新人提督と電の日々   作:七音

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新人提督と特別任務

 

 

 

 

 

「……お?」

 

 

 ふと、いい匂いがした。

 宿舎への帰宅途中。闇に浮かんだ月を眺め、しんみりしていた意識をひき戻す、醤油の匂い。

 時間的に考えれば夕飯の準備だろう。食欲をそそられる。さらに言えば、発生源は自分の行く先だと思われた。

 

 

「今日はなんだろうな、晩めし」

 

 

 自然、顔には笑みが浮かぶ。

 わざわざ旬のものを選んでくれているらしく、昨日の晩も最高の味だった。

 期待ばかりがあっという間にふくらんで、今にもスキップしてしまいそうな気分になる。実際やったら不審者扱いされそうなのでしませんが。

 

 

「ただいま~」

 

 

 声をかけながら引き戸を開けると、奥の方から「はい」と返事。パタパタ足音が近寄ってくる。

 台所の方から姿を現したのは――

 

 

「お帰りなさいませ。今日も一日、お疲れさまです。お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも……ふふっ。なんて、じょうだ――」

 

「じゃあ、鳳翔(ほうしょう)さん」

 

「え?」

 

「鳳翔さんで」

 

「提督? あの……」

 

「鳳翔さんがいいなー」

 

「……も、もうっ、いじめないで下さいっ。電ちゃんに言いつけますよ?」

 

「あはは、すみません。それは勘弁してください」

 

 

 ――着物の上に割烹着をつける、ちょっとすねた顔をした和服美女だった。

 黒髪をポニーテールに結う彼女は、鳳翔。累計四人目の、空母の統制人格である。

 

 

「それで、どうしましょう。お風呂の準備は大丈夫ですし、もう少しでお夕飯もできますが……?」

 

「んー。腹も減ってますし、ご飯で。今日はどんな?」

 

「カレイの煮付けに、オクラとミョウガの和え物、おみおつけです。暑くなってきましたから、ネバネバ食材で持久力を、と思いまして。筑摩ちゃんが手伝ってくれているんですよ」

 

「お~、うまそうだ。家に帰れば出迎えてくれる人がいて、オマケにおいしいご飯も用意してあるとか、こんな贅沢していいんだろうか……」

 

「うふふ。提督は好き嫌いがなくて助かります。手を洗って、居間で待っていてくださいね。さ、上着を」

 

「あぁ、どうも」

 

 

 帽子と上着を鳳翔さんに預けると、そのまま部屋の方へ小走り。

 なんだか夫婦みたいなやりとりだが、自分としてはちょっと感じ方が違う。美人は美人でも、柔和な雰囲気を持つ彼女には、お母さんっぽさが漂うのだ。

 統制人格はできるだけ呼び捨てにするよう心掛けている(そうしないと立場的にもまずい)んだけど、鳳翔さん……と那智さんもか。とにかく無理だった。現に他のみんなも“さん”付けで呼んでいる。

 料理の腕とあいまって、名実ともに精神的お袋さんなのだ。横に太いうちのオカンと取っ替えてしまいたい。

 

 

「ただいま、みんな」

 

「あら、お帰りなさい、提督……」

 

「うむ! よくぞ戻った。ご苦労であったな!」

 

 

 ササっと手を洗って居間に入れば、これまた美女と美少女が迎えてくれる。

 正座していると畳へ届きそうな長い黒髪。儚げな印象と裏腹に、肩を大きく出し、真っ赤なミニスカートから艶かしい太ももを覗かせる改造巫女服の美女は、扶桑(ふそう)型戦艦一番艦・扶桑。

 グリーンのミニワンピをまとい、偉そうに正座でふんぞり返っているツインテ少女が、利根型重巡洋艦の長女・利根である。

 

 

「って、そこ上座。自分の席なんだけど一応」

 

「ぬ? 別に良いではないか。吾輩もつい昨日遠征から帰って来たばかりで、疲れが抜けぬのだ。席順くらい大目に見よ」

 

「鳳翔さんを手伝ってる筑摩も、君と同じ戦隊だったはずなんだけどな」

 

「私としては、それも羨ましいですね……。まだ一度も出撃できていませんし……」

 

「う。ごめんな、扶桑。もうちょっとだけ待っててくれ、な? ……あれ。筑摩は台所として、山城(やましろ)は? 先に帰らせたはずなんだけど」

 

「そうなんですか。まだ姿が見えませんね……」

 

 

 注意はしてもこだわりがあるわけでなく、利根の右隣へさっさと座るのだが、この場にいるはずの姿が見えない。

 ……まさか、またなのか? もう腰を落ち着けちゃったし、立つの面倒なんだけど……。

 

 

「どうせまた迷っておるのだろう。この前も家から執務室へ行くまで一時間かけていたではないか」

 

「いや、もう呼び出して一週間以上だし、帰らせたのは二時間以上前だぞ。さすがにあり得ないだろ」

 

「悪かったですね、あり得ないほど方向音痴で……」

 

「あ。お、おかえり山城」

 

 

 背後から落ちてくるジトーっとした声に振り返ると、そこには扶桑と同じ衣装を着る少女がいた。

 服装だけでなく顔立ちもよく似ていて、髪は肩より少し上で綺麗に切りそろえられている。

 扶桑型の二番艦、山城。それが彼女の名前だ。

 

 

「あらあら、お帰りなさい、山城」

 

「ただいまです、姉さま。あぁ、疲れた……」

 

「遅かったな山城。というかお主、なぜにボロボロなのだ?」

 

「ホントだよ。歩いて二十分もない道で何があったんだ……」

 

「別に何もありませんでしたよ。時間はかかりましたけど、ちゃんと一時間前には帰ってました。

 ただ、うちへ上がろうとした途端にヨシフが飛びかかってきて、それで逃げてたんです。もうなんなんですかあの犬……」

 

「やっぱり迷ったんじゃないか。しかし、どうりで迎えにも来なかったわけだ……。気に入られてるんじゃないか? ほら、遊んで欲しかったんだろう。今は他に誰もいないし」

 

「あんな気に入られ方イヤですよ……。体よじ登って髪飾りをガジガジするし、袂にじゃれついて爪跡つけちゃうし。せっかく姉さまとお揃いなのに」

 

 

 ヨシフというのは、数週間前に暁と響が拾ってきたミックスの子犬だ。見た目は完璧に柴犬なのだが、病院で調べてもらったら、他の犬種と混ざっているらしい。

 名付け親は響である。他のみんなはもっと可愛らしい名前をつけようとしていたのだが、うちに来た時にはもうヨシフでしか反応しなかった。意外に策士だ。

 なんだか、でっかくなりそうで怖くもある。イメージ的に。

 

 

「そうだったの……。ほら、こっちにいらっしゃい。顔が汚れているわ」

 

「ふむ。あやつもなかなかヤンチャだな! 元気が良いのはいいことだ!」

 

「こっちはいい迷惑よ。表につなぐ時も離れようとしなくて。まったく……」

 

 

 ぶつくさ文句を言いながら、山城は扶桑の隣(利根の反対側)へ座る。汚れをぬぐってもらい、満更でもないご様子。

 それはいいんだけど、こうも迷子率が高いとは。海の上でも迷ったりしないかちょっと不安だな……。

 と、そんなことを思っていると、台所へつづく扉口から、利根と同じ格好にエプロンをつける黒髪ロングの少女が顔を出す。

 

 

「あ、お帰りなさい提督。それに山城さんも。ごめんなさい、お出迎えできなくて」

 

