新人提督と電の日々   作:七音

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異端の提督と舞鶴の日々 ユーちゃんは無自覚系小悪魔?

 

 

 

 舞鶴鎮守府、桐林艦隊庁舎の五階。

 午前十時という、多くの統制人格が仕事に励む時間帯に、その儚げな少女は、とある部屋の前で立ち尽くしていた。

 雪のように白い肌と、腰に掛かる銀糸の髪。

 黒いワンピース型ボディスーツの上から、青い迷彩色に染められた、半袖のジャケットを羽織っている。

 ボディスーツのスカート部分からは、同じ素材のスパッツが覗いており、ほっそりとした脚を包む。

 名を、IXC型潜水艦 U-511。

 ドイツに籍を置きながら、のちに日本海軍へと無償譲渡され、呂号第五〇〇潜水艦となった艦艇の、統制人格である。

 

 

「……っ」

 

 

 ロイヤルブルーの瞳を揺らし、彼女は数分ほど迷い続ける。

 東西に延びるこの庁舎、地下を含む三階までと、居住区のある地上四階からとで、大きく構造が異なる。

 三階以下には、甘味処 間宮や執務室、桐林用のトレーニングルームや応接室、大浴場などが置かれ、執務を行う場所ではあるが、昼間は統制人格たちで賑わう。

 そして、四階以上はホテルのような構造となっており、広々とした部屋が個人に宛てがわれている。だが、ほとんどは姉妹艦同士の相部屋を希望するため、空き部屋も多い。

 各階に簡単なバスルームやキッチン、プレイルームなども用意され、生活するだけなら階を移動せずに済むよう設計されていた。

 

 U-511が立っているのは、相部屋を選んだ、とある駆逐艦たちの部屋の前である。

 初めて訪れる場所に、緊張を隠せない彼女であったが、いつまでも立ち尽くす訳にはいかない。意を決して、ドアをノックする。

 間を置かず、「はーい」と中から声が返り、身を固くすること数秒。

 内に引かれたドアの隙間から、同じ年頃の少女が顔を出した。

 

 

「どちら様……。あれ、ユー?」

 

「うん。ユー、です。レーベ、Guten Tag……。こんにち、わ。……合ってる?」

 

「あはは、うん合ってる。こんにちは」

 

 

 ユー、と呼ばれたU-511と、頭を下げ合う、レーベと呼ばれた少女。

 彼女はワンピースセーラーを――白いラインの入った、黒に近い紺色の、丈が短い物を着ていた。「Z1」と刺繍された軍帽からは、短いアッシュブロンドの髪が溢れている。

 一九三四年計画型駆逐艦(Zerstörer)一番艦 レーベレヒト・マース。

 第一次世界大戦のドイツ帝国海軍少将を由来とするこれが、彼女の名前だ。

 そして、ユーを伴って室内へ戻るレーベを迎えたのも、同じ一九三四年計画型駆逐艦である。

 

 

「あら。いらっしゃい、ユー。珍しいわね」

 

「マックス。こんにちわ……」

 

「こんにちは。日本語にも慣れてきた?」

 

「……まだ、むつ――むずかしい……」

 

「そう。じきに慣れるわ。私たちもそうだったから」

 

 

 窓際に立ち、サボテンの世話をしていた彼女――マックス・シュルツは、切り揃えられた短い赤毛を揺らし、釣り目がちな赤茶色の眼を細めた。

 レーベとほぼ同じ格好をしているが、被っている帽子の刺繍は「Z3」となっており、彼女が三番艦であることを示している。

 

 この時代の日本海軍においては非常に珍しい、ドイツ籍を持つ艦艇である彼女たちだが、その励起時期には間があった。

 大雑把に言うと、レーベとマックスは、浜風を除く十七駆よりは遅く、伊良湖より早い。かたやユーは伊良湖より遅く、励起されて一ヶ月も経っていない。その差が、言語能力の差として出ているのだろう。

 彼女たちが日本語を産まれながらに習得しているのは、統制人格という出自と、励起した能力者である桐林が、日本人である事に因む。

 確証のない仮説であるが、現世に固定化する際、桐林との繋がりを介して、コミュニケーションに必要な情報を自動取得したものと考えられている。

 故に、レーベやマックスは最初から日本語を使いこなし、細かな齟齬もあっという間に修正。今に至るのである。

 そう考えると、ユーの日本語は随分たどたどしく思えるが、これも誤差の範囲だろうと思われた。

 余談だが、日常会話は問題無くとも、読み書きに関しては別個に習得する必要があるらしく、部屋に置かれた本はドイツ語表記で統一され、座卓の上には、手製の単語帳があったりもした。勉強中のようだ。

 

 それはさておき。

 挨拶もそこそこに、三人は座卓を囲み、クッションの上へと座り込む。

 焦点となるのはもちろん、珍客であるユーの事だ。

 

 

「それで、一体どうしたの? ユーがこの部屋に来るの、初めてだよね」

 

「うん……。ちょっと、聞きたいことが、あって」

 

「聞きたいこと。ふぅん……。私に答えられる事なら、協力は惜しまないけれど」

 

「うん。Danke……」

 

 

 同郷のよしみもあり、レーベとマックスは非常に協力的だった。

 そうでなくとも、口数が少なく、自己主張の控えめなユーが、こうして頼ってくれたのだ。

 よほど性根が捻じ曲がっていない限り、助けたいと思うのが人情であろう。

 二人に向けて小さく頭を下げたユーは、その言葉に甘え、抱え込んでいた悩みの一端を打ち明ける。

 

 

「二人は、Admiral(アトミラール)に……。どうやって、好きになって、もらったの?」

 

「え゛」

 

「は?」

 

 

 ……が、しかし。ユーの放った一言は、二人の顔を硬直させた。

 英語と同じスペルだが、Admiralという言葉はドイツ語でも同じ意味を持つ。海軍将官や提督の事である。

 つまりユーは、どうやって桐林に好かれたのか、を問いたいようだ。

 レーベとマックスは顔を見合わせ、少し困った顔で、彼女の誤解を解こうと口を開く。

 

 

「いや、あの……。提督は僕たちの事、特別に好いてる訳じゃない……と、思うよ」

 

「……そう、なの?」

 

「レーベと同意見よ。日本語の“好き”は広義に使われるみたいだけれど、提督の私たちに対する感情は、極めて平坦に思えるわ」

 

「そう、なんだ……」

 

 

 残念そうに肩を落とすユーであったが、言った本人たちもまた、あまり直視したくなかった事実を再確認させられて、気不味い表情を浮かべている。

 レーベやマックスに対する桐林の対応は――いや、特別な関係と噂される統制人格以外に対する彼の対応は、よく言えば平等であり、悪く言えば冷めていた。

 ユー以上に口数は少なく、表情筋が死んでいるのかと思うほど、顔の変化が無い。

 その癖、間宮や伊良湖を始めとする“特別な”仲間たちとは、楽しく雑談までするらしい。この前、伊良湖本人が惚気ていたので間違いない。

 この対応の差から察するに、桐林にとってレーベたちは、その他大勢に分類されるのではないか? と、二人は考えていた。

 少なくとも、好かれているとは絶対に言えない間柄なのである。

 

 

「でも、ビックリしたよ。急にそんな事を気にしだすなんて。喧嘩でもした?」

 

「ううん。してない。……何もない、から。不安だな、って……」

 

「……ああ、なるほど。そういう事ね。てっきり、提督と恋仲になりたいのかと」

 

「こい、なか? ……お魚と、軽巡?」

 

「ブフッ!?」

 

「ち、違うわ。違うから。レーベ、笑わないで」

 

「ごめ、ごめん……っ。不意打ちだったから……ふふ、ふっ……那珂さんが、鯉……ぷふうっ」

 

「だから……やめ……く、ふ……っ」

 

「……?」

 

 

 一瞬、暗くなりかけた雰囲気だったが、ユーの天然ボケにより、程なく霧散した。

 レーベが想像したのは、つい三週間ほど前、舞鶴鎮守府で改二改装を受けた軽巡洋艦、那珂の事である。

 彼女の脳内では、あの、アイドル衣装とも思える華やかな服を纏った那珂が、活きの良い巨大な鯉を抱え、その尻尾にピチピチとビンタされていた。「やーん! 生臭いー!」と涙目だ。

 一方、マックスの脳内では、鯉の着ぐるみを着た那珂が、まな板型ステージの上で踊り狂い……。バラエテイ番組にでも進出すれば、有り得そうな光景であった。

 純真無垢なユーだけが、何も分からず小首を傾げている。

 

 約三分後。

 未だに腹を抱えて、座卓へ墜落しているレーベを横目に、一足早く立ち直ったマックスが話を戻す。

 

 

「それで、ユーはどうしたいのかしら。提督と仲良くなりたい、という趣旨の相談で良いのよね」

 

「うん……。あの、ね。Admiralが、あんまりお話ししてくれないのは、ユーのことキライだから、なのかな……って。レーベちゃんたちは、どうなんだろうって、気になって……」

 

 

 モジモジと、座卓に乗せられたユーの指が落ち着かない。

 ユーが桐林と交わした言葉は、本当に数えられる程なのである。

 励起された際の挨拶。よろしくお願い致します。よろしく頼む。

 廊下ですれ違った時の挨拶。体調はどうだ。元気、です。この後が続かない。

 対潜演習に出撃した時の、開始の言葉。演習開始。Ja。後の指示は香取か鹿島だ。

 ここまで少なければ、誰であろうが「嫌われているのでは?」と勘違いしたくもなるだろう。

 

 

「僕たちも、あんまり提督とは話さないよね。声を聞くのだって、作戦会議か、非同調時の指示出しくらい?」

 

「そうね。もう幾度か出撃させて貰ったけれど、無駄話は一切無かったわ。その分、谷風とかが喚いていたから」

 

「そんな言い方しなくても……。僕は嫌いじゃないよ、賑やかだし」

 

「……別に、嫌いな訳じゃ、ないけれど」

 

 

 ようやく復活したレーベがユーに追随するも、マックスとのやり取りを見る限り、ユーのそれとは毛色が違う。

 と言うより、ユーからすると自虐風自慢にしか聞こえない。

 なにせ……。

 

 

「あ、あれ? どうしたの、ユー?」

 

「……ユー、出撃したこと、ない……」

 

「あ」

 

「あの頃と、同じで……。対潜演習の標的艦しか、してない……」

 

 

 ここに居るユーは、キチンと潜水艦としての能力を持ちながら、戦闘能力の低い鹿島と同じく、実戦未経験なのだから。

 

 

「え、ええっと、か、考えあっての事だよ、きっと! 横須賀時代は潜水艦の運用を殆どしてなかったって聞いたし、まだ模索中なんじゃ……」

 

「でも、確か伊八(い はち)伊 四○一(い よんまるいち)は実戦投入されていたような」

 

「……やっぱり、ユーはキラわれて……」

 

「マックス!」

 

「ごめんなさい、失言でした」

 

 

 しまった、という顔のレーベが慌ててフォローに入ったが、マックスの容赦ない追撃により、ユーはますます落ち込んでしまう。今にも泣き出しそうである。

 プルプル震える小さな背中を、レーベとマックスは二人掛かりで宥め続け、どうにか涙を堪える事に成功した彼女は、今一度、二人の友人に問う。

 

 

「二人は、Admiralのこと……好き……?」

 

 

 即答は、出来そうにない問い掛けだった。

 桐林をどう思うか。

 他の面々――香取や鹿島、日本国籍の艦艇たちの前でなら、当たり障りのない言葉で誤魔化す、という選択肢もあるだろう。

 けれど、ユーの求めている答えは、そういった物ではないはず。

 二人はまた顔を見合わせ、頷き合い。まずレーベが口を開いた。

 

 

「正直に言うと、僕は……。まだ分からない、かなぁ。

 この国で目を覚まして、もう二ヶ月くらいになるけど、彼という人が理解できてないんだ。

 嫌いという訳じゃないよ? でも、好きって言い切るのは、まだ早い。

 せっかく出会ったんだし、何か切っ掛けがあれば、もっと話をしてみたいとも、思ってる」

 

 

 ユーと同じで、交わした言葉は少ないが、彼女と違い、共に死線を潜り抜けて得た、ある種の共感はある。

 求道者のように直向きでありつつ、一方で、鹿島などからは熱烈な愛情を寄せられる人物。

 一度だけ見た事がある、闇の底へ通じるような左眼と、不意に遠くを見つめる事がある右眼。

 分からない事だらけだが、だからこそ、もっと深く彼を知れば、好きになれるのかも知れない。

 嫌いになってしまう可能性も無くは無いが、それを決めるにも、先ずは互いを知り合わないと。

 レーベは、こう思うのだ。

 

