そこは、とても静かな場所だった。
朝日が昇る前の海。
所々に岩礁があり、そこへ打ち付ける波だけが、世界に満ちる音の要素だった。
しかし、岩礁から少し離れた場所で、ごく僅かな変化が生じる。
波間に気泡が浮かんで来ていた。
海が飲み込んだ空気ではなく、何か、生き物が吐き出した泡のような。
影。浮かんで来る。
「――ぶぁっ! はぁ、はぁ……!」
突如として、水面下から少女が現れた。
その少女は、酷く緩慢な動きで岩礁へと泳ぎ、平たい場所を選んで身を投げ出す。
黒いフード付きコート。白い髪。異形の脚。
“それ”は、吉田 剛志が討ち滅ぼしたはずの、かつて小林 倫太郎と名乗っていた存在だった。
「……っくくくく、ひぁっははははは! 生き延びた、生き残ってやったぞクソ共がぁ!!」
暁の空を見つめ、しばらく。“それ”は腹の底から大笑いした。
統制人格は普通、能力者だけでなく、本体である艦船とも運命を共にする。あくまで艦船の端末であり、艦船が沈めば用を無くすからだ。
ところが、“それ”は違う。
“それ”にとっては艦船こそが端末であり、出し入れ自在な固定化霊子の塊。死を共有する存在ではないのである。
「なぁにが“この罪は譲らぬ”、だ。格好付けやがってゴミ蟲めっ、勝手に一人でおっ死ねバァーカ! ヒヒッ、ヒャハハハハハ」
だからこそ、生き延びられたのだ。
戦艦型端末とのリンクを断ち、海へ身を投じて、異常潮流で日本海を脱し数時間。
愚にもつかない反吐を撒き散らす老人を騙し通し、見事、生を勝ち取ったのだ。
試合に負けて勝負に勝つ。
先人もたまには良いことを言う。
(先ずは、身体を癒さなきゃ。端末の再構築はそれからだ。設計図は僕の頭の中にある、何度だって……)
ひとしきり笑った後、“それ”は屈辱を噛み締めながら、次の行動予定を立てる。
まず、傷だらけになった身体の治療。
これは簡単だ。深海棲艦の細胞は再生能力が高く、四肢を切断したとしても、安静にしていれば数ヶ月で生えてくる。首のすげ替えはどうだか知らないが。
出血も止まっているし、適当に魚を捕まえて腹ごしらえする位か。
端末を取り戻すには、時間が掛かるかも知れない。
傀儡艦か深海棲艦。どちらかへ密かに忍び込み、統制人格を喰い、乗っ取って……。ひとまずそこからだ。
(あぁ、楽しみだなぁ。楽しみだなぁ。その時のために、もっと、もっと、もっと強くならなくちゃ)
意外な事に、“それ”の胸中は喜びで満ちていた。
ここまでコケにされ、痛めつけられ、なお心が躍る。
また、復讐できるから。
霊子操作の新たな域も見た。たかが人間に到達できたのだから、自分に出来ないはずがない。
端末を再構築し、より強化し、新たな能力行使も身につける。そうしてまた、奴らの前に現れるのだ。
どんな顔をするだろう。どんなに焦るだろう。どんな風に虚勢を張るだろう。
目的と手段のはき違えが、どうでも良くなるほど。
想像しただけで胎の奥が疼くほど、楽しみで仕方なかった。
「ヤハリ、カ。生キ汚サダケハ、一級品、ダナ」
冷やかな声。
“それ”は一瞬で身を起こし、先端の欠けた尻尾を高く掲げて戦闘態勢に。
周囲を見回すと、右に人影があった。
黒い女。
いや、黒いセーラー服のようなものを着た、白い肌と白い髪を持つ女だ。
膝までを覆う装甲靴が、しっかりと海面を踏みしめている。
よくよく見れば、その左眼には何も収まっていない。あるべき眼球が抜け落ちていた。
「誰だ、お前は。その姿……。深海棲艦の……?」
警戒しつつ、“それ”もまた蹄で海面を歩く。
片眼を失くして平然と海に立つ。どう考えても人間ではないだろう。
となれば、この女は深海棲艦。しかも人語を解するだけの自律行動が可能な。
キスカ・タイプ――双胴棲姫と同等の存在か。
(どうする。喰らう……いや逃げるか?)