「おう、筑摩。ただいま。気にしなくていいさ、鳳翔さんの手伝いなんだから。いつもありがとうな」

 

「いいえ、このくらい当然です。遠征中のみなさんの代わりに、頑張りますね」

 

「うむうむ。さすがは我が妹! よく気が利くであろう提督。お主は幸せものだぞ? このような美少女にかしずかれておるのだからな!」

 

「もう、利根姉さん。あんまり褒めないでください。姉バカですよ?」

 

 

 利根型の次女・筑摩が、ちょっとだけ困ったように笑う。

 彼女の言ったとおり、ヨシフの飼い主であるはずの暁たちだけでなく、横須賀鎮守府には今、この場にいる五隻しか自分の船は残っていなかった。

 なぜかと言えば、自分が励起した統制人格たちは現在、遠征任務の真っ最中だからである。

 駆逐艦八隻、軽巡洋艦五隻、重巡洋艦四隻、航空母艦三隻、水上機母艦二隻。総勢二十二隻を振り分けた複数の編隊による、大遠征祭りだ。

 目的は……なんとも情けないが、金策だった。

 

 

「ご飯できましたよ。筑摩ちゃん、運ぶのを手伝ってもらえますか?」

 

「あ、はいっ。ほら、姉さんもこのくらいは、ね?」

 

「仕方ない。長女たるもの、率先して動かねばな! ご飯は大盛りにしても良いかっ?」

 

「現金ね……。私も行きます。姉さまと提督は座っててください」

 

「あら、いいの? それじゃあ、お願いしようかしら……」

 

「頼むよ、山城」

 

 

 自分を含め、総勢二十八名+一匹。生活費がどんだけかかるか、ご想像いただけるだろうか。

 とてもじゃないけど足りない。特別技能職でもある提督は、国民の平均収入に比べるとかなり多めの額が懐に入る。が、だからってこんなビッグファミリーを養えるほどじゃない。

 さらに、大きめの一軒家並みだったはずの宿舎も、三十人近くが住むには狭すぎ、増改築の必要まで出てきた。……加えて、精神衛生上の問題も。

 

 年頃の女の子と同じ家に住む。普通に考えればワクワクドキドキしまくりな、人生における一大イベント。

 しかし、実際そういう状況が続くとなると、ものすっごく気を遣うのだ。特にお風呂。

 統制人格は、食べたものを完全に消化分解できるらしく、トイレにはいかない。そう言った意味で、那珂は完璧なアイドル体質である。

 けれど、入浴でリラックスはできるのか、うちの子たちはみんな風呂好き。ひっきりなしに出入りが繰り返され、誰かが入浴中と気づかず、脱衣所へ入りそうになってしまったり、湯上り卵肌にムラっとしたりすることが多々あった。

 ……別に、身体が勝手にお風呂を覗こうと動いたりはしていない。 決 し て 。

 

 ともあれ、好きな時に湯へつかることができないのも結構なストレスで、早急に解決する必要があったのだ。

 が、そんなことのために新しく宿舎を建てるなど、国から補助金が降りるわけもなく、「やるんなら自費でやれやこのリア充が(意訳)」と冷たいお達し。

 破産の足音が近づいていた。

 

 

「もうすぐ、このお家ともお別れなんですね……。短い間でしたけれど、名残惜しい気がします」

 

「かなり人数が多くなっちゃったからなぁ。普通の統制人格は、必要ない時は本体の中に閉じこもってるらしいし。

 でも、利根が言ったように、扶桑みたいな美人達と暮らすためなんだ。贅沢な悩みだと思っておくさ」

 

「まぁ、提督ったら。冗談でも、嬉しいです……。たしか、建築は始まっているのですよね……? これも主任さんのお仕事だとか」

 

「そうなる。みんなが帰ってくる頃には完成だって。いや~、高速建造剤さまさまだ。主任さんも、まさか家まで建てられるとか、多才で羨ましいよ」

 

 

 そこで考えたのが、遠征によって得られる副収入だ。ハッキリ言ってうまい。うますぎる。桁が一つ二つ多くありません? なんて言いたくなるくらいに。

 敵艦の存在によって、大規模な海上輸送が不可能になった今、その任務は重要性を増し続けている。けれども、実行するためには輸送船を動かす人員のほか、護衛する艦隊も要するため、なかなかに手間が掛かる。

 結果、小規模な輸送をちょくちょく繰り返すしかなかった。

 

 しかしその点、自分の持つ艦隊は違う。

 空母へ艦載機の代わりに資材を載せ、歴戦とまでは行かないまでも、練度の高い巡洋艦・駆逐艦で護衛。高速給油艦としての役割も持つ水上機母艦は燃料なども運べ、偵察機によって交戦を避けることも可能。我ながら完璧な布陣だ。

 ……赤城と龍驤にはちょっと渋い顔をされたけど。祥鳳はもともと輸送任務に就いた経験があってか、特に異存もないようで助かった。

 おかげで、一時期は制限していたみんなの食事回数も戻せたし、本当に感謝だ。まぁ、これらはオマケみたいなものだけれども。

 

 

「さ、お待たせしました。提督」

 

「うん、ありがとう鳳翔さん。それでは……いただきます」

 

 

 思い返している間に配膳が終わり、筑摩は利根と扶桑の間、鳳翔さんが自分の右隣に。

 家主として挨拶すれば『いただきます』と声が続き、賑やかな夕食が始まった。

 

 

「……はぁ、うまい。味噌汁も煮付けも、最っ高だ。幸せだあ……」

 

「それだけ美味しそうに食べてもらえると、作り甲斐があります。おみおつけは筑摩ちゃんが作ったんですよ」

 

「お、そうなんですか。上達したな、筑摩」

 

「はい。頑張りました」

 

「う~む。確かにうまい。まぁ、吾輩も本気を出せばこのくらいチョチョイと出来るがな! なにせ姉だからな!」

 

「ふふ、そうですね。じゃあ今度は一緒に作りましょうか?」

 

「おうとも、任せるがいい!」

 

「何もしていなくても出てくる美味しいご飯。幸せだわ……。特にこの和え物が……」

 

「ええ。何か反動がありそうなくらい幸せですね、姉さま……んぐ、小骨が……」

 

 

 全く臭みを感じず、甘辛い身がホロホロほぐれるカレイに、いい塩梅の出汁が効いた味噌汁。具は焼いてあるナスと刻んだ白ネギだ。

 和え物もミョウガの風味がいい。ご飯に乗せればオクラのネバネバが絡みつき、たまらずかき込んでしまう。

 今も海の上にいる遠征組のみんなを思うと、こんな風に食事しているのが少し後ろめたい。

 ……うん。きっと色んな意味で飢えてるだろうし、豪勢な食事で迎えてあげるか。しばらくは一緒に食べられなくなるんだし。

 

 

「そういえば、提督。私が帰るまえ、司令長官に呼び出されていましたけど、どんな話だったんですか。差し支えなければ、知っておきたいんですけど」

 

「ん? ああ、あれか」

 

 

 ふと、思い出したように山城が問いかけてくる。

 主力艦隊が遠征に出ているため、自分は訓練と通常任務のかたわら、主に書類仕事などを片付けている。その際、彼女たちには持ち回りで秘書官(というよりは秘書艦か?)を務めてもらっていた。

 今日は山城の番だったのだが、昼を過ぎておやつ時になった頃、書記さんから司令長官室へ来るよう連絡があったのだ。統制人格をともなわず、という条件付きで。

 

 

「実は……特務を受けた。近いうちに出撃することになる」

 

「特務? 本当ですか……!?」

 