 

「軍人としてなら、素直に尊敬するわ。

 堅実な艦隊運用を心掛けつつ、戦闘においては勇猛果敢。しかし決して驕らず、無理をせず。常に退路も確保してある。

 消極的と評する人も居るでしょうけれど、実際に使われる身からすると、心強いわ。“帰岸”の桐林は伊達じゃない、と言った所かしら。

 ……私生活には、あまり興味を持てないわね。色々と噂も多いし」

 

 

 そしてマックスは、レーベよりもロジカルな物言いで、桐林を定義する。

 彼が舞鶴に籍を置いて四ヶ月余り。既に出撃回数は五十を越え、艦隊が大打撃を受けた事も、割り当てられた作戦を失敗した事もあったと聞く。

 けれど、今の今まで、艦艇の喪失だけは起こしていない。彼に与えられた二つ名――船の帰るべき岸辺。もしくは、必ず岸辺に帰す者という名の、面目躍如であろう。

 その分、あまり褒められない浮き名を流す一面もあり、そういった意味では信用ならない男性でもある。

 矛盾しているように感じる評価だが、元来、人とは二面性を持つもの。

 清濁併せ呑んで、上手く付き合っていきたい。

 少し分かり辛い上に言い方はキツいが、彼女はこう言いたいのだ。

 

 

「ユーは……。やっぱり、仲良くなりたい……」

 

 

 二人の言葉を静かに聞いていたユーは、丸めていた背筋を伸ばし、友人たちに習う。

 その瞳に、柔らかくも強い、光が宿りつつあった。

 

 

「せっかく、ドイツのみんなが頑張って、ここまで連れて来てくれた、から。

 Admiralは、お顔が怖いけど……。ユーを呼んでくれた人、だし……。

 みんなと仲良くなれたら……いいなって……。それで、ここの文化に、もっと馴染めたらいいなって……思う」

 

 

 海のほとんどを敵性勢力に支配されている現在、海を挟んで国を行き来するのは、文字通りの決死行となる。

 桐林艦隊に属する事となったドイツ艦計六隻も、ドイツ本国を出立した時には、護衛の傀儡艦と併せて二十隻超の大艦隊であった。

 運悪く、沿岸部を進む内に座礁してしまった船もあれば、他国領海内の通過が出来ず、仕方なく安全領域を脱した際、深海棲艦に沈められた船も……。

 レーベ、マックス、ユーを含む六隻は、そんな船たちが命懸けで遺した結果。

 無駄にしたくない。無駄になど、出来るはずがない。彼女たちの分まで、しっかり、一生懸命に、生きたい。

 

 その為にも、人間関係は重要だ。

 単なる仕事上の付き合い――傀儡能力者と統制人格、という関係ではなく。

 友人として笑い合ったり、戦友として支え合ったり、時々、喧嘩もしたり。

 そんな、人間らしい関係を築きたいと、ユーは思うのである。

 

 

「……そうね。細かい事なんて気にせず、みんなで仲良くできたら、素敵ね」

 

「うん。僕もそう思う。ユー、僕たちに手伝わせてくれるかな。提督と仲良くなる、第一歩を踏み出す手伝いを」

 

「あ……! Danke、ありがとうっ」

 

 

 マックスも、レーベも。ユーのたどたどしい言葉に込められた、強い気持ちを察する事が出来た。

 この、心優しい少女を手伝う事が出来たなら。それはきっと、彼女たちに得難い宝をもたらすだろう。

 それを無意識に知っているから……。否、そんな理屈はどうでも良いのだ。

 純粋に、友達を応援したい。

 この気持ちだけで十分なのだ。きっと。

 

 

「で、レーベ。具体的なプランはあるの?」

 

「う~ん……。まずは、僕たちと同じ立場で、より提督と近しい関係にある人に話を聞くべきだと思うんだ。どうかな」

 

「良いと思う……ます。でも、誰のこと……?」

 

「それは……」

 

 

 問答も一段落し、今度は具体的な計画を……という話に。

 マックスの設問にレーベが案を提言。ユーも賛同して、行動は具体的になって行く。

 さて。彼女たちの向かう先には、いかなる結末が待ち受けるのだろうか。

 今はまだ、神すらも知らない事である。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 燦々と陽光の降り注ぐ、港を眺望できる二階のテラス。

 庁舎一階から階段を登ってすぐの、サロンを兼ねたスペースの先にあるそこでは、一人の女性が白い椅子に腰を下ろし、くつろいでいる。

 灰色を基調に黒と赤を配する、肩を大きく出したセパレートスリーブのボディスーツ。

 テーブルには灰色のドイツ式軍帽が置かれ、組まれた脚は、同じく灰色のオーバーニーが。コーヒーカップを傾ける腕は、赤と黒の二色で染められたアームウォーマーが包む。

 首元は錨を模したチョーカーで飾られており、天使の輪を抱く長い金髪が、そよ風になびいていた。

 

 ビスマルク級戦艦一番艦・ビスマルク。

 第二次大戦中にドイツ海軍が保有した、たった二隻の戦艦の、片割れである。

 桐林艦隊においては、ドイツ艦の総轄を任されている存在だ。

 一人優雅に、手ずから淹れたコーヒーの香りを楽しんでいた彼女だが、連れ立ってテラスへとやって来た少女たちを見つけ、碧い瞳を緩く細めた。

 

 

「あら、レーベにマックス。ユーまで一緒に居るなんて、珍しいわね。Guten Tag」

 

 

 親しげな挨拶に、レーベたち三人も「Guten Tag」と笑顔で返す。

 視線で「座ったらどう?」と勧めるビスマルクに頷き、彼女たちも椅子へ腰掛ける。

 時計回りに、ユー、レーベ、マックスの順だ。

 

 

「何をしていたの? ビスマルク」

 

「ん、ちょっとね。今度、提督が“例の人”と会うらしいんだけど、その事を考えていたのよ」

 

「例の……。確か、スヴェン・ジグモンディという方ですか」

 

「そう、その人。なんでも、将来的にワタシヘ施す改装に必要な、追加の情報を貰ってるらしいの。

 本当なら同席すべきなんでしょうけど……。なんだか、好きになれないのよね。同郷のはずなのに」

 

 

 遥か遠くを見つめ、ビスマルクは自嘲するような苦笑いを浮かべる。

 桐林艦隊にドイツの船が配されるよう、各方面に手を回した中心人物が、現 在日ドイツ大使であるスヴェン・ジグモンディである。

 ドイツ軍の広報を務めていた経験があり、軍を都合退職したのちも、当時のコネクションを上手く利用する遣り手だ。

 深海棲艦のせいで帰国も儘ならない現在、その立場は政治的な色合いを強くしていた。ビスマルクが忌避するのは、おそらくこの点だろう。

 鉄血宰相――ドイツ帝国初代宰相、オットー・V・ビスマルク候爵の名を冠する割に、政治とは無縁で居たいようである。冠するからこそ、であろうか。

 物憂気なビスマルクに、ユーがおずおずと問いかける。

 

 

「ビスマルク姉さんは……。Mr.(ミスタ)のこと、嫌い……?」

 

「ん……。嫌いというより、苦手、かしら。ユーはどう?」

 

「Mr.は、ユーをこの国に連れて来て、くれた人だから。みんなと、会えたから……。感謝して、ます……」

 

「……そう。アナタは良い子ね」

 

「えへへ……」

 

 

 なんとも、いじらしいユーの言葉に、ビスマルクは思わず破顔した。

 主人のない帽子を被せて、ついでに頭を撫でてやれば、ユーも小さくはにかむ。

 どんな思惑があれど、彼女の言う通り。ジグモンディがビスマルクたちを日本へ連れて来たのは確か。その点については感謝すべきだろう。

 異国の地とはいえ、仲間に囲まれて過ごす日々は……決して、悪くないのだから。

 

 

「それで、何か用があったんじゃないの? 三人揃って出向いて来た訳だし」

 

「うん。そうなんだ。正確には僕らが、じゃなくって、ユーがなんだけど」

 

「ここは単刀直入に、私が代わってお聞きします。ビスマルク、貴方は提督をどう思っていますか」

 

「………………へっ!?」

 

 

 雑談のつもりで話を続けたビスマルクだったが、マックスの思わぬ切り返しに目を丸くした。

 折角、コーヒーやら落ち着いた口調で演出した「出来る女」の雰囲気が、崩れていく。

 

 

「っどどっどどおおど、どうって、それは……っ、えっと……。

 か、顔は、悪くないんじゃないかしら? 傷はマイナスポイントでもあるけど、軍人に凄みは必要だもの。

 性格も、あ、アレよ。シツジツゴーケン、だったかしら。そんな感じ、だし……」

 

 

 しどろもどろに所見を語りつつも、恥ずかしさに耐えられなくなったようで、冷めたコーヒーを一気飲みするビスマルク。肌の白さ故か、頬の赤みが目立つ。

 最初の最初……。励起された時、手を握られている事を自覚した瞬間は、「何、この気安い男」などと思ったものだが、そんな第一印象はすっかり拭い去られている。

 この男がワタシの……? と、半目で背中を追いかけるうち、それが習慣になっていた。

 顔は厳めしいし、無駄口も叩かず、愛想の欠片も持ち合わせない男だけれど。変にナヨナヨして、曖昧な笑顔を浮かべて媚びを売るような男共に比べれば、遥かにマシだ。

 そして何時しか、極めて稀に笑顔を向けられる、彼の隣で立つ少女を、羨ましく思い始めて……。

 彼女の口振りから、その感情を否応なく教えられたレーベたちの間には、微妙に気まずい雰囲気が漂う。

 

 

「……ねぇ、マックス。勘違いされてる気がするんだけど、僕」

 

「どうやら、そのようね……。失礼、言い方を変えます。貴方は提督を、人としてどう思いますか」

 

「え? 人として? ……そっ、そうよねっ! そういう意味での質問よねっ! 分かっていたわよ、もちろん! ……はぁ……」

 

 

 マックスが質問を言い換えた事で、微妙にズレた返答をしてしまったのに気付いたビスマルクは、威勢良く胸を張りながら、こっそり溜め息をついた。

 当然、首を傾げているユー以外にはバレバレなのだが。生暖かい視線を送る駆逐艦二人も、予想だにしない告白を聞かされて困惑気味である。

 ともあれ、気を取り直したらしいビスマルク。

 腕を組んで熟考した後、彼女は今までの失態を忘れ、素知らぬ顔で語り出す。

 

 

「敢えて悪い言い方をさせて貰うと……。歪んでるわね。

 肉体的にも、精神的にも歪みを抱えて、尚も歪み続けている。憐れだわ」

 

「あわ、れ……?」

 

「可哀想っていう意味の言葉。ユー、覚えておくのよ?」

 

 

 情緒もへったくれも無い言い方をすれば、桐林に“うっかり”惚れてしまったビスマルクであるが、そこはドイツを背負って立つ戦艦。

 先程までの乙女チックな空気を一掃し、忌憚のない意見で皆を驚かせる。

 肉体の歪みと、精神の歪み。彼の持つ左眼と、それを行使する度に起きる反動に他ならない。

 彼が持つ“異能”については、艦隊に属した統制人格、全員へ説明がなされている。

 実際に体験した者は半数ほどだが、一度でも体験すれば、ビスマルクの言葉に反論できないだろう。

 それ程までに異質な“力”なのだ。

 

 

「じゃあ、ビスマルクは彼を、提督として認めてない、とか」

 

「勘違いしないで、レーベ。それとこれとは話が別。

 隠しきれない歪みを抱えて、それでも彼は、真っ直ぐに在ろうとしているように見えるのよ。

 それが提督の強み。歪みすらを“力”に変える、彼の強みなんじゃないかしら」

 

「……驚きました。貴方がそこまで提督を買っているなんて」

 

「ま、あくまで私見よ、私見。ワタシのAdmiralになった男な訳だし、嫌でも期待せざるを得ないというか……。

 大事なのはこれから。取り返しのつかない事態にならないよう、ワタシが――ワタシたちキチンと、監督してあげなきゃね」

 

 

 物別れするかと思われた桐林への所見だが、最終的にはレーベたち同様、肯定的な意見に落ち着く。

 困った男を主人にした統制人格たちは、それを支える事こそが役目なのだと、一様に笑みを浮かべていた。

 桐林が現状をどう捉えているかは定かでないが、このような美女・美少女に助けられているという点だけ見ても、日本一の果報者と言って差し支えないだろう。

 その代わり、世の男性たちから向けられる憎悪の念も、加速度的に増えているのだけれど、代償としては格安だ。妬み嫉みにも、甘んじて欲しいものである。

 

