新人提督と電の日々   作:七音

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スノードロップ・後編

 

 

 

「しっかり! しっかりして下さいよ!」

 

「――はっ」

 

 

 大きく身体を揺さぶられ、書記は唐突に意識を取り戻した。

 どうやら、床に横たわっているようだ。

 眼鏡ケースにリップクリーム。ハンカチや裁縫道具、黒光りする小石など、小物を入れていたポーチの中身が散乱している。倒れた時にひっくり返したのだろう。

 周囲を伺う書記を見て、呼びかけていた女――疋田は、目尻に浮かぶ涙を拭った。

 

 

「あぁ、良かった。またダメかと……」

 

「ゴホッ、ゴホ……。一体、何が……?」

 

「私にも何がなんだか。ただ……」

 

 

 身を起こしながら問い掛ける書記だが、手を貸す疋田の顔にも、困惑の二文字が浮かんで見える。

 よくよく見れば、提督を見守っていたはずの統制人格たちまで、床へ倒れ伏したり、壁に寄りかかって荒く呼吸していた。総じて顔色が悪く、意識があるのかも定かではない。

 そして、疋田が目線を向けた先には、遊戯室に備え付けの大型スクリーン。

 雪の降りしきる海と、一方的な戦いを繰り広げる、桐林艦隊を写していた。スピーカーからは幾重にも爆発音が。

 いや、スクリーンだけでなく、同調率調整の為のディスプレイにも、ダーツの電子スコアボードにも、エアコンの制御パネルにも。あらゆる映像素子を持つ物品に、戦いの様子が映し出されている。

 

 

「あれ、は……。提督、が?」

 

「……多分」

 

 

 どんな魔法を使ったのか、圧倒的な存在感を放っていた敵 戦艦は、見るも無惨な有り様だ。

 あらゆる方向から砲撃を与えられ、力場障壁の中に、手足を縮めた亀の如く籠っている。

 異様な威力、異様な命中率、異様な弾速、異様な弾道。

 書記の身体に震えが走った。

 物理的な圧力を感じるほどの怒りと憎しみが、すぐ近くから発せられている。

 見慣れたはずの、ブースターベッドに横たわった後ろ姿から。

 

 怖い。

 

 

「電ちゃん、雷ちゃん? 聞こえる?」

 

「うう……」

 

「疋田、さ……」

 

 

 身動きの取れない書記の代わりに、疋田は他の皆へと呼びかけを始める。

 幸い、雷・電姉妹はすぐ意識を取り戻したが、動けるような状態ではなかった。

 

 

「頭が、痛い、のです……」

 

「内側、から、身体が、裂けちゃいそ、う……っ」

 

 

 左眼を閉じ、額に脂汗を浮かべ、二人は悶え苦しむ。

 原因は何か。

 書記が覚えているのは、意志を失う直前、桐林の呟いた言葉。

 身も凍る殺意を宿す、呪いの言葉だ。

 それから、急にディスプレイがスパークして、横から衝撃が………。

 

 

『化け物め……。化け物め、化け物め、化け物めぇええぇぇぇ』

 

 

 ――と、記憶を振り返っている所に、凄絶な啼声が轟く。

 一番表示面積の広い大型スクリーンは、敵 戦艦を切り取っていた。

 赤黒い障壁の向こう側でうずくまる、小さな人影が見える。

 普通の深海棲艦ならば、こんな事にはならない。こんな事になる前に、命を投げ捨てて吶喊しているはず。

 おそらく、元が人間故なのだろう。人間だったからこそ、死の気配に手足を絡め取られ、動けなくなっている。

 恐怖に竦み、痛みで怯え、砲火が心を挫いているのだ。

 そして、容赦無い攻撃を指示している張本人――桐林は。

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 

 白く煙る息を吐きながら、大きく肩を上下させていた。

 いや、身体全体から湯気のようなものが立ち昇っている?

