新人提督と電の日々   作:七音

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在りし日の提督と安らぎとの決別

 

 

 

 一応、観艦式を無事に終え、数日が経過したある日。

 どっちゃりと、執務机に盛られた封筒の山を見て、■■■は首を捻った。

 

 

「なんですか、これ」

 

「聞いて驚け。なんと、君へのファンレターだ!」

 

「……えぇえぇえっ!?」

 

 

 ドヤァ、という顔付きの提督に、今度は思わず絶叫。目を白黒させてしまう。

 ファ、ファンレター?

 えっと、でも、全部積み上げたら天井を突き破るくらいありそうなんですけど?

 

 

「こ、これ全部、ですか」

 

「ああ。ホントにビックリだよ。まさかここまで反響があるとはなぁ。ちなみに、わたしへは呪いの手紙ばかりだった」

 

「……なんかゴメンナサイ」

 

「いいさいいさ。わたしが代わりに憎まれる事で、君が受け入れられ易くなったんだ、って考えるようにするから……」

 

 

 ちょっぴり、涙で瞳を潤ませる提督。

 嘘じゃなさそうだし、そんなに酷い内容だったのかな……。

 と、心配になってしまう■■■だったけれど、彼は直ぐに立ち直った。

 

 

「だが、喜んでばかりも居られない。早速で悪いんだけれども、君に新しい仕事がある」

 

「あ、はい。お仕事ですか。人前に出るような事じゃなければ、なんでもお言い付け下さい!」

 

 

 提督の言葉に、■■■は背筋を伸ばす。

 新しい仕事。

 幸い、観艦式は大きな失敗をせずに終えられたけど、■■■の失敗は即ち、提督の失敗。気を引き締めなくっちゃ。

 そんな気持ちが伝わったのか、彼も表情をキリッとさせ……。

 

 

「■■……」

 

「はいっ」

 

「超ごめん。人前に出る仕事なんだ」

 

「え」

 

 

 いきなり腰を九十度に曲げた。

 ……人前に出る仕事? またぁ!?

 

 

「君の名前の由来になった山にある、四大護国寺とかいうとこで、一日ずつ巫女さんをやるんだ。

 ほら、最近どこも過疎化が進んでるだろ? 地域活性化の一役を担って欲しいって、偉い坊さんに頼まれちゃってさ……」

 

「そ、そんなっ、急に言われても困ります! 観艦式でも死ぬほど恥ずかしい思いしたのに……」

 

 

 神妙な顔で説明する提督に、思わず涙目になる■■■。

 ええ。確かに観艦式で大きな失敗はしませんでした。でも、小さな失敗はしたじゃないですか。

 具体的に言うと、観艦式の最後の最後。

 いよいよ■■■が登場し、本体の艦橋から飛び降りるという、ウルトラCなアクロバットを成功させた直後。唐突に吹いた海風のせいで、カメラの前でパンモロしちゃったじゃないですか。

 どうにかその場は何事も無かった風体で乗り切ったけど、ネット上では■■■の純白パンツ画像が出回ってるみたいだし。正直もう死にたい。

 またあんな思いをする位なら、いっその事ボイコットを……なんて考えるほど、メディアに晒されるのは嫌になりました。

 という訳で、全身全霊でお断りしたい■■■でしたが、提督は顔の前で拝むように手を合わせ……。

 

 

「いやホントごめんっ。今後の事を考えると断るに断れなかったんだ。ちなみに明日からだから、今すぐ準備してくれ」

 

「はぁ!? な、なに考えてるんですか提督!? 今後の事とかなんとか言って、本当は■■■の巫女服姿を見たかっただけじゃありませんかっ?」

 

「ぶっちゃけそれもある!」

 

「言い切ったよこの人!?」

 

 

 急過ぎる日程に食って掛かるも、胸を張る提督に■■■はズッコケてしまう。

 ダメだわこの人、煩悩に塗れちゃってる。いや、そんな風に思ってもらえるのは、嬉しくない訳じゃないですが……。

 えー、ちなみに。四大護国寺とは多分、弥高護国寺、長尾護国寺、観音護国寺、太平護国寺の四つのお寺を総称した呼び名で、それぞれ、悉地院、惣持寺、観音寺、太平観音堂という呼ばれ方もあるようです。

 かの高名な役行者――役小角様が開基となったお寺も含まれる? そうですが、詳しい事は知りません。なんでこんなお寺の名前を知ってるのか、自分でも不思議。

 

 とまぁ、こんな感じで現実逃避しているですが。

 そんな姿を見兼ねたのか、提督は崩れ落ちる■■■の肩へ手を置いた。

 

 

「不安になる気持ちも分かるが、安心しろ■■。今回の犠牲者――じゃない、参加者は君だけじゃないんだ。入ってくれー!」

 

「提督? 犠牲者って言いましたよね今、犠牲者って。ねぇ」

 

 

 途中で言い換えたけど、明らかに言ったよこの人。もしかしなくても■■■、とてもブラックな鎮守府に捕まったんじゃ……。

 なんて不安増し増しになっていた所、執務室へのドアが静かに開く。

 入って来たのは、燻んだ金髪の少女と、キラキラ輝く笑顔がウザ――もとい。鬱陶しいイケメン男性。

 ■さんと、■■■さん?

 

 

「え、■さんも巫女体験するんですか?」

 

「不本意、ながら。ちょっとだけ、興味、あったし……」

 

「そしてそして! ■君が参加するならば、この僕も当然参加させて貰うぞ!

 あ、もちろん巫女じゃないよ? 女装しても様になるだろうけれど、世の男性陣を勘違いさせては可哀想だからね!

 ちなみに、僕ら二人は一般人を装う予定さ!」

 

「そーですかー。心強いなー」

 

 

 残念な方の戯言は受け流しつつ、■■■は■さんという巻き添えを得て、どうにか立ち直る。

 一人だったら心細いというか絶望的だったけど、知り合いが隣にいてくれるなら、なんとか……なって欲しい。切にそう願う。

 そんな■■■たちに、何故かニコニコ顏な提督が歩み寄り、あれよあれよと肩が組まれて。

 

 

「と、いう訳で……。いざ行かん、岐阜県と滋賀県の境目! 待ってろ飛騨牛、近江牛ー!」

 

「軍の払いで、食べ尽くす……!」

 

「はっはっは! 食い意地の張った姿も素敵だよ■君!」

 

「どう考えたってそっちが本命じゃないですかー!? もうヤダー!」

 

 

 なんとも軍人らしからぬ掛け声が、執務室に轟く。

 こうして、主に■■■だけが苦労する、食い倒れツアーが始まるのであった。

 とほほ……。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 吉田 剛志元帥の国葬がしめやかに執り行われ、日本中が悲しみに包まれてから一週間後。

 自分は、京都府は日本海沿岸の某所にある、秘密港に居た。

 岩盤をくり抜いて作られたそこは、空からの目は元より、あらゆる情報網から隠された巨大施設だ。

 収容可能艦艇数、おおよそ二百。今も未来の傀儡艦が多く停泊しており、久しぶりに黒い詰襟を着る自分と、“彼女”を甲板に乗せる船も、そこにあった。

 

 

「すぅ……。はぁ……。すぅ……」

 

 

 自分の目の前で、大きく深呼吸を繰り返す、赤毛の少女。

 いつもの様に、鎮守府が指定する女性用制服を纏う彼女は、しかし普段ではあり得ない、様々な“部品”も付与されている。

 左肩と、左脚のオーバーニーソックスに沿う形で、装甲が付加。

 腰から背中、身体の右側へとせり出す艤装には、幾つもの小型クレーンが配置されていた。

 どうやら艤装本来は重いらしく、紫色の帯で右肩に吊るすようになっているだけでなく、簡易な台による支えも必要としている。

 アンテナ付きのPCも置かれていて、それだけが奇妙な異物感を醸し出す。

 統制人格のような格好をしているが、彼女は――主任さんは“まだ”人間だった。

 

 

「大丈夫ですか、主任さん?」

 

「いやぁ、やっぱ、緊張しますね……」

 

 

 視界に入る自分の白髪が鬱陶しく、使い捨て眼帯と一緒に直しながら声を掛けると、引きつったような苦笑いが返される。

 周囲から人払いはされているが、無数に設置された監視カメラは、つぶさにこちらの様子を伺っているだろう。

 これから、世界でも初めて励起実験が行われるのだから。

 人工統制人格の、本励起実験が。

 

 

「アタシ自身が作った物ですから、適合はするはずなんですけど……。感覚的なものなので、確実かは……」

 

 

 手ずから削り出したという艤装を撫でつつも、主任さんの表情は優れない。

 統制人格が持つ艤装という物は、ブラックボックスの塊だ。

 過去、感情持ちを説き伏せ、艤装を分解した事はあったようだが、およそ機械的な動作を期待できない構造にも関わらず、実際にはキビキビと作動するという、摩訶不思議な物体だったらしい。

 そんな物をどうやって作ったのかと言えば、単に鉄の塊を削り出し、それらしい形に貼り合わせ、ただ持っているだけ……のようだ。

 “ヤツ”の残した資料を精査した結果、この状態で励起を行う事で、鉄の塊が艤装へと転換するとのこと。

 

 しかし、これらの情報は全て、確証が無い。

 あの戦いで目にした、阿賀野型の人工統制人格たち。のちに回収された遺体を解析した結果も、どうやら芳しくないらしかった。

 そもそも、最初の成功例こそが主任さんであり、ここから先は未知の領域。願わくば、安定している今の状態を維持して欲しかったが……。

 本励起を望んだのは。人工統制人格としての完成を望んだのは、彼女自身だったのである。

 