負けたばかりである事も手伝い、“それ”は用心深くなっていた。
十mほどの距離に佇む、あのトンデモ双胴戦艦と同類の統制人格。躯体の能力は如何ほどだろう。
あの戦いを盗み見ていたからこそ分かる。喰い尽くして乗っ取るにしても、一撃喰らわせて逃げるにしても、一筋縄ではいかないはず。
前傾姿勢に尻尾を頭上で揺らめかせ、警戒心を顕にしていると、女は右目を閉じ、静かに首を横へ振った。
「残念ダガ、オ前ノ相手ハ、私デハナイ」
そして、緩やかに左腕を持ち上げたかと思えば、彼女の背後からもう一人。小さな影が進み出た。
まるで御披露目のように。
紹介でもされるように示された、“それ”は。
「やぁ、どうもどうも。初めましてですね。……“先輩”」
黒いフード付きコートと、マフラーを翻し。
中途半端に止められたファスナーから、青白い肌と、ビキニのような布当てを覗かせ。
先端に開口部がある尻尾と、有蹄類のような、逆関節の脚を持っていた。
「なん、の、冗談だ、これ……」
「おや。意外と察しが悪いんですね。それとも、理解できない振りですか?」
鏡でも現れたかと思ったが、“それ”は気安く、嘲りを込めて微笑んでいる。
瓜二つだった。
かつて小林 倫太郎と名乗っていた“それ”と、黒い女の背後から現れた“それ”は、顔立ちこそ違えど、双子の如く似通っていた。
あり得ない。
「認めたくないのでしたら、僕がハッキリと言って差し上げましょう。
他人の人生を散々に振り回し、好き勝手に実験材料としてきた貴方ですが……。
その実、貴方こそが実験台だった、という事ですよ。この躯体を作り上げるためのね」
楽しそうにステップを踏み、両腕を広げて、もう一人の“それ”は得意気な顔で語った。
あり得ない。あり得ない。あり得ない。
「嘘だっ、そんな馬鹿げた話があるか!
僕は自分の意思で、自分の考えで、生き延びるために戦ってきたんだっ。
その結果が人工能力者、人工統制人格、この身体、あの戦艦だ! 僕の、僕の成果だぞ!?」
「いいえ、違います。貴方が統制人格と融合した後、貴方は“こちら側”と常に繋がっていました。
人工血液も、“彼”へのアプローチ方法も、人工統制人格も。無意識に情報を引き出していた結果。
つまり、貴方は知らず知らずカンニングを行い、それを自分の成果だと思い込んでいただけなんです」
憤り、大きく踏み出す“それ”に対し、黒い女の周りをクルクルと踊り続ける“それ”が、またしても信じ難い言葉を並べ立てる。
“こちら側”と繋がって? 深海棲艦と?
