむくらいの余裕がなきゃねー。メイド服も意外と着心地良いし)

 

(誰のせいだと……。誰のせいだと思って……!)

 

 

 もうお分りだと思われるが、この三人、横須賀で待機しているはずの統制人格――金剛、鈴谷、吹雪であった。

 事の発端は数日前。

 なんの脈絡も無く電の放った、「司令官さんがまたフラグを立てたような気がするのです」という言葉にヤキモキし続ける、桐林OnlyLoveな高速戦艦の元へと、一本の連絡が届く。

 軍の秘匿回線を通じて届いたそれは、もちろんマリが発した物であり、要約すると以下の通りとなる。

 

 

『今度、桐林さんの所に突撃訪問、するんですが。……御一緒、しませんか?』

 

 

 なんともタイミングの良い申し出に、金剛は一も二もなく飛びついた。

 そして、横須賀艦隊を代理統括していた、赤城などの運営陣で話し合った結果、秘密裏にこの三名が送り込まれたのである。

 人選の理由だが、直接に連絡を受けた金剛は、強烈な自薦によって。

 鈴谷は単に暇だったからで、吹雪の場合、その常識的かつ真面目な性格から、ストッパー役を期待されて、だった。

 ……被害担当、と言い換えても良いだろう。

 

 ちなみに、どうしてマリが金剛に連絡をしたのか。

 襲名披露宴で桐林と接触した人間を把握しておく為、桐谷が記録させていた映像を、攻略の参考までに見た時。とても楽しそうに踊る彼女が、印象に残っていたからだ。

 彼女を味方につけておけば、後々、何かの役に立つかも知れない、という考えもあった。末恐ろしい幼女である。

 

 さて。

 このような経緯があり、金剛は家庭教師風なコスプレと役作りをし、鈴谷は熊野を参考に変装し、やる気のない吹雪は髪を下ろすだけという雑さで、舞鶴に乗り込んできた訳だが……。

 しっかりと騙しきれているのか、桐林はマリへと視線を向ける。

 

 

「本日は、どのようなご用件で御出でになられたのでしょうか」

 

「お父様を通じて、次の作戦が近いと聞きました。なので、げきれい? に来ました」

 

「……そうでしたか。お心遣い、ありがとうございます。皆も喜びます」

 

 

 少々、形式ばったマリの言葉に、桐林が頭を下げる。

 予告無しに軍事施設を訪れるなど、本当なら門前払いしたい所だが、相手はあの桐谷の娘。優先順位はこちらの方が高いのだろう。

 桐林の謝辞に続いて、鈴谷たちと同じく立ったまま控えていた香取、鹿島が進み出た。

 

 

「では、私共も改めてご挨拶を。舞鶴鎮守府、桐林艦隊の第一秘書官を務めさせて頂いております、香取型練習巡洋艦の一番艦、香取と申します」

 

「同じく、第二秘書官を務めております、二番艦の鹿島です。先程は失礼致しました。以後、お見知り置きをお願い致します」

 

「……あ、え? 私も? き、桐林提督付きの調整士で、疋田 栞奈と申しますっ。えっと、どうぞよろしく」

 

 

 無駄のない完璧な動作で、そつなく敬礼して見せる香取。

 かかとを鳴らし、力の入った敬礼が緊張を伺わせる鹿島。

 視線の集中を感じ、栞奈も慌てて最敬礼を。

 図らずも、横須賀コスプレ勢と相対するような構図になった。

 順繰りに舞鶴勢を見回した金剛が、素知らぬ顔で桐林へ声を掛ける。

 

 

「お美しい女性たちニ囲まれていらっしゃるのですネ。世の殿方たちモ、さぞかし羨んでいるでショウ」

 

「……身に余る環境ではありますが、それと軍務とは関わりありませんので」

 

「アア、これは失礼しました。そういうつもりデハ無かったんです。許して下さいマセ」

 

 

 男女関係の噂を暗に匂わされ、桐林が慇懃に返す。

 ワザとらしい大仰な謝罪は、嫌味な女という役作りの賜物である。

 事実、鹿島には悪い印象を与えていた。

 

 

(……香取姉。なんだか、ヤな人ですね、この近藤さんって人)

 

(相手は千条寺家付きの教育係よ。色々と警戒する事も多いのよ。……教育係、ならね)

 

(え……?)

 

 

 コソコソと内緒話をする練巡姉妹だったが、含みをもたせた姉の言葉に、妹は首を傾げてしまう。

 三人を見つめる胡乱な視線は、まるで正体を疑っているようだった。

 というか、全く疑っていない鹿島が純粋過ぎるのだろう。無垢な心も良し悪しである。

 しかし、香取は舞鶴を代表する統制人格。

 内心の疑念を微塵も表に出さず、桐林から話題を継ぐ。

 

 

「あいにく、ほとんどの統制人格は泊地の方で抜錨を待っておりまして、次作戦に参加する艦艇は、母港には残っていないのです」

 

「そう、なんですか。残念です……」

 

「いえ、お待ちを。ほとんどはそうなのですが、諸事情でまだ母港に残っている者も居ます。宜しければ、お会いになられますか?」

 

「はい。会いたい、です」

 

「承りました。直ぐに呼び寄せますので、少々お待ちを……」

 

 

 残念な知らせに、気を落とすマリ。

 けれど、香取は直ぐさま代案を提示し、ハキハキとした返事を受けて、呼び出しを掛けようと壁際の通信端末へ向かう。

 が……。

 

 

「それには、及びません。出来るだけ、邪魔したくないので。マリが、会いに行きます。良いですか?」

 

「……提督?」

 

「構わないだろう」

 

「はい。では、合わせて鎮守府もご案内させて頂きます。こちらへ」

 

 

 マリはすっくと立ち上がり、自らの足で出向くことを申し出る。

 桐林も、同じく腰を上げながら香取の声に頷き、ソファを回り込んで、マリへと右腕を差し出す。エスコートさせて欲しい、という意思表示だ。

 当然のようにそれは受諾され、香取の先導の元、身長差はあるものの、二人は腕を組んで歩き始めた。

 

 

(わ。提督さん、自然にエスコートしてる。凄いなぁ。……良いなぁ……)

 

(……あれ? これってもしかして、私も着いて行った方が良い流れ? 明日の準備したいし、出来れば遠慮したい……けどタイミングが……)

 

 

 部屋を出る桐林を追いつつ、鹿島は羨望の眼差しをマリに向けていた。

 彼と腕を組む、というだけで羨ましさMAX。いつもなら歯軋りして悔しがりそうなものだが、マリと鹿島自身を置き換えた妄想を繰り広げているおかげで、実害は無い。

 そして、皆が歩き出すのに、なんとなーく追随してしまった栞奈は、己の間の悪さを痛感する。

 中座するにも、今そんな事を言ったら水を差すようで、これまたなんとなーく心苦しい。

 どうしかして脱出を試みねば……と考える、仕事熱心な調整士であった。

 

 一方、横須賀コスプレ勢はといえば。

 

 

(う~ん……。提督、あんま笑わないね。今までだったら苦笑いとか、愛想笑いとか浮かべてそうなのに)

 

(それより、身に纏う雰囲気そのものが全然違っちゃってますよ。なんというか、凄く話しかけ辛いです……)

 

(やっぱ、引きずってるのかなぁ……)

 

(……多分)

 

(相手はChild、ムキになったら負けデース……。Calm Downデスよ金剛……!)

 

 

 桐林の後を追うのは鹿島たちと同じだが、こちらは密かに暗い雰囲気を漂わせている。

 鈴谷と吹雪の中にある彼の印象と、現在、数歩前を歩く後ろ姿とでは、丸切り別人のようだった。

 一つも笑顔を見せず、目付きは異様に鋭利で、しっかりとエスコートまでこなす。歩く姿もブレが全く無く、外見だけ見れば正しく軍人そのものである。

 

 悪い事ではないはずだ。

 そのはずなのだが、どうにも、しっくりこない。

 彼がこうまで変わってしまったのは、やはり、兵藤や整備主任の死を、今でも悔やんでいるからではないか。

 鈴谷たちには、こうとしか思えなかった。

 

 事実は違い、整備主任は工作艦となって生き延びているわけだが、横須賀勢はこれを知らない。ここに居ない面々も含めてだ。

 唯一、知る機会があったのは、舞鶴で改二改装を受けた七隻の統制人格だけ。しかし彼女たちも、徹底した行動制限によって知れず終いだった。

 改装自体、明石は離れた場所から、身を隠して使役妖精に指示を出していたため、影を見ることすら叶わなかっただろう。

 加えて、兵藤という先達を失った事実だけは、変えようのない真実である。

 

 大切な人の死によって、変わらざるを得なかった桐林。

 その、頼もしくなった背中を見つめ、鈴谷と吹雪は、一抹の寂しさを覚えるのだった。

 幼い少女に激しく嫉妬心を燃やし、笑顔を浮かべながら、心の中で歯軋りしている高速戦艦も居るようだが、彼女の事は放っておこう。

 千条寺 マリの、舞鶴行脚が始まる。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「あ、提督。おは……よう、ございます」

 

 

 廊下を歩いていた浜風は、少女と腕を組んで歩く桐林を見つけ、一瞬だけフリーズするも、持ち前の精神力でどうにか持ち堪える。

 隣を歩いていた浦風も、目を丸くしていた。

 

 

「あれまー。提督さん、可愛らしい子とデートしとるんやねぇ。お名前は?」

 

「浦風さん、いけませんよ。この方は桐谷中将の御息女で、千条寺 眞理杏――」

 

「千条寺 マリ、です。よろしく」

 

 

 しゃがみ込み、視線の高さを合わせる浦風へと、マリの紹介をしようとした香取だったが、フルネームを出す前に遮られてしまう。

 来たるべき改名の際に必要な、通名使用実績の積み上げの一環である。涙ぐましい。

 そんな事情を欠片も想像していない浜風・浦風コンビは、マリが桐谷の娘であると知って襟を正す。

 

 

「提督からお話を伺った事があります。駆逐艦、浜風と申します」

 

「同じく、駆逐艦の浦風いいます。初めまして」

 

「えっ。……駆逐、艦?」

 

「はい。そうですが」

 

「なんやろ、おかしげなトコあります?」

 

 

 ところが、この二人が駆逐艦の統制人格であると知り、マリは盛大に首を捻る。

 変なことを言っただろうかと、彼女たちも不思議そうな顔をしていた。

 マリの気持ちを察している者といえば、背後でそのやり取りを見守っていた、横須賀コスプレ勢くらいだ。

 

 

(やっぱり大きいですもんね……。実際にこの目で見ても信じられない……)

 

(夕立の言ってた事、マジだったんだ……。もしかして、私よりデカいんじゃ?)

 

(グヌヌ……。あの駆逐艦'sから、テートクへのLoveいEmotionを感じマース……。要警戒デース)

 

 

 駆逐艦と言ったら、統制人格は少女を模す事が大多数であり、マリと面識のある電を思い出せば、確かにそうであろうと納得が行く。

 けれども、丁度、マリの顔と同じ高さで揺れる四つの“それ”は、明らかに駆逐艦の範疇を超えていた。

 まぁ、横須賀にも潮という例外は存在したが、それを知らないマリにとって、浜風・浦風コンビとの対面は、未知との遭遇だったのである。

 浜風の容姿を事前に聞かされていた、吹雪たちでさえ改めて驚いたのだ。然もありなん。

 

 

(さっきからコソコソと、何を話してるんだろう? この三人、怪しいです……!)