 

「あの、主任さ――」

 

「はいストップ」

 

「――んむぐ」

 

 

 それがどうしても理解できず、問い掛けてみようとするけれど、いきなり唇を指でつままれた。

 

 

「その呼び方、ダメですよ? この励起が成功したら、アタシは工作艦 明石になるんです。そこら辺、キチンと認識して貰わないとっ」

 

 

 ニッコリと。微笑みながら注意を促す主任さんは、胸を張ってそう言う。

 屈託の無い、彼女らしい表情。

 これをまた見られるという事だけでも、奇跡なのだ。それなのに、どうしてその先を求めるのだろう。

 やっぱり、彼女の気持ちが分からない。

 

 

「……本当に、良いんですか。自分なんかの、船になっても」

 

「はい? 何を今更」

 

 

 卑屈な物言いに、彼女は握り拳をこちらの胸へと置き。

 そして、柔らかく微笑んでくれる。

 

 

「貴方以外は嫌です。貴方が良いんです。貴方だから、アタシは今、笑っていられるんです。胸を張って下さい。……提督」

 

 

 拳が開かれ、手の平が押し当てられると、その気持ちが直に伝わってくるようだった。

 でも、安心できた反面、主任さんの微笑みは、今まで見たことの無いくらいに、綺麗で。

 自分の鼓動の早さまで伝わりそうで、気恥ずかしい。

 

 

「はいっ。じゃあ練習してみましょっか。アタシのこと、明石って呼んでみて!」

 

「え? ……明石……さん?」

 

「うぐっ。なんでそこで“さん”を付けるかな……」

 

「いやだって、ずっと主任さんだったから、つい」

 

「ちゃんと呼び捨てにして下さいー。全くもう」

 

 

 変わらず微笑み続ける彼女を、馴染みのない呼び方で呼んでみるが、どうやら気に入らないらしく。

 そんなこと言われてもなぁ……。電たちならまだしも、普通の女の子だった人を呼び捨てって、今までした事ないし……。

 いや。これから彼女は、その“まだしも”の中に入るんだ。慣れておかなくちゃ。

 

 

「……ぁ、明石」

 

「はい、提督。何かご用ですか?」

 

「へ? あ、えっと、よ、呼んでみただけ、だけど」

 

「……そっか。そう、ですよね……」

 

 

 軽めに深呼吸をしてから、主任さんの――明石の目を見据え、呼び掛ける。

 すると、彼女は思いがけない返事をして、しどろもどろになってしまう。

 それが移ったのか、二人で気不味く顔を逸らしてしまい……。なんだか、頬が熱くなっているような感じがした。

 ど、どうにかしなくてはっ。

 

 

「あ、あははっ。なんだか、付き合いたてのカップルみたい、です、ね……」

 

「……アタシはそうなっても良いんだけどなー」

 

「んぇえっ!?」

 

「ふふふ。冗談ですよーだ。変なこと想像しました? 提督のエッチー」

 

「なっ、お、怒るぞ明石!」

 

「あははは! ごめんなさーい」

 

 

 半分からかわれているのだと分かり、拳を振り上げて怒ったふりをすれば、イタズラっ子は舌を出して頭を庇う。

 もちろん、本気で怒るわけが無い。

 きっとこれは、主任さ――明石なりの気遣いであり、事実、おかげで緊張感は軽くなっている。

 一番に不安を感じているのは、彼女のはずなのに。

 自分も、ウジウジなんかしてられないな。

 

 

「始めるか」

 

「了解です!」

 

 

 元気の良い返事に後押しされつつ、自分は右眼を閉じ、精神を集中させる。

 別段、変わった事をする必要は無いらしい。

 幾度も経験したように、普通に艦船を励起可能な状態を維持すれば、自分と彼女は魂でつながった存在となる……はず。

 PCの操作音が聞こえてきた。同時に、増震機の稼働による低周波も感じる。

 船に乗った状態で励起するのは初めてだが、むず痒いような、肌が痺れるような、そんな感覚だった。

 

 

「……なんだか、ちょっとだけ怖くなって、来ちゃいました……。

 あの、アタシの身体に触っておいて貰えます? いつ適合が始まるか、分からないので」

 

「は、はい」

 

 

 ふと、彼女が不安気な声を出す。

 無理もない。何もかもが初めてで、失敗すればどうなるのかさえ分からないんだから。

 自分は、集中を切らさぬよう心掛けながら、眼を開けて右手を伸ばす。

 必要かどうかも判然としないが、通常の励起で起きる事……。統制人格と能力者が肉体的に接触しているのを、再現しておこうという訳だ。

 さんざん迷った末、それは彼女の肩へ落ち着くのだが……。

 

 

「提督……」

 

「あ、ごめんなさいっ。でも肩がダメだと他に選択肢が」

 

「いえ、そうじゃなくって」

 

 

 どうしてだか、不満そうな顔がそこに。

 馴れ馴れしかった? でも、手とか頭とかは尚さら駄目だろうし……。

 とりあえず反射的に謝るが、今度は頬を染めて。

 

 

「で、出来れば、ですね? その……。あの時、みたいに。抱き締めてくれたら、安心できるんですけど……」

 

「えっ」

 

 

 ――だなどと、吃驚仰天なお願い事をしてきたのだった。

 PCから警告音。脳波が安定していないせいだ。

 いかん、落ち着け、冷静になれ。

 彼女はただ不安がってるだけなんだ。

 今さら励起を中止は出来ないし、これは、万全を期す為。やましい気持ちは捨てろ。

 ……ぃ、行くぞっ!

 

 

「わ、分かりました。では……」

 

「……ど、どんとこーい!」

 

 

 思わず敬語になりつつ、距離を一歩詰め、おずおずと細い身体を抱きしめる。

 ……と言っても軽くである。ほとんど力を込めず、腕の中に納めるだけ。

 彼女の方も、腕をこちらの背中に回している。戸惑っているのがその手付きから分かった。

 言葉は発しない。そんな余裕が無い。

 ちょうど、鼻のある高さで赤毛が揺れ、微かに甘い芳香が嗅覚をくすぐる。

 それだけでなく、肩口へ押し付けられた小さな頭が。その重さが、何故だか心地良くて。

 心臓は異様な早鐘を打ち、しかし、心は落ち着きを取り戻している。警告音も止んでいた。

 

 奇妙な安心感。

 先程の手の平もそうだったが、他人の体温を感じるというだけで、こんなにも安らぐものだろうか。

 なんだか、申し訳ないような……。罪悪感? も覚えるけれど、今しばらくは。彼女が望む限りは、こうしていなければ。

 

 

「――あっ」

 

「どうしました?」

 

「始まった、みたいです。あ、何、これ。何か、流れ込んで……」

 

 

 言い訳染みた事を考えているうちに、腕の中にある身体が小さく跳ねる。

 同時に、全身で感じる微動が、より強く。

 始まった。人間として生まれた彼女が、軍艦として生まれ変わろうとしているのか。

 ……でも、なんだ? この嫌な予感は……?

 

 

「いや、違う、だめ……。それは、アタシじゃ……。でも……う、あ……っ」

 

「主任さ……? 明石? おいっ」

 

 

 それを裏付けるが如く、彼女は熱に浮かされているように、うわ言を繰り返す。

 肩を揺すぶってみるけれど、眼の焦点が合っていない。

 此処ではない何処かを。今ではない何時かを見つめている。

 動くはずのなかった艤装も、不気味に蠢いていた。まるで、もがいているようだ。

 

 

「アタシが、消える。アタシが、塗り潰、され、て。アタシ、あ、アタ、ああ、ああああああああああああ」

 

「そんな……っ。ダメだっ、しっかりしろ! 呑まれるなっ!」

 

「ああ、あ、あああああ、あああ、ああああ」

 

 

 励起振動は最高潮に達し、通常であれば、統制人格が顕在化する頃合い。

 だが、彼女の様相は明らかに、悪い方向へ向かっている。

 工作艦の過去が刷り込まれようとして? でもこれは、“侵食”されているようにしか……。

 必死に呼び掛け続けても、虚ろな瞳から、どんどん生気が失われていく。

 もはや立ってもいられないのだろう。膝は崩れる寸前で、自分が支えていなければ、とっくに倒れてしまっている。

 どうして、こんな。

 ダメなのか? せっかく助かったのに、また?

 

 

(そんなの、あんまりじゃないか。なんで、この人にばかり)

 

 

 どれほど強く抱き締めても、抱き返される事はない。

 呼び掛けに返るのはうわ言ばかりで、彼女の眼に自分は映らない。

 消えていく。主任さんが。

 横須賀で散々お世話になって。

 死なせてしまったと思ったら、生きていてくれて。

 自分なんかの為に、船になるとまで言ってくれた、女の子が。

 

 そんな事、認められるかっ!

 

 

「……自分の船に、なってくれるんだろう?