「ほれあ、なにやらふふぉい感じひゃのー」

 

「こら、ダメですよ利根ちゃん。口にものを入れたまま喋ったら。暁ちゃんに笑われちゃいます」

 

「っくん。すまぬ、うま過ぎてついな」

 

「ははは。まぁ、実際はそうでもなさそうなんだけど」

 

「……? どういうことですか……?」

 

「うん。実はな――」

 

「ちょっと、嫌な予感がするわ……」

 

 

 驚きながらも目を輝かせる筑摩に、鳳翔さんに怒られても堪えない利根。

 親子のようなやりとりに微笑ましくなりつつ、自分は首をひねる扶桑たちへ、吉田中将に告げられた任務を語り出す――。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「謎の通信信号……で、ありますか」

 

「うむ」

 

 

 傾き始めた陽光を背に、吉田中将は重々しくうなずいてみせる。

 おそらくは葉巻の匂いなのだろう、独特なそれを感じさせる司令長官室には、自分と長官。そして書記さんの三人がいた。

 

 

「数日前のことです。ロシアから、微弱な暗号化通信を傍受したという電文が入りました。唯一解読できた様式は旧日本軍のものであり、発信源は、奇跡の撤退作戦で知られる、キスカ島」

 

「キスカ……。アリューシャン列島ですよね」

 

 

 海路を封鎖されてしまってから、日本は他国との交流をほとんど遮られていた。しかし、通信網が封鎖されているわけではないので、情報の交換などは頻繁に行われている。

 特に、数少ない貿易相手となってしまったロシア・中国とは、情報だけでなく、危険を押してまで物資のやりとりを続けていた。

 こちらは貴重なレアメタル・レアアースなど。向こうは、相変わらず変態的な精度を誇る工業部品や化学薬品などを求めて。かつての同盟国とは距離的に疎遠だ。

 

 情勢は膠着している。

 輸送経路を絶たれても、国力が高かった大国のほとんどは、文明レベルの後退を引き換えとして、自国の民をなんとか賄っていた。そして、他国からの支援で成り立っていた小国はあらかた消滅している。人同士の争いで自滅してしまった国すら……。

 さまざまな事情が絡みあい、もつれ合い。人類の足並みは、未だそろっていなかった。

 

 

「内容としては支離滅裂で、意味を見出すことは不可能じゃった。しかし、場所が場所なうえ、今も定期的に発信されておるらしい。衛星までもが、なぜかそこだけを映さぬ。イタズラと断じるには、の」

 

「……それでは調査を? ですが、今の海をキスカまで進むのは……」

 

 

 アリューシャン列島とは、アメリカ・アラスカ半島からロシア・カムチャツカ半島に向けてのびる火山列島であり、キスカ島はその西部に位置。さらに西にはアッツ島が存在する。

 良好な漁場でもあったが、ツクモ艦が出現して真っ先に放棄されたのは、ああいった離島だ。

 日本も、東京の大島、新潟の佐渡、鹿児島の屋久島など、安全領域を介して渡航できる島以外に、もう人は住んでいない。隠岐諸島や対馬、沖縄も無人である。

 それほど、海とは危険なものになっていた。

 

 

「上層部もおおかた同じ意見じゃ。今の日本に調査船団を送る余力はない、とな。

 ロシア政府も義務として知らせただけで、援助には消極的だしのう。……じゃからこれは、ワシ個人からの特務として扱う。

 桐林提督。おヌシにも、キスカ島強行上陸作戦に加わってもらいたい」

 

「……っ」

 

 

 思わず、息を飲む。

 かつて奇跡の作戦とまで呼ばれた、キスカ島撤退作戦。圧倒的な数の敵軍に囲まれながら、様々な幸運に恵まれ、ほぼ無傷で去ることができた地。そこへ今度は無理やり上陸しようというのか。

 あまりに、無謀すぎる。

 どれだけ警戒を強め、交戦を最小限に抑えたとしても、北方海域へ到達するまでに五割は損耗するはず。燃料だって、往復するには補給が不可欠。

 操艦数をしぼり、増幅強度を上げて同調距離を稼いでも、キスカ島に届かないだろう。南西諸島沖へだって、屋久島でリレーさせているから可能なのだ。傀儡能力者自身が船に乗りこみでもしない限り、これは覆せない。

 それでも、この作戦を成功させたいのであれば――

 

 

「意志を宿した統制人格を、送るおつもりですか」

 

 

 ――人ではない存在に、委ねるしかない。

 帰還を考えない片道切符の航海であれば、燃料の問題はなんとかなるだろう。情報も、多少同調率は下がるが、最新鋭の通信機器を載せれば得られる。

 無事に――いいや、たとえ中破・大破していたとしても、沈まずに辿り着きさえすれば、彼女達は人と同じく活動できるのだ。

 船は、また作れるから。失っても、問題、ない。

 

 

「不服、かのう?」

 

「……ご命令と、あらば」

 

 

 自分は今、どんな顔をしているだろう。せめて、無表情でいたい。

 声の震えも、指の痙攣も、制御できそうに無いから。

 せめて、表情だけは。

 

 

「……っはっはっは! いやぁ、すまんすまん。悪趣味じゃったな。そんな顔をするでない。悪かった」

 

「へ?」

 

 

 いきなり吉田中将が笑い出す。

 困惑し、その隣にいる書記さんを見れば、なんとも申し訳なさそうな様子で。

 え。あれ。どういうことですか?

 

 

「いくらなんでも、まだそこまでの任務は与えんよ。実戦を経験して一年もせぬ若人には荷が重かろう」

 

「……え、ええっと?」

 

「今回の桐林提督の主な役割は、桐生提督の船が越境するまでの護衛なんです」

 

 

 桐生……。“人馬”の桐生。

 極限まで近代化改修を施した高速戦艦・金剛(こんごう)型の四隻を巧みにあやつり、砲撃を回避しつつ肉薄。大火力による殴り合いを得意とする、“桐”の一柱。

 つまり、送りこむのは自分の船では、ない?

 

 

「桐林提督には、面通しもかねて大湊(おおみなと)警備府に出向いていただき、そこで詳細な打ち合わせを行ったのち、桐生提督が使用する船を、択捉(エトロフ)から千島列島と経由。カムチャツカ半島の安全領域最南端・パラムシル島まで護送していただきます。

 操艦自体は桐生提督も厚岸(あっけし)要港部で行いますが、弾薬などの消耗を避けるため、基本的に戦闘へ参加いたしません。ロシアの安全領域まで、船を無傷で送り届ける。これが桐林提督の任務となります」

 

「カムチャツカに……。あ、でも、ロシアの協力は得られないんじゃ……」

 

「政府としては、じゃよ。ワシ個人のツテで、向こうのリレー装置を使わせてもらう。

 “桐”を使うのにこちらの上も難色を示したが、その穴はワシの四航戦が埋める。調査に向かうものワシが手配した新造艦。問題はない。

 ようは、南一号作戦を、おヌシ一人でやってもらおうというだけの事じゃよ。そのくらいの力量は得たと見込んでいるんだが、どうかの」

 

「……は、はいっ。問題ありません!」

 

 

 ほうけていたであろう顔を引き締め、背筋を正す。

 一度に情報が入ってきてビックリしたが、結局はいつもの任務と変わらない。危険はあるが、注意さえすれば最悪の事態は回避できる。

 全ては力量次第。これならどうにかなる。みんなと力を合わせれば、乗り越えられるはず。

 確証もないまま、命がけの任務にうちの子達を出さずにすむ。本当に、良かった……。

 

 

(ちょっと待て。自分は今、安心したのか?)