 何かの拍子に窓でも開いて、室温が下がってしまったのだろうか。

 それにしても……。

 

 

(……確かめなきゃ。私の役目を果たさないと)

 

 

 嫌な予感が書記を立ち上がらせ、本来座るべき位置へ、覚束ない足を運ばせる。

 荒い息には、ヒュー、ヒュー、という、聴く者を不安にさせる音が混じっていた。

 鼻血も流しているようで、口周りと胸元が赤く染まっている。

 予感は、的中していた。

 

 

「そんな、体温がっ。このままでは提督の身体が持ちませんっ」

 

 

 戦闘海域の光景を写しながら、時折、ノイズと共に元の情報を表示するディスプレイ。

 その中で、能力者のバイタルを表示する一枚が、異常な値を示していたのだ。

 脈拍、血圧、脳波。全ての数値が尋常な状態ではないと語る。

 極め付けは体温。見間違いでなければ、もう四十二度を越えて、四十三度に達しようと。

 人体を構成するタンパク質は、四十二度から壊れ始める。特に脳細胞は繊細で、もっと低い温度から損傷を受けてしまう。

 このまま戦い続けるなら、彼は確実に――死ぬ。

 

 

「し、司令官さん、ダメ、なのですっ」

 

 

 書記の声が、電に悲痛な叫びを上げさせた。

 疋田が手を貸して、尚よろめきつつも、必死に桐林へ縋り付く。

 

 

「こん、なのっ、司令官さんらしく、ないのです!」

 

「そうよ、っ、司令官、こんなのダメよっ、もう止めて!」

 

 

 妹の姿に触発されたか、雷までもが立ち上がり、懇願する。

 戦いの最中だ。言うべきではないと二人も理解していたが、それを圧して引き止めようとしていた。

 何かに取り憑かれたように。

 自らの死も厭わず、怒りに任せて暴虐の限りを尽くすだなどと、桐林らしくない。

 いつもの、優し過ぎるほどの彼は何処に行ったのか。

 自分が死ねば、電も、雷も。皆の命まで喪われるという事を、忘れてしまったのか。

 どんな力が働いたにせよ、もう戦局は決定付けられた。余程の事がない限り、覆らないだろう。

 だからもう、戦うのを。

 ……悲しみから逃げるのを、止めて欲しかった。

 

 

「――を」

 

「……え?」

 

 

 微かに、声が聞こえた。

 右腕へと縋り付く二人に、桐林の顔が向けられる。

 ああ、届いていた。聞こえていた。これで、いつもの彼が戻って来てくれる。

 

 そう、電たちが安堵し。

 邪魔をしないよう離れていた疋田が、胸を撫で下ろした瞬間。

 

 

「邪魔ヲ、するナ゛ぁあア゛ッ!」

 

「ぎゃんっ」

 

 

 強烈な衝撃波が、電たちの身体を吹き飛ばした。

 桐林は指一本動かしていない。

 単なる怒声が、明らかな攻撃性をもって、小さな身体をルーレット台へ叩きつける。

 木製の台は粉々に砕け、残骸の中で、電と雷が血に塗れる。

 

 

「し、れ……か……さ、ん……」

 

「ど……して……」

 

「電ちゃん!? 嘘、嘘でしょ? 桐林さんが、電ちゃんを……雷ちゃんまで……」

 

 

 慌てて駆け寄る疋田も、目を疑うしかなかった。

 あの桐林が。

 傍目にも大切に扱っている事が分かる少女を、彼自身の手で傷付けるだなんて。とても信じられなかった。

 何に繋ぎ止められているのか、消滅退避を起こしてもおかしくないはずの傷に、電も、雷も、姿を保ったまま気を失う。

 けれど、傷付けた本人は気にした様子もなく、鬱陶しそうにヘルメットを投げ捨てた。

 床を転がるそれから、鮮やかな赤の、粘度を持つ液体が零れ落ちる。

 

 

「貴様に、生キル意味など与えナい……」

 

 

 そこに、電の知る“司令官”は居なかった。

 そこには。

 

 

「貴様ノ生きる価値ナド、認メなイ」

 

 

 鼻と両耳。

 加えて、紅い光芒を引く左眼から、大量に血を垂れ流し。

 

 

「貴様はこコデ殺す。殺シてヤル。

 しね。死ね。シね。しネ。死ネ。

 ……死ンデシマエェエエェェエエエッ!!!!!!」

 

 

 色の抜けた白髪を振り乱す、一匹の修羅が居るだけだった。

 あれではまるで、深海棲艦の。

 双胴棲姫の統制人格と、同じ。

 

 

『――っと、ねぇ! 返事しなさい! どうなってるの!』

 

 

 凍りつく場を、張り詰めた声が良い意味で破壊する。

 呉から航空支援部隊を飛ばせているはずの、桐ヶ森の声だ。

 それは大型スクリーンに繋がるスピーカーと、書記が着けているインカムからも聞こえていた。

 正気を取り戻した書記は、ひとまず彼女に応答する。

 

