大規模攻勢作戦を明日に控えた、五月某日。
桐林は、艦隊庁舎二階にある、情報管理室に居た。一四三五を時計の針が指し示している。
まだ外に日の光が満ちている頃合いだが、窓の無いこの部屋は薄暗い。
光源と言えば、桐林が寄り掛かるデスクに埋め込まれた、投射ディスプレイ式PCの青いスクリーンセーバーだけだ。
「里帰りはどうでしたか、疋田さん」
そして、その青い光に照らし出される人間が、もう一人。
デスクに着き、疲れ切った表情を浮かべる、疋田 栞奈である。
「それがもう、散々でしたよ。
再会してしばらくは口汚く罵ってた癖に、私が兄さんみたいな調整士になったって聞いた途端、手のひら返しちゃって。
おかげで帰ってくるのに余計な時間掛かっちゃうし、あんなのが親だと思うと、恥ずかしいです」
「……そうですか」
「まぁ、ついででしたし。三行半も突き付けてきましたし。この話はやめましょう?」
栞奈は今朝まで、艦隊運用の合間を縫い、故郷へと帰っていた。
桐林の調整士は彼女が専属で勤めており、いつまた敵の襲撃があるかも分からない今、本来ならば休暇など許されるはずもないのだが、彼は強引にそれを推し進めた。
故郷に錦を飾りたいだろう、というのは建前上の理由で、彼女自身が言った通り、本来の目的は別にある。
栞奈は懐から、一・五cm四方のキューブ――この時代の諜報機関が用いる、特殊記憶媒体を取り出した。
「例の病院についての情報です。詳しい事はこちらに」
コトリ。キューブがデスクに置かれると、キューブから情報を読み込み始めたPCが、スクリーンセーバーを終了させる。
瞬く間に、デスクの上には多数のフォルダーが映像として投射された。
偶然か、あるいは必然か。桐林がフランから受け取った情報にあった、兵藤と関係のあるらしい病院は、栞奈の生まれ故郷にあったのである。
舞鶴艦隊が編成されて、早三ヶ月以上。上層部の監視の目も緩くなりつつあり、今が好機と判断した桐林は、兵藤 凛についての本格的な調査を開始した。
無論、栞奈本人が動くと気取られてしまうため、実際に動いたのは別の人間……。舞鶴事変で浅からぬ縁が出来た、陸軍人三羽烏たちだった。栞奈は囮も兼ねていたのだ。
ほぼ無償で働いてくれた彼らには失礼だが、三羽烏と三馬鹿が掛かっているのは言うまでもないだろう。
「すみません。貴方にこんな、諜報員のような仕事をさせてしまって」
「いえいえ、問題ナッシングです。私も覚悟決めちゃったので、毒を食らわば皿まで、ですよ」
「……助かります」
元を正せば、栞奈はただの警備員。それが桐林の騒動に巻き込まれ、今では汚れ仕事の手伝いまで。
心苦しさに、桐林は珍しく弱気な顔を見せるが、帰って来たのは朗らかな笑顔で、オマケに力こぶも作って見せる。
この明るい人柄に、どれほど助けられているか。
いくら言葉を尽くしても足りないくらいだが、一先ず礼を言うだけに留め、桐林は投射された情報の確認に移った。
病院の写真や複製ホームページ、勤務する医療関係者や患者の情報など、纏め上げられた情報は多岐に渡る。
しかし、どれもこれも極普通の情報ばかりで、これといって妙な点は見つけられなかった。
唯一、桐林の目に留まったのは、とある入院患者と、その親族に関する詳細。
注釈として、この患者が兵藤の肉親であった可能性が示唆されている。
「これが先輩の、本当の名前……」
「らしいですね。どうも、お爺さんが入院してらしたみたいですが、当時の関係者の足取りは追えませんでした。ほとんどが亡くなっているようです」
明記されていた氏名を眺め、桐林は感慨深く呟いた。
兵藤 凛という偽名とは似ても似つかない名前だが、真実かどうかは疑わしい。
死亡した関係者も、小林 倫太郎が手を下した可能性がある。
そうまでして隠蔽する必要があったのか、と言われれば、素直に頷けない部分も。
情報は得られたものの、活かすにはまだ足りない状態だ。
間近にある桐林の顔を見つめ、栞奈が尋ねる。
「どうします。まだ追跡調査しますか」
「いえ。とりあえず、ここまでに。明日は作戦の決行日でもありますから」
「ですね……。やっぱり、あの“力”を……」
「使わざるを得ないでしょう。覚悟しておいて下さい」
「……了解です」
兵藤からも頼まれている。
桐林が望むのなら、まだまだ働くつもりの栞奈だったが、首は横に振られた。
優先すべきは軍務であり、ましてや次の作戦で、彼は間違いなく、あの“力”を使う。
事前に様々な準備をしておかなければならないし、事後処理の準備にも手間が掛かる。
万全の状態で挑むには、一先ず調査のことは置いて、戦いへと集中しなければ。
互いに命運を預かる二人は、薄暗い部屋の中、静かに頷き合う。
と、そこへノックの音が二回。
「提督、香取です。少々お時間を宜しいでしょうか」
「ああ。入れ」
「失礼致します」
許しを待って入室したのは、クリップボードを小脇に抱える第一秘書官、香取だった。
が、栞奈の姿を見つけ、はたと彼女は立ち止まる。
そして、気不味く二人の様子を伺い……。
「……もしかして、お邪魔でしたでしょうか?」
「ちょ、なに言ってるんですか香取秘書官! 無いですから、提督が私に興味持つわけ無いです。ええ、あり得ません!」
「そこまで力一杯否定しなくても……」
もしや、逢引の邪魔をしたのでは? と考えた香取なのだが、栞奈は椅子から立ち上がり、勢いよく両手を振り回して否定する。
あまりの力説ぶりに、ひょっとして彼のことを嫌いなのかしら? なんて、今度はそう思ってしまう。桐林も微妙に寂しそうだ。
ともあれ、本日の秘書官補佐である海風と、執務を代行しているはずの香取が、わざわざここまでやって来たのだ。
重要な案件なのだろうと、桐林が話を戻す。
「何かあったのか」
「あ。失礼しました。それが、急なお客様が見えられまして……」
「お客さん? こんなタイミングで来るなんて、怪しいですね」
「はい。私も疋田さんと同じように思うのですが、何分、相手が相手ですから、対応に困っているんです」
ほとほと困り果てた、といった風に、香取は頬に手を当てる。
今ではどんなセクハラ親父にも、笑顔で折檻――もとい、対処できる香取にここまで言わせるとは、よほど厄介な客のようである。
桐林は重ねて尋ねた。
「誰なんだ、その客は」
「……桐谷中将の御息女。千条寺 眞理杏瓊様と、お付きの方々が数名です」
「なんだと」
予想外な名前が耳へ飛び込み、桐林の眉が露骨にしかめられた。
千条寺 眞理杏瓊。
襲名披露宴の裏で出会い、それきり会う事の無かった少女。
以前の彼であれば、驚きつつも歓迎しただろうが、今の彼にとっては、酷く扱いに困る来客である。
「如何なさいますか。今は鹿島に応対させていますが、お帰り頂きますか?」
「……いや、会おう。会わずに帰しては、後が怖い」
「ですよねぇ……。桐谷中将、怖いですもんねぇ……」
関わり合いになりたくない、というのが桐林の本音だ。
しかし、実際そんな事をしたら、どんな嫌味を言われるやら、想像すらつかない。
溜め息混じりに、彼はデスクから腰を上げる。
栞奈もPCを休止状態とし、キューブを回収して席を立つ。
左隣に香取。背後に栞奈を引き連れて部屋を出る桐林の足取りは、やや重かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
程なく、桐林一行は庁舎一階の応接室に辿り着き、「失礼する」と一声掛けてからドアを開ける。
アンティーク調の落ち着いた調度品が目立つこの部屋は、建設時に桐谷が手ずから用意した部屋だった。
生憎と桐林の趣味ではなかったが、スヴェンを始めとする来客には好評であり、利用頻度も高い。
入室する彼の姿を見るや否や、応対していたらしい鹿島が、涙目でソファから立ち上がった。
「提督さん! やっと来てくれたんですね!」
「鹿島! もう、お客様に失礼でしょう? 申し訳ありません、失礼な真似を」
「はっ。も、申し訳ありませんでした!」
その有り様を見ると、よほど緊張していた事は如実に伝わってくるのだが、来客の前では不味い。香取に叱責され、鹿島も慌てて頭を下げる。
対面のソファに座っていたのは、一人の幼い少女。若草色のワンピースの上に、細かい刺繍の施されたケープを合わせている。
背後に三人の女性が立ったまま控えていて、内一人は紺のスーツにタイトスカート。残る二人はクラシカルなメイド服を身に纏っていた。
鹿島たちの背後を周り、上座に置かれた一人用ソファへと腰をおろす前に、桐林が少女に向けて会釈を。
「お待たせして、申し訳ない。雑務を片付けていたものですから」
「いいえ。マリの方こそ、ごめんなさい。急に、来たりして」
桐林に合わせて立ち上がった少女――千条寺 眞理杏瓊こと、マリも突然の来訪を謝罪する。
出会った当初より幾分か背が伸び、髪も長くなっているようだ。
セミロング、というには少し足りない長さだが、それをバレッタで後頭部に纏めている。仕草や上等な衣服などから、上流階級の人間特有の気品が漂っていた。
手で「お掛け下さい」と示し、桐林は腰を下ろす。マリが同じように腰を下ろすと、視線は背後の女性たちへ。
「失礼ですが、そちらの方々は?」
「マリの、付き人です。挨拶、して」
問い掛けに、マリは女性たちへの指示で返す。
まず進み出たのは、スーツ姿の女性だ。
「お初にお目に掛かりますワ。ワタクシ、マリ様の教育係を務めさせて頂いている、近藤、と申します。ドウゾお見知り置きヲ」
桐林に向け、優雅に一礼した彼女は、微笑みながら眼鏡の位置を直している。
髪は茶髪であり、後頭部でシニョンに纏め上げられていた。
物腰は穏やかだが、どことなく鋭利な雰囲気を感じさせる。
続いて進み出たのは、メイド服の女性二人。
年の頃を見ると、女性というより少女と言った方が相応しいだろう。
十代後半から二十代の、黒髪をポニーテールにする少女と、十代半ばといった年頃の、黒のセミロング少女が、ロングスカートをつまんで身体を低く。
「侍従の鈴山と申します。お噂はかねがね」
「ぉ、同じく、侍従のふぶ――っ!? ふ、吹石と申しましゅ! を、をみしゅりおきゅぐ……」
「あらあら。いけませんよ? 申し訳ありません、この子は新人なものでして」
「す、すみましぇん……」
近藤と名乗った女性に習い、鈴山と名乗る年長のメイドは、しっかりと挨拶をこなす。
一方、年少のメイドである吹石は、辞書の「しどろもどろ」という単語に、参考映像として添付したくなる様子だ。
上品な物腰の鈴山。窘められ、これでもかと萎縮する吹石。無言で微笑み続ける近藤。
三人の女性を、桐林がジッと見つめている。
思う所があるのか、右眼は薄っすら細められており、ほとんど睨みつけているに近い。
奇妙な沈黙が数秒ほどあり、吹石の顔色が土気色になり始めた頃、彼はようやく目礼した。
「どうぞ、よろしく。宜しければ、お掛けください」
「それでは、失礼しますワ」
ソファを勧められ、近藤がマリの隣へと。
鈴山と吹石は、一礼するも、侍従ゆえに立ち続ける事を選ぶ。
応接室に満ちていた緊張感が解けていき、その瞬間、付き人三人は目で通じ合った。
(……Yes! バレてないみたいデース! ワタシたちの
(そりゃあそうっしょー。キャラ変えてる上に、私なんか髪を編み込んで、カツラも被ってるんだし。女は女優って感じ?)
(本当にそうでしょうか……。こっちを見る視線がものすっごく鋭かったんですけど……)
(それはブッキーがトチったからデース。緊張し過ぎは良くないですヨ?)
(そーそー。金剛さんみたく、この状況を楽しむくらいの余裕がなきゃねー。メイド服も意外と着心地良いし)
(誰のせいだと……。誰のせいだと思って……!)