 

 

 死地に赴くのが自分の知るものではないというだけで、決死隊には変わりない。

 この作戦、必ず船が沈む。それだけの価値があるかも分からぬまま、統制人格が……死ぬ。

 それを、喜んでしまった。ただ、死ぬためだけに生まれた存在を。なんて恥知らずな……っ。

 

 

「納得できん、という顔じゃな」

 

 

 胸の内を悟られたか、吉田中将は難しい顔でこちらを見つめる。

 瞳に宿るものは……懐旧と、憐憫。そして、冷徹な温度。

 

 

「人はどんなことにも慣れる――適応する生き物じゃ。

 納得できなくとも、理解できなくとも、繰り返せば『そういうものだ』と学んでしまう。

 ……そうでなければ、守れぬものもあるでの」

 

 

 背もたれをきしませる中将の声からは、どうしようもない諦めを感じた。

 犠牲を許容しなければ守れないもの。

 それはこの国だろうか。それとも、自分自身の心だろうか。

 きっと両方だ。慣れてしまわなければ、いつか、両方とも壊れてしまうから。

 これが、この世界の現実。

 

 

「詳しい日程は嬢ちゃんから聞くといい。二人とも、下がって良いぞ」

 

「はっ」

 

「失礼します」

 

 

 自分は敬礼を。書記さんは頭を下げて退室する。

 ドアが閉まる直前。

 その向こうに見えたのは、偉大な傀儡能力者の姿では、なかった。

 

 

「生き腐れる、か。……向こうに行っても会えないと分かっておるのは、寂しいの」

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「――というわけで、詳しい事情は秘密なんだけど、自分は青森に短期出張。みんなは北海道からロシア近くまで出撃してもらう事になったんだ」

 

「北海道か! 吾輩、まだカニは食したことがなくてだな……」

 

「おいおい、仕事で行くんだぞ? 遊んでる暇はないって」

 

「確かに、お仕事だと自由な時間はなさそうですね。残念です。……あ、姉さん、ご飯つぶが」

 

「外れちゃったわね、予感……。でも、いい事かしら?」

 

「……ですね。今までは悪い予感、九割当たってましたから。むしろ嬉しいかも……」

 

 

 今にもヨダレを垂らしそうな利根に、自分は呆れた顔を努力して作る。

 言えなかった。

 君達と同じ存在を、死地に送り出すためだなんて。

 今回はこういう形になったが、いつかは自分も、あんな事をしなければならないのだろうか。

 彼女達に、「死ね」と命じなければならない時が、来るのだろうか。

 

 痛い。

 

 

「……そういえば、提督。編成の方はもうお決まりなんですか? わたしのような古い船では、お手伝いできそうもありませんけれど……」

 

 

 鳳翔さんがすかさず話をついでくれる。けれど、こちらを見る視線に隠れた気遣いが感じられた。またしても、表情の変化を悟られてしまったようだ。

 しっかりしろ自分。隠すと決めたんだ。なら隠し通せ。

 この子達を不安にはさせたくない。……笑っていて欲しいんだ。だから、切り替えろ。

 

 

「そんな風に言わないでください。艦載機制御の練習に付き合ってもらってるうえ、一人で何人分も家事をこなしてくれて、すごく助かってるんですから」

 

「本当ですか? お役にたてているなら、嬉しいです」

 

 

 ふんわりとした笑顔が染み入り、今度は心からの笑みで返す。大人な配慮をしてくれる彼女の存在は、本当にありがたい。

 これは秘密にしていることだが、実は鳳翔さん、自分が一番最初に発注した空母だった。

 世界初の正規空母として完成し、のちに練習艦としての役割を担った彼女。なかば意地で建造してしまったが、その補正があるのか、鳳翔さんに完全同調しての訓練はとてもやりやすく、下手ながらにコツも掴めてきている。

 もっと早くに呼べていれば、先輩へも一太刀浴びせられたであろうに、それがどうして四番目の空母になってしまったのか。

 原因は、鳳翔さんを建造しようとしていたのに、祥鳳を作ってしまった荒ぶる妖精さん方である。確かに名前は似てますがね。祥鳳が知ったらショックでまた脱げるよ。

 

 

「編成の方はひとまず、赤城と扶桑、山城には出てもらうのが確定してる。急な任務だからぶっつけ本番になるけど、それまでには改造も終わるはずだ。頼めるか?」

 

「もちろんです。史実では実現しなかった航空戦艦としての扶桑。伊勢や日向にだって、負けません……!」

 

「近代化改修だって済ませてますし。護衛任務くらい、姉さまと一緒ならわけないです」

 

 

 珍しくやる気に満ち満ちた、頼もしい限りの戦艦姉妹。

 遠征で稼いだ資材や報酬をつぎ込んで、戦争中は無理だった大規模改修や、防御面の強化(そのまんまだと、徹甲弾が五割の確率で機関部や弾薬庫に直撃する)もしたのだ。当然だろう。

 ……実は君らも、妖精さんが荒ぶった結果なんですけどね。「本当は伊勢さんと日向さんを呼ぼうとしてたんだよー」なんてとても言えません。

 改造にかかった費用と資材だけで戦艦もう一隻作れそうだったなんて、みんなが遠征に行ってる理由もそれを補填するためだなんて、とてもとても。

 赤城も来てくれたし、「そろそろ自分も戦艦を」とか思ってたんだけど、やっぱ早かったかなぁ……。

 

 

「のう提督。残りの三枠はどうなっておるのだ? そろそろ吾輩も実戦に出たいのだが」

 

「う~ん……。実はまだ悩んでるんだよな……。赤城たちも実戦は初めてだし、手堅く固めるか、それとも新しい戦法を試すか。どうするか……」

 

「んぬ……。わ、吾輩達の対空装備は充実しておるぞっ。水偵を飛ばすのだって十八番であるし、赤城が出るのに出ぬわけにはいかぬ! な? 良いではないか、良いではないかぁ~!」

 

「ちょ、おいこら揺らすな、味噌汁がこぼれるっ」

 

 

 ちょうど椀をすすろうとしていた時に縋りつかれ、慌ててバランスをとる。

 戦時中は南雲機動部隊の一員として、その索敵能力を発揮した利根達。張りきる気持ちも分かるが、どうしよう。六隻の制限がなければ、どうとでもなるのだが……。

 正直なところ、自分の統制人格は中継器を載せなくたって出撃できる。しかし、常に他艦の情報を把握できる艦とそうでない艦とでは、連携に乱れが生じてしまうだろう。悩みどころだ。

 

 

「駄目ですよ利根姉さん、わがままを言っては。提督にもお考えがあるんですから」

 

「ええい止めるな筑摩っ。それに吾輩達が出れば、お主の大好きな先輩とやらの布陣にも近づくのだぞ。良い事づくめではないか。何をためらうっ」

 

「……はぁ?」

 

 

 大好きって、自分が?

 つい一週間ほど前、例の赤城の服を自作したあげく、どうしてだか自分で着て写真に撮り、A4サイズに引き伸ばして送りつけてきやがったあの先輩を?

