新人提督と電の日々   作:七音

85 / 107
異端の提督と舞鶴の日々 時・天津風は意地っ張り(+α多数)

 

 

 

 一六○○。

 出撃を控え、二日間の完全休暇を過ごす桐林は、庁舎五階の自室にて、ある動作に没頭していた。

 眼帯を外し、上着も軍帽も脱いでベッドに寝転び、天井を見上げる彼の視界では、オレンジ色のゴムボールが上下している。

 右手で真上にボールを投げては、右眼でそれを追いつつ、受け止める。この繰り返しだ。

 無為な時間を過ごしているようにしか見えないが、そんな時、部屋にノックの音が響く。

 

 

「司令ー、アタシだけど入っていいー? ってか入るよー」

 

「……返事をする前に入るな」

 

「良いじゃん良いじゃん、アタシと司令の仲なんだし」

 

 

 パタパタパタ、と。無遠慮な足音が近づき、桐林の寝るベッドに誰かが腰掛ける。

 変わらず天井を見上げる視界へと割り込んだのは、一人の少女だ。

 白地に紺襟。前をボタンで留める長袖のセーラー服を着て、一部の毛先が白く染まった黒髪を、ショートカットにしている。頭には煙突を模した小さな帽子を乗せていた。

 彼女の名は時津風(ときつかぜ)。陽炎型駆逐艦の十番艦である。

 

 

「何してんのー? ボールで一人遊び?」

 

「……訓練だ」

 

「訓練? これが?」

 

「深視力を養うための、な。日常生活では、右眼しか使えない」

 

「そっかー。司令も大変大変、だねー」

 

 

 桐林の説明を聞き、時津風は「うんうん」と頷いている。

 その度に、毛先の白く染まった房が揺れ、まるで犬耳のようだ。

 なんらかの理由で片眼を失った人間は、物との距離感を測る能力が低下してしまう。

 桐林の場合、厳密に言うと隻眼ではないのだが、彼の左眼は、日常で使うには“見え過ぎる”。

 そのため、片眼でも生活できるように、一人で行える簡易訓練が欠かせないのである。

 

 

「さて……。唐突にドーン!」

 

「っぐほ」

 

 

 黙々とボールを投げる桐林。

 それを見ていた時津風は、ふと立ち上がり、かと思えば、いきなり彼の上へとダイブした。

 子供のような体躯とはいえ、人間大の物体の落下。

 衝撃に桐林が悶え、ボールを受け止め損なう。

 

 

「時津、風……っ」

 

「あのさあのさ、司令にお願いがあるんだけど」

 

「まず、降りろ……」

 

「アタシらさ、明日には舞鶴を出航して横須賀行くでしょ?」

 

「………………」

 

「暇してるなら、みんなに声掛けてあげて欲しいんだよねー。ほらほら、激励みたいな感じ」

 

 

 桐林の身体を這いずった時津風は、胸板の上で腕枕を作り、黒いパンストに包まれた両脚をプラプラ。非難がましい視線にも動じず、要件を勝手に伝える。

 しばらく険しい視線を向け続ける桐林だったが、時津風は「んー?」と眠たげな笑顔を浮かべるだけ。

 本当に、悪戯好きな仔犬のようだった。

 

 浦風の嘆願を受け、予定を調整した結果。二週間後の横須賀鎮守府にて、横須賀艦隊と舞鶴艦隊の合同演習が、再び行われる手筈となっている。

 日程としては、明日、時津風を始めとする十二隻の水雷戦隊が舞鶴を出発し、数日掛けて本州を回り込み、横須賀で一週間の演習を行う。

 次作戦の準備もある。今日を逃せば、彼女たちと顔を合わせるのは、二週間以上先になるだろう。

 

 

「……分かった。そうしよう」

 

「お、素直さんだー。良い子良い子ー」

 

 

 抵抗を諦めたのか、桐林は溜め息をつきながら起き上がる。

 必然的に時津風も起き上がるのだが、脚の間に落ち着いた彼女は、桐林を子供扱い。膝立ちになって頭を撫で回した。

 鬱陶しくそれを払いのけ、桐林はベッドを降り、時津風も続く。

 

 

「誰がどこに居るか、調べないとな」

 

「ふふふふふ。こーんな事もあろーかとー! 前もってみんなの予定は調べといたよー! アタシは優秀なのです! どうだー!」

 

 

 上着と眼帯。それと軍帽。

 身嗜みを申し訳程度に整える桐林が呟くと、時津風は懐からメモ帳を取り出し、「褒めろ褒めろー!」と言わんばかりに胸を張った。

 余談ではあるが、彼女の着ている衣装は、雪風や浜風の着ているそれと同じデザインであり、違う所と言えば、オレンジ色のタイと絡まる錨型ネックレスに、袖の長さくらいだ。

 勘の良い方はお気付きと思うが、実は雪風と時津風、普通のセーラー服のスカートを穿いておらず、上着だけをワンピースの様にして着ているのだ。

 同じ陽炎型でも身長には差があり、大した問題は無いようだが、時津風は更に、裾を左側で固結びして絞っている。

 オマケにもう一つ付け加えると、結び目のせいでキュッと上がった裾からは、白い紐が覗いていた。例えるなら、紐パンの結び目の、余りのような。純白の紐が。

 

 ……だからなんだ、と言われればそれまでなのだけれども。とにかく、これが時津風なのである。

 桐林は彼女から目を逸らし、また溜め息を。

 

 

「行くか」

 

「うんっ。行こう行こうー!」

 

 

 そして、仔犬を散歩に連れて行くが如く。

 時津風を伴い、気怠げに部屋を出るのだった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「ふんふんふーん♪ はぁーっ……。良し、綺麗になったかも!」

 

 

 庁舎四階。中央エレベーター周りにあるサロンで、少女が一人、とても大きな航空機模型を、脚の低いテーブルに乗せ、丹念に磨いている。

 エメラルドグリーンと白のコントラストが美しい、ジャケットとスカート。

 白地を黒い線で縁取ったオーバーニーソックスを身に付け、ぴょんぴょん跳ねる銀髪のツインテールの先端には、錨型のアクセサリーが上機嫌に揺れていた。

 そこへ桐林たちがやって来て、声を掛ける。

 

 

「秋津洲」

 

「え? あっ、提督……と、時津風ちゃん! どうしたの? 遊びに来たかも?」

 

「うん、そんなとこー」

 

 

 桐林の姿を確かめた彼女――飛行艇母艦 秋津洲は、大急ぎで立ち上がった後、小首を傾げる。

 その視線は、桐林を見やり、そのまま上へと向かう。

 何故なら、そこに時津風の顔があったからだ。肩車をしているのである。

 

 

「……っていうか、なんで提督は時津風ちゃんを肩車してるかも?」

 

「へ? なんでって、そりゃあ……。あ、そっかそっか。秋津洲はいっつも日本海泊地だから知んないのかー」

 

「うんっ。二式大艇ちゃんの整備は、本土より泊地の方が効率良いかも!」

 

 

 たゆん、と胸を弾ませながら、秋津洲が先程の模型――艤装の一部である、笑顔のノーズアートが描かれた二式大艇を、頭上に掲げた。

 二式大艇。正式名称、二式飛行艇。

 空の戦艦とも呼ばれたこの機体は、全長約二十八m、全幅三十八mという大型飛行艇ながら、最高速度は時速四百km超。

 小型機並みの操縦性と高い防御力を合わせ持ち、六千kmを超える航続距離、多数の旋回機銃に合計二トンまでの爆装。航空魚雷なら同時に二本までと、凄まじい性能を誇っている。

 しかし、その性能故か、宿る使役妖精は非常に気難しく、史実での接点が多い秋津洲しか制御できず、同時に飛ばせるのも三機までという、大きな制限があった。

 それでも、飛んでいるかいないかで戦況が変わる程の、非常に大きな戦力であり、ここに居る秋津洲は、舞鶴航空部隊の主力と言っても過言ではない。

 

 そんな彼女が主な活動拠点としているのが、日本海泊地だ。

 多少ではあるが海域との距離を稼ぎ、迅速に出撃や補給、修理を行う為、秋津洲は殆どを泊地で過ごす。

 必要に迫られれば、護衛部隊と共に抜錨。洋上で二式大艇の補給まで行う彼女であるから、鎮守府の日常に疎いのも仕方がないか。

 

 

「ここねー、アタシの指定席なんだー。

 なんかさ、司令の頭を抱えてると落ち着くんだよねー。いい匂いするし。

 それに、美少女の太ももに顔を挟まれて、嫌な訳ないもんねー? ほーれ極楽極楽ー」

 

「喜んだ覚えはない」

 

「へ、へー。そうなんだぁ。……確かに、提督ってなんか、甘い匂いするかも」

 

「あ、ダメだかんねー。司令に肩車して欲しかったら、まずアタシを倒すのだー! 二式大艇無しで!」

 

「そんなつもり無いかもっ、というか、大艇ちゃん無しで時津風ちゃんに勝てるわけないかもぉ!」

 

「無視するな」

 

 

 得意気に肩車の心地を語る時津風。クンクンと鼻を鳴らしてから、慌てふためく秋津洲。

 桐林がちょいちょい所見を挟むけれど、聞こえていないらしい。

 上では主力と言った秋津洲だが、それは二式大艇に寄る所が大きい……いや、二式大艇のおかげであって、秋津洲自身に戦闘力は皆無だった。

 自衛用に十二・七cm連装高角砲と、二十五mm連装機銃を二基ずつ備えてはいても、そもそもが戦闘艦艇でないため、大艇無しの秋津洲は、艦隊で一~二を争う弱さなのだ。

 ちなみに、競合相手は工作艦の明石、給糧艦の間宮と伊良湖である。

 

 

「調子はどうだ」

 

「あ、はい。問題ないかも……じゃない、ありません! 体調バッチリ、気合十分!

 あたしと二式大艇ちゃんのコンビは、横須賀の正規空母にだって負けないかもっ!