 

「も、もしもし、桐ヶ森提督?」

 

『あぁ、良かった。桐林の所の。一体これはどういう事よ、どうして味方の艦が!?』

 

「それ、は……っ」

 

 

 予想だにしない展開を前に、書記は言葉を詰まらせていた。

 桐ヶ森の航空機にも、この光景は見えているらしい。

 紅い光を纏う傀儡艦たちが、一隻の戦艦を嬲る様子が。

 一体、どう説明すれば良いのだろう。

 兵藤の死に桐林が激怒し、気が付いた時には、霊子力場を発生させて敵を蹂躙。最愛の少女からの呼び掛けにも、鎮まる事を知らず。

 変貌した姿までは見えていないはずだけれど、そもそも伝えて良いものか。

 痺れを切らしたようで、支援部隊に加わっていた空母――蒼龍、飛龍が桐林へ呼び掛ける。

 

 

《ちょっとちょっとちょっとぉ!? 提督っ、どうしちゃったのこれぇ!?》

 

《返事して下さいってば! ねぇ! ええと……た、たもんまる嗾けますよぉ!》

 

 

 声音からは、酷く動揺している事が伝わってきた。

 桐林は答えない――かと思われたが、例のスクリーンに変化が起こる。

 おそらく、加古・古鷹の水偵の視界。戦域へ近づいてくる航空機の群れがあった。

 先頭を切る桐ヶ森のシュトゥーカ(Ju87C改)。その後ろに二航戦の天山、千歳・千代田の彗星が続き、総数は百二十を越えている。

 桐林が嗤った。

 

 

「……航空機……ハハ……寄越セ、ソノ機体……ッ……!」

 

《え? 提と――きゃあっ》

 

《お姉っ!? コラ提督っ、お姉に何を――うぁ!》

 

 

 千歳は急に悲鳴を上げ、声を荒らげる千代田までも。

 彼女たちの制御していた機体が、揺れる。けれど次の瞬間、紅の霊子を纏い、編隊から突出した。

 桐林に制御を奪われたのだ。

 

 

『……冗談でしょ……? ぐっ!? わ、私のシュトゥーカまで……!』

 

 

 呆然と桐ヶ森が呟く間に、蒼龍たちの天山も制御権を奪われ、そしてシュトゥーカも。

 航空支援部隊は、見る見るうちに紅く染まり、まるで夕日を受ける雲のよう。

 決定的に違うのは、それが憎悪によって動かされ、たった一人を抹殺するため、襲い掛かっていくこと。

 

 

『嫌……嫌嫌嫌ぁ! 燃える、燃えるのはもう嫌だよぉおおっ』

 

 

 甲高い悲鳴が木霊した。

 トラウマを抉られたか、“それ”は半狂乱になって力場障壁を強化。懸命に身を守ろうと。

 側面から爆弾を投げつける、命中精度の高い反跳爆撃。落下エネルギーが加算される急降下爆撃。そして、強烈な破壊力を持つ艦攻による雷撃。

 ただ一発の外れもない、いっそ哀れにも思う、見事なまでの集中攻撃だ。

 

 

「ダメ……。提督、もう、止めて……。

 こんなの、違うわ……。

 こんなの、私たちが好きな、提督じゃ、ない……!」

 

 

 いつからか、意識を取り戻していたらしい村雨が、床に這ったまま涙を流す。

 振り絞るようなそれは、しかし桐林まで届かない。

 誰にも止める事は叶わないのか。

 このまま、二つの命の灯火が、消えていくのを見ているしかないのか。

 けれど。

 絶望感が漂う中で、ただ一人だけ、動ける者がいた。

 掴みかかるように、桐林の肩へと手を置く疋田だ。

 

 

「いい加減、正気に戻って下さい! こんな事して……こんな戦い方して、凛さんが喜ぶとでも思ってるんですか!?」

 

 

 兵藤の最後を看取った彼女には、動かなければならない理由があった。

 顔には、怒りにも似た感情が伺える。

 狂乱の原因である名前の効果だろう。桐林の眼の焦点が、やっと疋田に合わされた。

 

 

「アの人は、もウ、死ンだ……。もう、喜んダり、シナい……。

 モう、喜ビも、悲シみモ、怒りモしナイ……。

 ……アイつの、所為デ……。あいつノ所為でぇえェェ……!」

 

