新人提督と電の日々   作:七音

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在りし日の提督と葬送の唄・中編

 

 

 

 

 澄み渡る青空の下。

 ■■さん――提督指定の体操服&ブルマーに着替えた■■■は、深く静かに呼吸をして、精神を統一する。ポニーテールに結び直した髪が揺れた。

 数千人を収容できるはずの国立運動場。運動靴が踏みしめるのは、赤茶色に白のラインが引かれたトラック。

 計測器や動画撮影をする人員が数人と、見守ってくれる提督の気配だけを、感じられる。

 少し先に、棒高跳びの器具がある。前人未到の七・五mの高さに掛けられたバーが、逆光に陰り……。

 よしっ、始めようっ!

 

 

「■■、行きますっ!」

 

 

 シュタ、と挙手をした後、半艤装状態となった■■■は、“無手”のまま走り出した。

 最初は歩幅を小さく刻み、十分に加速してから大きく、力強く脚を踏み出す。

 わずか三秒で踏み切り位置へ到達し、勢いを殺さぬよう地面を蹴れば、グン、と空が近く。

 最高到達点は、余裕を持ってバーの十cmほど上。

 前方宙返りでバーを飛び越え、ひっくり返る世界の中、バランスを取りつつ、脚から緩衝マットの上へ着地。

 ドヤ顔でポーズを決めてみると、記録員の方々から盛大な歓声と拍手が。

 やっておいてアレですが、ちょっと照れちゃうな……。

 

 

「おおー、凄いな■■。オリンピック選手が真っ青だ」

 

「あはは。どうもです」

 

 

 提督も拍手を送りながら、■■■を褒めちぎってくれる。

 といっても、統制人格からしてみれば、この位は出来て当然のこと。ちょっと褒められ過ぎ? とも思う。

 半艤装状態とは、機関部や主砲などの艤装を召喚せず、身体能力だけを向上させた状態の事で、それでも人間の常識を越えた力を発揮可能だった。

 握力は二百五十kgを軽く上回るし、跳躍力はさっきやって見せた通り。皮膚の強度は流石に普通のままだけど、人間相手なら、それこそ無双できちゃう。まぁ、特にする必要もない訳ですが。

 というか、現在進行形で気になるのは、別の事だし……。

 

 

「……それにしても。この格好、どうにかならなかったんですか……?」

 

「ん? 何かおかしいか?」

 

「おかしくはない、と思いますけど。……恥ずかしい、ような」

 

 

 ブルマーを隠すように、■■■は上着の裾を引っ張る。

 動き易いからこういうデザインなのは分かるけど、太もも剥き出しで、なんかこう……。き、記録員の男性方の視線が、熱いと言いますか……。

 ん? なんだかごく間近からも熱視線を感じる――って、提督まで!?

 

 

「そ、そんなマジマジと見ないで下さいよぉ! ホントに恥ずかしいんですってば!」

 

「お、おお、すまない。つい見惚れて……」

 

「……えっち」

 

「申し訳ない」

 

 

 グイーっと上着を限界まで引っ張り、前屈みに睨み付けると、彼は慌てて顔を背けた。

 ダメ押しの呟きには、土下座せんばかりに頭を下げ。

 仕方ない。見惚れて云々はちょっと嬉しかったし、許してしんぜよう……なんちゃって。

 

 

「でも、こんな体力測定、なんの役に立つんですか?」

 

「うん。それはだな、純粋にデータを取っておきたいというのもあるんだが、君自身に出来る事柄を把握しておく、という側面もある」

 

「■■■に出来る事柄、ですか」

 

「これまでは戦闘中も棒立ちが多かったが、君自身で判断が出来るようになった今、行動の選択肢は倍以上に膨れ上がった。それを活かすには、まず限界を知る事が大事だからな」

 

「なるほどぉ……」

 

 

 一通りの計測を終え、用意されていた折り畳み椅子へと腰掛けた■■■は、ずっと不思議に思っていた事を、疑問としてぶつける。

 隣で立つ提督が、スポーツドリンクを渡しつつスラスラ答えてくれて、素直に頷いてしまう。

 ■■■がこんな風に……感情を表すようになってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。その間にも色んな事があり、幾度か実戦にも。

 ツクモ艦と呼ばれる敵との戦闘で、■■■と提督は息の合ったコンビネーションを見せ、向かうところ敵無し、という感じ。

 ■■■はなんなのか。敵がどんな存在なのか、という疑問は尽きないけど。

 他にも、提督が直腸検査にTKOされたり、■■■の私服を買おうと二人で出かけたり、その出先でカツ丼食べまくったり、軽くなったお財布に提督が泣いたり。結構、楽しい。

 こんな日々が、ずっと続けば良いのになぁ……。

 

 

「まぁ、直近では観艦式での余興というか、お披露目イベントでのアクロバットだ。無理かと思ってたけど、大丈夫そうだし。頑張れ!」

 

「あ、はい。頑張りま………………す?」

 

 

 物思いに耽る■■■の肩を叩き、提督がニカっと笑う。

 反射的に頷いてしまったけど、その内容に引っ掛かりを覚え、首を傾げる。

 観艦式。

 海軍の艦艇や航空機を集め、多くの人々に威容を示すイベント。昔は国家元首や、最高司令官に向けて催された。

 アクロバット。

 軽業。曲芸。身の軽さを活かした見栄えの良い動作を行い、観客を楽しませること。

 ……頑張れって事は、■■■がそれに出るの!?