 むしろ、あたしたちが居なくて、次の作戦は大丈夫かも? ちょっと心配かも……」

 

 

 では、なぜ今、その秋津洲が鎮守府に帰投しているのか。

 時津風が声を掛けて欲しいといったメンバーの中に、彼女が含まれているからだ。

 すなわち、次作戦は二式大艇を使わずに展開する、という事になる。

 主力メンバーの自負がある秋津洲としては、演習に参加していて良いものかと、不安を感じていた。

 

 

「ねぇねぇ司令。なんか勘違いされてない?」

 

「だな……」

 

「……んん? 何? 勘違い?」

 

 

 ところが、時津風と桐林は、気不味く呟き合うだけ。

 不思議そうにまた小首を傾げる秋津洲へと、桐林の代わりに時津風が口を開く。

 

 

「確かに第一艦隊の旗艦は秋津洲だけど、二式大艇はこっちに置きっぱって聞いたよ? 航空燃料も節約しなくちゃだし」

 

「………………えっ」

 

 

 次作戦では、グラーフ・ツェッペリンを含め、航空母艦が四隻、編成に組み込まれていた。

 ここに重巡や軽巡に載せる水偵などを加えると、かなりの数の航空機を実戦配備する事になる。

 焼け石に水かも知れないが、今後の事を考えれば、かさむ燃料費を考慮したくなるだろう。

 逆説的な考えをすると、既に更なる作戦展開を計画してある、という事にも繋がるのだが、てっきり二式大艇無双できると思い込んでいた秋津洲は、みるみる内に顔色を悪くした。

 

 

「そそそ、そんな……そんなぁ!? 大艇ちゃんが、二式大艇ちゃんが居ない秋津洲なんて、なんの役にも立てないかもぉ! 間宮さんたちにも及ばないミソっかすかもぉおおっ!」

 

「うわー、清々しいまでの自虐っぷり。よくそこまで……」

 

「はっ、分かった。そうやって秋津洲と大艇ちゃんを引き離して、その隙に手懐けるつもりかもっ! 秋雲(あきぐも)ちゃんの描きそうなエロ同人みたいにNTRするつもりかもぉ!? そんなこと許さないんだからぁ!」

 

「誰がするか」

 

「っていうか秋雲、そんなもん描いてんの……? うぁー、やだやだー、そんなの勘弁だよー」

 

 

 涙ながらに自らの非力を訴える秋津洲であったが、途中から話が変な方向へ向かい、最終的に、陽炎型駆逐艦の末妹、秋雲への熱い風評被害が広がる。

 この秋雲、陽炎型でありながら乗組員は夕雲型だと思っていたり、珍妙な史実エピソードが多数あるのだが、統制人格の有り様も合わせ、詳しくは別の機会に紹介させて頂く。悪しからず。

 ここでは、その中にスケッチに関する事柄が記録されていて、故に彼女は絵を得意としている、と覚えて欲しい。

 そして、秋津洲は「描きそう」と言っているだけで、実際に描いているかどうかは不明であるという点も、一応覚えておくと良いかも知れない。

 話を戻そう。

 二式大艇を取られまいと、半泣きで威嚇し続ける秋津洲へ、ゲンナリ顔の時津風を乗せた桐林は、溜め息混じりに最後通告を突きつけた。

 

 

「これは決定事項だ。諦めろ」

 

「そんな……っ。お、お願いだから、大艇ちゃんと引き離さないで欲しいかもっ。秋津洲になら……。あたしにだったら、どんな酷い事しても良いかもっ! だから……!」

 

「うーん、なんだか悪役にされてる感じ……?」

 

 

 いよいよ顔面蒼白になった秋津洲。今度は己が身を差し出すのも辞さないと、桐林に縋り付く。

 事はそう重大でもないはずなのだが、二式大艇の運用を存在意義とする彼女にとっては、それこそ一大事のようだった。

 桐林の側に付いてしまった時津風の気分は、まるで悪代官に黄金色の菓子を渡す越後屋、といった所か。

 そして、か弱い娘をいい様に扱う悪代官――桐林が、それに見合う険しい顔付きで秋津洲を見つめる。

 

 

「秋津洲」

 

「は、はいぃ……っ」

 

 

 見つめるといっても、ただでさえ迫力のある桐林がそうすると、睨み付けられているに等しい。

 秋津洲は思わず身を竦ませ、直立不動に次の言葉を待つ。

 

 

「冗談でも、さっきのような事は言うな。次は許さん」

 

「はい! 申し訳ありませんでした! ……って、あの、どの部分のことかも……?」

 

「アレでしょ、アレ。あたしにだったらどんな酷い事してもー、って部分」

 

 

 ややあって、桐林は硬い声音で秋津洲を叱責し、反射的に彼女が頭を下げる。

 が、反射的だったせいで、彼の言う「さっき」の部分に思い至れない。心細い表情で秋津洲が聞くと、時津風がそれを補足した。

 彼自身も更に付け加える。

 

 

「以前、とある案件の融通や利権の代償に、君たちを差し出せと、暗に要求される事があった」

 

「……えっ!? そ、それホントかもっ?」

 

「ホントホントー。どこぞの脂ギッシュな役人が、視察と称して愛人見繕いに来た事あったんだってー。香取さんが言ってた。それ一回きりらしいけど」

 

 

 桐林の語った事実に、秋津洲は衝撃を受ける。

 そのような事が起きていただなどと、予想もしていなかったからだ。

 鼻白む時津風の様子からも、嘘ではないことが伺え、事実、下衆な官僚が舞鶴を訪れた過去はあった。

 桐林と現政権、並びに軍上層部とは、表向き密な関係を築いているが、裏で相当な確執があると、関係筋では実しやかに囁かれている。

 また、彼は独自の補給ルートを確立させようともしており、そこにつけ込む隙があると考えた者が居たのだ。

 権力者の歪んだ欲望というものは、本当に度し難いものである。

 もっとも、それらの企みが一切成就しなかったのは、現状からも明らかであり、桐林が胸を張って宣言する。

 

 

「だが、そんな要求を受け入れる事は有り得ん。例えどんな状況に陥ろうと、これからもだ。だから、二度とあんな態度を取るな。もしもの時に付け入られるぞ」

 

「……はい。分かったかも――ううん、分かりました。変なこと言って、ごめんなさい。……許してくれる、かも?」

 

 

 叱責が身を案じての事だと分かり、秋津洲は神妙な顔で、再び頭を下げた。

 緊張気味な上目遣いに桐林が頷くと、表情は一転、晴れやかなものへ。

 だが、ふと“ある事”に思い至った彼女は、若干頬を赤らめつつ、桐林を見上げる。

 

 

「あ、あのぉ、提督……? 怒られついでに一つだけ、聞いて良い、かも?」

 

「なんだ」

 

「あの……ね……。さ、さっきのアレ……。提督にとっては、二式大艇ちゃんより、秋津洲の方が大切って、事、かも……?」

 

「……? 当たり前だろう。何を言っているんだ」

 

「っっっ!?」

 

 

 言いながら、段々と俯き加減になっていく彼女へと、桐林は即答に近い速さで答える。

 今の彼にしては珍しい、心底不思議そうな顔だ。

 断言されてしまった秋津洲はと言えば、返答の意味する所を彼女なりに受け止め、沸騰してしまう。

 二式大艇を盾にされたら、脅迫にも屈してしまいそうだった秋津洲への叱責。

 それはある意味、「二式大艇より君が大切だ」という風に取れ………………なくもない。

 高性能とはいえ、換えの利く航空機と船一隻。当たり前と言えばそうであるし、少々先走っている感も否めないが、桐林の肯定により、秋津洲は間違った方向に確信した。

 

 あたし、提督に告白されちゃったかもぉおっ!? ――と。

 

 

「ああああああのっ、あ、あたしはっ、大艇ちゃんが一番で、その、提督の事は、嫌いじゃないけど、でも、あの……っ、ご、ごめんなさいかもぉおおっ!!!!!!」

 

 

 あれやこれやと身振り手振りを交え、なんとか返事をしようとした彼女だったが、結局、トマトのようになった顔を二式大艇で隠し、その場から逃げ去った。

 呆然と取り残される桐林に、先程とは別の理由で鼻白む時津風。

 

 

「……勘違い、させたか?」

 

「させちゃったねー。司令、今のはマズい、マズいよー?」

 

「………………」

 

 

 遅れ馳せながら、秋津洲の奇行の理由を悟った桐林は、時津風に両頬をツンツンされつつ、しかめっ面を作った。

 明日までに誤解を解ければ良いのだが……。

 まぁ、無理であろう。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 所変わって、庁舎の地下一階。

 桐林用のトレーニング施設が用意されている場所では、二つの影が交錯していた。

 

 

「うーりゃー! 子日(ねのひ)アターック!」

 

 柔道の試合などでよく見かける、畳の敷き詰められた リングを蹴る少女。

 ピンク色の一本お下げが揺れ、飛び上がった拍子に、白いワンピースの裾と、胸元の赤いリボンがはためく。

 スパッツを穿いているようで、テーピングされた細い脚は、踵落としの要領で振り下ろされた。

 

 

「ふ。甘いわ、戯けめ!」

 

 

 それを扇子で受け止めるのは、紫色の髪を紙垂でポニーテールにまとめ、揃いのワンピースを着る少女。

 黒い長手袋とオーバーニーソックスが四肢を包み、眉は古式ゆかしく、太く短い形――俗に言う麻呂眉に整えられていた。

 先の少女と違ってスパッツは穿いていないらしく、上下運動の代わりに横への移動が目立ち、長いネクタイがたなびく。

 

 お下げ髪の少女の名を、子日。ポニーテールの少女の名を、初春(はつはる)

 順序は逆だが、初春型駆逐艦の一番艦、二番艦である。

 

 

「おー、やってるやってるー」

 

「うん? ……提督。それに時津風か」

 

「おはようございます……だと、遅過ぎるでしょうか。どうしてこちらに?」

 

「顔を、見ておこうと思ってな」

 

 

 桐林たちが姿を見せると、椅子に座って観戦していた二名が彼らに気付いた。

 黒いブレザー型の制服に、赤いネクタイ。

 ここまでは同じだが、クールな物言いの少女は茶髪のショートカットで、ジャケットの前を開けている。

 丁寧な言葉遣いの少女は、長い黒髪を先端で結い、折り目正しく制服を着こなす。

 彼女たちも初春型駆逐艦であり、名はそれぞれ若葉(わかば)初霜(はつしも)と言う。

 挨拶もそこそこに、桐林は初霜の用意した椅子へ腰掛ける。時津風は肩車のままだ。

 

 

「ふむ、そうか。珍しい事もあるものだ」

 

「若葉ったら。ありがとうございます、提督。気に掛けて頂いて。二人共ー! 提督がいらっしゃいましたよー!」

 

 

 無表情ながら、驚きを短い言葉に乗せる若葉。桐林同様、彼女は不必要な発言をしない。

 ともすれば、慇懃無礼にも感じられる言い方を和らげるのは、隣で苦笑いを浮かべる初霜だった。

 妹の呼びかけに、白兵戦の自主トレーニング中だった初春、子日も寄って来る。

 

 

「なになにー? 提督ー? あ、時津風ちゃんも居る! 二人、見学の日ー?」

 

「そー。見学見学ー。相変わらず、子日と初春の白兵戦スキルはスッゴイねー」

 

「ふふ、褒めても何も出ぬぞ? 時津風よ。まぁ、悪い気分ではないがのう」

 

 

 一風変わった口調の子日と初春は、統制人格の個人特性として、白兵戦への高い適性を持っていた。

 現在、桐林に課せられている任務の性質上、艦隊戦だけではなく、統制人格自身が敵艦へ乗り込み、白兵戦を行う必要性がある。

 こちらの詳しい事情も後述するが、舞鶴艦隊に属する中でも、彼女らは特に抜きん出ているのだ。

 残念ながら随一とは言えないけれども、それだけに訓練も怠らない、という訳である。

 

 

「調子は、悪くなさそうだな」

 

「おヌシ、誰に物を言っておる。体調管理は戦人の要諦じゃぞ? 妾は今すぐにでも出撃可能じゃ」

 

「子日もー! 今度こそ、作戦成功の日ー!」

 

 

 桐林の言葉に、初春はパッと扇子を開き、己を扇ぎつつ自身満々で答える。

 扇子には「常勝無敗(予定)」と書いてあり……。(予定)と付けたのは、謙虚さのアピールだろうか?