 ……はっ。

 

 

「何を言い出すのCARと思えBAR、そんなことあるわけないジャマイカ」

 

「ぐふっ!?」

 

「あら、大丈夫? 山城?」

 

「だ、だいじょうぶ、で……くっ、じ、ジャマイ……ふっ……」

 

 

 何やら唐突に吹き出して痙攣する山城と、彼女の背をさする扶桑。

 とりあえず大丈夫そうなので放っておくとして、自分は変なことを言い出す利根と向き合う。こんな不名誉な言いがかり、絶対に撤回さねばなるまい。

 すると彼女、「してやったり」的な顔で二の句を継ぐ。

 

 

「トボけても無駄じゃ。主任殿から聞いておるぞ。お主、今後は綾波型と長良型を作ろうとしておるらしいではないか。話に聞く先輩とやらの布陣の再現としか思えん」

 

「ただの偶然だYO? 遠征には小回りのきく駆逐艦とか軽巡が向いてるみたいだから、回転率を上げるために必要なだけSA! 出ずっぱりじゃあ可哀想だからNE!」

 

「よく言うわい。何かにつけて『先輩は~・先輩だったら~』と比べるうえ、もらった手紙も綺麗に開封して、大事に大事に保存しておるではないか。潔く認めるがいい!」

 

「ちょおいっ、なんで!? 電にも秘密にしてたのにっ!?」

 

「ぬぁっはっは! 吾輩の目に見通せぬものはぬぁい!! ……とかいいつつ、実は当てずっぽうだったのだがな」

 

「え?」

 

 

 ぽそっと付け加えられた一言に、目が点となる。

 カマかけられたの自分?

 思いっきり引っかかっちゃったんですけど。鳳翔さんと筑摩がこっち見て優し~く微笑んでるんですけど。

 なんたる、なんたる失態……!

 

 

「提督、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。ワタシも姉さんのこと大好きですし、誰かを大切に想えるのって、素敵なことですよ?」

 

「い、いいや違うぞ。確かに尊敬はしてる。してるけどそれは人として――じゃねぇな。傀儡能力者の先達としてで、異性として慕っているわけでは……」

 

「かーっ! 往生際の悪いっ。片意地はらず、吾輩と筑摩のように仲良くすればよかろう?」

 

「そうですよ。はい姉さん、お魚どうぞ。アーン」

 

「あ~……ん。うむ、うまい!」

 

「だから違う……おい聞いてんのか。聞けよそこの姉妹。おいっ、おーいっ」

 

 

 必死に弁明を続けるも、仲睦まじい二人へはまったく届かない。

 なにやら彼女達のなかで、自分が先輩に懸想しているという、とんでもない誤解が定着してしまったように感じた。

 それが、どうしても認め難く。

 

 

「ち、違う。違うからな。自分は先輩のことなんか、なんとも思ってないんだからなぁああっ!!!!!!」

 

 

 ――と、居間の中心で、ツンデレっぽいセリフを叫んでしまうのだった。

 イヤ本当に勘弁してください電一筋なんで自分。

 

 

 

 

 

「ジャ、ジャマイカ……じゃないかと、ジャマイカ……お、おかし……ふ、ふくっ……おなか痛いぃ……」

 

「……どうしましょう、鳳翔さん。私、妹の笑いのツボが分からない……。あ、おかわりお願いします……」

 

「無理に理解しようとしなくてもいいと思いますよ。はいどうぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《こぼれ話 提督のいない横須賀鎮守府》

 

 

 

 

 

「さぁてと……。それじゃあみんな、作るわよ!」

 

『おー!』

 

 

 時刻は、おやつ時を過ぎた午後四時。

 腕まくりをし、セーラー服の上から黄色いエプロンをつける少女――雷が勢いよく拳をつき上げると、それに続いて大勢の声が返った。

 彼女の眼前にいるのは、総勢十名の統制人格たち。そしてここは、落成して間もない新築の大型宿舎。その厨房である。

 

 

「まずは役割分担を決めよっか。この中でお料理の経験ある子、どれくらい居る?」

 

「わたしはいつもやってるから大丈夫よ~。龍田揚げとか大得意だもの~。お肉切るのだったら任せて~」

 

「名前がついているほどだしな。私も少々心得があるぞ。特に、今日作るのはアレなのだろう? 腕を振るわせてもらうさ」

 

「那智と同じく、お手伝い程度でしたら」

 

 

 手を上げたのは三人――龍田、那智、妙高。

 日頃から、時間が空いた時には家事を手伝ってくれていた彼女たち。腕は確かだ。

 自前のエプロンもすでに着用しており、その姿は様になっていた。

 ちなみに、龍田のエプロンには平仮名で「たつた」と刺繍してあり、妙高たちの物は、縫いつけられた名札に達筆な文字が書かれていた。書道教室へでも通ったのかと思えるくらいである。

 

 

「私たちはぜんぜん経験なんてないけど、なんかできそうな感じするよね?」

 

「刃物の扱いでしたら熟知しています。問題ないかと」

 

「不知火が言うと変に聞こえるんはウチだけやろか……。こう、包丁やなくてサバイバルナイフ的な?」

 

「え、えっと……どう、なんでしょうか……?」

 

 

 言いながら顔を見合わせるのは、陽炎型三姉妹と、妙高型の末っ子・羽黒。

 この四人もエプロン姿であり、羽黒は妙高たちとお揃いで、陽炎たちは首元のリボンと同じ色。女子らしい丸文字で名前が書かれていた。

 

 

「……おい」

 

「ん。どうしたの天龍。怖い顔して」

 

 

 不意に発せられた低音に、雷が首をひねる。

 残るは龍田の姉である天龍、妙高型の三女・足柄と、一人っ子な島風なのだが――

 

 

「どうしてオレのだけ“ど”ピンクなフリフリエプロンなんだよっ! せめて普通のなかったのかぁ!?」

 

「あら、似合ってるじゃない。可愛いわよ、自信持って天龍っ。それで迫れば司令だってイチコロよ!」

 

「そうだよ。私のは地味だし、ちょっと羨ましい。どうせ着るならそっちが良かったなぁ」

 

「だったらとっかえようぜ! なんかゾワゾワすんだよコレ……。あと、オレはアイツに興味なんてねぇからな」

 

 

 ――天龍の身につけるそれは、とても、とっっっても可愛らしいデザインだった。

 新婚生活真っ只中のお嫁さんがつけそうな代物であり、しかも胸元の名札には、カラフルな平仮名で「うゅりんて」(右からお読み頂きたい。雷のエプロンも同様である)と。

 またも姉たちとお揃いの足柄、普通の白いエプロンに名札をつけただけの島風に比べると、自己主張がやたら激しい。

 

 

「ったく、誰だよこんなの作ったヤツは? オレに似合うわけねえだろ、よく考えろよ……」

 

「――んなさい」

 

「あ?」

 

「ごめんなさい、なのです。それを作ったの、電です」

 

「えっ」

 

 

 しかめっ面で文句をこぼす天龍に、離れた位置からの声。

 食堂の三割を占める、くつろぎスペースをかねた座敷(この宿舎は洋間と日本間が混在しているのである)。その中で厨房にもっとも近い場所には、うつむきながら落ち込む少女と、そんな彼女の背中を心配そうに撫でる女性がいた。

 普段、宿舎周りの家事を仕切っている電、鳳翔だ。

 

 

「いつも『エプロンがないから手伝えない』って言ってましたから、可愛いのを作れば喜んでくれるかなって……。そのせいで、島風ちゃんのも間に合いませんでしたし……。ダメですね、電は……」

 

「あっ、わ、私のことは気にしなくてもいいよっ? いつかは作ってくれるんでしょ? 楽しみにしてるからっ!」

 

「そうですよ、電ちゃん。天龍ちゃんも、少し恥ずかしがってるだけですから、ね?」

 

「……本当、ですか?」

 

「うっ」

 

 