 だったら、その命令に従う義務があるはずだ。

 勝手に消えるんじゃない。君が消えるのは、自分が死ぬ時だけだ。

 頼むから……っ。お願いだから、戻って来てくれっ!」

 

 

 脱力する彼女の身体を抱き留め。

 虚空を見つめるその視界を、頬に手を添えて無理やり正し。

 自分は全身全霊を込めて、叫ぶ。

 

 すると、地震かと思うほどに激しかった励起振動が、急に止まった。

 同時に、彼女が身に付けていた艤装も消失。糸が切れたようになる身体を、慌てて横たえる。

 この感覚は……。励起を終えた時に似ているが、確証を持てない。

 まぶたは硬く閉じられていた。

 胸の上下から呼吸を確認できるけれど、彼女の心が無事かどうかは、分かるはずもない。

 

 

「し、主任さん……?」

 

 

 恐る恐る、今まで通りの呼び方で、彼女を呼んでみる。

 実際には数秒だろうが、十分以上にも感じられる沈黙の後、ようやく、まぶたが開き始めた。

 眠りから覚めたばかりの、微睡んだ瞳。

 何かを探すように宙を泳いだ視線は、やがて、こちらの視線と重なる事で一点に定まる。

 薄桃色の唇が、わなないた。

 

 

「……もう。明石だって、言ってるじゃない、ですか……?」

 

「あ……。よ、良かった……」

 

 

 しょうがないなぁ、というような苦笑い。

 そのおかげで、彼女の心が無事であると理解できた。

 成功した。成功した、んだよな?

 艤装が消えてしまったのは、何故だか分からないけど、とにかく一安心、か。

 

 

「どこか、おかしく感じる所は? 痛みとかは?」

 

「いいえ。特には。変な感じは、変な感じですけどね。

 さっきまで、アタシという存在が消えちゃうかと思ってたのに。

 提督の呼ぶ声が聞こえた瞬間、なんというか……。引っ張り上げられた、ような」

 

「これで、工作艦に……」

 

「はい。それは確実です。こうだ、って説明はできないんですけど、アタシ自身がそう確信してます。

 人間としての過去と、工作艦としての過去が、分離しながらも同じ位置にある、というか……。う~ん、やっぱり難しいですね……」

 

 

 彼女を――明石を支えながら問い掛けると、立ち上がりつつ、彼女自身も首を傾げる。

 やっぱり、感覚的な物を説明するのは無理だろう。

 自分だって、能力を使っている時の事を事細かに説明しろ、と言われたらお手上げだ。

 上の連中はそれで納得しやしないだろうが、彼女はもう自分の船。しっかりと護らなければ。

 

 完全に復調したらしく、照れ臭そうに「どうも」と呟いた明石は、腕の中から逃れ、少し離れた場所で艤装を出し入れしていた。

 どうやらあの艤装、霊子化して体内へ格納されただけのようだ。

 詳しい原理なんて知らないが、本当に統制人格になったんだな……。

 

 

「とにかく、無事で良かった。一時はどうなることかと」

 

「あはは。ご心配をお掛けしました。それじゃあ、改めて……。

 工作艦、明石です。艦隊の修理は、これからもアタシにお任せ下さいね!」

 

「ああ。よろしく頼む」

 

 

 艤装状態で姿勢を正し、幾度となく見てきた笑顔を浮かべた明石が、右手を差し出す。

 改めるとやはり気恥ずかしく、ほんの少しだけ躊躇った後、自分はそれを握り返して、敬語は使わずに頷いた。

 今までずっと敬語で通してきたし、慣れるにはちょっと時間が掛かるだろうけど。

 きっとその方が良い。そう思う。

 

 

「……あ~、と……」

 

「……ど、どうかしました?」

 

「い、いや。特に、どうという事は、ないんだけど」

 

「……そう、ですか……」

 

 

 微笑み合いながら、繋いだ手を解くタイミングを見計らう自分たち。

 なんだろう。もう離しても良い頃合いだろうけど、なんだか、惜しむような気持ちが湧いてくる。

 いっそ、大井みたいに嫌がってくれたら、とも思うが、明石は顔を逸らすばかり。

 ……どうしよう。気不味い。

 

 と、そんな時。パチパチパチ、という拍手の音が背後から聞こえてきた。

 もうここしかない、と手をさり気無く解きつつ振り返れば、見覚えのあるセーラー服少女の二人組が。

 

 

「君たちは、間桐提督の……」

 

「はーい! なっちゃんです!」「むっちゃん、です。成功、おめでとう、ございます」

 

「あ、ご丁寧にどうも……。へぇ、この子たちが間桐提督の長門型なんですねぇ~」

 

 

 どうやら、人工統制人格の励起実験について知っていたようで、少女たちと明石は丁寧に頭を下げあっている。

 彼女たちがここに来るだなんて、どういう事だろう……?

 

 話は変わるが、Ms.フランとあの店を出た後、自分たちはまっすぐ例の施設へと戻り、元帥との最後の別れを済ませた。

 彼女も浅からぬ縁があったらしく、とても長く、静かに祈りを捧げる姿が印象的だった。

 本当は間桐提督にも会いたかったが、彼らは既に立ち去っていて、桐ヶ森提督も含め、顔は合わせられず終い。後ろ髪を引かれる思いで、自分は施設を後にしたのだ。

 その時点でMs.フランとは引き離されたが、後日、正式な連絡ルートが確保され、ちょいちょい雑談混じりの話し合いが持たれている。

 ひとまず、「なんか適当なイタリア艦をそっちに送るから、楽しみにしといて?」、とのこと。

 相変わらずアバウトな言動だったけれど、それがあの人らしいんじゃないかと、今ではそんな風に思える。

 

 そんな訳で、間桐提督の長門型……。略称は「ながむー」だったっけ?

 この子たちに会うのも数日ぶりなのだった。

 

 

「どうしてここに? 何か用なのかい」

 

「うん、お使いですっ」「桐林さんを、呼びに来ました」

 

「提督を? 一体、誰が……?」

 

 

 片膝をつき、視線の高さを合わせると、なっちゃんは元気よく、むっちゃんは淑やかな返事をした。

 明石は首を傾げているが、この二人を遣いに来させられる人物など、“彼”しか居ないだろう。

 ……流石に、二度もいきなり殴られるって事はないだろうが、どうしても身体が緊張した。

 そうとは知らない少女二人は、勿体ぶった笑みを浮かべ、小走りに駆け出す。

 タラップを降りていく背中を目で追うと、その先に居たのは……。

 

 

「間桐提督……。と、疋田さん?」

 

 

 少女たちに纏わり付かれている美男子――間桐提督こと、吉田 皆人と。

 明石と同じ制服に身を包み、細長いアタッシェケースを提げた女性――疋田 栞奈さんが、そこに居た。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 重苦しい雰囲気が漂う、移動用大型カートの中。

 沈黙を破ったのは、工作艦のあった第九ドックから、間桐提督の指定した第三ドックへ向けて運転する、疋田さんだった。

 

 

「えっと……。お、お久しぶりですね。桐林提督に、主任さん。……いえ、もう工作艦の明石さん、ですか」

 

「え? あ、あの、もしかしてアタシの事情、全部……?」

 

 

 三列シートの中央。自分の左隣に座る明石が、おっかなびっくり、といった様子で問い返す。

 彼女が人工統制人格であるという事実は、言うまでもなく最高機密に類する情報だ。

 知っているのは“桐”の数名と、海軍情報部の極一部。一介の警備員だった疋田さんが、知り得ないものである。

 自分の救出作戦に参加したという経緯を知っていれば納得だが、わざわざ明石にそれを教える人物も居ない。驚いて当然か。

 疋田さんの苦笑いが、バックミラー越しに見えた。

 

 

「ええ。救出にも立ち会いましたから、全部知ってます。ご無事で何よりでした」

 

「……はい。ご迷惑をお掛けしました。というか、その格好。アタシと同じ……」

 

「あ、これですか」

 

 

 明石が深々と頭を下げた後、話題は疋田さんの服装に移る。

 横須賀で彼女が着ていた制服と言えば、警備部の青いスーツだったはず。

 でも、今着ているのは明石と同じ……。鎮守府の庁舎などに勤める、若年女性職員用の制服。スカートの丈だけは少し長めになっているようだ。

 どうしてあんな服を着ているのか、自分も疑問だった。……いや、年齢的な意味じゃなくて。

 

 

「実は私、調整士の資格を取りまして。この度、正式に桐林提督付きの調整士として選ばれました」

 

「なるほど、そういう……。あ、調整士といえば、書記さんは? いつもなら提督の側に控えてそうなのに、ずっと姿が見えなくて。アタシ、気になってたんです」

 

「……あの人は、舞鶴で色々あって……。今は梁島提督の保護下に居るはずです」

 

「梁島の……!?」

 

 

 予想外の名前に、自分は前のめりになってしまう。

 疋田さんが調整士になったというのも驚きだが、書記さんが梁島の所に居るだなんて、聞いていない。

 どこまで本気だったか分からないけれど、自分を目の前にして、家族を盾にするような発言をした男が、あの人を。

 不信感を露わにする自分だったが、しかし、疋田さんは首を振る。

 

 

「安心して下さい。多分ですけど、提督の思ってるような事態にはならないと思います。あの二人なら」

 

「どうして言い切れるんですか。何か知って……?」

 

「私の口からは、言えません。信じて頂くしか」

 

 

 知らず、硬質な声をぶつけていたが、彼女は頑なだった。

 ……多分、自分の知らない、なんらかの事情を把握しているのだろう。

 正直に言えば、二度と関わり合いになりたくない相手だ。でも、そんな事を言ってはいられない。

 疋田さんを信じたい気持ちもあるけど、何か考えておかなくては。

 そんな、敵愾心にも似た感情を悟られたか、バックミラー越しの彼女の笑顔が、殊更に大きく花開く。

 

 

「とにかく保証しますんで! なんだったら、私のファースト・パイタッチを賭けてもいいです! 信じて下さい!」

 

「……それって賭けの対象になる事ですか? いやまぁ、確かに今の疋田さんはそういうお店の人っぽいですけど」

 

「桐林提督ヒドいっ!? 私だってコスプレっぽいの気にしてたのにぃ!? どうせこの女子メンバーの中じゃ最年長ですよぉぉおおおっ!」

 

「ちょっ、疋田さんスピードスピード! すみません謝りますから!」

 

「お、おいバカ! 飛ばすんじゃねぇ並乳女っ、気持ち悪くなんだろうがっ!?」

 

「パパ」「セクハラ」

 

「あはは、シリアスが長続きしないなぁ」

 

 

 どうやら地雷を踏んでしまったようで、大型カートは急激に速度を上げ始める。

 オマケに、車体があっちへフラフラこっちへフラフラ。置かれている資材コンテナと、何度もニアミスを繰り返す。

 明石は妙に楽しそうだけど、事故りそうで怖い!