 ともあれ、子日も元気一杯に、明るい展望を期待して腕を振り上げている。

 この分なら、横須賀での演習でも活躍してくれる事だろう。

 

 

「せっかく来たのじゃ、手合わせを一本……と言いたいが、出撃前か。ゆっくり休んで貰わねばのう」

 

「でも、身体を動かすのは悪い事じゃないよ? ねぇ提督。今日はまだだったし、いつものアレ、やろーよ!」

 

「……ああ。時津風」

 

「ほーい」

 

 

 子日に誘われ、桐林は立ち上がってリングへ向かう。

 初霜が軍帽と上着を預かり、時津風も肩から飛び降りた。

 リング中央に並ぶと、彼らは一礼して精神統一。完全同調状態となり、ゆっくりとした演武を始める。昔から健康法としても広く知られる、太極拳の動きだ。

 健康維持の為でもあるが、桐林がこれを行うのは、主に身体制御の精度向上と、経絡学を取り入れた内的な修練を積むことで、“力”の制御効率も上昇が見込めたからである。

 他にも、護身用の実戦武術として、日本最古の古流武術、竹内流の小具足腰之廻に連なる格闘技――小太刀を用いた戦闘法まで修練しているが、使う機会は無い方が喜ばしいだろう。

 

 彼の身体能力は、これ以上の成長を望めない。

 “力”を発現する度に、肉体はある一定の状態へと戻って――再生してしまい、筋力トレーニングなどは無意味に等しいからだ。

 俗な説明をすると、Lv制のRPGで、最低値がLv.1、最高値がLv.100だったとしよう。

 桐林の現状は、Lvが80辺りで固定され、例え一時的にLvが上昇しても、ある特技を使用した時点で元に戻ってしまう、と考えれば良い。

 

 肉体的な成長が望めなくなった今、彼は精神修養を行う事で、急上昇した身体能力を完全に制御し、使いこなそうとしているのである。

 俗な説明を続けると、Lv上げは無理でも職業システムは生きており、使える特技や魔法を増やす事で強くなろうとしているのだ。

 子日と完全同調状態になったのは、いざ白兵戦を行う際、桐林の身体制御を受け入れる為である。

 戦うのは統制人格の身体だけだが、そこに桐林の意識を介在させる事で、統制人格が気付けない攻撃や、反応できなかった攻撃に対処出来るようになる。

 一対一より、一対二が強いのは自明の理だ。

 

 

「確か、次の作戦。捕縛は考慮しないはずだったな」

 

「うん。……殲滅戦になるだろう、だってさ。怖い怖ーい」

 

「それで、初春姉さんと子日姉さんが、編成から外されているんですよね。敵 統制人格と、白兵戦を行う必要がないから……」

 

「そのようじゃな。全く、難儀なものよ。敵を無傷で捕縛などと、無理難題を吹っかけよってからに」

 

 

 流れるように動き続ける桐林と子日を眺め、若葉、時津風、初霜、初春が語らう。

 現在、桐林の舞鶴艦隊が主目標としている事柄は、二つある。

 

 第一に、日本海で出現する深海棲艦、その根拠地と思しき場所――棲地を発見。撃滅すること。

 推測ではあるが、この棲地は日本海に一箇所、または二箇所ほど存在するのではないかと目され、また、常時移動を続けているのでは、とも考えられている。

 これを発見し、必要とあらば陸戦部隊も投入して、敵 根拠地を制圧。もしくは、完全に破壊することが第一目標だ。

 

 第二に、深海棲艦に搭乗する敵 統制人格を捕縛すること。

 存在解明、戦闘行為を行う理由、その他多くの副題を纏めて解決する為、生きた状態の敵 統制人格――最低でも旗艦種以上の捕縛が求められている。

 これを達成するのに適切なのが、初春などの白兵戦適性を持つ統制人格を、敵艦へと送り込む戦法である。吉田元帥がそうした様に。

 もちろん、艦隊戦の最中のこのような曲芸は行えず、敵艦を一隻のみ残すなどの条件を満たさねば、達成は極めて難しいだろう。

 

 

「だが、“ヤツ”が日本海に居座っていては、その捕縛も達成できそうにない」

 

「次の作戦はー、来たるべき日のー、下準備ー!」

 

 

 右脚を身体に沿って高く掲げ、その状態で静止した桐林が話を結び、数秒掛けて下ろしながら、子日が威勢良く発する。

 通常の演武よりも動作はゆっくりで、結構な負荷が掛かっているはずだが、二人は涼しい顔だ。

 寸分違わぬ胴捌き、脚運びが美しく、「アタシもやろーかな」と呟く時津風は、しかし本気ではなかったようで、思いついた疑問を若葉たちにぶつける。

 

 

「でもさでもさ。どーして急に、日本海だけに脅威度の高い深海棲艦が集まって来たのかなー? 前からこうだったっけ」

 

「違ったはずだ。大侵攻以前を含め、そもそも日本海での深海棲艦出現数は、他の海域に比べて少ない」

 

「じゃが今現在、出現しておる敵の脅威度は、数ヶ月前と比べ物にならぬと聞くぞ?」

 

 

 上で語った桐林艦隊への任務だが、元々は設定されていなかった。

 霊子力場発生能力の試験運用と、それに際する深海棲艦との戦闘で、今までとは日本海の状況が変化していると判断されたため、新たに用意されたのである。

 新編された桐林艦隊が出撃すると、それは誘蛾灯の如く敵を引き寄せた。

 選良種、旗艦種は元より、それ以上の……。自意識すら有すると思しき、全く新たな深海棲艦までをも。

 

 

「まるで、何かに呼応するかの様に現れる、選良種、旗艦種を含む深海棲艦……。それって、やっぱり……」

 

 

 初霜は不安に駆られ、預かっていた上着を抱き締める。

 考えたくない事だが、今回に限って、深海棲艦の行動は後手に回って見えた。

 人類側の動きを見てから、それに適した対処法をとっているような。戦力の出し惜しみのような。

 俗な説明の続きではないが、プレイヤーのLvに応じて、敵のLvが上がっているようにも思えるのだ。

 これを深読みすると、人類は深海棲艦に遊ばれている事になる。

 決められたルールに従い、それを基準として行動を決める。まるで、ゲームのように。

 

 沈黙。

 誰も口を開こうとはしない。

 そこへ、演武を終えた桐林たちが戻って来る。

 

 

「確証は“まだ”ない。口にはしないでくれ、初霜」

 

「は、はい。失礼いたしました……」

 

「演武終了ー。今日はこれで上っがりー」

 

 

 恐縮する初霜から上着と軍帽を受け取り、桐林はそれを身に付けた。

 涼しい顔をしているが、やはり体温は幾らか上がっているらしく、前は留めない。

 さりげなく初春が彼を扇ぎ、若葉が持ち込んだスポーツドリンクを二人へ投げる。

 地べたに座った子日が一気飲みし終える頃には、桐林も喉を潤して人心地。

 そして、彼は初春型の四人の顔を見回しながら、激励の言葉を掛けた。

 

 

「子日が言った通り、今度の作戦は下準備。君たちの出番はそれからとなる。

 横須賀へ行ってもらうのも、それを見越した訓練だ。

 臆せず、弛まず、己自身の力を確かめて来い。遠慮なんか、しなくていいぞ」

 

 

 相手は古巣の勇士たち。

 付き合いの短い初春たちと、一年近くを共に過ごした仲間。

 桐林の心境は複雑であろうが、それでも全力を尽くせと。あわよくば勝ってこいと言う。

 初春は思わず笑みを零した。

 

 

「言われずとも。性能の差が戦力の差ではないという事、存分に見せつけてこようぞ。妾に期待するが良い」

 

「うん! 子日、完全勝利を目指すの日ー!」

 

「私は、基本サポートに回るが……。初霜、ぶつかるなよ?」

 

「うっ。も、もうぶつからないったら……!」

 

 

 長姉に続き、子日、若葉、初霜も。それぞれに気合いを充実させる。

 改装前は、小柄な船体に重武装を施したトップヘビーな設計で、バランスを崩して転覆したり、船体強度が不足していたりと、問題も多く抱えていたが、限界近くまで改装・補修を行った今の彼女たちであれば……。

 史実で衝突事故を起こし、大破した経験を持つ若葉としては、その当事者である初霜の動向が気になるようだけれども、このタイミングでは笑みを誘う一因となる。

 加えて……。

 

 

「ねーねー、アタシには? アタシにはなんか言う事ないのー。ねー、ねーってばー!」

 

「……頑張れば良いんじゃないか」

 

「何その適当加減!? ひどいひどーい! ふこーへーい!」

 

 

 ぞんざいな扱いを受けた時津風が、まるで猿のように桐林を登り、ギャーギャーと喚く姿も、どこか戯けて見えて。

 決して狭くないトレーニングルームに、少女たちの明るい声が響いていた。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「あー! やっと見つけたー!」

 

 

 チーン、という音と共にドアが開くと、上下にタンデムする桐林たちを突然、大声が襲った。

 初春たちと別れ、再びエレベーターに乗り込んで、しばらく。

 目的の八階ではなく六階で止まってしまい、誰が乗り込んでくるかと思っていたら……である。

 眼前には、二人の少女の姿。

 真っ白な長袖のシャツに、赤紫色のサロペットスカート。首元では青いリボンが結ばれ、細い脚を灰色のパンティストッキングが包んでおり、編み上げブーツを履いている。

 これは夕雲型駆逐艦に共通する制服であり、それぞれ黒髪と銀髪を持つ彼女たちもまた、夕雲型であった。

 

 

「あれー。早霜(はやしも)清霜(きよしも)じゃん。どったのー?」

 

「ふぅ……。ごめんなさいね……。止めようとは、したのだけど……」

 

「そんな事より、ちょうど良いから降りて! こっち!」

 

 