もうお分りだと思われるが、この三人、横須賀で待機しているはずの統制人格――金剛、鈴谷、吹雪であった。
事の発端は数日前。
なんの脈絡も無く電の放った、「司令官さんがまたフラグを立てたような気がするのです」という言葉にヤキモキし続ける、桐林OnlyLoveな高速戦艦の元へと、一本の連絡が届く。
軍の秘匿回線を通じて届いたそれは、もちろんマリが発した物であり、要約すると以下の通りとなる。
『今度、桐林さんの所に突撃訪問、するんですが。……御一緒、しませんか?』
なんともタイミングの良い申し出に、金剛は一も二もなく飛びついた。
そして、横須賀艦隊を代理統括していた、赤城などの運営陣で話し合った結果、秘密裏にこの三名が送り込まれたのである。
人選の理由だが、直接に連絡を受けた金剛は、強烈な自薦によって。
鈴谷は単に暇だったからで、吹雪の場合、その常識的かつ真面目な性格から、ストッパー役を期待されて、だった。
……被害担当、と言い換えても良いだろう。
ちなみに、どうしてマリが金剛に連絡をしたのか。
襲名披露宴で桐林と接触した人間を把握しておく為、桐谷が記録させていた映像を、攻略の参考までに見た時。とても楽しそうに踊る彼女が、印象に残っていたからだ。
彼女を味方につけておけば、後々、何かの役に立つかも知れない、という考えもあった。末恐ろしい幼女である。
さて。
このような経緯があり、金剛は家庭教師風なコスプレと役作りをし、鈴谷は熊野を参考に変装し、やる気のない吹雪は髪を下ろすだけという雑さで、舞鶴に乗り込んできた訳だが……。
しっかりと騙しきれているのか、桐林はマリへと視線を向ける。
「本日は、どのようなご用件で御出でになられたのでしょうか」
「お父様を通じて、次の作戦が近いと聞きました。なので、げきれい? に来ました」
「……そうでしたか。お心遣い、ありがとうございます。皆も喜びます」
少々、形式ばったマリの言葉に、桐林が頭を下げる。
予告無しに軍事施設を訪れるなど、本当なら門前払いしたい所だが、相手はあの桐谷の娘。優先順位はこちらの方が高いのだろう。
桐林の謝辞に続いて、鈴谷たちと同じく立ったまま控えていた香取、鹿島が進み出た。
「では、私共も改めてご挨拶を。舞鶴鎮守府、桐林艦隊の第一秘書官を務めさせて頂いております、香取型練習巡洋艦の一番艦、香取と申します」
「同じく、第二秘書官を務めております、二番艦の鹿島です。先程は失礼致しました。以後、お見知り置きをお願い致します」
「……あ、え? 私も? き、桐林提督付きの調整士で、疋田 栞奈と申しますっ。えっと、どうぞよろしく」
無駄のない完璧な動作で、そつなく敬礼して見せる香取。
かかとを鳴らし、力の入った敬礼が緊張を伺わせる鹿島。
視線の集中を感じ、栞奈も慌てて最敬礼を。
図らずも、横須賀コスプレ勢と相対するような構図になった。
順繰りに舞鶴勢を見回した金剛が、素知らぬ顔で桐林へ声を掛ける。
「お美しい女性たちニ囲まれていらっしゃるのですネ。世の殿方たちモ、さぞかし羨んでいるでショウ」
「……身に余る環境ではありますが、それと軍務とは関わりありませんので」
「アア、これは失礼しました。そういうつもりデハ無かったんです。許して下さいマセ」
男女関係の噂を暗に匂わされ、桐林が慇懃に返す。
ワザとらしい大仰な謝罪は、嫌味な女という役作りの賜物である。
事実、鹿島には悪い印象を与えていた。
(……香取姉。なんだか、ヤな人ですね、この近藤さんって人)
(相手は千条寺家付きの教育係よ。色々と警戒する事も多いのよ。……教育係、ならね)
(え……?)
コソコソと内緒話をする練巡姉妹だったが、含みをもたせた姉の言葉に、妹は首を傾げてしまう。
三人を見つめる胡乱な視線は、まるで正体を疑っているようだった。
というか、全く疑っていない鹿島が純粋過ぎるのだろう。無垢な心も良し悪しである。
しかし、香取は舞鶴を代表する統制人格。
内心の疑念を微塵も表に出さず、桐林から話題を継ぐ。
「あいにく、ほとんどの統制人格は泊地の方で抜錨を待っておりまして、次作戦に参加する艦艇は、母港には残っていないのです」
「そう、なんですか。残念です……」
「いえ、お待ちを。ほとんどはそうなのですが、諸事情でまだ母港に残っている者も居ます。宜しければ、お会いになられますか?」
「はい。会いたい、です」
「承りました。直ぐに呼び寄せますので、少々お待ちを……」
残念な知らせに、気を落とすマリ。
けれど、香取は直ぐさま代案を提示し、ハキハキとした返事を受けて、呼び出しを掛けようと壁際の通信端末へ向かう。
が……。
「それには、及びません。出来るだけ、邪魔したくないので。マリが、会いに行きます。良いですか?」
「……提督?」
「構わないだろう」
「はい。では、合わせて鎮守府もご案内させて頂きます。こちらへ」
マリはすっくと立ち上がり、自らの足で出向くことを申し出る。
桐林も、同じく腰を上げながら香取の声に頷き、ソファを回り込んで、マリへと右腕を差し出す。エスコートさせて欲しい、という意思表示だ。
当然のようにそれは受諾され、香取の先導の元、身長差はあるものの、二人は腕を組んで歩き始めた。
(わ。提督さん、自然にエスコートしてる。凄いなぁ。……良いなぁ……)
(……あれ? これってもしかして、私も着いて行った方が良い流れ? 明日の準備したいし、出来れば遠慮したい……けどタイミングが……)
部屋を出る桐林を追いつつ、鹿島は羨望の眼差しをマリに向けていた。
彼と腕を組む、というだけで羨ましさMAX。いつもなら歯軋りして悔しがりそうなものだが、マリと鹿島自身を置き換えた妄想を繰り広げているおかげで、実害は無い。
そして、皆が歩き出すのに、なんとなーく追随してしまった栞奈は、己の間の悪さを痛感する。
中座するにも、今そんな事を言ったら水を差すようで、これまたなんとなーく心苦しい。
どうしかして脱出を試みねば……と考える、仕事熱心な調整士であった。
一方、横須賀コスプレ勢はといえば。
(う~ん……。提督、あんま笑わないね。今までだったら苦笑いとか、愛想笑いとか浮かべてそうなのに)
(それより、身に纏う雰囲気そのものが全然違っちゃってますよ。なんというか、凄く話しかけ辛いです……)
(やっぱ、引きずってるのかなぁ……)
(……多分)
(相手はChild、ムキになったら負けデース……。Calm Downデスよ金剛……!)
桐林の後を追うのは鹿島たちと同じだが、こちらは密かに暗い雰囲気を漂わせている。
鈴谷と吹雪の中にある彼の印象と、現在、数歩前を歩く後ろ姿とでは、丸切り別人のようだった。
一つも笑顔を見せず、目付きは異様に鋭利で、しっかりとエスコートまでこなす。歩く姿もブレが全く無く、外見だけ見れば正しく軍人そのものである。
悪い事ではないはずだ。
そのはずなのだが、どうにも、しっくりこない。
彼がこうまで変わってしまったのは、やはり、兵藤や整備主任の死を、今でも悔やんでいるからではないか。
鈴谷たちには、こうとしか思えなかった。
事実は違い、整備主任は工作艦となって生き延びているわけだが、横須賀勢はこれを知らない。ここに居ない面々も含めてだ。
唯一、知る機会があったのは、舞鶴で改二改装を受けた七隻の統制人格だけ。しかし彼女たちも、徹底した行動制限によって知れず終いだった。
改装自体、明石は離れた場所から、身を隠して使役妖精に指示を出していたため、影を見ることすら叶わなかっただろう。
加えて、兵藤という先達を失った事実だけは、変えようのない真実である。
大切な人の死によって、変わらざるを得なかった桐林。
その、頼もしくなった背中を見つめ、鈴谷と吹雪は、一抹の寂しさを覚えるのだった。
幼い少女に激しく嫉妬心を燃やし、笑顔を浮かべながら、心の中で歯軋りしている高速戦艦も居るようだが、彼女の事は放っておこう。
千条寺 マリの、舞鶴行脚が始まる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ、提督。おは……よう、ございます」
廊下を歩いていた浜風は、少女と腕を組んで歩く桐林を見つけ、一瞬だけフリーズするも、持ち前の精神力でどうにか持ち堪える。
隣を歩いていた浦風も、目を丸くしていた。
「あれまー。提督さん、可愛らしい子とデートしとるんやねぇ。お名前は?」
「浦風さん、いけませんよ。この方は桐谷中将の御息女で、千条寺 眞理杏――」
「千条寺 マリ、です。よろしく」
しゃがみ込み、視線の高さを合わせる浦風へと、マリの紹介をしようとした香取だったが、フルネームを出す前に遮られてしまう。
来たるべき改名の際に必要な、通名使用実績の積み上げの一環である。涙ぐましい。
そんな事情を欠片も想像していない浜風・浦風コンビは、マリが桐谷の娘であると知って襟を正す。
「提督からお話を伺った事があります。駆逐艦、浜風と申します」
「同じく、駆逐艦の浦風いいます。初めまして」
「えっ。……駆逐、艦?」
「はい。そうですが」
「なんやろ、おかしげなトコあります?」
ところが、この二人が駆逐艦の統制人格であると知り、マリは盛大に首を捻る。
変なことを言っただろうかと、彼女たちも不思議そうな顔をしていた。
マリの気持ちを察している者といえば、背後でそのやり取りを見守っていた、横須賀コスプレ勢くらいだ。
(やっぱり大きいですもんね……。実際にこの目で見ても信じられない……)
(夕立の言ってた事、マジだったんだ……。もしかして、私よりデカいんじゃ?)
(グヌヌ……。あの駆逐艦'sから、テートクへのLoveいEmotionを感じマース……。要警戒デース)
駆逐艦と言ったら、統制人格は少女を模す事が大多数であり、マリと面識のある電を思い出せば、確かにそうであろうと納得が行く。
けれども、丁度、マリの顔と同じ高さで揺れる四つの“それ”は、明らかに駆逐艦の範疇を超えていた。
まぁ、横須賀にも潮という例外は存在したが、それを知らないマリにとって、浜風・浦風コンビとの対面は、未知との遭遇だったのである。
浜風の容姿を事前に聞かされていた、吹雪たちでさえ改めて驚いたのだ。然もありなん。
(さっきからコソコソと、何を話してるんだろう? この三人、怪しいです……!)