 

 

「かかかっっかか、観艦式ぃ!? ひひひ、人前に出るんですかぁ!?」

 

「ああ、そうだけど……。君の存在を、政府は公表することにしたんだ。アイドルみたいになれるかもな。……どうした、そんな慌てて?」

 

 

 思わず、立ち上がって提督に詰め寄っても、彼は気楽に笑っている。

 脳裏に浮かぶのは、無数の人々。■■という軍艦を囲み、無遠慮な視線を向ける人々。

 身が竦んでしまう。

 たった記録員の男性、たった数人の視線でも気後れするのに、それが観艦式ともなれば……。

 あ、ダメ。これはダメですわ。

 

 

「……無理です」

 

「は?」

 

「無理無理無理無理ムッソリーニです! 二佐とか■■■くんとか、気心知れた人たちの前ならまだしも、観艦式なんて……。ずぇったいに、無理ですぅー!!!!!!」

 

「そ、そんな力一杯拒絶しなくても――ってどこに行くんだ■■っ!? そして何故ムッソリーニ!?」

 

 

 空になったスポーツドリンクを投げ捨て、■■■は当て所もなく全力疾走。提督の声を背に、運動場を逃げ出した。

 いくら上からのお達しでも、無理なものは無理!

 たとえ提督に土下座されたって、沢山のお洋服を用意されたって! 特上カツ丼食べ放題に連れて行かれ――たら揺らぐかも知れないけど。

 とにかく無理なんですー!

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 吉田中将――元帥の眠る建物から離れた場所に立つ、何か、軍関係の博物館らしき施設。

 その奥にある、関係者以外は立ち入りを禁じられるエリアの一室へと、自分たちは通された。

 小さなシアタールームらしく、入り口から下がっていく雛壇には多くの座席が設けられ、奥の壁には白いスクリーン。特に映すものもないので、室内灯で明るい。

 

 

「ほれ。挨拶でもなんでも、好きなだけしやがれ」

 

「はーい」「じゃあ……」

 

 

 同じ方向を向くゆったりとした椅子へ、適当に腰を下ろした間桐提督は、ぞんざいに手を振りながら挨拶を促す。

 それを受けて、二人はスクリーンの前に。

 同じく適当に腰を下ろす自分たちへと、可愛らしくアピールを始めた。

 

 

「あたしが、パパの心を掴んだ長門型戦艦一番艦、なっちゃん! で……」

 

「わたしは、パパを長年支えてきた長門型二番艦、むっちゃん……ですっ」

 

 

 小さな身体に、大き過ぎる艤装を召喚して見せた彼女たちは、主人の側へ戻りつつ、「えへへへ」「うふふふ」と笑顔で牽制し合い……。

 可愛らしくって表現したけど、撤回した方が良さそうだ。地味に女の争いが勃発してる。怖い。

 火花を散らす少女二人を見やり、桐ヶ森提督が大きく溜め息をついた。

 

 

「ねぇ間桐、アンタ本当に手を出してないんでしょうね?」

 

「誰が出すか、ロリ林と一緒にすんじゃねぇ。お前らも変なトコで張り合うな!」

 

「やー」「んー」

 

 

 何気に人を貶しながら、間桐提督が少女たちの頭を掴んで左右に揺さぶる。

 まだ自分は童貞です……という言葉を飲み込み、その姿をじっくり観察してみるが、やはり、あの二人は感情持ちになったようだ。

 ごく普通の女子中――小学生にしか見えない。

 

 

「にしても、いつよ? 双胴棲姫と闘った時は、確実にまだよね」

 

「ああ。そいつの襲名披露とほほ同時だな。正確な時間はオレにも分からん。気が付いたらどっちも、こんなになってやがった」

 

「アバウトねぇ……。ま、らしいと言えばらしいけど」

 

 

 質問に対しては、欠伸混じりの返答がなされた。

 襲名披露とほほ同時……。少なくとも、双胴棲姫戦を終えてから、という事になる。

 むっちゃん――陸奥だけならば、長年の経験による目覚めだと考えられるが、感情持ちになったのも同時だとすると、励起されて間も無かったなっちゃん――長門が自意識を得た事が説明できない。

 もしかしたら、キスカ・タイプにトドメを刺した事が影響している……? いくら考えても、推測の域を出そうになかった。

 その間に、間桐提督のアイアンクローから逃れた二人が、桐ヶ森提督へとヒョコヒョコ近寄っていく。

 

 

「あなたが桐ヶ森提督ー?」「“飛燕”の、烈女?」

 

「あんまり褒められてる気がしない呼ばれ方ね……。ま、そうよ。私が桐ヶ森。よろしくね」

 

「よろしくー!」「……お願い、致します」

 

「ふふ、礼儀正しいわね。はい、これどうぞ」

 

「わっ。ありがとー!」「飴ちゃん、好きです……」

 

 

 ペコリ。九十度近いお辞儀に気を良くしたお嬢は、どこからともなく飴玉を二つ。

 目を輝かせた二人がさっそく口へ放り込むと、無邪気な笑顔が花開く。

 思わず見た者の頬が緩むそれに、調整士さんがカメラを向けた。……いや、ホントどこにそんな物を。

 

 

「いやはやぁ。桐林提督の長門型とは、方向性が真逆ですねー。これはこれで……その笑顔イタダキ!」

 

「おいテメェ。誰が写真撮影を許した。目ん玉抉るぞ? あ゛?」

 

「あ、すいません。後でコピーしてお渡ししますんで……」

 

「いるかンなもん、ってか誰だよお前は」

 

「あぁぁ、これは御挨拶が遅れてしまって。お初にお目に掛かります。私、桐ヶ森提督付きの調整士で、疋田 蔵人と申します。どうぞお見知り置きを」

 

「フン、そうかい。テメェが……。良いだろう、覚えといてやる」

 

 

 保護者のイケメンから即座に脅しを掛けられた彼は、すかさず名刺を差し出しながら自己紹介を……。

 ん? ひきた、くらんど。んんっ? ……疋田ぁ!?