情報を、盗み見ていた。元々あった技術。カンニング。
混乱していた。
苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて歩んで来た道程が、実は誰かの手の平で踊っていただけなどと、信じられるはずもない。
なのに、心のどこかで納得している。真実だと、“理解”している。何故。
「まぁ、あの戦艦級だけは、貴方の貢献がなければ産まれませんでしたけどね。
深海棲艦の中で捕食本能を持つのは、純粋種である“姫”のみ。しかし彼女たちは“絶対数が決められている”。
人類の急成長を踏まえ、来たるべき時を前に、僕たちは戦力を増強する必要があると判断した。
そこで始動したのが、“鬼”や“姫”、“水鬼”のような単一種を、雑級種の中で作り上げる計画です。いわゆる、
訳が分からなかった。何を言っているのか、理解できるのに分からない。知らないのに分かる。
唯一、純粋な知識として“それ”の中にあるのは、蠱毒という単語だ。
古代中国で広く用いられ、行ったと判明すれば死罪を免れない、禁術の類である。
蛇、蛙、蠍など、毒を持つ生物を百集め、一箇所に留め置いて放置し、共食いを起こす。
そして、生き残った一匹の毒を使い、呪術を行うのだ。日本では、
(僕が、
呆然と立ち尽くす“それ”だったが、もう一人の“それ”も、不意にステップを止める。
どうしてだか、周囲は静まり返っていた。
岩礁に打ち付ける波も、風の音も、何も聞こえない。
ただ、耳慣れぬ女の声だけが響いている。
「けれど、それにも問題がありました。
先ほど言った通り、捕食本能を持つのは、最初から受肉して産まれる“姫”だけ。
共喰いを起こすには、餓えという概念を理解し、腹を満たそうとする渇望がなくては。だから……」
「……僕、が?」
「御名答です」
鏡合わせのように向かい合った“それら”は、一方が楽しげに柏手を打ち、もう一方が真逆の表情を浮かべていた。
ステップが再開され、パシャリ、パシャリ――と、軽やかな水音が加わる。
「極限の飢餓を味わえば、捕食本能は十分に強化された筈ですが、加えてあの時、貴方には潜在的な意思傾向が植え付けられました。
貪欲に食し、欲望を満たそうとする……。理性のタガを、ほんの少しだけ外したようなもの、と認識して下さい。
貴方は本能的に、自らの弱点を補う捕食を行い、理想的な躯体と端末を作り上げる予定でした。
……いやはや、全くもって予想外の結果に終わってしまいましたが。
あまりにも性能が高くなり過ぎて、ただの統制人格には御せなくなってしまい、“鬼”になるはずの僕と霧島へ当てがわれるとは」
まぁ、顔はいじらせて貰いましたけどね――と、もう一人の“それ”は、自身の顔を指して微笑む。
確かに、姿形を見れば瓜二つだが、顔だけを比べると別人だ。
しかめっ面をしている“それ”は、ボーイッシュな少女。天真爛漫な笑顔が似合うかも知れない。
余裕たっぷりに微笑むもう一人の“それ”は、正しい意味で中性的な女性。まるで、一組の男女をモンタージュしたような、どちらとも取れる造形美である。
こいつは一体なんだ。口振りからして、元人間の能力者。霧島……高速戦艦? まさか……。
いや、施設は破壊したが、それだけで何もしていない。こんな所に居るはずがない。
それよりも、あれが――愛宕と再会し、餓死寸前まで追い込まれた事が、誰かの意思によって引き起こされたという事実に、腹が立つ。
愛宕だったから許せたのだ。最後は身を犠牲にして助けてくれたと思っていたから、憎まずに済んだと言うのに。
「……それで、今更なんの用があるって言うんだ。ご褒美でもくれるって言うなら、受け取ってやっても良いけど?」
「残念。クリスマスはとうに過ぎました。それに、貴方は悪い子です。……やり過ぎたんですよ。
御せない駒ほど邪魔な物はありません。十年前も、それで失敗してしまったらしいですからね」
ぶっきらぼうに、憎しみを込めて睨み上げる“それ”の視線を、もう一人の“それ”は肩を竦めて受け流す。
今度はこちらが笑う番だった。
「やり過ぎた? ……もしかして実験とか、舞鶴でのこと? ハッ!