 

 ほんの一瞬、冷静さを取り戻したかに見えた桐林だが、すぐさま憎悪の波に意識を掠われる。

 左眼は……血涙のせいもあるだろうが、強膜が異常に血走り、虹彩も紅く。猫のように細長くなった瞳孔の奥で、何か、光が瞬いて見えた。

 鬼だ。

 直視しただけで死を予感させる、復讐鬼の眼だ。

 思わず震え、逃げ出したくなるものの、彼にここまでさせる想いが。

 疋田の中にも確かに存在する想いが、歯を食いしばらせる。

 

 

「そうですよ……。凛さんは死んじゃいましたよっ。

 私の腕の中で、貴方のことを案じながらっ!

 でも、桐林さんの中に居る凛さんはどうなんですか!?」

 

 

 それは、怒りでも、悲しみでもない。

 共に過ごした時間の中で育んだ、想い出である。

 

 

「あの人の声も、あの人との想い出も、まだ生きてるでしょう?

 貴方の中に居る凛さんは、今の貴方を見てなんて言いますか。どんな顔をしますかっ。

 しっかりしなさい、桐林提督!! 貴方は、兵藤 凛の教え子なんですよ!!」

 

 

 とても騒がしくて、厄介事ばかり起こす人だったけれど。

 記憶を振り返った時、顔に浮かぶのは笑顔だった。

 苦笑いだって混じっていたけれど、兵藤 凛という女性は、笑顔の似合う人だった。

 だからこそ、永遠に失われた事が悲しくて、苦しくて、切ない感情を撒き散らしたくなる。

 でも、こんなやり方では駄目なのだ。

 怒りの炎で自分を焼き尽くすなんて、認められる訳がない。

 他に選択肢がなかったのだとしても。他ならぬ疋田 栞奈が、「助けてあげて」と、彼女に託されたのだから。

 

 

「……先輩……?」

 

 

 桐林は、呆気に取られたような表情を浮かべていた。

 左眼に宿る光が、段々と弱まっていく。

 大型スクリーンが写す戦域でも、紅い霊子力場が同様に。

 航空機に至っては制御を失い、あわや墜落かと思われたが、直ぐに失速から立ち直る。桐ヶ森たちが様子を伺っていたらしい。

 ようやっと、桐林の暴走は沈静化しつつあった。

 

 ――が。

 

 

「……先、輩……。先輩、先輩、先輩、先輩……っ。

 “俺”のタメに、“自分”ノ所為で、アいつガ、“私”が殺シ……。

 ぁァアあ゛アぁァっぁぁぁァア゛ア゛ぁあぁッぁア゛アア!!!!!!」

 

「う、嘘、逆効果ぁ!? あっづ!?」

 

 

 鞭に打たれたような、鋭い痛みが疋田の手を弾き、身体を後ろへ押し退ける。

 桐林が顔をクシャクシャに歪め、右眼から透明な雫を零した途端、今度は桐林自身が霊子力場を纏ったのだ。

 ……違う。行き場を無くした霊子が、彼の身体を蝕んでいる。

 今まで敵に向けられていた害意が、自責の念で標的を変えたのだと、疋田は本能的に理解した。

 彼は慟哭し、頭を抱え、小さくなっていた。

 

 

「どうして、ドうして、どうシテぇえぇぇ……。なんデだよォオ……。ナんで、先輩ガ、こン、な……死……っ……ア゛ぁ……っ!」

 

 

 遊戯室に、悲痛な叫びがどれだけ響いても、動ける者はない。

 万策尽きた。今度こそ終わりだ。

 誰もがそう思い始めた時、唐突に扉の開く音が。

 疋田と書記が部屋の入り口を振り向くと、そこには一人の男が立っている。

 黒い軍服を着た、精悍な顔立ちの男。

 

 梁島 彪吾。

 

 

「やはり、こうなったか」

 

「お、お兄――梁島提督!? 何故ここにっ?」

 

「えっ。梁島……お兄……え、兄妹……?」

 

 

 意外すぎる登場人物に、書記はただただ狼狽している。

 危うく兄と呼びかけ、どうにか言い換えはしたが、自らも兄を持つ疋田は、耳聡く二人の関係を察した。

 書記の少女と、梁島提督が兄妹。歳は離れているが、あり得なくはないだろう。兄妹揃って美形でもある……けれど、妙な違和感も……。

 

 

「やはり、という事は、予見されていたのですか? これを? どうやって、なぜ?」

 

 

 疋田が疑問に思う以上に、書記の頭の中でも疑問が錯綜していた。

 これまでは決して接触しようとしなかった桐林に、なぜこのタイミングで?