 

 

「あ、あの、疋田って……。調整士さんまさか、妹とか居たり?」

 

「はい、居ますよ? いつも栞奈がお世話になっております。この前会った時は、その事を存じあげなくて。申し訳ないです」

 

「……えええっ!? 兄妹!? 疋田さんと、あなたがっ?」

 

「何よ、知り合いの身内だったの? 世の中ってホント狭いわね」

 

 

 腰を浮かせて前のめりに聞いてみれば、柔らかい微笑みと共に、自分へも名刺が差し出された。

 疋田、蔵人。間違いなく漢字も同じ。まさかこの人が、疋田さんの兄妹だったとは……。

 事実は小説よりも奇なり、とよく言うけど、こんな風に繋がっているなんて、想像すらしていなかった。

 

 

「……いい加減、本題に入りたいんだがよ。いいよな」

 

「あ、はい……。すみません……」

 

 

 驚きで呆然とする自分へ、少しばかり剣呑な言葉が投げられる。

 畏縮しつつ反射的に謝ると、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らし、桐ヶ森提督へ顔を向けた。

 

 

「まずは、プリン頭。今回の事件の首謀者、正体は聞いてっか?」

 

「確か、クーデターを画策したとかいう能力者? いかにも、って感じで胡散臭い報告だったわね。ただ、軍関係者であることは確かでしょうけど」

 

 

 腕だけでなく脚も組み、彼女は不審を露わに。

 対外的に公表されている事件の首謀者は、国家転覆を謀った傀儡能力者とされている。

 余計な騒動を避けるため、その詳細までは公開されていないようだが、実際にそんなものは存在しない。

 本当の首謀者は、能力者が深海棲艦と融合を果たした生命体なのだから。

 公表したりすれば、それこそ国家の。否、人類の危機に繋がる。

 人には知らない方が幸せな事もある。都合の良い言い訳だと思っていたが、今は心からそう思う。

 

 しかし、流石に天才と賞される桐ヶ森提督。断片的な情報から正しい推論を導き出しているようだ。

 リムジン襲撃の手腕。軍の行動を完璧に予測した捜索妨害。政府高官にまで及んでいた血の支配。正しい戦術指南を受けた人物でもない限り、成功し得ない作戦だった。

 そういえば、事件の後処理に際して、多くの人物が秘密裏に粛清されたとも聞く。

 手を下したのは……おそらく桐谷提督と、その配下。もしかしたら、梁島提督まで関わっているかも知れない。

 

 だが、話の核心はそこではない。

 返答に間桐提督は大きく頷き、自らの出自を平然と言い放つ。

 

 

「その通りだ。奴の正体は、小林 倫太郎。吐噶喇列島で重い火傷を負った、オレの“オリジナル”だからな」

 

「……は?」

 

 

 桐ヶ森提督の眉がひそめられた。

 冗談でしょう? と言いたげにこちらを見るが、何も返せない自分に、真実であると判断したようだ。

 少年提督。オリジナル。そこから導かれる事柄は、人類の、悪意の頂き。

 

 

「アンタ、まさか……」

 

「ああ、そうだよ。能力者クローニング実験・試験管番号三七一〇番。

 これが、オレに生みの親が付けた名だ。ミナトなんていう、安直な偽名もあったがな。

 あのジジイ、『下手に偽っても、おヌシの生まれは変えられん』とか抜かして、何一つ隠しやがらなかったんだぜ?」

 

 

 人に対して使うべきものではない、区分する為の文字列。彼はそれを、産まれ持った名前だという。

 どんな風に生きてきたのか。どんな風に己を偽ってきたのか。

 彼の言葉で全てを悟った彼女が、青い顔で呟く。

 

 

「何よ、それ……。いや……だとすると……。なんて事、成長剤ってそういう……」

 

「おうよ。あの頃は本当にチビ助だったのさ。

 金を掛けられねぇから、代わりに時間が掛かっちまったが、この数ヶ月でようやく身体に合うもんが調合できた。

 おかげで節々がイテェったらねぇけどな」

 

「成長痛ー」「一日で、〇・五cm伸びた日も、あります」

 

 

 気怠そうに首や腕を回す間桐提督を、少女たちは無邪気に補足しているが、どうにもそら寒い。

 クローニングされて産まれた彼にとって、産まれてからの実年齢は重要なものではないのだろう。

 そして、デザインされたが故に精神は著しく成長し、肉体との乖離を起こした。それを解消するために、身体へ負担が大きいはずの薬品まで使い、自らを作り変え……。

 ある意味では、似ているのだろうか。数多の船を取り込み、己自身を変化させ続けた、彼女(かれ)と。

 

 

「ホント、人って群れると愚かになるのね……。ううん、アンタの存在を否定する訳じゃないけど」

 

「ハッ。テメェに気を遣われるたぁな、今にも雨が降りそうなのはそのせいか?」

 

「茶化すんじゃないわよ、バカ……」

 

 

 耳慣れた悪態ですら、真実を知った今では痛々しさに変わる。

 桐ヶ森提督のまぶたが、物悲しく伏せられていた。それをどう思ったのか、間桐提督の矛先がこちらへ。

 

 

「おい、白髪ヤクザ。お前、会ったんだろ? 奴と」

 

「……はい……」

 

 

 鋭い眼光に、躊躇いつつも頷くしかなかった。

 間違いなく自分は、小林 倫太郎と邂逅し、彼女(かれ)を憎み……殺し合ったのだから。

 

 

「似てるか。オレと、ソイツは。オレにゃあ戦闘記録の閲覧が許されなくてよ。知らねぇんだ」

 

「……いいえ。奴は……性別が変わっていましたから。歳も、とってませんでした」

 