 

(うん、まぁ、怪しいのには同意するけど。というか、あの人たち……)

 

 

 そして、そんな横須賀コスプレ勢を密かに観察し、鹿島は不信感を覚え始めていた。

 今更かい! とツッコミたい栞奈だが、その不審者にも、妙に見覚えがあるというか、隠しきれていない人物が居るというか……。

 もうとにかく、早くこの茶番から退場したいと、願ってやまない元一般人である。

 

 それはさておき、挨拶を済ませた浜・浦コンビとマリ。

 話は来訪目的に移る。

 

 

「もしや、鎮守府の視察にいらしたのでしょうか」

 

「ううん。そうじゃ、なくって。作戦が近い、って聞いたから。応援に来ました」

 

「……そうでしたか。お心遣い、感謝致します」

 

「ほんなら、みんなに挨拶……いうても、こっちに残っとるんはオイゲンさんだけやろ? ……ああ、それで練り歩いとったんやね」

 

「そうなりますね」

 

 

 ポン、と手を打つ浦風に、香取が頷き返す。

 先ほど彼女が言った、諸事情で母港に残っているという統制人格は、プリンツ・オイゲンの事なのである。

 次作戦に出撃する艦艇数は総勢十八隻。中継器三台分だ。

 そのうち二台がドイツ国籍艦に載せられ、一つはグラーフ・ツェッペリンに。もう一つがオイゲンに……という予定だった。

 しかし、母港から出撃する間際に、中継器本体に不具合が判明。直すのにも時間が掛かるため、予備の中継器に載せ換え、ついでに船体の再チェックも行われて、出航が遅れたのだ。

 母港を出るのは夕方を予定しており、今は庁舎内で最後の休息を取っているはずだった。

 浦風がそれを証言する。

 

 

「オイゲンさんなら、ついさっき甘味処で見かけたけど……。のう、提督さん。ウチらも着いてってエエやろか?」

 

「浦風、駄目よ。お邪魔になります」

 

「ええからええから。な、邪魔はせんから。そっちの人らとも話してみたいし。な?」

 

「……好きにするといい」

 

「ん~、提督さんは太っ腹じゃね~。ありがと♪」

 

「全く……」

 

 

 上目遣いに、ウィンクしながら頼み込む浦風。

 桐林が仕方なく了承すると、マリとは反対側の腕に抱き着き、茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべる。溜め息をつく浜風など御構い無しだ。

 特に必要性が感じられないスキンシップを見せつけられ、金剛が内心で「ヲノレェエエ……!」と叫び、ついでに鈴谷も青筋を浮き立たせるのだが、顔は笑顔のままなので、察知した吹雪をビビらせるだけに留まった。

 程なく、浜・浦コンビは金剛たちと挨拶を交わし、表面上は和やかな雑談に花を咲かせる。

 

 

「教育係にメイドさんかぁ。やっぱ、あの子は貴族階級なんじゃねぇ」

 

「それはモチロン! 幼少の頃カラ様々な学問、芸術、武術に触れ、齢十歳にシテ、持ち得た段位を合計すれば十五を超える天才デス! 姉君様方にも負けない、千条寺家の星ですワ!」

 

「なるほど……。まさしく、英才教育を受けている訳なのですね」

 

 

 中心となるのはマリの事で、事前に打ち合わせた内容を、金剛が胸を張って語る。

 見た目はただの可愛らしい少女だが、マリは既に高等教育に相当する学位を収め、絵画、日舞、茶道、華道、空手、柔術、剣術や薙刀術でも、才能を遺憾なく発揮する稀代の才媛でもあった。

 二人存在する彼女の姉たちも同様に、多方面での才気に溢れており、それを娶る事が出来れば、政財界での成功を保証されるという側面からも、引く手数多の超高級物件なのである。

 一方で、手放しに喜べない部分もあるようで、猫を被った鈴谷は、少々顔を曇らせる。

 

 

「その分、市政の子供たちのような、自由な時間が全く無いのは、おいたわしい事ですが……」

 

「ですよね……。分刻みのお稽古スケジュールに、同じ年頃の友達だってほとんど……。私だったら息が詰まっちゃいそうです」

 

「はぁ……。お金持ちって大変なんだ……」

 

 

 裕福であるが故の苦境に、一般市民代表の栞奈が嘆息した。

 贅沢な悩み、と思われる場合もあろうが、十歳になったばかりの少女が好きに遊べないのは、確かに不幸か。

 と言っても、「幸福の形は似ていても、不幸の形は千差万別」という言葉があるように、何を不幸とするかは当人次第。一方的に哀れむのも失礼に当たる。難しい問題だ。

 暗くなりかけた雰囲気を察した鹿島は、金剛の発言にあった「姉君様方」という単語に注目。話題を変えようと試みる。

 

 

「そういえば、マリちゃ――さんって、何人姉妹なんですか?」

 

「姉君が二人と妹君が二人ノ、五人姉妹ですワ」

 

「へぇー。お名前は?」

 

 

 ビシリ。

 続け様の質問に、横須賀コスプレ勢が凍り付く。

 

 

「あ、あれ? 私、何か変なこと聞きました?」

 

「イ、イイエ、変なことデハない……はずなんですガ……」

 

 

 思わず足を止め、オロオロしてしまう鹿島。

 金剛は引きつった笑みを浮かべ、どうにかこうにか否定するけれども、明らかに前方を歩くマリを伺っている。

 歩き続けている所を見ると、こちらのやり取りには気付いていないらしい。

 鈴谷が声を潜め、内緒話の体勢に。

 

 

(教えるのは構わないと思いますが……。くれぐれも、過剰に反応しないよう、留意して頂けますか?)

 

(え。名前を聞いただけで、なんでそんな注意事項が?)

 

 

 首を傾げる栞奈の反応ももっともで、金剛と鈴谷が、「後は任せた」と言わんばかりに吹雪を見やる。

 なんで私!? と泣きたくなる被害担当者は、好奇心で輝く鹿島たちの視線に根負けし、溜め息混じりに囁く。

 

 

(ええっと、あの……。確か、一番上の方から順に……。

 英莉千賀(エリーチカ)様、愛理寿莉出瑠(アリスリデル)様、紅麗亜梨祢(クレアリーネ)様、絵羽伊漓透(エヴァイリス)様、だったかと……)

 

 

 その刹那。世界は時間を止めた。

 鹿島、栞奈、浜風、浦風の脳裏に、マリの顔が浮かぶ。

 愛らしいが、純日本人といった顔立ちの少女。

 しかし姉たちの名前は、まるで洋風世界観RPGのヒロインが如き、まばゆい名前。

 そういえば彼女、香取の紹介を遮らなかっただろうか。香取はマリの後に言葉を続けていなかっただろうか。という事は、マリの本名も……?

 

 

(ごめんなさい、ごめんなさい……っ。鹿島が、聞いた鹿島が悪かったですぅ……!)

 

(親からもらう名前ばっかりは、どうなろうになぁ……)

 

(マリさん。強く生きて下さい)

 

(お父さんお母さん、普通の名前をつけてくれてありがとう! そこだけは全力で感謝します!)

 

 

 悲しい現実に思い至り、舞鶴勢の四人は、めいめいの感情を露わにする。

 口を覆って咽び泣き、虚ろな瞳で天井を見上げ、力強く応援し、故郷へ向けて手を合わせ……。ちょっとしたカオスだ。

 距離があっても流石に気付いたらしく、香取が後ろを振り返った。

 

 

「鹿島? どうかしたの?」

 

「な、なんでもないです香取姉! 今行きまーす!」

 

 

 大急ぎで涙を拭い、鹿島たちは小走りに追い掛ける。

 幸い、桐林から次作戦の話を聞いているマリには、これも気付かれていないようだった。

 その後、一行は庁舎の中央エレベーターで一階へと移動し、マリに合わせた歩幅で歩いても、十分と掛からず甘味処 間宮へ到着した。

 暖簾をくぐると、木目調のテーブル席や、靴を脱いでくつろげる座敷席などが目に入り、横須賀勢が感嘆の声を上げる。

 

 

「ホウ……。ここが噂に聞く、甘味処 間宮デスか」

 

「まぁ、素敵なお店……。純和風な雰囲気にしてあるんですね」

 

「うわぁ、可愛いなぁ。鳳翔さんのお店に似て――ハッ!?」

 

 

 食事時を過ぎているせいか、やはり人影は見えないが、ついさっきまで、人でごった返していたような、暖かさの残滓を感じられる。

 それが吹雪の気を緩ませたらしく、彼女はうっかり口を滑らせてしまう。

 香取の眼鏡が光った。

 

 

「あら。横須賀へ行った事がおありで?」

 

「エ、エエ。とても有名なお店ですカラ、休暇頂いた際に、興味本位デ……」

 

「わ、わたくし共もそうなんですよ? 風情ある建物で、お食事も美味しくて。ねぇ?」

 

「ははははいぃ! ととととっても美味しゅう御座いましたっ!」

 

 

 引きつった青い顔に、無理やり笑顔を浮かべて誤魔化す金剛、鈴谷。

 二人は、見えない所で吹雪のお尻を抓っており、痛みに涙目となる吹雪が、心の中で「ごめんなさいぃ!?」と叫びつつ追随する。

 その声を聞きつけたか、入り口からは奥まって見えない座敷席から、二人の少女が顔を出す。

 長い黒髪と、茶髪にヘアバンド。磯風、谷風である。

 

 

「なんの騒ぎだ。……む、香取秘書官に、皆も?」

 

「おっ。提督ぅ、どったのさー? もしかして、この谷風さんに、会い、に……」

 

 

 どうやら、遅めの昼食を摂っていたらしく、磯風の口元にはご飯粒が。

 谷風は爪楊枝を片手に、桐林へと軽く手を上げるが、どうしてだか、声は尻すぼみに消えていく。

 その視線の先には、マリが居る。桐林と腕を組む、幼い少女が。

 谷風の導火線に火がついた。

 

 

「て、ててて提督がロリっ子と腕組んでるぅー!? まさか、誘拐? 拉致!? 憲兵すわぁーん!」

 

「谷風、少し黙ろうな。それに、あとで鏡を見た方が良い。……香取秘書官、これは一体?」

 

「実は、《かくかくしかじか》、という事なのよ。磯風さん」

 

「ふむ。なるほど、桐谷中将の」

 

 

 これはもう弄るしかない! とばかりに騒ぎ立てる谷風を捨て置き、磯風が説明を求める。

 香取が掻い摘んで事情を話すと、マリ、金剛、鈴谷、吹雪を順繰りに眺める彼女。

 切れ長の瞳が細くなり、一瞬、横須賀勢に緊張が走るも、杞憂だったらしく、かかとを鳴らして磯風は敬礼した。

 

 

「失礼した。私の名は磯風。第十七駆逐隊に属した駆逐艦だ。見知り置きを。そして、この五月蝿いのが……」

 

「五月蝿いって何さっ。ちょっとビックリしただけじゃないか……。

 オッホン。アタシは谷風。磯風や浜風たちと同じ、十七駆の一員だよ。

 中将の娘さんってこたぁ、パトロンみたいなもん? 世話んなってるね!」

 

「谷風! いけんやろっ、そない雑な口きいて……!」

 

「申し訳ありません。谷風は……アレです、躾がなっていなくてですね」

 

「オイぃ浜風。アタシゃ犬か」

 

 

 残る谷風は、まぁ、彼女らしい砕けた挨拶をしてしまい、浦風と浜風が慌ててフォローに。

 しかし、当のマリは楽しそうに微笑んでいる。

 

 

「気にしないで、下さい。ちょっと、ほっとしました」

 

「デスね……。ワタクシの知っている駆逐艦のImageが崩壊する所でしタ」

 

「全くですわぁ。『われ、あおば!』に掲載されていた写真は、ほぼ谷風さんと同じような感じでしたもの」

 

「あの、私もそう思いましたけど、流石に口に出すのは失礼なんじゃ……」

 

「どこの誰だか知んないけど、言ってくれるじゃないかい……。

 だがしかしっ、貧乳はステータスという由緒正しい格言がこの国にはあるのさ!