 いつの間にか座敷へ移動した島風と、鳳翔、電。三対の瞳が天龍へ向けられただけでなく、背後からも八人分の視線が突き刺さる。特に雷がいた辺りからのものが痛い。

 手伝えないというのは「手伝いたくない」という本音の言い訳だったが、鳳翔の言い分、実はあながち間違ってもいなかったりする。

 一人称が“オレ”だったり、乱暴な言葉遣いが目立つ彼女だが、やはり根は乙女なのだ。しかし、常からの言動が認めることを良しとしない。

 実は可愛いもの(連装砲ちゃんとか)が大好きだとか、隠れてヨシフをワシャワシャするのが日課だとか、眼帯つけてるけど普通に左目は見えるとか。

 たとえ、小さな身体でいつも頑張ってくれている少女を悲しませようと、決して認められなかった。

 

 

「……い、いやっ、やっぱオレには無理――」

 

「天・龍・ちゃん♪」

 

「わーいウレシイなぁー。ありがとな電ー」

 

 

 ――はずが、妹の声によって対応はひるがえる。姉の威厳なぞ木っ端微塵だ(元からないとか言ってはダメ)。

 皆に秘密としているはずの上記の事がらも、龍田には全部ばれていた。逆らえるはずがないのである。

 

 

「……良かったのです、喜んでもらえて。島風ちゃんのも、可愛く作りますねっ」

 

「うんっ、お願いね!」

 

 

 暗い顔に笑顔が戻り、周りの空気も明るさを取り戻す。

 約一名が疲れきったように背中を丸め、その片割れが何かを吸い取ったかのごとくキラキラしていたが、誰も問題とは思わない。

 彼女たちにとっては見慣れた、いつも通りな光景であった。

 

 

「でも、本当に電はお手伝いしなくて大丈夫ですか?」

 

「そうですね……。せめて下拵えだけでも……」

 

「いいからいいから、電と鳳翔さんは座ってて! 二人とも、こうしないと頑張りすぎちゃうんだもん。特に電は、もーっとお姉ちゃんに頼ることを覚えなさい!」

 

「あはは……。はい。これからはそうするのです」

 

「ありがとう、雷ちゃん。頼りにさせてもらいますね」

 

 

 胸をポンと叩く雷に、電たちは笑みを隠しきれない。

 励起された統制人格も当初にくらべてかなり増え、その負担は大きくなっていた。最近では、統制人格としての仕事よりも、家事をしている時間の方が長いくらいである。

 手伝ってくれる者もいるのだが、芋づる式に増えていく人員に比べて割合は少なく、厨房にいる十一名と出撃中の六名――赤城、扶桑、山城、千歳、千代田、龍驤以外のメンバーは、今日も思い思いに休日を過ごしていた。

 

 川内はいつものごとく夕飯まで起きてこないだろうし、那珂はアイドルDVDを見て研究に余念がない(神通はその巻きぞえ)。

 おいてけぼりを食らってしまい、地面にのの字を書いていた軽空母・祥鳳も、彼女を慰めていたヨシフ、暁、響と散歩中。

 直近に加わった利根などは、「なんで吾輩ではダメなのだぁ!? カニーッ!!」と不満を零しながら、妹の筑摩に膝枕をしてもらってゴロゴロしている。

 休養も仕事のうち。そして、それを支えるのも重要なことだと分かっているが、こうして手助けしてくれようという親切は、やはり嬉しいのだ。

 

 

「さぁさぁ、司令官が帰ってくるまでに作って寝かせなきゃいけないんだから、急ぐわよ!

 天龍たちはお肉とタマネギ、妙高たちはニンジン、陽炎たちはジャガイモを頼むわねっ。

 島風は私と一緒にご飯炊いて、終わったらみんなのサポートよ。いい?」

 

「はーい! 島風、頑張りまーす!」

 

 

 雷の声を合図に、少女たちが厨房内を動き始める。

 十人近くがひしめいても苦にならない広さは、家主である提督が、先を見据えてこの宿舎を発注したからだ。

 相部屋を基本として、五十人以上(つめれば百人はいける)が住めるだけの部屋数。一堂に会するための食堂。さらには統制人格専用の大浴場までをも完備していた。

 設計から建築までを一人でこなしてしまった整備主任の少女いわく、「アタシが住みたいと思う理想の女子寮を元に再構築しました!」とのこと。趣味全開らしい。

 完成してから自分が住めないことに気づき、流した涙は滝のようでもあったのだが。

 

 

「じゃ、まずはお米の量を計らなきゃ。二十八人分だから、お代わりも考えて……三十合くらいかな。余ったら冷凍しちゃいましょ。お米の研ぎ方は分かる?」

 

「大丈夫っ。さすがにそのくらいは知ってるよっ」

 

「ん。なら手分けしてやっちゃおう!」

 

 

 島風をともない、雷が米びつを覗きこんでそらんじる。

 肉、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ、米。

 この材料を並べられれば、メニュー何かは想像に難くない。そう、カレーライスである。

 かつて、人がまだ海の上で夜を越すことができた時代。海上での曜日感覚を保つために、金曜日にはカレーを作るという習慣があった。それぞれの船で隠し味や具が違ったり、個性的なレシピがいくつも誕生したという。

 しかし、海に出る行為が自殺に等しい危険度を持つようになってからというもの、これはすたれようとしていた。

 

 ……わけがない。

 

 海に出ないから曜日感覚は保てる? だからなんだ。食べたいから食べる。作りたいから作る。何が悪いのか。

 朝カレー、昼カレー、おやつカレー、夜カレー、夜食カレー。ビーフカレーにチキンカレー、シーフードにキーマ、トマトカレーと、一日五食はいけるはず。

 昨日はカレーだったから今日もカレー。今日がカレーだから明日もカレー。いやさ、三日目からこそカレーの真髄。

 時代が移り変わろうが、世界情勢が変化しようが、そこに材料のある限り、カレーライスは作られ続けるのだ。

 むしろ、材料がなくなってもどうにかして作り出してしまいそうなのが、この国の怖いところである。

 

 

「ぃよ……いしょっと。ふう、これで五合終わりっと。次の五合を……」

 

「え? 終わったよ。もう全部」

 

「あ、そう。ありがとぅええっ!? ちょっ、ホントっ!?」

 

 

 日本の食事情を語っている間に米を研ぎ終えたらしい雷。次を計ろうとするのだが、島風の答えに思わず二度見してしまう。

 キチンとザルへとられ、水気を切ってある白米。それが五つ。雷の分と合わせてピッタリ三十合だ。

 

 

「す、すご……。速いってレベルじゃないわ……。しかもちゃんと出来てる」

 

「えへへ。だって島風だもん! 速くて当たり前だよっ」

 

 

 それにしたって速過ぎである。

 が、ザルを揺すってしたたる水を確認しても、濁りはほとんど無かった。

 速さに関連させさえすれば、意外となんでもこなす才能があるのかもしれない。

 

 

「まぁ、それに越したことないわよね。他のみんなを手伝えるんだし」

 

「そうそう。速いが一番。もう炊いちゃお? ほっ」

 

「ああ、ダメダメ。三十分はお水吸わせないと。量を計って……と、よし。タイマーセットして、ご飯は完了!」

 

 

 島風が業務用の大型炊飯器へ米を移し、雷は大量の水を入れてスイッチをポン。

 あとは炊き上がりを待つだけである。

 

 

「それじゃ、他のサポートに回りますかっ。とりあえず、陽炎たちの様子見に行こっ」

 

「りょーかーい」

 

 

 テキパキとした指示に軽い敬礼が返り、二人は広い厨房を進む。

 向かう先には、三人横並びになって大量のジャガイモに挑んでいる、陽炎型姉妹。

 