「ハァ……。やっぱり、オレへの報告はダミーかよ。あのド腐れ野郎、今度会ったらブチ殺してやる」

 

「あ、パパ?」「汚い言葉、めー、です」

 

「……チッ」

 

 

 簡潔な問い掛けへと、こちらも加飾せず、真実のみで答える。

 彼の知る情報とは何某かが食い違っていたのだろう。

 照明を睨みつける間桐提督だったが、長門・陸奥から窘められ、苛立ちを舌の音に消す。

 一瞬の空白。

 微かな衣擦れで、桐ヶ森提督が挙手をした事に気付いた。

 

 

「……桐林。アンタの言い方から察するに、その……間桐のオリジナルって奴。人間をやめてた、って事よね」

 

「はい。奴は自身のことを、深海棲艦と人のハイブリッド……。深人類、と」

 

「シンジンルイ、ね。深みに嵌まった人類ってとこかしら。笑えないわ……」

 

 

 ほぅ、と溜め息をつく彼女は、背もたれに身を預け、ふわふわした帽子を胸の上に置く。

 ただでさえ、普通の人々から忌避されがちな能力者が、更に堕ちた先。公表すればどんな騒ぎになるだろう?

 ……戦争初期の能力者狩りが、また起こるやも。笑えるはずがない。

 

 

「……ッカカ。つくづく、オレのオリジナルらしい野郎じゃねぇか。何が深人類だ、クソが……!」

 

「あ……」「パパ……」

 

 

 しかし、間桐提督は堪え切れないといった風に、嗤う。

 心配そうに手を伸ばす少女たちすら、視界には入っていないようだった。

 暗い。

 果てしない暗がりを思わせる声。

 失意の底を浚って掬い上げた、呪詛。

 

 

「すみま、せん……」

 

「あ?」

 

 

 知らぬ間に、自分は椅子から降り、床に膝と手をついていた。

 耐えられなかったのだ。

 悪く言えば傍若無人。よく言えば、威風堂々としていた間桐提督を、こんな風にしてしまった原因は。

 他ならぬ自分自身としか、思えなかったから。

 

 

「自分の、自分のせい、なんです。中将は、自分の代わりに、奴と闘って……」

 

 

 なぜ、彼は小林 倫太郎を呪う。きっと、その所業だけではない。中将を喪ったからだ。

 彼女(かれ)は言っていた。技研から間桐提督を救い出したのは、中将だと。

 そして、梁嶋提督に見せられた戦闘記録の中でも、叫んでいた。己の代わりに劣化コピーを……と。

 つまり中将と間桐提督の間には、単なる身元引き受け人ではない、もっと確かで、親子にも似た絆があったのだと思う。

 でなければ、忌まわしい出自を知りながら、こうは成長できない。口は悪くとも面倒見が良くて、誰にも気持ちを偽らない、良くも悪くも真っ直ぐな人間には。

 

 奪ったのは誰だ。

 小林 倫太郎だ。

 小林 倫太郎と……自分だ。

 みすみす奪わせた、自分なんだ。

 

 

「こんな事で、死んでいい人じゃ、なかったのに。もっと生きられたはずなのに。

 自分が弱かったから。自分なんかを守るために、あの人は。どう、詫びれば……っ」

 

 

 握る拳に、カーペット材の毛が絡みつく。

 謝って済む問題じゃない事も、謝る資格があるのかすら定かじゃないのも、分かっている。

 けれど今の自分には、頭を下げる以外に思いつかなかった。

 他に、何をすれば良いのか。……分からなかった。

 

 

「桐林。立て」

 

「……え?」

 

「いいから立て」

 

 

 黒いスニーカー。いつの間にか、間桐提督が真ん前に立っていた。

 見下ろす視線の強さに、否応なく立たざるを得ない。

 自分よりも、少しだけ背の低い彼は、こちらを真っ直ぐに見据え……。

 

 

「歯、食い縛れや。手加減はしねぇ」

 

「――っぐ!?」

 

 

 右の拳を振り抜いた。

 左頬に痛み。

 自分は後方へ殴り飛ばされ、倒れた拍子に座席へと顔も打ち付けてしまう。

 引っ掛けたのか、眼帯がどこかに飛んだ。

 

 

「ちょっと間桐! 何してんの!?」

 

「……テメェのために、だぁ? 自惚れてんじゃねぇぞ、この大馬鹿野郎がっっっ!!!!!!」

 

 

 桐ヶ森提督の静止を完全に掻き消す、激しい怒声。

 血の味を噛み締め、這い蹲りながら見上げれば、間桐提督は憤激に顔を歪めていた。

 拳が、震えている。

 

 

「テメェ一人なんかのために、命を張る訳ねぇだろうがよ……。

 あのジジイが守ったのはな、お前なんかじゃねぇ。この国の未来だ! もっと大きなものだ!

 悲劇のヒーローにでもなったつもりかテメェは! あぁ!?」

 

 

 強い、とても強い感情の込められた言葉が、投げつけられる。

 殴られた箇所は、燃えるような熱さで心を苛んだ。

 

 

「オレはお前を認めねぇ。

 どんなに希少な“力”を宿したとしても、今のお前だけは絶対に認めねぇぞ。

 いつまでもそうやって、被害者面して悦に入ってろ。クソッタレが」

 

 

 身じろぎ一つ出来ない自分に、彼は背を向けて歩き出す。

 悲劇の、ヒーロー。被害者面?

 ……好き勝手、言いやがって。

 

 

「何も、知らない癖に……」

 

「あ……?」

 

「先輩が死んで、中将も居なくなって、こんな身体にさせられて!