 谷風さんは揺るぎやしないよ! な、磯風?」

 

「そんな格言、私は一度も聞いたことが無いぞ。ついでに言えば、揺れるほどの物も持っていないような」

 

「おおう辛辣ぅ……」

 

 

 マリはともかく、吹雪以外の横須賀勢も若干気が緩んだらしく、谷風への気遣いはぞんざいな物になっていた。

 元来の愉快な性格のおかげか、谷風が全く気にしていないのは、不幸中の幸いか。

 だが、わざわざここまで出向いた目的は、この様な世間話をするためでは無い。

 香取はパンパンと手を打ち鳴らし、仕切り直す。

 

 

「はいはい、話を戻しましょう。谷風さん、磯風さん。オイゲンさんの姿を見かけませんでしたか?」

 

「オイゲン? いや、私は食事に集中していたから、気付かなかったかも知れない。谷風はどうだ」

 

「アタシも、ちっと分かんないなぁ。間宮さんたちなら知ってんじゃない? おぉーい、間宮さぁーん、伊良湖っちーぃ!」

 

 

 残念ながら、磯風たちから望む答えは得られなかったものの、代わりに谷風が店主である間宮を呼ぶ。

 間を置かず、両手で盆を持つ割烹着の女性と、同じく割烹着姿の少女が、厨房から姿を現した。間宮と伊良湖、給糧艦の二人だ。

 

 

「そんなに大声で呼ばなくても、聞こえてますよ? 谷風ちゃん」

 

「あと、わたしのこと変な風に呼ぶの、やめてもらえませんか? 普通に呼び捨てで構いませんし……」

 

「えー、いいじゃんいいじゃーん。親愛の証だよ、伊良湖っち!」

 

「はぁ……。もういいですぅ……」

 

 

 ビシッ! と親指を立てる谷風に、伊良湖は小さく溜め息を。

 以前、横須賀の水雷戦隊と合同演習をした際、北上が大井の事を「大井っち」と呼ぶのを聞いてから、この呼び方は始まった。

 伊良湖も本気で嫌がっている訳ではないのだろう。このやり取りが、彼女たちの定番になっているのかも知れない。

 そんな二人を優しく見守っていた間宮が、頃合いを見計らって桐林へと報告を上げる。

 

 

「失礼ですが、勝手に話は聞かせて頂きました。オイゲンさんでしたら、早めに整備を終えて、ここで軽食を摘んだ後、執務室の方へ向かわれましたよ」

 

「……入れ違いか」

 

「はい。せっかく御足労頂いたのに、申し訳ありません」

 

「君が謝る事じゃない。あまり遜るな、伊良湖」

 

「あ……。はい、提督」

 

 

 落胆したような声に、伊良湖は反射的に頭を下げてしまう。

 それを桐林から注意されるも、どこか彼女は嬉しそうに見えた。

 金剛、鈴谷の眉がピクリと動く。何かを感じ取ったらしい。

 その一方で、マリは桐林の服の袖を軽く引っ張り、所在無さげな視線を。

 

 

「この人たちは……?」

 

「あら、申し遅れました。舞鶴艦隊の烹炊を任されている、給糧艦 間宮と申します」

 

「同じく、給糧艦 伊良湖です。お詫びと言ってはなんですが、こちらをどうぞ。抹茶味のプチシュークリームです」

 

「わぁ……! 美味しそうっ。ありがとうございますっ」

 

 

 簡単な自己紹介を終えると、間宮たちは近くのテーブル席に盆を置く。

 上には幾つもの小皿とおしぼりが並んでおり、一口サイズのシュークリームが盛り付けられていた。桐林たちが来たのを確認し、あらかじめ用意していたのだろう。

 今まで、感情の動きをあまり見せなかったマリだが、甘いお菓子には弱いらしく、はしゃいでいる様子は実に子供らしい。

 

 立ったまま食べるような無作法はせず、各々、席に腰を下ろす一行。

 谷風、磯風も加えて、桐林が「頂きます」と声を掛ければ、そこかしこで喜びの花が咲いた。

 

 

「っ! うんわっ、これマジ美味し!」

 

「チョッ、Ms.鈴山っ、地! 地ガ!」

 

「……あ、あら失礼ー。とっても美味しいですわぁ」

 

「ですね~。幸せです~」

 

 

 ふんわりサクサクなシューを噛み締めると、内側から溢れ出すたっぷりのクリーム。

 抹茶のほろ苦さが甘さを引き立て、鈴谷の猫被りを剥ぎ取ってしまう。

 窘める金剛も、既にプチシューを平らげている有様で、吹雪はじっくりと疲れた心を癒している。

 

 甘い物は女性の心を和やかにするらしく、舞鶴勢、横須賀勢の区別なく、話が弾んだ。

 そんな中、厳しく行儀作法を躾けられたマリは、無言でプチシューを頬張っていた。

 眼差しは真剣そのもの。しかし、口元には笑みが刻まれ、誰の目にも上機嫌なのが分かる。

 三角形に盛られた五個のプチシューを食べ終わり、彼女はやっと口を開く。

 

 

「……っん。はぁ……。美味しかった、です……」

 

「気に入って頂けたなら、良かった。よければ、自分の分も」

 

「えっ! あ、でも……。桐林提督の、分ですから……」

 

「自分はいつでも食べられますので。どうぞ」

 

 

 隣に座る桐林からの申し出に、マリは表情を輝かせる。

 食べたい。とても食べたいです。と訴えかける瞳が、彼と小皿を行ったり来たり。

 けれど、食い意地が張っていると思われたくないのか、どうしても手が伸びない。

 仕方なく、桐林がプチシューを手に取り、小さな口へと運ぶと、ようやく諦めがついたのか、餌を待つ小鳥のようにアーンと。

 親鳥役がプチシューを放り込めば、可憐な笑顔がまた花咲いた。

 

 微笑ましい光景にしか見えないが、桐林の行動、否応無く取らされたものだった。

 彼が味覚障害を負っている事は、艦隊内でも知らぬ者の方が多い秘密だ。

 が、来賓の前で彼の分だけを用意しない、というのはおかしい。

 間宮も、桐林の分を誰かが食べると承知の上で出し、それがたまたまマリだった、というだけなのである。

 

 

(そ、そんなっ!? ナチュラルに提督さんにアーンさせるだなんて……! 千条寺 マリ、恐ろしい子……!)

 

(いや、鹿島さん? 相手は十歳くらいの女の子ですよ? 目くじら立てることじゃ……ないはずだよね……?)

 

 

 しかしながら、隠された事情を知らぬ鹿島が見れば、その光景は目を疑うものでしかない。

 あの桐林が。してみたいなぁーとは思っても、絶対にしてくれないだろうなぁーと諦めていた行為を、目の前で。

 鹿島は思わず一九八○年代の少女漫画風に戦慄し、栞奈もプチシューを「ご馳走様」しつつ、首を傾げる。

 色々と変わってしまった彼だ。間違いはまず起きないだろうけれど、その代わりに平然とフラグを立てまくっている節がある。また変な騒ぎが起きないと良いのだが……。

 

 そんな時である。

 香取が持っていた緊急連絡用の携帯端末に、《ピピピ》、と着信があった。

 最後のプチシューを頬張りながら立ち上がった彼女は、ものの二十秒ほどで通話を終え、テーブルへと戻る。

 

 

「提督。少しよろしいでしょうか」

 

「……ああ」

 

 

 かと思えば、今度は桐林に何かを耳打ち。

 彼が頷いたのを確認してから、鹿島を呼ぶ。

 

 

「鹿島。悪いのだけど、後をお願いできるかしら。ちょっと問題が発生したみたいなの」

 

「え? 大丈夫なの、香取姉……?」

 

「手続き上の齟齬だから、大した事ではないと思うんだけれど、ね……。とりあえず、浜風さんと浦風さん。お暇でしたら、執務室の海風さんを手伝ってあげて頂けますか」

 

「了解しました」

 

「ウチらに任しときー」

 

「磯風さんと谷風さんは、念の為、このまま私に着いて来て下さい。お願いします」

 

「えっ、アタシも? 拒否権は……あるわきゃないよねぇ……。うぁー、ゴロゴロさせておくれよーぅ」

 

「なぜ私は谷風と一括りにされるのか……。まぁ、香取秘書官の頼みとあれば、致し方ないか」

 

「あ、じゃあ私もそっち手伝いますね。調整士としては、そういう問題も把握しておかないと」

 

「ありがとうございます、疋田さん」

 

 

 テキパキと香取の指示が飛び、早めのオヤツを堪能した少女たちが、それぞれに色の違う表情を浮かべて立ち上がる。

 整理すると、香取、谷風、磯風、栞奈の四名が一行から離れ、浜・浦コンビが執務室まで同行する、という事になったようだ。

 勝手に話を進めてしまった香取が、目をパチクリさせるマリへと頭を下げる。

 

 

「マリ様。こう言うわけでして、申し訳ないのですが、私はここで中座させて頂きます。後の案内は妹が務めますので、なにとぞ……」

 

「分かりました。お仕事、頑張って下さい」

 

 

 やはり、歳の割に聡いのだろう。何も聞かずにマリは頷き返し、香取も再度の会釈をして、先んじて退店した。

 桐林たちもそれに続こうとするのだが、ふと、間宮が桐林を呼び止める。

 

 

「あの、提督。本日の御夕食は……」

 

「うん? ……任せる。いつもの様に、な」

 

「はい。では、その様に」

 

「今日も、腕によりを掛けて作りますね!」

 

 

 戦の前の、最後の夕食。

 作戦行動中は素食を心掛けるため、次に味わって食べるのは、数日は掛かるであろう作戦の後になる。

 何か希望の献立があれば……と尋ねたのだが、桐林は敢えて、「いつもの様に」という部分を強調して言う。

 なんでも良いという訳ではなく、間宮たちの考えた食事が良い、という意味だ。

 それを信頼の証と受け取った二人は、やる気に満ちた笑顔で桐林を見送る。

 そして……。

 

 

(ハッ!? 今、あの二人とテートクがeye contactしましタ! 間違いないネ!)