(うん、まぁ、怪しいのには同意するけど。というか、あの人たち……)
そして、そんな横須賀コスプレ勢を密かに観察し、鹿島は不信感を覚え始めていた。
今更かい! とツッコミたい栞奈だが、その不審者にも、妙に見覚えがあるというか、隠しきれていない人物が居るというか……。
もうとにかく、早くこの茶番から退場したいと、願ってやまない元一般人である。
それはさておき、挨拶を済ませた浜・浦コンビとマリ。
話は来訪目的に移る。
「もしや、鎮守府の視察にいらしたのでしょうか」
「ううん。そうじゃ、なくって。作戦が近い、って聞いたから。応援に来ました」
「……そうでしたか。お心遣い、感謝致します」
「ほんなら、みんなに挨拶……いうても、こっちに残っとるんはオイゲンさんだけやろ? ……ああ、それで練り歩いとったんやね」
「そうなりますね」
ポン、と手を打つ浦風に、香取が頷き返す。
先ほど彼女が言った、諸事情で母港に残っているという統制人格は、プリンツ・オイゲンの事なのである。
次作戦に出撃する艦艇数は総勢十八隻。中継器三台分だ。
そのうち二台がドイツ国籍艦に載せられ、一つはグラーフ・ツェッペリンに。もう一つがオイゲンに……という予定だった。
しかし、母港から出撃する間際に、中継器本体に不具合が判明。直すのにも時間が掛かるため、予備の中継器に載せ換え、ついでに船体の再チェックも行われて、出航が遅れたのだ。
母港を出るのは夕方を予定しており、今は庁舎内で最後の休息を取っているはずだった。
浦風がそれを証言する。
「オイゲンさんなら、ついさっき甘味処で見かけたけど……。のう、提督さん。ウチらも着いてってエエやろか?」
「浦風、駄目よ。お邪魔になります」
「ええからええから。な、邪魔はせんから。そっちの人らとも話してみたいし。な?」
「……好きにするといい」
「ん~、提督さんは太っ腹じゃね~。ありがと♪」
「全く……」
上目遣いに、ウィンクしながら頼み込む浦風。
桐林が仕方なく了承すると、マリとは反対側の腕に抱き着き、茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべる。溜め息をつく浜風など御構い無しだ。
特に必要性が感じられないスキンシップを見せつけられ、金剛が内心で「ヲノレェエエ……!」と叫び、ついでに鈴谷も青筋を浮き立たせるのだが、顔は笑顔のままなので、察知した吹雪をビビらせるだけに留まった。
程なく、浜・浦コンビは金剛たちと挨拶を交わし、表面上は和やかな雑談に花を咲かせる。
「教育係にメイドさんかぁ。やっぱ、あの子は貴族階級なんじゃねぇ」
「それはモチロン! 幼少の頃カラ様々な学問、芸術、武術に触れ、齢十歳にシテ、持ち得た段位を合計すれば十五を超える天才デス! 姉君様方にも負けない、千条寺家の星ですワ!」
「なるほど……。まさしく、英才教育を受けている訳なのですね」
中心となるのはマリの事で、事前に打ち合わせた内容を、金剛が胸を張って語る。
見た目はただの可愛らしい少女だが、マリは既に高等教育に相当する学位を収め、絵画、日舞、茶道、華道、空手、柔術、剣術や薙刀術でも、才能を遺憾なく発揮する稀代の才媛でもあった。
二人存在する彼女の姉たちも同様に、多方面での才気に溢れており、それを娶る事が出来れば、政財界での成功を保証されるという側面からも、引く手数多の超高級物件なのである。
一方で、手放しに喜べない部分もあるようで、猫を被った鈴谷は、少々顔を曇らせる。
「その分、市政の子供たちのような、自由な時間が全く無いのは、おいたわしい事ですが……」
「ですよね……。分刻みのお稽古スケジュールに、同じ年頃の友達だってほとんど……。私だったら息が詰まっちゃいそうです」
「はぁ……。お金持ちって大変なんだ……」
裕福であるが故の苦境に、一般市民代表の栞奈が嘆息した。
贅沢な悩み、と思われる場合もあろうが、十歳になったばかりの少女が好きに遊べないのは、確かに不幸か。
と言っても、「幸福の形は似ていても、不幸の形は千差万別」という言葉があるように、何を不幸とするかは当人次第。一方的に哀れむのも失礼に当たる。難しい問題だ。
暗くなりかけた雰囲気を察した鹿島は、金剛の発言にあった「姉君様方」という単語に注目。話題を変えようと試みる。
「そういえば、マリちゃ――さんって、何人姉妹なんですか?」
「姉君が二人と妹君が二人ノ、五人姉妹ですワ」
「へぇー。お名前は?」
ビシリ。
続け様の質問に、横須賀コスプレ勢が凍り付く。
「あ、あれ? 私、何か変なこと聞きました?」
「イ、イイエ、変なことデハない……はずなんですガ……」
思わず足を止め、オロオロしてしまう鹿島。
金剛は引きつった笑みを浮かべ、どうにかこうにか否定するけれども、明らかに前方を歩くマリを伺っている。
歩き続けている所を見ると、こちらのやり取りには気付いていないらしい。
鈴谷が声を潜め、内緒話の体勢に。
(教えるのは構わないと思いますが……。くれぐれも、過剰に反応しないよう、留意して頂けますか?)
(え。名前を聞いただけで、なんでそんな注意事項が?)
首を傾げる栞奈の反応ももっともで、金剛と鈴谷が、「後は任せた」と言わんばかりに吹雪を見やる。
なんで私!? と泣きたくなる被害担当者は、好奇心で輝く鹿島たちの視線に根負けし、溜め息混じりに囁く。
(ええっと、あの……。確か、一番上の方から順に……。
その刹那。世界は時間を止めた。
鹿島、栞奈、浜風、浦風の脳裏に、マリの顔が浮かぶ。
愛らしいが、純日本人といった顔立ちの少女。
しかし姉たちの名前は、まるで洋風世界観RPGのヒロインが如き、まばゆい名前。
そういえば彼女、香取の紹介を遮らなかっただろうか。香取はマリの後に言葉を続けていなかっただろうか。という事は、マリの本名も……?
(ごめんなさい、ごめんなさい……っ。鹿島が、聞いた鹿島が悪かったですぅ……!)
(親からもらう名前ばっかりは、どうなろうになぁ……)
(マリさん。強く生きて下さい)
(お父さんお母さん、普通の名前をつけてくれてありがとう! そこだけは全力で感謝します!)
悲しい現実に思い至り、舞鶴勢の四人は、めいめいの感情を露わにする。
口を覆って咽び泣き、虚ろな瞳で天井を見上げ、力強く応援し、故郷へ向けて手を合わせ……。ちょっとしたカオスだ。
距離があっても流石に気付いたらしく、香取が後ろを振り返った。
「鹿島? どうかしたの?」
「な、なんでもないです香取姉! 今行きまーす!」
大急ぎで涙を拭い、鹿島たちは小走りに追い掛ける。
幸い、桐林から次作戦の話を聞いているマリには、これも気付かれていないようだった。
その後、一行は庁舎の中央エレベーターで一階へと移動し、マリに合わせた歩幅で歩いても、十分と掛からず甘味処 間宮へ到着した。
暖簾をくぐると、木目調のテーブル席や、靴を脱いでくつろげる座敷席などが目に入り、横須賀勢が感嘆の声を上げる。
「ホウ……。ここが噂に聞く、甘味処 間宮デスか」
「まぁ、素敵なお店……。純和風な雰囲気にしてあるんですね」
「うわぁ、可愛いなぁ。鳳翔さんのお店に似て――ハッ!?」
食事時を過ぎているせいか、やはり人影は見えないが、ついさっきまで、人でごった返していたような、暖かさの残滓を感じられる。
それが吹雪の気を緩ませたらしく、彼女はうっかり口を滑らせてしまう。
香取の眼鏡が光った。
「あら。横須賀へ行った事がおありで?」
「エ、エエ。とても有名なお店ですカラ、休暇頂いた際に、興味本位デ……」
「わ、わたくし共もそうなんですよ? 風情ある建物で、お食事も美味しくて。ねぇ?」
「ははははいぃ! ととととっても美味しゅう御座いましたっ!」
引きつった青い顔に、無理やり笑顔を浮かべて誤魔化す金剛、鈴谷。
二人は、見えない所で吹雪のお尻を抓っており、痛みに涙目となる吹雪が、心の中で「ごめんなさいぃ!?」と叫びつつ追随する。
その声を聞きつけたか、入り口からは奥まって見えない座敷席から、二人の少女が顔を出す。
長い黒髪と、茶髪にヘアバンド。磯風、谷風である。
「なんの騒ぎだ。……む、香取秘書官に、皆も?」
「おっ。提督ぅ、どったのさー? もしかして、この谷風さんに、会い、に……」
どうやら、遅めの昼食を摂っていたらしく、磯風の口元にはご飯粒が。
谷風は爪楊枝を片手に、桐林へと軽く手を上げるが、どうしてだか、声は尻すぼみに消えていく。
その視線の先には、マリが居る。桐林と腕を組む、幼い少女が。
谷風の導火線に火がついた。
「て、ててて提督がロリっ子と腕組んでるぅー!? まさか、誘拐? 拉致!? 憲兵すわぁーん!」
「谷風、少し黙ろうな。それに、あとで鏡を見た方が良い。……香取秘書官、これは一体?」
「実は、《かくかくしかじか》、という事なのよ。磯風さん」
「ふむ。なるほど、桐谷中将の」
これはもう弄るしかない! とばかりに騒ぎ立てる谷風を捨て置き、磯風が説明を求める。
香取が掻い摘んで事情を話すと、マリ、金剛、鈴谷、吹雪を順繰りに眺める彼女。
切れ長の瞳が細くなり、一瞬、横須賀勢に緊張が走るも、杞憂だったらしく、かかとを鳴らして磯風は敬礼した。
「失礼した。私の名は磯風。第十七駆逐隊に属した駆逐艦だ。見知り置きを。そして、この五月蝿いのが……」
「五月蝿いって何さっ。ちょっとビックリしただけじゃないか……。
オッホン。アタシは谷風。磯風や浜風たちと同じ、十七駆の一員だよ。
中将の娘さんってこたぁ、パトロンみたいなもん? 世話んなってるね!」
「谷風! いけんやろっ、そない雑な口きいて……!」
「申し訳ありません。谷風は……アレです、躾がなっていなくてですね」
「オイぃ浜風。アタシゃ犬か」
残る谷風は、まぁ、彼女らしい砕けた挨拶をしてしまい、浦風と浜風が慌ててフォローに。
しかし、当のマリは楽しそうに微笑んでいる。
「気にしないで、下さい。ちょっと、ほっとしました」
「デスね……。ワタクシの知っている駆逐艦のImageが崩壊する所でしタ」
「全くですわぁ。『われ、あおば!』に掲載されていた写真は、ほぼ谷風さんと同じような感じでしたもの」
「あの、私もそう思いましたけど、流石に口に出すのは失礼なんじゃ……」
「どこの誰だか知んないけど、言ってくれるじゃないかい……。
だがしかしっ、貧乳はステータスという由緒正しい格言がこの国にはあるのさ!