 この状況を予見していたのなら、なぜ防ごうとしなかったのか。むしろ、今まで何処に居たのか。何をしていたのか。

 問い質したい気持ちは、やがて疑念へと変わっていくが、しかし梁島は、書記の言葉を無視して歩み寄る。

 

 

「そんな事はどうでも良い。例の“アレ”は持って来ているな」

 

「は、はい。しかし、あんな物より――」

 

「手に取れ。早く!」

 

 

 珍しく強い語気に、書記は不承ながらも、散乱するポーチの中身を取りに向かった。

 目線の先にあるのは、少女がポーチへと入れるには不似合いな物。黒光りする小石である。

 桐林の専属調整士に任命された時、梁島に手ずから渡された物だが、なぜ持たされたのか、今もって理解できていない。

 もしやあの小石が、この状況を打破する鍵?

 一縷の望みをかけ、書記は小石へ右手を伸ばす。

 

 

「えっ」

 

 

 刹那。小石が“開いた”。

 口を開けるように黒が弾け、黒い触手が腕へ絡みつく。

 

 

「い、嫌っ、何!?」

 

 

 抵抗する間も無く、異常に体積を増やした小石は、書記の右腕を覆い尽くした。

 皮膚を貫通し、骨へと“何か”が食い込む感覚。痛みを感じないのが逆に恐ろしい。

 形態変化が一段落すると、右腕は硬質な輝きを宿していた。

 前腕を覆う黒い装甲。先端には白い歯が並び、その中に一本の砲身が。同化した右手が、銃把と引き金の感触に震える。

 それはまさしく、艤装だった。深海棲艦が使う、口を持つ艤装。

 

 

「書記、さん? それ、もしかして敵の……?」

 

「に、兄様っ、これはなんなんですかっ? 兄様!?」

 

 

 疋田が呆然と呟き、書記は恐怖に揺れる声で兄へ縋る。

 重みに耐え兼ね、長さの不均一となった右腕が、床を叩いてしまう。

 けれど、梁島は聞こえていないような素振りで、一つ頷いただけだった。

 

 

「展開を確認した。それで桐林を撃て」

 

「……え? 何、を。仰って……?」

 

 

 意味が、よく分からない。

 確かに聞こえていたが、脳が理解を拒んでいる。

 撃つ? これで、提督を。なぜ。殺せと?

 

 

「命令を繰り返す。桐林を撃て。それがお前の役割だ」

 

「だから、何を仰っているんですか!? そんな、貴方は敵側にっ?」

 

 

 冷たい言葉が染み入る内に、怒りのような感情が込み上げてきた。

 本来支えるべき人から離され、見知らぬ人物に仕える事を強いられて、挙句にその人を撃てだなんて、到底納得できない。

 常にこの国の事を考え、自分を殺してまで忠を尽くす“兄”の命令だからこそ、従ってきたのに。

 いっそ、敵に寝返っていたと思った方が、よほど合点がいく。舞鶴鎮守府のテロだって、精緻な内部情報が無ければ、電源設備だけを破壊するなど不可能なのだから。

 

 しかし――

 

 

「……ずっと、この時を待っていた。ああ、そうだ。これでようやく、前に進める。やっと“お前”の仇を討てる」

 

 

 梁島は、今までに見た事のない、悲しみに満ちた表情を垣間見せる。

 どうして。どうしてそんな顔で、私を見るんですか。

 “お前”の仇。“私”の仇? そんな筈ない、生きているのに。

 あんな顔、一度だって見た事が。最後の笑顔はいつ? いつから見れなくなって。思い出せない!