 

(……そう言われてみれば、何処からともなく芳しいラブ臭が漂って……。怪しい……)

 

(怪しいのは金剛さんのアンテナと、ラブ臭という単語の方だと、吹雪は思います)

 

 

 妙に通じ合う三人に、相変わらず金剛がヤキモチを焼き、鈴谷も鼻を鳴らして賛同した。吹雪は悟った眼で諦めている。

 この二人が、執務室に居るというオイゲンを目にした時、一体何が起こるのか。

 被害担当者は、まだ何も知らない。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 所変わって、桐林たちが目指す執務室。

 静けさに包まれているはずの室内は、意外な事にボヤき声が響いていた。

 

 

「は~あぁ……。わたしの提督レーダーは、確かに執務室を指したんだけどなぁ……」

 

 

 革張りの椅子の上で、膝を抱えて椅子ごとクルクル回る金髪少女。プリンツ・オイゲンの声である。

 長い時間をかけた中継器の再設置と、船体のフルチェックを終え、もう出発を待つだけなった彼女は、遅めの腹拵えを済ませたのち、愛しの彼に会っておこうと思い立つ。

 そして、提督レーダーと名付けた乙女の直感を頼りに、執務室へと出向いたのだが、なんと予想外の空振り。故に不貞腐れているのだった。

 

 当然の話だが、プリンツ・オイゲンという船に、提督レーダーなる新兵装が積まれているわけでは無い。

 彼女に積まれているのは、当時でも最高峰に近い性能を誇る、ドイツ海軍が開発したレーダー群である。射撃管制、逆探知、敵味方識別など、複数機を運用している。

 海戦では非常に頼りになる存在であろうけれども、流石に人間一人を探し出せるほどの精度は無く、ある意味、当たり前の結果であった。

 

 まぁ、不貞腐れるだけなら大した害もないのだが、そんな彼女を、困った顔で見つめる少女がもう一人、執務室には存在した。

 毛先に向かって青みがかる、長い銀色の一本お下げ髪。

 黒い生地と薄い水色の生地を組み合わせた、ノースリーブのセーラー服を着る彼女の名は、海風という。

 白露型駆逐艦の、七番艦である。

 

 

「オイゲンさん……。あの、提督の椅子で遊ばないで頂けませんか? その……」

 

「だって……。せっかく会えると思ったのに、居なくて寂しいんだもん」

 

「き、気持ちはお察ししますけど、でも……。正直、邪魔で……」

 

 

 細い手脚を、黒いアームウォーマーとオーバーニーソックスに包む海風は、その儚げな容姿と裏腹に、割とハッキリ「迷惑だ」と告げる。

 こう書くとキツい性格と思われるかも知れないが、急な来客のせいで、彼女は執務を一人でこなさなければならなくなった。

 その上、「てーとくー! 出発前に愛の抱擁を……って居ない!?」と騒ぎ立て、椅子を占拠するだけに飽き足らず、ボヤき続けて仕事を邪魔する不埒者が居れば、誰でもイラっとするだろう。

 キチンと言葉を選んでいるし、むしろ心根の優しさが伺える。

 

 さてさて。

 どことなく殺伐としつつも、緊張感は欠片もない、桐林艦隊の執務室。

 頬を膨らませてクルクルしているオイゲンを、どうやって諦めさせるか。ボールペン片手に悩む海風の耳に、背後にあるドアの開閉音が届く。

 振り返れば、そこには全ての元凶――もとい、この部屋の主である桐林と、来客のマリが立っていた。

 

 

「あ、提督っ。どうしてこちら……に?」

 

「えっ、提督っ!? やっぱり、わたしの提督レーダーは間違ってなかったのね!」

 

 

 やっと真面目に仕事が出来る、と安心しかけた海風だったが、桐林たちが腕を組んでいると分かると、その光景が信じられずに小首を傾げてしまう。

 彼の後にゾロゾロと入室する仲間たちや横須賀勢にも、反応を返せないほどビックリしていた。

 一方で、過剰に反応しそうなオイゲンは、己の直感が的中した事の方が喜ばしいのか、特に驚いてはいない様子だ。

 状況を理解していないだろう二人に、桐林はまずマリを紹介する。

 

 

「海風、オイゲン。こちらは桐谷中将の御息女で……」

 

「千条寺 マリ、と申します。初めまして」

 

「あっ、これはご丁寧に。白露型駆逐艦の七番艦。改白露型としては一番艦の、海風と申します。どうぞよろしく」

 

 

 マリの優雅な一礼に対し、海風は即座に再起動。深々と頭を下げて返礼した。

 続いて、オイゲンも挨拶しようと歩み寄るのだが……。

 

 

「へぇー、偉い人の娘さん……。だから提督がエスコートしてるのね、納得納得。

 あ、わたしの名前はプリンツ・オイゲン! 艦隊唯一の重巡洋艦ですっ。シクヨロッ!」

 

「ちょ、オイゲンさんっ! 言葉が砕け過ぎです、香取姉に怒られちゃいますからっ」

 

「あれ。谷風に教わった通りにしたんだけど、駄目だった? うーん、日本語の微妙な意味合いの差って難しい……」

 

「オイゲンさんの日本語、ほぼ完璧ですが、時々おかしな事になりますね。まだ」

 

「まぁ、谷風は後で締めるとして、慣れていくしかないやろねぇ」

 

 

 唐突にオイゲンの礼節は砕け散り、鹿島、浜風、浦風がツッコミを入れる。

 どこぞで谷風がクシャミをしていそうだが、自業自得であろう。浦風の雷で懲りてくれるのを祈りたい。

 公式の場であれば顰蹙物の挨拶だけれど、幸いにもここは非公式の場であり、マリは逆に好感を抱いたようで、顔には笑みが浮かんでいた。

 

 

「あんまり、気にしないで。次の作戦では、主戦力になるんですよね? この国に為にも、頑張ってください」

 

「了解です! 提督の指揮の下、暁の水平線に勝利を刻んじゃいます!」

 

 

 事前に桐林から聞いていた話のおかげで、オイゲンが舞鶴艦隊の主力であること、次作戦でも火力の一翼を担うと知っており、激励に力が込められる。

 対するオイゲンも、今度は真面目に、敬礼を以ってマリへ返した。

 キラキラと輝くその表情から、溢れ出る活力が如実に感じられ、頼もしいの一言に尽きる。

 しかし、不意にオイゲンの視線は横へと逸れ、顔付きが「元気一杯な少女」から「ヤる気に満ちた女」に変貌してしまう。

 

 

「……けどぉ、その為にもまずは~……。Admiralさんっ! 会えなくなる日の分だけ、い~っぱい、ハグして下さい!」

 

「お、オイゲンさん!? 駄目ですよっ、お客様の前で、はしたない……!」

 

 

 シュタッ、と桐林の前に瞬間移動した彼女は、これでもかと強気な笑顔で両手を広げて。

 海風が窘めるも止める気配はなく、桐林が盛大に溜め息をついた。

 

 

「……オイゲン。前から言っ――」

 

「ちょおぉおっとお待ちヲッ!!」

 

「うわぁ! ビックリしたぁ……」

 

 

 ――が、今度は別方向から大声が発生し、オイゲンがビクゥ! と飛び跳ねる。

 挙手しているのはもちろん、家庭教師ルックな金剛だ。

 ついでに鈴谷の目も据わっていた。傍から見て非常に恐ろしい。

 

 

「今、『テートクにHugして貰う』と聞こえましたガ、それはどういう事デスかっ!?」

 

「まさかとは思いますけれど、日頃から統制人格の方と、そういう行為をなさっているのですか……?」

 

「あ、あのっ、駄目です近藤さん、鈴山さん! お二人とも落ち着いて……!」

 

『貴方は黙っていなさい』

 

「はいすみません黙ります」

 

 

 声高な糾弾と、低音の詰問。

 堪らず萎縮してしまいそうな高低差に負けず、吹雪は二人を宥めようと試みるが、爛々と輝く視線を向けられ、あえなく轟沈した。

 頼りない、なんて思わないであげて欲しい。それだけ凄まじい、嫉妬の炎が燃え盛っているのである。

 その裏で、怒り狂う二人と怯える一人に見覚えがなかった海風は、コソコソ鹿島へ近づいた。

 

 

「あの、鹿島秘書官。さっきから気になっていたのですが、あちらの方々は……?」

 

「マリさんのお付きで、教育係の近藤さん、メイドの鈴山さんと吹石さんだそうです」

 

「教育係に、メイドさん……。海風、初めて見ました」

 

「実は私もです。けっこう可愛いですよね、メイド服」

 

「あ、いえ。そっちもですけど、別の意味も……」

 

「へ?」

 

 

 香取と同じような、含みのある海風の発言に、鹿島はまた首を捻る。

 あれを着れば提督さんの興味を引けるかなぁ……なんて考えていた彼女も悪いが、いいかげん鈍い鹿島だった。

 反対に、金剛たちの怒髪天な様子に全てを悟ったらしいオイゲンは、不敵な笑みで、たわわな胸を張り。

 

 

「ふ~ん、なるほどね……。さっきの質問に答えるけど、答えは当然! いつもして――」

 

「ませんね」「おらんわな」

 

「――ってぇ、なんで邪魔するのぉ!?」

 

 

 浜・浦コンビのカットインで体勢を崩す。

 非難がましい目に、呆れた目線が二対。

 

 

「当たり前でしょう。隙あらば外堀を埋めて、既成事実を積み上げようとする人に、遠慮はしていられませんので」

 

「流石にウチも、嘘つくんはいけんと思うんやわ。オイゲンさん?」

 

「うっ。……嘘じゃ、ないもん……。ギューって抱き締めて貰ったことあるし! ……ぃ、一回だけ、だけど」

 

「えっ!? ど、どういう事ですか提督さんっ? いつ、いつオイゲンさんを抱き締めちゃったんですかっ!? ズルいですっ!!」

 

「鹿島秘書官……。今はそこに食いつくタイミングじゃないです……」

 

 

 加えて鹿島まで参戦し、もはや場の空気はしっちゃかめっちゃかである。

 海風は溜め息をつき、桐林の右眼が遠くを見つめ、マリも眼を白黒させていた。

 

 

(ウウウ……! 確かにテートクのイケメン度はUPしてますガ、こうもLove勢が増えているなんテ、予想外デース!?)