谷風さんは揺るぎやしないよ! な、磯風?」
「そんな格言、私は一度も聞いたことが無いぞ。ついでに言えば、揺れるほどの物も持っていないような」
「おおう辛辣ぅ……」
マリはともかく、吹雪以外の横須賀勢も若干気が緩んだらしく、谷風への気遣いはぞんざいな物になっていた。
元来の愉快な性格のおかげか、谷風が全く気にしていないのは、不幸中の幸いか。
だが、わざわざここまで出向いた目的は、この様な世間話をするためでは無い。
香取はパンパンと手を打ち鳴らし、仕切り直す。
「はいはい、話を戻しましょう。谷風さん、磯風さん。オイゲンさんの姿を見かけませんでしたか?」
「オイゲン? いや、私は食事に集中していたから、気付かなかったかも知れない。谷風はどうだ」
「アタシも、ちっと分かんないなぁ。間宮さんたちなら知ってんじゃない? おぉーい、間宮さぁーん、伊良湖っちーぃ!」
残念ながら、磯風たちから望む答えは得られなかったものの、代わりに谷風が店主である間宮を呼ぶ。
間を置かず、両手で盆を持つ割烹着の女性と、同じく割烹着姿の少女が、厨房から姿を現した。間宮と伊良湖、給糧艦の二人だ。
「そんなに大声で呼ばなくても、聞こえてますよ? 谷風ちゃん」
「あと、わたしのこと変な風に呼ぶの、やめてもらえませんか? 普通に呼び捨てで構いませんし……」
「えー、いいじゃんいいじゃーん。親愛の証だよ、伊良湖っち!」
「はぁ……。もういいですぅ……」
ビシッ! と親指を立てる谷風に、伊良湖は小さく溜め息を。
以前、横須賀の水雷戦隊と合同演習をした際、北上が大井の事を「大井っち」と呼ぶのを聞いてから、この呼び方は始まった。
伊良湖も本気で嫌がっている訳ではないのだろう。このやり取りが、彼女たちの定番になっているのかも知れない。
そんな二人を優しく見守っていた間宮が、頃合いを見計らって桐林へと報告を上げる。
「失礼ですが、勝手に話は聞かせて頂きました。オイゲンさんでしたら、早めに整備を終えて、ここで軽食を摘んだ後、執務室の方へ向かわれましたよ」
「……入れ違いか」
「はい。せっかく御足労頂いたのに、申し訳ありません」
「君が謝る事じゃない。あまり遜るな、伊良湖」
「あ……。はい、提督」
落胆したような声に、伊良湖は反射的に頭を下げてしまう。
それを桐林から注意されるも、どこか彼女は嬉しそうに見えた。
金剛、鈴谷の眉がピクリと動く。何かを感じ取ったらしい。
その一方で、マリは桐林の服の袖を軽く引っ張り、所在無さげな視線を。
「この人たちは……?」
「あら、申し遅れました。舞鶴艦隊の烹炊を任されている、給糧艦 間宮と申します」
「同じく、給糧艦 伊良湖です。お詫びと言ってはなんですが、こちらをどうぞ。抹茶味のプチシュークリームです」
「わぁ……! 美味しそうっ。ありがとうございますっ」
簡単な自己紹介を終えると、間宮たちは近くのテーブル席に盆を置く。
上には幾つもの小皿とおしぼりが並んでおり、一口サイズのシュークリームが盛り付けられていた。桐林たちが来たのを確認し、あらかじめ用意していたのだろう。
今まで、感情の動きをあまり見せなかったマリだが、甘いお菓子には弱いらしく、はしゃいでいる様子は実に子供らしい。
立ったまま食べるような無作法はせず、各々、席に腰を下ろす一行。
谷風、磯風も加えて、桐林が「頂きます」と声を掛ければ、そこかしこで喜びの花が咲いた。
「っ! うんわっ、これマジ美味し!」
「チョッ、Ms.鈴山っ、地! 地ガ!」
「……あ、あら失礼ー。とっても美味しいですわぁ」
「ですね~。幸せです~」
ふんわりサクサクなシューを噛み締めると、内側から溢れ出すたっぷりのクリーム。
抹茶のほろ苦さが甘さを引き立て、鈴谷の猫被りを剥ぎ取ってしまう。
窘める金剛も、既にプチシューを平らげている有様で、吹雪はじっくりと疲れた心を癒している。
甘い物は女性の心を和やかにするらしく、舞鶴勢、横須賀勢の区別なく、話が弾んだ。
そんな中、厳しく行儀作法を躾けられたマリは、無言でプチシューを頬張っていた。
眼差しは真剣そのもの。しかし、口元には笑みが刻まれ、誰の目にも上機嫌なのが分かる。
三角形に盛られた五個のプチシューを食べ終わり、彼女はやっと口を開く。
「……っん。はぁ……。美味しかった、です……」
「気に入って頂けたなら、良かった。よければ、自分の分も」
「えっ! あ、でも……。桐林提督の、分ですから……」
「自分はいつでも食べられますので。どうぞ」
隣に座る桐林からの申し出に、マリは表情を輝かせる。
食べたい。とても食べたいです。と訴えかける瞳が、彼と小皿を行ったり来たり。
けれど、食い意地が張っていると思われたくないのか、どうしても手が伸びない。
仕方なく、桐林がプチシューを手に取り、小さな口へと運ぶと、ようやく諦めがついたのか、餌を待つ小鳥のようにアーンと。
親鳥役がプチシューを放り込めば、可憐な笑顔がまた花咲いた。
微笑ましい光景にしか見えないが、桐林の行動、否応無く取らされたものだった。
彼が味覚障害を負っている事は、艦隊内でも知らぬ者の方が多い秘密だ。
が、来賓の前で彼の分だけを用意しない、というのはおかしい。
間宮も、桐林の分を誰かが食べると承知の上で出し、それがたまたまマリだった、というだけなのである。
(そ、そんなっ!? ナチュラルに提督さんにアーンさせるだなんて……! 千条寺 マリ、恐ろしい子……!)
(いや、鹿島さん? 相手は十歳くらいの女の子ですよ? 目くじら立てることじゃ……ないはずだよね……?)
しかしながら、隠された事情を知らぬ鹿島が見れば、その光景は目を疑うものでしかない。
あの桐林が。してみたいなぁーとは思っても、絶対にしてくれないだろうなぁーと諦めていた行為を、目の前で。
鹿島は思わず一九八○年代の少女漫画風に戦慄し、栞奈もプチシューを「ご馳走様」しつつ、首を傾げる。
色々と変わってしまった彼だ。間違いはまず起きないだろうけれど、その代わりに平然とフラグを立てまくっている節がある。また変な騒ぎが起きないと良いのだが……。
そんな時である。
香取が持っていた緊急連絡用の携帯端末に、《ピピピ》、と着信があった。
最後のプチシューを頬張りながら立ち上がった彼女は、ものの二十秒ほどで通話を終え、テーブルへと戻る。
「提督。少しよろしいでしょうか」
「……ああ」
かと思えば、今度は桐林に何かを耳打ち。
彼が頷いたのを確認してから、鹿島を呼ぶ。
「鹿島。悪いのだけど、後をお願いできるかしら。ちょっと問題が発生したみたいなの」
「え? 大丈夫なの、香取姉……?」
「手続き上の齟齬だから、大した事ではないと思うんだけれど、ね……。とりあえず、浜風さんと浦風さん。お暇でしたら、執務室の海風さんを手伝ってあげて頂けますか」
「了解しました」
「ウチらに任しときー」
「磯風さんと谷風さんは、念の為、このまま私に着いて来て下さい。お願いします」
「えっ、アタシも? 拒否権は……あるわきゃないよねぇ……。うぁー、ゴロゴロさせておくれよーぅ」
「なぜ私は谷風と一括りにされるのか……。まぁ、香取秘書官の頼みとあれば、致し方ないか」
「あ、じゃあ私もそっち手伝いますね。調整士としては、そういう問題も把握しておかないと」
「ありがとうございます、疋田さん」
テキパキと香取の指示が飛び、早めのオヤツを堪能した少女たちが、それぞれに色の違う表情を浮かべて立ち上がる。
整理すると、香取、谷風、磯風、栞奈の四名が一行から離れ、浜・浦コンビが執務室まで同行する、という事になったようだ。
勝手に話を進めてしまった香取が、目をパチクリさせるマリへと頭を下げる。
「マリ様。こう言うわけでして、申し訳ないのですが、私はここで中座させて頂きます。後の案内は妹が務めますので、なにとぞ……」
「分かりました。お仕事、頑張って下さい」
やはり、歳の割に聡いのだろう。何も聞かずにマリは頷き返し、香取も再度の会釈をして、先んじて退店した。
桐林たちもそれに続こうとするのだが、ふと、間宮が桐林を呼び止める。
「あの、提督。本日の御夕食は……」
「うん? ……任せる。いつもの様に、な」
「はい。では、その様に」
「今日も、腕によりを掛けて作りますね!」
戦の前の、最後の夕食。
作戦行動中は素食を心掛けるため、次に味わって食べるのは、数日は掛かるであろう作戦の後になる。
何か希望の献立があれば……と尋ねたのだが、桐林は敢えて、「いつもの様に」という部分を強調して言う。
なんでも良いという訳ではなく、間宮たちの考えた食事が良い、という意味だ。
それを信頼の証と受け取った二人は、やる気に満ちた笑顔で桐林を見送る。
そして……。
(ハッ!? 今、あの二人とテートクがeye contactしましタ! 間違いないネ!)
(……そう言われてみれば、何処からともなく芳しいラブ臭が漂って……。怪しい……)
(怪しいのは金剛さんのアンテナと、ラブ臭という単語の方だと、吹雪は思います)
妙に通じ合う三人に、相変わらず金剛がヤキモチを焼き、鈴谷も鼻を鳴らして賛同した。吹雪は悟った眼で諦めている。
この二人が、執務室に居るというオイゲンを目にした時、一体何が起こるのか。
被害担当者は、まだ何も知らない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
所変わって、桐林たちが目指す執務室。
静けさに包まれているはずの室内は、意外な事にボヤき声が響いていた。
「は~あぁ……。わたしの提督レーダーは、確かに執務室を指したんだけどなぁ……」
革張りの椅子の上で、膝を抱えて椅子ごとクルクル回る金髪少女。プリンツ・オイゲンの声である。
長い時間をかけた中継器の再設置と、船体のフルチェックを終え、もう出発を待つだけなった彼女は、遅めの腹拵えを済ませたのち、愛しの彼に会っておこうと思い立つ。
そして、提督レーダーと名付けた乙女の直感を頼りに、執務室へと出向いたのだが、なんと予想外の空振り。故に不貞腐れているのだった。
当然の話だが、プリンツ・オイゲンという船に、提督レーダーなる新兵装が積まれているわけでは無い。
彼女に積まれているのは、当時でも最高峰に近い性能を誇る、ドイツ海軍が開発したレーダー群である。射撃管制、逆探知、敵味方識別など、複数機を運用している。
海戦では非常に頼りになる存在であろうけれども、流石に人間一人を探し出せるほどの精度は無く、ある意味、当たり前の結果であった。
まぁ、不貞腐れるだけなら大した害もないのだが、そんな彼女を、困った顔で見つめる少女がもう一人、執務室には存在した。
毛先に向かって青みがかる、長い銀色の一本お下げ髪。
黒い生地と薄い水色の生地を組み合わせた、ノースリーブのセーラー服を着る彼女の名は、海風という。
白露型駆逐艦の、七番艦である。
「オイゲンさん……。あの、提督の椅子で遊ばないで頂けませんか? その……」
「だって……。せっかく会えると思ったのに、居なくて寂しいんだもん」
「き、気持ちはお察ししますけど、でも……。正直、邪魔で……」
細い手脚を、黒いアームウォーマーとオーバーニーソックスに包む海風は、その儚げな容姿と裏腹に、割とハッキリ「迷惑だ」と告げる。
こう書くとキツい性格と思われるかも知れないが、急な来客のせいで、彼女は執務を一人でこなさなければならなくなった。
その上、「てーとくー! 出発前に愛の抱擁を……って居ない!?」と騒ぎ立て、椅子を占拠するだけに飽き足らず、ボヤき続けて仕事を邪魔する不埒者が居れば、誰でもイラっとするだろう。
キチンと言葉を選んでいるし、むしろ心根の優しさが伺える。
さてさて。
どことなく殺伐としつつも、緊張感は欠片もない、桐林艦隊の執務室。
頬を膨らませてクルクルしているオイゲンを、どうやって諦めさせるか。ボールペン片手に悩む海風の耳に、背後にあるドアの開閉音が届く。
振り返れば、そこには全ての元凶――もとい、この部屋の主である桐林と、来客のマリが立っていた。
「あ、提督っ。どうしてこちら……に?」