何を言うのさ、今さっき自分で言ったじゃないか。理性のタガを外したって。
つまりはお前らがそうさせたんだ。お前らがそう望んだんだ! 僕は悪くなんかない!」
最初から悪人だった訳ではない。望んでこんな身体になった訳ではない。
人生は常に誰かから弄ばれ、運命の荒波に対抗することが、生きるということだった。
技研の研究者共を喰い殺したのも、多くの人間を傀儡としたのも、クローン人間をゴミのように使い潰したのも。兵藤や吉田、桐林に関する事だって、必要だと思ったから行った。
しかし“それ”の理性は、奴らによって意思傾向を植え付けられ、阻害されていたと言う。ならば全ての責任は自分にない。全て奴らの所為なのだ。
鬼の首を取ったように、“それ”は指を突きつける。
だが、もう一人の“それ”は呆れているのか、小さく溜め息をつき否定を返した。
「いいえ。いいえ。違いますね。
僕らが――といっても僕のいない頃の話ですが、今までも。ともあれ、そうではないんです。
貴方に施されたのは、ほんの少しの後押しなんですよ。例えるなら……。
落ちていた小銭を見つけても、誰かに見られたり、誤解されるかも知れないから、気付かなかった事にするという人が居ます。
そんな人を、周囲に誰も居ないなら、小銭を確実に拾わせる……と、思い切りを良くさせる程度なんです。
みっともない命乞いはさせても、根本の倫理観に影響するような事は。人格を書き換えるような事はしていない――出来ないんですよ」
何処からともなく、五百円玉を取り出したもう一人の“それ”は、手品師の如く硬貨を弄ぶ。
右手の小指から親指へ、指の背を渡り、次は左手の親指から小指へ。
一度握られた両手が開かれ、硬貨が姿を消したかと思えば、尻尾の口から手に吐き出される。
見せつけるように示された硬貨は、細い指によって潰されてしまった。
「貴方の残虐性は、餓えの本能だけでは説明できない。
例えそれが、人間たちの悪意によって醸成されたのだとしても。
ごく普通の倫理観が、欠片でも胸の奥に残されていたならば、踏み留まれたはずです。
あの方々だって言っていたでしょう。……捨てたのは貴方だ。
歳や環境を言い訳になど使わないで下さいね。稀代の神童さん?」
挑発的に言葉を締め、もう一人の“それ”が硬貨を弾いてよこす。
ひしゃげた五百円玉。懐かしい呼び名。二つの意味する所は……。
思い浮かんだ言葉ごと、“それ”は五百円玉を口に含み、嚥下した。少しは腹の足しになる。
「……結局、何が言いたいんだ。お前ら、何をしに来た」
もはや疑うべくもない。こいつらは敵だ。言葉を弄したのも、単なる気まぐれであろう。
獲物を前に舌舐めずりする狩人……。探偵にトリックを解説する犯人?
言い方なんてどうでも良いが、とにかく対極に位置する存在。同じ躯体を持つ二人は、これから雌雄を決するのだ。
その証拠に、頭の中で戦術を組み立てる“それ”へと、もう一人の“それ”が、再び何かを投擲した。
「ある方の出迎えと……性能試験です。試作品と完成品を戦わせての、ね」
緩やかな軌道を描くのは、緑色に蛍光するピンポン球ほどの宝石。
同時に、「食べてみたい」という原始的な欲求もこみ上げる。
「これは……?」
「それもお食べ下さい。
尋ねると、もう一人の“それ”は余裕綽々に微笑み、距離を取った。
黒い女も場を離れ、巻き込まれない位置で観戦するつもりのようだ。
完全に、侮られている。不快だ。
「後悔するなよ……。だいたい、この世は試作品の方が強いって相場が決まってるんだ!」
「それは量産機に対してでしょう。雑級種の範疇を超えた、僕たちに当てはまるとでも?
被造物である限り、弟に勝てる兄……。おっと、もう違いましたね。妹に勝てる姉は、居ないんですよ」
鋼材を尻尾で捕食すれば、言われた通り、全身に活力が漲った。
疲れも痛みも吹っ飛び、胎の奥で怒りの火が灯る。
一足飛びに“それ”も後退し、彼我の距離は数十m。端末再構築地点は更に後方三kmほど。
両脚を肩幅に開き、前傾して左手を海面に。右手は顔の横へ構え、尻尾が頭上高くで咆哮。
奇しくも二人は、全く同時に、同じ戦闘態勢を取る。
そして。
「人馬一体となった絶技、その身でとくと味わうがいい」
「ほざけ模造品。その不遜、骨も残さず噛み砕いてやる」
東に太陽が顔を覗かせる頃。
赤黒い霊子力場の柱が二本、天へと昇って行った。
海が、震える。
(……あれ? 僕は……。沈んでる? あれ……?)