 じゃあどうすれば良かったんだ!? 一体どうすれば、“俺”は……!」

 

 

 椅子を支えにようやく立ち上がり、訳も分からないまま言い返してしまう。

 何が言いたい。何が苦しい。何をして欲しい。なんと言って欲しい。

 頭の中はグチャグチャで。気持ちも制御できなくて。子供のように、みっともなく駄々をこねている。

 そんな、どうしようもなく情けない男に、間桐提督はいよいよ軽蔑の眼差しを向け……。

 

 

「知るか、んなもん。自分で考えろ。……ああ、一つだけ言い忘れた。オレはもうただの“桐”じゃねぇ」

 

 

 しかし、立ち去ろうとしていた脚が、ふと止まる。

 振り返ったその顔には、怒りでも、嘲りでもない。

 静かで、寂しげな表情が浮かんでいた。

 

 

「オレは、あのクソ野郎が勝手に産み出し、全うされることのなかった、“皆”の命を継ぐ“人間”……。

 吉田 剛志の二人目の息子。吉田、皆人(みなと)だ。……覚えとけ、どアホ」

 

 

 最後に罵声を一つ吐き捨て、彼は今度こそ部屋を出て行った。

 無音。

 桐ヶ森提督も、疋田調整士も、動かない。

 崩れ落ちるように、自分はへたり込む。

 なんて事をしてしまったんだ。なんて事を言ってしまったんだ。

 自分は一体、どこまで無様を晒せば気が済むんだ。

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」「パパを、嫌いにならない、で」

 

 

 意外な事に、駆け寄って来たのは間桐提督の長門と陸奥だった。

 付き従うべき人を追わず、心細いような顔で、こちらの様子を伺っている。

 

 

「本当は、ずっとあなたの事を心配してた」「オレのせいで、オレのオリジナルのせいで、って」

 

「……え?」

 

 

 耳を疑う。彼女たちは今、間桐提督が心配してくれていたと、そう言った。

 拳と怒声、そして侮蔑を置いて去った彼が……?

 とても信じられる気分ではなかったが、スーツに添えられた、二人分の小さな手が、疑いの念を消していく。

 

 

「パパ、不器用だから」「本当は、こんな事をしたかった訳じゃ、ないんです」

 

 

 彼女たちは、互い違いに腕を伸ばす。

 冷たい指が左頬へと、羽根のように触れた。

 そして、「痛いの痛いの」「飛んで、けー」と呟き、立ち上がって頭を下げる。

 

 

「お願いします。なっちゃんたちが代わりに謝るから」「パパの友達、やめないで」

 

 

 そう言い残し、駆け出した少女たちの目尻には、消え入りそうな雫が見て取れた。

 反射的に伸ばしてしまった自分の右手が、何も掴めずに垂れ下がる。

 友達……。友達、だったのか。

 “千里”の間桐。小林 倫太郎のクローン。吉田 皆人。

 本当に、友達だったんだろうか。……なれるの、だろうか。

 

 

「あんなに良い子を泣かせて。アンタもアイツも、格好悪いわね」

 

「……自分、は……」

 

「悪いけど、私に優しさを期待しないでよ。あんまり、余裕ないし……。後を頼むわね。あの子たちを追うから」

 

「了解しました」

 

 

 遠目に様子を見ていたらしい桐ヶ森提督は、一旦は歩み寄るものの、少女たちを追いかけて部屋を出る。

 側へとしゃがみ込む疋田調整士の手に、小さな救急箱。湿布薬を取り出していた。

 

 

「男の手当てじゃ嬉しくないでしょうけど、動かないで下さい」

 

「……用意が良いんですね」

 

「ははは。こうでもなきゃ、桐ヶ森提督の調整士は務まりませんよ」

 

 

 フィルムを剥がし、頬へ貼り付ける手付きは、実に手馴れている。余計な痛みも感じなかった。

 ……そう言えば。殴られた時に口の中を切ったみたいだが、その痛みまで……。軽く切っただけだったのかも知れないけれど、なんだか気になる。

 でも、それを確かめようとした自分の意識は、疋田調整士の言葉で停止した。

 

 

「ただ、私からも一つだけ言わせて下さい。……元帥の死を看取った人間として」

 

「……っ!」

 

 

 立ち上がる彼は、先程までの緩い雰囲気から、誠実さを感じさせる、凛々しい空気を纏う。

 知らなかった。見聞きした情報には、調整士という存在が省かれていて、気付けなかった。

 この人が、最後を。

 

 

「あの御方は、誇りを抱いて逝きました。目が眩むほどの輝きを。

 決して誰かを恨んだり、己の不幸を呪ったりはしていませんでした。

 どうか、この事を忘れないで下さい。

 ……きっとそれが、遺された者に出来る、数少ない事の一つだと思います」

 

 

 言い終えると、疋田調整士は踵を鳴らして最敬礼し、桐ヶ森提督と同じように部屋を出た。

 残されたのは自分一人。気を遣って、くれたのだろう。

 実際、有り難かった。

 こんな姿、誰かに見られていたくなかったから。

 

 

「……“俺”は……」

 

 

 天井を見上げ、顔の傷痕をなぞる。

 開けっ放しのドアから、微かな雨音が漏れ聞こえている、気がした。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「ちっくしょう……。イテェ……」

 

 

 やたらと天井の高いホールに、苦しげな男の声が響いた。

 数百人は余裕で入れるほどの広さだが、しかし置かれているものと言えば、その中央に、人ひとりがなんとか収まる程度の、長方形の物体――冷温保管設備のみ。

 男がそれに背中を預け、座っている。

 赤く腫れた右手を庇う彼の名は、“千里”の間桐ではない。

 吉田 剛志の遺した遺言に従い、正式に養子縁組をした彼は、名実共に一人の人間となったのだ。

 吉田 皆人という名の……親を喪ったばかりの男に。

 

 

「パパ、軟弱過ぎー」「殴った方が、殴られた方よりも、重症」

 