 

「でも、アナタたち。まさかこんな事を聞きに、ワザワザ出向いたの?」

 

「いいえ。そういう訳では」

 

「今のは前置きで、ここからが本題なんだ。あのね、ビスマルク。……提督と、もっと仲良くなるには、どうしたら良いかな?」

 

 

 話は一段落、今度はビスマルクが、三人の真意を問い質した。

 いよいよ核心に迫り、少々前のめりとなる少女たち。

 しかし、三対の視線を受け止める年長者は、テーブルに肘をついて黄昏る。

 

 

「……こっちが聞きたいわよ……」

 

「ビスマルク、姉さん……?」

 

「あっ、なんでもない、なんでもないわ、ユー。気にしないで。仲良く、仲良く、ねぇ……」

 

 

 聞かせるつもりのなかった呟きに反応され、ビスマルクが慌てて場を取り繕う。

 それもそのはず。レーベの発した問いは、彼女が日々苦心している事なのだから。

 第一印象が悪かった事もあり、励起されてしばらくの間、ビスマルクは桐林と、非常に淡白な交流を続けた。事務的、と言い換えても良い。

 本国の意向だから。命令だから。励起されてしまったから。

 こんな感情を隠そうともせず、やたらとベッタリな十七駆や秘書官たちに眉をひそめつつ、淡々と仕事をこなしていた。そのせいで、今更フレンドリーになるもの難しい。

 好意を抱くようになったのも、本当に、本当に些細な切っ掛けであり、彼女は、初めて抱く感情を持て余しているのだ。

 

 その切っ掛けについては後日、詳細に語るとして。

 長らく唸り続けていたビスマルクが、「そう言えば」と顔を上げた。

 

 

「日本語で、何か良い言葉がなかった? 同じカマーの……メッシ……メッツ……メッサーシュミット……」

 

「なんだか、どんどん離れていってるような……」

 

「正しくは、同じ釜の飯を食う、ですね。一つ屋根の下で寝食を共にし、親しく暮らす事を指すようですが」

 

 

 微妙に間違って覚えていたビスマルクを、レーベとマックスが補足。正しい言い回しに訂正する。

 古くから、人間という生き物は共同体を形成することで、過酷な環境を生き延びてきた。

 寝食を共にするという事はすなわち、同じ共同体に属する通過儀礼とも言えるだろう。

 ちょっと仰々しい言い回しになってしまったが、一緒に美味しいご飯を食べれば、自然と仲良くなれるという事だ。

 しかし、この案の問題点に対し、ユーがオドオドと挙手した。

 

 

「でも……。もう一緒に暮らして……ない?」

 

「そうね。ほぼ条件はクリアしていると思うけれど……。いえ、よく考えたら、食が抜けているわ」

 

「あ、そっか。マックスの言う通りだね。提督、肝心な食事のほとんどを、間宮さんと一緒に摂るから」

 

「なのよねぇ……。やっぱりあの給糧艦たち、怪しいわ……。最近になって、伊良湖も加わったみたいだし。

 この前、食事を終えたばかりの二人と廊下ですれ違ったんだけど、やけに上機嫌で頬がツヤツヤしてて……。うん、怪しいわ」

 

「怪しいよね」

 

「怪しいですね」

 

「……あや、しい?」

 

 

 テーブルを挟んで、顔を付き合わせる四人。いつの間にやら、話はまた色恋の方面へと移りつつあった。

 同じ庁舎で暮らしてはいるが、その実、彼女たちと桐林が食事を共にする機会は少ない。

 彼自身が敢えて少なくしているのであるが、実情を知らない彼女たちにとって、好奇心を刺激する格好の話題である。

 特に、最近になって桐林との夕食会に参加するようになったという給糧艦 伊良湖。

 彼女は間宮が遠征に赴いている間、艦隊の胃袋を見事に満たしてくれた。

 けれど、その様子といえば、日中は常にボーッと何かを考え、夜は夜で、桐林の私室を出た後、妙に充実した――何かを堪能した? ような顔付きでニヤニヤと……。これで噂にならない方がおかしい。

 そんな訳で、ビスマルクは桐林と給糧艦たちの仲を訝しみ、駆逐艦たちは純粋に興味をそそられて、男女の機微に疎いユーだけが、イマイチ着いて行けない。被ったままのビスマルクの帽子がズレた。

 乙女の恋話は、いつでもどこでも姦しいのである。

 

 しかしながら、この場で一番に優先すべきは、そんな事ではない。

 ユーのズレた帽子と一緒に、レーベが話を正しい方向へと戻す。

 

 

「でもさ、着眼点は良くないかな?」

 

「どういうこと、レーベ」

 

「提督に、ドイツ式のご飯を作ってあげる……とか。どう?」

 

「なるほど、良いわねっ。ドイツには美味しい物が沢山あるもの! それを作ってあげれば、きっと喜んでくれるに違いないわ!」

 

「確かに……。材料はなんとかなりそう、か。良い案ね」

 

 

 一つ大きく頷いたビスマルクは、得意満面に賛同。マックスも同じく賛成票を投じ、行動の方向性は固まった。

 ……かに思われたが……。

 

 

「良い考え、だと思います……。けど……。一つ、問題が……」

 

「あら、そうなの。言ってごらんなさい、ユー。ワタシで出来る事なら、喜んで協力――」

 

「ユー、お料理苦手……です」

 

「うっ」

 

 

 肩身を狭く、自らの不得手を恥じ入るユー。そして何故か、ピキィ! と凍りついたビスマルク。

 慰めるよう、ユーの肩へと手を置いたレーベたちは、ビスマルクの露骨な変化に気付かない。

 

 

「そっかぁ……。僕はそれなりに作れるけど、ユーは苦手なんだ」

 

「少し、意外ね。私も作れるから、みんなそうだと。貴方はどうですか、ビスマルク」

 

「えっ!? ……ぇ、ええっ、モチロン作れるわよ! ドイツ料理なら、このビスマルクに任せておきなさい! 今度、一から仕込んであげるわ!」

 

「わぁ……! ビスマルク姉さん、Dankeです……!」

 

「き、気にしないで良いのよぉおぉぉ? う、うふふ、ふふ……」

 

 

 ビスマルクは立ち上がり、胸を張って言い放つ。

 尊敬の眼差しと共に、ユーから渡される帽子を受け取りながら、彼女は思う。

 

 あぁぁぁ、どうして見栄を張るのよワタシ!?

 料理なんてマッシュポテトくらいしか作れないのにぃ!

 

 ……と。

 空は変わらず晴天だが、誰も知らない所で、雲行きが怪しくなり始めていた。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 所変わって、時間も過ぎ去り。

 桐林艦隊が作業を行う工廠の一角――航空機の並べられたスペースでは、二つの人影が蠢いていた。

 艶やかで長い赤毛を誇る工作艦、明石がその一つ。

 そしてもう一つは……。

 

 

「ふぅむ……。これが、レップーという機体か」

 

 

 日本の傑作艦上戦闘機・烈風の側に立つ、アッシュブロンドの女性だ。

 豊かな髪を後頭部の高い位置で結び、その一部をツインテールのように垂らしている。

 白を基調としたスーツ。裾と袖口には黒が配され、腕部分には赤のラインが。合わせるのは黒いプリーツスカートと、同色のパンティストッキング。

 胸元を飾る錨型の首飾りからは、鷲十字の描かれた赤いタイが提がっており、ひさしの黒い白色の軍帽が、瞳の青さを映えさせる。

 肩には白地のケープを羽織っていて、上部が赤く染められたそれには、ケルト結びの意匠が施されていた。

 

 ナチス政権下のドイツにて、進水式までしておきながら完成には至らなかった、純ドイツ製空母。グラーフ・ツェッペリンの統制人格、その人である。

 黒い手袋に包まれた指で、興味深げに主翼をなぞる彼女に、見守っていた明石が声を掛ける。

 

 

「どうですか? やっぱり、向こうの戦闘機とは感じが違います?」

 

「うむ。流石に、全く同じとはいかないようだ。……が、これはこれで良い物だ。天城が惚れ込むのも分かる」

 

「ああ、天城さん。もう仲良くなったんですね~。馴染んでくれてるみたいで、アタシも嬉しいです」

 

「い、いや、まだ親しいと言えるほどでは……。まぁ、この艦隊では数少ない空母だ。色々と気に掛けてくれるのは、正直、助かるな……」

 

 

 明石の晴れやかな笑顔に、ツェッペリンは少々慌てながら、しかし、はにかむように微笑む。

 桐林艦隊に属する航空母艦は、ツェッペリンを含めて四隻。雲龍型航空母艦の雲龍、天城、葛城と彼女である。

 水上機母艦 瑞穂や、飛行艇母艦 秋津洲(あきつしま)、航空機搭載給油艦 速吸を含めれば七隻となるが、この三隻は通常と違った運用をされるため、ここでは分けて扱う。

 

 横須賀の総勢十四隻――しかも、半数近くが正規空母のあちらに比べると、運用可能な航空機数は三分の一にも及ばない。だが、それを補って余りある、潤沢な兵装群が舞鶴の武器だ。

 最高速度、六百二十四km。二十mm機銃四門を備えた艦戦、烈風。

 艦上攻撃機、流星のエンジンを載せ換え、更に運動性能を向上させた流星改。

 これに彗星一二型甲や彩雲などを加え、現代傀儡機動部隊における鉄板が揃っていた。

 

 殴り合いに耐え得る水上艦――戦艦や重巡洋艦の少ない舞鶴艦隊では、アウトレンジ攻撃で敵 戦力を事前に削ぐ事が重要視される。文字通りの主翼を担っている訳である。

 国籍は違えども、彼女たちの連携が取れているかどうかで、艦艇の生存率は大きく違ってくる。しっかりコミュニケーションを取ることが大切だ。

 まぁ、雲龍たちがそこまで意識しているかは、定かでないが。

 単に仲良くなりたいから、という理由もあり得そうである。それが、ツェッペリンの頬を緩ませるのだ。

 

 

「精が出るわね! “伯爵”!」

 

「うん? ほう、“鉄血宰相”か。皆も揃って、どうした」

 

 

 背後からの奇妙な呼び掛けに、ツェッペリンは振り返りながら、同じような返しをした。

 視線の先に居るのは、レーベ、マックス、ユーの三人を引き連れたビスマルクだ。

 グラーフ・ツェッペリン――ツェッペリン伯爵と、ビスマルク――鉄血宰相。二人の間では、敬意を込めてこの名で呼び合う事が多い。

 本来は双方共に男性を指す名前であるが、気品溢れる佇まいのツェッペリンと、誇り高くあろうとするビスマルクには、確かに似合いの呼び掛けだった。

 

 ところで、そんなビスマルクがなぜ工廠までやって来たのか、だが。

 うっかり見栄を張ってしまった後、具体的な得意メニューなどを問われてテンパった彼女が……。

 

 

『そ、そういえばツェッペリンはどうなのかしらっ。艦隊に加わって間もないし、気にならない? 気になるわよね? 様子を見に行きましょう今すぐにっ!!』

 

 

 ……と、恥も外聞もなく、勢いだけで三人を押し切ったからである。

 突っ込もうとすると、誇り高く云々のくだりが可哀想な事になるので、どうか、触れないであげて欲しい。

 さてさて。

 そんな事情を知る由もないツェッペリンは、「やっほー」と手を振る明石と共に、烈風の側を離れる。

 何かの作業中だと思っていたビスマルクが、申し訳なさそうに軍帽を脱ぐ。

 

 

「ちょっとアナタに話があったんだけど、お邪魔だったかしら」

 

「いいや、私も少々ヒマでな。今度の出撃で載せる艦載機を見ていた。やはり、自分の目で確かめておかなくてはな」

 

「あら、日本の機体を載せるの? 向こうのを持って来てあるのよね。メッサーシュミットとかフォッケウルフとか」

 

「そうなのだが……。やはり、安定した運用を心掛けるなら、まだ機体は統一させておいた方が良いと、Admiralは判断したようでな。少々不満は残るが、従うつもりだ」

 

「アタシがまだ、ドイツ機の増産に着手できてないって言うのもありますねー。本格的なドイツ機運用は、十分な数の予備機を確保できてから、だそうです」

 

「なるほど……。相変わらず、提督は堅実なのね」

 

 

 二人からの説明で得心したらしく、ビスマルクは頷いた。

 彼女の挙げた名前は、航空機ファンならまず知らぬ者はない、傑作戦闘機の名前である。

 どちらも通称であり、正式にはBf109シリーズ、Fw190シリーズを指す。

 