 少女の心は混乱を極め、普段の冷静さなど欠片もなかった。

 畳み掛けるよう、梁島が詰め寄る。

 

 

「もう一度だけ言うぞ。桐林を撃て! このままでは、桐竹の二の舞になるぞ!」

 

「い、嫌です。私には、嫌、なんで私が、こんな物を」

 

 

 首を振り、目尻に涙を浮かべて、少女は後退る。

 桐竹の二の舞。そうだ、それだけは止めないと。彼に“あんな事”はさせられない。

 でも、もう止まっている。もう矛先が違う。助けるべき人を、撃ちたくない。絶対に。

 

 

「駄目、駄目ですよ。この人は、殺させません」

 

 

 同じ想いを抱く疋田が、梁島を睨みながら立ち塞がった

 震える脚で桐林を背に庇い、盾として腕を広げる。

 

 

「や、約束、したんです。助けるって。助けてって、頼まれたんです。ぜ、絶対に、殺させませんから!」

 

 

 彼を守るのが、疋田に課せられた職務。

 守ってみせる。守れなくて、悔いの中で逝ってしまった、彼女の分まで。

 その瞳を見やり、梁島は溜め息をついた。

 

 

「……致し方ない、か」

 

 

 諦めたような息遣いの後、白い手袋に包まれた手が、少女の眼前に突きつけられる。

 掌には梵字が描かれ、梁島がブツブツと呪文のような言葉を。

 

 

「兄様? ……やっ、か、身体が、勝手にっ」

 

 

 すると、黒い艤装に包まれた右腕が、独りでに持ち上がった。

 それだけでなく、一歩、また一歩と脚が前へ。

 腕の先端から砲が伸びる。

 延長線上に、立ち向かう疋田と、増幅機器の上でうずくまる、桐林。

 

 

「……嫌、嫌です、止めてください! こんなの、駄目、止まってぇえぇぇ」

 

 

 どれだけ必死に踠いても、少女の手脚は頑として言うことを聞かない。

 チリチリと、指先に“何か”が集中するのが分かった。

 敵意。悪意。呪い。

 そのように表現される物が、凝り固まって砲弾と化していく。

 人差し指を“動かされる”。

 どんな構造か想像もつかないけれど、引き金らしき物を絞っている。

 一mm、二mm、三mm。

 

 ……そして。

 

 

 

 

 

「嫌ぁああぁぁあああっ!」

 

 

 

 

 

 絹を裂くような悲鳴は。

 無慈悲な砲音によって、掻き消された。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「ふ、ぐ……っ……?」

 

 

 攻撃が止んでいる事に気付いたのは、甲板へと這い蹲り、両手で庇うように頭を抱え込んでから、随分と時間が経ってからだった。

 攻撃に力場障壁が軋む音も、爆弾の落ちてくる風切り音も、まるで聞こえない。

 涙と鼻水に塗れた顔を上げると、赤黒いヒビ割れの向こうで、桐林艦隊が沈黙していた。

 乱射されていた砲は鳴りを潜め、駆逐艦二隻は動いているものの、行き足だけのようだ。

 目を凝らせば、それらの上で倒れこむ統制人格たちが見える。

 身に纏っていた霊子を霧散させ、死んだように身じろぎ一つしない。

 

 

「……はは、ァは、ヒハハハハハ! なぁんだ、やっぱりそうだ。僕は許されてるんだ。最後に勝つのは僕なんだ!」

 

 

 先程までの殊勝な態度と打って変わり、“それ”は高らかに勝利を宣言する。

 少しばかり見っともない姿を晒してしまったが、結局はこうなるのだ。

 どうせ、慣れない力に溺れて自滅したに違いない。

 逆らう者はその身を滅ぼし、最後に立っているのはただ一人。

 自分こそが全てを許され、選ばれた存在なのだ。でなければ、とっくにこの命は尽きているのだから。

 

 

「好き勝手、攻撃、してくれやがって……ぇ。何様のつもり、だぁ?」

 

 

 獰猛に歯を剥きながら、“それ”は戦艦の砲を動かす。酷くぎこちない動きだ。

 いくら力場障壁が強大な防御力を持っていても、一○○%衝撃波を殺せる訳ではない。

 何十、何百、何千の攻撃が、確かにダメージを蓄積させ、今や大破寸前にまで陥っていた。

 じわり、じわり。

 常ならば許されない程の時間をかけ、三基の主砲が駆逐艦と雷巡に照準。射線の通らない重巡に向けては、残りの半分――六十の爆撃機が飛び立つ。

 準備が、整った。

 

 

「六隻まとめて……海の底で朽ち果てろぉ!!」

 

 

 恨み辛みの全てを込め、“それ”が霊子を凝り固める。

 砲塔の中で。爆弾の中で。

 今か今かと炸裂を待っていた悪意は――

 

 

 

 

 