「ウルッセェ。成長剤のせいで骨がスカスカなんだよ……。人を殴ったのだって、初めてだしな」

 

「桐林さんが」「初体験?」

 

「変な言い方すんなっつの! ったくよぉ、胸糞悪りぃ……」

 

 

 その傍らには、二人の少女の姿。皆人の右手を包帯でグルグル巻きにしている、長門と陸奥である。

 医者に見せねば詳しくは分からないが、確実にヒビが入っているだろう。

 薬で無理やり成長させた身体には、やはり大きな負担が掛かっているのだ。

 骨密度は六十代の老人並みで、臓器の活動も全体的に鈍い。生殖能力すら……いや、これは元々か。

 皆人は元より、子供を残せる身体ではない。性的興奮を感じた事はなく、これから先も。それが彼の“仕様”だった。

 巨乳だのなんだのと騒いでいたのは、単純に触り心地や見た目の好みであり、性的な意味など全くない。「その方が人間らしいだろうから」と始めた、ブラフでしかない。

 

 

「誰の所為でもねぇだろうがよ……。テメェばっかり謝りやがって……」

 

「あ」「それ……」

 

 

 自由になる左手で、皆人はポケットから重々しいシガレットケースを取り出す。桐谷から渡された、形見の品だ。

 床の上で開いたそれから、葉巻を一本。口に咥え、片方の先端をシガーカッターで切り落とし、吸い口を作る。

 今度はガスライターを持ち、咥える向きを変えて点火した。

 本来なら、ここから先端部をじっくり炭化させるのだが、キチンとした作法を知らない彼は、いきなり大きく吸い込んでしまう。

 

 

「ゲホ、グェホッ!? っあ゛、んだよこれ……。よくもまぁ、こんなもんを美味そうに……」

 

 

 産まれて初めての喫煙に、肺は当然の如く拒絶反応を示した。

 臭いし、煙いし、味など感じる余裕もない。むせ返った拍子に、涙まで出てくる。

 

 

「……でだよ……」

 

 

 俯いたまま、皆人が掠れる声を絞り出す。

 身体は小刻みに震え始め、点けたばかりの葉巻が、二本に折り畳まれた。

 

 

「何、勝手に死んでんだよ……。ふざけんじゃねぇよクソがぁあっ!」

 

 

 罵声と共に、折れた葉巻を投げ捨てる。

 抑えが利かない。

 身を竦ませる少女たちを振り払い、皆人は立ち上がって保管機を叩く。

 警告音が鳴り響いた。

 

 

「勝手に助けて、勝手に世話焼いて、そのくせ勝手に居なくなって、なんなんだよっ!?」

 

 

 一度、二度、三度と。警告音を無視して、何度も、何度も。

 もう我慢なんて出来なかった。

 叫ばなければ、何かにぶつけなければ、気が狂いそうで。

 

 

「全身に転移って、肺ガンってなんだよ! どうして義肢嫌悪症なんて! なんで戦わせなかった! 守らせてくれなかった!? まだ……っ」

 

 

 余命三ヶ月だなんて聞いていなかった。

 サイバー義肢嫌悪症でも、クローン臓器ならば適合する可能性はあったはずなのに。

 自分の手で断ち切りたかった。

 この手でオリジナルを殺し、世界で唯一の存在となりたかったのに。

 戦えなかった。

 守りたかったのに。

 

 そして。

 

 

「まだ一度も……。オヤジって、呼んでなかった、のに……っ」

 

 

 言えなかった。

 口にするには恥ずかしくて、けれど、いつか伝えたかった気持ちは、もう届かない。

 ……永遠に。

 

 

「ぢくしょう……。ちく、しょおぉおぉぉ……!」

 

「パパ……」「泣かない、で……」

 

 

 保管機へと縋りつき、皆人は恥も外聞もなく慟哭する。

 背中を小さな手が……。同じく涙を流す長門と陸奥が、優しく撫で続ける。

 殺風景で、ただ広いだけのホールは今、何人たりとも侵し得ない、聖堂となっていた。

 

 そこへ繋がるドアへ寄り掛かる、三人目の少女も。

 桐ヶ森もまた、立ち入れずに小さく鼻をすすっている。

 別れに水を差すほど空気が読めない訳ではないし、桐林のように蹴りで発破も掛けられない。そんな無粋、したくない。

 漏れ聞こえる悲しい雄叫びが、無性に寂寥感を煽る。

 しかし、遠くから微かに聞こえてくる足音に、彼女は表情を凍らせた。

 

 

「やっと姿を見せたわね、陰謀屋」

 

 

 敵意にも似た硬質さを宿す、碧い瞳。

 それに真っ向から対峙するは、隻腕の男――梁島 彪吾だ。

 右手には緑色のタブレット端末を持っている。

 

 

「悪いけど、今は遠慮して貰える? 邪魔になるわ」

 

「挨拶ならば、もう済ませた。用があるのは……」

 

 

 立ち塞がる桐ヶ森に、梁島は首を横へ振る。

 意味深な視線を返され、桐ヶ森は敢えて、肩をすくめながら茶化して返す。

 

 

「デートの誘いなら、お断りよ。……盗聴好きの男なんて、趣味じゃないの」

 

 

 少々、脈絡がないと思える発言。けれど、わずかに揺れる梁島の目を確かめ、桐ヶ森の確信は深まった。

 襲名披露宴の際、桐林の肩に着けられていたパッチ型盗聴機。のちの調べで、あれを仕掛けられた人間は梁島しかいないと踏んでいたのだ。

 何一つ証拠など無かったが、それでも「コイツだ」と、彼女は直感した。となれば、信ずるに足る男ではないということ。警戒心が強まる。

 だが、梁島自身は然して気に留めた様子もなく、季節外れの遠雷に耳を澄ませていた。

 