 サラブレッドに例えられるBf109シリーズ――メッサーシュミットは、零戦に負けず劣らずの飛行性能を誇っているが、航続距離が短めであり、構造的欠陥により着陸が安定しなかったという欠点も抱えている。

 対してFw190シリーズ――フォッケウルフは、その高い信頼性から軍馬に例えられた。

 空冷エンジン故に高高度性能が低めで、補助翼の反応は過敏、そしてやはり航続距離も短いのだが、純粋な製品としての完成度が高く、他国もこぞって真似をしたという。

 ツェッペリンと共に持ち込まれた機体は、これらを艦上機(Trägerflugzeug)型とし、航続距離を延長。「T」が型番末尾に加えられたBf109T、Fw190Tの二種類だ。

 

 明石は日本の技術を応用して、この二機に、離艦距離の短縮などを目的とした、更なる改良を施そうとしていた。言うなれば、Bf109T改とFw190T改。

 “飛燕”の桐ヶ森から譲渡されたJu87C改を加えれば、ツェッペリンはドイツ空母として真の完成を見るだろう。

 それを待たず実戦へと参加するのだから、自ら機体を確かめたくなって当然か。

 

 

「ツェッペリンはこれが初出撃だね。緊張とかしてない?」

 

「心遣い、感謝する。だが、この私を侮って貰っては困るぞ。

 史実で未成艦だったとはいえ、私は彼の国、最初の空母だ。

 搭載機数は劣るかも知れないが、他には無い特徴で戦ってみせるさ」

 

「頼もしい限りですね」

 

「ええ。次の作戦で、肩を並べるのを楽しみにしているわ」

 

 

 レーベに意気込みを問われ、ツェッペリンが不敵な笑みで返す。

 同作戦へ加わる予定のマックス、ビスマルクも、余計な気負いは無いと悟り、安心したようだ。

 ここで、彼女の諸元などを説明させて貰おう。

 

 全長二百六十二・五m。全幅三十一・五m。

 満載時排水量は三万三千五百トンを越え、機関出力二十万馬力、速力三十三・八ノット。航続距離は十九ノットで八千海里となる。

 初期設計でバルジは備えなかったが、このグラーフ・ツェッペリンは改装後を再現され、しっかりとしたバルジを追加されている。

 また、装甲が機関部で最大百mm、甲板部にも六十mmと、軽巡洋艦程度の相手であれば、両舷合わせて八基十六門の十五cm連装砲で、殴り合いも可能であった。

 肝心な空母としての性能だが、搭載数は四十から最大で五十三機。かなり少なめの数値だが、しかし、彼女の真価は数に非ず。

 戦時中、日本ではついに実現しなかった、甲板据え付け型の圧縮空気式カタパルトと、充実した電探装備にある。

 

 このカタパルトは甲板前端部に二基内蔵され、カタログスペック上では、三十秒に一機の速度で、十八機までの艦載機を発艦させることが可能だった。事実、演習においては成功している。

 また、より迅速な発艦を行うため、蒸気を用いたエンジンの予熱器や、エンジンオイルを暖め続ける機構まで備わっていた。

 これらを組み合わせる事で、風が弱く発艦が難しい状態からでも、即座に艦載機を発進させられるのだ。

 二基の気蓄器が空になると、再充填に五十分の時間を要するという、無視できない欠点も抱えているが、即応が求められる状況であれば頼りになる。

 そして、水上レーダー、航空探知用レーダー、四基の火器管制方位盤も備えた彼女は、昼夜を問わぬ航空管制すら可能とした。

 

 様々な制限はあるものの、状況を問わず艦載機を高速発艦可能で、かつ制御も行える航空母艦。

 彼女が加わる事で、艦隊戦の有り様は大きく変化するかも知れない。遠くない大規模出撃作戦にて、その真価は証明される事だろう。

 

 

「それで、ビスマルク。話とはなんだ? 場所を変えるか」

 

「その必要はないと思うけど……。どう、ユー。自分で話す?」

 

「うん……。がん、ばる……」

 

 

 話を戻し、ツェッペリンを中心として談笑する少女たち。

 元々の要件を問われ、ビスマルクに背を支えられたユーが、おずおずと進み出る。

 

 

「あの……。ツェッペリンさんと、明石さんに、聞きたいことが……あるんです。聞いて、大丈夫ですか?」

 

「私と、明石主任に? まぁ、構わないが」

 

「内容にもよるけど……。スリーサイズ位までなら、なんとか。遠慮なく聞いちゃって!」

 

「Danke……。ありがとう、ございます。えっと、じゃあ……」

 

「あれ。アタシ今ボケたんだけど、ツッコミ無し?」

 

「明石主任。僕、ユーにツッコミは早いと思うな」

 

「……ユー、何か、間違えた?」

 

「いや、うん、そういう訳ではない。気にしない方が良いだろう。続けて欲しい」

 

 

 ボケをスルーされた明石が寂しそうだったり、見るに見かねたレーベが仕方なく突っ込んだり。

 少しばかり遠回りしたけれど、取り敢えずユーは、ツェッペリンの言う通り、無かった事にして本題へ入った。

 

 

「明石主任、さんと、ツェッペリンさんは、Admiralと仲が良い?」

 

「うぇ? な、仲? そりゃあ、悪くはないと思うけど」

 

「うぅむ……。私は、まだ幾度か話しただけだしな。それ以前の段階か」

 

 

 予想外な質問内容だったか、明石は戸惑いに首を傾げ、ツェッペリンは拳を顎に添え、難しい顔をする。

 横須賀から長い時間を共にしてきた明石はさておき、ツェッペリンにとって桐林は、まだ単なる上官に過ぎない。

 知っている事といえば、無口で表情の変化に乏しく、心を開くのは限られた人物にだけ、という性格傾向程度。

 会話の頻度もユーとほぼ同じで、特筆すべき出来事は何も無いのだ。

 

 

「ユー、Admiralとあんまり、仲良くないから……。もっとお話とか、出来るようになりたいなって、そう思うんですけど……。何をしたら良いか、分かんなくって……」

 

「なるほど。それで相談に来たという訳か。ふふ、いじらしいな」

 

「ん……? いじ、らし……?」

 

「可愛いって事だよ、ユーちゃん」

 

「……っ。だ、Danke……」

 

 

 なんとも可愛らしい願いに、明石とツェッペリンは微笑む。

 照れてしまったようで、ユーの頬にも赤みが差し、褒められ慣れていない彼女は口籠ってしまう。

 代わりにマックスとビスマルクが言葉を継いだ。

 

 

「でも、相談という意味では、明石主任が居てくれて助かりましたね」

 

「そうね。舞鶴の中で、提督と一番付き合いが長いらしいじゃない。何か、彼の趣味嗜好を教えて貰えれば、親交を深めるのにきっと役立つわ」

 

「あー、うーん。まぁ、確かにそうなんですが……。アタシと提督の関係は、少し特殊だしなぁ。阿賀野ちゃんたちと同じで」

 

「阿賀野クラス……。艦隊の軽巡洋艦だったか。何か因縁でも……いや、その前に。立ち入っても良い事なのだろうか」

 

 

 ところが、本格的に話を向けられると、明石の整えられた眉は歪んでしまった。

 ツェッペリンが気を遣い、重ねて問い掛ければ、重々しい沈黙が。工作機械の稼動音が遠く、その隙間へ。

 明石を除く五名は気付いていないが、これは演技である。

 彼女たちは外国籍艦。最終的な意思決定に、あちらの政府が関わる事も。明石が人工統制人格であるという真実を隠す為のカバーストーリーを、教えなければならない。

 この心苦しさが、明石の発言により説得力を持たせる。

 

 

「いずれ、みんなも知る事だろうから、話しておくね。

 アタシと、阿賀野ちゃん、能代(のしろ)ちゃん、矢矧(やはぎ)ちゃん、酒匂(さかわ)ちゃんの四人は。

 ……提督が、助けられなかった女の子に、そっくりなんだ」

 

「助け、られなかった……? それ、って……」

 

 

 日本語の拙いユーでも、呟かれた言葉に込められた感情は察知できたらしく、色を失う。

 そんな表情をさせてしまった事が、明石の胸を殊更に締め付け、罪悪感に塗れた苦笑いを作り出させた。

 

 

「提督が責任を追うような事じゃないし、負う必要なんて全くないんだけど、あの人は背負い込んじゃう性質だから。だから特別、アタシたちに気を遣っちゃうのよ」

 

「……そんな事情があったなんて。ごめんね、僕たち何も知らなくて……」

 

「いいのいいの。アタシは気にしてないからさ、全っ然」

 

 

 あえて明確に説明せず、ボカした言い方をする明石へと、レーベが頭を下げる。これ以上は、まだ立ち入ってはいけないと判断したからである。

 居心地の悪さ、ここに極まれりな明石であったが、上手く釘を刺せたと、ほんの少しホッとしている部分もあった。

 事実、次なるマックスの発言は、彼女の過去に対するものではなく、感情に対するものだったのだから。

 

 

「気にせずに、済むものなんですか。私だったら、やっぱり気になってしまうけれど」

 

「ん~……。気になるならない以前に、どうでも良いっていうか。アタシは、提督の船っていうだけで十分だから」

 

「どうでもって、それは良くないんじゃない? 確かに、ワタシたちは提督の船だろうけど、それで自分を捨てるなんて……」

 

 

 意外にも、明石に異議を唱えたのはビスマルクだった。

 彼の船であれば良い。分を弁えている、と言えば聞こえば良いが、それではあまりに無機質で、悲しい。

 人と同じ心を……。感情を持った意味が無いと、ビスマルクは思うのである。

 けれど、その言葉を聞いた明石は、否定に込められる優しさが嬉しくて、微笑んでいた。

 

 

「……ありがとうございます。でも、本当に大丈夫。

 アタシは自分の意思で、工作艦として提督を支えようと決めてる、ってだけの話なの。

 そうする事がアタシの幸せ。そうする事がアタシの喜び。

 だから、提督にどう思われていようと、ある意味関係ないんですよ。

 まぁ……。女として求められたら、ちょっとビックリしちゃうかなぁ?」

 

 

 そう。別に、己の全てを捨て、桐林に尽くそうなどとは考えていない。そんな次元ではない。

 彼に救われた命。彼の為に使うのは当然だが、そこには、確かな幸せがある。

 自らの才能を存分に発揮する喜び。産み出した船たちと過ごす楽しい日々。そして、彼を確かに支えているという充足感。

 こんなにも恵まれているのだから、例え密かに嫌われていようとも、少しばかり寂しいだけ。

 ……もし。もしも仮に、特別な好意を向けられていたとしたら。色々と、吝かではないのだが。

 

 恥ずかしげに頬を掻く明石の、揺るぎない返答を見届け、ビスマルクたちは言葉を失う。

 桐林と明石。二人の噂はドイツ勢の耳にも届いていたが、いざ目の前で見せつけられると……。

 

 

「何かしら、この言い知れない敗北感……」

 

「僕たちじゃ敵いそうもないね」

 

「恋する女は強し、でしょうか」

 

「胸焼けがして来そうだな」

 

「……な、なー?」

 

 

 思わず、車座に膝を抱える五人であった。

 なんというか、明るく気の置けない人物だっただけに、「こんな一面が」と驚きだったのだ。

 ユーだけはイマイチ着いて行けず、「女として求め……?」と、首を傾げているのだけれど。

 出来ることなら、その浮き世離れした容姿のまま、穢れを知らずにいて欲しいものだが、そうは問屋が卸さない。

 いつの間にやら話の中心となっていた明石が、赤い顔のまま、主役の座をユーへと譲る。

 

 

「あー、ほらほら! アタシなんかの事よりユーちゃんの事! 提督と仲良くなりたいんでしょ?」

 

「そ、そうでした……。あの、ユーは、どうすれば……」

 

 

 皆と立ち上がり、改めて明石と向き合うユー。

 不安気な上目遣いに、まず返されたのは問い掛けだった。

 

 

「というか、まず第一に。ユーちゃん、もしかして提督に嫌われてるとか思ってなかった?」

 

「えっ……。な、なんで……?」

 

「やっぱりかぁ……。提督も、そこら辺が不器用になっちゃってまぁ……」

 

 

 まだ言っていなかった懸念を言い当てられ、ユーが目を丸く。

 対する明石は、溜め息混じりに悩ましい顔をする。

 昔は思っている事を九割九分九厘、顔に出しては騒ぎの種としていたものだが、今では感じた事も、言いたい事も仮面の下に隠し……。

 それでも悩みの種となる辺り、変わっていないと喜ぶべきか、呆れるべきか。

 ともあれ、代わりに誤解を解いておかねばと、明石が微笑む。

 

 

「提督はね、ユーちゃんのこと嫌いじゃないと思うよ。むしろ好みなんじゃない?