 ホントごめんなさいっ、疋田さんまだ若いですからっ。

 少なくとも自分よりは歳下だし、イメクラっぽいけど可愛いですよ!?

 

 

「はぁ……。はぁ……。も、申し訳ありません。最近、ちょっと焦りを感じ始めてまして……」

 

「まだ焦るような歳じゃないでしょ……。そんなこと言われたら、未だに彼女居ない歴=年齢な自分はどうなるんですか……」

 

「あ、奇遇ですね。私も彼氏居ない歴=年齢です。けど桐林提督の場合、金剛さん辺りで妥協すれば、今すぐにでも脱喪男できるんじゃ?」

 

「いやいや疋田さん。アタシ、恋人って妥協して作るものじゃないと思いますよ? やっぱり初めての恋人って、お互いに好き合って結ばれたいじゃないですか」

 

「甘い! ダダ甘ですよ明石さんっ! そんな風に考えてたら、あっという間に歳食っちゃうんですからね!? 私みたいに!」

 

「なんの話をしてんだオマエらは。くだらねぇ……」

 

「だよねー。パパにはなっちゃんが居るもんねー」「そうです。むっちゃんが、正妻ですから」

 

「やめんかバカたれ共。憲兵が来たらどうすんだ」

 

 

 爆走して少しは落ち着いたらしく、カートのスピードは徐々に安全域へ。

 それと引き換えに、今度はカート内が騒がしくなってきた。

 疋田さんって、確か二十三歳だったよな。

 二十世紀に生まれた格言の一つに、「女はクリスマスケーキと同じ」という言葉があるらしいが……。男である自分も、焦った方が良いのだろうか。

 ふと気になり、最後列シートで、両脇に幼女を侍らせる間桐提督へ視線を向けてみると、バッチリ眼が合った。

 数秒の空白を置き、彼は「ふん」と鼻を鳴らす。

 

 

「オレは謝らねぇからな。何も間違ったこたぁしてねぇし」

 

「……はい。その必要はありません。おかげで目が覚めましたから。ありがとうございました」

 

 

 つっけんどんな態度にも、自分は頭を下げる。

 殴られたのは痛かったが、痛かったからこそ、結果的に色々な事を考えさせられ、己自身を見つめ直す事が出来た。

 あの一件を知らない明石と疋田さんは首を傾げているが、とにかく、感謝しているのは本当だ。

 一方、間桐提督は目を丸くし、驚いているのかと思えば、そっぽを向いて嫌味ったらしい顔を。

 

 

「殴られて礼を言うとかマゾかよ、変態野郎」

 

「パパって呼ばせてる人に言われたくないですねー。本当は喜んでるんでしょう?」

 

「はぁ!? だ、誰が喜ぶかこのドアホ! オレはコイツらの事なんかなんとも思ってねぇっつの!」

 

「うわ、酷い。なんて酷い言い方。なっちゃん、むっちゃん。大丈夫かい?」

 

「しくしく。大丈夫じゃないー、傷付いたー」「謝罪を、要求します。ひっく、ひっく」

 

「いや明らかに嘘泣きだろオマエら」

 

「謝れー、謝れー!」「ごめんなさいって、言いなさい」「ついでに土下座しろー」

 

「テメェやっぱ根に持ってんじゃねぇのかぁ!? ってか、なんでそんなに息ピッタリなんだよっ!?」

 

 

 流石に変態呼ばわりにはイラっとさせられ、ながむーちゃん'sと一緒になってやり返す。

 なんの躊躇いも、気遣いもない。これが、普段通りの自分たちだろう。二人のノリが良くて助かった。

 様子を伺っていた明石も何時しか微笑み、楽しげに呟く。

 

 

「意外と仲良いんですね。お二人って」

 

「そりゃまぁ。一応、友人だしね」

 

「っ! ……ふんっ」

 

「そっかぁ、ついに提督にもお友達が……。横須賀ではボッチだったのに、明石は嬉しいですよ……っ」

 

「ぼ、ボッチじゃないだろう? ほら、みんなが側に居たし、疋田さんだって居たし。ねぇ?」

 

「えっ? 私、友達枠に入ってたんですか?」

 

「何その反応。え、もしかして自分、勝手に友人だと思い込んでたの?」

 

「あ、違う違う違いますっ。てっきり知人とか、知り合い枠だと思ってまして。

 友達っていうには立場が違い過ぎるかなー、とか考えてただけで、決して嫌いじゃありませんから!

 時々、殴りたくなる事もあったのは事実ですけど」

 

「知りたくなかった事実をありがとう……」

 

「桐林さん、だいじょーぶー?」「泣いたら、めー、ですよ……?」

 

 

 まるで、息子の成長を見守る母のように、ハンカチを涙で濡らす明石。

 笑顔でグサっとくる新事実をブチまける疋田さん。

 自分はシートの背もたれにうな垂れ、ながむーちゃん'sに慰めてもらう。

 結構な温度差があってビックリですよ……。

 まぁ、自分だって逆の立場だったら、疋田さんと同じような反応をしただろうけどさ……。

 

 

「……ったく。アホくせぇ。んな事より、だ。テメェに渡すもんがある。おい」

 

「はい。明石さん、これ後ろにお願いします」

 

「あ、りょうかーい」

 

 

 寂しさを噛み締めていると、どこかワザとらしい溜め息をついた間桐提督が、疋田さんへ呼び掛けた。

 助手席を示した彼女に従い、明石が立て掛けられていた長いアタッシェケースを引っ張り出して、そのまま最後列へと橋渡し。

 彼はそれを受け取り、膝の上で開く。取り出されたのは、全く同じデザインの、二振りの刀だった。

 

 

「それは……?」

 

「オヤジの……。吉田 剛志の伊勢型二人が使ってたもんだ」

 

 

 訝しむ自分の呟きに、間桐提督が静かな声で返す。

 カート内の雰囲気は一変し、空気が重みを増した。

 

 

「遺言が遺されててな。舞鶴での戦いで使った伊勢型と、オヤジがもともと持ってた伊勢型を、オレらで分配する事になった」

 

「元帥の? まさか、それで第三ドックに?」

 

「ああ。古い方をオレに、新しい方をテメェにだとよ。全く、準備が良すぎなんだよ、あのクソオヤジ」

 

 

 伊勢型の分配。寝耳に水だった。

 そもそも、自分と明石が工作艦を降りた後、彼は「着いて来い」とだけ言ってカートに乗り込んだので、聞くタイミングが無かったというのもあるが……。

 元帥は、どこまで先を見通していたのだろう。

 自分自身が死ぬ事を織り込み、一体どんな未来を描いていたのか。今となっては知る由も無いけれど、底が知れない。

 

 遅まきながら畏敬の念を深くする自分へ、間桐提督は無言で刀を差し出している。

 何も考えず受け取ろうとしてから、本当に受け取る資格があるのかと、疑念が頭をよぎった。

 この刀は、いわば元帥と、伊勢さん、日向さんの形見だ。

 ただの刀と言ってしまえばそれまでだが、この二振り込められた意味は、果てしなく重いはず。

 ……やっぱり、今の自分には受け止めきれない。

 

 

「受け取れませんよ、こんな大切な物。それこそ間桐提督が……」

 

「勘違いすんな。これは温情でもなんでもねぇ。実験の残りカスだ」

 

「実験?」

 

 

 脈絡を感じられない言葉に眉をひそめると、間桐提督が一方の刀の鯉口を切り、刃を確かめる。

 美しい刃文の上を、光がなぞった。

 

 

「感情持ちの統制人格の艤装が、能力者と消滅した後も残るなんざ前代未聞だ。

 それを励起時に用いることで、ひょっとしたらテメェのように、最初っから感情持ちを呼べるんじゃねぇか、ってな」

 

「っ!? どうなったんですかっ?」

 

「半分成功で、半分失敗だ。明らかに意識の芽生えはあったが、テメェの統制人格程じゃなかった。ホントどうなってんだかな」

 

 

 カチン、と(はばき)を鳴らし、間桐提督が刀を鞘へ。

 苦笑いのような、己を皮肉っているような。複雑な表情だった。

 

 

「励起が終われば消滅するかと思ってた訳だが、何故かまだ残ってやがる。

 オマケに、どんだけ解析してもタダの刀としか判断できない。

 で、所有権はオレに移ったんだけどよ。宝の持ち腐れにしかなんねぇからな。

 ……だったら、少しでも“何か”を起こす可能性のあるヤツに、渡したかった」

 

 

 言い終えた彼は、押し付けるようにして刀を差し出す。

 穏やかな瞳。

 普段の彼を考えれば、青天の霹靂にも等しいそれだが、茶化そうなどとは思えない。

 明石を見る。

 微笑みを浮かべ、大きく頷いてくれた。

 なっちゃんと、むっちゃんを見る。

 ソワソワとこちらの様子を伺ったり、何か、期待するような眼差しを向けていた。

 

 

(変な気分だ……。あの時も、自分は)

 

 