 

(ホントだよ! あんな無愛想になっちゃってるのに、どうしてそこまで好きになれんの!? っていうか、私だって壁ドンくらいしかされたこと無いのに……っ)

 

(Hey、鈴谷。後でその壁DONについて詳しーく聞きマスから、覚悟しとくネ)

 

(え、あ、いや、その、違くて……)

 

(海風ちゃん、大変そうだなー。友達になれないかなー。このままじゃ無理だよねぇー)

 

 

 オマケに、横須賀勢の間では仲間割れまで発生しつつあり、事態の収拾は極めて困難となりそうだ。

 吹雪は諦めの境地に達している。いっその事、全部バラして楽になりたい、とも思っていた。哀れ也。

 混迷を極める執務室。だがしかし、ここで桐林が動く。

 

 

「……マリさん。オイゲンへの激励も済みました。この後、何かご希望は? お帰りになられるまで、出来るだけ善処しましょう」

 

 

 あ、逃げた。

 

 ……と、その場に居る全員が思った。

 動いたは良いが、なんとも後ろ向きである。逃げたくなるのも当然であろうけれど。

 熱視線が乱れ舞う中、マリは非常に居心地の悪そうな顔で、桐林に答えようとする。

 

 

「あの……。桐林提督。その事、なんですけど……」

 

 

 ところが、やけに弱々しい声を、《ジリリリ》、という着信音が遮った。

 発生源は、執務机に置かれる、見た目だけが旧式の通信端末。

 広がっていた混沌へも水が差され、海風がその合間を縫って受話器を取る。

 

 

「はい。こちら執務室。……あ、はい……。はい、分かりました。提督、香取秘書官からです」

 

「香取? ……代わった。何かあったか」

 

 

 受話器の向こうにいるのは香取のようで、どうやら代わるよう言われたらしい。

 桐林が海風から受話器を受け取り、しばし沈黙が続く。

 流石の金剛や鹿島も、秘書官からの連絡を邪魔しようとはせず、一時休戦、といった空気が流れ始めた。

 

 

「……そういう事か……」

 

 

 ややあって、桐林は重く呟く。

 その瞬間、執務室の雰囲気は急変。皆に緊張が走る。

 振り返った彼の右眼は、まるで日本刀のように鋭く細められて。

 射殺さんばかりな視線が、先程からずっと顔を曇らせている少女――マリへ向けられた。

 

 

「今、香取から知らせが入りました。……貴方の荷物が届いた、と」

 

「え? 荷物?」

 

「ど、どういう事なの……?」

 

 

 桐林の言葉に、鹿島とオイゲンは顔を見合わせる。

 荷物が届いた……という言葉に含まれた意味と、ここまで厳しい顔をする理由とが、まだ結びつかないのだ。

 対照的に浜風は全てを察したらしく、桐林と同じように左眼を細めていた。

 

 

「なるほど、真の目的はそちらでしたか。桐谷中将らしいやり方ですね」

 

「浜風、どういう事なん? 海風は分かる?」

 

「えっと、推測ですが……。マリさんが舞鶴を訪れた理由は、この庁舎に身を置く事にあった……んじゃないでしょうか。おそらく、桐谷中将のご指示で」

 

 

 得心がいった、という素振りを見せる浜風の横で、浦風が海風へと尋ねる。

 話を振られた彼女は、持ったままだったボールペンの頭を顎に当て、己が推論を述べた。

 それを、マリ本人が裏付ける。

 

 

「その通り、です。マリの身柄は、たった今から、桐林提督に預けられます。桐林提督の家族を、お父様が預かっているように」

 

「嘘……」

 

「……まさか、それって。人質って事ですかっ?」

 

 

 表情を殺し、事も無げに言ってのけられた内容が、オイゲンの顔を青く、鹿島を驚愕させた。

 桐林の身内が桐谷の預かりとなっている事は、艦隊の統制人格ならば周知の事実だ。

 加えて、険悪と言っていい彼らの間柄から、それは人質を取られているに等しいと、少し考えれば思い至れるであろう。

 沈痛な面持ちの横須賀勢が、更に補足する。

 

 

「何モ、珍しい事ではありまセン。この国では戦国時代カラ、似たような事が行われて来ましタ」

 

「提督の家族に危害を加えないという、御当主様の誠意の証……ですわ」

 

「これからの事を考えると、絶対に必要な措置、だそうです……」

 

 

 まだこの国を侍が闊歩していた頃の話だが、当時の武将たちの間では、あまり懇意ではない関係の家へも、時に子息を養子として出す場合があった。

 将来的に敵対するつもりがないという証であり、逆にこれから懇意な関係となった場合、相手の懐へ入り込んだりする為の、外交的な身柄のやり取りである。

 しかし、世情に流され、否応無く敵対関係に陥る事も多く、その場合、養子へ出された者は高い確率で亡き者とされてしまう。故に証となるのだ。

 

 マリが舞鶴へと送り込まれたのも、これに相当する思惑があったからであろう。

 わざわざ大規模作戦の直前という時期を選んだのは、対応を後手に回させ、済し崩し的に受け入れさせる為か。

 作戦に影響が出る程ではないが、荷物を送り返すのにも面倒な手続きが要る。集中したいなら、後回しになる可能性が高い。

 その間に各方面へと情報を流す準備を整えれば、包囲網は完成だ。公表するかはさて置き、実に桐谷らしい、意地の悪い方法だった。

 イタリアと勝手に同盟を結んだ際の、意趣返しという側面もあるかも知れない。

 

 いずれにせよ、今も昔も共通している点が一つ。

 こういった身柄のやり取りは、往々にして当人の意思を無視して行われる、という部分である。

 それに気付いたオイゲンが、義憤を抑えきれずに声を荒らげた。

 

 

「そ、そんなの酷い! 酷過ぎるよ! それじゃあ、この子の意思はどうなるの!?」

 

「オイゲンさん、駄目です。冷静に」

 

「だって……! 浜風はどうして落ち着いてられるのっ、こんなのって……っ」

 

「うん。オイゲンさんの気持ちはよう分かったから。な? まだ、提督さんがどないするか、決まってへんよ?」

 

「あ……。ごめん、浜風。わたし……」

 

「いえ、平気ですから。それよりも」

 

「……うん」

 

 

 落ち着かせようとする浜風にも食って掛かる彼女だったが、浦風の静かな声を聞き、三人で桐林を見やる。

 彼は片膝をつき、マリと視線の高さを合わせていた。

 しかし、眼差しは厳しいままで。声も氷のように冷たく、固い。

 

 

「君は、理解しているのか。これがどういう事か」

 

「理解している、つもりです。まだ、十歳ですけど。千条寺家の女、ですから」

 

「いいや、理解していない。

 いざという時、どんな扱いをされても文句は言えなくなるんだぞ。

 君は知らないんだ。人としての尊厳を無視される憤りを。気紛れに苦痛を与えられる恐怖を。

 一度でも染み付いたら……。もう二度と、落とせなくなる。それでも良いのか」

 

 

 マリの身体が、わずかに震える。

 己を見つめる瞳に、果てしない闇を見たからだ。

 激情と、諦観と、苦悶。様々な色が混じり合った結果、生まれてしまった漆黒。

 誰一人として、口を挟めなかった。

 実際に敵性勢力に拉致され、拷問と変わらぬ実験の被験者となった桐林の言葉には、そうさせるだけの重さがあった。

 逆説的に言えば、必要ならマリをそのように扱うと、彼は言っている。

 直接手を下さずとも、幼い身と心を砕くのに要する屈辱など、世に幾らでも転がっているのだから。

 

 

「分ったなら、今すぐに帰るんだ。君の居場所は、ここには無い」

 

「あ……っ」

 

「て、テートク。そんな言い方……」

 

「下がっていて貰おう。これは自分と、千条寺家の問題だ」

 

 

 桐林に突き放され、顔を伏せるマリ。

 金剛がやっとの思いで苦言を呈すけれど、彼も聞く耳持たず、といった様子だった。

 普通の小学生には通じない話だろうが、歳不相応に聡い少女だ。何を言われたのか、しっかり理解しているだろう。

 その証拠に、小さな手がワンピースのスカートを、クシャリと握り締めている。

 だが、少しの間を置き、ゆっくり上げられた顔には――

 

 

「確かに、マリは知りません。貴方の怒りも、苦しみも……。けど、代わりに信じている事が、ます」

 

「……信じる? 何を」

 

「お父様の、マリへの愛情を、です」

 

 

 ――強い、とても強い決意が滲み出ていた。

 およそ少女らしからぬ表情を、しかし桐林は鼻で笑う。

 嫌味ったらしく、ふてぶてしい顔で。

 

 

「自分の娘を人質として差し出すような男に、愛されていると? ロマンチックにも程がある。現実から目を背けているだけだ」

 

「他の人から見れば、お父様は歪んでいると思います。冷たい人だと、思われるでしょう。

 けど、マリは知っています。お父様が、どんなに“家族”を愛しているか。あの笑顔の裏で、どんなに泣いているのか」

 

 

 どんなに悪し様な言葉をぶつけられても、マリは折れない。

 桐林の視線を小さな身体で受け止め、対決している。

 己が矜持を示さんと、真っ向から。

 

 

「そのお父様が、貴方を選んだんです。

 だからきっと、マリは幸せになれます。幸せになってみせます。

 ……これが。千条寺家の女の、生き方なんです」

 

 

 胸を張り、たった十歳の幼子が、そう言葉を結ぶ。

 この道は、父が敷いた道。その上を歩くのが、千条寺家に産まれた女の宿命。

 けれど、そこには確かに想いが宿っている。

 そう信じているからこそ、絶対に、幸せになって見せる、と。

 

 桐林は目を丸くした。

 いや。彼だけでなく、執務室に居る全員が、マリの見せた予想外の強さに目を見張っていた。

 深く息を吐き、立ち上がった桐林が天井を見上げる。

 皆、固唾を飲んで彼の動向を見守り、ややあって戻された顔からは、先程までの暗い感情が消え去っていた。

 

 

「君は……。強いんだな」

 

「はい。目が眩みそうな名前のお陰で、鍛えられました」

 

「ふっ、そうか。……試すような真似をしてしまいました。どうか御勘弁を」

 

 

 呟きには軽口が返され、小さく微笑む桐林。

 海風や鹿島が、「提督(さん)が笑った……」と密かに驚いている横で、彼は頭を垂れる。

 互いに立場があるとはいえ、大の大人が子供相手に、脅迫染みた物言いをしたのだ。

 謝罪するのは当然としても、普通はプライドが邪魔をし、こう素直には。それだけ深く反省している、という証拠だろう。

 ところが……。

 

 

「嫌です。許しません」

 

「は……?」

 

「許して欲しかったら、マリのお願い、三つだけ聞いて下さい」

 

「……内容にもよりますが。善処はします」

 

 

 マリは謝罪を逆手に取り、不敵にも頼み事を要求してきた。

 この肝の太さ。確かに彼女は、桐谷の娘である。

 苦笑いする桐林に、まずは右手の人差し指が立った。

 

 

「一つ目。嫌われたくないので、別荘に帰りますけど。お父様には言い訳したいので、荷物だけ、置かせて貰えますか」

 

「構いません。まだ部屋は余っていますので。……鹿島、海風」

 

「……あ、は、はいっ。香取姉と連絡を取って、運び込んでおきます!」

 

「頼む」

 

「了解です!」

 

 

 唐突に名前を呼ばれ、鹿島は慌てながら頷き、海風も敬礼で承る。

 これからは舞鶴で過ごせ、と家を送り出されたマリだ。

 なんの成果も無く帰るのは問題だが、荷物さえ置いてあれば、いつでも生活を始められると言い訳は立つ。

 部屋を用意しておく程度なら、丁度良い妥協点である。

 

 

「二つ目。また、遊びに来ても良い、ですか?」

 

「……浜風、浦風、オイゲン」

 

「もちろん。是非お出で下さい」

 

「今度は、ちゃーんとお持て成しせなあかんね?」

 

「うん! 次の作戦が終わったら、本場のドイツ料理を作るから! 楽しみにしてて!」

 

 

 二本目の指には、浜・浦コンビとオイゲンが笑顔を返す。

 複雑な立場の少女だが、それ以外は……礼儀正しく、甘いお菓子に目が無くて、本名がちょっと痛々しいだけ。

 また会いたいという他愛ない願いを、どうして無碍に出来ようか。

 マリにもようやく笑顔が浮かび、彼女は最後の願いを口にする。

 

 

「三つ目。その時は、他にも人を呼んで、良いですか?」

 

「……金剛たちのように、ですか」

 

「ブフォア!? だ、だだだ誰デスか金剛ってー? そんな高速戦艦っぽい名前の人、ここっこには居まセンよぉ?」

 