 儚げで、細くって、抱きしめたら折れちゃいそうで。男にとってはポイント高いよ~」

 

「……そ、そう、なんです、か……?」

 

 

 言われて、己が身を確かめるユー。

 本人は全く自覚していないだろうが、黒いボディスーツと、白い肌のコントラストが鮮明で、全体的に細身ながら、少女特有の柔らかさを所作に滲ませている。

 腕一本でも抱きしめられる小ささなど、男からすれば、庇護欲を掻き立てられて仕方ないだろう。

 しかし、時と場合によって、美点は問題点ともなり得る訳で。

 それに気付いたレーベたちが、割と本気で眉をひそめた。

 

 

「でも、倫理的にどうなのかな。ユーって見た目、僕たちと同じ年頃……十代前半だよね? それってさ……」

 

「言わないで、レーベ。私も身の危険を感じていた所だから」

 

「と、東洋の女性は見た目が幼いというし、実際そうだ。仕方ない部分も……あるのか……? いや……」

 

「そんなの関係あるわけないじゃない! ダメよダメダメ! ユーと提督が……ふ、フケツよっ!」

 

「あのー、アタシが言ってるのは一般男性が求めるであろう女性像で、年齢に関しては何も言ってませんよー。おーい、聞いてるー?」

 

「ユーは……Admiralの、好み……。そっか……」

 

 

 明石が半目になって呼び掛けるが、皆の脱線は止まらない。

 二十代半ばの男性と、十代前半の少女。常識的に考えて、この組み合わせは非常に問題だ。

 先の伊良湖たちの件も含め、噂が絶えない桐林。注意しておくに越した事はないだろう。統制人格が法の外に置かれた存在であろうと、他人の目は何処にでもあるのだから。

 極一部、嫉妬心から過剰な反応をしている女性もいるようだが、ここでは触れないでおく。

 ちなみにユーは、レーベたちの声が耳に届いておらず、何やらモジモジと、胸の前で指を組んだりしていた。

 満更でもなさそうである。

 

 

「ま、まぁとにかく! 提督がユーちゃんを嫌ってないのは間違いないから!

 より具体的なアドバイスが欲しかったら、もっと適任な子が居るし、そっちに聞いてみたらどう?」

 

「適任な子……。明石主任、いったい誰のこと?」

 

「居るじゃないレーベちゃん。いや、この場には居ないけど、残る最後のドイツ艦娘が」

 

「……まさか……?」

 

 

 話が変な方向へ向かいつつあるのを察知し、すかさずまとめに入った明石。

 レーベが続きを促すと、その言葉に、今度はマックスが怪訝な顔を見せる。

 この場に居らず、しかしアドバイスに適切な存在である、最後のドイツ艦娘とは……。

 明石がニヤリと笑った。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「明石主任の言っていた部屋って、ここ……よね」

 

「そのはず……です……」

 

 

 再び場所を変え、暇だったツェッペリンも加わり、五人となって庁舎へ戻ったビスマルクたち。

 現在地は庁舎の四階。その北側に位置する部屋近くである。

 この階の部屋数は、南北に分かれて合計二十あり、利用する統制人格はその半数。十七駆の四人と伊勢、日向。秋月型駆逐艦と朝潮型駆逐艦が二名ずつだ。

 しかし、今挙げた少女たちの誰も、目の前の部屋を使っておらず、これから使う事もない。ビスマルクとユーは訝しんでいた。

 その理由は、マックスの発言で説明される。

 

 

「ここは確か、提督が利用する私室の一つだったと思いますが。しかも、今日は別の階でお休みになる予定だったと」

 

「だが、明石主任が嘘をつく理由もないだろう。人の気配はする」

 

「……こうしていても仕方ないよ。入ってみよう?」

 

 

 女ばかりの居住区に、男が一人、部屋を用意されている。

 公序良俗に反しているが、住むのは統制人格。任務の一環として受け入れていた。

 疑問なのは、明石の言うアドバイザーが、特に入る理由もない部屋で、何某かの作業をしているという事だ。

 少しばかりツェッペリンが耳を側立てれば、確かに微かな物音がしている。

 どうにも腑に落ちない面々だったが、レーベの声に先導され、代表して彼女自身が、ゆっくりとドアを開けた。

 すると、そこには……。

 

 

「ふんふっふふーん、ふーんふーんふーん♪」

 

 

 鼻歌交じりに窓を拭く、ビスマルクと揃いの軍帽を被った少女が居た。

 後ろ姿の彼女は、黒地に赤のラインと灰色を配した衣装の上から、白いシンプルなエプロンを。

 上機嫌に腰が揺れ、短い黒のプリーツスカートが、男にとっては悩ましく、見えるか見えないかギリギリの所で翻る。

 碧い瞳を持ち、艶やかな金髪を錨型の髪留めでサイドテールに纏める彼女の名は、ドイツはアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦三番艦にして、強運の重巡。

 オイゲン公子――プリンツ・オイゲンである。

 ビスマルクと非常に艦影が似通っており、その妹分として可愛がられている。

 

 

「オイゲン。アナタ、なんでこんな所に?」

 

「んぇ? あ、ビスマルク姉さま! Guten Tag……っていうか、姉さまの方こそ、勢揃いで何を?」

 

「ワタシたちは……アナタを探していた、事になるのかしら」

 

「……? 話がよく分かりません……」

 

 

 ビスマルクの声に振り向いた彼女は、太陽が如く眩しい笑顔で挨拶した後、「はて?」と首を傾げる。

 確かに、誰も来ないだろうと思っていた所に、ゾロゾロと同郷の仲間が五人もやって来れば、何かあったのかと不思議に思うだろう。

 対して、オイゲンのやっていた事は明白だ。エプロン、雑巾、足元のバケツ、箒に塵取り。掃除である。

 

 

「もしかしなくても、掃除してたんだね」

 

「そうそう。使っていないお部屋でも、こまめに掃除しなきゃホコリが溜まっちゃうからね〜」

 

「マメな事だな……」

 

 

 感心するレーベとツェッペリンを横目に、区切りの良い所まで掃除を終わらせていたオイゲンは、パパッと道具を片付けていく。

 物が少ないだけあって、作業自体は簡単だったようだ。

 更に、掃除用のエプロンをフリル一杯のエプロンに替えた彼女は、簡易キッチンの方へ足を向けた。

 

 

「よいしょ……。それで、わたしに何か御用なんですか、姉さま? あ、今コーヒーを用意しますから、みんなと座ってて下さい!」

 

「……良いんですか。勝手にくつろいでも」

 

「平気平気ー。わたしも時々、勝手に入り込んで昼寝とかしてるからー」

 

「それはそれで、どうなんですか。オイゲン……」

 

 

 部屋の中央にあるテーブルに着きながら、マックスは呆れ返る。

 自ら進んで掃除をするのは良い心掛けだが、その部屋で勝手にゴロ寝とは。

 もしや、そのために掃除を言い訳としているのではないだろうか?

 そんな風にも思える後ろ姿へ、ユーがそっと歩み寄った。

 

 

「あの……。ユー、手伝います」

 

「ありがとー。じゃあ、お水を沸かして貰える?」

 

「Ja、です……」

 

 

 ユーとオイゲンは、二人並んで、ポットとコーヒーミルを手に取る。

 豆の削られていく音をBGMに、残る四人が、初めて入る桐林の私室を見渡す。

 

 

「この部屋で、提督が寝泊まりしてるのね……」

 

「なんだか、質素な部屋だよね。物が少ないっていうか」

 

「あまり生活感が感じられないな。しかし、その割に……。この匂いは、Admiralの?」

 

「だと思います。アロマ・シガレットの匂いが、染みついているみたいですね」

 

 

 物がない代わりに、部屋にはある匂いが、微かに香っていた。

 ほんのりと甘く、清涼感のある香り。桐林が身にまとう物だ。

 芳香剤のように押し付けがましくないそれは、皆の心をゆっくりと、穏やかにしてくれる。

 くつろぐにはピッタリかも知れない。オイゲンがこの部屋へ入り浸る理由も、もしかしたら。

 

 

「あの……オイゲンさん。一つ、聞いてもいい、ですか……?」

 

「ん~? どうしたの?」

 

 

 そんな中、電気コンロの前でポットを見守っていたユーが、オイゲンに声を掛ける。

 一定の速度で取っ手を回す彼女は、ミルから視線は離さず、しかし意識をユーへ。

 僅かに躊躇いはあったが、せっかくの機会。勇気を出し、もう一度口を開く。

 

 

「オイゲンさんは……。Admiralのこと……」

 

「提督のこと? 愛してるよ?」

 

「えっ」

 

 

 ゴーリ。ゴーリ。ゴーリ。ゴーリ。

 水を打ったような静寂が広がり、ただ、コーヒーミルの音だけが自己主張を続けて。

 オイゲンの言葉を聞いた五人は、凍り付いていた。

 愛してる。

 英語で言うとアイ・ラブ・ユー(I Love You)、ドイツ語ならばイッヒ・リーヴェ・ディッヒ(Ich Liebe Dich)

 つまりオイゲンは、桐林の事を好きという事だ。

 驚愕の新事実に、ユーを除いた四名がようやく解凍され、そうさせた元凶へと詰め掛ける。

 

 

「ちょ、ちょっとオイゲン!? 今、聞き捨てならない言葉が……!?」

 

「き、きっとアレだよね。人間として敬愛してるとか、そういう意味の愛してるで……」

 

「やだなー、レーベったら。違うよ? 一人の男性として愛してるの。今からでも普通の女の子になれるんだったら、猛アタックして恋人同士になって、行く行くは……。きゃー♪」

 

「……だ、断言しましたね」

 

「し、したな……」

 

 

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ。

 頬を赤く染め、テンションと共にミルの回転数も上げるオイゲン。

 過剰な摩擦熱で、コーヒーの味は残念な事になっているだろう。

 しどろもどろだったビスマルク、レーベが唖然と見つめ、マックス、ツェッペリンも顔を見合わせた。

 一体、彼女はどうしたというのか。

 明るくて、誰にでも分け隔てない性分は長所であろうが、それにしても。

 

 

「いつ……。ねぇオイゲン、アナタいつから、提督を……」

 

「ん~、そうですねぇ……。最初はちょっと強面な人、っていうだけの印象だったんですけど。

 最初の出撃で、提督の“力”を受け入れた瞬間、なんかこう……。気持ちが燃え上がっちゃって……♪」

 

 

 うわ言のように呟くビスマルクへと、ウットリ、夢見心地な顔でオイゲンが返す。

 場を賑やかす冗談ではなく、本心からの言葉に見えた。

 本当に一体、彼女はどこをどう間違ったのか。

 試しに、今度はツェッペリンが問い掛けてみるのだが……。

 

 

「参考までに聞きたいのだが、“公子”よ。彼のどこに惚れたのだ?」

 

「それはもう! お顔はよく見れば格好良いですし、いつもピンと伸びた背筋が素敵で、厳しい声の中にも優しさが滲み出てて、ふとした瞬間、遠くを見つめる瞳は憂いを……」

 

「も、もういい。分かった。分かったからその辺で。コーヒーを、早く頼む」

 

「えー。まだまだこれからなのにぃ……」

 

 

 途中で耐えられなくなり、惚気話を中断させてしまった。

 なんというか、餡子とハチミツと氷砂糖と練乳とシロップを、口の中へ立て続けに放り込まれたような、頭痛のする甘さを感じた。

 許されるならいつまでも話していたい、といった風体の後ろ姿に戦慄しつつ、疲れきった表情で席に戻る四人だった。

 ちなみに、席順は時計回りに、ビスマルク、レーベ、マックス、ツェッペリン、ユー、オイゲンである。

 

 

「でも、やっぱり一番の理由は……。あれ、かなぁ」

 

「……あれ?」

 

 

 ところが、オイゲンはコーヒーを淹れながら、ふと、思い出を振り返るように呟く。

 ボーッと見ていたユーが反応した事により、結局、彼女の話は続いた。

 

 

「姉さまたちは、もう何度か提督の“力”を使った事、ありますよね?」

 

「う、うん。二~三回だけど。僕は、あんまり好きじゃないな、あの“力”……」

 

「私も同意見です。身体の……魂の中に、異物を受け入れているような。そんな違和感を覚えました」

 

「そうね……。なんと言うか、無理やり闘争本能を掻き立てられている感じだったわ」

 

 