 なんとなく、半年ほど前を思い出す。

 “桐”として初めて舞鶴へ向かい、間桐提督を始めとする同僚と対面した、会談の日。

 あの日、自分は元帥から、桐生提督の中継器を引き渡され、受け継いだ。

 それが今度は、単なる嫌味な棒人間だった間桐提督から、元帥の形見を……。

 運命。宿命。宿業。

 色んな言い方があるだろうが、そんなものを感じてしまう。

 

 

「さっさと受け取れやアホ。腕が疲れんだろ」

 

「……はい。確かに、受け取りました」

 

「ん」

 

 

 受け取った二振りは、思いの外軽く、しかし異様な存在感を以って、自分の手の内に収まった。

 なんの変哲も無い鞘が、何故だか暖かく思えた。

 

 

「それと、コイツもオマケに取っとけ」

 

「へ? ……っとと」

 

 

 感慨深く刀を眺めていると、そこにもう一つ、強引に渡される物が。

 伊勢さんたちのそれより短く、けれど、ズッシリとした重みを感じるそれは……。

 

 

「小太刀?」

 

「兵藤の三笠刀だ。梁島んトコからパチって来た。ソイツはオマエが持つべきだ。いや、持たなきゃならねぇ。分かるな」

 

「……はい」

 

 

 頷きながら、自分は小太刀を握り締める。

 ……初めて見た。

 梁島が自分を殺そうとした時、元帥が振るったという高周波振動剣は、先輩の持ち物であったと、話には聞いていた。

 拉致事件の際、“ヤツ”に折られた一振りと、“ヤツ”を貫いたとされる、もう一振り。

 双方共に回収され、特に後者からは“ヤツ”の血液サンプルなどが採取でき、詳しい解析をしているらしい。

 存在自体は知っていたものの、その所在については答えて貰えなかった。てっきり軍の所有物になったと思っていたが、まさか、梁島が秘匿していたとは……。

 

 

「三笠刀自体の切れ味は然程でもねぇが、高周波振動で戦車の前面装甲もブチ抜く。

 しかし本命は、電解ダマスカス鋼の鞘だろうよ。

 折れず、曲がらず、砕けず。護身用の武器としちゃあ一級品だ。使えるようにしとけよ」

 

 

 アタッシェケースを閉じつつ、間桐提督が言う。

 この重み。自分が感じている後ろめたさからでは、なかったようだ。

 高周波発生装置の分と、マーブル模様が特徴の鞘。合わせて五~六kgはあろうか。

 先輩が……。あの人が遺してくれた、武器。

 自分に戦闘技術は無い。基礎訓練でも苦手な分野だった。

 けれど、もうそんな事も言ってられない。

 これを使って、強くならなくちゃいけないんだ。自分で自分を守れる位には。

 

 

「はい、着きましたよー」

 

 

 疋田さんの声に、考え込んでいた自分はハッとさせられる。いつの間にか、カートも止まっていた。

 左手に刀を二振り。右手に小太刀を持ったまま、降車する皆に慌てて続けば、数十m先の右手に、二隻の戦艦が縦列して見える。

 扶桑型と比べると低いが、重厚感のある艦橋。

 船尾方向、第五砲塔のあった場所は、改修で格納庫と航空甲板に変貌していた。

 

 航空戦艦、伊勢・日向。

 “ヤツ”との戦いを経て、空っぽとなってしまった、魂の器だ。

 

 

「これが、元帥の……」

 

「ボサッとすんな。ほれ、始めんぞ」

 

 

 呆然と、真新しく見える船体を眺めながら、丁度、二隻の中間地点の延長となる場所で、励起の準備が進む。

 既に増震機は取り付けられているらしく、間桐提督はアタッシェケースを椅子代わりに、ノートPCを操作している。

 明石と疋田さん、長門型の二人は、遠くからこちらを見守っている。お喋りしているようだが、流石に聞こえない。

 しばらくすると、明石を励起した時と同じように、腹の奥に響く低周波が。

 

 

「あん? 浸透圧が妙に低いな……。増震機の出力を上げっか……」

 

「……いえ、必要ありません」

 

「は? お、おい」

 

 

 どうやら数値に異常が発生しているようで、間桐提督の悩まし気な声が背中に届く。

 しかし、自分はそれを気にも留めず、航空戦艦たちへと歩み寄る。

 不思議だが、確信があった。

 そんな物に頼らずとも、“彼女たち”は応えてくれる、と。

 

 

「はぁ……。すぅ……」

 

 

 大きく息を吐きながら、小太刀をベルトの後ろへ。

 次に、空っぽの肺を空気で満たしつつ、一振りずつ刀を手に。

 熱い。

 主を喪った刀と、異形の左眼とが、共鳴するしているような。

 

 そして、何故だか感じ取れる。

 “彼女たち”の内に潜む――いや。燻っている、熱情の残滓を。

 その残滓が訴え掛ける。

 早く起こして。早く呼んで。早く。早く。早く。

 

 ……勘違いかも知れない。

 自分がそう思いたいだけなのかも知れない。

 けれど、自分は急かされるまま、心の赴くままに、左右の刀を前へ差し出す。

 

 

「来い。伊勢、日向」

 

 

 名を呼べば、周囲を満たしていた低周波が一瞬で消え去り、代わりに、空間に“たわみ”が二つ生じた。

 その“たわみ”へと、光が集まる。

 段々と人を形取るそれらは、ゆっくりとこちらに近付き、やがて、臣下が礼を尽くすように跪く。

 片膝をついて、手の平を上に、両手を掲げる様は、まるで刀の拝領を待つ姿。

 迷う事なく、自分は二人の手に刀を置いた。

 刹那、光が爆発し、一瞬だけ目がくらむ。

 視界が回復する頃には、恭しく刀を拝領した女性たちが、凛々しく顕現していた。

 

 

「超弩級戦艦。伊勢型の一番艦、伊勢。参りました」

 

 

 赤茶色の髪をポニーテールにする女性――伊勢は、立ち上がりながら刀を右腰に差す。

 金剛たちと同じような、巫女服を改造したような出で立ちだが、余計な装飾は一切無く、スカートの落ち着いた色合いや草履が、侍のような印象を与える。

 左腕には航空甲板が据え付けられ、腰と肩の両脇へと迫り出す四つの砲塔は、その名に恥じぬ威圧感を放っていた。

 

 

「同じく、伊勢型の二番艦、日向。御前(おんまえ)に」

 

 

 そして、ほぼ同じ立ち姿の日向も、同じように刀を差しながら謙る。

 髪は短か目に切り揃えられ、口上は伊勢よりも落ち着いて聞こえた。

 

 

「我ら、等しく御身の剣、御身の船となり」

 

「立ち塞がるモノを尽く斬り伏せ、撃ち砕いて御覧に入れよう」

 

 

 左腕を胸の前で構えた二人は、時代劇さながらの台詞回しで自己紹介を締め括る。

 その前に立つ自分はと言えば、ただただ、彼女たちの存在感に圧倒されていた。

 過去、なんらかの理由で高練度の統制人格が消滅した軍艦を、他の能力者が再利用する場合はあった。

 が、新しい統制人格に練度が引き継がれるという事も無く、完全に塗り潰されてしまうのが常だった。

 しかし、眼前のこの二人は違う。

 この世に生まれ出でたばかりだというのに、歴戦の勇士たる濃密な闘志を漂わせているのだ。

 

 何よりも、魂で繋がる自分自身が理解している。

 この伊勢と日向は、“伊勢さん、日向さん”とは違う存在だけれど、確かに“何か”を継いでいるのだと。

 自分に、御せるだろうか。

 あの人のように、臆せず戦えるだろうか。

 そんな不安を募らせる、情けない自分だったが……。

 

 

「……とまぁ、堅苦しい挨拶はこの辺で良い?」

 

「は? あ、ああ。構わないが」

 

「やっぱり、最初くらいはキチッとしとかないとね? 改めまして、伊勢よ。よろしく!」

 

「……よろしく、頼む」

 

「うんうん! いやぁ、そんな顔してるから性格も厳ついのかと思ったけど、話が分かる良い上司じゃない。ね、日向?」

 

「悪かったな、こんな顔で……」

 

 

 意外な事に、艤装を格納した伊勢は堅い表情を崩し、気さくに握手まで求めて来た。

 躊躇いながら手を差し出すと、ガッチリ握られ上下にブンブン。

 な、なんだろう、このフレンドリーな感じ。さっきの……威圧感みたいなものは、気のせいだったのだろうか?

 と思ったのも束の間。伊勢の隣に居る日向は、落ち着いた雰囲気を維持したまま、胡乱な眼をこちらに。

 

 

「君が、提督か? ふぅむ……」

 

「……不服か」

 

「さぁ。だが、一つ聞いておきたい。……君は、なんの為に“戦場(ここ)”に居る?」

 

 

 腕を組み、同じく艤装を格納する日向。

 それでも刀は腰にあり、いうなれば野武士、山伏のようだ。空気を読んだか、伊勢も手を離して距離をとった。

 自分がここに居る理由……。戦場に、身を置く訳?

 少し前の自分だったら、きっと答えに窮していただろうが、もう違う。

 迷うこと無く、答えられる。

 

 

「みんなの、居場所を……。

 誰かの安らぎになったり、営みが繰り広げられる場所を、守るために。

 自分自身がそんな場所と成る為に、ここに居る。力を貸して貰うぞ。伊勢、日向」

 

 

 黒い瞳を真っ向から見据えて、自分は答える。

 日向の眉がピクリと反応し、伊勢までもが大きく眼を見開いた。

 単に驚いているのか。はたまた、期待外れだったのか。

 どちらにせよ、この二人は自分にとって大きな“力”となる。

 是が非でも一緒に戦って貰う、と右眼で訴え続ければ、日向は瞼を閉じ、軽く溜め息を。

 少しだけ、微笑んでいる……?