 

「そっちはどう? ちゃんとできてる~?」

 

「あ、雷ちゃん。大丈夫よ。私たち、けっこう料理できるみたい」

 

「そのようで。作業は順調です」

 

「形が不揃いやからちょっと手間取っとるけど、もうすぐ終わりそうやね」

 

 

 黒潮の言うとおり、目の前のカゴには皮を剥かれたジャガイモが鎮座していた。

 少し多めな三十六個だったが、三人で分担すればこれまた早いものである。

 

 

「ホントだ。これなら、陽炎たちにも家事当番に入ってもらった方が良さそうかも」

 

「そう? 遠征とかで疲れてない時なら、私は問題ないわよ」

 

「うん、お願いするね。それにしても、皮の剥き方にも特徴って出るんだね~。ちょっと面白い」

 

「不知火んはちょいもったいない思うんやけどなぁ。もっと薄くせぇへんと、食べるとこのぅなってしまうで?」

 

「変色している部分もあったし、効率重視です。不知火たちに毒は効きませんが、司令は違いますから」

 

 

 雷がジャガイモを確かめるのだが、それには三種類の特徴があった。

 ごく普通に剥かれたもの。剥いたというより削ったようなもの。できるだけ皮を薄く、芽の部分も最小限にくり抜いてあるもの。

 順に、陽炎・不知火・黒潮の前にあるカゴの中身だ。三者三様である。

 

 

「こちらも終わったぞ」

 

「あ、那智」

 

 

 ふと、近づいてくる数人の気配。

 雷が振り返ると、そこにはボウルを二つ、両手に持った那智と、その姉妹たちが。

 

 

「む、けっこう速いんだ、那智って……。負けられないかも……!」

 

「いいや、私は今回なにもしていないぞ、島風。切ったのは足柄と羽黒さ」

 

「そうなんだ。ご苦労さま、二人とも」

 

 

 背後を示され、雷はねぎらいの言葉をかける。

 足柄は「どういたしまして」とドヤ顔。羽黒は逆に、恐縮したように肩を狭めた。

 

 

「ごめんなさい……。包丁を握るの、初めてで。不恰好になっちゃいました……」

 

「あ~。確かにちょっと大きさが揃ってないわね~。でも大丈夫よ。じっくり煮込むんだから、多少大きくても関係ないし」

 

「ええ。煮込み番などは私がやりますので。ちょうど良いですし、大きさによってどのくらい火の通りに違いが出るのか、しっかり勉強いたしましょう」

 

「よろしくお願いします、妙高姉さん」

 

 

 見れば、こちらのニンジンも切られ方に特徴があった。

 綺麗に切りそろえられたものと、大きさがバラバラになってしまっているもの。

 話を聞くに、前者が足柄。後者が羽黒の手によるものらしい。

 

 

「へぇ、意外。私、足柄さんって食べる専門かと思ってた」

 

「ちょっとぉ、どういう意味よ陽炎? 女の子なんだから、このくらいできて当然よ。羽黒だってすぐに上達するわっ。お姉ちゃんが保証したげる!」

 

「ありがとう、足柄姉さん。頑張るね……!」

 

「……女の子?」

 

「アカン、アカンわ不知火。そこに突っ込んだら血ぃ見るで。やめとき、な」

 

「聞こえてるわよ」

 

 

 ツカツカ歩み寄る足柄。無言で逃げ出す不知火&黒潮。

 雷が「走っちゃダメよ!」と声をかけたからか、三人は食堂の方で競歩による追いかけっこを始めてしまった。

 そしていつの間にか参加してトップを独走する島風。見守る鳳翔と電はクスクス笑っている。

 

 

「まったく、結局は遊んじゃうんだから。ごめんね雷ちゃん、後で怒っておくから」

 

「ううん。もうほとんど終わってるし、十分よ。じゃあ、私は天龍たちのとこに行ってるから」

 

「はい。では、不知火さんたちの残りは私たちがやりましょうか、那智」

 

「心得た」

 

 

 申し訳なさそうな陽炎と、慣れた様子で包丁を持つ妙高たち。羽黒は見学らしい。

 雷は手を振りながら「お願いね~」と言い残し、彼女たちに背を向ける。

 向かう先では、鳥肉(今日はチキンカレーである)とタマネギを処理している後ろ姿。

 

 

「天龍、龍田。どのくらい進んだ?」

 

「ん゛あ゛?」

 

「うひゃうっ」

 

 

 気軽に声をかけたのだが、しかし、振り向いた天龍に雷はビックリしてしまう。

 なぜなら、その顔は涙でグシャグシャだったからである。

 

 

「ど、どうしたのよっ……って、タマネギか~。おどかさないでよ~」

 

「知るがよ、ぐぞっ。ぢくじょう、んだよこれぇ……。だづだぁ~」

 

「はぁい天龍ちゃ~ん。今拭いてあげるから~」

 

 

 泣きつく姉の顔を、ティッシュで優しく整える妹。

 はたから見れば仲睦まじいだけなのだが、龍田の顔には「泣いてる天龍ちゃん可愛い」と書いてある。

 全部が全部、彼女の思い通りに運んでいるのだろう。呆れていた雷も、さすがに可哀想になってしまった。

 

 

「まだ大分残ってるわね……。どうする? 代わってあげよっか?」

 

「ぐしゅっ……。いや、やる。こんな事で負けてられるかってんだ」

 

「なら、お肉の方は終わってるし、わたしも手伝うわ~。雷ちゃんもお願いできる~?」

 

「んっ。まっかせといて! あ、天龍。鼻にティッシュ詰めると沁みないらしいわ。試してみたら?」

 

「ホントかよ? でも……ん~、しかたねぇ、よな……」

 

 

 格好悪さと涙腺への攻撃を天秤にかけ、天龍はしぶしぶティッシュを丸める。

 龍田も世話を焼いて気が済んだのか、先ほど以上にツヤツヤした表情でタマネギを手に取り、雷がそれに続く。

 といっても、頭と尻を落とし、芯をくり抜いて刻むだけ。手慣れた二人が加わって、またたく間にタマネギの山が出来上がる。

 

 

「よし、タマネギも完了っと」

 

「だぁあ、やっとか……。オレ、鳳翔さんとこで休んでていいか……?」

 

「もう疲れちゃった? しょうがないわね。でもありがと、助かったわ」

 

「天龍ちゃん、あとは任せて~。手と顔、洗っておいた方がいいわよ~? それとティッシュも~」

 

「おーう。ん……うわっ、手がタマネギくせぇ」

 

「鳳翔さんに落とし方をお聞きになってみたらいかがですか? こういうこと、よく知っておられるようですし」

 

「お、妙高。だな、ちょっと行ってくる」

 

「そうするといい。雷、こちらの用意はできているぞ」

 

 

 天龍と入れ替わりに、また妙高たちがやってくる。

 近くのコンロにはフライパンと具材の入ったボウルが並べられていて、次の準備も万端だ。

 

 

「うん。それじゃ、炒めに入りましょっか。私がタマネギ炒めるから、龍田はお肉の方お願いね」

 

「分かったわ~」

 

「あ、はいはい! 私もやっていい? ほら、名前的に火とか得意そうだし」

 

「いいんじゃない? コンロも沢山あるし。ん~、こっちもちょっと量が多いかなぁ。那智、タマネギ手伝って。

 妙高たちは、お鍋に水をはって火をつけといてくれる? 沸騰するのに時間かかっちゃうだろうし」

 

「承った」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

 