 テーブルへ戻り、六人分のソーサーをトレイから配りつつ、オイゲンが確かめた。

 頷いたのは、実戦経験もあるレーベ、マックス、ビスマルクの三人である。

 俗に、霊子戦闘態勢と呼称されいるその状態では、統制人格は異様な戦意の高揚を見せた。

 普段からは考えられない、好戦的な言動を繰り返し、あるいは逆に、静謐な敵意を眼光に乗せ……。

 己が意思でそうするなら未だしも、強制されては不快感を覚えるだろう。

 

 一方で、彼女たちが口にしていない事がある。

 あれは……。あの“力”を使っている時は。

 戦争のために産まれた存在が、その本来あるべき姿へと、立ち返ったようでもあるのだ。

 異端(Irregular)であっても違法(Illegal)ではない。

 そんな風に受け取れる自分たちが、また不安を煽るのである。

 

 

「じゃあ、提督の“力”が、特に航空母艦と重巡洋艦に対して親和性が高い、って事は知ってましたか?」

 

「そうなの? 初めて聞いたわ」

 

「私も初耳だ」

 

 

 続けてオイゲンが問い、今度は首を横に振る、ビスマルクとツェッペリン。

 万物に働きかけ、物理法則を捻じ曲げる事すら可能な桐林の“力”だが、効果を発揮させやすい傾向があった。

 それが艦種――特に、重巡洋艦と航空母艦を介して行使する場合だ。

 数式で例えるなら、駆逐艦や軽巡、戦艦などに対する式を累算。重巡、空母に対する式を乗算とするのが正しい。

 ここまで大きな差があるならば、艦隊を重巡と空母で構成すれば良いはずなのだが、上層部により重い制限が掛けられていた。

 これから先、横須賀の重巡が呼び寄せられる事や、新たな空母が加わる可能性は低いだろう。

 

 しかし、そんな思惑を知ってか知らずか、あえて無視しているのか。

 やはりイマイチだったコーヒーに首を傾げつつ、オイゲンは呑気な笑顔で続きを。

 

 

「だからだと思うんですけど、あの“力”を使っている状態で、提督との同調が一定段階を超えた瞬間、とある現象が起きたんですよ」

 

「とある現象……? それって、一体……」

 

「興味深いです。ぜひ聞かせて下さい、オイゲン」

 

「う~ん、話してあげたい気持ちは山々なんだけど、説明が難しいんだよねぇ~……。直感的なものというか、心に直撃というか……」

 

「……? よく、分からない、です……」

 

 

 勿体振る彼女に駆逐艦二人が食い付くも、言いたい事がサッパリ理解できず、ユーまで疑問顏だ。

 そこで、逆にレーベが質問を投げかける。

 

 

「ねぇ、オイゲン。それって、僕たちにも起きる現象なのかな。それとも、相性が良い艦種限定?」

 

「誰にでも起きると思うよー? 学者さんが言うには、極限状態における闘争本能の激化と、それを凌駕する“意思”の共鳴、または反作用による、軽度 共感性ゲシュタルト崩壊……とかなんとか」

 

「共感性ゲシュタルト崩壊……。学術書で読みましたが、強い共感能力――俗に言うテレパシストが、他者の精神と繋がった状態で、自我を見失う事ですね。能力者同士でも起きる可能性があると聞きました」

 

「おおー、流石マックス。はっくしきー」

 

「凄いね。僕、全然知らなかったよ」

 

「それほどでも」

 

 

 うろ覚えだったらしいオイゲンを、マックスが的確に補足。褒めそやされて背筋を伸ばす。

 表情に動きはないが、嬉しかったようだ。意外と子供っぽい。

 余談だが、共感性ゲシュタルト崩壊の説明をしておこう。

 桐林の襲名披露宴にて、桐ヶ森と物理的に接触し、テレパシーのような会話をした事があるが、あれを続けると起こるのが、共感性ゲシュタルト崩壊である。

 肉体という枠から外れ、精神が直接に触れ合う事で、自我の境界線が揺らぎ、意味喪失を起こしてしまう。

 こうなると、二人分の記憶が混濁。自分が誰かも分からなくなり、遠からず廃人と化す。一分二分ならば問題ないけれども、割と危ない橋だったのだ。

 

 

「一つだけ確実に言えるのは、提督を好きな統制人格の子たちは、ほぼ全員がそれを経験してるって事ですね。

 わたしはもちろん、浜風とか、浦風とか、雲龍型のみんなとか。あ、夕雲も多分そうかも。結構グイグイ来るんですよね、あの子……」

 

「えっ。あの夕雲が? お淑やかで、控えめな子だと思ってたのに……。というか多くないかしら? 無口な癖にいつ口説いてるのよ……」

 

「人は見かけに寄りませんよね、姉さま。そういえば、鹿島秘書官と間宮さんたちは別口でしょーか? 実戦出てないし」

 

「ふむ。存外、多くの娘に慕われているのだな、Admiralは。ふむ……」

 

 

 話を戻し、マックスへ拍手していたオイゲンが、締めに入った。

 面識のある名前を次々と挙げられ、ビスマルクは何度目か分からない驚きに眼を剥いている。ツェッペリンも、何やら考え込んで。難しい表情だ。

 最後に出た新しい名前は、艦隊決戦仕様の駆逐艦、最終モデルのネームシップであろう。

 この艦隊でも出撃頻度が高く、陽炎型駆逐艦と合わせ、文字通りの主力を担っている。オイゲンの言う“とある現象”も、経験があっておかしくない。

 対して、そんな事とは関係無しに想いを寄せる、鹿島のような統制人格も居る訳だが、彼女たちの事情を語るのは、またの機会とさせて頂く。

 閑話休題。

 一先ず、己の事情を話し終えたオイゲンは、冷め始めたコーヒーを飲み干した所で、ある事に気付いた。

 

 

「ところで、ビスマルク姉さま。わたしへの用って、結局なんなんですか? いつの間にか、提督への愛を語っちゃってましたけど」

 

「あ。すっかり忘れてたわ……。でも違うの、相談があるのはワタシじゃなくて……」

 

 

 どうして、ビスマルクたちが自分を探していたのか。

 その理由を質問すると、ビスマルクは首を振りつつ、ユーを横目に見やった。

 レーベたちにも視線を注がれ、見る間にオロオロし始める。

 そんな姿も可愛らしく、オイゲンは乗り気な顔で、俯いたユーを覗き込む。

 

 

「ユーちゃん? なになに、相談? わたしに協力できることなら、頑張っちゃうよ!」

 

「え……あ……そ、その……。うぅ……。物凄く、言い辛いな、って……」

 

「んぇ? なんで?」

 

「まぁ、そうだよね」

 

「あのノロケの後だもの。無理ないわ」

 

 

 とても居心地の悪そうなユーに、オイゲンは首を捻り、レーベとマックスが頷き合う。

 仲良くなりたいと思っていた相手への、情熱がこもったメッセージを聞いた後で、関係改善のアドバイスを聞くだなどと、よほど肝が太くないと無理だ。

 もちろんユーもその一人であり、俯き加減に、諦めの気持ちを口にする。

 

 

「ゆ、ユーは……えと……。Admiral、と、仲良くなりたいなって、思ってたんですけど……。オイゲンさんが、Admiralのこと、好きなら……」

 

「あぁー、なるほど。そういう事かぁー。そんなの簡単! 仲良くなりたい、って直接言っちゃえば良いと思うよ?」

 

「えっ……?」

 

 

 ……ところが。

 それを聞いたオイゲンは、何故か得心のいった笑顔を浮かべていた。

 まさかの返答に、驚いたのはユーだけではない。

 

 

「お、オイゲン? アナタ、それで良いの?」

 

「へ? 良いも何も、どこか悪いんですか? 提督を好きな子は多い方が良いと思いますけど」

 

「いや、何故だ。さっきまで、あれほど愛を公言していたではないか。普通は嫌がるものでは……?」

 

 

 年長者二人組――外見的にではあるが――の問いにも、逆に不思議そうな顔で問い返している。

 意中の人に、想いを寄せる娘が増える。

 ライバルが増えてしまうのだから、普通であれば嫌がって当然だ。

 しかし、オイゲンはあくまで己のスタンスを崩さず、胸を張った。

 

 

「そりゃあ、普通ならそうでしょうけど、わたしたち普通じゃありませんし。

 提督が守ってくれるとはいえ、わたしたちは戦争をしてます。いつ死んじゃうか分かりません。

 でも、わたしたちはこの世界に、心を持って存在している。だったら、幸せになる権利はあると思うんですよね」

 

 

 戦争。

 なんらかの目的を果たす為、場合によりけりだが、老若男女問わず、命懸けで鉾を交えること。

 例えばそれは、己の意思であったり、誰かの思惑に巻き込まれたりして、行われる。

 統制人格である彼女たちはどうだろう。

 この世に顕現したその瞬間から、戦いを義務付けられている存在。他の機能を望むべくも無い、兵器。

 けれど。それでも。

 

 

「わたし、提督を好きになってから、とても幸せです。あの人の為に戦えることを、誇りに思います。この気持ちを、この喜びを、みんなにも知って欲しい。

 なので、ビスマルク姉さまも、レーベも、マックスも、ツェッペリンさんも、ユーちゃんも。みーんな、提督のことを……。Admiralさんを好きになってくれたら、嬉しいです!」

 

 

 オイゲンは、己の胸に両手を置き、静かに微笑む。

 柔らかく、しかし力強くて、優しい微笑みだった。

 言葉を失っていた皆にも、それは伝播していく。

 

 

「オイゲン……。アナタ、いつの間にか成長してたのね……。なんだか寂しいわ」

 

「や、やだなぁ姉さまってば。わたしと提督は、まだプラトニックな関係ですってー」

 

「そういう意味じゃないと思うよ、流石に」

 

「これが恋愛脳、ですか。少し、理解し難いです」

 

「まぁ、私たちを想う気持ちは本物だろう。気持ちだけ受け取っておこう」

 

 

 妹分の成長を喜ぶべきか、強力なライバルの出現を危ぶむべきか、複雑な顔のビスマルク。

 それをどう勘違いしたのだろう。オイゲンが少々だらしなく笑い、苦笑いのレーベが突っ込む。

 呆れ返るマックスも、肩をすくめるツェッペリン同様、どこか楽しげだ。

 残った一名……ユーもそれは同じなのだが、けれど、表情は少しだけ曇っており……。

 

 

「……でも、やっぱり難しい、です……。具体的に、どうすれば良いのかなって、考えないと……」

 

「あー、それもそっかぁー。う~ん、確かに難し……あ」

 

 

 せっかく許可は下りたものの、だからと言って直ぐさま仲良くなれるようなら、相談する必要もない。最初の一歩を踏み出すための、切っ掛けが欲しいユーだった。

 そもそも、許可を出せる権限があるのか疑わしいオイゲンだが、それはさて置き。

 何か思い付いたらしく、恋愛脳ドイツ娘は前のめりにテーブルへ乗り出す。

 

 

「閃いた! あのね、こんなのはどう?」

 

 

 内緒話をするように、手を口元に側立てて。

 六人が顔を付き合わせ、何度も頷き合う。

 一体、オイゲンが用意した策とはなんなのか。

 明らかとなるのは、この日から数日後となる……。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「こちらが、例の資料です。お確かめ下さい」

 

 

 昼下がりの桐林艦隊庁舎、その応接室では、合わせて三名の男女が会合していた。

 革張りのソファへ腰掛け、分厚い、A4判サイズの茶封筒を差し出す銀髪の男――在日ドイツ大使であるスヴェン・ジグモンディ。

 対するは黒髪の男。眼帯と、顔の左半分を走る傷が目立つ、桐林。

 彼に代わって封筒を確かめるのが、最後の一人にして、艦隊第一秘書官、香取だった。

 

 

「確かに、お受け取りしました。有り難う御座います、Mr.ジグモンディ」

 

「いいえ。こちらから申し出た協力関係ですから、この位は。それにしても……。思っていた以上に、広い人脈をお持ちのようですね。驚きました」

 

「……自衛の為です。難しい立場に、なりました故」

 

 

 朗らかに笑うスヴェンへと、桐林は言葉少なに返す。

 舞鶴事変以来、こうして何度か対面しているが、内心、スヴェンは遣り難さを感じていた。

 

 

(男子三日会わざれば……と、この国では言うらしいが……。厄介な変化をしたものだ)

 

 

 そも、彼が襲名披露宴で声を掛けたのは、“唾を付けておく”為だった。

 まだまだ青臭さの抜けない青年ではあったが、行く行くは一人で国を――いや、世界を相手取れるかも知れない人材。祖国の今後を考えれば、是が非でもこちら側に引き込みたい。