 

 

「……まぁ、いいさ。その言葉を忘れなければ、君は……」

 

「はいはい、日向ってば真面目過ぎなのよ。もっと気楽に気楽にー」

 

「伊勢……。離れないか、全く」

 

 

 何かを言いかける日向だったが、伊勢に無理やり肩を組まれ、中途半端で終わってしまう。

 例えるなら、伊勢が柔、日向が剛、というような感じか。

 ……元帥と共に逝った“彼女たち”も、そんな風だった。

 何はともあれ、取り敢えずのお眼鏡には適ったらしい。

 この二人を――いや、この二人と明石、それに疋田さんを仲間に加えて、また新しい戦いが始まるのだ。……ここからだ。

 

 と、胸の内で決意を固めていた所へ、やたら大きな拍手が一人分。

 何故だろう。水を差されたような気分を引き起こす、それの主は……。

 

 

「お見事です。貴方の“力”、確実に階梯を昇ったようですね」

 

「……桐谷提督」

 

 

 変声機を使い、重低音の声で労をねぎらう男。“梵鐘”の桐谷提督だった。

 いつから様子を伺っていたのか、声もなく驚いている明石たちの更に後ろから、ゆっくりと歩み寄って来る。

 間桐提督が腰を上げ、敵意を剥き出しに凄む。

 

 

「テメェ、何しに来やがった」

 

「そう構えないで下さい。誤報告については謝罪したじゃありませんか」

 

「許した覚えはねぇ。今後許すつもりもない。……桐林、オレぁ先に帰るぞ。胸糞悪い」

 

「あっ、パパっ? えっと、えっと。ごめんなさい、またねー!」「挨拶は、またの機会に。失礼、します」

 

 

 吐き捨てるように、彼は一方的に別れを告げ、代わりに謝る少女たちと歩き去る。

 対する桐谷提督の顔には、やはり笑顔が貼り付けられていて。

 

 

「やれやれ。すっかり嫌われてしまいました」

 

「……自業自得ではありませんか」

 

「おや、手厳しい。貴方もですか。寂しいですねぇ」

 

 

 肩をすくめる姿が、どうにも胡散臭い。

 一応、大人としての礼儀は払うつもりだが、先日の一件で、自分の中では梁島と同様、敵に分類される男だ。余程のことがない限り、好意的な目で見るなんて不可能に近い。

 それを知らないはずの桐谷提督は……。否、知っていても大して行動を変えないだろう彼は、間桐提督の背中が小さくなるのを待たず、こちらに向き直る。

 

 

「それはさておき。デバガメしていたのは他でもありません。桐林殿、貴方の今後について、お話ししたい事があったからです」

 

「自分の、今後?」

 

「はい」

 

 

 立ち話でするには重要過ぎる内容に、思わず右眼を細めてしまう。

 自分の身柄は、あいも変わらず桐谷提督の監督下にある。

 イタリアとの同盟で、無下に扱われる可能性はかなり減ったはずだが、彼自身からは逆に恨みを買ったに違いない。

 それでも、国と千条寺家の利益を上げる為ならば、手厚く援助すらしてくれそうな人物だが……。

 

 

「貴方には、横須賀から去って頂きます」

 

「……何っ!?」

 

 

 桐谷提督が放った一言は、予想を遥かに超えて、自分の心を揺さぶった。

 左眼が、微かに疼く。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 船渠から秘密港内部施設へ繋がる、無機質な通路。

 多くの人が行き交ってもおかしくないのに、全く人影が無いそこを進みながら、自分は考え込んでいた。

 

 

(一体、どういう事なんだ)

 

 

 伊勢、日向の励起から、もう十数分が経っている。

 周囲の風景は段々と変化し、自動ドアや曲がり角の多い、居住ブロックに差し掛かっているようだ。

 所々、壁に設けられた案内図を確かめながら向かう先は、桐谷提督に指定された部屋。

 そこで待っている人が、居るらしい。

 

 

『貴方と梁島殿には、舞鶴鎮守府へと移籍して頂き、その再建を担って貰います』

 

 

 彼の話を意訳すると、テロやら何やらで損害を被った舞鶴鎮守府を、自分と梁島、二人だけを擁する隔離施設にしたい、という事だった。

 不穏分子に簡単に侵入され、あまつさえ爆破されるという失態を演じた人員を総入れ替え。

 そこへ、“ヤツ”との戦い――舞鶴事変と名付けられたようだ――で名誉の負傷を負った“英傑”を据える事で、民衆の不満を僅かなりとも抑える、と言うのが理由の一つ。

 

 もう一つの理由は、自分が得た“力”の影響を考えて、だ。

 自分はまだ、あの“力”を制御できているとは言い難い。

 そんな状態で、極めて練度の高い傀儡艦を用いた戦闘を行ったら、どうなるか。

 運悪く暴走し、その“力”が陸へ向けられてしまったら。

 万が一にでも、そんな事があってはならないのだと、彼は言った。

 

 きっと、他にも理由はあるだろう。

 舞鶴の再建は千条寺家が出資するだろうし、国に刃向かおうとした自分を監視し易くもなる。

 加えて、せっかく人類が手に入れた新しい“力”。研究もせずに放って置くわけがない。

 それらを考えれば、納得はできずとも、理解はできる。

 しかし、気になるのは別の事なのだ。

 

 

『不服にお思いでしょうが……。きっと貴方は、自ら舞鶴へ行くと仰ってくれますよ』

 

 

 事のあらましを説明し終えた後、桐谷提督はこう言って、とある部屋番号を示し、姿を消した。最後に、「お一人で向かわれた方が良いですよ?」と付け加えて。

 取り残された自分と明石、伊勢に日向、疋田さんは、しばらく気不味い沈黙を味わってから、疋田さんの運転で港を離れ、言われた通り、一人で地下施設を歩いている……というのが現状だ。

 

 何を企んでいる。

 一体、今度は何をさせたい。

 

 人通りの全くない通路を歩き、ずっと考え続けているが、答えは見つからず。やがて、目的の部屋へと辿り着いてしまった。

 表側から掛かる電子ロックの自動ドア。

 保護対象を守ったり、逆に危険人物を閉じ込めるために使われる部屋だ。

 自分を待っているのは誰だろう……。いや、考えていてもしょうがない。

 頭を振って迷いを振り切り、自分は静脈認証でロックを解除する。

 

 窓が無く、中央に応接セットがあるだけの、十六畳ほどの部屋。

 そこで待ち構えていたのは……。

 

 

「……司令官? 大丈夫なのかいっ?」

 

「響? 暁も……」

 

「そうよ、私も居るわ! ずっと心配してたんだからぁー!」

 

 

 酷く懐かしく感じる、仲間たちの顔だった。

 誰よりも早く立ち上がった響。抱き着いてくる涙目の暁。

 壁際に寄り掛かっているのは、天龍と龍田。そして、ソファに腰掛ける、双子のように似た少女――雷と、電。

 呆然と六人の顔を見渡す自分に、天龍型姉妹が歩み寄る。

 

 

「調子は悪くなさそうだな。安心したぜ」

 

「天龍……。すまない、心配かけた。龍田も」

 

「良いのよ~、気にしなくて。私は大丈夫だろうって思ってたから~」

 

「はは、そうか」

 

 

 盛大に溜め息をつく天龍は、やっと気を抜ける、というような。

 いつも通りの微笑みを浮かべる龍田も、どこか、いつも以上に柔らかい雰囲気の表情を見せてくれた。

 ……ああ、ホッとする。

 心から気を許せる相手と話せるのって、やっぱり安心する。

 その分、桐谷提督の言った言葉は気に掛かるけど、ひとまず置いておこう。横須賀の状況を確認しなければ。

 

 

「みんなは、どうしてる?」

 

「ハッキリ言って、酷い状態だね。横須賀の艦隊は、通常の半分ほどしか機能していないよ」

 

「金剛さんも、長門さんも、鳳翔さんも赤城さんも加賀さんも。司令官の事が心配で、仕事が手に着いてないの……」

 

 

 響たちの口から語られたのは、思いも寄らぬ惨状だった。

 金剛だけならまだ分かるが、赤城や長門までそんな状態になっているなんて。

 心配して貰えるのは嬉しいけれど……。やっぱり、横須賀へ帰らなくちゃ。

 早急に活動基盤を復活させ、今後、横槍が入らないよう立場を強化する必要がある。

 ……そう言えば。今まで面会など言語道断、という感じだったのに、みんなは何故ここに?

 

 

「一つ聞いていいか。君たちは、どうやってこの秘密港に来たんだ?