「えっ、提督っ!? やっぱり、わたしの提督レーダーは間違ってなかったのね!」
やっと真面目に仕事が出来る、と安心しかけた海風だったが、桐林たちが腕を組んでいると分かると、その光景が信じられずに小首を傾げてしまう。
彼の後にゾロゾロと入室する仲間たちや横須賀勢にも、反応を返せないほどビックリしていた。
一方で、過剰に反応しそうなオイゲンは、己の直感が的中した事の方が喜ばしいのか、特に驚いてはいない様子だ。
状況を理解していないだろう二人に、桐林はまずマリを紹介する。
「海風、オイゲン。こちらは桐谷中将の御息女で……」
「千条寺 マリ、と申します。初めまして」
「あっ、これはご丁寧に。白露型駆逐艦の七番艦。改白露型としては一番艦の、海風と申します。どうぞよろしく」
マリの優雅な一礼に対し、海風は即座に再起動。深々と頭を下げて返礼した。
続いて、オイゲンも挨拶しようと歩み寄るのだが……。
「へぇー、偉い人の娘さん……。だから提督がエスコートしてるのね、納得納得。
あ、わたしの名前はプリンツ・オイゲン! 艦隊唯一の重巡洋艦ですっ。シクヨロッ!」
「ちょ、オイゲンさんっ! 言葉が砕け過ぎです、香取姉に怒られちゃいますからっ」
「あれ。谷風に教わった通りにしたんだけど、駄目だった? うーん、日本語の微妙な意味合いの差って難しい……」
「オイゲンさんの日本語、ほぼ完璧ですが、時々おかしな事になりますね。まだ」
「まぁ、谷風は後で締めるとして、慣れていくしかないやろねぇ」
唐突にオイゲンの礼節は砕け散り、鹿島、浜風、浦風がツッコミを入れる。
どこぞで谷風がクシャミをしていそうだが、自業自得であろう。浦風の雷で懲りてくれるのを祈りたい。
公式の場であれば顰蹙物の挨拶だけれど、幸いにもここは非公式の場であり、マリは逆に好感を抱いたようで、顔には笑みが浮かんでいた。
「あんまり、気にしないで。次の作戦では、主戦力になるんですよね? この国に為にも、頑張ってください」
「了解です! 提督の指揮の下、暁の水平線に勝利を刻んじゃいます!」
事前に桐林から聞いていた話のおかげで、オイゲンが舞鶴艦隊の主力であること、次作戦でも火力の一翼を担うと知っており、激励に力が込められる。
対するオイゲンも、今度は真面目に、敬礼を以ってマリへ返した。
キラキラと輝くその表情から、溢れ出る活力が如実に感じられ、頼もしいの一言に尽きる。
しかし、不意にオイゲンの視線は横へと逸れ、顔付きが「元気一杯な少女」から「ヤる気に満ちた女」に変貌してしまう。
「……けどぉ、その為にもまずは~……。Admiralさんっ! 会えなくなる日の分だけ、い~っぱい、ハグして下さい!」
「お、オイゲンさん!? 駄目ですよっ、お客様の前で、はしたない……!」
シュタッ、と桐林の前に瞬間移動した彼女は、これでもかと強気な笑顔で両手を広げて。
海風が窘めるも止める気配はなく、桐林が盛大に溜め息をついた。
「……オイゲン。前から言っ――」
「ちょおぉおっとお待ちヲッ!!」
「うわぁ! ビックリしたぁ……」
――が、今度は別方向から大声が発生し、オイゲンがビクゥ! と飛び跳ねる。
挙手しているのはもちろん、家庭教師ルックな金剛だ。
ついでに鈴谷の目も据わっていた。傍から見て非常に恐ろしい。
「今、『テートクにHugして貰う』と聞こえましたガ、それはどういう事デスかっ!?」
「まさかとは思いますけれど、日頃から統制人格の方と、そういう行為をなさっているのですか……?」
「あ、あのっ、駄目です近藤さん、鈴山さん! お二人とも落ち着いて……!」
『貴方は黙っていなさい』
「はいすみません黙ります」
声高な糾弾と、低音の詰問。
堪らず萎縮してしまいそうな高低差に負けず、吹雪は二人を宥めようと試みるが、爛々と輝く視線を向けられ、あえなく轟沈した。
頼りない、なんて思わないであげて欲しい。それだけ凄まじい、嫉妬の炎が燃え盛っているのである。
その裏で、怒り狂う二人と怯える一人に見覚えがなかった海風は、コソコソ鹿島へ近づいた。
「あの、鹿島秘書官。さっきから気になっていたのですが、あちらの方々は……?」
「マリさんのお付きで、教育係の近藤さん、メイドの鈴山さんと吹石さんだそうです」
「教育係に、メイドさん……。海風、初めて見ました」
「実は私もです。けっこう可愛いですよね、メイド服」
「あ、いえ。そっちもですけど、別の意味も……」
「へ?」
香取と同じような、含みのある海風の発言に、鹿島はまた首を捻る。
あれを着れば提督さんの興味を引けるかなぁ……なんて考えていた彼女も悪いが、いいかげん鈍い鹿島だった。
反対に、金剛たちの怒髪天な様子に全てを悟ったらしいオイゲンは、不敵な笑みで、たわわな胸を張り。
「ふ~ん、なるほどね……。さっきの質問に答えるけど、答えは当然! いつもして――」
「ませんね」「おらんわな」
「――ってぇ、なんで邪魔するのぉ!?」
浜・浦コンビのカットインで体勢を崩す。
非難がましい目に、呆れた目線が二対。
「当たり前でしょう。隙あらば外堀を埋めて、既成事実を積み上げようとする人に、遠慮はしていられませんので」
「流石にウチも、嘘つくんはいけんと思うんやわ。オイゲンさん?」
「うっ。……嘘じゃ、ないもん……。ギューって抱き締めて貰ったことあるし! ……ぃ、一回だけ、だけど」
「えっ!? ど、どういう事ですか提督さんっ? いつ、いつオイゲンさんを抱き締めちゃったんですかっ!? ズルいですっ!!」
「鹿島秘書官……。今はそこに食いつくタイミングじゃないです……」
加えて鹿島まで参戦し、もはや場の空気はしっちゃかめっちゃかである。
海風は溜め息をつき、桐林の右眼が遠くを見つめ、マリも眼を白黒させていた。
(ウウウ……! 確かにテートクのイケメン度はUPしてますガ、こうもLove勢が増えているなんテ、予想外デース!?)
(ホントだよ! あんな無愛想になっちゃってるのに、どうしてそこまで好きになれんの!? っていうか、私だって壁ドンくらいしかされたこと無いのに……っ)
(Hey、鈴谷。後でその壁DONについて詳しーく聞きマスから、覚悟しとくネ)
(え、あ、いや、その、違くて……)
(海風ちゃん、大変そうだなー。友達になれないかなー。このままじゃ無理だよねぇー)
オマケに、横須賀勢の間では仲間割れまで発生しつつあり、事態の収拾は極めて困難となりそうだ。
吹雪は諦めの境地に達している。いっその事、全部バラして楽になりたい、とも思っていた。哀れ也。
混迷を極める執務室。だがしかし、ここで桐林が動く。
「……マリさん。オイゲンへの激励も済みました。この後、何かご希望は? お帰りになられるまで、出来るだけ善処しましょう」
あ、逃げた。
……と、その場に居る全員が思った。
動いたは良いが、なんとも後ろ向きである。逃げたくなるのも当然であろうけれど。
熱視線が乱れ舞う中、マリは非常に居心地の悪そうな顔で、桐林に答えようとする。
「あの……。桐林提督。その事、なんですけど……」
ところが、やけに弱々しい声を、《ジリリリ》、という着信音が遮った。
発生源は、執務机に置かれる、見た目だけが旧式の通信端末。
広がっていた混沌へも水が差され、海風がその合間を縫って受話器を取る。
「はい。こちら執務室。……あ、はい……。はい、分かりました。提督、香取秘書官からです」
「香取? ……代わった。何かあったか」
受話器の向こうにいるのは香取のようで、どうやら代わるよう言われたらしい。
桐林が海風から受話器を受け取り、しばし沈黙が続く。
流石の金剛や鹿島も、秘書官からの連絡を邪魔しようとはせず、一時休戦、といった空気が流れ始めた。
「……そういう事か……」
ややあって、桐林は重く呟く。
その瞬間、執務室の雰囲気は急変。皆に緊張が走る。
振り返った彼の右眼は、まるで日本刀のように鋭く細められて。
射殺さんばかりな視線が、先程からずっと顔を曇らせている少女――マリへ向けられた。
「今、香取から知らせが入りました。……貴方の荷物が届いた、と」
「え? 荷物?」
「ど、どういう事なの……?」
桐林の言葉に、鹿島とオイゲンは顔を見合わせる。
荷物が届いた……という言葉に含まれた意味と、ここまで厳しい顔をする理由とが、まだ結びつかないのだ。
対照的に浜風は全てを察したらしく、桐林と同じように左眼を細めていた。
「なるほど、真の目的はそちらでしたか。桐谷中将らしいやり方ですね」
「浜風、どういう事なん? 海風は分かる?」
「えっと、推測ですが……。マリさんが舞鶴を訪れた理由は、この庁舎に身を置く事にあった……んじゃないでしょうか。おそらく、桐谷中将のご指示で」
得心がいった、という素振りを見せる浜風の横で、浦風が海風へと尋ねる。
話を振られた彼女は、持ったままだったボールペンの頭を顎に当て、己が推論を述べた。
それを、マリ本人が裏付ける。
「その通り、です。マリの身柄は、たった今から、桐林提督に預けられます。桐林提督の家族を、お父様が預かっているように」
「嘘……」
「……まさか、それって。人質って事ですかっ?」
表情を殺し、事も無げに言ってのけられた内容が、オイゲンの顔を青く、鹿島を驚愕させた。
桐林の身内が桐谷の預かりとなっている事は、艦隊の統制人格ならば周知の事実だ。
加えて、険悪と言っていい彼らの間柄から、それは人質を取られているに等しいと、少し考えれば思い至れるであろう。
沈痛な面持ちの横須賀勢が、更に補足する。
「何モ、珍しい事ではありまセン。この国では戦国時代カラ、似たような事が行われて来ましタ」
「提督の家族に危害を加えないという、御当主様の誠意の証……ですわ」
「これからの事を考えると、絶対に必要な措置、だそうです……」
まだこの国を侍が闊歩していた頃の話だが、当時の武将たちの間では、あまり懇意ではない関係の家へも、時に子息を養子として出す場合があった。
将来的に敵対するつもりがないという証であり、逆にこれから懇意な関係となった場合、相手の懐へ入り込んだりする為の、外交的な身柄のやり取りである。
しかし、世情に流され、否応無く敵対関係に陥る事も多く、その場合、養子へ出された者は高い確率で亡き者とされてしまう。故に証となるのだ。
マリが舞鶴へと送り込まれたのも、これに相当する思惑があったからであろう。
わざわざ大規模作戦の直前という時期を選んだのは、対応を後手に回させ、済し崩し的に受け入れさせる為か。
作戦に影響が出る程ではないが、荷物を送り返すのにも面倒な手続きが要る。集中したいなら、後回しになる可能性が高い。
その間に各方面へと情報を流す準備を整えれば、包囲網は完成だ。公表するかはさて置き、実に桐谷らしい、意地の悪い方法だった。
イタリアと勝手に同盟を結んだ際の、意趣返しという側面もあるかも知れない。
いずれにせよ、今も昔も共通している点が一つ。
こういった身柄のやり取りは、往々にして当人の意思を無視して行われる、という部分である。
それに気付いたオイゲンが、義憤を抑えきれずに声を荒らげた。
「そ、そんなの酷い! 酷過ぎるよ! それじゃあ、この子の意思はどうなるの!?」
「オイゲンさん、駄目です。冷静に」
「だって……! 浜風はどうして落ち着いてられるのっ、こんなのって……っ」
「うん。オイゲンさんの気持ちはよう分かったから。な? まだ、提督さんがどないするか、決まってへんよ?」
「あ……。ごめん、浜風。わたし……」
「いえ、平気ですから。それよりも」
「……うん」
落ち着かせようとする浜風にも食って掛かる彼女だったが、浦風の静かな声を聞き、三人で桐林を見やる。
彼は片膝をつき、マリと視線の高さを合わせていた。
しかし、眼差しは厳しいままで。声も氷のように冷たく、固い。
「君は、理解しているのか。これがどういう事か」
「理解している、つもりです。まだ、十歳ですけど。千条寺家の女、ですから」
「いいや、理解していない。
いざという時、どんな扱いをされても文句は言えなくなるんだぞ。