 早霜と呼ばれた少女は、半ばから先端にかけて、白くグラデーションする長い黒髪が特徴だ。前髪も少々長く、右眼が隠れてしまっていた。

 物憂気に溜め息をつく姿は、まるで薄幸の寡婦の如き雰囲気を醸している。夕雲型の十七番艦だ。

 残る一方の清霜は、末妹の十九番艦。長い銀髪を黄色のリボンで襟足にくくり、左右へ分けて垂らしている。

 また、彼女の髪には珍しい特徴があり、外側はそのまま銀色なのに、身体に近い内側は、澄んだ海のように青い色をしていた。

 特殊な染め方をすれば、こういった配色を再現する事も可能なのだが、清霜は地毛である。

 オマケに、普段は屈託の無い笑顔が似合う元気っ子のはずが、なぜだか今は非常に険しい顔をしていた。

 桐林の手を引き、サロンへ連れ出した彼女は、その真ん前に立って「むんすっ」と腕を組む。

 

 

「司令官! 横須賀への遠征任務の前に、確認しときたい事があります!」

 

「……なんら?」

 

「時津風さん……。何があったのか、知らないけれど。指を放してあげて貰える……?」

 

「えー。しょうがないなー」

 

 

 妙な返事をする桐林だったが、それもそのはず。機嫌を悪くした時津風が、彼の両頬を引っ張っているのだ。エレベーターに乗り込む前からずっと。

 放っておけば気が済むと思ったのだろう、そのままにしておいた桐林だが、問答するには間抜け過ぎる。

 早霜にお願いされては仕方ないと、時津風が頬を解放した所で、清霜は仕切り直した。

 

 

「司令官っ」

 

「……なんだ」

 

 

 呼び掛けが今一度。右手で頬をさすりつつ、桐林も返事を。

 息を飲むような沈黙が数秒あって、ようやく口を開いた清霜は――

 

 

「向こうでMVP取ったら、戦艦にしてくれるって約束! 忘れてないよね? 清霜、ついに戦艦になれるのよねっ?」

 

 

 ――キラキラ輝く笑顔を浮かべ、夢見心地に桐林を見上げた。

 戦艦になる。

 駆逐艦として励起された、統制人格が。

 常識では考えられない約束事に、時津風は呆れ返る。

 

 

「……司令ー。なんて適当な約束してんのさ」

 

「いや、覚えが無いんだが」

 

「えっ」

 

「……やっぱり、清霜の早とちりだったようね……」

 

 

 しかし、桐林にも心当たりが無かったらしく、眉がひそめられた。

 清霜は驚いて目を剥き、早霜は逆に得心がいった様子だ。

 

 

「そ、そんな……。した! 約束したじゃない!? 横須賀への編成発表の後!」

 

「………………」

 

 

 悲愴な顔つきで縋り付かれ、桐林は記憶を振り返る。

 母港へ帰投している統制人格を集め、横須賀に向かわせる水雷戦隊の編成を発表した後……。

 実はこの時、とある駆逐艦と桐林の間でいざこざが起きたのだが、そういえばその後ろで、清霜が騒いでいたような気もする。

 確か、「長門さんや金剛さん、扶桑さんたちに会える!」とか、「やっぱり時代は艦隊決戦よね!」とか、「あ。そうそう司令官っ、私、戦艦になりたいんだけど、MVPとか取ればなれるかな?」とか。

 しかし、次の攻勢作戦に参加できないことを憤る、その駆逐艦への対処に苦心していた彼は、「考えておくから後にしてくれ」と……。これを約束と勘違いされたのかも知れない。

 

 

「清霜。あれを約束とは言えん。残念だろうが……」

 

「えぇぇええぇぇぇ!? やぁだぁー! 約束した、約束してくれたのにぃー! せーんーかーんー!」

 

「お、おい。抱きつくな」

 

「ちょっとちょっと! 清霜やめれーっ、アタシまでグラグラするぅー!?」

 

 

 流石に認める訳には行かず、桐林は容赦無く切って捨てるのだが、途端、駄々っ子と化した清霜が抱き着き、ジタバタジタバタ。割を食った時津風が慌てる。

 彼女はシブヤン海の戦いにおいて、あの戦艦武蔵の、凄絶な最後を見届けたという経験がある。

 それが、戦艦フリークとも言うべき個性となっているようなのだが、同作戦には浜風も参加。同じように武蔵の最後を看取ったはずなので、統制人格となった清霜個人の性質なのだろう。

 

 

「ううう……! もういい! 司令官なんて知らない! 司令官のアホーッ、嘘つきー!」

 

 

 ナシのつぶてである事を悟った清霜は、柔らかそうな頬っぺたをプクーと膨らませ、捨て台詞を置いてサロンの隅に。そのまま膝を抱えてしまった。

 完全に、不貞腐れモードである。

 

 

「ありゃりゃー、ヘソ曲げちゃったねー。司令、どうするどうするー?」

 

「……困った」

 

 

 子供らしい純粋さは、本来であれば愛でる点であろうけれど、こればかりは認められる筈もない。

 統制人格とは軍艦の現し身であり、その軍艦が持つ歴史や、軍艦そのものに対する人間たちの集積思念など、霊的なものが現世に固定化された存在である。

 そして、一度固定化された“魂”とでも呼ぶべき物は、簡単に形を変えない。

 清霜の言うような、駆逐艦を戦艦にするような技術など、そもそも存在しないのである。

 

 ましてや、日本における傀儡艦に適する戦艦を、桐林は全て励起済みだ。

 金剛や扶桑たちと被らないようにするには、今存在する清霜を解体し、そこから出た資材を新造の大和型へと組み込み、励起するしかない。統制人格に、かつて清霜だった者の意識が現れるかは、彼女次第か。

 けれど、大和型の二隻は、まだ誰も励起に成功していない。おそらく彼でも失敗するだろう。

 加えて、戦艦になりたいと熱望する彼女だが、その個性も、清霜という駆逐艦の統制人格だからであって、駆逐艦でなくなれば失われるはず。

 

 清霜の願いを叶えるということは、彼女を喪うのと同義なのだ。

 絶対に認められない。

 理解してもらう為に、どう言葉を尽くせば良いのか。悩みどころである。

 

 

「司令官……。少々、お耳を拝借しても……?」

 

 

 どうやら考えがあるようで、思案する桐林へと、早霜が寄り添う。

 空気を読んだ時津風は、ムッとしながらも肩から降り、二人は内緒話の体勢に。

 

 

(ああなってしまっては、仕方ありません。別方向から、あの子の機嫌を取る……というのは、どうでしょう……?)

 

(……プランは?)

 

(簡単です……)

 

 

 問い掛けに、早霜は儚げな声で囁く。

 

 

(……と、言ってあげれば良いんです)

 

(……だが、それでは……)

 

(あら……。もう何人も“その気”にさせている方が、今さら尻込みなさるの……?)

 

(………………)

 

 

 耳に口づけるような、吐息のくすぐったい距離だったが、早霜の言葉に桐林は躊躇いを覚える。

 しかし、彼女は少しばかり意地悪く微笑み、そっと身を離す。

 数分ほど迷った彼は、意を決したのだろう、重い足取りで清霜へ近付く。

 

 

「清霜」

 

「……ッスン。何よ……?」

 

 

 大きく鼻を鳴らした彼女が、ジト目で振り返る。

 目尻には涙が溜まり、僅かだが鼻水も垂れて。

 桐林はハンカチを差し出し、出来る限り静かな声で語り掛けた。

 

 

「仮に、戦艦になれる方法が見つかったとして。それを使ったら、清霜は、自分がどうなると思う」

 

「え? う~ん……。それはやっぱり、伊勢さんとか日向さんみたいな、大人の女になると思う! それから、大口径主砲で敵艦をやっつけて、大活躍するんだから!」

 

 

 先程までの落胆も忘れ、最高の未来予想図を思い描いた清霜は、無邪気にはしゃいでいる。

 それを受けて、桐林が更に問う。

 

 

「清霜は、今の姿が嫌いか?」

 

「へ? そ、そんなこと無い、けど……」

 

「そうか。自分も、今の清霜が……好きだ」

 

「………………ひぇっ!?」

 

 

 彼の言葉を直ぐには理解できず、清霜は間を置いて、どこぞの姉様大好き高速戦艦二番艦のような、奇声を発した。

 会話を盗み聞いていた時津風も「んなバカな」と愕然。早霜だけが、「ふ……」と微笑んでいる。

 

 

「戦艦だから必要とされるんじゃない。駆逐艦である清霜が居てくれなければ、出来ない事があるんだ。だから、今のままでいて欲しい。……駄目か」

 

 

 拭い切れていなかった涙を親指で払い、清霜の前髪を指で梳く桐林。

 ドクン、ドクン、と。

 かつてない強さで跳ねる胸を押さえ、今度は清霜が、上目遣いに問い返す。

 

 

「し、司令官、清霜のこと……。好き、なの?」

 

「……ああ」

 

 

 秋津洲にしてしまった事とは違い、桐林は直接的な言葉を選んでいる。

 もちろん嘘ではないが、これは早霜から言われたように、清霜の機嫌を取るための、おべっかに近い。

 純真無垢な子供を騙しているようで……。いや、間違いなく騙くらかしているのだ。

 常人であれば罪悪感を覚える事だろう。

 

 

「そ、そっか……。そこまで言われたら、仕方ないわ! 今回は諦めてあげる!」

 

「……助かる」

 

「えへへ……。あ、あのね? 清霜も、司令官のこと……。結構、好きよ?」

 

「……そうか。ありがとう」

 

「えへへへへへ……。あっ、お姉さまたちには、内緒よ? 約束っ。あと、いつかは戦艦にしてね?」

 

 

 頬を染め、とろけた顔で手に頬ずりする清霜。

 対する桐林は、それ以上答えない。逆手で彼女を引き起こし、残る手で顎先をくすぐるだけ。

 彼女はむずがり、「やぁだ」と笑いながら逃れる。

 向かう先に、何故かツヤツヤした顔の早霜と、未だに愕然とし続ける時津風。

 

 

「横須賀艦隊との演習、頑張ってくるからっ。期待しててね! 行こ、早霜姉さまっ」

 

 

 上機嫌に手を振った清霜は、今にもスキップしそうな様子でエレベーターに乗り込む。

 見送る桐林はと言えば、清霜の視線が外れた瞬間、わずかに顔をしかめる。

 どうやら、下種な行いをした自覚はあるらしい。

 

 

「ふふ……。司令官、悪い人ね……?」

 

「……軍人なんぞ、善人がなるものじゃない」

 

 

 そこへ、手弱女を装う早霜が歩み寄り、傷口に塩を擦り込んだ。自分から嗾けておいて、相当な悪女である。

 彼女の真意は何処にあるのだろう。

 純粋に、妹の幼い気持ちを応援し、愛にまで育てたいのか。それとも、妹をダシに楽しんでいるだけなのか。

 アロマ・シガレットに火をつける桐林を見つめ、彼女は、他の誰にも聞こえない音量で、またしても囁く。

 