 

「あの図体のデカい野郎だよ。彼の事を考えれば、身柄は動かさない方が良い……とかなんとか言っててよ。

 怪我でもしてんのかと思ってたが、ピンピンしてんじゃねぇか。トンだホラ吹きだぜ、ったく」

 

「具体的に言うと~、桐谷提督が横須賀に連絡してきてね~? 代表者数名だけ、という条件で、面会させてもらう事になったのよ~。ケチ臭いわよね~」

 

「……それって、金剛が騒いだんじゃ……」

 

「オレらもそう思ったから、教えてねぇんだ。正直、後は怖いけどよ……」

 

「赤城さんたちが気を遣ってくれたのよ~。絶対に、会っておかなきゃいけない子が居るでしょう~?」

 

 

 ポン、と天龍に肩を叩かれたかと思えば、音も無く背後へ回った龍田に背中を押される。

 押し出された先には、ソファから離れた二人の少女たち。

 

 

「……雷。電……」

 

 

 距離にして、一m足らず。二~三歩ほど踏み込めば手が届く。

 しかし、彼女たちはもどかしい距離を保ったまま、儚げに微笑んでいる。

 

 

「痛い所とか、ない? また、無理して笑ってる訳じゃ、ないのよね?」

 

「ああ、大丈夫だ。少しずつだけど、この眼の使い方も分かってきてる。

 日常生活では使えないから、天龍みたいに、ちゃんとした眼帯が必要だな」

 

「良かった……。ホッとした、のです……」

 

 

 敢えて大げさに、使い捨ての眼帯を撫でながら苦笑いを浮かべると、目に見えて緊張を和らげる二人。

 左眼はもう元に戻らないが、顔の傷だけでも消した方が良いかも知れない。

 そうしないと、この子たちは何時までも気に掛けてしまうだろう。

 正直に言えば、消したくない。

 この傷は、先輩が自分を守ろうとしてくれた、証拠のように思えるからだ。異常な考え方だという自覚はある。

 でも、みんなにとってこの傷は、ただの敗北の証。要らぬ気苦労を掛けるくらいなら……。

 

 と、頭の中で考えを巡らせる自分だったが、不意に、天龍が物言いたげにしているのに気付く。

 何かを後ろ手に隠すような仕草。コツコツと絨毯敷きの床を叩く爪先。妙にソワソワしていた。なんだろう……?

 

 

「ほら、天龍ちゃん」

 

「う。わ、分かってるよ。……あ、あー、あのよ、司令官。今言った眼帯がどうの、ってヤツだけど、よ……」

 

 

 問い掛ける前に、肘で突かれた天龍が進み出る。

 どうしてだか顔を赤らめ、頬を照れ臭そうに掻くその姿は、時期的にはちょっと早いが、まるで意中の相手に、バレンタインのチョコを渡さんとする少女で。

 しおらしさに思い掛けずドキッとさせられるけれども、ぶっきらぼうに突き出された手が持っているのは、なんと眼帯だった。

 

 

「これ、やる」

 

「え……? これ、天龍のと同じ……」

 

「く、球磨のヤツがさ、いつの間にか、オレのを真似て作ってたみたいでよ。

 結構、凝ってるだろ? 木製だから軽いし、間に合わせに良いんじゃねぇかなって、思うんだ、けど……」

 

「うふふ。そういう訳だから、受け取ってあげて貰える~? じゃないと、せっかく頼み込んだ天龍ちゃんが可哀想で~」

 

「うおぁああっ!? た、頼んでない! 頼んでないからなっ! なに言ってんだよ龍田ぁ!?」

 

 

 背中から対物ライフルでフレンドリーファイアされた天龍が、眼帯をこちらに放り投げて龍田へ詰め寄る。

 反射的に眼帯を受け止めつつ、この二人は相変わらずだな、と、顔が勝手に微笑む。

 良い加減、使い捨ての物にも飽きていたし、わざわざ探さなくて済むし、丁度良い。有り難く受け取ろう。

 

 

「ありがとう、天龍。確かに受け取った」

 

「……お、おう。なら、良いや……」

 

「うふふふふ。それ、天龍ちゃんだと思って大事にしてね~」

 

「オマエは変なこと言うなよ龍田ぁ!?」

 

「きゃ~、天龍ちゃん怖~い」

 

 

 ズボンのポケットへしまい込み、素直に礼を言うと、天龍がまた恥ずかしげに俯いて、龍田の冷やかしで眉毛を釣り上がる。

 多分、天龍は素で、龍田はワザとフザケているんだろう。場の空気を和らげるために。

 けっこう長い付き合いだけど、ホント、この二人には助けられてばっかりだ。

 いつか、ちゃんとした御礼をしたいものだが、しかし、和やかな雰囲気も長くは続かなかった。

 

 

「ねぇ、司令官……。暁たち、これからどうなっちゃうの……?」

 

 

 いつの間にか、暁が隣に立っていた。

 軍服の裾をつまみ、不安そうな瞳でこちらをジッと見上げて。

 静寂が広がる。

 

 

「みんな、顔には出さないようにしているけれど、不安を抱えているはずだよ。……もう、司令官が帰ってこないんじゃないか、って」

 

 

 暁の肩を抱く響は、それこそ皆を代表するように、言い辛いであろう言葉を口にする。

 それに触発されたか、今度は雷が。

 

 

「そんな事、ないわよね? 今は、ちょっと離れ離れになってるけど。キチンと誤解が解ければ、また横須賀に帰ってこられるのよね? ね?」

 

 

 期待と不安が混ぜ合わさった、彼女らしくない……。頼りない笑顔。

 どう答えれば良い。

 舞鶴の再建を任された。しばらく横須賀を離れる。でも、必ず帰ってくるから。

 舞鶴の再建を任された。けど大丈夫だ。横須賀と行き来しながら両立してみせる。

 どちらにせよ、確証のない、無責任な発言としか思えなかった。

 答え、られない。

 

 

「……司令官、さん」

 

「電……」

 

 

 俯きかける自分の前に、電が立つ。

 雷とよく似たその顔は、より色濃く不安を映し出す。

 大丈夫だよ、と言いたかった。

 安心してくれ、と慰めたかった。

 自分は君たちの居場所で、君たちの側が自分の居場所で。

 だから、何も心配することなんてないんだ。

 そう伝えたくて、自分は電へと手を伸ばす。

 

 

「自分は……」

 

「――あっ」

 

 

 だが。差し出した手は、何にも触れられなかった。

 電が反射的に身を竦め、後ろへ尻餅をついたからだ。

 まるで、“何か”に怯えるよう、目を閉じ、頭を両手で庇っている。

 

 

(……ああ、そうか。そうだった)

 

 

 梁島の言った通りだ。

 なんとも都合の良い話だが、その瞬間、自分はようやく、あの夜の全てを思い出した。

 願いを尋ねる影。

 柘榴味の口付け。

 胸に渦巻く激情。

 怒り。

 殺意。

 呪い。

 邪魔を、するな。

 他の誰でもない。

 あの夜、一番に皆を――彼女を傷付けたのは。

 

 

(自分自身、じゃないか)

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 ハッと気が付き、電は桐林を見上げる。

 彼は、腕を伸ばしたままの体勢で硬直していた。

 そして、顔に浮かぶ表情を確かめるや、己が何をしてしまったのかを、理解する。

 

 

「ち、違うのですっ。今のは、少しビックリしただけで……。司令官さ――」

 

 

 そんなつもりじゃなかった。

 怖がってなんかいないと、縋るように伸ばされた電の手は、空を掴んだ。

 桐林は手を引き、その手で己の顔を覆う。

 

 

 

「……ふ、っくくく……。ぁ、ははは……」

 

「し、司令官……?」

 

 

 掠れた笑い声に、暁が怯えて裾を離す。

 ほんの一瞬で、彼の纏う空気は固く、重苦しいものに変貌してしまっていた。

 

 

「自分は……。横須賀へは、帰らない」

 

 

 電に背を向け、桐林は吐き捨てる。

 水を打ったような静寂が数秒。

 やっと言葉の意味を理解した天龍が、軍服の肩を掴んだ。

 

 

「オイ、どういう事だよ。なんだよソレッ!?」

 

「嘘、よね? れ、レディーはそんな嘘に騙されないんだからっ」

 

「ふ、二人とも、ちょっと落ち着きましょう~?」

 

 

 声を荒らげるのは天龍だけでなく、暁もだった。

 怯えた事も忘れ、また裾にしがみ付いている。それ程までに、彼の一言に衝撃を受けたのである。

 龍田までもが普段の余裕を失い、二人を宥めるだけで精一杯という有様だ。

 

 

「司令官。説明を、して欲しい。ワタシたちを、納得させるだけの理由は、あるのかい?」

 

 

 辛うじて冷静さを保つ響が、頑なな背中に問う。

 ややあって、返されたのは冷たく、静かな声。

 

 

「横須賀の艦隊は、ほぼ完成されている。そこへ、どんな悪影響を与えるかも分からない自分が戻れば、最悪、艦隊が瓦解する事も考えられるだろう」

 

「そ、そんな事っ」

 

「無いと言い切れるのか。雷」

 

 

 へたり込む電に寄り添う雷は、強い語気で遮られ、言葉を失った。

 例えば桐林が、そのまま横須賀へ戻ったとして。今まで通りに艦隊指揮を執れるだろうか。

 また、あの夜のように暴走したら。

 憎悪に呑まれ、人ならざる“力”を振るったなら。

 仲間たちは、今まで通りに彼と接する事が出来るだろうか。

 それこそ、艦隊が機能しなくなる場合だって考えられる。

 だとするならば、横須賀の艦隊は、桐林を欠いたまま運用した方が。まだ役に立つ。

 何せ雷たちは、人間と同じように考え、自由に判断を下せる、感情持ちなのだから。

 

 納得なんて出来ない。出来るはずがない。

 けれど、彼の言うことは正しいと、頭で理解してしまう。

 電の顔はますます色を失い、雷が悔しさに歯噛みする。

 

 

「自分は舞鶴に居を移し、新たな艦隊を組む。もう伊勢型は励起した。海外からも助力を得ている。始まっているんだ」

 

 