 

 垂れ流される汗。泳ぎまくる眼。ズレる眼鏡と口調。

 本当の名を呼ばれ、金剛のキャラは色んな方向から崩れた。

 否定したい気持ちと反比例して、行動が肯定してしまっている。

 鈴谷が顔を引きつらせつつ、桐林に問う。

 

 

「……もしかして、最初っからバレてた?」

 

「バレてないと思っていたのか、君たちは」

 

「ですよねぇ……。そうじゃないかって思ってました……」

 

 

 ガックリ。

 吹雪は肩を落とし、「アハハ……」と乾いた笑いを零しながら項垂れる。

 金剛に下がっていろと言った時も、彼女が千条寺家の人間でないと確信していたから、あんな言い方が出来たのだろう。

 電と雷を一目で見分ける桐林だ。

 多少の変装で誤魔化せると思った、金剛たちが甘過ぎたのである。

 

 

「フッ……。バレてしまっては仕方ありまセン……。ワタシこそは!」

 

 

 ところがどっこい。

 バレたらバレたで腹が据わったのか、金剛は強気に不敵な笑顔を浮かべ、スーツの肩を掴む。

 空気を読んだ鈴谷、吹雪も同様に服の一部を掴み、一瞬の間。

 そして、勢いよく服を引き剥がせば、いつも通りの格好をした三人が立っていた。

 

 

「横須賀艦隊にこの船ありと謳われた高速戦艦、金剛デース! テートクへのLoveは、誰にも負けまセン!」

 

「同じく! 最上型航空巡洋艦の鈴谷だよ! やー、賑やかな艦隊だね、こっちも」

 

「特型駆逐艦のネームシップ、吹雪です。バレバレの見苦しい嘘をついて、すみませんでした……」

 

 

 分割袖の改造巫女服と、ブレザータイプの制服。二人が背中合わせに正体を明かす。

 その後ろで、脱ぎ散らかされた衣装を回収するセーラー服の吹雪は、一人で頭を下げまくっていた。なんというか、苦労人臭が凄い。

 あんまりと言えばあんまりな登場の仕方に、鹿島も大口を開けている。

 

 

「そ、そんな……。近藤さんたちが、統制人格だったなんて……。ぜ、全然気付きませんでした……!」

 

「え。そうだったん? ウチ、一目で気ぃ付いたけど。なぁ? 磯風も香取秘書官も気付いとったやろうし」

 

「はい。谷風辺りは、面白そうだから黙っていたんでしょう。むしろ、どうすれば気付かずに居られるのかが疑問です」

 

「うっ。は、浜風ちゃん、そこまで言わなくても……。お、オイゲンさんと海風ちゃんは、気付きませんでしたよねっ?」

 

「あー、ごめん鹿島秘書官……。気付いてたけど、提督が何も言わなかったから、気付かないフリしたのが良いのかなー、って……」

 

「う、海風は、ですね……。ごめんなさい、普通にそうじゃないかと考えていました……」

 

「……気付かなかったの、私、だけ?」

 

 

 どうやら、拙い変装も鹿島だけは騙し通せていたようだ。

 この朴訥さで秘書官が務まるのかと、一抹の不安を抱く浜風たちであったが、金剛たちに害意が無かったからで、本物のスパイ相手なら、彼女でもピンとくるに違いない。きっと。多分。恐らくは。

 さてさてさて。

 シリアスが明後日の方向に吹き飛ばされ、ますます勢いづく金剛。

 彼女は、水を得た魚のように生き生きと、桐林へ人差し指を突きつけた。

 

 

「テートク! ここで会ったが百五十日ぐらい目! 大人しくHugさせるデース!」

 

 

 ――かと思えば、超高速の踏み込みで距離を詰め、ほぼタックルと同義の抱き着き攻撃を仕掛ける。

 だが、桐林は読んでいたらしく、マリを巻き込まないよう、左に大きくステップして回避。

 そのまま執務机に突っ込むと思われたけれど、しかし金剛は猫が如く身体を翻し、再び桐林へ跳躍。

 流石の桐林も驚いたものの、今度は倒れ込むように身体を低くし、金剛の下を潜り抜ける。

 

 

「ク……! テートク、腕を上げたようデスね……!」

 

「白兵戦の訓練は積んでいる。それより、金剛」

 

「問答無用ネ! 鈴谷っ、Back up!」

 

「へ!? りょ、了解っ」

 

 

 悔しそうな口振りだが、舌舐めずりする金剛の姿は、手強い獲物を前にした捕食動物さながら。

 諦めるという考えは微塵もなく、最低限の動作で体勢を立て直す桐林に、鈴谷を伴って三度目の強襲を謀った。

 統制人格二人を相手に、桐林も形振り構わず部屋を駆け巡る。

 

 金剛、鈴谷が時間差で突進してくるのを、桐林が机へ登って躱す。

 脚を捕まえようとする二人。跳躍し、壁際の本棚の前へ着地する桐林。

 そこへ鈴谷が再び襲い掛かるも、タイミング良く横にステップされて本棚に衝突。「ふぎゃ!」と変な鳴き声が。しかし、反対方向からは金剛が回り込んでいた。

 万事休すかと思われたが、桐林は「I won't Youー!」と伸ばされた手を弾き、横へズレながら一回転。金剛の背中を押しやり、鼻を赤くした鈴谷へと打っちゃる。

 またしても響く、「へぎゅ!?」「oops!?」という鳴き声に加え、衝撃で本が落下。追い討ちをかけた。

 ここで諦めてくれれば良かったのだが、いいように遇われて火が着いたのか、鈴谷が「あったま来た……!」と立ち上がり、金剛も眼を爛々と。

 

 長々と描写してきたけれど、掛かった時間は僅かに十秒足らず。

 瞬く間に執務室は荒れ果て、資料も床に散乱し、書類が木の葉と舞っていた。

 それをピョンピョン飛び跳ねて回収する海風が、困り果てた顔で叫ぶ。

 

 

「ちょ、あの、駄目です! し、執務室で暴れないで下さい! せっかく纏めたのにぃ!?」

 

「そうですよー。後で困るのは海風ちゃんと私たちなんですよー。もういい加減にしてー」

 

「お願い吹雪さん、もうちょっと頑張ってぇ!?」

 

 

 一応、吹雪も加勢っぽい事をするのだが、もう見るからにやる気が無く、ダラダラと書類を集めている。

 桐林が大人しくハグされていれば、こんな事にはならなかったのだろうが……。

 いや、ハグされたらされたで、今度は我も我もと、鹿島やオイゲンが騒いだだろうし、どっちにしろ迷惑千万だ。

 ちなみに、浜風は未処理の重要書類を。浦風は処理済みの物を重点的に回収しており、見事なコンビプレーを見せていた。慣れているようにも思える。

 鹿島はマリと一緒に窓際へ避難中であり、残るは一名。

 追いかけっこする桐林たちを、呆然と眺めていたオイゲンは、この事態を彼女なりに、面白おかしく考えた結果……。

 

 

「あ、分かった! これ、Admiralさんを捕まえればハグし放題っていう事ね!

 だったら、このプリンツ・オイゲン、参戦しないわけにはいきません! とう!」

 

「っ!?」

 

 

 何故か横須賀勢に加わって、桐林を追いかけ始めた。

 予想外にも程がある不意打ちを、彼はなんとか回避してみせるも、多勢に無勢の三対一。ジリジリと、部屋の角へ追い詰められていく。

 的確な表現ではないかも知れないが、まるで逆レ○プされる寸前だ。

 桐林の貞操の危機を前に、鹿島は思い悩む。

 

 

(ど、どうしよう。秘書官なんだから止めるべき、よね。けど、提督さんとハグもしたいし……。ううう、どうすれば良いのぉ!?)

 

 

 ここで止めに入れば、提督さんを助けられて好感度も稼げるよー、と。天使なチビ鹿島が勧める。

 かたや、悪魔なチビ鹿島はこう囁く。四対一なら流石の提督さんも捕まえられるし、そうなればハグし放題よー、と。

 胸の中でせめぎ合う、善なる心と悪しき心。

 目を輝かせ、「サーカスみたい、だった」と、なんでか喜ぶマリを庇いつつ、だんだん天秤が悪へ傾き始めた時――

 

 

「鹿島っ、窓を!」

 

「えっ!? あ、はい!」

 

 

 ――桐林からの唐突な指示で、鹿島の身体は勝手に動き始めた。

 刹那、その声を合図とし、三人の捕食者が獲物へ殺到するのだが、彼は三角跳びの要領で壁を蹴り上がり、彼女らの頭上を跳び越える。

 鹿島が防弾窓の鍵を開けるのと、桐林がゴッツンコする三人の背後に着地するのは、ほぼ同時。

 そして、立ち直られる前にまた駆け出し、開け放たれた窓の外へと身を投げ出す。地上三階の窓から、である。

 

 

「……ぇ、飛び降――!?」

 

 

 一瞬遅れてマリは驚愕し、窓枠へ飛びつく。

 流石に、このままでは大怪我をしてしまう! ……と、鳥肌を立てながら階下を見やれば、そこには何事も無かったように着地し、どこかへと走り去る桐林の後ろ姿があった。

 訳が分かりません、などと言いたげな表情で、小さくなっていく影を目で追うマリ。どうやら、桐林の異常な身体能力については聞かされていなかったようだ。

 更に、彼女の背後へと、間髪入れずに金剛、鈴谷、オイゲンが駆け寄り……。

 

 

「sit! 逃げられましタ! Hey,Girl’s! 後を追いますヨ!」

 

「当然っしょ! こうなったら、意地でも捕まえるかんねっ」

 

「もちろん、私も行きます! ビスマルク姉様の分まで、しっかり提督エナジーを充填しなきゃ!」

 

 

 勢いもそのまま、スカートを押さえて飛び降りていく。

 絶対に真似をしてはいけない光景が繰り広げられ、マリの脳は考える事を躊躇した。

 が、しばらくすると立ち直り、「そういうものなんだ」と、無理やり自分を納得させる。

 窓の外は海に面していて、その大きさに比べれば、今ここで起きた事の、なんと小さい事か。

 ……実際には相当おかしな出来事であろうけれど、彼女の精神衛生を保つ為、そういう事にしておいて頂きたい。

 

 

「噂には聞いていましたが、本当に台風のような方でしたね……。さぁ、皆さん。香取秘書官がお戻りになる前に、部屋を元通りにしましょう」

 

「せやねぇ。このままじゃったら、間違いなく雷が落っこちてまうわ。吹雪ちゃんと海風は、本棚を頼んでエエか?」

 

「あ、はい。分かりました。……結局、私ってこういう役回りなんですね……」

 

「吹雪さん……。身につまされますから、そんなこと言わないで……」

 

 

 視点を屋内へ戻すと、嵐が過ぎ去ったばかりのような惨状の中、乱痴気騒ぎに加わらなかった五人が、浜風の指揮の元、後片付けに勤しんでいた。

 散乱した文房具を正しい位置に。書類はまとめて分類。落ちた本も巻数通り。

 吹雪と海風に至っては、悲しみのシンパシーまで。常識人の苦労は、きっとこれからも続くのだろう。挫けないで欲しいものである。

 徐々に整頓されていく室内だったが、無言で作業していた鹿島は、ふと窓の外を見やる。

 その思わせ振りな視線に気付いた指揮官・浜風が、ジト目で声を掛けた。

 