君は知らないんだ。人としての尊厳を無視される憤りを。気紛れに苦痛を与えられる恐怖を。
一度でも染み付いたら……。もう二度と、落とせなくなる。それでも良いのか」
マリの身体が、わずかに震える。
己を見つめる瞳に、果てしない闇を見たからだ。
激情と、諦観と、苦悶。様々な色が混じり合った結果、生まれてしまった漆黒。
誰一人として、口を挟めなかった。
実際に敵性勢力に拉致され、拷問と変わらぬ実験の被験者となった桐林の言葉には、そうさせるだけの重さがあった。
逆説的に言えば、必要ならマリをそのように扱うと、彼は言っている。
直接手を下さずとも、幼い身と心を砕くのに要する屈辱など、世に幾らでも転がっているのだから。
「分ったなら、今すぐに帰るんだ。君の居場所は、ここには無い」
「あ……っ」
「て、テートク。そんな言い方……」
「下がっていて貰おう。これは自分と、千条寺家の問題だ」
桐林に突き放され、顔を伏せるマリ。
金剛がやっとの思いで苦言を呈すけれど、彼も聞く耳持たず、といった様子だった。
普通の小学生には通じない話だろうが、歳不相応に聡い少女だ。何を言われたのか、しっかり理解しているだろう。
その証拠に、小さな手がワンピースのスカートを、クシャリと握り締めている。
だが、少しの間を置き、ゆっくり上げられた顔には――
「確かに、マリは知りません。貴方の怒りも、苦しみも……。けど、代わりに信じている事が、ます」
「……信じる? 何を」
「お父様の、マリへの愛情を、です」
――強い、とても強い決意が滲み出ていた。
およそ少女らしからぬ表情を、しかし桐林は鼻で笑う。
嫌味ったらしく、ふてぶてしい顔で。
「自分の娘を人質として差し出すような男に、愛されていると? ロマンチックにも程がある。現実から目を背けているだけだ」
「他の人から見れば、お父様は歪んでいると思います。冷たい人だと、思われるでしょう。
けど、マリは知っています。お父様が、どんなに“家族”を愛しているか。あの笑顔の裏で、どんなに泣いているのか」
どんなに悪し様な言葉をぶつけられても、マリは折れない。
桐林の視線を小さな身体で受け止め、対決している。
己が矜持を示さんと、真っ向から。
「そのお父様が、貴方を選んだんです。
だからきっと、マリは幸せになれます。幸せになってみせます。
……これが。千条寺家の女の、生き方なんです」
胸を張り、たった十歳の幼子が、そう言葉を結ぶ。
この道は、父が敷いた道。その上を歩くのが、千条寺家に産まれた女の宿命。
けれど、そこには確かに想いが宿っている。
そう信じているからこそ、絶対に、幸せになって見せる、と。
桐林は目を丸くした。
いや。彼だけでなく、執務室に居る全員が、マリの見せた予想外の強さに目を見張っていた。
深く息を吐き、立ち上がった桐林が天井を見上げる。
皆、固唾を飲んで彼の動向を見守り、ややあって戻された顔からは、先程までの暗い感情が消え去っていた。
「君は……。強いんだな」
「はい。目が眩みそうな名前のお陰で、鍛えられました」
「ふっ、そうか。……試すような真似をしてしまいました。どうか御勘弁を」
呟きには軽口が返され、小さく微笑む桐林。
海風や鹿島が、「提督(さん)が笑った……」と密かに驚いている横で、彼は頭を垂れる。
互いに立場があるとはいえ、大の大人が子供相手に、脅迫染みた物言いをしたのだ。
謝罪するのは当然としても、普通はプライドが邪魔をし、こう素直には。それだけ深く反省している、という証拠だろう。
ところが……。
「嫌です。許しません」
「は……?」
「許して欲しかったら、マリのお願い、三つだけ聞いて下さい」
「……内容にもよりますが。善処はします」
マリは謝罪を逆手に取り、不敵にも頼み事を要求してきた。
この肝の太さ。確かに彼女は、桐谷の娘である。
苦笑いする桐林に、まずは右手の人差し指が立った。
「一つ目。嫌われたくないので、別荘に帰りますけど。お父様には言い訳したいので、荷物だけ、置かせて貰えますか」
「構いません。まだ部屋は余っていますので。……鹿島、海風」
「……あ、は、はいっ。香取姉と連絡を取って、運び込んでおきます!」
「頼む」
「了解です!」
唐突に名前を呼ばれ、鹿島は慌てながら頷き、海風も敬礼で承る。
これからは舞鶴で過ごせ、と家を送り出されたマリだ。
なんの成果も無く帰るのは問題だが、荷物さえ置いてあれば、いつでも生活を始められると言い訳は立つ。
部屋を用意しておく程度なら、丁度良い妥協点である。
「二つ目。また、遊びに来ても良い、ですか?」
「……浜風、浦風、オイゲン」
「もちろん。是非お出で下さい」
「今度は、ちゃーんとお持て成しせなあかんね?」
「うん! 次の作戦が終わったら、本場のドイツ料理を作るから! 楽しみにしてて!」
二本目の指には、浜・浦コンビとオイゲンが笑顔を返す。
複雑な立場の少女だが、それ以外は……礼儀正しく、甘いお菓子に目が無くて、本名がちょっと痛々しいだけ。
また会いたいという他愛ない願いを、どうして無碍に出来ようか。
マリにもようやく笑顔が浮かび、彼女は最後の願いを口にする。
「三つ目。その時は、他にも人を呼んで、良いですか?」
「……金剛たちのように、ですか」
「ブフォア!? だ、だだだ誰デスか金剛ってー? そんな高速戦艦っぽい名前の人、ここっこには居まセンよぉ?」
垂れ流される汗。泳ぎまくる眼。ズレる眼鏡と口調。
本当の名を呼ばれ、金剛のキャラは色んな方向から崩れた。
否定したい気持ちと反比例して、行動が肯定してしまっている。
鈴谷が顔を引きつらせつつ、桐林に問う。
「……もしかして、最初っからバレてた?」
「バレてないと思っていたのか、君たちは」
「ですよねぇ……。そうじゃないかって思ってました……」
ガックリ。
吹雪は肩を落とし、「アハハ……」と乾いた笑いを零しながら項垂れる。
金剛に下がっていろと言った時も、彼女が千条寺家の人間でないと確信していたから、あんな言い方が出来たのだろう。
電と雷を一目で見分ける桐林だ。
多少の変装で誤魔化せると思った、金剛たちが甘過ぎたのである。
「フッ……。バレてしまっては仕方ありまセン……。ワタシこそは!」
ところがどっこい。
バレたらバレたで腹が据わったのか、金剛は強気に不敵な笑顔を浮かべ、スーツの肩を掴む。
空気を読んだ鈴谷、吹雪も同様に服の一部を掴み、一瞬の間。
そして、勢いよく服を引き剥がせば、いつも通りの格好をした三人が立っていた。
「横須賀艦隊にこの船ありと謳われた高速戦艦、金剛デース! テートクへのLoveは、誰にも負けまセン!」
「同じく! 最上型航空巡洋艦の鈴谷だよ! やー、賑やかな艦隊だね、こっちも」
「特型駆逐艦のネームシップ、吹雪です。バレバレの見苦しい嘘をついて、すみませんでした……」
分割袖の改造巫女服と、ブレザータイプの制服。二人が背中合わせに正体を明かす。
その後ろで、脱ぎ散らかされた衣装を回収するセーラー服の吹雪は、一人で頭を下げまくっていた。なんというか、苦労人臭が凄い。
あんまりと言えばあんまりな登場の仕方に、鹿島も大口を開けている。
「そ、そんな……。近藤さんたちが、統制人格だったなんて……。ぜ、全然気付きませんでした……!」
「え。そうだったん? ウチ、一目で気ぃ付いたけど。なぁ? 磯風も香取秘書官も気付いとったやろうし」
「はい。谷風辺りは、面白そうだから黙っていたんでしょう。むしろ、どうすれば気付かずに居られるのかが疑問です」
「うっ。は、浜風ちゃん、そこまで言わなくても……。お、オイゲンさんと海風ちゃんは、気付きませんでしたよねっ?」
「あー、ごめん鹿島秘書官……。気付いてたけど、提督が何も言わなかったから、気付かないフリしたのが良いのかなー、って……」
「う、海風は、ですね……。ごめんなさい、普通にそうじゃないかと考えていました……」
「……気付かなかったの、私、だけ?」
どうやら、拙い変装も鹿島だけは騙し通せていたようだ。
この朴訥さで秘書官が務まるのかと、一抹の不安を抱く浜風たちであったが、金剛たちに害意が無かったからで、本物のスパイ相手なら、彼女でもピンとくるに違いない。きっと。多分。恐らくは。
さてさてさて。
シリアスが明後日の方向に吹き飛ばされ、ますます勢いづく金剛。
彼女は、水を得た魚のように生き生きと、桐林へ人差し指を突きつけた。
「テートク! ここで会ったが百五十日ぐらい目! 大人しくHugさせるデース!」
――かと思えば、超高速の踏み込みで距離を詰め、ほぼタックルと同義の抱き着き攻撃を仕掛ける。
だが、桐林は読んでいたらしく、マリを巻き込まないよう、左に大きくステップして回避。
そのまま執務机に突っ込むと思われたけれど、しかし金剛は猫が如く身体を翻し、再び桐林へ跳躍。
流石の桐林も驚いたものの、今度は倒れ込むように身体を低くし、金剛の下を潜り抜ける。
「ク……! テートク、腕を上げたようデスね……!」
「白兵戦の訓練は積んでいる。それより、金剛」
「問答無用ネ! 鈴谷っ、Back up!」
「へ!? りょ、了解っ」
悔しそうな口振りだが、舌舐めずりする金剛の姿は、手強い獲物を前にした捕食動物さながら。
諦めるという考えは微塵もなく、最低限の動作で体勢を立て直す桐林に、鈴谷を伴って三度目の強襲を謀った。
統制人格二人を相手に、桐林も形振り構わず部屋を駆け巡る。
金剛、鈴谷が時間差で突進してくるのを、桐林が机へ登って躱す。
脚を捕まえようとする二人。跳躍し、壁際の本棚の前へ着地する桐林。
そこへ鈴谷が再び襲い掛かるも、タイミング良く横にステップされて本棚に衝突。「ふぎゃ!」と変な鳴き声が。しかし、反対方向からは金剛が回り込んでいた。
万事休すかと思われたが、桐林は「I won't Youー!」と伸ばされた手を弾き、横へズレながら一回転。金剛の背中を押しやり、鼻を赤くした鈴谷へと打っちゃる。
またしても響く、「へぎゅ!?」「oops!?」という鳴き声に加え、衝撃で本が落下。追い討ちをかけた。
ここで諦めてくれれば良かったのだが、いいように遇われて火が着いたのか、鈴谷が「あったま来た……!」と立ち上がり、金剛も眼を爛々と。
長々と描写してきたけれど、掛かった時間は僅かに十秒足らず。
瞬く間に執務室は荒れ果て、資料も床に散乱し、書類が木の葉と舞っていた。
それをピョンピョン飛び跳ねて回収する海風が、困り果てた顔で叫ぶ。
「ちょ、あの、駄目です! し、執務室で暴れないで下さい! せっかく纏めたのにぃ!?」
「そうですよー。後で困るのは海風ちゃんと私たちなんですよー。もういい加減にしてー」
「お願い吹雪さん、もうちょっと頑張ってぇ!?」
一応、吹雪も加勢っぽい事をするのだが、もう見るからにやる気が無く、ダラダラと書類を集めている。
桐林が大人しくハグされていれば、こんな事にはならなかったのだろうが……。
いや、ハグされたらされたで、今度は我も我もと、鹿島やオイゲンが騒いだだろうし、どっちにしろ迷惑千万だ。
ちなみに、浜風は未処理の重要書類を。浦風は処理済みの物を重点的に回収しており、見事なコンビプレーを見せていた。慣れているようにも思える。
鹿島はマリと一緒に窓際へ避難中であり、残るは一名。
追いかけっこする桐林たちを、呆然と眺めていたオイゲンは、この事態を彼女なりに、面白おかしく考えた結果……。
「あ、分かった! これ、Admiralさんを捕まえればハグし放題っていう事ね!
だったら、このプリンツ・オイゲン、参戦しないわけにはいきません! とう!」
「っ!?」
何故か横須賀勢に加わって、桐林を追いかけ始めた。
予想外にも程がある不意打ちを、彼はなんとか回避してみせるも、多勢に無勢の三対一。ジリジリと、部屋の角へ追い詰められていく。
的確な表現ではないかも知れないが、まるで逆レ○プされる寸前だ。
桐林の貞操の危機を前に、鹿島は思い悩む。
(ど、どうしよう。秘書官なんだから止めるべき、よね。けど、提督さんとハグもしたいし……。ううう、どうすれば良いのぉ!?)