 

「|“その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない”《It takes all the running you can do, to keep in the same place.》」

 

「……ルイス・キャロル。鏡の国のアリスね。何が言いたいのかしら」

 

 

 これまた脈絡のない言葉を梁島が唱え、桐ヶ森が出典と共に問い質した。

 高名な小説家、ルイス・キャロルの作品「鏡の国のアリス」に登場する人物、赤の女王のセリフである。

 一九七三年にリー・ヴァン・ヴェーレンが説いた、進化に関する仮説でも有名な一文だ。

 簡単に説明すると、「存在し続けるためには、決して立ち止まらず、常に進化せねばならない」という事の比喩として使われる。

 

 進化。

 今の状況で、この言葉から連想するものは多くない。

 そして、軍に属する者が使うとなると、ロクでもない結果に終わるのは、火を見るより明らか。

 これ以上は許さないと言わんばかりに、桐ヶ森の眼が険しさを増した。

 

 そんな彼女へと、梁島はタブレット端末を差し出す。

 躊躇いが数秒。結局、無言で受け取ったそれには、とある文書が開かれていた。

 

 

赤の女王、計画(Project・Red Queen)?」

 

 

 発案者の欄に「“梵鐘”の桐谷」という名を見つけ、綺麗に整えられた眉が歪む。

 しかし捨て置く訳にもいかず、彼女はそれを読み進める。

 この計画が、桐ヶ森の――神鳥谷 藍璃の運命を大きく変えてしまう事に、気付けぬまま。

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

(……何を、してるんだ。“俺”は……)

 

 

 雨の中。自分はシアタールームのある施設を出て、当て所もなく歩いていた。

 異様に分厚い雲が、稲光を発している。獣の唸り声と、打ち寄せる波音が耳を塞ぐ。

 それでも、どこからか“見られている”のが分かる。

 檻を出て彷徨う猛獣へと、照準を合わせるように。警戒心を向けられているのが、何故か分かる。

 水を含んだスーツが、重い。

 

 

(熱い、な)

 

 

 いつの間にか、まばらに車が停まる、駐車スペースの端まで来ていた。

 身体はだいぶ冷えてしまったけれど、左頬が熱を帯びている。

 痛みなんて全く無いのに、間桐提督に殴られた部分だけが、焼けるような熱さを孕んで。

 

 

「くそっ」

 

 

 なんとなく、右手で左頬や傷痕を確かめ、手近な車に名状しがたい気持ちを殴りつける。

 吹き飛んだ。

 

 

「え」

 

 

 まるで、映画のワンシーンだった。

 鉄とコンクリートが擦れる、不快な音。

 自分の殴りつけた車は、幾度もバウンドしながら十m以上転がっていく。

 踏み切りで立ち往生した軽自動車が、貨物列車に跳ね飛ばされてしまったように。

 

 

「ちが――こん、な、つもり――」

 

 

 目の前の光景が信じられなくて、思わず左眼を開いてしまう。

 刹那、人間なら感知し得ない情報が、脳へ注ぎ込まれた。

 拳の形が残る車体。漏れ出すガソリン。

 遠く、街路樹の葉に弾ける雫。その王冠。

 遥か上空。雲の中で蠕動する雷光。

 そして、数千万に刻まれた時間の流れは、雨粒に映る己の姿をも捉えさせる。

 ぼんやりと、右腕から紅い燐光を立ち昇らせ、黒髪を白に染め直す、“怪物”の姿を。

 左眼も紅く、爬虫類か何かのように、瞳孔が縦に細くなっていた。

 

 違う。

 こんな事、望んでいない。

 見たくない!

 

 

「今のはなんだっ」

 

「誰か居るぞ!」

 

「……っ!?」

 

 

 左眼を閉じた瞬間、世界はまた動き始める。

 同時に届く厳しい声。警備員と思しき男性二人組が、十数m後方でこちらを指差して。

 考える間もなく、自分は疾走していた。

 

 

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ……っ」

 

 

 右手をジャケットの内側へ隠し、二・五mはあろう高さの塀に向かい、たった一度の跳躍でそれを越える。

 背後からは、「なっ?」「跳んだ!?」という驚愕の声が。その間にも、自分は車が全く通っていない道路を、未知の体感速度で走り抜けていた。

 

 分かっていた。どうしてだか、こんな人間離れした行動が“出来る”と、知っていた。

 堪らなく、恐ろしい。

 壊したかった訳じゃないのに、滅茶苦茶にしてしまった。

 単なる八つ当たりが、あんな破壊を。

 

 この“力”は、なんなんだ。

 “俺”は一体、なんなんだ……!

 

 

(……っ! 追われてる!?)

 

 

 ふとした瞬間に、また左眼を介して情報が流れ込む。

 周囲の景色は、いつの間にか住宅街へ差し掛かっていた。

 車二台が擦れ違うのもやっとの、狭い路地。何度か左右に曲がった背後から、猛スピードで迫る複数の軍用車に、消音器付きのSMGを装備した男たち。

 このままでは遠くないうちに追い付かれる。

 

 

(いや、追い付かれて構わないはずだ。逃げてなんになる)

 

 

 監視されていたのは、こんな時のためだろう。

 自分みたいな存在が、周囲に迷惑をかけないため。

 普通の人間が住む世界に、“怪物”が出て来ちゃいけなかったんだ。

 そう気付いた途端、脚は鉛のように重くなった。

 右手の発光も収まっている。身体がダルくて仕方ない。

 

 やがて、路地から幹線道路に面した歩道へと出た所で、完全に動きが止まる。

 交通量は少ないが、代わりに傘を差した通行人の姿が多数。こちらを見るや、指名手配犯から逃げるように避けて行く。

 当然か。顔、見られた。怒られる。

 その前に逮捕か? ゴム弾か、実弾か。撃たれたく、ないな。

 

 

「……ん?」

 

 

 ふと、遠くから耳をつんざくブレーキ音が聞こえてきた。

 追っ手が居るはずの背後ではなく、目の前を左右に走る道路の……左から。

 あれ。見た感じこの道路、センターラインの向こう側が左車線で、自分が居る手前側は右車線……暴走車が逆走してる?