 

「鹿島秘書官。まさかとは思いますが、追い掛けたいとか思っていませんよね?」

 

「えっ!? そそそ、そんな事あるはずないじゃないですかぁー。や、やだなぁ、浜風ちゃんったら……」

 

「ほんならエエんやけど。金剛さんらも、あと五分もしたら痛い目ぇ見るやろ。ほれ、早いとこ片付けんと」

 

「はぁーい……」

 

 

 ビクッ!? と飛び跳ね、抱えていた資料を落としてしまった鹿島。図星を突かれたに違いない。

 が、浦風は敢えてスルーし、何やら予言めいた呟きと共に、作業の継続を促す。

 仕方なく資料を纏め直す鹿島だったけれど、五分後、彼女は己の判断が正しかったと思い知らされる。

 何故ならば……。

 

 

『……何をしているんですか貴方達はぁあああっ!?』

 

 

 ――という姉の怒声が、鎮守府全体に轟いたからだ。

 反射的に直立不動となりながら、鹿島は思う。

 ああ、欲望のままに行動しなくて良かった、と。

 金剛を反面教師として、是非にも我が身を振り返って貰いたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《オマケの小話 鹿島さん、対抗する》

 

 

 

 

 

「んぁー、メッチャ怖かったぁ……。まさか、舞鶴にも妙高さんポジの人が居るなんて、予想外にも程があるわ……」

 

「自業自得ですよ、鈴谷さん。私たちはいい迷惑だったんですから」

 

「だから謝ってるじゃーん。そんな怒んないでよ吹雪ー」

 

 

 時は過ぎ去り、二二○○。

 五時間におよぶ香取の説教&正座から解放された鈴谷は、吹雪の介護を受けながら夕食と入浴を終え、割り当てられた部屋のベッドの上で、のんべんだらりとしていた。

 下着の上に自前のワイシャツだけという、男にとってはなんとも嬉し恥ずかしな格好だが、この部屋に居るのは女性ばかりなので、然して問題ではないだろう。

 

 女性ばかりと言ったが、ワイシャツ姿の鈴谷と、雪花模様の白いパジャマを着る吹雪だけではなく、他にも数名の人影がある。

 ダボダボのTシャツに半ズボンの谷風。

 若竹色の、ゆったり目な作務衣を身に付け、髪をポニーテールに纏める磯風。

 髪を解いて、薄い水色のネグリジェを着た海風。

 海風と同様に髪を下ろし、金魚柄の浴衣を纏う鹿島の四人が、クッションに座り車座となっていた。

 中心にはお菓子やジュース類が所狭しと並んで、ちょっとしたパーティーのようだ。

 

 

「しっかし、アンタらもやるもんだねぇ。メイド服着てカチコミ掛けるたぁ、谷風さん恐れ入ったよ」

 

「うむ。あんな格好をする度胸は、私にはない。流石、特型のネームシップ。感服したぞ」

 

「あはは、褒められてる気がしないのはなんでだろう……」

 

「ですね……。あ、でも、姉の春雨とかは着たがるかも知れません。メイド服」

 

「確かに、可愛かったですよね。凄く似合ってましたよ、吹雪ちゃん」

 

「そうですか? なら良かったです。ちょっと恥ずかしかったですけど……」

 

 

 微妙に嬉しくない褒められ方で、吹雪の疲労感は一層強くなった。海風と鹿島のフォローが、唯一の救いか。

 あの後の経緯を説明すると、以下のようになる。

 

 執務室から脱出を果たした桐林は、香取が居るはずの資材搬入口へと向かう。

 着かず離れずの距離を保つ後ろ姿を、そうとは知らずに金剛たちが追いかけ、数分後。

 何故か立ち止まっている桐林に、三名は即席ジェットストリームアタックを仕掛けるのだが、彼は先頭の金剛を踏み台にする事なく、己の背後に隠れていた女性――香取と場所を入れ替えた。

 にっこりと微笑んだ彼女は、大きく息を吸い込み……。後はご存知の通りだ。

 

 冷たいコンクリートに正座させられ、まず一時間。

 犯罪者のように顔を隠し、連行されながら三十分。

 庁舎地下の反省房で、また正座させられつつ三時間半。

 そろそろ許してあげませんか? と、差し入れを持って来た間宮の執り成しにより、彼女らは説教地獄から解放された。間宮が女神へと昇華した瞬間である。

 ちなみに、オイゲンだけは任務のおかげで一時間半で済んでいる。ちゃっかりしているというか、ラッキーというか。

 同じ頃、マリも本物の付き人と別荘に向けて出発した。次回はキチンと連絡してから、という事なので、一先ず安心だろう。

 

 

「そういやぁ、金剛さんはどこ行ったんだい? 横須賀のみんな、香取秘書官の厳命で外出禁止だろ? 海風、なんか知ってる?」

 

「あ、はい。今は提督とご一緒のはずですよ。なんだか、色々とお話ししたい事があるみたいで」

 

「ふむ。そうか……。一年足らずとはいえ、共に死線を潜り抜けた仲だ。積もる話があるんだろう」

 

「いや、どうなのかな。明日には帰らされるから、真面目な話の振りをして、司令官と二人っきりになりたいだけかも知れないよ?」

 

「け、けっこうハッキリ言うねぇ……。吹雪ってもしかして、金剛さんのこと嫌い?」

 

「そんなんじゃないよ、谷風ちゃん。ただ単に、巻き込まれるのが す っ ご く 迷惑なだけで」

 

「それは、ほぼ嫌いと言って良いのでは……?」

 

「磯風さん、駄目です。ちょっとストレスで攻撃的になってるだけですから、きっと……」

 

 

 ともあれ、今さら追い返すにも時間が遅い。

 仕方なく舞鶴で宿泊し、明日一番に立つ事となっている。

 横須賀勢が暴れ回ったのは、まだ庁舎に残っていた、相当数の統制人格にも知らされた。

 が、「これ以上、作戦前に騒ぎを起こしたら……」と教鞭をしならせる香取の笑顔に怖じ気づき、挨拶も出来ないようだ。

 ここに居るのは、横須賀勢の監視を命じられたメンバーであり、金剛は海風の言った通り、桐林と面会中である。

 そんな訳で、統制人格オンリーのパジャマパーティーが開催されているのだった。

 

 

「あの……。鈴谷さん?」

 

「ん、なぁに? 鹿島秘書官、だよね」

 

「はい。練習巡洋艦の鹿島です。改めまして、よろしくお願いします」

 

「あ、うん。えっと……。最上型の三番艦、鈴谷だよ……って、昼間も言ったっけ。よろしくねー」

 

 

 皆は思い思いに語り合い、普通の人間であれば即脂肪に変わるだろう、遅い時間のお菓子をつまみ、小さなパーティーを楽しむ。

 その中で、菓子の受け渡しをしつつ、鹿島と鈴谷が改めて挨拶を交わした。

 雰囲気的には、渋谷辺りをうろついていそうな女子高生と、お嬢様学校に通う箱入り娘の邂逅、といった所か。

 

 

「実は、折り入って御相談があるんですけど……。お話を伺っても良いですか?」

 

「へ。相談? まぁ、聞くだけならタダだし構わないけど、そんな堅苦しい話し方じゃなくってさ、もっと気楽にできない? その方が楽っしょ?」

 

「そ、そう、ですか? じゃあ……。鈴谷ちゃんに、聞きたい事があります! 教えて貰えませんか?」

 

「うーん、まだ硬い……。けどいっか。なんでも答えてしんぜようっ」

 

 

 気楽に、と言われても、若干の敬語が残ってしまう鹿島。

 真面目な子だなぁ、と苦笑いしつつ、鈴谷はベッドの上で胡坐をかき、偉そうに胸を張る。

 快諾を得た鹿島はホッと一息。どうしても聞きたかった事を、遠慮無く尋ねてみた。

 

 

「提督さんって、横須賀ではどんな感じだったんですか? 私、提督さんの横須賀時代をあんまり知らなくて……。だから、知りたいんです」

 

 

 知りたいのは、想い人の過去。

 数ヶ月前に起きた舞鶴事変と、それ以降の事はそれとなく聞かされているが、桐林が顔に傷を負う以前を、鹿島はほとんど知らないのだ。

 本人に聞いても、はぐらかされるか「つまらない話だ」と一蹴されるだけなので、こういった機会を逃したくないのである。

 加えて、残る舞鶴勢――谷風、磯風、海風も食いつく。

 

 

「ほっほーう。面白そうな話してるじゃないさー。アタシにも聞かせておくれよっ」

 

「ふむ。司令の過去か。特に気にしたことは無かったが、知っていて損でもないな」

 

「海風も、ぜひ知りたいです。今の提督とは随分違うと、噂に聞くだけなので」

 

 

 四人の眼は期待に輝き、吹雪、鈴谷の声を待っている。

 特に断る理由もなく、顔を見合わせる二人だったが、まず思い浮かぶのは、今の桐林と、彼女たちの知る桐林との差異だった。

 

 

「まー、確かに変わっちゃってるよねぇ……」

 

「全然笑ってくれませんでしたもんね……。いつも笑顔を絶やさなかったのに」

 

「提督さんが、いつもニコニコ……?」

 

「うぅむ……。想像がつかないな」

 

「むしろ怖くないかい? ニコニコしてる提督って、メッチャ怒ってそうだわ」

 

「そ、そんなこと無いと思いますけど……」

 

 

 首を傾げる鹿島に続き、磯風が難しい顔で唸る。

 舞鶴勢の彼女らにとって、桐林は自他共に厳しく、常に緊張感を孕む人物だった。

 まぁ、時々おかしな言動をする事もあったが、ユニークな側面として楽しめる程度だ。

 しかし、常に笑顔となるとその範疇を超え、谷風の言に頷くしかない。海風ですら、ああ言いながら「怖いかも……」と、密かに思っている。

 舞鶴勢のこんな反応を見て、今度は鈴谷が問い掛けた。

 

 

「逆に、こっちからも聞かせて? 鹿島秘書官たちの知ってる提督って、どんな感じ? 答えるためにも知っとかないとさ」

 

「私たちの知っている、提督さんですか……」

 

 

 鹿島の呟きを最後に、舞鶴勢は悩み始める。

 鹿島の中の桐林像は上記の通りだが、皆それぞれに思う所もあるようで、谷風を皮切りにそれが語られた。

 

 

「顔が怖い」

 

「良くも悪くも武人だな。堅物だが、好いている統制人格は多そうだ」

 

「とても仕事熱心な方で、尊敬しています。ただ、ご無理をなされていないかが、いつも心配で……」

 

「普段は無愛想に見えますけど、本当はすっごく優しくて、格好良くて、素敵な人ですよねっ」

 

 

 単なる感想から、心象、心配な部分、恋話と、四人の意見は多岐に渡る。

 ちなみに、谷風、磯風、海風、鹿島の順である。間違えようがないだろうが。

 

 

(鈴谷さん、どうしましょう。私たちの知ってる司令官と、似ているようで似てない気が……)

 

(……ふーん。鹿島秘書官って、やっぱそうなんだ……)

 

(あれ? 鈴谷さん?)