ここで止めに入れば、提督さんを助けられて好感度も稼げるよー、と。天使なチビ鹿島が勧める。
かたや、悪魔なチビ鹿島はこう囁く。四対一なら流石の提督さんも捕まえられるし、そうなればハグし放題よー、と。
胸の中でせめぎ合う、善なる心と悪しき心。
目を輝かせ、「サーカスみたい、だった」と、なんでか喜ぶマリを庇いつつ、だんだん天秤が悪へ傾き始めた時――
「鹿島っ、窓を!」
「えっ!? あ、はい!」
――桐林からの唐突な指示で、鹿島の身体は勝手に動き始めた。
刹那、その声を合図とし、三人の捕食者が獲物へ殺到するのだが、彼は三角跳びの要領で壁を蹴り上がり、彼女らの頭上を跳び越える。
鹿島が防弾窓の鍵を開けるのと、桐林がゴッツンコする三人の背後に着地するのは、ほぼ同時。
そして、立ち直られる前にまた駆け出し、開け放たれた窓の外へと身を投げ出す。地上三階の窓から、である。
「……ぇ、飛び降――!?」
一瞬遅れてマリは驚愕し、窓枠へ飛びつく。
流石に、このままでは大怪我をしてしまう! ……と、鳥肌を立てながら階下を見やれば、そこには何事も無かったように着地し、どこかへと走り去る桐林の後ろ姿があった。
訳が分かりません、などと言いたげな表情で、小さくなっていく影を目で追うマリ。どうやら、桐林の異常な身体能力については聞かされていなかったようだ。
更に、彼女の背後へと、間髪入れずに金剛、鈴谷、オイゲンが駆け寄り……。
「sit! 逃げられましタ! Hey,Girl’s! 後を追いますヨ!」
「当然っしょ! こうなったら、意地でも捕まえるかんねっ」
「もちろん、私も行きます! ビスマルク姉様の分まで、しっかり提督エナジーを充填しなきゃ!」
勢いもそのまま、スカートを押さえて飛び降りていく。
絶対に真似をしてはいけない光景が繰り広げられ、マリの脳は考える事を躊躇した。
が、しばらくすると立ち直り、「そういうものなんだ」と、無理やり自分を納得させる。
窓の外は海に面していて、その大きさに比べれば、今ここで起きた事の、なんと小さい事か。
……実際には相当おかしな出来事であろうけれど、彼女の精神衛生を保つ為、そういう事にしておいて頂きたい。
「噂には聞いていましたが、本当に台風のような方でしたね……。さぁ、皆さん。香取秘書官がお戻りになる前に、部屋を元通りにしましょう」
「せやねぇ。このままじゃったら、間違いなく雷が落っこちてまうわ。吹雪ちゃんと海風は、本棚を頼んでエエか?」
「あ、はい。分かりました。……結局、私ってこういう役回りなんですね……」
「吹雪さん……。身につまされますから、そんなこと言わないで……」
視点を屋内へ戻すと、嵐が過ぎ去ったばかりのような惨状の中、乱痴気騒ぎに加わらなかった五人が、浜風の指揮の元、後片付けに勤しんでいた。
散乱した文房具を正しい位置に。書類はまとめて分類。落ちた本も巻数通り。
吹雪と海風に至っては、悲しみのシンパシーまで。常識人の苦労は、きっとこれからも続くのだろう。挫けないで欲しいものである。
徐々に整頓されていく室内だったが、無言で作業していた鹿島は、ふと窓の外を見やる。
その思わせ振りな視線に気付いた指揮官・浜風が、ジト目で声を掛けた。
「鹿島秘書官。まさかとは思いますが、追い掛けたいとか思っていませんよね?」
「えっ!? そそそ、そんな事あるはずないじゃないですかぁー。や、やだなぁ、浜風ちゃんったら……」
「ほんならエエんやけど。金剛さんらも、あと五分もしたら痛い目ぇ見るやろ。ほれ、早いとこ片付けんと」
「はぁーい……」
ビクッ!? と飛び跳ね、抱えていた資料を落としてしまった鹿島。図星を突かれたに違いない。
が、浦風は敢えてスルーし、何やら予言めいた呟きと共に、作業の継続を促す。
仕方なく資料を纏め直す鹿島だったけれど、五分後、彼女は己の判断が正しかったと思い知らされる。
何故ならば……。
『……何をしているんですか貴方達はぁあああっ!?』
――という姉の怒声が、鎮守府全体に轟いたからだ。
反射的に直立不動となりながら、鹿島は思う。
ああ、欲望のままに行動しなくて良かった、と。
金剛を反面教師として、是非にも我が身を振り返って貰いたいものである。
《オマケの小話 鹿島さん、対抗する》
「んぁー、メッチャ怖かったぁ……。まさか、舞鶴にも妙高さんポジの人が居るなんて、予想外にも程があるわ……」
「自業自得ですよ、鈴谷さん。私たちはいい迷惑だったんですから」
「だから謝ってるじゃーん。そんな怒んないでよ吹雪ー」
時は過ぎ去り、二二○○。
五時間におよぶ香取の説教&正座から解放された鈴谷は、吹雪の介護を受けながら夕食と入浴を終え、割り当てられた部屋のベッドの上で、のんべんだらりとしていた。
下着の上に自前のワイシャツだけという、男にとってはなんとも嬉し恥ずかしな格好だが、この部屋に居るのは女性ばかりなので、然して問題ではないだろう。
女性ばかりと言ったが、ワイシャツ姿の鈴谷と、雪花模様の白いパジャマを着る吹雪だけではなく、他にも数名の人影がある。
ダボダボのTシャツに半ズボンの谷風。
若竹色の、ゆったり目な作務衣を身に付け、髪をポニーテールに纏める磯風。
髪を解いて、薄い水色のネグリジェを着た海風。
海風と同様に髪を下ろし、金魚柄の浴衣を纏う鹿島の四人が、クッションに座り車座となっていた。
中心にはお菓子やジュース類が所狭しと並んで、ちょっとしたパーティーのようだ。
「しっかし、アンタらもやるもんだねぇ。メイド服着てカチコミ掛けるたぁ、谷風さん恐れ入ったよ」
「うむ。あんな格好をする度胸は、私にはない。流石、特型のネームシップ。感服したぞ」
「あはは、褒められてる気がしないのはなんでだろう……」
「ですね……。あ、でも、姉の春雨とかは着たがるかも知れません。メイド服」
「確かに、可愛かったですよね。凄く似合ってましたよ、吹雪ちゃん」
「そうですか? なら良かったです。ちょっと恥ずかしかったですけど……」
微妙に嬉しくない褒められ方で、吹雪の疲労感は一層強くなった。海風と鹿島のフォローが、唯一の救いか。
あの後の経緯を説明すると、以下のようになる。
執務室から脱出を果たした桐林は、香取が居るはずの資材搬入口へと向かう。
着かず離れずの距離を保つ後ろ姿を、そうとは知らずに金剛たちが追いかけ、数分後。
何故か立ち止まっている桐林に、三名は即席ジェットストリームアタックを仕掛けるのだが、彼は先頭の金剛を踏み台にする事なく、己の背後に隠れていた女性――香取と場所を入れ替えた。
にっこりと微笑んだ彼女は、大きく息を吸い込み……。後はご存知の通りだ。
冷たいコンクリートに正座させられ、まず一時間。
犯罪者のように顔を隠し、連行されながら三十分。
庁舎地下の反省房で、また正座させられつつ三時間半。
そろそろ許してあげませんか? と、差し入れを持って来た間宮の執り成しにより、彼女らは説教地獄から解放された。間宮が女神へと昇華した瞬間である。
ちなみに、オイゲンだけは任務のおかげで一時間半で済んでいる。ちゃっかりしているというか、ラッキーというか。
同じ頃、マリも本物の付き人と別荘に向けて出発した。次回はキチンと連絡してから、という事なので、一先ず安心だろう。
「そういやぁ、金剛さんはどこ行ったんだい? 横須賀のみんな、香取秘書官の厳命で外出禁止だろ? 海風、なんか知ってる?」
「あ、はい。今は提督とご一緒のはずですよ。なんだか、色々とお話ししたい事があるみたいで」
「ふむ。そうか……。一年足らずとはいえ、共に死線を潜り抜けた仲だ。積もる話があるんだろう」
「いや、どうなのかな。明日には帰らされるから、真面目な話の振りをして、司令官と二人っきりになりたいだけかも知れないよ?」
「け、けっこうハッキリ言うねぇ……。吹雪ってもしかして、金剛さんのこと嫌い?」
「そんなんじゃないよ、谷風ちゃん。ただ単に、巻き込まれるのが す っ ご く 迷惑なだけで」
「それは、ほぼ嫌いと言って良いのでは……?」
「磯風さん、駄目です。ちょっとストレスで攻撃的になってるだけですから、きっと……」
ともあれ、今さら追い返すにも時間が遅い。
仕方なく舞鶴で宿泊し、明日一番に立つ事となっている。
横須賀勢が暴れ回ったのは、まだ庁舎に残っていた、相当数の統制人格にも知らされた。
が、「これ以上、作戦前に騒ぎを起こしたら……」と教鞭をしならせる香取の笑顔に怖じ気づき、挨拶も出来ないようだ。
ここに居るのは、横須賀勢の監視を命じられたメンバーであり、金剛は海風の言った通り、桐林と面会中である。
そんな訳で、統制人格オンリーのパジャマパーティーが開催されているのだった。
「あの……。鈴谷さん?」
「ん、なぁに? 鹿島秘書官、だよね」
「はい。練習巡洋艦の鹿島です。改めまして、よろしくお願いします」
「あ、うん。えっと……。最上型の三番艦、鈴谷だよ……って、昼間も言ったっけ。よろしくねー」
皆は思い思いに語り合い、普通の人間であれば即脂肪に変わるだろう、遅い時間のお菓子をつまみ、小さなパーティーを楽しむ。
その中で、菓子の受け渡しをしつつ、鹿島と鈴谷が改めて挨拶を交わした。
雰囲気的には、渋谷辺りをうろついていそうな女子高生と、お嬢様学校に通う箱入り娘の邂逅、といった所か。
「実は、折り入って御相談があるんですけど……。お話を伺っても良いですか?」
「へ。相談? まぁ、聞くだけならタダだし構わないけど、そんな堅苦しい話し方じゃなくってさ、もっと気楽にできない? その方が楽っしょ?」
「そ、そう、ですか? じゃあ……。鈴谷ちゃんに、聞きたい事があります! 教えて貰えませんか?」
「うーん、まだ硬い……。けどいっか。なんでも答えてしんぜようっ」
気楽に、と言われても、若干の敬語が残ってしまう鹿島。
真面目な子だなぁ、と苦笑いしつつ、鈴谷はベッドの上で胡坐をかき、偉そうに胸を張る。
快諾を得た鹿島はホッと一息。どうしても聞きたかった事を、遠慮無く尋ねてみた。
「提督さんって、横須賀ではどんな感じだったんですか? 私、提督さんの横須賀時代をあんまり知らなくて……。だから、知りたいんです」
知りたいのは、想い人の過去。
数ヶ月前に起きた舞鶴事変と、それ以降の事はそれとなく聞かされているが、桐林が顔に傷を負う以前を、鹿島はほとんど知らないのだ。
本人に聞いても、はぐらかされるか「つまらない話だ」と一蹴されるだけなので、こういった機会を逃したくないのである。
加えて、残る舞鶴勢――谷風、磯風、海風も食いつく。
「ほっほーう。面白そうな話してるじゃないさー。アタシにも聞かせておくれよっ」
「ふむ。司令の過去か。特に気にしたことは無かったが、知っていて損でもないな」
「海風も、ぜひ知りたいです。今の提督とは随分違うと、噂に聞くだけなので」
四人の眼は期待に輝き、吹雪、鈴谷の声を待っている。
特に断る理由もなく、顔を見合わせる二人だったが、まず思い浮かぶのは、今の桐林と、彼女たちの知る桐林との差異だった。
「まー、確かに変わっちゃってるよねぇ……」
「全然笑ってくれませんでしたもんね……。いつも笑顔を絶やさなかったのに」
「提督さんが、いつもニコニコ……?」
「うぅむ……。想像がつかないな」
「むしろ怖くないかい? ニコニコしてる提督って、メッチャ怒ってそうだわ」
「そ、そんなこと無いと思いますけど……」
首を傾げる鹿島に続き、磯風が難しい顔で唸る。
舞鶴勢の彼女らにとって、桐林は自他共に厳しく、常に緊張感を孕む人物だった。
まぁ、時々おかしな言動をする事もあったが、ユニークな側面として楽しめる程度だ。
しかし、常に笑顔となるとその範疇を超え、谷風の言に頷くしかない。海風ですら、ああ言いながら「怖いかも……」と、密かに思っている。
舞鶴勢のこんな反応を見て、今度は鈴谷が問い掛けた。
「逆に、こっちからも聞かせて? 鹿島秘書官たちの知ってる提督って、どんな感じ? 答えるためにも知っとかないとさ」
「私たちの知っている、提督さんですか……」
鹿島の呟きを最後に、舞鶴勢は悩み始める。
鹿島の中の桐林像は上記の通りだが、皆それぞれに思う所もあるようで、谷風を皮切りにそれが語られた。
「顔が怖い」
「良くも悪くも武人だな。堅物だが、好いている統制人格は多そうだ」
「とても仕事熱心な方で、尊敬しています。ただ、ご無理をなされていないかが、いつも心配で……」
「普段は無愛想に見えますけど、本当はすっごく優しくて、格好良くて、素敵な人ですよねっ」
単なる感想から、心象、心配な部分、恋話と、四人の意見は多岐に渡る。
ちなみに、谷風、磯風、海風、鹿島の順である。間違えようがないだろうが。
(鈴谷さん、どうしましょう。私たちの知ってる司令官と、似ているようで似てない気が……)
(……ふーん。鹿島秘書官って、やっぱそうなんだ……)
(あれ? 鈴谷さん?)