 ……っていうか、近づいて来てるっ?

 

 

「のぉあったぁ!?」

 

 

 反射的に飛び退くと、シルバーの軽自動車が勢いよく滑り込んで来た。

 ドリフトしながら急停止し、ギリギリの所で停まる。本当にスレスレだ。

 間を置かず、左を向いた車の、助手席側のドアが開く。

 

 

ボンジョルノ(Buon giorno)! 水も滴る良い男さん。唐突だけど、一緒にお茶でもどう?」

 

 

 こちらへ呼び掛けたのは、色味の燻んだ金髪を一本の三つ編みにする、中年の女性だ。

 外国人に見えたが、日本語の発音に違和感は無い。

 何故だろう。どこかで会った事があるような。……いや、やっぱり知らない人だ。知らないはずだ。

 少なくとも、今の自分の記憶には……。

 

 

「あ……え……だ、誰……?」

 

「そんなにビックリしないでちょうだい。通りすがりのイタリア人よ?

 ほんのちょっとだけ、日本人の血が入ってるの。フランチェスカ・ペトルッツィ。よろしくね」

 

 

 腰を抜かしつつ、なんとか言葉をひり出すと、その女性は楽しげな笑顔でウィンクを。

 よく見ずとも分かる、美人だ。この時期らしい、ゆったりとしたカーディガンとロングスカート。

 おそらく、四十代から五十代。六十以上という事はないだろう。

 

 

「さ、早く乗って。足留めは保って二~三分。それを越えると撒けなくなっちゃうわ。貴方が知らない色んな事、教えてあげる。昔の吉田 剛志の姿とか、ね?」

 

「……! ……何者だ」

 

 

 考え込む自分を、女性は急かす。

 なぜ中将――いや、元帥の名前がここで出る? ……知っているんだ。近辺の施設に、遺体が安置されているのを。

 そして、彼女の目の前にいる白髪の男が、桐林と呼ばれている事も。

 ただの一般人ではあり得ない。しかし、軍属という雰囲気ではない。

 となれば、裏社会の住人……? 自分の遺伝子や体組織は、海外で大金になるはず。それを見込んで送り込まれたと考えた方が自然か。

 切り抜けるにはどうすれば良い。今の身体能力ならなんでも出来そうだが、銃を持ち出されたら不安だ。

 警戒心も露わに立ち上がり、一歩右脚を引いて、自分は身構える。

 けれどその人は、余裕たっぷりな笑みを崩さずに、言葉にだけ重みを含ませる。

 

 

「自己紹介ならさっきしたでしょう? ……けど、かつてワタシは、この国でこうも呼ばれていたわ。護国の小指(しょうし)……。“狼”の葉桐、と」

 

「……はっ!?」

 

 

 あまりの驚きに、また左眼を開いてしまった。

 “狼”の葉桐。最初期から活動していた能力者で、すでに死亡しているはずの女性。

 それが今、目の前に? 信じられる訳が!

 

 

(なんで、そんな人が? どうして、もう、訳が分からない……)

 

 

 混乱している。

 死んで欲しくなかった人が死んで、死んでいたはずの人が生きていてた。

 嘘か誠か、判断する余裕もないのに、車に乗れと。

 桐谷提督の庇護下で、ようやく生き延びていた“怪物”が、温情で用意されただろう場所から逃げ出した上、見ず知らずの外国人女性の車に乗り込むだなんて。

 自分だけが罰せられるなら自業自得だが、下手をすれば、主任さんや横須賀のみんなにも類が及ぶ。

 どうしたら良い? どうしたら、丸く収まる? 考えなきゃ。考えるんだ。考えろ……!

 

 

「好奇心は猫をも殺す。でも、貴方は只の猫なのかしら。どんな罠であろうと、今の貴方なら食い破れるはずよ。……あと一分」

 

 

 茶色の、明るい瞳に射抜かれていた。

 初対面の人であるはずが、本当にどうしてだか、心を落ち着かせてしまう自分が居る。

 猶予は無い。

 選択肢は二つ。

 行くか戻るか。信じるか、信じないか。

 

 だったら、自分は。

 

 

「……どうなっても知りませんよっ」

 

「あら、せっかく若い子とデートできるんだもの。どうにかなっちゃいたい位なのに」

 

 

 ヤケクソ気味に助手席へ身を投じれば、小気味良い軽口とタオルが投げ返される。

 どう返事したものか、思いつかずに無言で通す。

 

 

「つれないのねぇ。おばさんには興味ない? ま、いいわ。まず追っ手を撒いちゃいましょうか。さぁお客様、シートベルト締めて下さる?」

 

「えっ、ちょ、ちょっと待――ぬぉおぁあっ!?」

 

 

 そんな自分を見て、彼女は更に笑みを深く、アクセルペダルを一杯に踏み込む。

 慌ててシートベルトを着けようとしたが、間に合わず助手席へと押し付けられた。

 薄く開いた左眼の取得する情報からは、ようやく路地を脱した軍用車たちが、瞬く間に引き離されていくのを把握できる。

 

 何が起きているのかも理解できぬまま、自分はまた流される。

 時間に。時代に。そして今は、スポーツカー並みのスピードに。

 

 一体これから、何が起きるんだ。

 

 


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