全身を、冷たさが包んでいた。
見上げている。
その向こう側で何か、影が動く。
二本足。人影だろうか。
「冥途の土産に教えて差し上げます。
この躯体……。人間の作った枠組みだと、未だ相当する物のない戦艦級。さしずめ、戦艦レ級、とでも呼称しましょうか。
僕はレ級と名を改めて、いずれ歴史の表舞台へ立ちます。
良かったですね。貴方の存在は消えても、貴方の作り上げた物だけは、歴史にちゃんと残りますよ。
では、御機嫌よう。試作品さん」
ついさっきまで、戦っていたはずの相手――レ級の声が、脳に直接響いていた。
見下ろされているらしい。
(負けた、のか。僕は、アイツに、負け……)
頭がボウっとしている。
覚えているのは、禍々しい赤黒さから移り変わる、金色の光。
今見上げている
「さて。あの方はどうなりますかね?」
「……後悔ヲ遺シテ逝ッタ人間ハ、遥カ昔カラ“鬼”ト成ル。彼モ、オソラク、ハ」
「ですか……。“鬼”と呼ばれた人が、死して本物の“鬼”となる。皮肉ですね」
影が離れていく。
いや、こちらが離れて行っている。
青い血で視界は煙った。
(身体が動かない……。痛い……。寒い……)
思い出したように痛みが襲い掛かり、傷口を潮が撫でる。
熱が、奪われていく。
「動いたらお腹が空いてしま――した。何か――る物を持ってま――?」
「……ナイ。マテ――ル モ、サッキ――最後、ダ」
「味が無――、す――く不味かっ――すよ、あれ……。――――――」
やがて、光と共に声も遠ざかる。
陽光の下へ踏み出すレ級たちと違い、“それ”はどんどん、暗がりに落ちていった。
(光が、遠く……。暗い……。暗いのは、やだよ……)
暗闇は、周りとの繋がりを切ってしまう。
独りは嫌。
例え憎しみや嫌悪の果てでも、誰かと繋がっていたかった。
独りは嫌だ。
誰も見てくれないのなら、死んでいるのと変わらない。
独りは、嫌だ。
『あれ、こんな時間に何やってんのさ』
『うん? おお、■■■か。夜更かしはいかんぞ』
突然、ドアが開いた。
くぐった先は、執務室。
机に着く初老の男。
ノイズが掻き消す名前は、誰の。
『……これ、来週の任務予定表じゃんか! なに考えてんだよ!?』
『ど、どうしていきなり怒る。ワタシに与えられた任務だ、あって当然だろう』
机へ近づき、書類を奪う。
初老の男は困惑している。
この声、は。この、会話は。
『……オレが行く。その任務、オレが代わりに行くから』
『おい、どうした? そんな事を言うなんて、お前らしく――』
『この任務に行ったら! ……息子さんの命日、過ぎちゃうじゃんかよ……』
忘れるはずもない。
忘れられるはずがないのに。
今の今まで、思い出せなかった。
ああ。あぁあ。ぁああぁぁあああぁぁぁ。
『……良いのか?
『良いも何も、オレが行くって言ってんだから良いんだよ! い、いいからヘボい年寄りは引っ込んでろ! さっさと引退しちまえ!』
驚く初老の男に、暴言を吐く。
その先に、何が待っているのかも知らず。
自分がどうなるのか、想像もせず。
(違う、どうして、違う、なんで、僕は、こんな、違う)
まだ、辛うじて輪郭を確かめられる、薄闇の中。
“それ”は凍えるように、やっとの思いで自分を抱きしめる。
『……ありがとう、■■■。お前は、優しいな』
『ちょ、にゃ、うっ、やめ、撫ーでーるーなーっ!』
『ははははは』
無造作で、乱雑だけれど。
とても優しく、頭を撫でられていた。
懐かしい記憶の中では、確かに。
あの温かさを、嬉しく感じていた。
(違う、あれは僕じゃない、違う、僕じゃない、違う、僕は、違う、違う、違う)
体温を失いながら、何者にもなれなかった“それ”は、ただ、沈んでいく。
己の姿すら見ることの出来ない、深淵へと。
そこに待っているのは孤独。
時の流れをも凍らせる、永劫の孤独。
輪廻の輪を外れた魂に、差し伸べられる手は無い。
死の救いは、訪れない。
第三章、開眼編、完結。
第四章、別離編へ続く――。