話を聞いた吹雪は、自身の持っていた印象との差異に困惑し、鈴谷と話し合おうとするのだが、何かおかしい。
ついさっきまで笑顔満天だった鈴谷が、妙に真剣な顔で鹿島を見つめているのだ。
眼を向けられた鹿島も、頭の上に疑問符を浮かべている。
気不味い沈黙。
どうにかそれを繕おうと、吹雪が横須賀時代の桐林を語り出す。
「え、えと。私個人の提督への印象なんですけど。
仕事や任務中はすごく真面目で、でも、それ以外は結構お調子者というか、そんな感じでしたね。
あ、勤務時間中に雪合戦した事もあるんですよ?」
「え? 提督さんと、雪合戦ですか」
「はい!」
目を丸くする鹿島に、吹雪は大きく頷く。
「去年、秋が終わって、冬になってから初めての雪の日でした。
つい窓の外を眺めてたら、ちょっと強引に外へ連れ出されて……。
そうしたら、庁舎のすぐ側で姉妹艦のみんなが、雪合戦してたんですよ」
「へぇ~、楽しそう……」
瞼を閉じ、柔らかく微笑む吹雪に釣られ、海風も笑う。
舞い散る雪。
白い絨毯を踏みしめる二人。
楽しげな少女たちの声。
海風は想像するしかないが、吹雪の中には確かにある、在りし日の思い出だった。
「うん、楽しかった。後で妙高さんにコッテリ怒られちゃったけど。でも、本当に楽しかったなぁ」
胸の前で両手を握り、吹雪は祈るように、暖かな日々を振り返っている。
夢見る乙女……とでも題をつけたくなる姿が、谷風の心のアンテナに引っ掛かった。
(磯風、どう見る?)
(脈あり、だろうな。本人は気付いてなさそうだが、何か切っ掛けがあればコロッと行くぞ、アレは)
(提督さんと、雪合戦……。
粉雪が舞う中、笑い合って。ふとした拍子に転んじゃって、助け起こされて。
繋がれる手、見つめ合う瞳、近づく距離。
そして、ついに唇が、か、重なって……とか! とか! 最高じゃないですかっ! きゃー!)
ニヤついた谷風に問われ、磯風が彼女なりの分析結果を示す。
きっと、間違ってもいないだろう。これからどうなるか、までは分からないけれど。
それと関係無く、鹿島は雪合戦という単語からロマンティック回路を暴走させ、都合の良い妄想をしては、吹雪とは正反対の、不審な笑みを浮かべている。
見た目が浴衣美人なだけに、残念さが酷く強調されていた。
加えて、吹雪の話に強い衝撃を受けた人物が、もう一人居たらしく……。
「へ、へぇ。吹雪って、提督とそんな事、してたんだ……」
「あはは。なんか子供みたいですよね。ちょっと恥ずかしいです。鈴谷さんはどうですか? なにか、司令官との思い出とか」
「え゛っ、わ、私っ?」
話を向けられてしまい、その人物――鈴谷が慌てふためく。
落ち着いてさえいれば、別段慌てる事でもないと気付けたはずだが、吹雪が予想外に桐林と近かった事を知り、彼女は冷静さを欠いていた。
そして、ろくに考えもせず、思い出という名の爆弾を投下してしまう。
「……か、壁ドン状態で口説かれた……とか?」
『えっ』
驚きの声が五つ重なり、また気不味い沈黙が広がる。
失言に気付いた鈴谷は、なんとか誤魔化そうと、身振り手振りを交えて弁明を開始した。
「い、いやっ、あのほら、わ、私から挑発したのもあったし、結局はフザケ半分だったんだけどさ? あん時は参ったなー。本気で、押し倒されるかと……」
――が、口から出たのは、弁明と程遠い何かで。鈴谷は混乱しているようだ。
(やばい。なに言ってんの私。
口説かれてないじゃん。からかわれただけじゃん。
早く冗談だって言わないと、後に引けなくなっちゃう……!)
どうやら彼女も、自身の混乱ぶりは理解しているらしいが、訂正したいと思う心と裏腹に、口は動こうとしない。
それどころか、微かに頬を染め、俯き加減に己を抱き締めるという行動は、発言の説得力を増すばかり。
すっかり信じきった皆が騒ぎ出した。
「ほっほぉー、やるねぇ提督もー。こりゃ、いよいよ間宮さん・伊良湖っちとの三角関係も現実味を帯びてきたかね?」
「う、む……。いや、あの歳の男性だ。そういう経験があってもおかしくは、ないだろうが……。どうなのだろうな……」
「あの、鈴谷さん。参考までにお聞きしたいのですが、て、提督はどんな口説き方を……?」
「き、気になります。鈴谷さん、教えて下さいっ」
「えー? 吹雪までぇ? こ、困っちゃうってー。
……別に、普通の口説き文句だと思うけど。
髪が綺麗だとか、戦ってる姿が格好良い、とか言われただけだし。
っていうか、三角関係って何? どういうこと?」
「か、髪……」
「戦ってる、姿……」
谷風は歓声を上げ、生々しくなった男女関係の話を、磯風が恥ずかしがる。
海風と吹雪は更なる詳細を求め、鈴谷の答えに、己へと置き換えた妄想を始めた。三角関係を問い質す声も、全く届いていない。
女が三人で姦しいと書くが、六人揃うと実に騒々しかった。
……いや、訂正しよう。一人だけ微動だにせず、黙りこくる少女が居る。
一番に大きな反応をしそうだった、鹿島だ。
「あれ。鹿島秘書官が黙ってるなんて、珍しいね。ほれほれ、なんか言い返す事ないのかぃ?」
「え。あ……。その……」
背後へ回った谷風に突っつかれ、ようやく正気を取り戻す鹿島。
彼女は明らかに動揺しており、言葉に詰まっている。ショックを受けたのだと、誰の目にも分かる有様だ。
それを見た鈴谷の心に湧き上がったのは、強い罪悪感と、後ろ暗い喜び。
「鹿島秘書官には何かあるの? 提督との思い出。吹雪みたいに何かしたー、とか」
追い討ちをかけるように、鈴谷が問う。答えられない鹿島は、ただただ俯き続け……。
彼を好いている女の子の前で、彼に口説かれたと自慢して、優位に立とうとしている。
最低だ。なんて最低な事を。そう理解しながら、鈴谷は止められない。
そうさせる感情を、どう呼べばいいのか知りながら、目を逸らす。
二人の間に流れる空気の変化を悟り、谷風も磯風も、口を噤んでいた。
吹雪たちは未だ妄想に浸っているので、狭い部屋は三度目の静寂に包まれる。
ややあって、鹿島は鈴谷へと答えるために顔を上げる。浮かんでいたのは、とても穏やかで、儚い微笑み。
「……いいえ。特別な事は、なにも……」
「あれ? そうなんだ、意外。鹿島秘書官って可愛いし、提督の事だから、てっきり口説いたりとかしてるかと思ったのに」
「はい……。ピアノを聞かせて欲しいとお願いされたり、居眠りする提督さんに膝枕をして差し上げたり……。そんな、普通の事しかしていません」
「……うんっ!?」
ところがどっこい。可憐な唇が言い放ったのは、宣戦布告に等しい内容だった。
傍目には落ち着き払って見える彼女だが、その実、メチャクチャ対抗心を燃え盛らせていたのだ。
勝ち誇っていた鈴谷が驚愕に目を剥き、鹿島はいつになく余裕な笑みを。
バチバチと、目に見えそうな火花を散らす二人の“女”。
戦慄した磯風が、退避しようと谷風に囁く。
(……谷風。不味いんじゃないのか、これは)
(うぃっひっひっひ! 提督を巡って争う、古巣の女と現地妻……。こりゃあしばらく、イジるネタには困らないねぇ、面白くなってきたぁー!)
(駄目だこいつ……。早くなんとか……もう手遅れか)
だがしかし。賑やかし担当を自負する谷風は、別の意味でテンションがウナギ登り中。
もはやこれまでと、磯風も匙を投げる。人生、諦めが肝心な事だってあるのだ。
そんな外野を無視しているはずの鈴谷と鹿島も、何故だかボルテージを上げて。
「膝枕とかが、普通なんだ?」
「はい。とても穏やかな寝顔を見せて下さるんですよ。……見た事、無いんですか?」
「っ! あ、あるしっ。っていうか、それ以外にも色んなもの見てるし、されてるから、私」
「えっ!? ……ぐ、具体的には?」
「ぁ、えっと……。し、しつっこく頭を撫でられたり……あとは……き、着替えを覗かれたこともあった……かも……」
「着替……!? そ、そうなんですかー。……わ、私はっ! 胸に顔をうずめられた事があります!」
「えええっ!? 胸ぇ!?」
ちょいちょい素に戻りつつ、ブラチラを大袈裟に言ってみたり、事故を故意のように言ってみたり。
売り言葉に買い言葉の、見栄張り合戦が繰り広げられる。
もう、実際にあった事でなくても、嘘でもなんでも良い。
睨み合う二人の間にあったのは――
(この子にだけは、負けたくない!)
(この人にだけは、負けられない!)
――という、邪魔をすれば馬に蹴られそうな、乙女特有の感情なのだから。
決着がつくまで、鈴谷と鹿島の戦いは続くのだろう。
だが、彼女たちは知らない。
激戦の続くその部屋に、ハイヒールの足音が近づいている事を。
靴音の主の手には、教鞭が握られている事を。
本日二度目の雷が、間も無く落ちる。
「wow! 眺めが良い展望Loungeですネー! こういう所に来るの初めてデース」
「……明日の朝には帰ってもらうぞ、金剛」
「Boo……。せっかく二人っきりでMoodyな場所に居るノに、そんな話しないでくだサイ。分かってマス……」
「………………」
「……テートク? 一つ、聞いてもいいデスか?」
「なんだ」
「テートクは今……。寂しく、ありまセンか」
「……さぁな。考えたことも無かった」
「あ……」
「……ただ……」
「?」
「今日に限って言えば、誰かのせいで考える暇も無かった、というのが正しい、かもな」
「テートク……。エッへへ……」
「笑う所か?」
「笑う所なんデース。ワタシは、笑いたくなったら笑って、泣きたくなったら泣くのデス。……誰かの分まで、ネ?」
「……好きにするといい」
「ハイ。好きにしマース」
「はぁ……。いよいよ明日、出撃かぁ……。作戦会議の時みたいに、失敗しないようにしないと……」
「気持ちは分かるけど、あんまり気負っちゃ駄目よ? まだたった二隻だけど、私たちは乙型駆逐艦。そのための力はもう頂いてるんだから」
「……そう、だよね。ウジウジしてちゃダメ、だよね。長十cm砲ちゃん、一緒に頑張ろっ」
「うん、その意気。私たちで、艦隊を守り抜きましょう!」