 

「少し、嫉妬してしまいます……」

 

「……早霜?」

 

「あの子じゃありませんけれど……。もし、横須賀の先輩方に勝てたなら。……私にも、祝福を下さいね……」

 

「姉さまー。何してるのー?」

 

「今、行くわ……。では、失礼を……」

 

 

 ひょっこり。エレベーターのボタン前から清霜が顔を出し、早霜は一礼してから彼女の元へ。

 笑顔のまま、二人は閉じるドアの向こうに消えた。

 取り残される、アロマ・シガレットをふかす桐林と、ジト目の時津風。

 気不味い沈黙の後、時津風はヅカヅカと彼に詰め寄り――

 

 

「司令のぉ……。スケコマシ! ジゴロ! ロリコーン!」

 

「痛い、やめろ、蹴るな」

 

 

 ――全力で、三段スネ蹴りを放った。

 甘んじてそれを受けながら、桐林は思う。

 陽炎型は、怒るとスネ蹴りするのだろうか、と。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 場所は変わらず、庁舎六階のサロン。

 いくつか置かれている、背もたれの無いソファの両端に、桐林と時津風の二人はそれぞれ腰掛けていた。

 

 

「他のメンバーは、どこに居るんだろうな」

 

「つーん」

 

「……喉、乾かないか」

 

「べっつにー」

 

「……時津風……」

 

「つーんっ、ふーんだっ」

 

 

 明らかにご機嫌斜め……。いや、直滑降な時津風に、桐林は無表情のまま困り果てていた。

 設置された無料の自販機から、彼女の好きそうな瓶ジュースまで持ってくるが、受け取って貰えない。

 なんだかんだで、もうすぐ一七○○。いくら予定は調べてあるといっても、時間が掛かってはズレが生じるだろう。

 放送で呼び出すのは最終手段として、出来るだけ自然な形で接触した方が、声を掛けられる側としても気負わずに済む。

 どうにかして取り入りたい所である。

 

 

「あれ……? 司令官っ、お疲れ様です!」

 

 

 ふと、背後から労いの声が。

 桐林が振り向いた先には、声の主である、桃色の髪を左でサイドテールにする少女と、茶髪をツインテールにする少女、ほんのりと青味掛かった灰色の髪を一本に編む少女の、三人がやって来ていた。

 声の主は、白露型特有の黒を基調としたセーラー服。残る二人は、朝潮型のシャツとサスペンダースカートが合わさった衣装を身に纏っている。

 白露型五番艦、春雨。朝潮型五番艦、朝雲。同六番艦、山雲だ。

 

 

「春雨か。朝雲たちと……?」

 

「はい。対 横須賀戦に向けて、色々お話ししてました」

 

 

 ニコニコと微笑みながら、春雨が桐林の側へ。

 見た目は上記の通りだが、細かい点を補足すると、頭にはベレー帽を被っている。色は白で、長めの赤いリボンが巻かれていた。

 また、サイドテールの毛先が僅かに水色へとグラデーションしている。

 早霜や時津風がそうだったように、舞鶴艦隊の統制人格には多い特徴だ。後述する朝雲もそうである。

 

 

「まぁ、アレよ。演習とはいえ、ただ負けるなんて悔しいもの。やるからには勝つつもりよ」

 

「山雲もぉ~、朝雲姉と一緒にぃ~、頑張りまぁ~す」

 

 

 続いて、朝雲と山雲。

 まず朝雲だが、ツインテールと首元を水色のリボンで飾り、毛先が茶色から赤へとグラデーションしている。勝気な表情が印象的だ。

 対する山雲は、恐ろしくノンビリした喋り口が特徴で、お下げ髪と首元を緑色のリボンで結び、オマケに緑色のカチューシャまで乗せている。少し猫背気味なのは御愛嬌か。

 

 

「横須賀へ行くのは、楽しみか」

 

「はいっ! この前は、時雨姉さんと夕立姉さんが来てくれましたけど、今度は春雨が会いに行けますから。

 白露姉さん、村雨姉さん、五月雨ちゃんに、涼風ちゃん。早く会いたいなぁ……。

 司令官っ。改めまして、春雨を編成に組み込んで下さって、ありがとうございますっ!」

 

「……気にするな。朝雲は、どうだ」

 

「え、私? ……まぁ、一応。楽しみではあるかな。会ったことの無い姉妹艦も、居るみたいだし」

 

「そうねぇ~。姉妹艦と言ってもぉ~、実際に顔を合わせた事がある子ってぇ~、意外と少ないのよぉ~?」

 

 

 心の底から喜んでいるようで、春雨の向ける笑顔は、誰の目にも、感謝の念が込められていると分かる。

 朝雲も……。少々照れくさそうに、だろうか。笑みを浮かべている。革靴の爪先がカーペットを叩いているのは、ソワソワする気持ちの代弁であろう。

 残る山雲はと言えば、桐林の隣へ座り、目線で許可を得てから、置きっ放しだったジュースを飲み始める。マイペースな性格が伺えた。

 

 余談だが、山雲の言った通り、姉妹艦なのに顔を合わせた事が無い船がいる、という事態は、結構な頻度で起きていた。

 特に、姉妹艦の数自体が多かったり、大戦中期以降に就役した軍艦たち――陽炎型や夕雲型などに顕著だ。

 詳しい事情は歴史資料に譲る。興味があれば調べてみて頂きたい。

 

 

「ところで、司令官はどうなさったんですか? 今日はお休みのはずじゃ……」

 

「……そう、なんだが」

 

 

 春雨からの質問に、桐林は答え辛そうな顔で、山雲の向こうを見やった。

 三人がそれに追随して視線を向けると、様子を伺っていたらしい時津風が、「ふんっ」と顔を背ける。

 ワンコのように纏わりつく姿が常だった彼女の、滅多に見れない不機嫌ぶり。

 朝雲はまず無言で驚き、次に十割五分の確率で元凶であろう、桐林を見つめた。

 ちなみに、時津風が不機嫌になった元凶である確率が十割で、もう一つ、輪を掛けて機嫌を損ねかねない事を重ねてした確率が五分である。

 当たっていなくもない。

 

 

「なぁに、喧嘩? 珍しいじゃない、時津風があんな風にむくれるなんて。何したのよー?」

 

「……何も。清霜が騒いでいたから、宥めすかした。そうしたら、な……」

 

「ふぅ~ん……。そうなんだぁ~……」

 

 

 前屈みに腕を組む朝雲だが、表情は怒っているというよりか、珍事を楽しんでいるような、イタズラ娘の顔だ。

 そんな彼女に、先程までの如何わしい行為を説明する訳にもいかず、かいつまんで誤魔化そうとする桐林。

 しかし、隣の山雲は訝しげにジュースを傾け、小首も傾げる。

 

 

「……なんだ、山雲」

 

「司令さ~ん。本当にぃ、それだけぇ~?」

 

 

 下から顔を覗き込まれ、桐林の口元が一瞬、ごく僅かにヒクついた。

 思わず顔を反対方向へ向けるも、そこには不思議そうな顔をした春雨が居て、真正面は朝雲が固めている。

 逃げ場は無いようだ。

 

 

「何か気になるんですか? 山雲さん」

 

「時津風ちゃんがぁ~、あんな風になるなんてぇ~、とぉ~っても、珍しいと思うのぉ~。だからぁ~、もっと違う理由がぁ~、あるんじゃないかなぁ~ってぇ~」

 

「確かに、山雲の言う通りかも。ちょっと司令、隠し事は為にならないわよ? 正直に言いなさい!」

 

 

 ビシッと、桐林へ指を突き付ける朝雲。

 四面楚歌ならぬ三面楚歌状態に陥った彼は、どうにかしてこの場を切り抜けようと、清霜との約束を拡大解釈してみる。

 

 

「いや……。駄目だ。秘密にするという、約束だ。言えない」

 

「何よそれ、ますます怪しいんですけど。本当に何したのよ……」

 

 

 ……が、こんな言い方では、怪しさ大爆発なのも当然で。

 面白半分だった朝雲の表情が、段々と胡散臭いものを見る目付きに変化していく。

 さっさと口を割りなさい、と言わんばかりに睨む朝雲。

 頑なに口を閉ざす桐林。

 業を煮やした彼女は、オロオロし始めていた春雨に矛先を変え、顎でしゃくって時津風を示す。

 ビクリ。身体を震わせ、「え? わたし?」と、春雨は己を指差した。

 出来ればこのまま静観していたかったのだが、鷹揚に頷かれてしまい、仕方なくソファを回り込んで時津風の元へ。

 

 

「あの、時津風さん。もし良かったら、春雨に話して貰えませんか? 話すだけでも気が紛れる……かも知れませんし」

 

「んむぅ……っ」

 

 

 ようやく話の輪に加わった時津風は、しかし、への字口に不満たらたら。

 これは処置無しか、と誰もが思い始めたが……。

 

 

「あーっ、疲れるから怒るのやめやめー。司令が女っ誑しなのは、今に始まった事じゃないしねー」

 

「……女?」

 

「たらしぃ~?」

 

 

 彼女は唐突に脱力し、ソファへ横たわりつつ鼻をほじった。乙女にあるまじき行為だ。

 けれど、朝雲と山雲が注目したのはそこではなく、発言内容だった。

 女っ誑し。女性を言葉巧みに誑かし、意のままとする男性を指す言葉である。

 騒ぐ清霜。宥めすかす桐林。怒る時津風。

 これらを総合した朝雲の脳内に、あまり宜しくない光景が浮かぶ。

 

 

「ねぇ、時津風。それってまさか、司令が清霜を口説いてたって事なの?」

 

「さぁー? なんか秘密らしいしー? アタシの口からは言えない言えなーい」

 

 

 投げやりとも思える朝雲への返答は、間違いなく、「自業自得だもんねー」という拗ねた感情が込められている。

 まぁ、なんだかんだで桐林に懐いている清霜だ。本人も満更ではなかっただろうと、想像に難くない。

 問題は、それによって様々な悪感情が、そこかしこで発生してしまう事なのだから。

 

 

「司令さ~ん。司令さんが本気ならぁ~、山雲は応援しても良いんだけどぉ~……。浜風ちゃんとかはぁ、どうするのぉ~?」

 

「何故、浜風が出てくる。今は、関係無いだろう」

 

「……駄目だこりゃ~」

 

 

 山雲の指摘にも、桐林は硬い表情でトボけるだけ。

 おそらく、本当は彼も理解している。理解した上で、“まだ”答える訳にはいかないから、誤魔化すしかないのだ。

 今度こそ処置無しと判断した彼女は、「ご馳走様ぁ~」とジュースの空き瓶を残し、いずこかへ消えて行った。自室に戻ったか、間宮にオヤツでも食べに行ったのだろう。

 