 

 

 話を聞いた吹雪は、自身の持っていた印象との差異に困惑し、鈴谷と話し合おうとするのだが、何かおかしい。

 ついさっきまで笑顔満天だった鈴谷が、妙に真剣な顔で鹿島を見つめているのだ。

 眼を向けられた鹿島も、頭の上に疑問符を浮かべている。

 気不味い沈黙。

 どうにかそれを繕おうと、吹雪が横須賀時代の桐林を語り出す。

 

 

「え、えと。私個人の提督への印象なんですけど。

 仕事や任務中はすごく真面目で、でも、それ以外は結構お調子者というか、そんな感じでしたね。

 あ、勤務時間中に雪合戦した事もあるんですよ?」

 

「え? 提督さんと、雪合戦ですか」

 

「はい!」

 

 

 目を丸くする鹿島に、吹雪は大きく頷く。

 

 

「去年、秋が終わって、冬になってから初めての雪の日でした。

 つい窓の外を眺めてたら、ちょっと強引に外へ連れ出されて……。

 そうしたら、庁舎のすぐ側で姉妹艦のみんなが、雪合戦してたんですよ」

 

「へぇ~、楽しそう……」

 

 

 瞼を閉じ、柔らかく微笑む吹雪に釣られ、海風も笑う。

 舞い散る雪。

 白い絨毯を踏みしめる二人。

 楽しげな少女たちの声。

 海風は想像するしかないが、吹雪の中には確かにある、在りし日の思い出だった。

 

 

「うん、楽しかった。後で妙高さんにコッテリ怒られちゃったけど。でも、本当に楽しかったなぁ」

 

 

 胸の前で両手を握り、吹雪は祈るように、暖かな日々を振り返っている。

 夢見る乙女……とでも題をつけたくなる姿が、谷風の心のアンテナに引っ掛かった。

 

 

(磯風、どう見る?)

 

(脈あり、だろうな。本人は気付いてなさそうだが、何か切っ掛けがあればコロッと行くぞ、アレは)

 

(提督さんと、雪合戦……。

 粉雪が舞う中、笑い合って。ふとした拍子に転んじゃって、助け起こされて。

 繋がれる手、見つめ合う瞳、近づく距離。

 そして、ついに唇が、か、重なって……とか! とか! 最高じゃないですかっ! きゃー!)

 

 

 ニヤついた谷風に問われ、磯風が彼女なりの分析結果を示す。

 きっと、間違ってもいないだろう。これからどうなるか、までは分からないけれど。

 それと関係無く、鹿島は雪合戦という単語からロマンティック回路を暴走させ、都合の良い妄想をしては、吹雪とは正反対の、不審な笑みを浮かべている。

 見た目が浴衣美人なだけに、残念さが酷く強調されていた。

 加えて、吹雪の話に強い衝撃を受けた人物が、もう一人居たらしく……。

 

 

「へ、へぇ。吹雪って、提督とそんな事、してたんだ……」

 

「あはは。なんか子供みたいですよね。ちょっと恥ずかしいです。鈴谷さんはどうですか? なにか、司令官との思い出とか」

 

「え゛っ、わ、私っ?」

 

 

 話を向けられてしまい、その人物――鈴谷が慌てふためく。

 落ち着いてさえいれば、別段慌てる事でもないと気付けたはずだが、吹雪が予想外に桐林と近かった事を知り、彼女は冷静さを欠いていた。

 そして、ろくに考えもせず、思い出という名の爆弾を投下してしまう。

 

 

「……か、壁ドン状態で口説かれた……とか?」

 

『えっ』

 

 

 驚きの声が五つ重なり、また気不味い沈黙が広がる。

 失言に気付いた鈴谷は、なんとか誤魔化そうと、身振り手振りを交えて弁明を開始した。

 

 

「い、いやっ、あのほら、わ、私から挑発したのもあったし、結局はフザケ半分だったんだけどさ? あん時は参ったなー。本気で、押し倒されるかと……」

 

 

 ――が、口から出たのは、弁明と程遠い何かで。鈴谷は混乱しているようだ。

 

 

(やばい。なに言ってんの私。

 口説かれてないじゃん。からかわれただけじゃん。

 早く冗談だって言わないと、後に引けなくなっちゃう……!)

 

 

 どうやら彼女も、自身の混乱ぶりは理解しているらしいが、訂正したいと思う心と裏腹に、口は動こうとしない。

 それどころか、微かに頬を染め、俯き加減に己を抱き締めるという行動は、発言の説得力を増すばかり。

 すっかり信じきった皆が騒ぎ出した。

 

 

「ほっほぉー、やるねぇ提督もー。こりゃ、いよいよ間宮さん・伊良湖っちとの三角関係も現実味を帯びてきたかね?」

 

「う、む……。いや、あの歳の男性だ。そういう経験があってもおかしくは、ないだろうが……。どうなのだろうな……」

 

「あの、鈴谷さん。参考までにお聞きしたいのですが、て、提督はどんな口説き方を……?」

 

「き、気になります。鈴谷さん、教えて下さいっ」

 

「えー? 吹雪までぇ? こ、困っちゃうってー。

 ……別に、普通の口説き文句だと思うけど。

 髪が綺麗だとか、戦ってる姿が格好良い、とか言われただけだし。

 っていうか、三角関係って何? どういうこと?」

 

「か、髪……」

 

「戦ってる、姿……」

 

 

 谷風は歓声を上げ、生々しくなった男女関係の話を、磯風が恥ずかしがる。

 海風と吹雪は更なる詳細を求め、鈴谷の答えに、己へと置き換えた妄想を始めた。三角関係を問い質す声も、全く届いていない。

 女が三人で姦しいと書くが、六人揃うと実に騒々しかった。

 ……いや、訂正しよう。一人だけ微動だにせず、黙りこくる少女が居る。

 一番に大きな反応をしそうだった、鹿島だ。

 

 

「あれ。鹿島秘書官が黙ってるなんて、珍しいね。ほれほれ、なんか言い返す事ないのかぃ?」

 

「え。あ……。その……」

 

 

 背後へ回った谷風に突っつかれ、ようやく正気を取り戻す鹿島。

 彼女は明らかに動揺しており、言葉に詰まっている。ショックを受けたのだと、誰の目にも分かる有様だ。

 それを見た鈴谷の心に湧き上がったのは、強い罪悪感と、後ろ暗い喜び。

 

 

「鹿島秘書官には何かあるの? 提督との思い出。吹雪みたいに何かしたー、とか」

 

 

 追い討ちをかけるように、鈴谷が問う。答えられない鹿島は、ただただ俯き続け……。

 彼を好いている女の子の前で、彼に口説かれたと自慢して、優位に立とうとしている。

 最低だ。なんて最低な事を。そう理解しながら、鈴谷は止められない。

 そうさせる感情を、どう呼べばいいのか知りながら、目を逸らす。

 

 二人の間に流れる空気の変化を悟り、谷風も磯風も、口を噤んでいた。

 吹雪たちは未だ妄想に浸っているので、狭い部屋は三度目の静寂に包まれる。

 ややあって、鹿島は鈴谷へと答えるために顔を上げる。浮かんでいたのは、とても穏やかで、儚い微笑み。

 

 

「……いいえ。特別な事は、なにも……」

 

「あれ? そうなんだ、意外。鹿島秘書官って可愛いし、提督の事だから、てっきり口説いたりとかしてるかと思ったのに」

 

「はい……。ピアノを聞かせて欲しいとお願いされたり、居眠りする提督さんに膝枕をして差し上げたり……。そんな、普通の事しかしていません」

 

「……うんっ!?」

 

 

 ところがどっこい。可憐な唇が言い放ったのは、宣戦布告に等しい内容だった。

 傍目には落ち着き払って見える彼女だが、その実、メチャクチャ対抗心を燃え盛らせていたのだ。

 勝ち誇っていた鈴谷が驚愕に目を剥き、鹿島はいつになく余裕な笑みを。

 バチバチと、目に見えそうな火花を散らす二人の“女”。

 戦慄した磯風が、退避しようと谷風に囁く。

 

 

(……谷風。不味いんじゃないのか、これは)

 

(うぃっひっひっひ! 提督を巡って争う、古巣の女と現地妻……。こりゃあしばらく、イジるネタには困らないねぇ、面白くなってきたぁー!)

 

(駄目だこいつ……。早くなんとか……もう手遅れか)

 

 

 だがしかし。賑やかし担当を自負する谷風は、別の意味でテンションがウナギ登り中。

 もはやこれまでと、磯風も匙を投げる。人生、諦めが肝心な事だってあるのだ。

 そんな外野を無視しているはずの鈴谷と鹿島も、何故だかボルテージを上げて。

 

 

「膝枕とかが、普通なんだ?」

 

「はい。とても穏やかな寝顔を見せて下さるんですよ。……見た事、無いんですか?」

 

「っ! あ、あるしっ。っていうか、それ以外にも色んなもの見てるし、されてるから、私」

 

「えっ!? ……ぐ、具体的には?」

 

「ぁ、えっと……。し、しつっこく頭を撫でられたり……あとは……き、着替えを覗かれたこともあった……かも……」

 

「着替……!? そ、そうなんですかー。……わ、私はっ! 胸に顔をうずめられた事があります!」

 

「えええっ!? 胸ぇ!?」

 

 

 ちょいちょい素に戻りつつ、ブラチラを大袈裟に言ってみたり、事故を故意のように言ってみたり。

 売り言葉に買い言葉の、見栄張り合戦が繰り広げられる。

 もう、実際にあった事でなくても、嘘でもなんでも良い。

 睨み合う二人の間にあったのは――

 

 

(この子にだけは、負けたくない!)

(この人にだけは、負けられない!)

 

 

 ――という、邪魔をすれば馬に蹴られそうな、乙女特有の感情なのだから。

 決着がつくまで、鈴谷と鹿島の戦いは続くのだろう。

 だが、彼女たちは知らない。

 激戦の続くその部屋に、ハイヒールの足音が近づいている事を。

 靴音の主の手には、教鞭が握られている事を。

 

 本日二度目の雷が、間も無く落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「wow! 眺めが良い展望Loungeですネー! こういう所に来るの初めてデース」

 

「……明日の朝には帰ってもらうぞ、金剛」

 

「Boo……。せっかく二人っきりでMoodyな場所に居るノに、そんな話しないでくだサイ。分かってマス……」

 

「………………」

 

「……テートク? 一つ、聞いてもいいデスか?」

 

「なんだ」

 

「テートクは今……。寂しく、ありまセンか」

 

「……さぁな。考えたことも無かった」

 

「あ……」

 

「……ただ……」

 

「?」

 

「今日に限って言えば、誰かのせいで考える暇も無かった、というのが正しい、かもな」

 

「テートク……。エッへへ……」

 

「笑う所か?」

 

「笑う所なんデース。ワタシは、笑いたくなったら笑って、泣きたくなったら泣くのデス。……誰かの分まで、ネ?」

 

「……好きにするといい」

 

「ハイ。好きにしマース」

 

 

 




「はぁ……。いよいよ明日、出撃かぁ……。作戦会議の時みたいに、失敗しないようにしないと……」
「気持ちは分かるけど、あんまり気負っちゃ駄目よ? まだたった二隻だけど、私たちは乙型駆逐艦。そのための力はもう頂いてるんだから」
「……そう、だよね。ウジウジしてちゃダメ、だよね。長十cm砲ちゃん、一緒に頑張ろっ」
「うん、その意気。私たちで、艦隊を守り抜きましょう!」

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