 そして、桐林が横須賀に戻れないとなったら、国は彼をどうするのか。

 遊ばせておくなど以ての外だ。

 新たな地で、新たな艦隊を組み、“力”の制御・解明に取り組むのが妥当であろう。

 彼を知らない統制人格ならば、例え彼の“力”に巻き込まれたとしても、己が不幸を呪うだけで済む。

 今までの全てを捨て去り、見ず知らずの仲間を選ぶ事が、彼に求められる最善。

 決して、桐林自身が望んだ事ではないだろうと、想像がつく。

 逆らえないような状況に追い込まれ、無理やり言わされているのだと、思いたい。

 そんな気持ちが、天龍を乱暴に詰め寄らせる。

 

 

「なんだよ、ソレ……。オレたちを捨てるのか!? オレたちはオマエの! オマエの為だったから!」

 

「天龍ちゃん! お願い、やめて……」

 

「……クソッ」

 

 

 桐林の襟首を、今にも掴み上げそうな天龍だったが、悲愴な顔の龍田に縋り付かれ、悔しさを壁に殴り付ける。

 誰も。何一つ、言葉を口にしない。

 このような気持ちの行き違いは、これまで無かった。

 硫黄島作戦での霞の大破や、双胴棲姫との戦い。他にも、笑い話にしかならないような出来事は多々あったが、それらは全て、互いを想う気持ち故。

 こんな風に、一方的に切り捨てられるのは、初めての事だった。

 

 

「強く、ならなくちゃいけないんだよ」

 

 

 ダラリと下がっていた手を握りしめ、桐林は背中で語る。

 

 

「この“力”を使いこなせるようになれば、もう誰にも脅かされない。

 だれも、自分たちの居場所を奪おうとはしなくなる。

 でもダメなんだ。君たちの側に居たら、自分は強くなれない。

 君たちの優しさに甘えて、いつまでも、頼ったままで。それじゃダメなんだ」

 

 

 また例え話になるが、横須賀の統制人格たちが、あの“力”に晒されたとして。彼女たちはどう反応するだろう。

 心を蝕む激情に、恐れを抱くだろうか。

 掻き立てられた闘争本能に、荒ぶるだろうか。

 その結果として傷付いた場合、桐林を責めるだろうか。

 

 答えは否だ。

 魂を押し流すような激情にも、堪えようとする。

 闘争本能だけで、戦おうとはしない。

 己が身に傷を負ったとしても、心配をかけぬよう微笑む。

 

 それは、彼が呼び寄せた統制人格が、彼から引き継いだ、特性とでも言うべきもの。

 ……優しさ故だ。

 きっと曙や霞、大井ですら、なんだかんだと言い訳をつけてそうするだろう。

 けれど、その優しさは苦いのだ。

 自分自身が元凶だと分かっている結果を、誰にも責めて貰えないのは。自己愛で歪みきった人間でもない限り、暴言を吐かれるよりも、苦しめられる。

 

 だからこそ、彼女たちの優しさは、桐林にとって毒に他ならない。

 必要なのは気遣いでなく、無遠慮に叱咤し、文句を叩きつけ、憎んでくれるような存在。

 負の感情すらをも糧としなければ、人理を超えた“力”など、制御できようはずが無いのだ。

 優しさだけで全てが上手く回るほど、この世界は甘くないのだから。

 

 しかし、これはあくまで桐林の理屈であって、オマケに彼は口にも出していない。

 それに思い至れなかった、電が……。

 必死に引きとめようとする電が、彼と同じように拳を握り、立ち上がりながら叫ぶ。

 

 

「頼ることの、何がいけないんですか……?

 司令官さんに頼って貰えたら、電は嬉しいのです!

 司令官さんのお願いだったら、なんだって頑張れます! 

 ……大好きな人の為に、役に立とうって思う事が、いけない事なのですか!?」

 

 

 桐林の背中が、わずかに揺らぐ。

 初めてだった。

 大人しく、どこか引っ込み思案だった彼女が、感情に任せてとはいえ、こうもハッキリと好意を口にするのは。

 その想いが通じたのだろうか。

 未だに振り向かない背中の宿す雰囲気が、フッと和らいだ。

 

 

「何か、勘違いしてないか? 舞鶴へ行って、そのまま二度と戻らない、なんて言ってないぞ」

 

「え? ど、どういう事なの? 司令官、分かるように話して」

 

 

 先程までの冷徹な声ではなく、悪戯が成功した時のような、本当に普段通りの声。

 あまりの落差に困惑し、雷は反射的に聞き返す。

 すると、彼は右肩越しに後ろを振り返り――

 

 

「自分は強くなる。誰よりも。みんなを守れるくらいに。

 そして、いつか横須賀に帰るよ。

 新しい仲間たちを引き連れて、胸を張って、必ず帰ってくる。

 だから、待っていて欲しい。自分たちの家を、君たちに守っていて欲しい。

 だからさ。……笑って見送ってくれないか」

 

 

 ――彼女たちにとって懐かしい、力強い笑みを見せた。

 髪の色は白く変わってしまったけれど、それ以外に何一つ変わらない、本当に普段通りの、彼らしい横顔。

 もう、何も言えなくなってしまった。

 彼がああいう笑い方をする時は、既に心を決めていて、何を言っても揺るがない。

 電は、それを誰よりも、一番よく知っている。

 だから。

 彼女は震える手をどうにか抑え、鼻の奥がツンとするのを我慢し。

 精一杯の笑顔で、大切な人を送り出す。

 

 

「行ってらっしゃい、なの、です」

 

「行ってきます」

 

 

 右眼を緩やかに細め、なんの気負いもなく返事をした後、桐林は自動ドアの向こうへ消える。

 そこでもう、限界だった。

 背中が完全に見えなくなった途端、電は膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らす。

 

 

「……っ、う、ぁ……っ、司令、か、さん……! ひっく、ぅあ、あ……っ」

 

 

 後悔ばかりが、電の胸を埋め尽くしていく。

 行ってしまった。怖がってしまった。傷付けてしまった。触れる事すら、出来なかった。

 もう、自由に会う事すら叶わなくなるだろう。

 

 おそらく、彼も迷っていた。電が怯えてしまうその瞬間まで、舞鶴行きを拒もうとしていた。

 それを悪い方向へ後押ししてしまったのは、やはり電だ。

 制御できない“力”で電たちを傷付けるのを恐れ、彼は仲間から離れる事を選んだのだ。

 新しく励起した統制人格たちなら、傷付けて構わない? それも違う。

 今まで寝食を共にしてきた仲間と、これから出会い、苦難を共にする仲間。

 傷付けるならどちらが良いかと迫られ、彼は後者を選んだ。電が、選ばせてしまった。

 

 天龍は、苦虫を噛み潰したような顔で、また壁を殴る。

 龍田は、そんな彼女の拳を優しく握り締め、悲しげに瞼を伏せる。

 暁は、電を真正面から抱き締めて、一緒に泣いている。

 響は、帽子を目深に被り直す。つばを掴む指が、震えている。

 雷は、己の無力さを確かめながら、無気力に自動ドアを見つめている。

 

 誰もが皆を思い遣り、幸せを願った結果、訪れてしまった別れ。

 その苦味に、少女たちは無言で耐え続ける。

 いつか帰るという、儚い約束だけを信じて。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 同じ頃。

 疋田と明石、伊勢、日向の四人は、地下施設の廊下で桐林を待ち続けていた。

 彼と別れてから、まだ十数分。談笑するネタには事欠かないけれど、もどかしいような気持ちも感じている。

 壁に寄り掛かる日向が、彼の歩いていった方向を見つめ、呟く。

 

 

「しかし、彼は誰と会っているのだろうな……」

 

「さぁ……? ひょっとして、横須賀に置いて来た恋人だったりして。ね、明石はその辺りのこと詳しいんでしょう? こっそり教えてよー」

 

「い、いやぁ、恋人は居なかったような気が……。好きな子は、居るみたいですけど……」

 

「ついでに言えば、桐林提督“を”好きな子もたっくさん居ますけどね……って、戻って来ましたよ!」

 

 

 話題が桐林の噂になると、丁度、廊下の曲がり角から彼が姿を見せる。

 しかし、その雰囲気は異様だった。

 桐谷の登場で顔は険しくなったものの、まだどこか柔らかみを帯びていた雰囲気が消え去り、空気そのものを重くするような、名状し難い影を背負っている。

 何事か、と四人は言葉を失い、近寄って来る彼を待つ。

 表情を窺い知れる距離になって、タイミングを見計らっていた疋田が声を掛けた。

 

 

「桐林、提督? あの……」

 

「……少し、待って貰えますか」

 

 

 暗い声で返す桐林は、疋田を制しつつ、使い捨ての眼帯を外す。

 しっかりと、瞼の上にまで刻まれた傷痕を見て、伊勢が静かに息を飲み、日向は痛ましさに目を細める。

 それには大した反応をせず、桐林がズボンのポケットを探り、天龍からの贈り物を取り出した。

 

 

「それって、天龍ちゃんの……?」

 

 

 思わず覗き込む明石に、彼は答えない。

 顔を伏せ、左眼に眼帯を押し当てて、繋がる飾り紐を後頭部で結ぶ。

 誂えたようにピッタリだった。

 けれど……。

 

 

「行こう」

 

 

 真正面を見据え、颯爽と明石の左側を通り過ぎる、真剣な横顔は。

 白髪と顔の傷も相俟って、まるで別人のようにも見えた。

 なに馬鹿な事を、と頭を振り、明石は彼の背中を追いかける。

 どこへ向かうのかも知らぬまま、その後ろに疋田、伊勢、日向が続く。

 

 この日。この五人から。

 舞鶴鎮守府、新生桐林艦隊が始まったのだ。

 

 

 


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