 しかし、蓋を開けてみればどうだ。

 あの宴から一つ季節が過ぎ去っただけで、簡単に籠絡できそうだった青二才が、確かに軍人となっていた。

 

 正直な話、舞鶴事変はスヴェンにとっても寝耳に水だった。

 国に身柄を抑えられ、下手に手出し出来なくなってしまう。用意していた計略が無駄になる、と彼は思っていた。

 だが、桐林は事変後、一ヶ月を待たずに艦隊再編へと漕ぎつけ、何をどうしたのか、イタリア軍部との繋がりまで作り上げていたのだ。

 

 これは、二重の意思表示である。

 ドイツとイタリアの双方に対して、「他にも話し相手は居る」という考えを示している。

 そしておそらく、祖国である日本に対しても……。

 

 

(兵藤提督と吉田提督は、彼にとってもそれ程の存在だったという事、か……。厄介なタイミングで死んでくれたな)

 

 

 己という存在の希少価値をキチンと把握し、謀反と取られない程度の建前を維持しつつ、それを最大限に利用する。

 あの、統制人格と楽しげに踊っていた青年は、もう居なかった。

 目の前に居るのは、下手を打てばこちらが喰い尽くされるだろう、眠れる獅子か。

 大仰な表現だが、驚異度としては全く応分だと思われた。

 遣り難い事この上ないけれども、毒を食らわば皿まで、とも言う。

 愛する祖国と、産まれてから一度も会えていない息子のため、密かに決意を新たにするスヴェンであった。

 

 

「Mr.ジグモンディ。この後、お時間は有りますでしょうか?」

 

「ええ、今日はこれで仕事終わりです。サラリーマンの方々には怒られそうですが」

 

「まぁ」

 

 

 そんなスヴェンへ、微笑みを浮かべた香取が予定を訪ねる。

 冗談めかして返せば、彼女は上品に笑みを深めて。厄介と言えば、この統制人格もそうだ。

 口数の少ない桐林に代わり、細かい話を詰めたり、桐林が答え辛い類の話であれば、さり気なく矛先を変えたり。

 見目の麗しさも当然として、政治家や会社役員なら、誰もが側に置きたがるだろう、有能な秘書官だった。

 

 

「宜しければ、我が鎮守府で御食事は如何でしょう。給糧艦の間宮が、腕を振るいたいそうです」

 

「ほう。それはそれは。なんとも魅力的なお誘いですが……」

 

「彼女が言うには、よい初鰹が手に入ったようでして。藁で炙り、薄めに切って薬味を乗せて……」

 

「っ……。参りました。喜んで、ご招待に預かりましょう」

 

「うふふ。では、こちらへ」

 

 

 だからこそ、スヴェンは香取の申し出に渋って見せるのだが、個人情報はキッチリ調べられているようで、程なく完全降伏させられてしまった。

 元より、彼が日本を訪れる切っ掛けとなったのは、その食文化だ。

 今や世界的にも知らぬ者がない寿司を始めとして、ドイツ大使という立場を利用し、日本津々浦々まで食べ歩いたものだ。

 おかげで赴任期間は伸びに伸び、三年のはずが五年、五年のはずが十年となり、呆れた妻が一人で里帰り出産した所に、深海棲艦が襲来。祖国へ帰るに帰れなくなったのである。

 故に、寂しい独り身を慰めるためにも。

 大使館の女性職員に、「最近のスヴェンさんって加齢臭が酷いよねー」「見た目はナイスミドルなのにねー」と、陰口を叩かれて傷んだ心を癒すためにも。

 今年はまだ食べられていない鰹を、そのたたきを食さねばならぬ。

 そう自分に言い聞かせ、香取の先導で応接室を出たスヴェンだったが……。

 

 

「おや。あの少女……?」

 

 

 何気なく視線を滑らせた先に、小さな人影を見つけた。

 中庭に面した窓際で立つ、一人の少女。黒いワンピース型ボディスーツと、スヴェンと同じ銀髪を持ち、胸にノートのような物を抱えて、何やらブツブツと呟いていた。

 桐林が「失礼」とスヴェンに断りを入れてから、こちらに気付いていないらしい背中へと歩み寄る。

 

 

「……ユー。何をしている」

 

「ひゃ……っ!? ぁ、あの、あ、ぅ……」

 

 

 硬く、詰問するような声に、ユーと呼ばれた少女は飛び跳ねて驚く。

 振り向きながらノートを背後へと隠し、俯き加減に、青い瞳で桐林を見上げている。

 その外見的特徴に、スヴェンは覚えがあった。

 

 

「もしや、彼女が?」

 

「はい。潜水艦、U-511の統制人格です。実際にお会いするのは初めてですね。

 ユーさん? こちらが、貴方をこの国に連れて来て下さった、スヴェン・ジグモンディ氏よ。ご挨拶を」

 

 

 確かめてみると、香取がそれを肯定する。

 ドイツ側に向けて公開されている傀儡艦の情報には、統制人格の情報もあったのだ。

 彼女たちの存在は祖国でも大きなニュースとなっており、早くもファンクラブ会員数が一千万を超えたとか。

 そんな少女の内、最も引っ込み思案だとされる潜水艦の少女が、おずおずとスヴェンの前に進み出た。

 

 

「Guten Tag……。あ……。日本語でも、大丈夫です、か? 早く、慣れたくて……」

 

「ええ、構いませんよ。初めまして。ユーさん……と、お呼びしても?」

 

「はい……」

 

 

 たどたどしくも、懸命に日本語を話すユー。

 その姿が、発揮されることの無かったスヴェンの父性愛を刺激し、視線の高さを合わせようと、彼に片膝をつかせる。

 

 

「月並みな言葉で申し訳ありませんが、日々は楽しいですか。お友達は出来ましたか」

 

「……はい。同じ、ドイツ艦のみんなは、優しくて。伊号の二人とも、よく話します……。はっちゃんと、しおい、って名前で……」

 

「そうですか。それは良かった」

 

 

 ゆっくりではあるが、しっかりと気持ちの込められた言葉に、スヴェンは思わず笑みを浮かべた。

 はっちゃん。しおい。確か、日本の潜水艦、伊号シリーズの二隻だ。

 閲覧の許された記録を思い出すと……まぁ、桐林の趣味を疑いたくなる格好をしていたはずだが、仲良き事は美しきかな。とやかく言うまい。

 

 

「ところで、ユーさん。後ろに持っているそれは……」

 

「あっ。あの、これは……っ」

 

「ははは。どうやら、私へのプレゼントではないようですね」

 

「ぁう……。ごめんなさい……。Mr.が今日来るって、知らなくて……」

 

「いいんですよ、気にしなくても。貴方に会えただけで、十分な収穫ですから」

 

 

 少しばかり意地悪な言い方をしてしまったが、焦る表情もまた可愛らしい。

 そして、ユーの持っている品を見れば、彼女が出向いた用向きも自ずと分かる。

 スヴェンはオマケのようだ。残念だけれど、致し方ない。立ち上がり、背後で立ち尽くしていた桐林へと向かう。

 

 

「Mr.桐林。どうやら彼女は、貴方に話があるようですよ」

 

「……自分に?」

 

 

 スヴェンの言葉を聞くと、桐林の眉が怪訝に寄った。

 取り敢えず、彼の肩に手を置きながら「分かってますね」と言い含めるが、もちろん、桐林に分かる筈もない。右眼が更に細く。

 押し出すように場所を入れ替えれば、スヴェンの意図を察した香取が後ろに下がり、ユーと彼が二人きりになれるよう計らう。

 

 

「……っ……ぅ……」

 

「………………」

 

 

 しばらく、無音が続いた。

 ユーは酷く緊張し、何か言おうとしては、口をつぐむ。

 けれど、このままでは駄目だと思ったのだろう。

 やがて彼女は大きく深呼吸。意を決して、桐林と向き直る。俯きつつも、であったが。

 

 

「あの……。ユー、まだ日本語、上手じゃなくて。話は出来る、けど。読んだり、書いたりは苦手で。だから……」

 

 

 一度言葉を区切り、ユーは隠していた物を身体の前に。

 小学校でよく使われる、日本独自の細長い冊子――国語ドリル。

 オイゲンの、「提督と日本語を勉強してみたら?」という提案に基づき、鹿島に用意してもらった物だった。

 それを差し出し、彼女は上目遣いに、桐林を見つめる。

 

 

「Admiral、に……。日本語の読み書きを、教えて欲しい、なって……思うんです、けど……」

 

 

 尻すぼみになってしまう“お願い”に、桐林は数秒ほど沈黙した後、丸くなった右眼で香取とスヴェンを振り返った。

 しかし、二人は柔らかな笑みを浮かべ、「話を振ったら怒ります」と、表情で語る。

 桐林の表情は動かない。けれど、想定していなかった事態に困惑しているのが、手に取るように分かる。

 軍人の仮面の下は、今でも、あまり変わっていないのかも知れない。そう、スヴェンは感じた。

 だが、傍から見れば微笑ましい沈黙でも、当人にすれば居心地が悪いのか、ユーの目尻に涙が溜まり始め……。

 

 

「……めい、わく……です、か……?」

 

 

 今にも溢れそうな雫を堪え、彼女は震えながら、ほんの僅かに小首を傾げた。

 桐林の身体が一瞬、フラつく。

 ああ、落ちたな。スヴェンは確信する。そして同時に恐怖した。

 ユーというあの少女、年端も行かない外見にも関わらず、女の武器を一二○%使い熟している。

 おそらく無意識なのだろうが、故に末恐ろしい。いつか彼女は、それと知らず男を手玉に取る、悪女に成り得るかも知れない。

 それが証拠に、桐林は国語ドリルを受け取ったのだから。

 

 

「分かった。時間を、作ろう」

 

「っ! あ、あのっ……Danke schön! ありがとう、ございますっ! 合って、ますか?」

 

「……ああ」

 

「ぇへへ……」

 

 

 色好い返事に、今度は満面の笑みを浮かべるユー。

 釣られてスヴェンも、香取も微笑みを深くしてしまう、本当に嬉しそうな顔だった。

 ただ一人、桐林だけが国語ドリルの内容を確認し、仏頂面を貫いている。

 

 

(娘が欲しくなる光景だな……。シルヴィオとグレタは、元気だろうか)

 

 

 スヴェンは、幾許かの寂寥感を覚えつつ、拙い触れ合いを見守る。

 軍靴の音は遠い。

 けれど確実に近づいている。

 自分がここに居るのは、祖国の為。そして、そこに居る家族の為。必要とあらば、この国に害を及ぼす選択も、しなくてはならないだろう。

 しかしながら、今しばらくは。

 せめて、あの国語ドリルを使い終えるまでは。……願わくば、使い終えた後も。

 そんな事態が起きないようにと、祈らずには居られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《オマケの小話 鹿島さんの大誤算》

 

 

 

 

 

「そろそろ、三時か」

 

「あ、ホントですね。今日もあっという間です」

 

 

 執務室に差し込む陽が、傾き始めた頃。

 区切りの良い所まで書類仕事を片付けた桐林は、それを受け取った鹿島と時計を確かめる。

 いつもであれば、小休止を挟んでもう一仕事……となるのだが、今日に限って、隣に控える香取が口を挟んだ。

 

 

「提督。もうじき、次の大規模出撃の準備が整います。後は私たちが処理しておきますから、早めに切り上げられては?」

 

「……ああ。頼んでいいか」

 

「お任せを」

 

「はいっ。鹿島、頑張っちゃいます!」

 

 

 艦隊運用とは面倒なもので、出撃するにも待機するにも書類が必要となる。

 ましてや、それが大規模な作戦の前ともなれば、準備だけで二~三日掛かる事もしばしば。

 近く出撃を控えた身には、出来る限り負担を少なくしたい、という気遣いだ。

 特に、鹿島がやる気を見せている。

 ここ数日、彼女はご機嫌だった。何故なら、桐林との会話が増えたからである。

 これまでは「ああ」だの「そうか」だのと、一言二言で終わってしまう会話が多かったが、最近では「ああ、そうだな」やら「そうか。良かったな」など、二言三言に増えたのだ。

 ……正直、ほとんど変わっていないように思えるけれども、しかし鹿島にとっては重要案件。

 会話する時間が増えるという事は、すなわち、彼と共に過ごす時間が増える、という事なのだから。

 

 という訳で、やる気満々な鹿島と、そんな妹を微笑ましく見つめる香取なのだ。

 秘書官たちを見やり、桐林も素直に休息する事を選んだようである。

 席を立とうとする彼だったが、その時、執務室のドアがノックされた。

 香取が目で確認し、桐林が頷けば、「どうぞ」と彼女が声をかける。

 ややあって、木製のドアはおずおずと開き始める。

 