 

「本人同士が納得しているんなら、私から言う事なんて何も無いんだけど。中途半端にしてみんなを傷付けたりしたら、許さないわよ。分かった?」

 

「……なんの事か分からんが、心しておく」

 

「なら良し。まぁ、時津風が嫉妬してるだけなんでしょうけど。程々にしてよね」

 

「むっ。ちょっとちょっと朝雲ーっ! 嫉妬って何さー!?」

 

 

 同じく朝雲も、分からないフリをする桐林に、鋭い釘を刺して立ち去る。

 流石の時津風もこれには噛み付くが、「付き合ってらんないわ」と、朝雲は脚を早めた。

 そして、最後に残った春雨まで。

 

 

「……え、ええっと、それじゃあ、私も。次の輸送作戦がありそうな気が、そこはかとなくするので……。司令官、ファイト! ですっ」

 

 

 若干、申し訳なさそうな雰囲気を出しつつ、ガッツポーズで応援っぽいものをして、そそくさと退散した。

 またしても二人、取り残される桐林と時津風。

 

 

「……部屋」

 

 

 意外にも、沈黙を破ったのは、俯せに寝る時津風だった。

 

 

「部屋に閉じこもってるはずだから。司令、行ったげてよ」

 

 

 あえて主語を抜かした言い方は、意地っ張りな彼女なりの気遣いだろう。

 そもそも、彼女が桐林を動かした理由だって、そこにあるはずなのに。

 

 

「……分かった。待っていてくれ」

 

「気が向いたらねー。ほら、ちゃっちゃと行った行ったー」

 

 

 立ち上がり、桐林はエレベーターへ。

 ぞんざいに手を振る時津風だったが、彼の姿がドアの隙間に消えた途端、ソファの上で仰向けに。

 

 

「アタシが嫉妬? ……んな、バカな」

 

 

 天井に埋め込まれた照明を見上げ、呟かれた言葉は。

 きっと、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 カーテンを閉めきり、薄暗くなった部屋。

 その隙間から、ほんの僅かに、夕暮れの紅い光が差し込んでいる。

 双方の壁際に二段ベッドが置かれる配置は、どこかで見たような既視感を与えた。

 そして、入り口から見て右側のベッドの下段に、膝を抱える影が一つ。

 コンコン、という唐突なノック音で、小さい身体がピクリと跳ねた。

 

 

「………………」

 

 

 だが、彼女は答えない。

 黒いセーラー服の上だけーー雪風たちと同じだが、色を反転させた物を着ている。

 もうすぐ顔を覗かせるだろう、月の光を思わせる、銀色の髪。

 時津風と同じデザインの煙突帽子を乗せ、豊かな髪量の一部を、ツインテールのようにしていた。

 それには紅白模様の吹き流しが通してあり、同色のオーバーニーソックスからは、黒いガーターベルトのような物が伸びる。服の下、首に巻かれたチョーカーを通って、煙突帽子まで繋がっているらしい。

 傍らに、島風が連装砲ちゃんと呼ぶ存在と同じ、連装主砲のディフォルメ体。白い手袋に包まれた右手がそれを撫で、左は素手のまま、膝裏に通される。

 

 陽炎型駆逐艦九番艦、天津風。

 次世代の艦隊型駆逐艦のために開発された、新型高温高圧缶のテストベッドを務めた軍艦の、現し身である。

 

 

「入るぞ」

 

 

 待っても無駄だと悟ったノックの主――桐林が、勝手に部屋へ入った。

 顔を膝の間に落とす天津風は、無作法を力無い声で責める。

 

 

「返事も待たずに入るなんて、マナー違反よ」

 

「……すまない」

 

 

 謝りながら、彼女のベッドに腰掛ける桐林。

 連装主砲のディフォルメ体――天津風曰く、連装砲くんが彼の身体をよじ登り、二本の砲身でペシペシと攻撃し始める。嫌われているのだ。

 暴れる連装砲くんを抱きすくめ、ようやく天津風が顔を上げた。

 

 

「どういう風の吹き回し? あなたが、統制人格の部屋に来るなんて」

 

「……少し、気になってな」

 

「そう……」

 

 

 桐林の部屋に統制人格が訪れる事はあっても、逆はほとんど無い。

 時津風と同じく、同室である野分が在室していれば、きっと驚いただろう。

 それきり、口を閉ざす二人。

 連装砲くんも様子を伺い、大人しくしている。

 

 

「天津――」

 

「ねぇ」

 

 

 このままではいけないと、桐林が呼び掛けた瞬間、天津風は声を被せた。

 

 

「あたしは。あなたにとって、なんなの? ……横須賀に居る子たちの、代わり……。島風の代用品、なの?」

 

 

 見上げる瞳は赤く充血し、眉が不安で歪み。連装砲くんを抱き締める腕も、細かく震えている。

 彼女は……。天津風は、横須賀の島風と似通った姿形を持って、この世に具現した。

 名前が違う。髪の色も違う。服装も、声も、性格もまるで違う。

 けれど、もし島風と天津風が並んだなら、誰もが思うだろう。姉妹のように似ている、と。

 

 いつか問われるだろうと思っていた事柄に、桐林は視線を逸らし、熟考する。気安く答えられはしない。

 十秒が経ち、三十秒が経ち。

 一分、二分と時間が過ぎて、彼はやっと天津風と向き合う。

 

 

「そう思われても、仕方ないのは分かっている。そういう役割を期待していた部分も、あっただろう」

 

「……そうよね。あたしたちは、そういう“物”だものね。別に良いの、それさえ分かっていれば……あっ」

 

「最後まで聞け」

 

 

 ある意味、予想通りの。期待通りの言葉が返され、天津風は声を震わせる。

 この姿は彼が望んだもの。懐かしい仲間の似姿。なら、仕方ないと。

 だが、桐林は俯く天津風の顎に手を添え、無理やりに視線を合わせた。

 連装砲くんが、また暴れ始める。

 

 

「君が島風に似ているのは、彼女のプロトタイプだから、というだけじゃない。間違いなく、不安定だった自分の心が、安定を求めた結果だ」

 

 

 大戦当時、海軍が新型駆逐艦に求める最高速度は、右肩上がりに上昇していた。

 敵 主力艦を駆逐艦で叩くには雷撃が一番であり、それを活かすにはどうしても速度が必要だったからだ。

 そこで、新たに計画された駆逐艦へ搭載する新型ボイラーを、陽炎型駆逐艦で試験運用する事となり、選ばれたのが天津風だった。

 高温高圧でありながら燃費に優れ、軽量化にまで成功した事を踏まえ、より出力を上げた物が、その駆逐艦――島風に正式採用される。

 つまり、天津風は島風のプロトタイプ。姉妹艦ならぬ、親戚のような存在なのである。

 

 ここまで条件が揃っていれば、統制人格の姿が似通っていても、仕方のない事かも知れない。

 だが、励起した人間が桐林である事と、この姿で励起された経緯が、天津風の心に濃い影を落としていた。

 彼女が統制人格として具現したのは、横須賀に戻る事を禁じられ、達成不可能に近い任務を背負わされ、オマケに、制御しきれない“力”に苦しめられている、危うい時期だった。

 心を許せる人物も側には少なく、己を痛めつけ続ける日々。

 無意識に、安らぎを求めてしまった事もまた、仕方のない事かも知れない。

 しかし、仕方ないでは済まされない事をしてしまったと、桐林は自覚もしている。

 

 

「もし天津風が、その事に憤りを感じるなら、謝る。自分の気持ちを押し付けて、済まなかった」

 

「え? ち、違う、違うわ! あたしは、そんな……」

 

 

 深々と頭を下げられ、天津風は慌ててしまう。

 思わず手を差し伸べてしまったついでに、彼の頭を叩き続ける連装砲くんも回収。

 距離が開いて、また、奇妙な沈黙が広がった。

 

 謝って欲しかったのではない。彼女はただ、忘れられないのだ。

 この世に生まれ出でた瞬間、手を握ってくれていた人が浮かべた、悔恨にまみれる表情を。

 ほんの一瞬だったが、目に焼き付いて離れなかった。

 それ以降、表面上は上手く取り繕えても、疑念が彼女を苦しめ続けた。

 生まれて来てはいけなかったのか。この姿は彼の傷に触れるのか。居ない方が、良いのではないか。

 そんな風に過ごすうち、島風の存在と、姿形を知って。

 横須賀へ演習に赴くメンバーとして選ばれて……溢れてしまった。

 編成発表の場で噛み付いてしまったのも、そのせいだ。

 

 誰が悪い、とは言い切れないだろう。強いて言うなら、巡り合わせが悪かったのだ。

 島風よりも、天津風が先に励起されていたら。

 横須賀から離されてさえ、いなければ。

 ボタンを掛け違えたようなもどかしさに、苦しむ事はなかった。

 だからこそ、桐林は今、それを正そうとしているのである。

 

 

「天津風」

 

「……なに?」

 

 

 静かな声に、天津風は桐林を見る。

 目が合った。

 薄暗い中だけれど、彼の右眼と、視線が重なる。

 

 

「確かに君は島風と似ている。それを重石と感じさせたのは、自分の責任だ。

 だが、共に過ごした時間で、確信もした。

 ……君は、天津風以外の何者でもない。何者も、君の代わりには成り得ない」

 

 

 天津風が息を飲む。

 それは確かに、彼女が欲しがっていたものだった。欲していた言葉だった。

 鼻の奥がツンとして。視界が狭まり、彼の姿がボヤけて。

 ただでさえ、平均よりも高い天津風の体温が、上がっていく。

 

 

「信じて、いいの……?」

 

「信じろ」

 

「……っ」

 

 

 力強い返事を貰い、天津風は桐林の胸へと縋り付く。

 しゃくり上げる彼女を、やんわりと抱き締め、また始まる連装砲くんの攻撃も受け止める。泣かせるな、と言っているようだった。

 桐林の言葉は、気休めに過ぎない。

 どんなに言葉を重ねられても、それはあくまで他人の言葉で、最終的に、天津風自身が折り合いを付けねば解決しない、心の問題なのだから。

 

 けれど、気休めで良いのだ。

 向き合う場は既に用意されている。

 必要だったのは、ほんの少しの後押し。居場所の確認。

 一時の安らぎこそを、天津風は求めていたのである。

 

 

「はぁ……。あは、泣いちゃった。情けないわね、あたし」

 

 

 攻撃に疲れた連装砲くんが、ベッドへ身を投げ出した頃。天津風の顔に、ようやく笑顔が戻った。

 やはり目は充血しているけれど、泣いてスッキリしたのだろう。表情は晴れやかだ。

 

 

「島風、あたしを見てビックリしないかしら」

 