 雷の指示のもと、ふたたび各人が作業へ入る。

 ほどなく、肉に焼き色がつく香ばしい匂いと、バターで炒められるタマネギの匂いが厨房へ広がった。誰もが食欲をそそられること請け合いだ。

 当然、それは座敷へも届いており、夏みかんと麦茶をお供にくつろいでいた電の嗅覚を刺激する。

 

 

「はぁ~。いい匂いなのです~」

 

「そうですね。これなら、今後も任せて大丈夫そう。提督と一緒にいられる時間も増えますね?」

 

「ふぇ!? い、電はそんな……」

 

「……おぉ、マジだっ。本当にニオイ消えた! スゲェな鳳翔さん!」

 

「うふふ。良かったですね」

 

「みかんの皮剥きだって、島風が一番なんだから!」

 

「負けないわよぉ? はいっ、スタート!」

 

「中身の消費はウチらに任せろー。あむ」

 

「……ん。まぁまぁね」

 

 

 いつの間にやら、ちゃぶ台の周りには脱落組まで集まっていた。

 ひたすら夏みかんの皮を剥く島風に足柄、それを横から食べる不知火と黒潮、鳳翔に教えてもらい、余った皮の汁でタマネギ臭を消す天龍。

 他にもスペースはあるというのに、結局こじんまりと集結してしまう。なんだかんだで、かつての狭い居間が気に入っていたのかもしれない。

 

 

「もう。すっかりこっちのこと忘れてる……」

 

「仕方ないさ。無理にやらせても美味しくなるわけがないしな」

 

「それもそっか。……さて、タマネギはこのくらいかな。那智、ニンジンとジャガイモとって」

 

「うむ」

 

 

 今まで描写を省いていたが、実はいちいち、持ち運べる台に乗ったり降りたりしていた雷。

 炒めながらでは野菜の入ったボウルに手が届かず、代わりに那智がそれをフライパンに追加する。

 しばらく無言で炒め続け、ある程度火が通ったら場所を移動し、妙高たちが受け持つ寸胴鍋の中へ。少しだけお玉でお湯を取り、フライパンに残った野菜の旨味も無駄なく。

 陽炎、龍田も同じように鳥肉を投入し、あとは沸騰したらアクを取って煮込むだけ。

 

 

「これで一段落ね。ちょっと疲れちゃったかも。妙高、羽黒。少し任せても大丈夫?」

 

「ええ、構いませんわ」

 

「みなさん、どうぞ休憩していて下さい。妙高姉さんといっしょなら、私でも大丈夫そうですから……」

 

「では、そうさせてもらおうか」

 

「陽炎、休憩入りま~す」

 

「じゃあわたしも~。おミカン食べたいわ~」

 

 

 先の約束どおり、妙高たちが番につき、残る四人が食堂の方へ。

 しかし、何かあればすぐに助けに入れるよう、雷だけはカウンター席に腰を下ろす。

 何となく東の窓を見上げれば、晴れ渡る午後の空に、白い雲が浮かんでいた。庭でシーツなどが踊っていることだろう。

 

 

(ん~。もう取りこんだのがいいかな)

 

 

 午前中は小雨がパラついていたため、洗濯物をしたのは昼食を済ませてからだ。

 だが、この時期は天気が崩れやすい。乾いているなら早めに取りこんでしまう方が――

 

 

「皆さん、大変です!」

 

「え、祥鳳? どうしたの、そんな慌てて」

 

 

 ――と、思案していたところへ、テラス席から駆け込んでくる少女。

 散歩に出ていたはずの祥鳳である。他二人の姿は見えない。

 

 

「西の方、黒い雲が凄いことにっ。今、暁さんと響さんが庭に行ってますけど、手伝ってあげて下さい!」

 

「……ええっ!? 東の方はあんなに晴れて……っていうか、司令官の布団も出しっ放しなのに!?」

 

「はわわっ、た、大変なのです!」

 

「夕立ちですか。致し方ありませんね。さ、みんな立ってください。行きましょう」

 

「私、二階の方に行くねっ。電たちはそっちをっ。妙高はそのまま、いい?」

 

「了解しましたわ!」

 

 

 鳳翔が立ち上がって手を叩くと、だらけていた脱落組に活が入る。

 いの一番に駆け出す島風や、「しょうがねぇなぁ」とブツクサ言いながらも、エプロンが濡れないようキチンとたたむ天龍。龍田と陽炎型姉妹に足柄、那智も庭へ。祥鳳も舞い戻った。

 忙しそうな彼女たちを横目で通り過ぎ、雷も廊下に出て階段を駆け上がる。そして、左手の一番近く――提督の私室に。

 

 

「ほっ、はっ、とゎあ!」

 

 

 スリッパを脱ぎすて畳の上へ。

 ベランダに面した窓を開けると、つっかけを履くのも惜しんで、掛け布団、マットレスと大急ぎで部屋の中に投げこんで行く。

 最後の敷布団とは一緒にダイブだ。

 

 

「はぁ、はぁ……。間に合ったぁ……」

 

 

 息を整えながら、首だけを動かして外を確認。

 ポツリ、ポツリ――と、雨粒が落ち始める。

 

 

「………………」

 

 

 静寂。

 雨音のせいか、距離があるか。

 下階の喧騒は嘘のように聞こえてこない。

 

 

(……なんだろ。この感じ)

 

 

 仰向けに寝返りをうつ雷。

 太陽の光を存分に吸った布団が、じんわり熱い。

 今年“も”異常気象が続いているらしく、夏という割に、気温は春とさほど変わらないため、不快ではなかった。

 

 

「う~ん……」

 

 

 視界に映る内装は、あえて前と同じくしてある。

 間取り自体はかなり大きくなっており、統制人格たちと鉢合わせしないよう、内風呂やトイレ、冷蔵庫も完備。その気になれば閉じこもれる作りだ。

 しかし、直後に大湊への出立が控えていたため、この部屋で彼が過ごしたのはたった一日。

 人のいた気配も乏しく、見慣れた家具と広くなってしまった室内とが、奇妙なギャップをもたらしていた。

 

 

(でも、妙に落ち着く……。あ)

 

 

 また寝返り、うつぶせに。

 深呼吸すると、干した布団特有の匂い。

 けれど雷は、それに隠れたあるものを感じ取る。

 

 

「そっか……。これって……」

 

 

 ――司令官の、匂い。

 

 特に覚えようとしていたわけではないし、好きな匂いというわけでもなかった。

 毎日会っていた頃は気にも留めなかったのに、しばらく離れてみると、やけに懐かしい。

 

 

(なんでかな。少しだけ、寂しいよ)

 

 

 心地よい熱に顔をうずめながら、ゆっくり目を閉じる。

 あと数時間もすれば帰ってくるというのに。どうしてか、今はこの匂いから離れたくなくて。

 静かな雨音に、柔らかい布団。

 家事の程よい疲労が意識を混濁させ、そうして、彼女は――

 

 

「しれ……か……」

 

 

 ――優しいまどろみの中へと、落ちていくのだった。

 数分後。

 様子を確かめにきた電までもが「ちょっとだけなら……」と隣へ寝転がり、ミイラ取りがミイラとなってしまった事実も、ここに付け加えておこう。

 最後に、その布団で眠らなければならない提督がどうなったのかは……。

 

 

 

 

 

「やばい。なぜか布団から、女の子のかぐわしい匂いがして眠れない」

 

 

 

 

 




「千歳です。次回は少し時間を遡って、本編に登場しますよ」
「水上機母艦のままだけど、だからこそできることだってあるんだからね?」
「うちらの銀幕デビュー、見逃したらあかんでぇ!」

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