 

「あの……失礼、します……」

 

「あら、ユーさん。どうなさったんですか?」

 

 

 姿を現したのは、黒いボディスーツと銀髪の少女、ユーであった。

 珍しい客に驚き、胸に細長い冊子を抱える彼女へ香取が問いかけると、ユーは内股気味に、ゆっくりと桐林の前へ。

 

 

「えっと、Admiral……じゃなくて。提督と、約束があって」

 

「提督さんと? ……あ、その国語ドリル。私が用意した……」

 

「はい……。一人だと、まだ、難しくて。提督に、教えてもらって、ます」

 

「そうだったんだぁ。道理で提督さん、昨日も一昨日も、自室の方へお戻りになってたんですね?」

 

「……まぁ、な」

 

 

 細腕に抱かれた国語ドリルを確認し、鹿島がニッコリ微笑む。

 桐林と二人っきりでお勉強。普段ならハンカチを噛み締めて悔しがろう、垂涎のシチュエーションだが、相手がユーでは、鹿島の嫉妬心も鳴りを潜める。

 せっかくの休憩時間に勉強? と思わなくもないが、きっと気分転換には最適だ。

 テーブルにドリルを広げ、一生懸命に書き取りをする少女と、それを優しく見守る桐林。なんとも羨ま――もとい、微笑ましい。

 

 

「いつも、来てもらってたから。今日は、自分から来て、みました。……迷惑、だった?」

 

「いいや。……ここで、するか」

 

「はいっ」

 

 

 勉強の時間を楽しみにしていたのか、ユーもウキウキとした笑みを浮かべている。

 どうやら、私室の方へ移動はせず、この部屋でお勉強タイムのようだ。

 執務机では彼女に高いだろうが、椅子をアジャスターで調整すれば問題ないだろう。

 そう判断したらしい桐林は、腰を上げようと肘掛けに手を置き、ヒョコヒョコとユーが近づいて。

 

 

「よい、しょ……」

 

「え゛っ」

 

「まぁ」

 

 

 なんと、桐林が立ち上がる前に、その脚の間へ座ってしまった。

 鹿島の顔が引き攣り、香取は驚いて口元に手を。

 いつも以上に表情筋を強張らせた桐林は、然も当然と居座るユーを見下ろす。

 

 

「……ゆ、ユー。どうした、急に」

 

「え? でも……。いつも、こうなるから。最初から、この方が……」

 

「そ、そうだが。そう、だけども」

 

 

 桐林を見上げる彼女の顔は、心底不思議でしょうがない、といった様子だ。

 おそらく、言葉通りの意味しか持たない行動なのだろう。

 しかし、鹿島にとってその行動は、決して看過できぬ、小悪魔の所業であった。

 

 

「……提督さん。“いつも”って、どういう事ですか。まさか、ずっとユーちゃんを抱っこしながら勉強してたんですか!? 手取り足取り書き取りしてたんですかっ!?」

 

「鹿島? 貴方、何を怒っているの。微笑ましくて良いじゃない」

 

「よ、良くないですよっ! 提督さんに、だだだ、抱っこだなんて……!」

 

 

 怪訝そうな香取に、鹿島は湯気を吹きそうな有様で食って掛かる。

 ギリギリのラインで我慢できていた嫉妬メーターが、抱っこ椅子で一気に振り切れたのである。

 一方、香取はなんとも思っていない。

 鹿島のように、何でもかんでもロマンスと結び付けようとする方が問題なのもあるが、単純に、桐林を信頼しているのだ。

 仮に手を出していたとしても、それを理由に色々と直訴できるようになるので、むしろ願ったり叶ったりと考えていた。恐ろしい女性である。

 ともあれ、先ず問題なのは、ヒートアップしてしまっている鹿島だ。

 誤解を解こうと、桐林が口を開く。

 

 

「鹿島、聞いてくれ。ずっとじゃない。ユーはまだ、漢字が読めない。だから、隣に座って逐一補足していたんだが」

 

「そのたびに、ドリルを動かすの、めんどうだなって、思って……。それで、この方が読み易いかなって、ユーが……。これ、良くないの……?」

 

 

 こてん、と小首を傾げ、ユーは未だに不思議そうにしている。

 詳しく説明すると、間宮たちとの食事の応用で、桐林の筆記技術をユーに学ばせたまでは良かったのだが、問題は読みの方だった。

 最初は、机を挟んで対面に座り、いちいちドリルをひっくり返していた。

 その日のうちに、桐林の座る位置はユーの隣になったけれど、最終的に彼は立ち上がり、椅子の後ろから覗き込むような形に。

 勉強を見てもらっているのに、彼を立たせていては申し訳ない。

 そう思ったユーは、桐林を強引に座らせ、彼の膝に腰を下ろすことで、問題を解消しようとした訳である。

 これが鹿島であれば、いかがわしい展開を期待していること間違い無しなのだが、ユーに他意は無い。純粋な気遣いからの行動だ。

 桐林もそれを理解しているからこそ、突き放せない。電のアドバイスを無下に出来なかった、という点も加味すべきであろうか? すべきでないかも知れない。

 しかしながら、それも鹿島には全く関係ないのだった。

 

 

「なんだか、妙に饒舌じゃありませんか? 提督さん。何か、やましい気持ちがあるんじゃ……」

 

「いや、無い。ただ、誤解を解こうと、だな……」

 

「むうぅぅ……っ」

 

 

 普段通りの彼なら、仏頂面で「違う」と一刀に切り捨て、後のフォローは香取に任せそうなものなのに、今回に限ってやけに口数が多い。

 気の利かない男性が、なんの脈絡もなくプレゼントを用意したり、帰宅時にケーキを買って来たり。いつもと違う行動をするのは、浮気の兆候だという。

 まぁ、桐林と鹿島がそんな関係でないのは当然として、とにかく納得のいかない鹿島は、頬を膨らませて遺憾の意を表明する。

 なんとも奇妙な緊張感が漂う執務机。

 だが、元凶であるユーは、鹿島の表情からある感情を察知し――

 

 

「……うらやま、しい?」

 

「カッフぁ!?」

 

 

 ――と。無邪気に鹿島の胸を抉った。

 まるで、不意打ちの魚雷が直撃したような衝撃に、彼女はもんどりうって倒れ込む。

 

 

「う……羨ましく、なんか……っ。羨ましくなんか、ないもん……! う、羨ま、う、うらっ、羨ましぃいぃぃ……っ!」

 

「鹿島……。貴方って子は、全くもう……」

 

 

 倒れ伏したままハンカチを噛み締め、涙でカーペットを濡らす鹿島。

 そのあんまりな姿に、香取が盛大な溜め息をついた。

 流石の桐林も、「出会った当初はしっかり者だったのに」的な、遠い目をしている。

 

 

「……じゃあ、鹿島秘書官も。抱っこして、貰う?」

 

「えっ、良いんですかっ! ぜひ、ぜひお願いしますっ!」

 

「はあぁぁ……。我が妹ながら、恥ずかしい……」

 

 

 ところが、気を遣ったユーの発言に、鹿島は一瞬で復活。鼻息荒く執務机へ詰め寄った。

 実際に抱っこされたらされたで、カップラーメンが出来る前に根を上げそうな気もするが、激しい頭痛に襲われる香取だった。

 そして、いつの間にか抱っこ椅子要員にされた桐林にも、ボーダーラインはあるらしく。

 

 

「いや、流石に鹿島は……。マズいだろう」

 

「えええっ!? なんでですかぁ!? ゆ、ユーちゃんみたいに、ちっちゃくないからですか? 私じゃ育ち過ぎなんですかっ!?」

 

「誰もそんな事は言っていない」

 

 

 素気無く抱っこ椅子を却下され、必死に食い下がる鹿島へと、桐林は珍しく自分で突っ込む。

 もちろん、ボーダーラインとはそういう意味ではない。

 常識的に考えて、鹿島のような「いつでもOK」娘を膝へ乗せたりしたら、男であれば十中八九、一線を越えようものである。

 桐林が危惧しているのも、おそらくはその一点に尽き、決して、ちっちゃい子しか抱っこしたくない訳ではない。……と、思われる。

 

 何や彼やと騒がしくなった執務室であるが、まだまだ騒動は治らない。

 睨み合う桐林と鹿島の間に割って入るかの如く、ドアが大きな音を立てて開かれた。

 また新たな闖入者。ビスマルクの登場である。

 

 

「失礼させて貰うわ! 提督、ワタシも日本語の読み書きを勉強――って、あ、アナタ! ユーに何してるの!?」

 

 

 手に、独自ルートで入手した漢字ドリルを持っていた彼女は、途中まで言い掛けて、ユーを抱っこしている桐林に目くじらを立てた。

 その背後には、当然のように他のドイツ艦……レーベ、マックス、ツェッペリンたちも続き。

 

 

「やっぱり、こうなってたね……」

 

「嫌な予感が当たっていたわ。……提督。これからは私たちも勉強会に参加しますので」

 

「うむ。まぁ、そういう訳だ。そんな事は無いと思いたかったが、現状がこれでは、な」

 

「……違う。これには、理由が……」

 

 

 性犯罪者を見るような三対の瞳に、桐林の額から冷や汗が溢れる。

 彼女たちがここに来た理由は、

 もはや言い逃れも出来そうにない状況であるが、彼は諦められないのか、言葉を尽くそうと手を伸ばす。

 しかし、それを遮る恋愛脳少女が、二人。

 

 

「そんな事より、私は抱っこして貰えるんですかっ? 提督さん、ハッキリして下さい!」

 

「あ、わたしも抱っこして欲しいです! 出来れば後ろからじゃなくって、前からギュ。って!」

 

「あっ、オイゲンさん割り込まないで下さい! 私が先にお願いしてたんですからっ」

 

「えー。でも、提督まだ返事してないし……。じゃあ、ジャンケンで決めましょ、鹿島秘書官っ」

 

「良いですよ、絶対に負けませんからっ。最初はグー!」

 

 

 鹿島とオイゲンは、賞品である桐林の事情など御構い無しに、ジャンケンを始める。

 変わらず冷ややかな目の三人と、「あーいこーでしょ!」を繰り返す二人。

 止めても無駄だと悟った香取は、一人、窓から空を見上げて「良い天気……」と呟く。目が虚ろだ。

 桐林の味方は、この部屋には既に存在しないようである。

 

 

「提督、モテモテ……?」

 

「違う……。ユー、その使い方は違う……。違うんだ」

 

「……んー。日本語、むずかしいですって、思います……」

 

 

 滝のように汗を流す桐林を見上げ、ユーは言う。

 実に的確な表現であると思われたけれども、残念ながら否定されてしまい、ぽすん、と後ろへ寄り掛かる。

 暖かい体温を宿した椅子は、何故だか、微妙に震えていた。

 

 ちなみに、百八回まで及ぶ相子の末、鹿島はジャンケンに負けてしまった。

 結局、抱っこ椅子は無しになったのだが、本当に残念な少女である。

 

 

 

 

 

「……電。報告がある」

 

『報告、なのですか? 一体、どんな……』

 

「この前、みんなとしっかり話すべきだと、言っていただろう」

 

『あ、はい。あの事、ですか……。上手く行きました、か?』

 

「ああ。少し、距離があると思っていたドイツの子と、話すようになった。笑顔も増えたように、思う」

 

『……そうですか。良かったのです、仲良くなれて……』

 

「でも」

 

『……でも?』

 

「他のドイツ勢の、自分を見る目が、痛くなったんだ」

 

『えっ』

 

「喋らなくても誤解を生むし、喋ったら喋ったで誤解されるし。もう、どうすれば良いんだ……」

 

『……ちなみに、なのですけど。その子、艦種は……?』

 

「潜水艦。水着は着てないけど、年恰好は電くらい、かな」

 

『………………』

 

「……あれ。電?」

 

『墓穴を掘っちゃったのです……。金剛さ――対策を練――くちゃ――』

 

「お、おいちょっと。今、とても不安になる名前が出たんだけど。電、電っ? ……また切れてる……」

 

 

 




「なんで……。なんでこのあたしが、次の作戦から外されてるのよ……っ。連装砲くんだって、あんなに、頑張ってたのに……!」
「まぁまぁ。そんなにカリカリしちゃ駄目だって、だ~め~。代わりと言っちゃなんだけどさ、横須賀の方に演習しに行けるんだし。向こうで噂の“あの子ら”と会って来ようよ?」
「それは、そうだけど……。島風、かぁ……。なんだか、複雑だわ……」
「そう? アタシは早く雪風に会いたいなぁ、うん、会いたーい!」

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