「驚くだろうが、きっと良い方向にだ。だから、会って来て欲しかった」

 

「……だと、良いけど。あーあ、ずっと締め切ってたから、空気が淀んでるわ。換気しなくちゃ」

 

 

 勢いをつけてベッドから降りた彼女は、大きく背伸びをし、窓辺へ。

 締め切っていたカーテンを開け、窓も開ければ、そよ風と夕陽が小さな身体を包む。

 

 

「いい風……」

 

 

 そよぐ銀髪が、夕陽を反射して煌めく。

 目を閉じ、一身に風を浴びるその姿は。

 きっと絵画にも、写真にも残せない、刹那の美しさを宿していた。

 

 

「ねぇ」

 

「……なんだ」

 

 

 背中を向けたまま、天津風は呼び掛ける。

 

 

「後で自分でも言うけど……。お節介な妹に、ありがとう、って言っておいて貰えない?」

 

「……バレていたか」

 

「当たり前でしょう? そうでもなきゃ、あなたがこんな、気の利いた真似をするはずないもの」

 

「酷い言われようだ」

 

「自業自得よ」

 

 

 桐林を差し向けた張本人の姿を思い浮かべると、彼女の顔は自然と微笑む。

 おちゃらけて、気にする素振りなんか一切見せなかった癖に、こんな回りくどい手段で励まそうとする。

 全く、捻くれた妹が居たものだ。

 

 

「もう行く」

 

「ええ。あたしも、もう大丈夫だから。ね、連装砲くん」

 

 

 ベッドの軋む音に振り返れば、桐林が近くに立っていた。

 珍しく苦笑いを浮かべる彼に手には、離せー! と暴れる連装砲くん。

 それを受け取り、しっかりと抱き締め。

 天津風は、去っていく背中を見つめ続けた。

 

 

「ん……?」

 

「おいーっす」

 

 

 桐林が部屋を出て、ドアを静かに閉める。すると、すぐ側に人影があった。

 天津風と揃いの煙突帽子を被るその少女は、もちろん、時津風だ。

 流石に彼女も、このまま部屋へ突撃するほど空気が読めない訳でなく。

 二人は無言で、連れ立って部屋の前を離れる。

 

 

「いやはや、やっとこ一件落着、って感じかなー? 司令ー、ごくろー様々ー」

 

「……ああ」

 

「なんかお腹空いたねー。間宮行ってなんか食べよー。あ、でも夕飯前かー、悩ましい……」

 

 

 いつもだったら勝手によじ登り、強制的に肩車させそうな彼女だが、桐林の前を歩く後ろ姿は、どこか大人びていた。

 

 

「時津風」

 

「んー?」

 

 

 完全に気の抜けた返事。

 自身の事など、時津風はまるで気にしていないのだろう。

 天津風と同じ立場であるはずなのに。

 その後ろ姿は、桐林にとって、雪風と見紛うほど似ていると、知っているはずなのに。

 

 

「ありがとう」

 

「ふぁ? ……あ、あー、天津風のかー。いいっていいて、盗み聞きしてたからさ。そういうの、照れるし」

 

 

 唐突な礼に、時津風は目を丸くして振り返る。

 姉妹艦から頼まれた言葉だと気付き、彼女は照れ臭そうに手を振るのだが、桐林も首を振った。

 

 

「いや、天津風からだけじゃない。自分も、そう言いたかった」

 

「あ……。さ、参考までに聞くけど、なんで?」

 

 

 足を止め、桐林に対して斜めを向きながら、時津風が問う。

 すぐに返事は返ってくると思っていたが、彼はわざわざ真ん前に立ち、目を見据えて。

 

 

「君に言われなければ、天津風とどう話していいか悩み続けて、そのまま送り出していたかも知れない。それが、こうして間に合った。だから……ありがとう、時津風」

 

「……んぁーもう! 照れるっつってんじゃーん!」

 

 

 酷く真剣な表情で、そう言った。

 ポカンと、口を開けっ放しにする時津風は、しばらく俯いた後、頭を掻きむしりつつ桐林へ突進した。

 そうしないと、顔を見られそうだったから。

 

 

「なんでこんなタイミングで、そんなこと言うのさバカバカー!」

 

「……こういう気持ちは、感じた時に言わないと、後悔する。もう、嫌だからな。そんなのは」

 

 

 ボスボス、と胸や腹などを叩いてくる時津風を、天津風にそうしたように、桐林は受け止める。

 伝えたい言葉を、聞いて欲しい相手に伝えられないのは、とても苦しい事だ。

 後悔したくなければ、口にするしかない。

 どんなに恥ずかしくても、照れ臭くても。伝えられないよりは何百倍もマシなのだ。

 

 

「……そんなだから、司令は司令なんだよ……」

 

「は……? 意味が分からないぞ」

 

「分かんなくていいのー! このスケコマジゴロリコーン!」

 

 

 素早く背後へ回り込み、後ろから桐林の背中へ飛びつく時津風。

 彼の顔は見えない。迷惑そうな顔をしているか、はたまた、いつもの仏頂面に戻っているかも、定かでは。

 でも、それで良い。

 こちらが見られないなら、彼もきっと見られないから。

 この、弛みきった顔を、見られずに済むから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『島風は、どうしてる?』

 

「はい。天津風ちゃんが来るの、すっごく楽しみにしてるのです。

 お姉ちゃん、って呼んで良いのかな? とか、駆けっこ勝負してみたい! とか」

 

『そうか……。仲良くなってくれると、嬉しいんだが』

 

「きっと大丈夫なのです。司令官さんの呼んだ子なら、天津風ちゃんもきっと優しい子なのです。仲良くなれるのです!」

 

『……ありがとう』

 

「………………」

 

『………………』

 

「……司令官さん」

 

『うん?』

 

「……御武運を、お祈りしています」

 

『ああ……。お休み』

 

「お休みなさい、なのです。……あと、ごめんなさい。止められませんでした」

 

『え? 今、何か言っ――』《ブツッ》

 

「……電は何も知らないのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《オマケの小話 鹿島さんは太ももがエロいと思います》

 

 

 

 

 

「はぁ……。どうしよう……」

 

 

 二三○○。

 桐林艦隊庁舎、最上階。多層強化ガラスで覆われた広大なラウンジの一画で、鹿島は一人、黄昏ていた。

 イベントホールを兼ねたこの場所には、アルコールを楽しむバーカウンターなども設置されており、彼女が居るのはそこである。

 甘味処 間宮では酒類を出さないため、主に桐林や、香取を始めとする年長組。加えて、見た目は子供・胃腸は大人な統制人格も利用している。

 鹿島もその一人であり、お手製のマティーニが手元にあった。

 

 横須賀へ向かう水雷戦隊の出立式。

 甘味処で開かれていた、前祝いの食事会が終わり、後は風呂を済ませれば、今日という日を終える準備は完了だ。

 しかし、照明を点けず、アロマキャンドルのボンヤリとした灯りに照らされる彼女の顔は、憂いに満ち満ちている。

 何故ならば。

 

 

「最近、急激にライバルが増えてる気がします……」

 

 

 珍しく食事会に参加した、桐林の隣を取り合う少女の数が、目に見えて違っていたからである。

 浜風や浦風が、座敷に陣取る彼の隣を然も当然と確保したり。この二人が席を立った瞬間、谷風が滑り込んだり、磯風はそれを観察していたり。

 ユーが胡坐の上に腰掛けてしまったり、それを咎めたドイツ艦たちが周囲を固めたり。まぁ、ここまでは予想通りだ。

 

 が、妙に頬を赤らめた秋津洲が側をウロチョロしたり、清霜が「はいアーン」をしようとして、同じ事をしようとした天津風に邪魔されたり、ニコニコ顔の時津風が常時パイルダーオン状態だったのは、一体何故なのか。

 まるで、出来の悪いハーレム漫画のワンシーンを見せられているようだった。

 昨日までそんな素振り無かったのに、全くもって口惜しい。

 桐林の迷惑そうな雰囲気を察知し、空気を読んで初春たちや春雨、朝雲たちと談笑していた、己自身にも失望してしまう。

 不測の事態が起これば、恥も外聞もポイッと投げ捨てられるのに、どうしてああいう場面で、もっと積極的になれないのか。

 

 

「それもこれも、提督さんがいけないんですっ。やたらめったら、フラグを乱立させるから……っ!」

 

 

 あれこれ思い出すうちに、段々と腹が立って来た。

 仏頂面をしていたけれど、チヤホヤされて、彼も本当は喜んでいたに違いない。

 ……そう思わねば、やっていられない。

 

 

(今日はあんまり、お話しできなかったな……)

 

 

 今度は意気消沈し、背中に暗雲を背負う鹿島。

 どうして桐林は、この気持ちに気づいてくれないのか。

 いいや、彼だって馬鹿ではない。とっくに気付いているはず。

 なのに返事がないのは、答えるつもりが無いから? それとも、他に理由が?

 仕事が無ければ、ろくに接点も持てない。

 そんな自分に気付いて、鹿島は串に刺さったオリーブ弄びながら、深い溜め息と、ついでに恨み言も零す。

 

 

「はぁ……。提督さんの、バ――」

 

「呼んだか」

 

「ぅきゃあぁぁああぁぁぁ!?」

 

 

 ――予定だったが、吃驚仰天。

 背後に当人が現れ、鹿島がスツールを薙ぎ倒しつつ体勢を崩す。

 愚痴を零すのに夢中で、エレベーターの到着音に気付けなかったのだろう。マティーニを倒さなかったのは奇跡だ。

 あんまりと言えばあんまりな惨状に、桐林は手を差し伸べる。

 

 

「……そ、そんなに驚くか」

 

「ぉおぉお、驚きますぅ! 後ろから突然声を掛けられれば、誰だってぇ!」

 

 

 手を引かれて立ち上がりつつ、半泣きの鹿島は苦情を申し立てた。

 もしかして、聞かれただろうか? 言い切る前に声を掛けられたのだから、大丈夫……だと思いたい。

 

 

「すまない。頼み事があって探していたんだが……。またにする」

 

「えっ。い、いやいやいや大丈夫ですっ。この鹿島に、なんなりとお申し付け下さい!」

 

「……良いのか?」

 

「はいっ! いつだってオールOKです!」

 

 

 機嫌を損ねたと判断したようで、桐林は軽く頭を下げてから、鹿島に背を向ける。

 途端、別の意味で慌てだした彼女は、大急ぎで彼の横へ並び、引き止めようとアピールを。

 会話らしい会話を出来なかった一日の最後に、向こうからやって来てくれた。しかも、計ったように二人きり。

 このチャンス、是が非でも物にしなくては。

 そんな意気込みが通じたのか、少々迷っていた桐林も、素直に頼み事を口にする。

 

 

「一曲、頼みたい。時間はあるか」

 