『相変わらず、癇癪を起こすと口が悪いな、おヌシは。だから格上との演習を避けるなと言ったんじゃ』

 

 

 

 

 

 ――懐かしい声に、霧散してしまった。

 砲弾は発射されず、爆撃機も重巡の上を素通り。

 完全に機を逸した。

 

 

「……その、声……」

 

 

 聞きなれた老人の声は、桐林の使う増幅機器を通して伝わっている。

 その姿は見えないが、代名詞とも言える二隻の航空戦艦――四航戦、伊勢・日向の姿を、自らの上に舞い戻る爆撃機が捉えていた。

 間違いない。間違えるはずがない。

 横須賀鎮守府司令長官、吉田 剛志の、声だ。

 

 

『久しぶりじゃのう。……倫太郎』

 

「……爺、ちゃん」

 

『桐林は無理やり眠らせた。ここからは選手交代じゃ』

 

 

 思わぬタイミングでの再会に、“それ”もまた懐かしい呼び名を口にしてしまう。

 数秒、沈黙が続いて。

 次に発せられたのは、しかし嘲りで穢れた笑い声だった。

 

 

「アハハ! やっと来た、やっぱり来たねぇ? あの女をわざわざ生かしておいた甲斐があったって訳だ」

 

 

 予想外の登場ではあったけれど、吉田は待ち望んだ賓客でもあった。

 この老人をおびき出す為に、殺せたはずの女をわざわざ生かし、吉田であれば必ず反応を示すだろう情報を、幾重にも残してきたのだ。

 そも、今回起こした事件の目的は、桐林の奪取の他にもう一つある。

 深人類……。深海棲艦に身をやつす原因となった、吉田 剛志の抹殺。残された最後の復讐である。

 

 

「それで? いったい何しに来たのさぁ。

 僕に謝りに来たの? 許しを請いに来たの? それとも、こいつらを助けに来たのかなぁ。

 ……僕の事は助けてくれなかったのに、こいつらの事は助けるんだ。

 僕の代わりに劣化コピーを育てて、別の誰かに似た名前を押しつけるような奴が!」

 

 

 身体に走る痛みも忘れ、“それ”は吉田の罪を糾弾する。

 吉田が小林 倫太郎のクローンを育てたのも、特異な才能を持つ新人に桐林の名を与えたのも。“それ”には単なる代償行動としか思えなかった。

 助けられなかった存在を助け、己が罪を忘れようとする、浅ましい行為にしか見えなかった。

 許せない。

 こうなったのは全部……。こんな風になってしまったのは全部、お前の所為なのに!

 

 傍から見れば逆恨みでも、これが“それ”にとっての真実。

 恨まなければ自分を保てなかった者の、“よすが”だった。

 そんな、悲鳴にも似た叫びを聞き、吉田は黙りこくる。

 

 

『いいや。それもあるが、ワシはな。……おヌシに引導を渡しに来たのだ』

 

 

 けれど、再び向けられた言葉からは、冷徹な戦意が滲んでいた。

 攻守を入れ替えたように、今度は吉田が語り出す。

 

 

『全てはワシの責任じゃ。あの日、おヌシに任務を任せてしまった、ワシの。

 おヌシが技研に囚われた事にも気付かず、いつも手遅れになってから気付く、ワシのな』

 

 

 それは、過ぎ去った日々の記憶。

 後悔と罪悪感に塗れた、懺悔の言葉。

 

 

『……いや、違うか。気付いておった事もある。

 再建された技研を梁島と襲撃した時、おヌシの存在に勘付いていながら、ワシは何もせなんだ。

 ただ一人生き残っていた、ミナトを救い出すのが先だと、言い訳して。

 ならば、決着はこの手でつけるべきじゃろう? ワシの撒いた種。芽吹いた災厄は、刈り取ろうではないか』

 

 

 だが、悔いるだけしか能のない男なら、吉田はここに居ない。

 慚愧するからこそ、過ちを正しに来たのだ。

 暗い道を外れ、恐怖に泣き叫ぶ幼子の、手を引くために。

 

 

『倫太郎。キサマは“ワタシ”が殺す。

 それが外道に落ちた者への手向けと知れ。

 ……共に、地獄へ落ちようぞ』

 

 

 揺らめく闘志が、瑞雲を率いる航空戦艦を推し進める。

 ここに、“鬼”と呼ばれた男の、最後の戦いが幕を上げた。

 

 

 


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