「あ……。はい、勿論です。例えなくても、提督さんの為なら作っちゃいますっ」

 

「それはそれで、気が引けるが」

 

 

 胸の前で、両の拳を握る鹿島。満面の笑みに、これまた珍しく、桐林が苦笑いを浮かべた。

 一曲頼む、というのは、彼らの間で通じる合言葉のようなものだ。

 ラウンジの中央――雛壇のように数段下がったスペースにある、グランドピアノへと向かいながら、キャンドルを持った鹿島が背後に確かめる。

 

 

「それじゃあ……。まずはパッヘルベルのカノンで宜しいでしょうか」

 

「任せる」

 

「はいっ」

 

 

 少し離れた場所の、豪奢なベルベットソファへ座った桐林は、いつもの様に頷き返す。

 目の前にあるテーブルへキャンドルを置いて、鹿島は今度こそグランドピアノへ。

 横須賀時代には、音楽を聞くという習慣は無かったそうだが、一度、彼女が演奏して見せてからというもの、何かにつけて頼まれるようになった。

 嫌な事を忘れたかったり、どうしても眠れない時だったり。

 理由はその時々で様々なようだが、数少ない、確かに必要とされるこの瞬間が、鹿島にとっては掛け替えの無い時間だった。

 

 

(いつもみたく、ゆっくりと、強いリズムも控え目に)

 

 

 遠く、桐林が目を閉じるのを、統制人格の高い視力で確認してから、鹿島は鍵盤を優しく叩き始める。

 ドイツの偉大なる作曲家、ヨハン・パッヘルベルの、「三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ、ニ長調」。通称、パッヘルベルのカノン。

 その名の通り、本来はヴァイオリン用である曲目だが、その美しい旋律から、他の楽器でも演奏できるよう、幾度も編曲されてきた。

 そして鹿島は、目を閉じても完璧に演奏できる程、音楽に秀でていた。

 子日や初春の白兵戦技能のように、鹿島固有の個人特性であるこれは、かつて、彼女に乗り込んでいた人々の記憶であろうか。

 真偽の程は定かでないが、少なくとも、奏でられる旋律には、聴く者の心を安らかに包む、深い優しさが込められていた。

 

 

「ふぅ……。ご静聴、ありがとうございました」

 

 

 程なく演奏は終わり、広大なラウンジに静寂が戻る。

 発表会やコンサートであれば、拍手喝采間違い無しの、素晴らしい腕前だったが、しかし、反響はない。

 

 

「……あれ? 提督さん?」

 

 

 いつもだったら、控え目ながらも拍手をくれる人は、微動だにしていなかった。

 恐る恐る近づいてみれば、一定のリズムで繰り返される、穏やかな吐息が。

 

 

(寝ちゃってる……。こんなに早いなんて、珍しい)

 

 

 桐林は完全に寝入っている。

 今までの経験からすると、三曲目辺りからウトウトし始めるのだが、今日はやけに早いような。

 食事会でも箸はあまり進んでいなかったし、栄養剤だと言って錠剤も飲んでいた。そうは見えなかったが、やはり疲れていたのだろうか。

 彼の眠りは深い。一度眠ってしまうと、耳元で空砲を撃たない限り起きてくれない程だ。

 その分、作戦展開中の仮眠などでは、ドアを挟んだ忍び足でも、意識が半覚醒するほど眠りが浅い。

 気を許している証だろう。

 

 

「………………」

 

 

 しばらく、前屈みに様子を伺っていた鹿島は、ソワソワと、誰も居ないはずの周囲を見回し、桐林のもたれ掛かるソファの端っこ。彼の右隣へ腰を下ろす。

 そして、ほんの少しずつ距離を詰め、一定の距離を置いて止まった。

 

 

(起こさないよう、慎重に、慎重に……)

 

 

 次に、彼の頭と身体を支えつつ、ゆっくりと横たえる。

 少し前、スヴェン・ジグモンディとの会談を控え、染めるのを手伝った黒髪が、膝の上に来るよう。

 

 

(ぃよしっ、膝枕状態、完成!)

 

 

 程なくして、世の男たちが昔から追い求める夢、膝枕がここに成った。

 今回の場合、どちらかと言えば鹿島の夢見ていた行為であるが、傍から見れば、桐林に妬み嫉みが集中するのは変わりない。

 極一部、鹿島へと嫉妬の念を向けそうな統制人格が居ない事もないけれど、この場に居ないのだからノーカウントだ。

 ちなみに、これまでは寝冷えしないよう毛布を掛け、寝ずの番という名の寝顔観察をするだけだったので、初膝枕である。

 

 

(……たまには、良いよね? 独り占めしても)

 

 

 右手で彼の軍帽を預かり、左手は、顔の傷に掛かった髪を整えて。

 かつてない充足感を味わいつつ、鹿島は穏やかな寝顔を見つめ続ける。

 今日という日を悔やんで終えるはずが、今はこうして、想い人と二人きり。世の中、何がどうなるか分からないものだ。

 許されるなら、この時間がいつまでも続けばいいと。叶ってはいけない事を願ってしまう鹿島だった。

 

 ところが、次の瞬間。

 背後から空気を読まない、エレベーターの到着音が響く。

 

 

「あ、鹿島秘書官。丁度ええとこに。あんな、提督さんどこにおるか――」

 

「っ!? し、しーっ!」

 

 

 どうやら、降り立ったのは浦風らしく、彼女は鹿島の後ろ姿へと声を掛けた。

 しかし、「静かにー!」と指を立てられてしまい、首を傾げながら前に回り込む。

 眠りこける桐林を確認して、ようやく納得した顔だ。

 

 

(……なぁんや、寝とったんじゃね?)

 

(そうなんです。なので、重要な案件でなければ、後日に……)

 

(ほんなら、仕方ないわな)

 

 

 浦風は破顔し、小声で鹿島と頷き合う。

 そのまま彼女は一旦姿を消すのだが、毛布を手に直ぐさま戻って来た。

 動けない鹿島の代わりに、持って来てくれたのだろう。

 優しく桐林の身体へと被せれば、もう他に出来ることもない。

 二人っきりに戻れる……はず、なのだけれども。

 

 

(……あの、浦風ちゃん)

 

(なんじゃ、鹿島秘書官)

 

(どうして座り込んじゃってるんですか?)

 

(いやな。こげな寝顔を見るんは、久しぶりじゃなぁと思うて。

 やっぱり、男は膝枕が好きなんやろねぇ。あん時もこないやったわ)

 

 

 何故か浦風は、テーブルとソファの間へしゃがみ込み、ジーっと桐林の寝顔を見つめている。無遠慮に頬っぺたをツンツンとまで。

 鹿島は思う。

 

 毛布を持って来てくれた事には感謝しますが、だからって居座られても困っちゃうんですけど。

 と言うか、今の「久しぶり」という発言はどういう意味ですか? 「あん時も」って、浦風ちゃんも膝枕したことあるって事ですか?

 ぐぬぬ……! い、今してるのは私ですもんねー! 絶対に譲りませんからねーだ!

 

 ……と。

 なんというか、見た目以上に子供っぽい対抗心である。

 

 

「ん゛……」

 

 

 ニコニコと寝顔を見守る浦風。表情だけは同じくニコニコしているが、心の中は穏やかでない鹿島。

 ほぼ一方的なピリピリムードの中、桐林が寝返りを打ち、身体の向きが反対に。

 服越しとはいえ、彼の吐息を下腹部に感じ、鹿島は悶える。

 

 

(んっ……。て、提督さんっ、そんな、ダメ……!? う、浦風ちゃんの前でなんて……っ)

 

(……単に寝返り打っただけと違う?)

 

 

 何か勘違いをしている鹿島に、浦風がジト目を向けた。

 勘違いしたくなる気持ちも分かるけれど、寝ながら間違いなど起こせないだろうに。

 彼女はやおら立ち上がり、ロマンティックを加速させようとしていた鹿島へ耳打ちする。

 

 

(鹿島秘書官。いっこだけ、注意しといて欲しい事があるんよ)

 

(はい? 注意?)

 

 

 現実に引き戻され、小首を傾げている鹿島。

 クスリと、色気を感じさせる笑みを浮かべ、浦風は続けた。

 

 

(その状態で前屈みになり過ぎると、提督さんが身を起こした時にやね。……顔で、持ち上げられてしまうんじゃ)

 

(へ。持ち上げ、って……あ)

 

 

 なんの事か分からず、更に傾く鹿島だったが、ふと、自身の重心移動で悟る。

 この体勢の桐林が起き上がろうとして、障害物となりそうな物など、一つしかない。……胸だ。

 はっきり言って、鹿島の胸も大きい。浦風と比べても差はほとんど無い。

 まぁ、駆逐艦なのに大きい浦風の方がおかしいのだろうが、それは置いておこう。

 

 

(そ、そうですね。気を付けます……)

 

(それが良え。変な声出てまうから。ほなら、うちはこれで)

 

 

 ロマンティックな妄想が好きな鹿島でも、実現する可能性が出てくるとなると、流石に尻込みしてしまった。

 恥ずかしげなその顔を見て、浦風も安心したらしく、背を向けて歩き出す。

 

 

(ん? そうなるのを知っているという事は……。まさか浦風ちゃん……?)

 

(……ふふふ。ノーコメントじゃ)

 

 

 ――が、またしても鹿島が気付いた。

 確かに、ちょっと冷静に考えれば、顔で胸を持ち上げられてしまう、という予想は立てられる。

 しかし、浦風の言い方だと、まるで自分自身が経験したような、そんな風にも思えるのだ。

 微かな呟きに反応した浦風は、肩越しに鹿島たちを見やり、茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべながら、唇に前で指を立てる。

 そして、その姿が視界から消えて三秒後。

 彼女の言った事は、現実となったのである。

 

 

 

 

 

「……ん゛? ……すまない、眠って――うぶっ」

 

「ひきゃうっ!?」

 

 

 

 

 




「さて……。いよいよ明日ガ、Operation決行の日デース。二人共、準備はOKデスか?」
「準備は出来てるけどさ……。私コレ着るの!? いや、確かに一度は着てみたかったけど、マジで……? ね、ねぇ、やっぱ違うのにしない? 金ご――じゃなくて、近藤さんだっけ、使う偽名」
「そのはずですよ、鈴――山さん。というか、なんで私まで? メイド服なんて似合いませんよ、私……。こういうのは睦月ちゃんとかの方が……」
「そういうキャラ設定なんだからしょうがないデス、ブッキーことMs.吹石! ワタシだってどっちかと言えばSuitよりMaid服着たかっタのに……。Patronの意向は無視できまセン」
「パトロンねぇ……。桐谷中将の娘さんとか言ってたよね。本当に舞鶴に入れんのぉ……?」
「私は追い返される方が良いです……。はぁ……。どうしてこんな事にぃ……」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告